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将軍御直裁判
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大目付の景元(かげもと)が江戸城内にて、南町奉行の鳥居(とりい)耀蔵(ようぞう)と目付の榊原(さかきばら)忠職(ただもと)の二人に暴行を加えた件…、ボコボコにした件は直ちに日記掛の目付であり佐々木(ささき)三蔵(さんぞう)を通じて将軍・家慶(いえよし)の耳にまで届いた。目付は若年寄支配ながら、一々、若年寄を通さずに直接、将軍に対して意見具申に及ぶことができる。そして今日のように江戸城内にて旗本が何か事件を起こしたとなれば、日記掛の目付の出番であった。目付には様々な掛(かかり)があり、それぞれ業務を分掌(ぶんしょう)していた。その中で日記掛とは、殿中における日常を記録する掛(かかり)であった。但し、実際に日記を記録するのは目付部屋坊主であったが、しかし、今日のように旗本が事件を起こしたとなれば、幕府の警察執行部隊である目付が旗本を取り調べることになり、その時、日記掛の目付の出番であった。日記掛の目付は二人おり、うち一人が取り調べ担当、もう一人が記録担当と、ちょうど警察の取り調べのようなものであった。
だが今回、被害者の一人である忠職(ただもと)は日記掛の目付であったために、もう一人の日記掛の目付である佐々木(ささき)三蔵(さんぞう)が一人で取り調べと記録を担わなければならなかった。事件の当事者である被害者に取り調べをさせるわけにはゆかなかったからだが、それなら目付は他にもいるので、助けてやれば良いものを、目付の業務の分掌(ぶんしょう)は四角四面なまでに厳守されており、他の掛(かかり)の者が助けてやることは許されず、それゆえ、三蔵(さんぞう)が一人でこなさなければならなかった。
そして、日記掛の目付は…、即(すなわ)ち三蔵(さんぞう)は加害者である景元(かげもと)、及び、被害者である耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)を取り調べ、その内容を記録したならば、直ちに将軍に事件のあらましを伝える義務があった。
一方、家慶(いえよし)は三蔵(さんぞう)より事件のあらましを聞かされるや、
「遂にやりおったか…」
まずはそう思ったものである。景元(かげもと)が陰に陽(ひ)に、鳥居(とりい)耀蔵(ようぞう)よりいじめを受けているらしい…、そのことは既に、家慶(いえよし)も勘付いていた。それと言うのも、御側御用取次(おそばごようとりつぎ)の新見(しんみ)正路(まさみち)より、どうやら景元(かげもと)が耀蔵(ようぞう)からいじめを受けているらしいと、耳打ちされたことがあったからだ。
それに対して家慶(いえよし)は、耀蔵(ようぞう)を直に呼びつけては訓戒(くんかい)するわけでもなし、さて景元(かげもと)はどうするであろうかと、事態の行方を…、景元(かげもと)はどのようにしていじめに対処するであろうかと、それを見守っていたのだ。
「もしかしたら将軍たるこのわしに泣きつくやも知れぬ…」
家慶(いえよし)はそう思わぬでもなかった。その時こそ、家慶(いえよし)は直に耀蔵(ようぞう)を呼びつけて訓戒(くんかい)するつもりであったが、しかし、家慶(いえよし)としてはできれば景元(かげもと)にはその手は使って欲しくはなかった。あくまで景元(かげもと)自身の手で解決して欲しいと願っていた。
家慶(いえよし)のその願いが通じたのか、景元(かげもと)は家慶(いえよし)に泣きつくどころか、いじめの張本人たる耀蔵(ようぞう)を叩きのめし、のみならず、その「腰ぎんちゃく」として有名な忠職(ただもと)まで叩きのめしたというのだから、家慶(いえよし)は内心、快哉(かいさい)を叫(さけ)ばずにはいられなかった。
無論、将軍としては喜色を浮かべるわけにもゆかず、家慶(いえよし)は難しい顔をしたまま、
「して、遠山は刀を抜いたか?」
最も重要なポイントを尋ねた。殿中において抜刀(ばっとう)し、刃傷に及んだとなれば、どんなに家慶(いえよし)が景元(かげもと)に同情し、助けたいと思っていても、改易(かいえき)は免れない。
