天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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清水徳川家抱入、長尾幸兵衛保章

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「お帰りなさい」

 清水邸に帰邸きていした利兵衛りへえ伊織いおり出迎でむかえたのは清水家の勘定かんじょう吟味ぎんみ役の長尾ながお幸兵衛こうべえ保章やすあきであった。

 長尾ながお幸兵衛こうべえはここ清水家の勘定かんじょう吟味ぎんみ役として、清水家の台所を預かる勘定かんじょう奉行を補佐する立場にあったが、実際にはこの幸兵衛こうべえこそがこの清水家の財布さいふひもにぎっているのも同然であり、同僚の勘定かんじょう吟味ぎんみ役は元より、直属の上司に当たる勘定かんじょう奉行でさえ、

「おかざり…」

 それに過ぎなかった。

 幸兵衛こうべえ抱入かかえいれの家臣であった。すなわち、重好しげよしが個人でやとっている家臣であり、幸兵衛こうべえのその、ここ清水家の勘定かんじょう吟味ぎんみ役としての俸禄ほうろくである2百俵は清水家の賄料まかないりょうの10万石のうちから支給されていた。

 いや、正確を期すならば、清水家の御側おそば御用人ごようにん本目ほんめ権右衛門ごんえもん親収ちかまきやとったと言うべきであろう。

 本目ほんめ権右衛門ごんえもん親収ちかまきはこの清水邸にて、

御側おそば御用人ごようにん

 の地位にあった。もっとも、江戸城中奥なかおくの最高長官とも言うべき御側おそば御用人ごようにんと比べれば、その名前こそ同じものの、正に、

「月とすっぽん…」

 そのたとえが相応ふさわしいであろう。

 江戸城中奥なかおくの最高長官である御側おそば御用人ごようにん、通称、側用人そばようにんが大名役であるのに対して、こなた御三卿ごさんきょう御側おそば御用人ごようにんは旗本役であり、また官位にしても江戸城中奥なかおくの最高長官のそれが従四位下じゅしいのげ諸大夫しょだいぶと、所謂いわゆる四品しほんであり、これは大坂おおざか城代じょうだいと同格であるのに対して、御三卿ごさんきょうのそれは従六位じゅろくいと、所謂いわゆる布衣ほい役に過ぎなかった。

 それでも旗本にとっては布衣ほい役は一般大名と同格の従五位下じゅごいのげ諸大夫しょだいぶ役に羨望せんぼうのポストと言えた。

 ともあれ御三卿ごさんきょう御側おそば御用人ごようにんのポストは布衣ほい役であり、当然、ご公儀こうぎ…、幕府より派遣された家臣であり、

附人つけびと

 に色分けされる。つまりは御三卿ごさんきょうのお目付めつけ役としての色合いが濃いわけだ。

 だがこと、本目ほんめ権右衛門ごんえもん親収ちかまきの場合はそれとは微妙びみょうに違った。

 確かに「附人つけびと」として御三卿ごさんきょうの清水家につかえてはいるものの、他の多くの、「附人つけびと」が清水徳川家という、

御家おいえ

 につかえている感覚であるのに対して…、もっとひどいとやとぬしとも言うべき幕府の方にだけ顔を向ける附人つけびと如何いかに多いことか、ひるがえって、この権右衛門ごんえもん親収ちかまきの場合は重好しげよし個人につかえている感覚であり、その点、附切つけきり利兵衛りへえ伊織いおりに似ていた。

 それでは権右衛門ごんえもん親収ちかまきは何ゆえに、利兵衛りへえ伊織いおりと同じく、お目付めつけ役としてではなく、重好しげよし個人につかえる感覚を優先させているのかと言うと、それは権右衛門ごんえもん親収ちかまきがまだ、

金五郎きんごろう親収ちかまき

 その初名しょめいを名乗っていた頃より重好しげよし近習きんじゅう番としてつかえていたからだ。

 いや、重好しげよしもこの頃はまだ、その幼名ようみょうである、

萬次郎まんじろう

 を名乗っていた。かれこれ35年も前の話であり、この時、権右衛門ごんえもんもとい金五郎きんごろうは26歳、重好しげよしもとい萬次郎まんじろうはまだ1歳に過ぎない延享3(1746)年のことであった。

