天明奇聞 ~たとえば意知が死ななかったら~

ご隠居

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相良城築城の「代償」 ~一橋治済は本多忠可を嗾け、松平定邦に田安家に挨拶するより先に田沼意次に「お礼」の挨拶をすることを勧めさせる~

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 6月にはいり、白河藩主しらかわはんしゅ松平まつだいら越中守えっちゅうのかみ定邦さだくにが25日にも参観さんかん将軍しょうぐん家治いえはる挨拶あいさつする|予定よていであると、一橋ひとつばし治済はるさだ御側御用取次おそばごようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきらよりそのむねかされた。

 そこで治済はるさだ早速さっそく、それも家老かろう設樂したら貞好さだよし御城えどじょうへと登城とじょうして一橋ひとつばし上屋敷かみやしきけている日中にっちゅうねらい、一橋ひとつばし御門ごもんへとあしけた。

 一橋ひとつばし御門ごもん警衛けいえいたる所謂いわゆる門番もんばんには2万石まんごく以下いか譜代大名ふだいだいみょうにんじられるのが仕来しきたりであり、安永2(1773)年6月初旬しょじゅんいま宍粟しそうぐん山﨑藩やまざきはん1万石まんごくりょうする本多ほんだ肥後守ひごのかみ忠可ただよしがその一橋御門番ひとつばしごもんばんつとめていた。

 それゆえ日中にっちゅう藩主はんしゅ本多ほんだ忠可ただよし|
門番所《もんばんしょ》にめていた。

 そこへ治済はるさだたずね、本多ほんだ忠可ただよし面会めんかいおよんだ。

 この本多ほんだ忠可ただよしもまた、治済はるさだの「共犯者きょうはんしゃ」と言えた。

 本多ほんだ忠可ただよし田沼たぬま意次おきつぐもとより、九代くだい将軍しょうぐん家重いえしげをもうらんでいたのだ。

 それはの、郡上騒動ぐじょうそうどう由来ゆらいする。

 郡上騒動ぐじょうそうどうでは当時とうじ郡上藩ぐじょうはん金森家かなもりけ改易かいえきとなったが、もう一家いっけ改易かいえきになった御家おいえがあり、それは相良藩本多家さがらはんほんだけであった。

 当時とうじ相良さがら藩主はんしゅであった本多ほんだ長門守ながとのかみ忠央ただなか郡上騒動ぐじょうそうどう連座れんざし、改易かいえきとなった。

 本多ほんだ忠央ただなか場合ばあい、その直前ちょくぜんまで西之丸にしのまる若年寄わかどしよりつとめていた。

 つまりは当時とうじ次期じき将軍しょうぐんであった家治いえはる若年寄わかどしよりとしてつかえていたのだ。

 これでかり郡上騒動ぐじょうそうどうがなくば、正確せいかくにはその不正ふせい発覚はっかくしなければ、本多ほんだ忠央ただなか間違まちがいなく本丸ほんまる若年寄わかどしよりへと異動いどう横滑よこすべりをたしていたことであろう。

 いま家治政権いえはるせいけんにおいても若年寄わかどしよりとして「活躍かつやく」し、場合ばあいによっては、側用人そばようにんさらには老中ろうじゅうへと栄達えいたつきわめられたやもれぬ。

 だが実際じっさいには本多ほんだ忠央ただなか郡上騒動ぐじょうそうどうにより、ようおの不正ふせい発覚はっかくしたために、西之丸にしのまる若年寄わかどしよりしょくうばわれ、のみならず、改易かいえき憂目うきめにもった。

 もっとも、それはまったもっ自業自得じごうじとくであるのだが、本多ほんだ忠央ただなか心中しんちゅうふかく、家重いえしげうらんだ。

 それは養嗣子ようししであった兵庫頭ひょうごのかみ忠由ただよしにしても同様どうようであった。

 忠由ただよしにしても郡上騒動ぐじょうそうどうがなくば、養父ちち忠央ただなか不正ふせい発覚はっかくしなければ、ゆくゆく、相良藩本多家さがらはんほんだけげるはずであった。

 それが家重いえしげ裁許さいきょにより、御家おいえ改易かいえき相良藩本多家さがらはんほんだけがなくなってしまったために、それも不可能ふかのうというわけで、忠由ただよしにしても養父ちちおなじく、家重いえしげうらんだ。

 その本多ほんだ忠央ただなか忠由ただよし養親子おやこだが、改易かいえき越後えちご津山藩つやまはん御預おあずけとなった。

 最初さいしょ赦免しゃめんこうむったのは、つまりはゆるされたのは養嗣子ようしし忠由ただよしであり、明和3(1766)年4月に赦免しゃめんされるや、江戸えどへとかえり、おいもとせた。