殿中において刃傷に及び、被害者が怪我程度で済めば、加害者は切腹までには至(いた)らずとも、改易(かいえき)は免れない。そして被害者が死ねば、加害者は「乱心」と認定され、詮議(せんぎ)はそこで打ち切られ、直ちに切腹が命じられる。これはかの有名な「忠臣蔵」以降、確立された江戸城内における「ルール」であり、如何(いか)に将軍と言えどもその「ルール」を掣肘(せいちゅう)することはできなかった。
だが三蔵(さんぞう)からの報(しら)せによると、幸いにも、景元(かげもと)は抜刀してはおらず、あくまで「拳」での…、それと「足」での、暴行に留まり、家慶(いえよし)は心底からホッとした。抜刀していないとなれば、将軍たる家慶(いえよし)の考えを差し挟(はさ)む余地があるからだ。
一方、三蔵(さんぞう)はそんな家慶(いえよし)の心中など知る由(よし)もなく、
「されば今ひとつ、遠山が二人に暴行を加えしは、殿中にあらず…」
事実のみ告げた。
「何と…、そはまことか?」
家慶(いえよし)は思わず聞き返した。
「まことでござりまする。されば遠山は主に玄関の外にて二人に…、鳥居(とりい)と榊原(さかきばら)に暴行を加えた由(よし)にて…」
三蔵(さんぞう)の話によると、景元(かげもと)は最初こそ町奉行専用の下部屋(しもべや)に入ろうとしていた耀蔵(ようぞう)を襲ったとのことであるが、その後で戦意喪失した耀蔵(ようぞう)を玄関の外へ引っ張って行き、そして外へ放り投げると、外で本格的に暴行を加え、そこへ景元(かげもと)を止めようと駆けつけた目付の忠職(ただもと)に対しても暴行を加え始めたとのことであり、それは加害者である景元(かげもと)、及び、被害者である耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)より、それぞれ得られた供述と、それに目撃者の証言などからも裏付けられたとのことであった。
「左様か…」
これなら景元(かげもと)を助けられるやも知れぬ…、そう確信した家慶(いえよし)は、
「されば将軍御直裁判を行う」
そう断を下した。将軍御直裁判とはその名のとおり、将軍が自ら裁くことであり、五代将軍綱吉による「越後騒動」などが有名であったが、しかし、今はもう絶えて久しかった。その将軍御直裁判をやろうと言うのである、誰もが驚いたものの、強い反対は出なかった。忠邦(ただくに)でさえ反対はしなかった。それと言うのも、管轄が跨(またが)っていたからだ。
どういうことかと言うと、加害者も被害者も共に旗本であるため、本来ならば旗本を支配する若年寄が裁判を行うべきところ…、所謂(いわゆる)、若年寄宅裁判になるべきところ、加害者である景元(かげもと)と被害者である耀蔵(ようぞう)は共に、今は老中支配の役職に就(つ)いていたために…、景元(かげもと)は大目付、耀蔵(ようぞう)は江戸町奉行と共に老中支配の役職であるために、老中が裁判を行うべきとも言えた…、所謂(いわゆる)、老中宅裁判であった。
しかし、もう一人の被害者の忠職(ただもと)が就(つ)いているポストは目付であり、これは若年寄支配であるので、忠職(ただもと)を老中宅裁判に引っ張り出すわけにはゆかなかった。管轄が跨(またが)っているとはつまりはそういう意味であった。
そこでこれを解決するには将軍直々による裁判、所謂(いわゆる)、将軍御直裁判しかなく、こうして中奥(なかおく)の御座之間(ござのま)にて将軍御直裁判が開廷した。
本城の中奥の御座之間(ござのま)において開廷されることとなった、久方ぶりの将軍御直裁判…、上段には裁判長たる将軍・家慶(いえよし)が着座し、下段には検事団とでも呼ぶべき老中、若年寄、寺社奉行、江戸町奉行、公事方勘定奉行がそれぞれ、上段に着座する将軍・家慶(いえよし)を真ん中に挟(はさ)んで、両側に居並び、そして、被告人の立場である景元(かげもと)はやはり彼ら検事団の真ん中に挟(はさ)まれる格好で、上段に着座する将軍・家慶(いえよし)と向かい合った。尚(なお)、被害者の南町奉行の鳥居(とりい)耀蔵(ようぞう)と目付の榊原(さかきばら)忠職(ただもと)は証人として、被告人である景元(かげもと)のすぐ横に控(ひか)えていた。本来ならば耀蔵(ようぞう)は江戸南町奉行として検事団の一員に加わるべきところ、被害者であるために検事団には加われず、目付の忠職(ただもと)はそもそも、目付の身分では検事団に加わる資格はなかった。
