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相良城築城の「代償」 ~一橋治済は本多忠可を嗾け、松平定邦に田安家に挨拶するより先に田沼意次に「お礼」の挨拶をすることを勧めさせる~
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6月に入り、白河藩主・松平越中守定邦が25日にも参観、将軍・家治に挨拶する|予定であると、一橋治済は御側御用取次の稲葉正明よりその旨、聞かされた。
そこで治済は早速、それも家老の設樂貞好が御城へと登城して一橋上屋敷を空けている日中を狙い、一橋御門へと足を向けた。
一橋御門の警衛に当たる所謂、御門番には2万石以下の譜代大名が任じられるのが仕来りであり、安永2(1773)年6月初旬の今は宍粟郡山﨑藩1万石を領する本多肥後守忠可がその一橋御門番を勤めていた。
それ故、日中は藩主の本多忠可も御|
門番所《もんばんしょ》に詰めていた。
そこへ治済が訪ね、本多忠可と面会に及んだ。
この本多忠可もまた、治済の「共犯者」と言えた。
本多忠可は田沼意次は元より、九代将軍・家重をも怨んでいたのだ。
それは彼の、郡上騒動に由来する。
郡上騒動では当時、郡上藩金森家が改易となったが、もう一家、改易になった御家があり、それは相良藩本多家であった。
当時、相良藩主であった本多長門守忠央も郡上騒動に連座し、改易となった。
本多忠央の場合、その直前まで西之丸若年寄を勤めていた。
つまりは当時は次期将軍であった家治に若年寄として仕えていたのだ。
これで仮に郡上騒動がなくば、正確にはその不正が発覚しなければ、本多忠央は間違いなく本丸若年寄へと異動、横滑りを果たしていたことであろう。
今の家治政権下においても若年寄として「活躍」し、場合によっては、側用人、更には老中へと栄達を極められたやも知れぬ。
だが実際には本多忠央は郡上騒動により、要は自が不正が発覚した為に、西之丸若年寄の職を奪われ、のみならず、改易の憂目にも遭った。
尤も、それは全く以て自業自得であるのだが、本多忠央は心中深く、家重を怨んだ。
それは養嗣子であった兵庫頭忠由にしても同様であった。
忠由にしても郡上騒動がなくば、養父・忠央の不正が発覚しなければ、ゆくゆく、相良藩本多家を継げる筈であった。
それが家重の裁許により、御家は改易、相良藩本多家がなくなってしまった為に、それも不可能という訳で、忠由にしても養父と同じく、家重を怨んだ。
その本多忠央・忠由養親子だが、改易後は越後津山藩に御預の身となった。
最初に赦免を蒙ったのは、つまりは許されたのは養嗣子の忠由であり、明和3(1766)年4月に赦免されるや、江戸へと帰り、甥の許に身を寄せた。
その甥こそが山﨑藩主の本多忠可である。
本多忠可は実は越前丸岡藩主の有馬日向守孝純が次男であり、本多忠由はこの有馬孝純の実弟である。
つまり忠由と忠可は叔父と甥の関係に当たるのだ。
その後、明和5(1768)年正月には養父の忠央も赦免され、やはり江戸へと帰還を果たすや、まずは本多一門にして菊多郡泉藩1万5千石を領する本多弾正少弼忠籌の許に身を寄せ、次いで養嗣子の忠由の許へと、つまりは濱町にある山崎藩上屋敷へと移り、今に至る。
この本多忠籌もまた、譜代2万石以下である為に、本多忠可と共に一橋御門番を勤めることが多く、治済はこの両者とは畢竟、親しく付合っていた。
その内の一人、本多忠可の許へとまずは叔父の忠由、次いでその養父の忠央が転がり込んだことを治済は忠可当人より何かの折に聞かされるや、
「これは…、使える…」
そう直感した。
そこで治済は自ら、濱町にある山崎藩上屋敷へと足を延ばしては、そこで忠可の仲立ちにより、忠央・忠由養親子に引合わせて貰ったのだ。
