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益五郎、キレる。
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左大夫としては内心、いつまでも待たせた益五郎に対して小言の一つ、いや、千でも万でも足りないほどに小言を並べ立てたい衝動にかられたものの、しかし、奥座敷にては利兵衛と伊織が待っていることを思い出して、それらの衝動をすべて飲み込み、奥座敷の障子を開けて、これから己の主君となる益五郎を中へと招じ入れた。
一方、利兵衛と伊織は真後ろの障子が開かれたことで、益五郎が姿を見せたのだろうと、二人はそうと察するや、同時に平伏して益五郎が上座に着座するのを待ち受けた。
益五郎はそれから堂々と上座に着座すると、
「頭を上げてくれや」
そう利兵衛と伊織に「フランク」に声をかけたので、その無頼さに利兵衛と伊織は少し頭を上げると、互いに横目でもってその顔を見合ったものである。一方、二人の隣に控える左大夫は今にも卒倒しそうであった。
ともあれ当主・益五郎からの言葉であるので利兵衛と伊織はやはり同時に頭を上げた。
その時になって漸くに利兵衛と伊織は当主…、新たにこの鷲巣家を継ぐことになる益五郎の顔を見た。
利兵衛にしろ伊織にしろ、益五郎のその痣だらけの顔に度肝を抜かれた。まともな反応と言うべきであろう。
何しろ鷲巣家と言えば大身旗本でこそないものの、それでも家禄千石と中級以上の旗本である。その旗本のこれから当主になろうという者が、顔を痣だらけにするとは、これで度肝を抜かれない方がおかしい。
最末席にて陪席していた左大夫も二人の様子からそうと察して、
「実は剣術の稽古にて…」
左大夫は咄嗟にそんな方便を口にした。剣術の稽古なれば武家の嗜み…、その稽古で顔を痣だらけにしたとなれば、少しくは言い訳も立とう。
だがそんな左大夫の心遣いが理解できるような益五郎では生憎なかった。
「あっ?なに言ってんだ?喧嘩に決まってんだろ…、ってお前も知ってんだろ?」
益五郎のその無遠慮な言い回しに、左大夫はいよいよもって、卒倒しそうになった。いや、脳出血を起こしそうであった。
一方、利兵衛と伊織はそんな左大夫が憐れに思え、
「いやいや、武家たる者、向こう傷は誇れましょうぞ…」
利兵衛はそんな訳の分からぬ「フォロー」をしてみせた。
成程、合戦においてならば顔の傷も大いに誇れもしようが、喧嘩の傷とあっては自慢にもならない。それどころか、
「士たる者の所業にあらず…」
ということで十分に改易の口実となる恐れすらあり得た。
ともあれ左大夫は利兵衛のその「フォロー」に対していよいよ恐縮させられ、正に、
「汗顔の体…」
それであった。
「それで叔父貴たちよ、今日は一体、何の用だい?」
益五郎は片膝を立ててそう尋ねた。行儀の悪いことこの上ない。
本来ならば利兵衛にしろ伊織にしろ、益五郎の|叔父《おじ」として、その甥である益五郎の無作法を窘めるべきところなれど、今日の二人は益五郎に対して、横田源太郎松房の娘・冬との縁談を、
「何とか受けて欲しい…」
そう、「お願いする」立場であったので、そこで二人は益五郎の機嫌を損ねるわけにはゆかず、それゆえ窘めるなど、論外、以ての外であった。
「いや、他でもござらぬ。中奥番士の横田源太郎松房殿が娘・冬殿との縁談の儀でござる…」
利兵衛はそう切り出した。甥・益五郎の縁談の件は叔父である利兵衛も伊織も勿論、把握しており、そしてそれは益五郎も承知していたので、それゆえ叔父である利兵衛から縁談の件を切り出されても、益五郎はさして驚かなかった。
だが益五郎には分からないことがあった。それは、
「何ゆえに叔父貴たちは俺の縁談をまとめたがっていやがるんだ…」
