相棒 ~彫物兄弟~

ご隠居

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左遷

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 天保14年2月24日、午前10時過ぎ、江戸城本丸御殿、中奥(なかおく)にある御座之間(ござのま)において、ある一人の男の人事が発令された。

「遠山(とおやま)左衛門尉(さえもんのじょう)景元(かげもと)、大目付に任ずる」

 第12代将軍・徳川(とくがわ)家慶(いえよし)の声が響いた。景元(かげもと)は北町奉行であり、大目付への転任は栄転であった。家慶(いえよし)は恒例行事とも言える吹上(ふきあげ)御庭(おにわ)で行われる公事(くじ)上聴(じょうちょう)…、将軍の御前にてある事件につき、寺社奉行、南北両町奉行、公事方勘定奉行に裁かせる、いわば将軍の裁判見学の折、家慶(いえよし)はとりわけ景元(かげもと)の名裁きぶりにいたく感服し、見学後、やはり恒例行事である、奉行らに時服(じふく)を与えた後で、景元(かげもと)だけ特別に召しだし、その名裁きぶりを褒めたのであった。これは極めて異例のことで、且(か)つ、大変名誉なことであった。それだけ家慶(いえよし)は景元(かげもと)のことを買っていたのだ。

 その景元(かげもと)の昇進人事の発令だけに、普通なら声が弾(はず)むべきところであったが、しかし、案に相違して家慶(いえよし)の声は弾(はず)むどころか、沈(しず)んでおり、微量の同情さえ含んでいた。

 現に家慶(いえよし)はこの人事にいたく同情しており、それは家慶(いえよし)のみならず、この場に…、御座之間(ござのま)にいるすべての者…、老中や若年寄、御側御用人(おそばごようにん)や御側御用取次(おそばごようとりつぎ)らにしてもこの人事にいたく同情を寄せており、平伏(へいふく)したままの景元(かげもと)に代わって、

「結構、仰(おお)せ付けられ、ありがたき旨(むね)」

 そうお礼を言上(ごんじょう)した月番老中の眞田(さなだ)信濃守(しなののかみ)幸貫(ゆきつら)にしても同情心から声が沈んでいた。

 そんな中で唯一、勝手掛老中の水野(みずの)越前守(えちぜんのかみ)忠邦(ただくに)のみ、この人事にいたく満足しており、実際、口元が緩(ゆる)んでいた。将軍の御前であるので笑みを浮かべるわけにはゆかなかったが、しかし、笑みを堪(こら)えるのに苦心した。何しろ忠邦(ただくに)こそ、この人事を強行した張本人だからだ。

 話はこれより3ヶ月前に遡(さかのぼ)る。かねて、老中・水野(みずの)忠邦(ただくに)の「改革」に反対、とまではゆかずとも、面従(めんじゅう)腹背(ふくはい)の態度を取り続けていた北町奉行・遠山(とおやま)景元(かげもと)の処遇につき、とうの忠邦(ただくに)が南町奉行の鳥居(とりい)耀蔵(ようぞう)にその相談を持ちかけたのであった。忠邦(ただくに)が耀蔵(ようぞう)に相談を持ちかけたのは至極(しごく)、当然の成り行きといえた。それというのも耀蔵(ようぞう)は相役(あいやく)に当たる景元(かげもと)のことを激しく敵視しており…、それは多分に嫉妬心からであり、江戸の町人どもの評判の良い景元(かげもと)のことを耀蔵(ようぞう)は嫉妬(しっと)しており、忠邦(ただくに)もそのことを承知していればこそ、耀蔵(ようぞう)に相談を持ちかけたのであった。

 案の定、耀蔵(ようぞう)は嬉々(きき)として忠邦(ただくに)の相談に乗った。

「されば、矢部と同じく罪を着せてその職を解かれては如何(いかが)でござりましょうや?」

 耀蔵(ようぞう)はそう進言した。如何(いか)にも耀蔵(ようぞう)らしい進言と言えたが、しかし、忠邦(ただくに)はその進言は却下(きゃっか)した。別に景元(かげもと)に遠慮したわけではなく、ましてや罪悪感からでも勿論なかった。

「遠山は矢部とは違い、上様の覚えがめでたい。その遠山を罪に堕(お)とすのはちと、無理があるというものぞ」

 それこそが却下した理由であった。

 ところで矢部というのは元南町奉行の矢部(やべ)駿河守(するがのかみ)定謙(さだのり)のことである。この定謙(さだのり)もまた景元(かげもと)と同様、いや、それ以上に忠邦(ただくに)の推し進める「改革」に強行に反対し…、それは景元(かげもと)から見ても過激に思えたほどである…、やはり景元(かげもと)と同様、忠邦(ただくに)の不興を買ったクチであり、当時、目付であり、江戸町奉行の座を虎視(こし)眈々(たんたん)と狙っていた耀蔵(ようぞう)にこの時もまた、忠邦(ただくに)は定謙(さだのり)の「処分」を相談したのであったが、この時は忠邦(ただくに)の方から耀蔵(ようぞう)に対して積極的に定謙(さだのり)を罪に堕(お)とすことを持ちかけたのであった。この手の、人を罪に堕(お)とすことは耀蔵(ようぞう)の得意中の得意とするところであり、所謂(いわゆる)、

「十八番(おはこ)」

 であった。耀蔵(ようぞう)は忠邦(ただくに)の期待に良く応(こた)え、結果、定謙(さだのり)をでっちあげの罪に堕(お)とすことに成功、定謙(さだのり)は町奉行職を解かれたのみならず、その知行を召し上げられた上、桑名藩にお預けの身となり、定謙(さだのり)は抗議の意思から絶食し、遂に去年、無念の死を遂げた。