本多忠央・忠由養親子は天下の御三卿である一橋治済を前にして大いに恐縮した。
それも無理もない。今は一介の浪人に過ぎないからだ。
だが治済はそんな恐縮する忠央の手を取るや、
「世が世なら、この治済こそ、忠央に恐縮せねばならぬ立場であったやも知れぬ…、何しろ忠央は老中の器であったからのう…」
忠央に対して平然とそんな真赤な嘘を吐き、まずは忠央を感激させた。
それから治済は今の忠央の身の上を心底、同情してみせた。
「それが…、郡上騒動などと…、ありもせぬでっち上げの罪を着せられ、西之丸若年寄の職を奪われただけでなく、改易へと追いやられ…」
治済はそう続け、忠央を大いに頷かせたのであった。
これで忠央の心をガッチリと捉えたと、治済はそう確信するや、愈々、本題に入った。
「否、郡上騒動なるもの、一応は家重公が裁許されたものだが…、忠央を改易に追いやったのは家重公であるが、しかし実は意次めに、当時は御側御用取次であった意次めが郡上騒動なる、でっち上げも良いところの裁きを主導したと聞及んでおる…、されば忠央を改易へと追いやった真実の下手人は意次…、意次めが家重公を言い包め、忠央を改易へと追いやったのだとな…」
治済は忠央にそう囁くや、
「されば意次めは忠央が目障りであったのであろうな…、当時は本丸の御側御用取次として家重公に近侍せし意次は次代の家治公の治世においてもその専権を恣にしようと欲しており、なれどそれには家治公に若年寄として仕えし忠央よ、そなたの存在が目障りであったのだよ…、何しろ忠央よ、そなたは西之丸若年寄として次期将軍であった家重公に近侍していた訳だが、その勤めぶりたるや、正に謹厳実直にて、汚職に塗れた意次めとは正反対…、その様な忠央が目を光らせている限りは意次め、おちおち専権を恣にすることも出来まいと、そこで忠央を取除かんとし、郡上騒動なる、ありもせぬ事件をでっち上げては、そなたを罪に陥れ、改易へと追いやったのだよ…」
そうも囁いて、止めを刺したのであった。
つまりは忠央は治済のその話をすっかり信じ込んだのであった。
否、治済のその話こそ、でっち上げも良いところであった。
真実、忠央は不正を働いた為に改易に処されたのであり、しかもそれは家重の処断であり、断じて意次に言い包められたからではない。
しかし、忠央はそうは考えない。忠央としてはあくまで、
「耳心地の良い…」
治済の話、もとい「でっち上げ」の方を信じた。
治済も忠央の様子からそうと察するや、今度は忠央に意次への怨みを掻き立てさせることにした。
「その意次だが…、今はかつて、そなたが治めし相良の地へと入封し、のみならず築城まで許されたわ…」
治済のその「悪魔の囁き」は忠央に意次への怨みを掻き立てさせるには充分過ぎた。
否、忠央だけではない。その場に控えていた養嗣子の忠由や、更にはその甥の忠可にまで意次への怨みを掻き立てさせたのであった。
忠央たちはそれまでは家重に対して怨みを、それも逆怨みを抱いていた。
だが治済のその「悪魔の囁き」により、意次へも逆怨みの矛先を向ける様になり、のみならず、家重への逆怨みを上回らせた。
そして治済はそれから、家治にも矛先を向けた。即ち、
「いや、この治済が将軍であれば、意次めを相良の地に封じるなどしなかったわ…、無論、築城なども許さず…、それが家治公が意次めを相良の地に封じたのみならず、築城まで許すとは、すっかり意次めに取込まれた証よ…、いや、実に嘆かわしいことよのう…」
まずは家治に将軍失格との烙印を押した上で、
「その御嫡子…、次期将軍にあらせられる大納言様までが意次贔屓と聞及んでおる…、否、大納言様は更に意知めでも贔屓にしておると聞く…、このままでは幕府はいずれ潰れるぞえ…」
家治・家基親子が幕府を潰すのではないかと、治済は忠央たちにそう印象付けたのであった。