そのことであった。そこで元来、考えることが苦手な…、己でそう思い込んでいる益五郎はストレートに尋ねることにした。
「叔父貴よ…。どうして俺と冬とをくっつけたがるんだ?叔父貴には関係ねぇだろ?」
益五郎からそう問われた利兵衛は、そして伊織も思わず答えに窮した。確かにその通りであるからだ。
果たして真意を聞かせるべきか…、利兵衛と伊織はやはり互いに顔を見合い、そして頷き合うと、利兵衛からその「真意」を説明することにした。
「横田源太郎殿は申すまでもないことだが、今を時めく御側御用取次の横田筑後守準松殿が分家筋に当たられし御方にて…」
利兵衛がそう切り出すや、益五郎はまるでそれを遮るかのように、
「けっ」
そうあからさまに不快げな声を出した。とても旗本家を継ぐべき者の態度とも思えず、利兵衛は思わず口を噤むと、呆気に取られた様子を見せた。
すると益五郎はここぞとばかりに責め立てた。
「源太郎って親父からも昨日、同じようなことを言われたぜ…、御側御用取次を縁者に持つ俺の娘と結婚すれば、立身出世は思いのままとか何とか…、ふざけたことを抜かしやがるから胸倉掴んで怒鳴ってやったぜ。舐めんじゃねぇっ、ってな」
益五郎はまるで自慢話でもするかのように、いや、益五郎にとってそれはさしずめ、
「武勇談…」
その一つのつもりなのだろう、益五郎は胸を張ってそう答えた。
だがそれに対して利兵衛と伊織は二人共、今にも卒倒しかけた。
「なっ…、横田殿に対して左様なる…、無礼なる振る舞いに及んだのかっ!?」
利兵衛は礼儀をかなぐり捨てて甥の益五郎を怒鳴りつけた。
だがそれに対しても益五郎はそれこそ、
「どこ吹く風…」
そんな態度であった。喧嘩慣れしている益五郎にとっては利兵衛がいくら怒鳴ろうとも屁でもなかった。
するとそうと察した利兵衛は今度は一転、懇願調になった。
「少しくはわしの身にもなってくれぃ…」
「叔父貴の身に?」
益五郎は首をかしげた。
「左様…、そなたと冬殿との縁談はそなた一人の問題ではないのだ…」
「どういうことだ?」
「我らが仕えし清水徳川家にも…、清水徳川家の浮沈にかかわる問題でもあるのだぞ…」
利兵衛がそう切り出すと、これには陪席していた左大夫が反応した。
「畏れながら清水様にも関わり合いのあることで?」
左大夫からそう問われた利兵衛は説明するべき相手を益五郎からこの鷲巣家を取り仕切る家老の左大夫へと変更した。
これから説明すべきことは大変、込み入った事情なので、猪武者…、いや、猪武者などとそのような上等なものではなく、実際には、
「匹夫下郎が如き…」
そのような放蕩無頼の荒くれ者の益五郎では理解できないと思ったからだ。
「左様…、されば左大夫殿も既に存じておろうが、近々、一橋様の豊千代君が西之丸入りを果たされる…」
利兵衛からそう切り出された左大夫はそのことなら承知していたものの、それでも折角、教えてくれた利兵衛の手前、
「左様で…」
そう答えた。一方、利兵衛にしてもそのような左大夫の気持ちが理解でき、頷いてみせると、先を続けた。
「されば一橋様は将軍家御養君…、次期将軍を輩出せし御家柄となり、正に我が世の春であろう…」
「確かに…」
「それに比して清水徳川家は…、我らが仕えし重好卿様におかせられては畏れ多くも上様のご舎弟にあらせられる…、されば御血筋では豊千代君よりも重好卿様の方が…、斯様なことを申し上げるは僭越の極みなれども、重好卿様の方が次期将軍に相応しいと申すものぞ…」
左大夫は今度は頷かなかった。いや、正確には頷けなかったと言うべきか。
無論、その内心では頷いていたものの、しかし、利兵衛も口にした通り、あまりに僭越極まりない内容であるので、そのような僭越極まりない内容に対して、たかが千石取の旗本の家老風情の分際で頷こうものなら、それこそ、