 そのおいこそが山﨑藩主やまざきはんしゅ本多ほんだ忠可ただよしである。

 本多ほんだ忠可ただよしじつ越前丸岡藩主えちぜんまるおかはんしゅ有馬ありま日向守ひゅうがのかみ孝純たかすみ次男じなんであり、本多ほんだ忠由ただよしはこの有馬ありま孝純たかすみ実弟じっていである。

 つまり忠由ただよし忠可ただよし叔父おじおい関係かんけいたるのだ。

 その、明和5(1768)年正月しょうがつには養父ちち忠央ただなか赦免しゃめんされ、やはり江戸えどへと帰還きかんたすや、まずは本多ほんだ一門いちもんにして菊多郡泉藩きくたぐんいずみはん1万5千石をりょうする本多ほんだ弾正少弼だんじょうしょうひつ忠籌ただかずもとせ、いで養嗣子ようしし忠由ただよしもとへと、つまりは濱町はまちょうにある山崎藩やまざきはん上屋敷かみやしきへとうつり、いまいたる。

 この本多ほんだ忠籌ただかずもまた、譜代ふだい2万石まんごく以下いかであるために、本多ほんだ忠可ただよしとも一橋御門番ひとつばしごもんばんつとめることがおおく、治済はるさだはこの両者りょうしゃとは畢竟ひっきょうしたしく付合つきあっていた。

 そのうち一人ひとり本多ほんだ忠可ただよしもとへとまずは叔父おじ忠由ただよしいでその養父ちち忠央ただなかころがりんだことを治済はるさだ忠可当人ただよしとうにんよりなにかのおりかされるや、

「これは…、使つかえる…」

 そう直感ちょっかんした。

 そこで治済はるさだみずから、濱町はまちょうにある山崎藩やまざきはん上屋敷かみやしきへとあしばしては、そこで忠可ただよし仲立なかだちにより、忠央ただなか忠由ただよし養親子おやこ引合ひきあわせてもらったのだ。

 本多ほんだ忠央ただなか忠由ただよし養親子おやこ天下てんが御三卿ごさんきょうである一橋ひとつばし治済はるさだまえにしておおいに恐縮きょうしゅくした。

 それも無理むりもない。いま一介いっかい浪人ろうにんぎないからだ。

 だが治済はるさだはそんな恐縮きょうしゅくする忠央ただなかるや、

なら、この治済はるさだこそ、忠央ただなか恐縮きょうしゅくせねばならぬ立場たちばであったやもれぬ…、なにしろ忠央ただなか老中ろうじゅううつわであったからのう…」

 忠央ただなかたいして平然へいぜんとそんな真赤まっかウソき、まずは忠央ただなか感激かんげきさせた。

 それから治済はるさだいま忠央ただなかうえ心底しんそこ同情どうじょうしてみせた。

「それが…、郡上騒動ぐじょうそうどうなどと…、ありもせぬでっちげのつみせられ、西之丸にしのまる若年寄わかどしよりしょくうばわれただけでなく、改易かいえきへといやられ…」

 治済はるさだはそうつづけ、忠央ただなかおおいにうなずかせたのであった。

 これで忠央ただなかハートをガッチリととらえたと、治済はるさだはそう確信かくしんするや、愈々いよいよ本題ほんだいはいった。

いや郡上騒動ぐじょうそうどうなるもの、一応いちおう家重公いえしげこう裁許さいきょされたものだが…、忠央ただなか改易かいえきいやったのは家重公いえしげこうであるが、しかしじつ意次おきつぐめに、当時とうじ御側御用取次おそばごようとりつぎであった意次おきつぐめが郡上騒動ぐじょうそうどうなる、でっちげもいところのさばきを主導しゅどうしたと聞及ききおよんでおる…、されば忠央ただなか改易かいえきへといやった真実まこと下手人げしゅにん意次おきつぐ…、意次おきつぐめが家重公いえしげこうくるめ、忠央ただなか改易かいえきへといやったのだとな…」