そして入側(いりがわ)…、廊下には従六位(じゅろくい)に相当する布衣(ほい)以上の諸役人が裁判の行方を注視(ちゅうし)していた。それと言うのも、家慶(いえよし)自身が久方ぶりの将軍御直裁判ということで、従六位(じゅろくい)に相当する布衣(ほい)以上の諸役人の傍聴を許したのであった。家慶(いえよし)は表向(おもてむき)役人、中奥(なかおく)役人の別なく傍聴を許したため、この世紀の裁判を見届けようと、傍聴希望者…、布衣(ほい)以上の諸役人が殺到し、そのため入側(いりがわ)に人が溢(あふ)れかえったために急遽(きゅうきょ)、制限しなければならなくなったほどである。
さてこうして午前10時過ぎに開廷した将軍御直裁判であるが、まずは検事団の手足とでも言うべき目付の佐々木(ささき)三蔵(さんぞう)の「冒頭陳述(ぼうとうちんじゅつ)」から始まった。三蔵(さんぞう)は耀蔵(ようぞう)や忠職(ただもと)とは反対側、景元(かげもと)の横に控(ひか)えており、吟味調書を読み上げ始めた。
「まったく…、殿中にて暴力を振るうなど、言語道断ぞっ!」
吟味調書の朗読が終わるなり、勝手掛老中の水野(みずの)忠邦(ただくに)がまずそう怒鳴ったかと思うと、「そうでござろう」と隣に座る老中首座の土井(どい)利位(としつら)に同意を求めた。利位(としつら)は老中首座として、勝手掛老中たる忠邦(ただくに)の上席にあったものの、実際には忠邦(ただくに)が己の「改革」を進めるに当たっての、「弾除(たまよ)け」として利位(としつら)を老中首座に祭り上げたのであり、利位(としつら)は忠邦(ただくに)の「ロボット」に過ぎず、それゆえ、忠邦(ただくに)の言葉には無条件にうなずいた。
忠邦(ただくに)は利位(としつら)の賛同に気を良くしたらしく、
「されば遠山は現職の大目付であるゆえ、相役(あいやく)にも連帯責任を取らせるべきであろう」
などと牽強(けんきょう)付会(ふかい)も良いところの論法を持ち出した。これには被害者としてこの場に陪席(ばいせき)していた耀蔵(ようぞう)も忠職(ただもと)もその通りと言わんばかりにうなずいた。
そこで、「あいや、暫(しばら)く」と若年寄の堀田(ほった)正衡(まさひら)が待ったをかけた。
「何だ?」
忠邦(ただくに)は不機嫌さを隠そうともせず、不躾(ぶしつけ)に尋ねた。
「されば遠山より事前に…、ことを起こす前に、御役御免隠居の願(ねがい)を預かっておりまする」
正衡(まさひら)はそう答えると、懐中より景元(かげもと)より預かったその御役御免隠居の願(ねがい)を取り出した。すると家慶(いえよし)は、「許す、これへ持て」と正衡(まさひら)に命じた。正衡(まさひら)は、「ははっ」と平伏(へいふく)してから立ち上がると、その景元(かげもと)より預かった御役御免隠居の願(ねがい)を携(たずさ)えて、下段から上段へと歩み寄り、そして上段の中ほどに着座する家慶(いえよし)の下まで歩み寄ると、そこで立ち止まり、腰をおとして膝立ちとなると恭(うやうや)しく手にしていたその願(ねがい)を家慶(いえよし)の差し出した。家慶(いえよし)は正衡(まさひら)よりその願(ねがい)を受け取ると、「さがって良い」と正衡(まさひら)に命じると同時に、願(ねがい)に目を通し始めた。
「なるほどのう…、確かにこれは紛(まぎ)れもなく、御役御免隠居の願(ねがい)なれば、されば大目付まで巻き込もうといたすのは如何(いかが)なものであろうかのう…」
家慶(いえよし)は下段に座る忠邦(ただくに)に諭(さと)すように言った。こうなるとさしもの忠邦(ただくに)も、「ははぁっ」と平伏(へいふく)し、大目付にまで連帯責任と称して罪を被(かぶ)せることは諦(あきら)めなければならなかった。
だが忠邦(ただくに)はその代わり、「さればせめて遠山家そのものを改易(かいえき)に処すべきでござりましょう」と将軍・家慶(いえよし)に対してそう意見具申に及ぶと、
「皆もそう思うであろう」
と他の幕閣(ばっかく)にも同意を求めた。するとそれに対してやはり正衡(まさひら)が、
「あいや、暫(しばら)く」
とまたしても待ったをかけたので、忠邦(ただくに)は露骨(ろこつ)に嫌な顔を見せ、一方、それとは対照的に家慶(いえよし)は期待を込(こ)めた顔付きで、「許す、申せ」と忠邦(ただくに)の代わりに指名した。