「僭越の極み…」
というもので、それゆえ左大夫は内心で頷くに留め、その身は頭を垂れてやり過した。
すると利兵衛もやはりそうと察して先を続けた。
「されば我らが仕えし重好卿様、そして清水家は正に冬の時代を迎えるであろう。何しろ一橋家とは次期将軍職の座を巡って干戈を交えたゆえ…、いや、実際には重好卿様が干戈を交えられたわけではなく、また豊千代君にしてもそれは同じであろう…、豊千代君とて我が主君と干戈を交えたつもりはないであろう、されば重好卿様と豊千代君との間では何ら問題はない…、が問題は豊千代君がご実父の治済卿様よ…」
「畏れながら…、治済卿様におかせられましては、清水徳川家に対してその、言葉は強いかも知れませぬが、敵愾心を持たれていると?」
左大夫は声を低くしてそう尋ねると、利兵衛は頷いた。
「治済卿様がご実子の豊千代君を次期将軍として西之丸へと送り込みし暁には、我らが仕えし清水徳川家を潰そうと企むやも知れず…」
利兵衛のその主張に、左大夫は流石に信じられず、「まさか…」と口を挟んだ。
「いや、潰さずとも清水徳川家を乗っ取ろうと画策せんとも限らず…」
「清水徳川家を乗っ取る…」
「左様…、治済卿様には豊千代君以外の御子もおられるゆえ、その御子をも今度は清水徳川家に送り込み、清水家のご当主に据えられるとか…、あるいは豊千代君が御子を清水徳川家に送り込み…、といった具合に…」
「いかさま…、清水徳川家を治済卿様が御血筋にて継がしめようと?」
「左様…、治済卿様なればそう考えるやも知れぬ…」
「まさか…、仮に治済卿様がそれを望んでおられようとも、畏れ多くも英邁なる上様がそれを許すとも思えず…」
「確かにその通りぞ。畏れ多くも上様がご存命なれば、左様なる勝手な振る舞いは上様がお許しあそばされる筈がなく…、例え、治済卿様が豊千代君の御実父であらせられようとも…、いや、これから将軍となられし豊千代君が御実父なればこそ、下々の模範となるべくその行動は慎まれよと、上様は治済卿様に斯様に訓戒を与えられるに相違なく…」
「正しく…」
「さりながら…、まことにもって畏れ多いことなれど、いつまでも上様がご存命ではあるまいて…」
確かに、家治も将軍とは言え、人間である以上、いつかは寿命が尽きるであろう。
「その時、治済卿様におかせられては征夷大将軍の御実父としていよいよ、牙を剥かれるやも知れず…」
牙を剥く…、左大夫は思わず問い返した。
「いや、畏れ多くも上様が将軍職を豊千代君にお譲りあそばされようとも、上様は引き続き大御所として例えば、西之丸にて目を光らせあそばされるに相違なく、されば豊千代君が征夷大将軍となり、それに伴い治済卿様におかせられても将軍の御実父としての地位を得られようとも、上様が大御所として目を光らせあそばされている間は、さしもの治済卿様もそうそう無理はなさらぬであろうが、なれど…」
「大御所…、上様が…、まことにもって畏れ多いことながら、ご薨去あそばされれば、いよいよ治済卿様が天下…、牙を剥かれると?」
「左様。その時、今申した、清水家の乗っ取りを企むやも知れず…」
「重好卿様の御齢は…」
「今年で39ぞ…」
利兵衛は深刻そうな表情でそう答えた。
「なれど…、御子を諦める齢でもありますまいて…」
左大夫は慰めるようにそう言った。それというのも今の、
「清水徳川家の乗っ取り…」
それは重好に子が生まれなかった場合が大前提だからだ。裏を返せば、重好が子に、それも嫡男に恵まれれば、利兵衛が危惧するその、治済による、
「清水徳川家の乗っ取り…」
それを阻止できるというものである。
「うむ…、なれど治済卿様には最前申した通り、豊千代君以外の御子もおられるゆえ、されば上様が薨去され次第、動き出すやも知れず…、その時までに果たして重好卿様が御子に恵まれるかどうか…」
