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養父と実父 5
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安祥院は九代将軍・家重の側室であり、家重との間に重好をなした。
その頃…、安祥院がまだ家重の側室であった頃、安祥院はお遊喜と名乗っていた。
それが宝暦11(1761)年に家重が没すると、お遊喜は落飾、つまりは坊主、尼さんになり、安祥院と名を改めた。
そして主を失った側室は江戸城本丸を出て、二ノ丸の大奥に移るか、あるいは日比谷御門外にある櫻田御用屋敷に移るのが一般的であり、お遊喜こと安祥院の場合は櫻田御用屋敷に移ったのだ。
「安祥院様におかせられては用人が目を光らせておりましょうぞ…」
確かに源太郎の言う通りであった。
安祥院は今年で還暦、つまりは60を迎えた。まして、落飾、尼さんになっていたのだ。よもやその年で、その頭で「間違い」を犯すとも思えなかったが、それでも女であることに変わりはない。
ゆえに安祥院には常に用人が控えており…、と言うよりは目を光らせており、外部と、とりわけ男と接触できないようにしていた。何しろ櫻田御用屋敷もまた、さしずめ、
「もう一つの大奥」
そのような存在であるために、ゆえに一度、櫻田御用屋敷に入った者は…、安祥院のような側室は例えば火事で櫻田御用屋敷そのものが焼け落ちでもしない限りは終生、出られず、ゆえにやはり例えば、病気になったとしても櫻田御用屋敷内にある療養所にて療治を受けることになり、そのための幕府の医官もいたのだ。
そのようにして用人が目を光らせている以上は如何に準松とて安祥院に取り入ることなど、源太郎には不可能なように思えた。
「そこはほれ、いくらでもやりようがあるわさ…」
準松はニヤリと笑みを浮かべた。
「よもや、御側御用取次としての権威を振りかざされる、とか?」
源太郎が意地悪くそう尋ねると、しかし、準松は怒った様子も見せずに、それどころかカラカラと笑い声を上げたほどである。
「それも悪くはないがの…、だがここは下手に出るのが上策というものよ…」
「下手に…、と申されると、用人に取り入ると?」
「左様…、幸いにもツテがあるしの…」
「ツテ?」
「左様。安祥院様の用人だが、古坂弁蔵包高と申すものにて…」
また詳しく知っているものだと、源太郎は感嘆しつつ、聞き入った。
「さればそれな弁蔵、小十人格の庭番の古坂勝次郎孟雅が父なのだ」
「御庭番の父親と…」
「左様。されば身共は庭番をも支配せし御側御用取次ゆえな…」
「成程…、その御庭番の勝次郎殿にかくかくしかじかと事情を打ち明けた上で、父、弁蔵殿に取り次いでもらいたい、と?」
「左様。無論、それ相応のものも弾まねばならぬがの…」
それ相応のもの…、それこそが、
「下手に出る…」
その正体であった。
「成程…」
「それから三浦殿をも頼るつもりぞ…」
三浦の名には源太郎も聞き覚えがあった。
「三浦殿…、よもや…」
「ああ、そのよもや、よ…」
「確か、安祥院様のご実家…」
「左様。安祥院様は三浦五郎左衛門義周殿が娘御にて…」
「安祥院様のその父御は…」
「もう既に亡いわさ…」
「それでは三浦家は…、安祥院様にとっては兄か弟に当たる者が継がれたわけで?あるいは養嗣子を迎えられたか…」
「安祥院様が弟御が継がれたわ…」
「それではその弟御を頼るわけで?」
「いや、弟御も、もう既に亡く…、御先手銕砲頭まで務め上げられし三浦五郎左衛門義如殿であったが、すぐる年…、3年前の安永7年に亡くなられたわ…」
「それでは三浦家は今は…」
「五郎左衛門義如殿が嫡男、左膳義和殿が継がれておるわ…」
「それではその左膳殿を頼られるわけで?安祥院様とは伯母と甥の関係にありし…」
「左様…、さらに申さば重好卿とは…、重好卿と左膳殿とはいとこ同士ゆえ、されば左膳殿は清水邸にも出入りが許されており、実際、度々出入りしている由にて…」
「いかさま…、左膳殿に取り入れば、左膳殿から重好卿へとそのことが伝えられ、重好殿に良い影響を与えられると…」