「ははっ、されば殿中における喧嘩(けんか)は両成敗(りょうせいばい)にて、遠山を改易(かいえき)に処すならば、鳥居(とりい)、榊原(さかきばら)の両名についても改易(かいえき)に処するが妥当かと思われまする」
正衡(まさひら)が家慶(いえよし)にそう意見具申に及ぶと、景元(かげもと)のすぐ横でそれを耳にした耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)の両名は当然ながら、「そんな馬鹿な」とでも言いたげな顔をし、忠邦(ただくに)がそんな二人に代わって、「そんな馬鹿なことがあってたまるかっ」と反対意見を述べた。
「されば佐々木が吟味調書を朗読いたした通り、遠山は一方的に鳥居(とりい)と榊原(さかきばら)に暴行を加えたのだ。その間、鳥居(とりい)と榊原(さかきばら)は無抵抗にて、されば喧嘩(けんか)にあらずして、喧嘩(けんか)両成敗(りょうせいばい)の原則が入り込む余地はどこにもあるまい」
忠邦(ただくに)は反対意見の理由を述べると、耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)も、その通りだと言わんばかりにうなずいた。
「ほう…、なれどまこと、鳥居(とりい)と榊原(さかきばら)の両名が一方的に遠山から…、遠山一人から暴行を加えられたのだとすると、些(いささ)か具合(ぐあい)が悪いことと相成(あいな)りましょうぞ」
「具合(ぐあい)が悪い、だと?」
「左様。されば仮に、遠山が抜刀し、鳥居(とりい)と榊原(さかきばら)に対して刃傷に及んだというのであれば、なるほど、これに対抗すべく鳥居(とりい)と榊原(さかきばら)までもが抜刀いたして、刀を抜き合わせれば、喧嘩(けんか)両成敗(りょうせいばい)と看做(みな)されて、遠山のみならず、鳥居(とりい)と榊原(さかきばら)までもが罰せられることと…、改易(かいえき)となるやも知れず、それゆえ、鳥居(とりい)も榊原(さかきばら)も御家大事と、それを恐れて刀を抜き合わせることなく逃げ回るのに終始した…、となればそれも致し方ないことでござりましょうが、なれど遠山は抜刀に及んだわけではなく、言わば拳にて襲いかかったのであり、さればそれに対して拳で応戦…、つまり拳を交(まじ)えしところで、喧嘩(けんか)両成敗(りょうせいばい)の原則が入り込む余地はどこにもなく、改易(かいえき)を恐れる必要はどこにもないわけでござりまして、されば鳥居(とりい)も榊原(さかきばら)も遠山同様、武人である以上、拳を交(まじ)えるべきでござった。にもかかわらず鳥居(とりい)も榊原(さかきばら)も遠山と拳を交(まじ)えるどころか、戦意喪失いたして、遠山一人からいいように暴行を…、一方的に殴る蹴るの暴行を受けるだけで、他の目付が遠山を取り押さえるまで些(いささ)かも抵抗を試みぬとは、これでは武人失格でござりましょう。これが百姓、町人であればいざ知らず、百姓、町人を守るべき立場の武人が二人も揃(そろ)いも揃(そろ)うて、たった一人から殴る蹴るの暴行を加えられながらも、一切の反撃(はんげき)を試みぬとは、これでは武人としてものの役にはたちもうさず、されば遠山を罰するというのであれば、鳥居(とりい)と榊原(さかきばら)も一切の抵抗を試みぬとは到底、武人の所業にあらずとして、同じく罰するべきでござりましょう」
正衡(まさひら)が滔々(とうとう)と語ってみせると…、景元(かげもと)を弁護してみせると、他の幕閣(ばっかく)も皆、うなずいたものである。なるほど、確かに忠邦(ただくに)は怖いが、しかし、それ以上に忠邦(ただくに)の腰ぎんちゃく…、実際には金魚の糞(ふん)に過ぎぬ分際で、何を勘違いしているのか御城でデカイ面(つら)をして闊歩(かっぽ)している耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)のことを嫌っており、それゆえ忠邦(ただくに)の目を恐れながらも、耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)の両名の嫌悪感の方が遥(はる)かに勝(まさ)り、正衡(まさひら)の弁論にうなずいた次第であった。これには忠邦(ただくに)も衝撃を受けた。