それは分からないだろうな、と左大夫は思った。すると利兵衛が、「なれど…」と言葉を継いだ。
「仮に重好卿様が御子に恵まれぬうちに上様が薨去され、治済卿様が牙を剥かれようとも、たった一つだけ、これを掣肘する方途があるのだ…」
利兵衛が謎かけするようにそう告げると、左大夫が、
「御側御用取次でござりまするな?」
即座にそう応じたので、利兵衛は左大夫のその飲み込みの早さにホッとさせられた。
「如何にも…、されば御側御用取次の体制だが、上様から豊千代君へと御代替わりあそばされようとも、暫くの間は今のままの体制が…、御側御用取次の体制が続くであろう…、されば仮に治済卿様がご無理を仰せになられようとも、それに対して御側御用取次が上様に…、上様となられし豊千代君に対して、御実父であらせられる治済卿様のご無理は罷りなりませぬと…、清水徳川家を乗っ取ろうなどとは、到底、上様の御実父のなさる仕業ではありませぬと…、まぁ斯様に御側御用取次が諫言を申し上げれば、上様となられし豊千代君とてそれに頷かれる筈にて…」
「されば治済卿様の野望も打ち砕かれる、と?」
「左様…」
「なれどそれはあくまで一時的なものでは?」
「分かっておる。されば時間を稼げれば良いのだ…」
「重好卿様に御子ができるまでの?」
「如何にも…」
「それで…、当家が御側御用取次の横田筑後守様の縁戚につらなるかどうか、そのことが畏れ多くも清水徳川家の浮沈にもかかわると…、されば清水徳川家と横田筑後守様との間を当家が取り持てば良いのでござるな?さしずめ、橋渡しの役目を担えば宜しいので?」
やはり飲み込みの良さを見せてくれた左大夫に対して利兵衛は、そして伊織も心底、ホッとしたものである。
「なれど、御側御用取次は横田筑後守様がお一人ではござらず…」
左大夫にそう指摘された利兵衛は、「分かっておる」と応じた。
「されば相役の稲葉越中守様にもこれからあらゆるツテを辿って何とか取り入る所存にて…、また、平御側に対しても同様にな…」
利兵衛はそう答えると、それから再び、益五郎の方へと向き、「どうであろうかのう…」と声をかけた。
一方、再び声をかけられた益五郎はこの時、所謂、
「マジギレ寸前」
であった。
「あっ?何がだ?」
益五郎は表情を暗くさせながら問い返した。
「決まっておろうが…、清水徳川家を救うと思うてここは一つ、冬殿との縁談を…、筑後守様がご縁戚に当たられし冬殿との縁談を何とか了承してはもらえまいか…」
利兵衛がそう懇願した途端、
「ざけんじゃねぇっ!」
益五郎は立ち上がったかと思うと、大音声を座敷中に響かせ、そのせいで利兵衛も伊織も、そして益五郎の無頼ぶりには慣れている筈の左大夫までが思わず腰を抜かした。
「てめぇらっ!女を…、人間を何だと思っていやがるっ!人間はてめぇらの欲得のための道具じゃねぇんだぞっ!」
「いや。これは欲得ではのうて、清水徳川家の…」
利兵衛がそう反論しかけると、またしても「うるえぇっ!」との益五郎の大音声を前にして利兵衛は再び、腰を抜かしそうになった。無論、口を噤んだのは言うまでもない。
「なにが清水徳川家だっ!んなもんさっさと滅びちまえっ!」
益五郎がそう怒鳴ると、流石に左大夫が堪りかねた様子で、「殿っ!」とそのあまりにも不敬な物言いを窘めようとしたものの、やはり、
「うるせぇっ!」
との益五郎の大音声にかき消されてしまった。
「良いか?俺はなぁ、そんなきたねぇ目的のための結婚なんざ、金輪際、するつもりはねぇかんなっ!分かったらとっとと帰りやがれっ!」
馬鹿野郎がと、益五郎はそう吐き捨てると、利兵衛と伊織が帰るのを見届けることもなく、自ら先に座敷をあとにした。益五郎としてはこれ以上、ここで利兵衛たちと同じ空気を吸うことに一時たりとも耐えられなかったからだ。