 一方、当時は目付であった耀蔵(ようぞう)はご褒美の意味から定謙(さだのり)に代わって南町奉行のポストを射止めたのである。

 そのような経緯があったので、耀蔵(ようぞう)が今回も景元(かげもと)を何か適当に罪をでっち上げて、と考えたのも至極(しごく)、当然の成り行きであったが、しかし、今回は忠邦(ただくに)はうなずかなかった。

 それはひとえに、将軍・家慶(いえよし)が景元(かげもと)のことを買っており、それこそが、忠邦(ただくに)に対して景元(かげもと)を罪に堕(お)とすことを躊躇(ためら)わせた最大の理由であった。

 定謙(さだのり)もやはり、景元(かげもと)と同様、名奉行の誉(ほま)れが高かったものの、それでも惜しいことに将軍・家慶(いえよし)からそれほど買われていたわけではなかった。無論、町奉行としての定謙(さだのり)の仕事ぶりについては家慶(いえよし)も認めるところであったが、しかし、定謙(さだのり)はその余りの私曲(しきょく)のなさが嵩(こう)じて、例え相手が将軍であろうとも、間違っていることは間違っていると、はっきりと口にするために、はっきり言って家慶(いえよし)からあくまで少々に過ぎないものの、それでも疎(うと)まれており、だからこそ忠邦(ただくに)も遠慮なく定謙(さだのり)のことを罪に堕(お)とすことが出来たのであった。それが証拠に家慶(いえよし)は将軍として、評定所において決まった定謙(さだのり)の処分の最終決裁権者であり、その処分内容が将軍たる己の元に上げられた時、家慶(いえよし)も内心では、

「これは…、冤罪(えんざい)やも知れぬ…」

 内心では薄々(うすうす)、勘付いていたものの、その時は定謙(さだのり)を疎(うと)む気持ちの方が優(まさ)ってしまい、結果、処分を決済してしまったのである…、この時の判断を家慶(いえよし)は時が経つにつれて後悔しており、お預け先の桑名にて定謙(さだのり)死去の知らせが届いて以降、さらに後悔の念が深くなったことはさしもの忠邦(ただくに)も知らないことであった…。

 その点、景元(かげもと)は名奉行でありながらも、世渡り上手なところがあり…、だからこそ定謙(さだのり)と違って、忠邦(ただくに)の推し進める「改革」に対して表立って批判することはせず、あくまで穏やかに面従(めんじゅう)腹背(ふくはい)の態度を取るという「大人の対応」が出来たのであった…、それゆえ家慶(いえよし)からも可愛がられ、その町奉行としての仕事ぶりについて何度もお褒めの言葉を預かったのである。この点が定謙(さだのり)と景元(かげもと)の違いであり、そして最大の違いであった。

 だが忠邦(ただくに)の推し進める「改革」に対して、景元(かげもと)ですら眉(まゆ)を顰(ひそ)めるほどに反対していた定謙(さだのり)がいた時分(じぶん)には、景元(かげもと)の面従(めんじゅう)腹背(ふくはい)ぶりもそれほど、忠邦(ただくに)の鼻につくことはなく…、それどころか定謙(さだのり)のあまりに過激な「猛反対」ぶりの前には消えがちであった…、しかし、その定謙(さだのり)に代わって、忠邦(ただくに)の推し進める「改革」に盲目的に賛成する…、盲信(もうしん)してやまない耀蔵(ようぞう)が南町奉行に就(つ)くや、今まで目立つことのなかった景元(かげもと)のその、忠邦(ただくに)の推し進める「改革」に対する面従(めんじゅう)腹背(ふくはい)ぶりが忠邦(ただくに)の鼻につくようになってきて、今度は景元(かげもと)が「処分」の「ターゲット」になったわけである。

 しかし、景元(かげもと)には定謙(さだのり)が持ち合わせていなかった、「将軍からのお褒めの言葉」という唯一(ゆいいつ)にして最大の武器を所持していたのであった。

 将軍からのお褒めの言葉というものは将軍のお墨付きと同程度の効力があり、その将軍からのお褒めの言葉を預かった者が余程(よほど)の失態か、あるいは罪でも犯(おか)さない限りは、その者を処罰することはその者を褒め称えた将軍、ひいては将軍の権威をも傷付けることにもなりかねず、それゆえ将軍からお褒めの言葉を預かった者を処罰することは厳に慎(つつし)まねばならなかった。

 今ここで景元(かげもと)を罪に堕(お)とすようなことをすれば将軍・家慶(いえよし)の権威を傷付けることになりかねず、忠邦(ただくに)もさすがにそれは躊躇(ちゅうちょ)せざるを得なかった。下手に景元(かげもと)を罪に堕(お)とそうとして、家慶(いえよし)に、「冤罪(えんざい)なのではあるまいか」といった疑念でも持たれたら最後、こちらの首が危うくなるリスクも充分に予想された。

 そこで忠邦(ただくに)は穏便(おんびん)に景元(かげもと)の「処分」するよう、耀蔵(ようぞう)に持ちかけたのであった。

 耀蔵(ようぞう)は暫(しば)し、考え込んだ末、漸(ようや)く導き出した答えこそが、

「されば大目付へ、棚上(たなあ)げされましては如何(いかが)でござりましょうや」

 というものであった。
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