これに忠央たちは、とりわけ忠央は激しく反応し、
「一橋民部卿様が上様であったら宜しかったのに…」
忠央にそう口走らせたのであった。
その言葉を待っていた治済は内心、頷きつつも一応は、「いやいや…」と殊勝なところを見せた上で、それも束の間、正に、
「舌の根も乾かぬうち…」
この治済が将軍であれば、直ちに忠央に御家再興を許し、のみならず意次こそ改易にし、再び相良の地へと封じてやろうと、忠央に対してそんな「手形」を切ってみせたのであった。
これで忠央は、否、養嗣子の忠由やその甥の忠可までが完全に治済に取込まれ、さしずめ「下僕」と化したのであった。
そして今、治済は「下僕」とも言うべき一橋御門番でもある本多忠可の許を訪ねては、ある指図をした。
一橋治済のその「ある指図」だが、白河藩主の松平定邦が参観、将軍・家治に参府、この江戸に到着したことの挨拶すべく登城した6月25日に結実した。
この日は式日ではなく平日であり、平日登城が許されている溜間詰や雁間詰を除いては、大名は登城することは許されていない。
そこで平日登城が許されていない大名の参観や、或いは御暇の挨拶を月次御礼などの式日に限ると、どうしても支障が出る。
例えば折角、参府、江戸の上屋敷に到着したにもかかわらず、いつまでも将軍に挨拶が出来ないという事態が予想され、その逆もまた然り、将軍に帰国の挨拶が出来ない為に、いつまでも国許へと帰国出来ないという事態が考えられた。
そこで臨時の朝會という手法が取られる。
6月25日、今日の様な平日であっても、この「臨時の朝會」に指定されると、式日に准じ、それ故、平日登城が許されていない大名も参観や、或いは御暇の挨拶の為に登城が可能となる。
そこにはやはり平日登城が許されていない、帝鑑間詰の白河藩主、松平定邦の姿もあった。
定邦は参観の挨拶の為に御城へと登城、黒書院にて将軍・家治に江戸へ来たことの挨拶をすると、そこで家治より田安賢丸定信の養子の件を打診されたのであった。
「無論、定邦さえ良ければの話だが…」
家治はこの時点で既に賢丸定信を白河松平家へと養子に出す腹積もりであったが、それでも養父となる定邦の意思を尊重するつもりでいた。
仮に定邦が賢丸定信を養子に迎えるのを厭だと言えば、家治としては諦めるつもりでいた。
その場合には他家へと養子に出すつもりでいた。
だが家治には定邦が断らないとの自信もあった。
何しろ賢丸定信は将軍家である御三卿、それも筆頭の田安家の者である。
その賢丸定信を養子に迎えれば間違いなく家格は向上する。
白河松平家の殿中席は帝鑑間であり、当主の定邦もまた、溜間への家格の向上を狙っていた。
そこへ家治より家格の向上の為の千載一遇の機会とも言うべき賢丸定信の養子の話が舞込めば、定邦としては必ずやそれを受けるに違いない、否、喰い付くに違いない、というのが家治の読みであった。
そしてその読みは当たり、定邦は家治が垂らしたその「餌」に喰い付いたのであった。
さて、定邦が意気揚々、黒書院を後にし、下城すべく玄関へと向かおうとしたところで、本多忠可と落合った。
否、正確には本多忠可は松平定邦を「待伏せ」していたのだが、あくまで「偶然」を装った。
「これはこれは…、越中殿…」
忠可は「偶然」、定邦の姿に気付いた風を装いつつ、定邦に声をかけると会釈した
こうなれば定邦とて、これを無視出来ず、忠可に会釈を返さねばならない。
否、今の定邦は自らの喜びを誰かと分かち合いたい、下世話に言えば自慢したい気分であったので、そこへ忠可が声をかけてくれたので、これを無視する選択肢など元よりなかった。
定邦も忠可に会釈を返すと、「実は…」と喜びを、つまりは将軍・家治より田安賢丸定信を養嗣子に迎えてはどうかと、打診されたことを打明けたのであった。