利兵衛と伊織はそれから益五郎の無礼を平謝りする左大夫に見送られて小川丁にある鷲巣邸をあとにすると、その足でもって清水御門内にある清水邸へと帰った。
一方、利兵衛と伊織は真後ろの障子が開かれたことで、益五郎が姿を見せたのだろうと、二人はそうと察するや、同時に平伏して益五郎が上座に着座するのを待ち受けた。
益五郎はそれから堂々と上座に着座すると、
「頭を上げてくれや」
そう利兵衛と伊織に「フランク」に声をかけたので、その無頼さに利兵衛と伊織は少し頭を上げると、互いに横目でもってその顔を見合ったものである。一方、二人の隣に控える左大夫は今にも卒倒しそうであった。
ともあれ当主・益五郎からの言葉であるので利兵衛と伊織はやはり同時に頭を上げた。
その時になって漸くに利兵衛と伊織は当主…、新たにこの鷲巣家を継ぐことになる益五郎の顔を見た。
利兵衛にしろ伊織にしろ、益五郎のその痣だらけの顔に度肝を抜かれた。まともな反応と言うべきであろう。
何しろ鷲巣家と言えば大身旗本でこそないものの、それでも家禄千石と中級以上の旗本である。その旗本のこれから当主になろうという者が、顔を痣だらけにするとは、これで度肝を抜かれない方がおかしい。
最末席にて陪席していた左大夫も二人の様子からそうと察して、
「実は剣術の稽古にて…」
左大夫は咄嗟にそんな方便を口にした。剣術の稽古なれば武家の嗜み…、その稽古で顔を痣だらけにしたとなれば、少しくは言い訳も立とう。
だがそんな左大夫の心遣いが理解できるような益五郎では生憎なかった。
「あっ?なに言ってんだ?喧嘩に決まってんだろ…、ってお前も知ってんだろ?」
益五郎のその無遠慮な言い回しに、左大夫はいよいよもって、卒倒しそうになった。いや、脳出血を起こしそうであった。
一方、利兵衛と伊織はそんな左大夫が憐れに思え、
「いやいや、武家たる者、向こう傷は誇れましょうぞ…」
利兵衛はそんな訳の分からぬ「フォロー」をしてみせた。
成程、合戦においてならば顔の傷も大いに誇れもしようが、喧嘩の傷とあっては自慢にもならない。それどころか、
「士たる者の所業にあらず…」
ということで十分に改易の口実となる恐れすらあり得た。
ともあれ左大夫は利兵衛のその「フォロー」に対していよいよ恐縮させられ、正に、
「汗顔の体…」
それであった。
「それで叔父貴たちよ、今日は一体、何の用だい?」
益五郎は片膝を立ててそう尋ねた。行儀の悪いことこの上ない。
本来ならば利兵衛にしろ伊織にしろ、益五郎の|叔父《おじ」として、その甥である益五郎の無作法を窘めるべきところなれど、今日の二人は益五郎に対して、横田源太郎松房の娘・冬との縁談を、
「何とか受けて欲しい…」
そう、「お願いする」立場であったので、そこで二人は益五郎の機嫌を損ねるわけにはゆかず、それゆえ窘めるなど、論外、以ての外であった。
「いや、他でもござらぬ。中奥番士の横田源太郎松房殿が娘・冬殿との縁談の儀でござる…」
利兵衛はそう切り出した。甥・益五郎の縁談の件は叔父である利兵衛も伊織も勿論、把握しており、そしてそれは益五郎も承知していたので、それゆえ叔父である利兵衛から縁談の件を切り出されても、益五郎はさして驚かなかった。
だが益五郎には分からないことがあった。それは、
「何ゆえに叔父貴たちは俺の縁談をまとめたがっていやがるんだ…」
そのことであった。そこで元来、考えることが苦手な…、己でそう思い込んでいる益五郎はストレートに尋ねることにした。
「叔父貴よ…。どうして俺と冬とをくっつけたがるんだ?叔父貴には関係ねぇだろ?」
益五郎からそう問われた利兵衛は、そして伊織も思わず答えに窮した。確かにその通りであるからだ。