それはともかく、正衡(まさひら)の意見、もとい弁論には一理あった。耀蔵(ようぞう)も忠職(ただもと)も武人である以上、無法な行為に対しては抵抗する義務があるのだ。無論、相手が刀を振り回したために、自分も刀を振り回して応戦すれば、喧嘩(けんか)両成敗(りょうせいばい)に問われ、それゆえ刀を抜き合わせることがなかったとしても致し方ないが…、しかしその場合でも刀を抜かずに鞘(さや)で応戦する義務があった…、しかるに景元(かげもと)は刀を振り回したわけではなく、あくまで拳を振り回したに過ぎず、これに一切、抵抗を見せないとは…、つまりは拳を交(まじ)えないとは、これでは武人失格であった。純然たる暴行傷害の被害者に過ぎない、との論法は武人には通用しないのだ。
だが今回、被害者の一人である忠職(ただもと)は日記掛の目付であったために、もう一人の日記掛の目付である佐々木(ささき)三蔵(さんぞう)が一人で取り調べと記録を担わなければならなかった。事件の当事者である被害者に取り調べをさせるわけにはゆかなかったからだが、それなら目付は他にもいるので、助けてやれば良いものを、目付の業務の分掌(ぶんしょう)は四角四面なまでに厳守されており、他の掛(かかり)の者が助けてやることは許されず、それゆえ、三蔵(さんぞう)が一人でこなさなければならなかった。
そして、日記掛の目付は…、即(すなわ)ち三蔵(さんぞう)は加害者である景元(かげもと)、及び、被害者である耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)を取り調べ、その内容を記録したならば、直ちに将軍に事件のあらましを伝える義務があった。
一方、家慶(いえよし)は三蔵(さんぞう)より事件のあらましを聞かされるや、
「遂にやりおったか…」
まずはそう思ったものである。景元(かげもと)が陰に陽(ひ)に、鳥居(とりい)耀蔵(ようぞう)よりいじめを受けているらしい…、そのことは既に、家慶(いえよし)も勘付いていた。それと言うのも、御側御用取次(おそばごようとりつぎ)の新見(しんみ)正路(まさみち)より、どうやら景元(かげもと)が耀蔵(ようぞう)からいじめを受けているらしいと、耳打ちされたことがあったからだ。
それに対して家慶(いえよし)は、耀蔵(ようぞう)を直に呼びつけては訓戒(くんかい)するわけでもなし、さて景元(かげもと)はどうするであろうかと、事態の行方を…、景元(かげもと)はどのようにしていじめに対処するであろうかと、それを見守っていたのだ。
「もしかしたら将軍たるこのわしに泣きつくやも知れぬ…」
家慶(いえよし)はそう思わぬでもなかった。その時こそ、家慶(いえよし)は直に耀蔵(ようぞう)を呼びつけて訓戒(くんかい)するつもりであったが、しかし、家慶(いえよし)としてはできれば景元(かげもと)にはその手は使って欲しくはなかった。あくまで景元(かげもと)自身の手で解決して欲しいと願っていた。
家慶(いえよし)のその願いが通じたのか、景元(かげもと)は家慶(いえよし)に泣きつくどころか、いじめの張本人たる耀蔵(ようぞう)を叩きのめし、のみならず、その「腰ぎんちゃく」として有名な忠職(ただもと)まで叩きのめしたというのだから、家慶(いえよし)は内心、快哉(かいさい)を叫(さけ)ばずにはいられなかった。
無論、将軍としては喜色を浮かべるわけにもゆかず、家慶(いえよし)は難しい顔をしたまま、
「して、遠山は刀を抜いたか?」
最も重要なポイントを尋ねた。殿中において抜刀(ばっとう)し、刃傷に及んだとなれば、どんなに家慶(いえよし)が景元(かげもと)に同情し、助けたいと思っていても、改易(かいえき)は免れない。
殿中において刃傷に及び、被害者が怪我程度で済めば、加害者は切腹までには至(いた)らずとも、改易(かいえき)は免れない。そして被害者が死ねば、加害者は「乱心」と認定され、詮議(せんぎ)はそこで打ち切られ、直ちに切腹が命じられる。これはかの有名な「忠臣蔵」以降、確立された江戸城内における「ルール」であり、如何(いか)に将軍と言えどもその「ルール」を掣肘(せいちゅう)することはできなかった。
だが三蔵(さんぞう)からの報(しら)せによると、幸いにも、景元(かげもと)は抜刀してはおらず、あくまで「拳」での…、それと「足」での、暴行に留まり、家慶(いえよし)は心底からホッとした。抜刀していないとなれば、将軍たる家慶(いえよし)の考えを差し挟(はさ)む余地があるからだ。