 治済はるさだ忠央ただなかにそうささやくや、

「されば意次おきつぐめは忠央ただなか目障めざわりであったのであろうな…、当時とうじ本丸ほんまる御側御用取次おそばごようとりつぎとして家重公いえしげこう近侍きんじせし意次おきつぐ次代じだい家治公いえはるこう治世ちせいにおいてもその専権せんけんほしいままにしようとほっしており、なれどそれには家治公いえはるこう若年寄わかどしよりとしてつかえし忠央ただなかよ、そなたの存在そんざい目障めざわりであったのだよ…、なにしろ忠央ただなかよ、そなたは西之丸にしのまる若年寄わかどしよりとして次期じき将軍しょうぐんであった家重公いえしげこう近侍きんじしていたわけだが、そのつとめぶりたるや、まさ謹厳実直きんげんじっちょくにて、汚職おしょくまみれた意次おきつぐめとは正反対せいはんたい…、そのよう忠央ただなかひからせているかぎりは意次おきつぐめ、おちおち専権せんけんほしいままにすることも出来できまいと、そこで忠央ただなか取除とりのぞかんとし、郡上騒動ぐじょうそうどうなる、ありもせぬ事件じけんをでっちげては、そなたをつみおとしいれ、改易かいえきへといやったのだよ…」

 そうもささやいて、とどめをしたのであった。

 つまりは忠央ただなか治済はるさだのそのはなしをすっかりしんんだのであった。

 いや治済はるさだのそのはなしこそ、でっちげもいところであった。

 真実しんじつ忠央ただなか不正ふせいはたらいたため改易かいえきしょされたのであり、しかもそれは家重いえしげ処断しょだんであり、だんじて意次おきつぐくるめられたからではない。

 しかし、忠央ただなかはそうはかんがえない。忠央ただなかとしてはあくまで、

耳心地みみごこちい…」

 治済はるさだはなし、もとい「でっちげ」のほうしんじた。

 治済はるさだ忠央ただなか様子ようすからそうとさっするや、今度こんど忠央ただなか意次おきつぐへのうらみをてさせることにした。

「その意次おきつぐだが…、いまはかつて、そなたがおさめし相良さがらへと入封にゅうぶし、のみならず築城ちくじょうまでゆるされたわ…」

 治済はるさだのその「悪魔あくまささやき」は忠央ただなか意次おきつぐへのうらみをてさせるには充分じゅうぶんぎた。

 いや忠央ただなかだけではない。そのひかえていた養嗣子ようしし忠由ただよしや、さらにはそのおい忠可ただよしにまで意次おきつぐへのうらみをてさせたのであった。

 忠央ただなかたちはそれまでは家重いえしげたいしてうらみを、それも逆怨さかうらみをいていた。

 だが治済はるさだのその「悪魔あくまささやき」により、意次おきつぐへも逆怨さかうらみの矛先ほこさきけるようになり、のみならず、家重いえしげへの逆怨さかうらみを上回うわまわらせた。

 そして治済はるさだはそれから、家治いえはるにも矛先ほこさきけた。すなわち、

「いや、この治済はるさだ将軍しょうぐんであれば、意次おきつぐめを相良さがらほうじるなどしなかったわ…、無論むろん築城ちくじょうなどもゆるさず…、それが家治公いえはるこう意次おきつぐめを相良さがらほうじたのみならず、築城ちくじょうまでゆるすとは、すっかり意次おきつぐめに取込とりこまれたあかしよ…、いや、じつなげかわしいことよのう…」

 まずは家治いえはる将軍しょうぐん失格しっかくとの烙印らくいんしたうえで、

「その御嫡子ごちゃくし…、次期じき将軍しょうぐんにあらせられる大納言様だいなごんさままでが意次おきつぐ贔屓びいき聞及ききおよんでおる…、いや大納言様だいなごんさまさら意知おきともめでも贔屓ひいきにしておるとく…、このままでは幕府ばくふはいずれつぶれるぞえ…」

 家治いえはる家基いえもと親子おやこ幕府ばくふつぶすのではないかと、治済はるさだ忠央ただなかたちにそう印象付いんしょうづけたのであった。

 これに忠央ただなかたちは、とりわけ忠央ただなかはげしく反応はんのうし、

一橋民部卿様ひとつばしみんぶのきょうさま上様うえさまであったらよろしかったのに…」

 忠央ただなかにそう口走くちばしらせたのであった。

 その言葉ことばっていた治済はるさだ内心ないしんうなずきつつも一応いちおうは、「いやいや…」と殊勝しゅしょうなところをせたうえで、それもつかまさに、

したかわかぬうち…」

 この治済はるさだ将軍しょうぐんであれば、ただちに忠央ただなか御家おいえ再興さいこうゆるし、のみならず意次おきつぐこそ改易かいえきにし、ふたた相良さがらへとほうじてやろうと、忠央ただなかたいしてそんな「手形てがた」をってみせたのであった。