果たして真意を聞かせるべきか…、利兵衛と伊織はやはり互いに顔を見合い、そして頷き合うと、利兵衛からその「真意」を説明することにした。
「横田源太郎殿は申すまでもないことだが、今を時めく御側御用取次の横田筑後守準松殿が分家筋に当たられし御方にて…」
利兵衛がそう切り出すや、益五郎はまるでそれを遮るかのように、
「けっ」
そうあからさまに不快げな声を出した。とても旗本家を継ぐべき者の態度とも思えず、利兵衛は思わず口を噤むと、呆気に取られた様子を見せた。
すると益五郎はここぞとばかりに責め立てた。
「源太郎って親父からも昨日、同じようなことを言われたぜ…、御側御用取次を縁者に持つ俺の娘と結婚すれば、立身出世は思いのままとか何とか…、ふざけたことを抜かしやがるから胸倉掴んで怒鳴ってやったぜ。舐めんじゃねぇっ、ってな」
益五郎はまるで自慢話でもするかのように、いや、益五郎にとってそれはさしずめ、
「武勇談…」
その一つのつもりなのだろう、益五郎は胸を張ってそう答えた。
だがそれに対して利兵衛と伊織は二人共、今にも卒倒しかけた。
「なっ…、横田殿に対して左様なる…、無礼なる振る舞いに及んだのかっ!?」
利兵衛は礼儀をかなぐり捨てて甥の益五郎を怒鳴りつけた。
だがそれに対しても益五郎はそれこそ、
「どこ吹く風…」
そんな態度であった。喧嘩慣れしている益五郎にとっては利兵衛がいくら怒鳴ろうとも屁でもなかった。
するとそうと察した利兵衛は今度は一転、懇願調になった。
「少しくはわしの身にもなってくれぃ…」
「叔父貴の身に?」
益五郎は首をかしげた。
「左様…、そなたと冬殿との縁談はそなた一人の問題ではないのだ…」
「どういうことだ?」
「我らが仕えし清水徳川家にも…、清水徳川家の浮沈にかかわる問題でもあるのだぞ…」
利兵衛がそう切り出すと、これには陪席していた左大夫が反応した。
「畏れながら清水様にも関わり合いのあることで?」
左大夫からそう問われた利兵衛は説明するべき相手を益五郎からこの鷲巣家を取り仕切る家老の左大夫へと変更した。
これから説明すべきことは大変、込み入った事情なので、猪武者…、いや、猪武者などとそのような上等なものではなく、実際には、
「匹夫下郎が如き…」
そのような放蕩無頼の荒くれ者の益五郎では理解できないと思ったからだ。
「左様…、されば左大夫殿も既に存じておろうが、近々、一橋様の豊千代君が西之丸入りを果たされる…」
利兵衛からそう切り出された左大夫はそのことなら承知していたものの、それでも折角、教えてくれた利兵衛の手前、
「左様で…」
そう答えた。一方、利兵衛にしてもそのような左大夫の気持ちが理解でき、頷いてみせると、先を続けた。
「されば一橋様は将軍家御養君…、次期将軍を輩出せし御家柄となり、正に我が世の春であろう…」
「確かに…」
「それに比して清水徳川家は…、我らが仕えし重好卿様におかせられては畏れ多くも上様のご舎弟にあらせられる…、されば御血筋では豊千代君よりも重好卿様の方が…、斯様なことを申し上げるは僭越の極みなれども、重好卿様の方が次期将軍に相応しいと申すものぞ…」
左大夫は今度は頷かなかった。いや、正確には頷けなかったと言うべきか。
無論、その内心では頷いていたものの、しかし、利兵衛も口にした通り、あまりに僭越極まりない内容であるので、そのような僭越極まりない内容に対して、たかが千石取の旗本の家老風情の分際で頷こうものなら、それこそ、
「僭越の極み…」
というもので、それゆえ左大夫は内心で頷くに留め、その身は頭を垂れてやり過した。
すると利兵衛もやはりそうと察して先を続けた。