一方、三蔵(さんぞう)はそんな家慶(いえよし)の心中など知る由(よし)もなく、
「されば今ひとつ、遠山が二人に暴行を加えしは、殿中にあらず…」
事実のみ告げた。
「何と…、そはまことか?」
家慶(いえよし)は思わず聞き返した。
「まことでござりまする。されば遠山は主に玄関の外にて二人に…、鳥居(とりい)と榊原(さかきばら)に暴行を加えた由(よし)にて…」
三蔵(さんぞう)の話によると、景元(かげもと)は最初こそ町奉行専用の下部屋(しもべや)に入ろうとしていた耀蔵(ようぞう)を襲ったとのことであるが、その後で戦意喪失した耀蔵(ようぞう)を玄関の外へ引っ張って行き、そして外へ放り投げると、外で本格的に暴行を加え、そこへ景元(かげもと)を止めようと駆けつけた目付の忠職(ただもと)に対しても暴行を加え始めたとのことであり、それは加害者である景元(かげもと)、及び、被害者である耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)より、それぞれ得られた供述と、それに目撃者の証言などからも裏付けられたとのことであった。
「左様か…」
これなら景元(かげもと)を助けられるやも知れぬ…、そう確信した家慶(いえよし)は、
「されば将軍御直裁判を行う」
そう断を下した。将軍御直裁判とはその名のとおり、将軍が自ら裁くことであり、五代将軍綱吉による「越後騒動」などが有名であったが、しかし、今はもう絶えて久しかった。その将軍御直裁判をやろうと言うのである、誰もが驚いたものの、強い反対は出なかった。忠邦(ただくに)でさえ反対はしなかった。それと言うのも、管轄が跨(またが)っていたからだ。
どういうことかと言うと、加害者も被害者も共に旗本であるため、本来ならば旗本を支配する若年寄が裁判を行うべきところ…、所謂(いわゆる)、若年寄宅裁判になるべきところ、加害者である景元(かげもと)と被害者である耀蔵(ようぞう)は共に、今は老中支配の役職に就(つ)いていたために…、景元(かげもと)は大目付、耀蔵(ようぞう)は江戸町奉行と共に老中支配の役職であるために、老中が裁判を行うべきとも言えた…、所謂(いわゆる)、老中宅裁判であった。
しかし、もう一人の被害者の忠職(ただもと)が就(つ)いているポストは目付であり、これは若年寄支配であるので、忠職(ただもと)を老中宅裁判に引っ張り出すわけにはゆかなかった。管轄が跨(またが)っているとはつまりはそういう意味であった。
そこでこれを解決するには将軍直々による裁判、所謂(いわゆる)、将軍御直裁判しかなく、こうして中奥(なかおく)の御座之間(ござのま)にて将軍御直裁判が開廷した。
本城の中奥の御座之間(ござのま)において開廷されることとなった、久方ぶりの将軍御直裁判…、上段には裁判長たる将軍・家慶(いえよし)が着座し、下段には検事団とでも呼ぶべき老中、若年寄、寺社奉行、江戸町奉行、公事方勘定奉行がそれぞれ、上段に着座する将軍・家慶(いえよし)を真ん中に挟(はさ)んで、両側に居並び、そして、被告人の立場である景元(かげもと)はやはり彼ら検事団の真ん中に挟(はさ)まれる格好で、上段に着座する将軍・家慶(いえよし)と向かい合った。尚(なお)、被害者の南町奉行の鳥居(とりい)耀蔵(ようぞう)と目付の榊原(さかきばら)忠職(ただもと)は証人として、被告人である景元(かげもと)のすぐ横に控(ひか)えていた。本来ならば耀蔵(ようぞう)は江戸南町奉行として検事団の一員に加わるべきところ、被害者であるために検事団には加われず、目付の忠職(ただもと)はそもそも、目付の身分では検事団に加わる資格はなかった。
そして入側(いりがわ)…、廊下には従六位(じゅろくい)に相当する布衣(ほい)以上の諸役人が裁判の行方を注視(ちゅうし)していた。それと言うのも、家慶(いえよし)自身が久方ぶりの将軍御直裁判ということで、従六位(じゅろくい)に相当する布衣(ほい)以上の諸役人の傍聴を許したのであった。家慶(いえよし)は表向(おもてむき)役人、中奥(なかおく)役人の別なく傍聴を許したため、この世紀の裁判を見届けようと、傍聴希望者…、布衣(ほい)以上の諸役人が殺到し、そのため入側(いりがわ)に人が溢(あふ)れかえったために急遽(きゅうきょ)、制限しなければならなくなったほどである。