 これで忠央ただなかは、いや養嗣子ようしし忠由ただよしやそのおい忠可ただよしまでが完全かんぜん治済はるさだ取込とりこまれ、さしずめ「下僕げぼく」としたのであった。

 そしていま治済はるさだは「下僕げぼく」とも言うべき一橋御門番ひとつばしごもんばんでもある本多ほんだ忠可ただよしもとたずねては、ある指図さしずをした。

 一橋ひとつばし治済はるさだのその「ある指図さしず」だが、白河藩主しらかわはんしゅ松平まつだいら定邦さだくに参観さんかん将軍しょうぐん家治いえはる参府さんぷ、この江戸えど到着とうちゃくしたことの挨拶あいさつすべく登城とじょうした6月25日に結実けつじつした。

 この式日しきじつではなく平日へいじつであり、平日登城へいじつとじょうゆるされている溜間詰たまりのまづめ雁間詰がんのまづめのぞいては、大名だいみょう登城とじょうすることはゆるされていない。

 そこで平日登城へいじつとじょうゆるされていない大名だいみょう参観さんかんや、あるいは御暇おいとま挨拶あいさつ月次御礼つきなみおんれいなどの式日しきじつかぎると、どうしても支障ししょうる。

 たとえば折角せっかく参府さんぷ江戸えど上屋敷かみやしき到着とうちゃくしたにもかかわらず、いつまでも将軍しょうぐん挨拶あいさつ出来できないという事態じたい予想よそうされ、そのぎゃくもまたしかり、将軍しょうぐん帰国きこく挨拶あいさつ出来できないために、いつまでも国許くにもとへと帰国きこく出来できないという事態じたいかんがえられた。

 そこで臨時りんじ朝會ちょうえという手法しゅほうられる。

 6月25日、今日きょうよう平日へいじつであっても、この「臨時りんじ朝會ちょうえ」に指定していされると、式日しきじつじゅんじ、それゆえ平日登城へいじつとじょうゆるされていない大名だいみょう参観さんかんや、あるいは御暇おいとま挨拶あいさつため登城とじょう可能かのうとなる。

 そこにはやはり平日登城へいじつとじょうゆるされていない、帝鑑間詰ていかんのまづめ白河藩主しらかわはんしゅ松平まつだいら定邦さだくに姿すがたもあった。

 定邦さだくに参観さんかん挨拶あいさつため御城えどじょうへと登城とじょう黒書院くろしょいんにて将軍しょうぐん家治いえはる江戸えどたことの挨拶あいさつをすると、そこで家治いえはるより田安たやす賢丸定信まさまるさだのぶ養子ようしけん打診だしんされたのであった。

無論むろん定邦さだくにさえければのはなしだが…」

 家治いえはるはこの時点じてんすで賢丸定信まさまるさだのぶ白河松平家しらかわまつだいらけへと養子ようし腹積はらづもりであったが、それでも養父ようふとなる定邦さだくに意思いし尊重そんちょうするつもりでいた。

 かり定邦さだくに賢丸定信まさまるさだのぶ養子ようしむかえるのをいやだと言えば、家治いえはるとしてはあきらめるつもりでいた。

 その場合ばあいには他家たけへと養子ようしすつもりでいた。

 だが家治いえはるには定邦さだくにことわらないとの自信じしんもあった。

 なにしろ賢丸定信まさまるさだのぶ将軍家ファミリーである御三卿ごさんきょう、それも筆頭ひっとう田安家たやすけものである。

 その賢丸定信まさまるさだのぶ養子ようしむかえれば間違まちがいなく家格かかく向上こうじょうする。

 白河松平家しらかわまつだいらけ殿中でんちゅうせき帝鑑間ていかんのまであり、当主とうしゅ定邦さだくにもまた、溜間たまりのまへの家格かかく向上こうじょうねらっていた。

 そこへ家治いえはるより家格かかく向上こうじょうため千載一遇せんざいいちぐう機会チャンスとも言うべき賢丸定信まさまるさだのぶ養子ようしはなし舞込まいこめば、定邦さだくにとしてはかならずやそれをけるにちがいない、いやくにちがいない、というのが家治いえはるみであった。