「されば我らが仕えし重好卿様、そして清水家は正に冬の時代を迎えるであろう。何しろ一橋家とは次期将軍職の座を巡って干戈を交えたゆえ…、いや、実際には重好卿様が干戈を交えられたわけではなく、また豊千代君にしてもそれは同じであろう…、豊千代君とて我が主君と干戈を交えたつもりはないであろう、されば重好卿様と豊千代君との間では何ら問題はない…、が問題は豊千代君がご実父の治済卿様よ…」
「畏れながら…、治済卿様におかせられましては、清水徳川家に対してその、言葉は強いかも知れませぬが、敵愾心を持たれていると?」
左大夫は声を低くしてそう尋ねると、利兵衛は頷いた。
「治済卿様がご実子の豊千代君を次期将軍として西之丸へと送り込みし暁には、我らが仕えし清水徳川家を潰そうと企むやも知れず…」
利兵衛のその主張に、左大夫は流石に信じられず、「まさか…」と口を挟んだ。
「いや、潰さずとも清水徳川家を乗っ取ろうと画策せんとも限らず…」
「清水徳川家を乗っ取る…」
「左様…、治済卿様には豊千代君以外の御子もおられるゆえ、その御子をも今度は清水徳川家に送り込み、清水家のご当主に据えられるとか…、あるいは豊千代君が御子を清水徳川家に送り込み…、といった具合に…」
「いかさま…、清水徳川家を治済卿様が御血筋にて継がしめようと?」
「左様…、治済卿様なればそう考えるやも知れぬ…」
「まさか…、仮に治済卿様がそれを望んでおられようとも、畏れ多くも英邁なる上様がそれを許すとも思えず…」
「確かにその通りぞ。畏れ多くも上様がご存命なれば、左様なる勝手な振る舞いは上様がお許しあそばされる筈がなく…、例え、治済卿様が豊千代君の御実父であらせられようとも…、いや、これから将軍となられし豊千代君が御実父なればこそ、下々の模範となるべくその行動は慎まれよと、上様は治済卿様に斯様に訓戒を与えられるに相違なく…」
「正しく…」
「さりながら…、まことにもって畏れ多いことなれど、いつまでも上様がご存命ではあるまいて…」
確かに、家治も将軍とは言え、人間である以上、いつかは寿命が尽きるであろう。
「その時、治済卿様におかせられては征夷大将軍の御実父としていよいよ、牙を剥かれるやも知れず…」
牙を剥く…、左大夫は思わず問い返した。
「いや、畏れ多くも上様が将軍職を豊千代君にお譲りあそばされようとも、上様は引き続き大御所として例えば、西之丸にて目を光らせあそばされるに相違なく、されば豊千代君が征夷大将軍となり、それに伴い治済卿様におかせられても将軍の御実父としての地位を得られようとも、上様が大御所として目を光らせあそばされている間は、さしもの治済卿様もそうそう無理はなさらぬであろうが、なれど…」
「大御所…、上様が…、まことにもって畏れ多いことながら、ご薨去あそばされれば、いよいよ治済卿様が天下…、牙を剥かれると?」
「左様。その時、今申した、清水家の乗っ取りを企むやも知れず…」
「重好卿様の御齢は…」
「今年で39ぞ…」
利兵衛は深刻そうな表情でそう答えた。
「なれど…、御子を諦める齢でもありますまいて…」
左大夫は慰めるようにそう言った。それというのも今の、
「清水徳川家の乗っ取り…」
それは重好に子が生まれなかった場合が大前提だからだ。裏を返せば、重好が子に、それも嫡男に恵まれれば、利兵衛が危惧するその、治済による、
「清水徳川家の乗っ取り…」
それを阻止できるというものである。
「うむ…、なれど治済卿様には最前申した通り、豊千代君以外の御子もおられるゆえ、されば上様が薨去され次第、動き出すやも知れず…、その時までに果たして重好卿様が御子に恵まれるかどうか…」
それは分からないだろうな、と左大夫は思った。すると利兵衛が、「なれど…」と言葉を継いだ。
「仮に重好卿様が御子に恵まれぬうちに上様が薨去され、治済卿様が牙を剥かれようとも、たった一つだけ、これを掣肘する方途があるのだ…」
利兵衛が謎かけするようにそう告げると、左大夫が、