さてこうして午前10時過ぎに開廷した将軍御直裁判であるが、まずは検事団の手足とでも言うべき目付の佐々木(ささき)三蔵(さんぞう)の「冒頭陳述(ぼうとうちんじゅつ)」から始まった。三蔵(さんぞう)は耀蔵(ようぞう)や忠職(ただもと)とは反対側、景元(かげもと)の横に控(ひか)えており、吟味調書を読み上げ始めた。
「まったく…、殿中にて暴力を振るうなど、言語道断ぞっ!」
吟味調書の朗読が終わるなり、勝手掛老中の水野(みずの)忠邦(ただくに)がまずそう怒鳴ったかと思うと、「そうでござろう」と隣に座る老中首座の土井(どい)利位(としつら)に同意を求めた。利位(としつら)は老中首座として、勝手掛老中たる忠邦(ただくに)の上席にあったものの、実際には忠邦(ただくに)が己の「改革」を進めるに当たっての、「弾除(たまよ)け」として利位(としつら)を老中首座に祭り上げたのであり、利位(としつら)は忠邦(ただくに)の「ロボット」に過ぎず、それゆえ、忠邦(ただくに)の言葉には無条件にうなずいた。
忠邦(ただくに)は利位(としつら)の賛同に気を良くしたらしく、
「されば遠山は現職の大目付であるゆえ、相役(あいやく)にも連帯責任を取らせるべきであろう」
などと牽強(けんきょう)付会(ふかい)も良いところの論法を持ち出した。これには被害者としてこの場に陪席(ばいせき)していた耀蔵(ようぞう)も忠職(ただもと)もその通りと言わんばかりにうなずいた。
そこで、「あいや、暫(しばら)く」と若年寄の堀田(ほった)正衡(まさひら)が待ったをかけた。
「何だ?」
忠邦(ただくに)は不機嫌さを隠そうともせず、不躾(ぶしつけ)に尋ねた。
「されば遠山より事前に…、ことを起こす前に、御役御免隠居の願(ねがい)を預かっておりまする」
正衡(まさひら)はそう答えると、懐中より景元(かげもと)より預かったその御役御免隠居の願(ねがい)を取り出した。すると家慶(いえよし)は、「許す、これへ持て」と正衡(まさひら)に命じた。正衡(まさひら)は、「ははっ」と平伏(へいふく)してから立ち上がると、その景元(かげもと)より預かった御役御免隠居の願(ねがい)を携(たずさ)えて、下段から上段へと歩み寄り、そして上段の中ほどに着座する家慶(いえよし)の下まで歩み寄ると、そこで立ち止まり、腰をおとして膝立ちとなると恭(うやうや)しく手にしていたその願(ねがい)を家慶(いえよし)の差し出した。家慶(いえよし)は正衡(まさひら)よりその願(ねがい)を受け取ると、「さがって良い」と正衡(まさひら)に命じると同時に、願(ねがい)に目を通し始めた。
「なるほどのう…、確かにこれは紛(まぎ)れもなく、御役御免隠居の願(ねがい)なれば、されば大目付まで巻き込もうといたすのは如何(いかが)なものであろうかのう…」
家慶(いえよし)は下段に座る忠邦(ただくに)に諭(さと)すように言った。こうなるとさしもの忠邦(ただくに)も、「ははぁっ」と平伏(へいふく)し、大目付にまで連帯責任と称して罪を被(かぶ)せることは諦(あきら)めなければならなかった。
だが忠邦(ただくに)はその代わり、「さればせめて遠山家そのものを改易(かいえき)に処すべきでござりましょう」と将軍・家慶(いえよし)に対してそう意見具申に及ぶと、
「皆もそう思うであろう」
と他の幕閣(ばっかく)にも同意を求めた。するとそれに対してやはり正衡(まさひら)が、
「あいや、暫(しばら)く」
とまたしても待ったをかけたので、忠邦(ただくに)は露骨(ろこつ)に嫌な顔を見せ、一方、それとは対照的に家慶(いえよし)は期待を込(こ)めた顔付きで、「許す、申せ」と忠邦(ただくに)の代わりに指名した。
「ははっ、されば殿中における喧嘩(けんか)は両成敗(りょうせいばい)にて、遠山を改易(かいえき)に処すならば、鳥居(とりい)、榊原(さかきばら)の両名についても改易(かいえき)に処するが妥当かと思われまする」
正衡(まさひら)が家慶(いえよし)にそう意見具申に及ぶと、景元(かげもと)のすぐ横でそれを耳にした耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)の両名は当然ながら、「そんな馬鹿な」とでも言いたげな顔をし、忠邦(ただくに)がそんな二人に代わって、「そんな馬鹿なことがあってたまるかっ」と反対意見を述べた。