「左様…、いや、それは安祥院様にも当て嵌まることぞ…、成程、安祥院様は確かに気軽に櫻田御用屋敷を出られず、ゆえに清水邸へと足を運ばれることも叶わぬが、なれど手紙のやり取り程度なれば、いつにても可能にて…」
「安祥院様から重好卿へは、手紙にて準松殿が取り入りを…、さしずめ、過分の土産を頂戴したとか何とか、伝えられることが期待出来ると?」
源太郎のその問いは準松が安祥院に対して賂を贈ることを前提にしての問いであった。源太郎は準松を窺うような目つきで見た。
それに対して準松は実に満足気な様子で、「左様、左様ぞ…」と答えた。
「ともあれ、打てる手はすべて打っておきたい…、鶴松のためにな…」
準松は念押しするようにそう言った。それに対して源太郎は思わず、
「お前自身のためだろう」
内心、そうツッコミを入れたものだ。
「それに…、鷲巣家にしても…、とりわけ最前、名を挙げし、利兵衛、伊織にしてもそなたが娘御との縁談を望んでいるやも知れず…」
「益五郎の叔父たちが?」
「左様…」
「そはまた、一体何ゆえにて?」
「考えてもみよ、益五郎がそなたの…、横田分家の当主たるそなたの娘御の冬殿と結ばれれば、横田本家の当主たるこの身とも…、御側御用取次として畏れ多くも上様の御側近くに仕えしこの身とも縁戚になれるのだぞ?鷲巣家は…」
「されば、重好卿に仕えし利兵衛殿、伊織殿にしても鷲巣家の人間である以上、さしずめ、鷲巣家の安泰を願うて、冬との縁談を望むと?」
源太郎は皮肉な口調でそう問いかけたが、しかし、準松は額面通りに受け止めた。
「左様。それがまともな人間と申すものぞ…」
準松は自信満々な様子でそう断言してみせた。余程に御側御用取次の役目にある己を、さしずめ最強とでも思っているのであろう。自信過剰、自己過信もここまでくれば大したものである。
だが、こと利兵衛と|伊織《いおり」が甥の益五郎に対して、横田分家の当主である源太郎の娘の冬との縁談を望むに違いないとの、準松のその「予言」に限って言えば、決して準松の自信過剰でもなければ、自己過信でもなかった。
その頃…、安祥院がまだ家重の側室であった頃、安祥院はお遊喜と名乗っていた。
それが宝暦11(1761)年に家重が没すると、お遊喜は落飾、つまりは坊主、尼さんになり、安祥院と名を改めた。
そして主を失った側室は江戸城本丸を出て、二ノ丸の大奥に移るか、あるいは日比谷御門外にある櫻田御用屋敷に移るのが一般的であり、お遊喜こと安祥院の場合は櫻田御用屋敷に移ったのだ。
「安祥院様におかせられては用人が目を光らせておりましょうぞ…」
確かに源太郎の言う通りであった。
安祥院は今年で還暦、つまりは60を迎えた。まして、落飾、尼さんになっていたのだ。よもやその年で、その頭で「間違い」を犯すとも思えなかったが、それでも女であることに変わりはない。
ゆえに安祥院には常に用人が控えており…、と言うよりは目を光らせており、外部と、とりわけ男と接触できないようにしていた。何しろ櫻田御用屋敷もまた、さしずめ、
「もう一つの大奥」
そのような存在であるために、ゆえに一度、櫻田御用屋敷に入った者は…、安祥院のような側室は例えば火事で櫻田御用屋敷そのものが焼け落ちでもしない限りは終生、出られず、ゆえにやはり例えば、病気になったとしても櫻田御用屋敷内にある療養所にて療治を受けることになり、そのための幕府の医官もいたのだ。
そのようにして用人が目を光らせている以上は如何に準松とて安祥院に取り入ることなど、源太郎には不可能なように思えた。
「そこはほれ、いくらでもやりようがあるわさ…」
準松はニヤリと笑みを浮かべた。
「よもや、御側御用取次としての権威を振りかざされる、とか?」
源太郎が意地悪くそう尋ねると、しかし、準松は怒った様子も見せずに、それどころかカラカラと笑い声を上げたほどである。
「それも悪くはないがの…、だがここは下手に出るのが上策というものよ…」
「下手に…、と申されると、用人に取り入ると?」
「左様…、幸いにもツテがあるしの…」
