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田安賢丸定信が田安家を継ぐことに田安家老の大屋遠江守明薫は難色を示し、田安家廣敷用人の竹本又八郎正甫もそれに続いて難色を示す。
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田安家老の山木筑前守正信が登城、将軍・家治より賢丸定信が田安家を継ぐことの是非について「聴取」を受けたその翌日、今度は相役、もう一人の田安家老・大屋遠江守明薫が登城した為、家治は昨日に引続いて、この大屋明薫からも「聴取」を試みた。
やはり御側御用取次の稲葉越中守正明の「取持」により御座之間にて家治は大屋明薫との面会に臨んだ。
「大屋明薫もきっと、山木正信同様、賢丸は田安家を継ぐに相応しいと、左様、応えてくれるに相違あるまい…」
家治はそう信じて大屋明薫との面会に臨んだ。
が、現実には家治のその期待を裏切るものであった。
家治は御座之間にて大屋明薫との面会を果たすや、
「仮にだが…、今、治察が歿したとして、賢丸には田安家を治めるだけの器量はあるか…」
前日、山木正信にも投掛けたその問いを、そのまま今度は相役の大屋明薫にも投掛けたのであった。
それに対して大屋明薫もきっと、山木正信同様、
「賢丸定信には田安家を治められるだけの器量がある…」
その答えが返ってくるものと、家治はそう信じていたのだが、違った。
大屋明薫はまず初めに難しい顔付きをした。
「大屋明薫もきっと、山木正信と同様、治察の死を前提とした問いに困惑しているのであろうぞ…」
家治は大屋明薫のその難しい顔付きを目の当たりにして、そう都合良く解釈した。
だがそれはあくまで家治の勝手な「思い込み」に過ぎなかった。
大屋明薫が難しい顔付きをしたのはそうではない。
「畏れながら…、賢丸君におかせられては…、とても田安家を治められるだけの御器量はないものと…」
大屋明薫はそう答えた。明薫はそれ故に、そう答えざるを得ない為に難しい顔付きをしてみせたのだ。
これに対して家治はと言うと、一瞬、聞間違いではないかと思った。それ故、家治は思わず、「なっ、何っ!?」と声を上ずらせて聞返していた。
それで大屋明薫も難しい顔付きのまま、
「ははっ…、されば賢丸君におかせられては、とても田安家を治めるだけの器量はないものと…」
はっきりとそう断じたのであった。
「なっ、何故だっ!?」
家治は何処ぞのデパート王宜しく、思わずそう叫んでいた。
「されば…、賢丸君におかせられては先年より、兄君にして今の御当主、大蔵卿治察殿のその…、死を望まれております御様子にて…」
「なっ、何だとっ!?」
「兄君が亡くなれば、田安家を継げると…」
「そっ、それで賢丸は兄・治察が死を望んでおると申すのかっ!?田安家を継ぎたいが為に…」
それは御三卿になりたい為に、とも言換えることが出来、それに対して、大屋明薫も「御意」と答えた。
だが家治には俄かには信じられない話であった。否、信じ度ない話であった。
すると明薫も家治の様子からそうと察したらしく、
「さればこの儀につきましては、家老は元より、番頭や用人にも…」
賢丸定信が己が御三卿になりたい為に、兄・治察の死を願っていることは家老だけでなく、番頭や用人の間でも有名な話であると、明薫は家治にそう示唆したのであった。
そこで家治は思わず、「なれど…、山木正信は…」と思わずそう口走らせてしまった。
「山木筑前は大方…、賢丸君への忠心からその…」
敢えて嘘を付いたのであろうと、明薫はこれまた家治にそう示唆した。
今の明薫のその示唆だが、昨日、山木正信が将軍・家治より「下問」があったことを承知していることをも抱合していた。
「明薫、そなた…」
「ははっ…、されば昨日、山木筑前へも上様より御下問がありましたこと、筑前当人より聞及びましてござりまする…」
昨日、相役の山木正信より、賢丸定信に田安家を継がせることの是非につき上様より「御下問」があったことを伝え聞いたのだと、明薫は家治に答えた。
「成程…、いや、相役なればさもあろう…」
「されば上様、賢丸君に田安家を継がしめあそばされます是非につきましては、我等、家老だけではのうて、番頭や用人、或いは廣敷用人にも御聞きあそばされましては如何でござりましょう…」
