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遂に意知を嵌めるべく1万枚もの偽札が完成する

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 サカシタはアパートに帰宅後、娘のキオイの笑顔に出迎えられた。救われたと言っても良いかも知れない。

「お帰りなさい。今日は遅かったね」

「ああ…」

 まさか財務大臣秘書官より偽札造りのオファーを受けていたからとも言えず、適当にそうごまかした。

「お風呂、もう一度、沸かす?」

 キオイよりそう問われたサカシタは先に夕飯にすると答え、するとキオイはすぐに夕飯のカレーを用意してくれた。

「美味いな…」

 サカシタはカレーを口に運びながらついそんな感想が口をついて出た。決して世辞ではなく、実際、そう思ったからだ。

「段々、母さんの味に似てきたな…」

 これもまた世辞ではなかった。サカシタは妻に先立たれてから3年が過ぎようとしていた。その間、家事はずっと娘のキオイに任せっきりであった。キオイにも紡績工場での仕事があると言うのに、である。

 おかげでキオイは恋愛も出来ずにいた。それがサカシタには申し訳なく感じられた。

 好きな男はいないのか…、サカシタは思わずそう尋ねようとし、しかしいざ尋ねる段になると急に気後れし、言葉を呑み込んでいた。

 いつもより少し遅めの夕食を摂り終えたサカシタは娘のキオイが食器の後片付けをしている間、ソファに座りながら風呂の湯が沸くのを待ち、そして湯が沸きあがると風呂に入った。

 湯に浸かりながらサカシタは今夜のことを思い出していた。アソー財務大臣秘書官のコーノより主計局長の意知を嵌めるためと称して偽札造りを命じられたことを、である。

 サカシタはそのことに思いを馳せつつ、風呂から出ると、そのことを克明に日記に書き留めたのであった。

 その頃、アソー邸ではコーノが屋敷の主であるアソーに対して今夜の報告をしていた。すなわち、意知を嵌めるための偽札造り、それに対する職人たちの反応をであった。

「それじゃあ、席を蹴ったのはサカシタだけなんだな?」

 アソーはコーノより報告を聞き終えるなり、念押しするようにそう尋ねた。

「はい」

「口を封じておかにゃならんな…」

 アソーは恐ろしいことをサラリと言ってのけた。

 それに対してコーノ秘書官は意外にも、「それはいかがなものかと…」と制したのであった。

「なぜだ?ここまで話を…、秘事を聞いておきながら席を蹴ったんだ。サカシタの口から秘事が漏れたらどうするつもりだ?」

 アソーの疑問はもっともであった。財務省のやはり官房傘下の警務隊ならばともかく、警察にでも駆け込まれればアソーとしてはいかんともし難かった。

「確かに…、ですがその恐れはないものかと…」

「なぜだ?なぜそう言い切れる?」

「それはサカシタが仲間思いの職人だから…、それに尽きます」

「どういう意味だ?」

「サカシタは10人の、いや、造幣局内の古株、もっと言えばボス的な存在です」

「それで?」

「そのサカシタは金貨造り職人としてのプライドが非常に高く…、だからこそ贋金造りを断ったわけですが…、しかし同時にその手の昔気質の人間によく見られるように、サカシタは今も申し上げました通り非常に仲間思いの男だそうで、そのような男が仲間を売るような、そんな真似をするとも思えません…」

「警務隊は勿論のこと、警察に駆け込むこともしねぇと?仮にそんなことをすりゃ、てめぇ以外の仲間の職人たちは贋金造りの話に乗ったことをぶちまけるのも同然だから、か?」

「そういうことです。それに実利の面からも今、口を封じるのは得策ではないかと…」

「実利の面からも、だと?」

「ええ」

「それはまた、いってぇどういう意味だ?」

「今、サカシタの口を封じてしまえば他の…、我々の話に素直に応じてくれた職人に対して悪影響を…、具体的には俺たちも用済みとなればサカシタと同じ運命を…、口封じされるのではないかと、その恐怖心を植え付けてしまうことにもなりかねません…」

「なるほど…、実際、勿論そうするつもりだが、今はまだ早いというわけだな?」

「そういうことです。それと9人のうちの1人、サクラダという職人がいるのですが、そのサクラダに説得を頼みました」

「サカシタの説得を、か?考え直してくれねぇか、ってか?」

「そうです」

「果たしてサカシタが心変わりするものか…」

「別に心変わりは期待しておりません。いえ、実際、心変わりしてくれたならばそれに越したことはありませんが…、しかしそのような事情がありますので、やはり口封じは少なくとも今の段階では早計かと…」

「なるほど…、今はサカシタを泳がせておいた方が、他の…、サクラダを始めとする話に乗ってくれた9人の職人たちに安心感を与えることになるから、だな?口封じをされることはないだろう、と…」

 アソーが確かめるように尋ねると、コーノは頷いた。

 翌日、サクラダはコーノに頼まれた通り、昼休みを利用してサカシタを説得した。

 だが案の定と言うべきか説得は不調に終わった。

 それどころか逆にサカシタから諭される始末であった。

「仮にだ、お前たちがそうしてアソーやコーノが望む通り、偽札を造ったところで、そうなればもうお前たちは用済みだ…、アソーやコーノは必ずやそう考えてお前たちの口を封じようとするだろう。それは考えなんだか?」

 サカシタからそう問われたサクラダは絶句した。いかにもその通りだからだ。

 サクラダは急に恐ろしくなった。するとサカシタはそんなサクラダの胸中を見透かしたらしく、

「今からでも遅くはない。そんな話は断ってしまえ…」

 そう諭したのであった。

 果たしてその日の夜もコーノは造幣局内に姿を見せた。今夜から本格的に偽札造りに従事してもらうためである。

 だがサクラダはコーノに対してサカシタより指摘されたことを、つまりは偽札造りを終えたならば我々の口を封じるつもりではないのかと、その疑問をぶつけたのであった。8人の職人たちはざわめいた。確かにその通りだと、8人の職人たちにしてもサクラダがそうであったように、その可能性に気付き、恐ろしくなったからだ。

 もっともコーノはその質問を予期していたかのように、いや、それどころか歓迎さえしていた様子で一笑に付したのであった。

「それならまず初めにサカシタの口を封じていただろう。良いか?俺が…、アソー大臣や俺が本気で口封じを考えているなら、まず初めにサカシタの口を封じていただろう。何しろサカシタはあそこまで俺の話を聞きながら席を蹴ったのだからな。にもかかわらずどうだ?サカシタの死体でも上がったか?そうではあるまい。今でもサカシタはピンピンしていただろう。それが何よりの証拠だろう…、アソー大臣や俺が決して口封じなど考えていない…」

 コーノはあらかじめ用意しておいた答えをスラスラと述べてみせた。するとサクラダを始めとする9人の職人たちはすっかりコーノのそのあらかじめ用意されていた口上を信じた様子で、

「確かにその通りだ…」

 サクラダたちは口々にそう言い合うと、改めて偽札造りへの協力を誓ったものであり、その日から終業後を利用して、コーノ秘書官の監督下、サクラダたち9人の職人たちは意知を嵌めるべく偽札造りを始めたのであった。

 そして1週間後、遂に意知を嵌めるべく偽札が完成した。それも1万枚もである。これだけの枚数ならば意知を偽札造りの首魁とするに十分な枚数であろう。
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