「御側御用取次でござりまするな?」
即座にそう応じたので、利兵衛は左大夫のその飲み込みの早さにホッとさせられた。
「如何にも…、されば御側御用取次の体制だが、上様から豊千代君へと御代替わりあそばされようとも、暫くの間は今のままの体制が…、御側御用取次の体制が続くであろう…、されば仮に治済卿様がご無理を仰せになられようとも、それに対して御側御用取次が上様に…、上様となられし豊千代君に対して、御実父であらせられる治済卿様のご無理は罷りなりませぬと…、清水徳川家を乗っ取ろうなどとは、到底、上様の御実父のなさる仕業ではありませぬと…、まぁ斯様に御側御用取次が諫言を申し上げれば、上様となられし豊千代君とてそれに頷かれる筈にて…」
「されば治済卿様の野望も打ち砕かれる、と?」
「左様…」
「なれどそれはあくまで一時的なものでは?」
「分かっておる。されば時間を稼げれば良いのだ…」
「重好卿様に御子ができるまでの?」
「如何にも…」
「それで…、当家が御側御用取次の横田筑後守様の縁戚につらなるかどうか、そのことが畏れ多くも清水徳川家の浮沈にもかかわると…、されば清水徳川家と横田筑後守様との間を当家が取り持てば良いのでござるな?さしずめ、橋渡しの役目を担えば宜しいので?」
やはり飲み込みの良さを見せてくれた左大夫に対して利兵衛は、そして伊織も心底、ホッとしたものである。
「なれど、御側御用取次は横田筑後守様がお一人ではござらず…」
左大夫にそう指摘された利兵衛は、「分かっておる」と応じた。
「されば相役の稲葉越中守様にもこれからあらゆるツテを辿って何とか取り入る所存にて…、また、平御側に対しても同様にな…」
利兵衛はそう答えると、それから再び、益五郎の方へと向き、「どうであろうかのう…」と声をかけた。
一方、再び声をかけられた益五郎はこの時、所謂、
「マジギレ寸前」
であった。
「あっ?何がだ?」
益五郎は表情を暗くさせながら問い返した。
「決まっておろうが…、清水徳川家を救うと思うてここは一つ、冬殿との縁談を…、筑後守様がご縁戚に当たられし冬殿との縁談を何とか了承してはもらえまいか…」
利兵衛がそう懇願した途端、
「ざけんじゃねぇっ!」
益五郎は立ち上がったかと思うと、大音声を座敷中に響かせ、そのせいで利兵衛も伊織も、そして益五郎の無頼ぶりには慣れている筈の左大夫までが思わず腰を抜かした。
「てめぇらっ!女を…、人間を何だと思っていやがるっ!人間はてめぇらの欲得のための道具じゃねぇんだぞっ!」
「いや。これは欲得ではのうて、清水徳川家の…」
利兵衛がそう反論しかけると、またしても「うるえぇっ!」との益五郎の大音声を前にして利兵衛は再び、腰を抜かしそうになった。無論、口を噤んだのは言うまでもない。
「なにが清水徳川家だっ!んなもんさっさと滅びちまえっ!」
益五郎がそう怒鳴ると、流石に左大夫が堪りかねた様子で、「殿っ!」とそのあまりにも不敬な物言いを窘めようとしたものの、やはり、
「うるせぇっ!」
との益五郎の大音声にかき消されてしまった。
「良いか?俺はなぁ、そんなきたねぇ目的のための結婚なんざ、金輪際、するつもりはねぇかんなっ!分かったらとっとと帰りやがれっ!」
馬鹿野郎がと、益五郎はそう吐き捨てると、利兵衛と伊織が帰るのを見届けることもなく、自ら先に座敷をあとにした。益五郎としてはこれ以上、ここで利兵衛たちと同じ空気を吸うことに一時たりとも耐えられなかったからだ。
利兵衛と伊織はそれから益五郎の無礼を平謝りする左大夫に見送られて小川丁にある鷲巣邸をあとにすると、その足でもって清水御門内にある清水邸へと帰った。
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