忠可にとって、それは治済にとってもだが、実に好都合とも言える展開であった。
それと言うのも忠可は如何にして、定邦に賢丸定信の件を切出すか思案していたからだ。
「6月25日の臨時の朝會の折、松平定邦は将軍・家治への参観の挨拶に及ぶが、その際、家治より田安賢丸定信を養嗣子に迎えてはどうかと打診されるに相違なく、されば忠可よ、そなたはそれが意次の口添えによるものと、定邦に伝えよ。その上で、田安家に挨拶するよりもまず初めに、田沼家に、意次へと挨拶を済ませる様、定邦に勧めて貰いたい…」
それこそが治済の「ある指図」の正体であり、しかしその為には忠可の方から定邦へと、
「賢丸定信の件、おめでとうございます…」
とでも切出さねばならず、しかし定邦から賢丸定信の件を切出される前に忠可が先回りする格好で、斯様な祝福を口にするのは如何にも不自然であり、それ故、忠可は如何にして定邦の方から賢丸定信の件を切出させるか、それを思案していたのだ。
それが定邦の方から賢丸定信のことを切出してくれたので、忠可は内心、ほくそ笑んだ。
忠可はまずは型通りの祝意を示した上で、
「さればその件、老中の田沼様がお口添えの賜物と、専らの評判でござるよ…」
定邦にそう囁いたのだ。
するとこれには定邦も目を丸くし、
「貴殿は既に、この件、御存知であったか?」
忠可にそう尋ねたのであった。
「いや、ここ表向においては専らの評判にて…、どうやら田沼様は由緒正しき御血筋にあらせられる…、久松松平の流を汲みし御貴殿にお近付きになりたく、それで、と…、否、ことがことだけにこの忠可も俄かには信じられず、なれど御貴殿より直に賢丸君の件を打明けられ、やはりそうであったのかと…」
忠可のその「虚言」、もとい治済書下ろしによる「台本」を育ちの良い定邦は疑うこともせずに真に受けた。
「されば越中殿、田安様へと挨拶される前に、まずは田沼様へと挨拶されるが宜しかろう…」
忠可が定邦に改めてそう勧めると、定邦も「相分かった」と応じ、忠可のその進言に謝意を示した。
実際、定邦は北八丁堀にある白河藩上屋敷へと帰邸に及ぶや、その足で直ちに神田橋御門内にある田沼家上屋敷へと向かった。
そこで治済は早速、それも家老の設樂貞好が御城へと登城して一橋上屋敷を空けている日中を狙い、一橋御門へと足を向けた。
一橋御門の警衛に当たる所謂、御門番には2万石以下の譜代大名が任じられるのが仕来りであり、安永2(1773)年6月初旬の今は宍粟郡山﨑藩1万石を領する本多肥後守忠可がその一橋御門番を勤めていた。
それ故、日中は藩主の本多忠可も御|
門番所《もんばんしょ》に詰めていた。
そこへ治済が訪ね、本多忠可と面会に及んだ。
この本多忠可もまた、治済の「共犯者」と言えた。
本多忠可は田沼意次は元より、九代将軍・家重をも怨んでいたのだ。
それは彼の、郡上騒動に由来する。
郡上騒動では当時、郡上藩金森家が改易となったが、もう一家、改易になった御家があり、それは相良藩本多家であった。
当時、相良藩主であった本多長門守忠央も郡上騒動に連座し、改易となった。
本多忠央の場合、その直前まで西之丸若年寄を勤めていた。
つまりは当時は次期将軍であった家治に若年寄として仕えていたのだ。
これで仮に郡上騒動がなくば、正確にはその不正が発覚しなければ、本多忠央は間違いなく本丸若年寄へと異動、横滑りを果たしていたことであろう。
今の家治政権下においても若年寄として「活躍」し、場合によっては、側用人、更には老中へと栄達を極められたやも知れぬ。
だが実際には本多忠央は郡上騒動により、要は自が不正が発覚した為に、西之丸若年寄の職を奪われ、のみならず、改易の憂目にも遭った。
尤も、それは全く以て自業自得であるのだが、本多忠央は心中深く、家重を怨んだ。
それは養嗣子であった兵庫頭忠由にしても同様であった。