「されば佐々木が吟味調書を朗読いたした通り、遠山は一方的に鳥居(とりい)と榊原(さかきばら)に暴行を加えたのだ。その間、鳥居(とりい)と榊原(さかきばら)は無抵抗にて、されば喧嘩(けんか)にあらずして、喧嘩(けんか)両成敗(りょうせいばい)の原則が入り込む余地はどこにもあるまい」
忠邦(ただくに)は反対意見の理由を述べると、耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)も、その通りだと言わんばかりにうなずいた。
「ほう…、なれどまこと、鳥居(とりい)と榊原(さかきばら)の両名が一方的に遠山から…、遠山一人から暴行を加えられたのだとすると、些(いささ)か具合(ぐあい)が悪いことと相成(あいな)りましょうぞ」
「具合(ぐあい)が悪い、だと?」
「左様。されば仮に、遠山が抜刀し、鳥居(とりい)と榊原(さかきばら)に対して刃傷に及んだというのであれば、なるほど、これに対抗すべく鳥居(とりい)と榊原(さかきばら)までもが抜刀いたして、刀を抜き合わせれば、喧嘩(けんか)両成敗(りょうせいばい)と看做(みな)されて、遠山のみならず、鳥居(とりい)と榊原(さかきばら)までもが罰せられることと…、改易(かいえき)となるやも知れず、それゆえ、鳥居(とりい)も榊原(さかきばら)も御家大事と、それを恐れて刀を抜き合わせることなく逃げ回るのに終始した…、となればそれも致し方ないことでござりましょうが、なれど遠山は抜刀に及んだわけではなく、言わば拳にて襲いかかったのであり、さればそれに対して拳で応戦…、つまり拳を交(まじ)えしところで、喧嘩(けんか)両成敗(りょうせいばい)の原則が入り込む余地はどこにもなく、改易(かいえき)を恐れる必要はどこにもないわけでござりまして、されば鳥居(とりい)も榊原(さかきばら)も遠山同様、武人である以上、拳を交(まじ)えるべきでござった。にもかかわらず鳥居(とりい)も榊原(さかきばら)も遠山と拳を交(まじ)えるどころか、戦意喪失いたして、遠山一人からいいように暴行を…、一方的に殴る蹴るの暴行を受けるだけで、他の目付が遠山を取り押さえるまで些(いささ)かも抵抗を試みぬとは、これでは武人失格でござりましょう。これが百姓、町人であればいざ知らず、百姓、町人を守るべき立場の武人が二人も揃(そろ)いも揃(そろ)うて、たった一人から殴る蹴るの暴行を加えられながらも、一切の反撃(はんげき)を試みぬとは、これでは武人としてものの役にはたちもうさず、されば遠山を罰するというのであれば、鳥居(とりい)と榊原(さかきばら)も一切の抵抗を試みぬとは到底、武人の所業にあらずとして、同じく罰するべきでござりましょう」
正衡(まさひら)が滔々(とうとう)と語ってみせると…、景元(かげもと)を弁護してみせると、他の幕閣(ばっかく)も皆、うなずいたものである。なるほど、確かに忠邦(ただくに)は怖いが、しかし、それ以上に忠邦(ただくに)の腰ぎんちゃく…、実際には金魚の糞(ふん)に過ぎぬ分際で、何を勘違いしているのか御城でデカイ面(つら)をして闊歩(かっぽ)している耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)のことを嫌っており、それゆえ忠邦(ただくに)の目を恐れながらも、耀蔵(ようぞう)と忠職(ただもと)の両名の嫌悪感の方が遥(はる)かに勝(まさ)り、正衡(まさひら)の弁論にうなずいた次第であった。これには忠邦(ただくに)も衝撃を受けた。
それはともかく、正衡(まさひら)の意見、もとい弁論には一理あった。耀蔵(ようぞう)も忠職(ただもと)も武人である以上、無法な行為に対しては抵抗する義務があるのだ。無論、相手が刀を振り回したために、自分も刀を振り回して応戦すれば、喧嘩(けんか)両成敗(りょうせいばい)に問われ、それゆえ刀を抜き合わせることがなかったとしても致し方ないが…、しかしその場合でも刀を抜かずに鞘(さや)で応戦する義務があった…、しかるに景元(かげもと)は刀を振り回したわけではなく、あくまで拳を振り回したに過ぎず、これに一切、抵抗を見せないとは…、つまりは拳を交(まじ)えないとは、これでは武人失格であった。純然たる暴行傷害の被害者に過ぎない、との論法は武人には通用しないのだ。
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