天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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益五郎、キレる。

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 左大夫さだゆうとしては内心、いつまでも待たせた益五郎ますごろうに対して小言こごとの一つ、いや、千でも万でも足りないほどに小言こごとを並べ立てたい衝動しょうどうにかられたものの、しかし、奥座敷おくざしきにては利兵衛りへえ伊織いおりが待っていることを思い出して、それらの衝動しょうどうをすべて飲み込み、奥座敷おくざしき障子しょうじを開けて、これから己の主君しゅくんとなる益五郎ますごろうを中へとしょうじ入れた。

 一方、利兵衛りへえ伊織いおり真後まうしろの障子しょうじが開かれたことで、益五郎ますごろうが姿を見せたのだろうと、二人はそうと察するや、同時に平伏へいふくして益五郎ますごろう上座かみざ着座ちゃくざするのを待ち受けた。

 益五郎ますごろうはそれから堂々どうどう上座かみざ着座ちゃくざすると、

「頭を上げてくれや」

 そう利兵衛りへえ伊織いおりに「フランク」に声をかけたので、その無頼ぶらいさに利兵衛りへえ伊織いおりは少し頭を上げると、たがいに横目よこめでもってその顔を見合ったものである。一方、二人の隣にひかえる左大夫さだゆうは今にも卒倒そっとうしそうであった。

 ともあれ当主とうしゅ益五郎ますごろうからの言葉であるので利兵衛りへえ伊織いおりはやはり同時に頭を上げた。

 その時になってようやくに利兵衛りへえ伊織いおりは当主…、新たにこの鷲巣わしのす家をぐことになる益五郎ますごろうの顔を見た。

 利兵衛りへえにしろ伊織いおりにしろ、益五郎ますごろうのそのあざだらけの顔に度肝どぎもかれた。まともな反応と言うべきであろう。

 何しろ鷲巣わしのす家と言えば大身たいしん旗本でこそないものの、それでも家禄かろく千石と中級以上の旗本である。その旗本のこれから当主になろうという者が、顔をあざだらけにするとは、これで度肝どぎもかれない方がおかしい。

 最末席さいまっせきにて陪席ばいせきしていた左大夫さだゆうも二人の様子からそうと察して、

「実は剣術けんじゅつ稽古けいこにて…」

 左大夫さだゆう咄嗟とっさにそんな方便ほうべんを口にした。剣術けんじゅつ稽古けいこなれば武家ぶけたしなみ…、その稽古けいこで顔をあざだらけにしたとなれば、少しくは言い訳も立とう。

 だがそんな左大夫さだゆう心遣こころづかいが理解できるような益五郎ますごろうでは生憎あいにくなかった。

「あっ?なに言ってんだ?喧嘩けんかに決まってんだろ…、ってお前も知ってんだろ?」

 益五郎ますごろうのその無遠慮ぶえんりょな言い回しに、左大夫さだゆうはいよいよもって、卒倒そっとうしそうになった。いや、脳出血を起こしそうであった。

 一方、利兵衛りへえ伊織いおりはそんな左大夫さだゆうあわれに思え、

「いやいや、武家ぶけたる者、向こう傷は誇れましょうぞ…」

 利兵衛りへえはそんなわけの分からぬ「フォロー」をしてみせた。

 成程なるほど合戦かっせんにおいてならば顔の傷も大いに誇れもしようが、喧嘩けんかの傷とあっては自慢にもならない。それどころか、

「士たる者の所業しょぎょうにあらず…」

 ということで十分に改易かいえき口実こうじつとなる恐れすらあり得た。

 ともあれ左大夫さだゆう利兵衛りへえのその「フォロー」に対していよいよ恐縮きょうしゅくさせられ、正に、

汗顔かんがんてい…」

 それであった。

「それで叔父貴おじきたちよ、今日は一体いってぇ、何の用だい?」

 益五郎ますごろう片膝かたひざを立ててそう尋ねた。行儀ぎょうぎの悪いことこの上ない。

 本来ならば利兵衛りへえにしろ伊織いおりにしろ、益五郎ますごろうの|叔父《おじ」として、そのおいである益五郎ますごろう無作法ぶさほうたしなめるべきところなれど、今日の二人は益五郎ますごろうに対して、横田よこた源太郎げんたろう松房としふさの娘・ふゆとの縁談えんだんを、