忠由にしても郡上騒動がなくば、養父・忠央の不正が発覚しなければ、ゆくゆく、相良藩本多家を継げる筈であった。
それが家重の裁許により、御家は改易、相良藩本多家がなくなってしまった為に、それも不可能という訳で、忠由にしても養父と同じく、家重を怨んだ。
その本多忠央・忠由養親子だが、改易後は越後津山藩に御預の身となった。
最初に赦免を蒙ったのは、つまりは許されたのは養嗣子の忠由であり、明和3(1766)年4月に赦免されるや、江戸へと帰り、甥の許に身を寄せた。
その甥こそが山﨑藩主の本多忠可である。
本多忠可は実は越前丸岡藩主の有馬日向守孝純が次男であり、本多忠由はこの有馬孝純の実弟である。
つまり忠由と忠可は叔父と甥の関係に当たるのだ。
その後、明和5(1768)年正月には養父の忠央も赦免され、やはり江戸へと帰還を果たすや、まずは本多一門にして菊多郡泉藩1万5千石を領する本多弾正少弼忠籌の許に身を寄せ、次いで養嗣子の忠由の許へと、つまりは濱町にある山崎藩上屋敷へと移り、今に至る。
この本多忠籌もまた、譜代2万石以下である為に、本多忠可と共に一橋御門番を勤めることが多く、治済はこの両者とは畢竟、親しく付合っていた。
その内の一人、本多忠可の許へとまずは叔父の忠由、次いでその養父の忠央が転がり込んだことを治済は忠可当人より何かの折に聞かされるや、
「これは…、使える…」
そう直感した。
そこで治済は自ら、濱町にある山崎藩上屋敷へと足を延ばしては、そこで忠可の仲立ちにより、忠央・忠由養親子に引合わせて貰ったのだ。
本多忠央・忠由養親子は天下の御三卿である一橋治済を前にして大いに恐縮した。
それも無理もない。今は一介の浪人に過ぎないからだ。
だが治済はそんな恐縮する忠央の手を取るや、
「世が世なら、この治済こそ、忠央に恐縮せねばならぬ立場であったやも知れぬ…、何しろ忠央は老中の器であったからのう…」
忠央に対して平然とそんな真赤な嘘を吐き、まずは忠央を感激させた。
それから治済は今の忠央の身の上を心底、同情してみせた。
「それが…、郡上騒動などと…、ありもせぬでっち上げの罪を着せられ、西之丸若年寄の職を奪われただけでなく、改易へと追いやられ…」
治済はそう続け、忠央を大いに頷かせたのであった。
これで忠央の心をガッチリと捉えたと、治済はそう確信するや、愈々、本題に入った。
「否、郡上騒動なるもの、一応は家重公が裁許されたものだが…、忠央を改易に追いやったのは家重公であるが、しかし実は意次めに、当時は御側御用取次であった意次めが郡上騒動なる、でっち上げも良いところの裁きを主導したと聞及んでおる…、されば忠央を改易へと追いやった真実の下手人は意次…、意次めが家重公を言い包め、忠央を改易へと追いやったのだとな…」
治済は忠央にそう囁くや、
「されば意次めは忠央が目障りであったのであろうな…、当時は本丸の御側御用取次として家重公に近侍せし意次は次代の家治公の治世においてもその専権を恣にしようと欲しており、なれどそれには家治公に若年寄として仕えし忠央よ、そなたの存在が目障りであったのだよ…、何しろ忠央よ、そなたは西之丸若年寄として次期将軍であった家重公に近侍していた訳だが、その勤めぶりたるや、正に謹厳実直にて、汚職に塗れた意次めとは正反対…、その様な忠央が目を光らせている限りは意次め、おちおち専権を恣にすることも出来まいと、そこで忠央を取除かんとし、郡上騒動なる、ありもせぬ事件をでっち上げては、そなたを罪に陥れ、改易へと追いやったのだよ…」
そうも囁いて、止めを刺したのであった。
つまりは忠央は治済のその話をすっかり信じ込んだのであった。
否、治済のその話こそ、でっち上げも良いところであった。
真実、忠央は不正を働いた為に改易に処されたのであり、しかもそれは家重の処断であり、断じて意次に言い包められたからではない。