 そしてそのみはたり、定邦さだくに家治いえはるらしたその「エサ」にいたのであった。

 さて、定邦さだくに意気揚々いきようよう黒書院くろしょいんあとにし、下城げじょうすべく玄関げんかんへとかおうとしたところで、本多ほんだ忠可ただよし落合おちあった。

 いや正確せいかくには本多ほんだ忠可ただよし松平まつだいら定邦さだくにを「待伏まちぶせ」していたのだが、あくまで「偶然ぐうぜん」をよそおった。

「これはこれは…、越中えっちゅう殿どの…」

 忠可ただよしは「偶然ぐうぜん」、定邦さだくに姿すがた気付きづいたふうよそおいつつ、定邦さだくにこえをかけると会釈えしゃくした

 こうなれば定邦さだくにとて、これを無視出来むしできず、忠可ただよし会釈えしゃくかえさねばならない。

 いやいま定邦さだくにみずからのよろこびをだれかとかちいたい、下世話げせわに言えば自慢じまんしたい気分きぶんであったので、そこへ忠可ただよしこえをかけてくれたので、これを無視むしする選択肢せんたくしなどもとよりなかった。

 定邦さだくに忠可ただよし会釈えしゃくかえすと、「じつは…」とよろこびを、つまりは将軍しょうぐん家治いえはるより田安たやす賢丸定信まさまるさだのぶ養嗣子ようししむかえてはどうかと、打診だしんされたことを打明うちあけたのであった。

 忠可ただよしにとって、それは治済はるさだにとってもだが、じつ好都合こうつごうとも言える展開てんかいであった。

 それと言うのも忠可ただよし如何いかにして、定邦さだくに賢丸定信まさまるさだのぶけん切出きりだすか思案しあんしていたからだ。

「6月25日の臨時りんじ朝會ちょうえおり松平まつだいら定邦さだくに将軍しょうぐん家治いえはるへの参観さんかん挨拶あいさつおよぶが、そのさい家治いえはるより田安たやす賢丸定信まさまるさだのぶ養嗣子ようししむかえてはどうかと打診だしんされるに相違そういなく、されば忠可ただよしよ、そなたはそれが意次おきつぐ口添くちぞえによるものと、定邦さだくにつたえよ。そのうえで、田安家たやすけ挨拶あいさつするよりもまずはじめに、田沼家たぬまけに、意次おきつぐへと挨拶あいさつませるよう定邦さだくにすすめてもらいたい…」

 それこそが治済はるさだの「ある指図さしず」の正体しょうたいであり、しかしそのためには忠可ただよしほうから定邦さだくにへと、

賢丸定信まさまるさだのぶけん、おめでとうございます…」

 とでも切出きりださねばならず、しかし定邦さだくにから賢丸定信まさまるさだのぶけん切出きりだされるまえ忠可ただよし先回さきまわりする格好かっこうで、斯様かよう祝福しゅくふくくちにするのは如何いかにも不自然ふしぜんであり、それゆえ忠可ただよし如何いかにして定邦さだくにほうから賢丸定信まさまるさだのぶけん切出きりださせるか、それを思案しあんしていたのだ。

 それが定邦さだくにほうから賢丸定信まさまるさだのぶのことを切出きりだしてくれたので、忠可ただよし内心ないしん、ほくそんだ。

 忠可ただよしはまずは型通かたどおりの祝意しゅくいしめしたうえで、

「さればそのけん老中ろうじゅう田沼様たぬまさまがお口添くちぞえの賜物たまものと、もっぱらの評判ひょうばんでござるよ…」

 定邦さだくににそうささやいたのだ。

 するとこれには定邦さだくにまるくし、

貴殿きでんすでに、このけん御存知ごぞんじであったか?」

 忠可ただよしにそうたずねたのであった。

「いや、ここ表向おもてむきにおいてはもっぱらの評判ひょうばんにて…、どうやら田沼様たぬまさま由緒正ゆいしょただしき御血筋おちすじにあらせられる…、久松ひさまつ松平まつだいらながれみし御貴殿ごきでんにお近付ちかづきになりたく、それで、と…、いや、ことがことだけにこの忠可ただよしにわかにはしんじられず、なれど御貴殿ごきでんよりじか賢丸君まさまるぎみけん打明うちあけられ、やはりそうであったのかと…」

 忠可ただよしのその「虚言きょげん」、もとい治済はるさだ書下かきおろしによる「台本シナリオ」をそだちの定邦さだくにうたがうこともせずにけた。

「されば越中えっちゅう殿どの田安たやすさまへと挨拶あいさつされるまえに、まずは田沼たぬまさまへと挨拶あいさつされるがよろしかろう…」

 忠可ただよし定邦さだくにあらためてそうすすめると、定邦さだくにも「相分あいわかった」とおうじ、忠可ただよしのその進言アドバイス謝意しゃいしめした。

 実際じっさい定邦さだくに北八丁堀きたはっちょうぼりにある白河藩しらかわはん上屋敷かみやしきへと帰邸きていおよぶや、そのあしただちに神田橋御門内かんだばしごもんないにある田沼家たぬまけ上屋敷かみやしきへとかった。
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