「何とか受けて欲しい…」

 そう、「お願いする」立場であったので、そこで二人は益五郎ますごろう機嫌きげんそこねるわけにはゆかず、それゆえたしなめるなど、論外ろんがいもってのほかであった。

「いや、他でもござらぬ。中奥なかおく番士ばんし横田よこた源太郎げんたろう松房としふさ殿が娘・ふゆ殿との縁談えんだんでござる…」

 利兵衛りへえはそう切り出した。おい益五郎ますごろう縁談えんだんの件は叔父おじである利兵衛りへえ伊織いおり勿論もちろん把握はあくしており、そしてそれは益五郎ますごろうも承知していたので、それゆえ叔父おじである利兵衛りへえから縁談えんだんの件を切り出されても、益五郎ますごろうはさして驚かなかった。

 だが益五郎ますごろうには分からないことがあった。それは、

「何ゆえに叔父貴おじきたちは俺の縁談えんだんをまとめたがっていやがるんだ…」

 そのことであった。そこで元来がんらい、考えることが苦手な…、己でそう思い込んでいる益五郎ますごろうはストレートに尋ねることにした。

叔父貴おじきよ…。どうして俺とふゆとをくっつけたがるんだ?叔父貴おじきには関係ねぇだろ?」

 益五郎ますごろうからそう問われた利兵衛りへえは、そして伊織いおりも思わず答えにきゅうした。確かにその通りであるからだ。

 果たして真意しんいを聞かせるべきか…、利兵衛りへえ伊織いおりはやはりたがいに顔を見合い、そしてうなずき合うと、利兵衛りへえからその「真意しんい」を説明することにした。

横田よこた源太郎げんたろう殿は申すまでもないことだが、今を時めく御側おそば御用ごよう取次とりつぎ横田よこた筑後守ちくごのかみ準松のりとし殿が分家筋に当たられし御方にて…」

 利兵衛りへえがそう切り出すや、益五郎ますごろうはまるでそれをさえぎるかのように、

「けっ」

 そうあからさまに不快げな声を出した。とても旗本家をぐべき者の態度とも思えず、利兵衛りへえは思わず口をつぐむと、呆気あっけに取られた様子を見せた。

 すると益五郎ますごろうはここぞとばかりに責め立てた。

源太郎げんたろうって親父おやじからも昨日、同じようなことを言われたぜ…、御側おそば御用ごよう取次とりつぎ縁者えんじゃに持つ俺の娘と結婚すれば、立身りっしん出世は思いのままとか何とか…、ふざけたことを抜かしやがるから胸倉むなぐらつかんで怒鳴どなってやったぜ。めんじゃねぇっ、ってな」