 萬次郎まんじろうはそれから13年後の宝暦9(1759)年の9月27日に元服げんぷくして、

重好しげよし

 と今の名に改め、さらにその2ヶ月後の11月29日にはそれまで暮らしていた江戸城からこの清水邸へと引き移ったわけだが、その際、権右衛門ごんえもん親収ちかまきも一緒にここ清水邸へと引き移ったのである。

 この頃、権右衛門ごんえもん親収ちかまきは既に近習きんじゅう番から用人ようにんへと出世しており、用人ようにんに出世したその翌年の宝暦6(1756)年の12月には布衣ほい、つまりは従六位じゅろくいじょされたのであった。

 爾来じらい権右衛門ごんえもん親収ちかまきは35年もの長きにわたって、重好しげよし御側おそば近くにつかえており、こうなると当然、情も移り、権右衛門ごんえもん親収ちかまきにとって重好しげよしはまことにもっておそれ多いことだが、

「我が子のような存在…」

 そのように思われ、一方、重好しげよしにしても権右衛門ごんえもん親収ちかまきを実の父のようにしたっていた。

 権右衛門ごんえもん親収ちかまき重好しげよしはさしずめ、

擬似ぎじ親子…」

 そのような関係であり、そうなると権右衛門ごんえもん親収ちかまきとしても名目めいもく上こそ、ご公儀こうぎ…、幕府より派遣はけんされた、

附人つけびと

 すなわち、御三卿ごさんきょうのお目付めつけ役としての色合いの強い家臣とは言え、実際には重好しげよしが個人でやとう、

抱入かかえいれ

 それも同然どうぜんの存在であった。

 さて、そこで長尾ながお幸兵衛こうべえ保章やすあきの出番である。

 幸兵衛こうべえは元は代官所の手代てだいであった。

 清水徳川家は田安たやす徳川家や一橋ひとつばし徳川家と同様、賄料まかないりょうとして10万石が保障されており、清水徳川家の場合には武蔵むさし上総かずさ下総しもうさ甲斐かい大和やまと和泉いずみ播磨はりまの7か国がその賄料まかないりょうの領地であった。

 幸兵衛こうべえはこのうち武蔵むさし武蔵むさし代官所にて手代てだいとして務めていた。身分こそ百姓ひゃくしょうであったものの、それでも幸兵衛こうべえは良く気がつく男であり、代官所の者からは代官を始めとして皆から中々なかなか重宝ちょうほうされていた。

 だが幸兵衛こうべえ自身は一介いっかいの代官所の手代てだいとして終わるつもりはなく、小金を貯めると、武蔵むさし代官の川田かわた玄蕃げんば貞英さだひでにその貯めた小金をおくり、

「清水徳川家につかえたいので是非ぜひ口利くちききを…」

 そう頼んだのであった。言わば、地方の支社から東京本社へと栄転したいのでと、さしずめ支社長に賄賂わいろおくるようなものであろうか。

 それでもこれで、川田かわた玄蕃げんば一介いっかいの代官であったならば、幸兵衛こうべえとしても賄賂わいろおくらなかったであろう。一介いっかいの代官風情ふぜいでは到底とうてい御三卿ごさんきょうである清水徳川家への口利くちききなど期待できず、そうであれば例え、賄賂わいろおくったところで死に金にしかならないからだ。

 だが、この川田かわた玄蕃げんば一介いっかいの代官などではなく、だからこそ幸兵衛こうべえにしても清水徳川家への口利くちききを期待して、玄蕃げんば賄賂わいろおくったのであった。

 すなわち、川田かわた玄蕃げんばには清水徳川家への「ツテ」があったのだ。それというのも娘が重好しげよしの生母のお遊喜ゆきつかえていたのだ。

 幸兵衛こうべえもそれは承知しており、だからこそ、川田かわた玄蕃げんばに対して娘から重好しげよしの生母のお遊喜ゆきへと、そしてお遊喜ゆきから重好しげよしへと、それこそ「伝言でんごんゲーム」の要領ようりょうで、

栄転えいてん

 の口利くちききを期待して賄賂わいろおくったのである。

 さて、その賄賂わいろの効果だが、正に。

霊験れいけんあらたか…」

 であり、それから間もなくして、幸兵衛こうべえに対して江戸表えどおもてより、清水徳川家への出仕しゅっしを命じる辞令が届いたのであった。それが宝暦11(1761)年のことであった。