「ツテ?」
「左様。安祥院様の用人だが、古坂弁蔵包高と申すものにて…」
また詳しく知っているものだと、源太郎は感嘆しつつ、聞き入った。
「さればそれな弁蔵、小十人格の庭番の古坂勝次郎孟雅が父なのだ」
「御庭番の父親と…」
「左様。されば身共は庭番をも支配せし御側御用取次ゆえな…」
「成程…、その御庭番の勝次郎殿にかくかくしかじかと事情を打ち明けた上で、父、弁蔵殿に取り次いでもらいたい、と?」
「左様。無論、それ相応のものも弾まねばならぬがの…」
それ相応のもの…、それこそが、
「下手に出る…」
その正体であった。
「成程…」
「それから三浦殿をも頼るつもりぞ…」
三浦の名には源太郎も聞き覚えがあった。
「三浦殿…、よもや…」
「ああ、そのよもや、よ…」
「確か、安祥院様のご実家…」
「左様。安祥院様は三浦五郎左衛門義周殿が娘御にて…」
「安祥院様のその父御は…」
「もう既に亡いわさ…」
「それでは三浦家は…、安祥院様にとっては兄か弟に当たる者が継がれたわけで?あるいは養嗣子を迎えられたか…」
「安祥院様が弟御が継がれたわ…」
「それではその弟御を頼るわけで?」
「いや、弟御も、もう既に亡く…、御先手銕砲頭まで務め上げられし三浦五郎左衛門義如殿であったが、すぐる年…、3年前の安永7年に亡くなられたわ…」
「それでは三浦家は今は…」
「五郎左衛門義如殿が嫡男、左膳義和殿が継がれておるわ…」
「それではその左膳殿を頼られるわけで?安祥院様とは伯母と甥の関係にありし…」
「左様…、さらに申さば重好卿とは…、重好卿と左膳殿とはいとこ同士ゆえ、されば左膳殿は清水邸にも出入りが許されており、実際、度々出入りしている由にて…」
「いかさま…、左膳殿に取り入れば、左膳殿から重好卿へとそのことが伝えられ、重好殿に良い影響を与えられると…」
「左様…、いや、それは安祥院様にも当て嵌まることぞ…、成程、安祥院様は確かに気軽に櫻田御用屋敷を出られず、ゆえに清水邸へと足を運ばれることも叶わぬが、なれど手紙のやり取り程度なれば、いつにても可能にて…」
「安祥院様から重好卿へは、手紙にて準松殿が取り入りを…、さしずめ、過分の土産を頂戴したとか何とか、伝えられることが期待出来ると?」
源太郎のその問いは準松が安祥院に対して賂を贈ることを前提にしての問いであった。源太郎は準松を窺うような目つきで見た。
それに対して準松は実に満足気な様子で、「左様、左様ぞ…」と答えた。
「ともあれ、打てる手はすべて打っておきたい…、鶴松のためにな…」
準松は念押しするようにそう言った。それに対して源太郎は思わず、
「お前自身のためだろう」
内心、そうツッコミを入れたものだ。
「それに…、鷲巣家にしても…、とりわけ最前、名を挙げし、利兵衛、伊織にしてもそなたが娘御との縁談を望んでいるやも知れず…」
「益五郎の叔父たちが?」
「左様…」
「そはまた、一体何ゆえにて?」
「考えてもみよ、益五郎がそなたの…、横田分家の当主たるそなたの娘御の冬殿と結ばれれば、横田本家の当主たるこの身とも…、御側御用取次として畏れ多くも上様の御側近くに仕えしこの身とも縁戚になれるのだぞ?鷲巣家は…」
「されば、重好卿に仕えし利兵衛殿、伊織殿にしても鷲巣家の人間である以上、さしずめ、鷲巣家の安泰を願うて、冬との縁談を望むと?」
源太郎は皮肉な口調でそう問いかけたが、しかし、準松は額面通りに受け止めた。
「左様。それがまともな人間と申すものぞ…」
準松は自信満々な様子でそう断言してみせた。余程に御側御用取次の役目にある己を、さしずめ最強とでも思っているのであろう。自信過剰、自己過信もここまでくれば大したものである。
だが、こと利兵衛と|伊織《いおり」が甥の益五郎に対して、横田分家の当主である源太郎の娘の冬との縁談を望むに違いないとの、準松のその「予言」に限って言えば、決して準松の自信過剰でもなければ、自己過信でもなかった。
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