 益五郎ますごろうはまるで自慢話でもするかのように、いや、益五郎ますごろうにとってそれはさしずめ、

武勇ぶゆう談…」

 その一つのつもりなのだろう、益五郎ますごろうは胸を張ってそう答えた。

 だがそれに対して利兵衛りへえ伊織いおりは二人共、今にも卒倒そっとうしかけた。

「なっ…、横田殿に対して左様なる…、無礼なる振る舞いに及んだのかっ!?」

 利兵衛りへえは礼儀をかなぐり捨てておい益五郎ますごろう怒鳴どなりつけた。

 だがそれに対しても益五郎ますごろうはそれこそ、

「どこ吹く風…」

 そんな態度であった。喧嘩けんかれしている益五郎ますごろうにとっては利兵衛りへえがいくら怒鳴どなろうともでもなかった。

 するとそうと察した利兵衛りへえは今度は一転、懇願こんがん調になった。

「少しくはわしの身にもなってくれぃ…」

叔父貴おじきの身に?」

 益五郎ますごろうは首をかしげた。

「左様…、そなたとふゆ殿との縁談えんだんはそなた一人の問題ではないのだ…」

「どういうことだ?」

「我らが仕えし清水徳川家にも…、清水徳川家の浮沈ふちんにかかわる問題でもあるのだぞ…」

 利兵衛りへえがそう切り出すと、これには陪席ばいせきしていた左大夫さだゆうが反応した。

おそれながら清水様にも関わり合いのあることで?」

 左大夫さだゆうからそう問われた利兵衛りへえは説明するべき相手を益五郎ますごろうからこの鷲巣わしのす家を取り仕切る家老の左大夫さだゆうへと変更した。

 これから説明すべきことは大変、み入った事情なので、猪武者いのししむしゃ…、いや、猪武者いのししむしゃなどとそのような上等なものではなく、実際には、

匹夫ひっぷ下郎げろうごとき…」

 そのような放蕩ほうとう無頼ぶらいあらくれ者の益五郎ますごろうでは理解できないと思ったからだ。

「左様…、されば左大夫さだゆう殿も既に存じておろうが、近々、一橋様の豊千代とよちよぎみ西之丸にしのまる入りを果たされる…」

 利兵衛りへえからそう切り出された左大夫さだゆうはそのことなら承知していたものの、それでも折角せっかく、教えてくれた利兵衛りへえ手前てまえ

左様さようで…」

 そう答えた。一方、利兵衛りへえにしてもそのような左大夫さだゆうの気持ちが理解でき、なずいてみせると、先を続けた。

「されば一橋ひとつばし様は将軍家しょうぐんけ御養君ごようくん…、次期将軍を輩出はいしゅつせし御家柄おいえがらとなり、正に我が世の春であろう…」

「確かに…」

「それに比して清水徳川家は…、我らがつかえし重好しげよし卿様におかせられてはおそれ多くも上様のご舎弟しゃていにあらせられる…、されば御血筋おちすじでは豊千代とよちよぎみよりも重好しげよし卿様の方が…、斯様かようなことを申し上げるは僭越せんえつきわみなれども、重好しげよし卿様の方が次期将軍に相応ふさわしいと申すものぞ…」

 左大夫さだゆうは今度はうなずかなかった。いや、正確にはうなずけなかったと言うべきか。

 無論、その内心ではうなずいていたものの、しかし、利兵衛りへえも口にした通り、あまりに僭越せんえつきわまりない内容であるので、そのような僭越せんえつきわまりない内容に対して、たかが千石取の旗本の家老風情ふぜい分際ぶんざいうなずこうものなら、それこそ、

僭越せんえつきわみ…」

 というもので、それゆえ左大夫さだゆうは内心でうなずくにとどめ、その身はこうべを垂れてやり過した。

 すると利兵衛りへえもやはりそうと察して先を続けた。

「されば我らがつかえし重好しげよし卿様、そして清水家は正に冬の時代を迎えるであろう。何しろ一橋ひとつばし家とは次期将軍職の座をめぐって干戈かんかまじえたゆえ…、いや、実際には重好しげよし卿様が干戈かんかまじえられたわけではなく、また豊千代とよちよぎみにしてもそれは同じであろう…、豊千代とよちよぎみとて我が主君しゅくん干戈かんかまじえたつもりはないであろう、されば重好しげよし卿様と豊千代とよちよぎみとの間では何ら問題はない…、が問題は豊千代とよちよぎみがご実父の治済はるさだ卿様よ…」

おそれながら…、治済はるさだ卿様におかせられましては、清水徳川家に対してその、言葉は強いかも知れませぬが、敵愾てきがい心を持たれていると?」

 左大夫さだゆうは声を低くしてそう尋ねると、利兵衛りへえうなずいた。

治済はるさだ卿様がご実子じっし豊千代とよちよぎみを次期将軍として西之丸にしのまるへと送り込みしあかつきには、我らがつかえし清水徳川家をつぶそうとたくらむやも知れず…」

 利兵衛りへえのその主張に、左大夫さだゆう流石さすがに信じられず、「まさか…」と口をはさんだ。

「いや、つぶさずとも清水徳川家を乗っ取ろうと画策かくさくせんとも限らず…」

「清水徳川家を乗っ取る…」

「左様…、治済はるさだ卿様には豊千代とよちよぎみ以外の御子おこもおられるゆえ、その御子おこをも今度は清水徳川家に送り込み、清水家のご当主にえられるとか…、あるいは豊千代とよちよぎみ御子おこを清水徳川家に送り込み…、といった具合ぐあいに…」