 こうして清水徳川家に、さしずめ「本社」とも言うべきここ清水邸につかえるようになった長尾ながお幸兵衛こうべえはやはりその独特の、

嗅覚きゅうかく

 でもってこのやしきにて実権を握っている者が誰であるのか、それを即座そくざに探り当てたのであった。

 その人物こそ誰ろう、本目ほんめ権右衛門ごんえもん親収ちかまきである。

 当時、清水邸には村上むらかみ肥前守ひぜんのかみ義方よしかた永井ながい主膳正しゅぜんのかみ武氏たけうじという二人の家老が鎮座ちんざしており、そのもと側用人そばようにん番頭ばんがしら、果ては勘定かんじょう奉行までねる倉橋くらはし武右衛門ぶえもん景平かげひらひかえており、本目ほんめ権右衛門ごんえもん親収ちかまきはと言うと、さらにそのもと用人ようにんを勤めていたのだ。しかも複数の用人ようにんのうちの一人に過ぎなかったのだ。

 本来ならば村上・永井の両家老か、あるいは次席じせき倉橋くらはし武右衛門ぶえもんを頼るべきところであっただろうが、幸兵衛こうべえはその独特の、

嗅覚きゅうかく

 それでもって権力の所在しょざいが果たして、用人ようにんのうちの一人に過ぎなかった、その頃はまだ目立たないようにしていた本目ほんめ権右衛門ごんえもん親収ちかまきにあることを素早すばや見抜みぬいたのであった。

 それからというもの、幸兵衛こうべえは徹底的に本目ほんめ権右衛門ごんえもん親収ちかまきに取り入ったのであった。

 幸兵衛こうべえは清水邸に「栄転」を果たした当初こそ表火之番おもてひのばんという、要するに火の用心を担当する下役したやくを与えられたに過ぎなかったが、間もなく、賄頭まかないがしらへと昇進を果たしたのであった。

 この賄頭まかないがしらとは食材や調理器具など、日常生活で使用する物品の仕入れ担当であり、昇進の背景には、計理けいりに明るい幸兵衛こうべえのその実力が買われたという事情も勿論もちろんあるが、それ以上にやはり権右衛門ごんえもん親収ちかまきに取り入ったことが大きかった。

 ともあれ幸兵衛こうべえは己を引き立ててくれた権右衛門ごんえもん親収ちかまきの期待にこたえるべく、全力で仕事に取り組み、やがて皆も幸兵衛こうべえのその仕事ぶりに目をかれるようになったのであった。

 そうなればしめたものであり、幸兵衛こうべえさらに昇進を重ね、賄料まかないりょう10万石を管理する蔵奉行へとさらなる昇進を果たし、そしてついに今の勘定かんじょう吟味ぎんみ役へと辿たどり着いたのであった。

 その間、幸兵衛こうべえ随分ずいぶんと、

役得やくとく

 にあずかることができ、そうして懐にした「役得やくとく」の大半を権右衛門ごんえもん親収ちかまきに「回す」ことで、幸兵衛こうべえ権右衛門ごんえもん親収ちかまき威光いこうをバックにすることができ、それを背景にしてこの清水邸にて確固かっこたる地位をきずいたのであった。

 幸兵衛こうべえは一応、武士の身形みなりこそしているものの、旗本でもなければ御家人でもない。言わば、清水家の、

私兵しへい

 のような存在であり、それこそれきとした幕臣ばくしんである旗本や御家人、つまりは、

附人つけびと

 あるいは、

附切つけきり

 からすれば、幸兵衛こうべえのような、「抱入かかえいれ」の者など言葉は悪いが、

「カスも同然…」

 そのようにしか見えなかったであろうが、しかし、その幸兵衛こうべえには本目ほんめ権右衛門ごんえもん親収ちかまきという強大なバックがついているので、さしもの「附人つけびと」にしろ、「附切つけきり」にしろ…、それも「附人つけびと」である、それも従五位下じゅごいのげ諸大夫しょだいぶ役である家老でさえも、幸兵衛こうべえにはそうそうぞんざいな態度を取ることはできなかったのであった。例え、内心では幸兵衛こうべえ見下みくだしていようとも、である。
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