大屋明薫はまるで己の主張の正しさの、つまりは嘘を付いていないことの証を立てるかの様にそう主張した。
家治としてもその提案に惹かれるものがあった。
無論、明薫が嘘を付いているとは思っていなかった。それは斯かる提案を家治にしてみせたことからも明らかであろう。
殊に廣敷用人にも聞いてみるよう、家治に勧めたことからもそれは察せられた。
それと言うのも、賢丸定信は今はまだ元服前、前髪を垂らしており、田安大奥にて生母の登耶と養母の寶蓮院、この両者の手許にて大事に育てられていた。
つまり今、田安家にて一番、賢丸定信と接触する機会に恵まれている家臣と言えば、それは田安大奥にて仕える男子役人の廣敷用人であった。
その廣敷用人から賢丸定信について、具体的には賢丸定信は果たして己が御三卿になりたい為に、兄・治察の死を願っているのか、それを聞いてみたら良いと、明薫は家治にそう勧めていたのだ。
成程、明薫が嘘を付いていたならば、ここまで踏込んだ提案はしないであろう。
それ故、家治は明薫は嘘を付いていないと確信した。
それでも家治は明薫の勧めもあり、外の者の意見も、とりわけ廣敷用人の意見も聞いてみたいと思った。
その上で、賢丸定信に田安家を継がせるか否か、判断した方がより客観性が高まるというものである。
否、そうではない。それはあくまで「建前」であった。
「大屋明薫はやはり嘘を付いていたのだ…」
つまりは賢丸定信は己が御三卿になりたい為に、当主である兄の死を願う様な男ではないと、家治はそれを明らかにしたいが為に廣敷用人からも意見を聞いてみたいと思ったのだ。
御三卿大奥に仕える男子役人の廣敷用人の定員は大抵3人であり、田安家もそうであろう。
仮に大屋明薫の「証言」通り、真実、賢丸定信がその様な男であれば、廣敷用人の内、一人くらいは明薫と同じ「証言」をするであろう。
逆にそうでなければ、つまりは賢丸定信は決して邪な思惑から兄の死を願う様な男でなければ、廣敷用人は皆、口を揃えてそう「証言」する筈であった。
家治はその「可能性」に賭けることにした。
問題は如何にして彼等、廣敷用人をここ御城へと召出すかであった。
彼等、廣敷用人は田安大奥に、もっと言えば寶蓮院や登耶に仕える男子役人である。
その彼等を一斉にこの御城へと召喚すれば必ずや寶蓮院や登耶は不審に思うであろう。
何しろ、御三卿に仕える家臣の中でも殿中席があるのは、つまりはここ御城へと登城する機会があるのは家老のみであり、家老に次ぐ重職である番頭や用人はその機会がなかった。
御三卿の番頭や用人と言えば従六位布衣役であるにもかかわらず、である。
否、御三卿の番頭や用人は従六位布衣役であるので、その任命こそ、今、家治が大屋明薫と向かい合っているここ、御座之間にて将軍より直々に為された。
つまりは御三卿番頭や用人の御役への拝命時こそ登城するものの、その程度であり、後は登城する機会はなく、それ故、殿中席は設けられていなかった。
本来、従六位布衣役である御三卿の番頭や用人ですらこの有様なのだから、そもそも従六位布衣役ですらない御三卿大奥の廣敷用人は言うに及ばず、であった。
それ故、その様な廣敷用人を、田安家廣敷用人を一斉に御城へと召出せば、どうしても寶蓮院や登耶に不審を抱かせてしまう。
だが家治としては出来れば、否、絶対にそれは避けたいところであった。
殊に、寶蓮院から不審を抱かれるのは避けたかった。
何しろ寶蓮院と言えば、田安家の始祖、宗武の正室として絶大なる権威を誇っていた。
その権威たるや、今の田安家当主である治察をも上回るものがあった。
何しろ治察は寶蓮院の実の子であり、しかもその治察は当主とは言え、病気がちで、今は賢丸定信も暮らす田安大奥にて病臥の身であった。
その為、畢竟、寶蓮院が病弱な我が子・治察に代わって田安家を切盛りせざるを得ない。
寶蓮院が当主・治察をも凌ぐ権威を持つのも当然であった。
そして家治はこの寶蓮院が苦手であった。
無論、寶蓮院が嫌いという訳ではない。それどころか好きであった。
だが寶蓮院を前にすると、どうしても頭が上がらないのだ。