「いかさま…、清水徳川家を治済はるさだ卿様が御血筋おちすじにてがしめようと?」

「左様…、治済はるさだ卿様なればそう考えるやも知れぬ…」

「まさか…、仮に治済はるさだ卿様がそれを望んでおられようとも、おそれ多くも英邁えいまいなる上様がそれを許すとも思えず…」

「確かにその通りぞ。おそれ多くも上様がご存命ぞんめいなれば、左様なる勝手な振る舞いは上様がお許しあそばされるはずがなく…、例え、治済はるさだ卿様が豊千代とよちよぎみの御実父であらせられようとも…、いや、これから将軍となられし豊千代とよちよぎみが御実父なればこそ、下々しもじも模範もはんとなるべくその行動はつつしまれよと、上様は治済はるさだ卿様に斯様かよう訓戒くんかいを与えられるに相違そういなく…」

まさしく…」

「さりながら…、まことにもっておそれ多いことなれど、いつまでも上様がご存命ぞんめいではあるまいて…」

 確かに、家治も将軍とは言え、人間である以上、いつかは寿命じゅみょうきるであろう。

「その時、治済はるさだ卿様におかせられては征夷大将軍の御実父としていよいよ、きばかれるやも知れず…」

 きばく…、左大夫さだゆうは思わず問い返した。

「いや、おそれ多くも上様が将軍職を豊千代とよちよぎみにおゆずりあそばされようとも、上様は引き続き大御所おおごしょとして例えば、西之丸にしのまるにて目を光らせあそばされるに相違そういなく、されば豊千代とよちよぎみが征夷大将軍となり、それにともな治済はるさだ卿様におかせられても将軍の御実父としての地位を得られようとも、上様が大御所おおごしょとして目を光らせあそばされている間は、さしもの治済はるさだ卿様もそうそう無理はなさらぬであろうが、なれど…」

大御所おおごしょ…、上様が…、まことにもっておそれ多いことながら、ご薨去こうきょあそばされれば、いよいよ治済はるさだ卿様が天下…、きばかれると?」

「左様。その時、今申した、清水家の乗っ取りをたくらむやも知れず…」

重好しげよし卿様の御齢おんとしは…」

「今年で39ぞ…」

 利兵衛りへえは深刻そうな表情でそう答えた。

「なれど…、御子おこあきらめるよわいでもありますまいて…」

 左大夫さだゆうなぐさめるようにそう言った。それというのも今の、

「清水徳川家の乗っ取り…」

 それは重好しげよしに子が生まれなかった場合が大前提だからだ。裏を返せば、重好しげよしが子に、それも嫡男ちゃくなんめぐまれれば、利兵衛りへえ危惧きぐするその、治済はるさだによる、

「清水徳川家の乗っ取り…」

 それを阻止そしできるというものである。

「うむ…、なれど治済はるさだ卿様には最前さいぜん申した通り、豊千代とよちよぎみ以外の御子おこもおられるゆえ、されば上様が薨去こうきょされ次第、動き出すやも知れず…、その時までに果たして重好しげよし卿様が御子おこめぐまれるかどうか…」

 それは分からないだろうな、と左大夫さだゆうは思った。すると利兵衛りへえが、「なれど…」と言葉をいだ。

「仮に重好しげよし卿様が御子おこめぐまれぬうちに上様が薨去こうきょされ、治済はるさだ卿様がきばかれようとも、たった一つだけ、これを掣肘せいちゅうする方途ほうとがあるのだ…」

 利兵衛りへえが謎かけするようにそう告げると、左大夫さだゆうが、

御側おそば御用ごよう取次とりつぎでござりまするな?」

 即座にそう応じたので、利兵衛りへえ左大夫さだゆうのその飲み込みの早さにホッとさせられた。

如何いかにも…、されば御側おそば御用ごよう取次とりつぎの体制だが、上様から豊千代とよちよぎみへと御代替おだいがわりあそばされようとも、しばらくの間は今のままの体制が…、御側おそば御用ごよう取次とりつぎの体制が続くであろう…、されば仮に治済はるさだ卿様がご無理をおおせになられようとも、それに対して御側おそば御用ごよう取次とりつぎが上様に…、上様となられし豊千代とよちよぎみに対して、御実父であらせられる治済はるさだ卿様のご無理むりまかりなりませぬと…、清水徳川家を乗っ取ろうなどとは、到底、上様の御実父のなさる仕業しわざではありませぬと…、まぁ斯様かよう御側おそば御用ごよう取次とりつぎ諫言かんげんを申し上げれば、上様となられし豊千代とよちよぎみとてそれにうなずかれるはずにて…」