しかし、忠央はそうは考えない。忠央としてはあくまで、
「耳心地の良い…」
治済の話、もとい「でっち上げ」の方を信じた。
治済も忠央の様子からそうと察するや、今度は忠央に意次への怨みを掻き立てさせることにした。
「その意次だが…、今はかつて、そなたが治めし相良の地へと入封し、のみならず築城まで許されたわ…」
治済のその「悪魔の囁き」は忠央に意次への怨みを掻き立てさせるには充分過ぎた。
否、忠央だけではない。その場に控えていた養嗣子の忠由や、更にはその甥の忠可にまで意次への怨みを掻き立てさせたのであった。
忠央たちはそれまでは家重に対して怨みを、それも逆怨みを抱いていた。
だが治済のその「悪魔の囁き」により、意次へも逆怨みの矛先を向ける様になり、のみならず、家重への逆怨みを上回らせた。
そして治済はそれから、家治にも矛先を向けた。即ち、
「いや、この治済が将軍であれば、意次めを相良の地に封じるなどしなかったわ…、無論、築城なども許さず…、それが家治公が意次めを相良の地に封じたのみならず、築城まで許すとは、すっかり意次めに取込まれた証よ…、いや、実に嘆かわしいことよのう…」
まずは家治に将軍失格との烙印を押した上で、
「その御嫡子…、次期将軍にあらせられる大納言様までが意次贔屓と聞及んでおる…、否、大納言様は更に意知めでも贔屓にしておると聞く…、このままでは幕府はいずれ潰れるぞえ…」
家治・家基親子が幕府を潰すのではないかと、治済は忠央たちにそう印象付けたのであった。
これに忠央たちは、とりわけ忠央は激しく反応し、
「一橋民部卿様が上様であったら宜しかったのに…」
忠央にそう口走らせたのであった。
その言葉を待っていた治済は内心、頷きつつも一応は、「いやいや…」と殊勝なところを見せた上で、それも束の間、正に、
「舌の根も乾かぬうち…」
この治済が将軍であれば、直ちに忠央に御家再興を許し、のみならず意次こそ改易にし、再び相良の地へと封じてやろうと、忠央に対してそんな「手形」を切ってみせたのであった。
これで忠央は、否、養嗣子の忠由やその甥の忠可までが完全に治済に取込まれ、さしずめ「下僕」と化したのであった。
そして今、治済は「下僕」とも言うべき一橋御門番でもある本多忠可の許を訪ねては、ある指図をした。
一橋治済のその「ある指図」だが、白河藩主の松平定邦が参観、将軍・家治に参府、この江戸に到着したことの挨拶すべく登城した6月25日に結実した。
この日は式日ではなく平日であり、平日登城が許されている溜間詰や雁間詰を除いては、大名は登城することは許されていない。
そこで平日登城が許されていない大名の参観や、或いは御暇の挨拶を月次御礼などの式日に限ると、どうしても支障が出る。
例えば折角、参府、江戸の上屋敷に到着したにもかかわらず、いつまでも将軍に挨拶が出来ないという事態が予想され、その逆もまた然り、将軍に帰国の挨拶が出来ない為に、いつまでも国許へと帰国出来ないという事態が考えられた。
そこで臨時の朝會という手法が取られる。
6月25日、今日の様な平日であっても、この「臨時の朝會」に指定されると、式日に准じ、それ故、平日登城が許されていない大名も参観や、或いは御暇の挨拶の為に登城が可能となる。
そこにはやはり平日登城が許されていない、帝鑑間詰の白河藩主、松平定邦の姿もあった。
定邦は参観の挨拶の為に御城へと登城、黒書院にて将軍・家治に江戸へ来たことの挨拶をすると、そこで家治より田安賢丸定信の養子の件を打診されたのであった。
「無論、定邦さえ良ければの話だが…」
家治はこの時点で既に賢丸定信を白河松平家へと養子に出す腹積もりであったが、それでも養父となる定邦の意思を尊重するつもりでいた。
仮に定邦が賢丸定信を養子に迎えるのを厭だと言えば、家治としては諦めるつもりでいた。