「されば治済はるさだ卿様の野望も打ち砕かれる、と?」

「左様…」

「なれどそれはあくまで一時的なものでは?」

「分かっておる。されば時間をかせげれば良いのだ…」

重好しげよし卿様に御子おこができるまでの?」

如何いかにも…」

「それで…、当家が御側おそば御用ごよう取次とりつぎ横田よこた筑後守ちくごのかみ様の縁戚えんせきにつらなるかどうか、そのことがおそれ多くも清水徳川家の浮沈ふちんにもかかわると…、されば清水徳川家と横田よこた筑後守ちくごのかみ様との間を当家が取り持てば良いのでござるな?さしずめ、橋渡はしわたしの役目をになえばよろしいので?」

 やはり飲み込みの良さを見せてくれた左大夫さだゆうに対して利兵衛りへえは、そして伊織いおりも心底、ホッとしたものである。

「なれど、御側おそば御用ごよう取次とりつぎ横田よこた筑後守ちくごのかみ様がお一人ではござらず…」

 左大夫さだゆうにそう指摘してきされた利兵衛りへえは、「分かっておる」と応じた。

「されば相役あいやく稲葉いなば越中守えっちゅうのかみ様にもこれからあらゆるツテを辿たどって何とか取り入る所存しょぞんにて…、また、平御側ひらおそばに対しても同様にな…」

 利兵衛りへえはそう答えると、それから再び、益五郎ますごろうの方へと向き、「どうであろうかのう…」と声をかけた。

 一方、再び声をかけられた益五郎ますごろうはこの時、所謂いわゆる

「マジギレ寸前」

 であった。

「あっ?何がだ?」

 益五郎ますごろうは表情を暗くさせながら問い返した。

「決まっておろうが…、清水徳川家を救うと思うてここは一つ、ふゆ殿との縁談えんだんを…、筑後守ちくごのかみ様がご縁戚えんせきに当たられしふゆ殿との縁談えんだんを何とか了承りょうしょうしてはもらえまいか…」

 利兵衛りへえがそう懇願こんがんした途端とたん


「ざけんじゃねぇっ!」

 益五郎ますごろうは立ち上がったかと思うと、大音声だいおんじょうを座敷中にひびかせ、そのせいで利兵衛りへえ伊織いおりも、そして益五郎ますごろう無頼ぶらいぶりには慣れているはず左大夫さだゆうまでが思わずこしを抜かした。

「てめぇらっ!女を…、人間を何だと思っていやがるっ!人間はてめぇらの欲得よくとくのための道具じゃねぇんだぞっ!」

「いや。これは欲得よくとくではのうて、清水徳川家の…」

 利兵衛りへえがそう反論しかけると、またしても「うるえぇっ!」との益五郎ますごろう大音声だいおんじょうを前にして利兵衛りへえは再び、こしを抜かしそうになった。無論、口をつぐんだのは言うまでもない。

「なにが清水徳川家だっ!んなもんさっさとほろびちまえっ!」

 益五郎ますごろうがそう怒鳴どなると、流石さすが左大夫さだゆうたまりかねた様子で、「殿っ!」とそのあまりにも不敬ふけいな物言いをたしなめようとしたものの、やはり、

「うるせぇっ!」

 との益五郎ますごろう大音声だいおんじょうにかき消されてしまった。

「良いか?俺はなぁ、そんなきたねぇ目的のための結婚なんざ、金輪際こんりんざい、するつもりはねぇかんなっ!分かったらとっとと帰りやがれっ!」

 馬鹿野郎がと、益五郎ますごろうはそうき捨てると、利兵衛りへえ伊織いおりが帰るのを見届けることもなく、自ら先に座敷ざしきをあとにした。益五郎ますごろうとしてはこれ以上、ここで利兵衛りへえたちと同じ空気を吸うことに一時ひとときたりともえられなかったからだ。

 利兵衛りへえ伊織いおりはそれから益五郎ますごろう無礼ぶれい平謝ひらあやまりする左大夫さだゆうに見送られて小川おがわ丁にある鷲巣わしのす邸をあとにすると、その足でもって清水御門内にある清水邸へと帰った。
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