その場合には他家へと養子に出すつもりでいた。
だが家治には定邦が断らないとの自信もあった。
何しろ賢丸定信は将軍家である御三卿、それも筆頭の田安家の者である。
その賢丸定信を養子に迎えれば間違いなく家格は向上する。
白河松平家の殿中席は帝鑑間であり、当主の定邦もまた、溜間への家格の向上を狙っていた。
そこへ家治より家格の向上の為の千載一遇の機会とも言うべき賢丸定信の養子の話が舞込めば、定邦としては必ずやそれを受けるに違いない、否、喰い付くに違いない、というのが家治の読みであった。
そしてその読みは当たり、定邦は家治が垂らしたその「餌」に喰い付いたのであった。
さて、定邦が意気揚々、黒書院を後にし、下城すべく玄関へと向かおうとしたところで、本多忠可と落合った。
否、正確には本多忠可は松平定邦を「待伏せ」していたのだが、あくまで「偶然」を装った。
「これはこれは…、越中殿…」
忠可は「偶然」、定邦の姿に気付いた風を装いつつ、定邦に声をかけると会釈した
こうなれば定邦とて、これを無視出来ず、忠可に会釈を返さねばならない。
否、今の定邦は自らの喜びを誰かと分かち合いたい、下世話に言えば自慢したい気分であったので、そこへ忠可が声をかけてくれたので、これを無視する選択肢など元よりなかった。
定邦も忠可に会釈を返すと、「実は…」と喜びを、つまりは将軍・家治より田安賢丸定信を養嗣子に迎えてはどうかと、打診されたことを打明けたのであった。
忠可にとって、それは治済にとってもだが、実に好都合とも言える展開であった。
それと言うのも忠可は如何にして、定邦に賢丸定信の件を切出すか思案していたからだ。
「6月25日の臨時の朝會の折、松平定邦は将軍・家治への参観の挨拶に及ぶが、その際、家治より田安賢丸定信を養嗣子に迎えてはどうかと打診されるに相違なく、されば忠可よ、そなたはそれが意次の口添えによるものと、定邦に伝えよ。その上で、田安家に挨拶するよりもまず初めに、田沼家に、意次へと挨拶を済ませる様、定邦に勧めて貰いたい…」
それこそが治済の「ある指図」の正体であり、しかしその為には忠可の方から定邦へと、
「賢丸定信の件、おめでとうございます…」
とでも切出さねばならず、しかし定邦から賢丸定信の件を切出される前に忠可が先回りする格好で、斯様な祝福を口にするのは如何にも不自然であり、それ故、忠可は如何にして定邦の方から賢丸定信の件を切出させるか、それを思案していたのだ。
それが定邦の方から賢丸定信のことを切出してくれたので、忠可は内心、ほくそ笑んだ。
忠可はまずは型通りの祝意を示した上で、
「さればその件、老中の田沼様がお口添えの賜物と、専らの評判でござるよ…」
定邦にそう囁いたのだ。
するとこれには定邦も目を丸くし、
「貴殿は既に、この件、御存知であったか?」
忠可にそう尋ねたのであった。
「いや、ここ表向においては専らの評判にて…、どうやら田沼様は由緒正しき御血筋にあらせられる…、久松松平の流を汲みし御貴殿にお近付きになりたく、それで、と…、否、ことがことだけにこの忠可も俄かには信じられず、なれど御貴殿より直に賢丸君の件を打明けられ、やはりそうであったのかと…」
忠可のその「虚言」、もとい治済書下ろしによる「台本」を育ちの良い定邦は疑うこともせずに真に受けた。
「されば越中殿、田安様へと挨拶される前に、まずは田沼様へと挨拶されるが宜しかろう…」
忠可が定邦に改めてそう勧めると、定邦も「相分かった」と応じ、忠可のその進言に謝意を示した。
実際、定邦は北八丁堀にある白河藩上屋敷へと帰邸に及ぶや、その足で直ちに神田橋御門内にある田沼家上屋敷へと向かった。
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