寶蓮院は将軍家である御三卿、それも筆頭の田安家の始祖・宗武の正室にして、現当主の治察の実母ということもあり、御城の本丸、西之丸を問わず、大奥への出入りは自由であり、大奥にて家治が寶蓮院と向合う機会も度々であった。
その際、家治はまるで実の母を前にするかの様な錯覚に襲われるのだ。
家治が寶蓮院に頭が上がらないのはその為であった。
仮に家治は寶蓮院に仕える廣敷用人を召出せば、寶蓮院は必ずやここ御城本丸大奥へと登城し、家治に面会を求め、そして廣敷用人の一件につき、家治を詰問するに違いなかった。
そうなった場合、家治は寶蓮院に何もかも、それこそ、
「洗い浚い…」
白状に及んでしまうであろう。
だがそうなると、家老について、殊に大屋明薫の賢丸定信に関しての「証言」にも触れざるを得ず、その場合、明薫が「不利益」を蒙るやも知れぬ。
少なくとも、養母の寶蓮院は元より、その生母の登耶からも不興を買うのは避けられまい。
何しろ、明薫のその「証言」たるや、賢丸定信を刺すのも同然であった。
これで明薫の「証言」が家治も期待する通り、真赤な偽りであれば、家治としては明薫がどうなろうとも知ったことではなかったが、しかし、真赤な偽りとは断ぜられない今の段階においては明薫の身の上を案じない訳にはゆかなかった。
そこで家治としてはただ己の為だけではない、明薫の為をも思えばこそ、寶蓮院に不審を抱かれることなく廣敷用人をこの御城へと召出す手立について思案した。
すると大屋明薫も家治の様子からそうと察したらしく、そこで実に絶妙なる「口実」を捻り出した。
「されば…、上様におかせられましては田安大奥にて療養中の大蔵卿治察殿が身を案じられており、今の治察殿の容態について傍に仕えし者より直に聞いてみたいとの思召しにて…」
明薫がその「口実」を口にするや、家治も膝を打って、「成程」と応じた。
「それなれば寶蓮院殿にも怪しまれずに廣敷用人を召出すことが出来ると申すものぞ…」
家治は思わずそんな本音をぶちまけたものだから、これには明薫も内心、苦笑を禁じ得なかった。
かくして大屋明薫の段取りにより、その翌日、寶蓮院に、それに登耶にも怪しまれずに田安家廣敷用人を御城へと、それも中奥は御座之間へと召出すことに成功した。
今の田安家廣敷用人は慣例通り3人おり、毛利齋宮元卓、杉浦猪兵衛良昭、そして竹本又八郎正甫の3人であり、家治は1人ずつ面会した。
それと言うのも3人同時に、一斉に面会に及べば、
「真実のところを話せぬやも知れず…」
真実、賢丸定信が己が御三卿になりたい為に兄の死を願う様な男だとして、家治がその真偽を糺すべく、3人の廣敷用人を一斉に並べて聴取に及んだとしても、3人は互いに意識し合い、結果、
「真実の証言は得られまい…」
それ故、1人ずつ聴取して欲しいと、大屋明薫が家治に願出た為である。
家治も明薫のその願出は尤もであるとして、そこで1人ずつの聴取と相成った。
さて、家治はまずは毛利齋宮から「聴取」を始めた。
家治は治察の容態について切出した。そういう名目で廣敷用人を召出したからだ。
これに対して毛利齋宮も、
「当たり障りなく…」
家治に応えた。仮に治察が重態だとしても、田安家廣敷用人の身ではそう応えるより外にはないだろう。
家治もそれは理解していたので、治察の容態についてはサラリと受流すと、愈々、本題に入った。
即ち、仮に治察が歿した場合、弟の賢丸定信は田安家を継ぐに相応しいか、その点を糺したのだ。
するとやはりと言うべきか、治察の死を前提としたその問いに毛利齋宮は家老の山木正信同様、まずは躊躇しつつも、それでもこれまた正信同様、
「賢丸君におかせられては田安家を継ぐ器量の持主かと…」
そう太鼓判を押したのであった。
続く杉浦猪兵衛もまた同様であった。
しかし、最後に聴取した竹本又八郎は違った。
何と竹本又八郎は毛利齋宮や杉浦猪兵衛とは異なり、つまりは大屋明薫と同様、
「賢丸君におかせられてはその…、自が御三卿に…、田安家当主になりたいが為に、病臥の身とは申せ、未だ健在にあらせられます当主にして兄君でもある治察殿が死を待望まれる風にて、とても御三卿の…、田安家当主の器とは思えず…」
実に申訳なさそうな様子を浮かべつつ、家治にそう応えたのであった。
やはり御側御用取次の稲葉越中守正明の「取持」により御座之間にて家治は大屋明薫との面会に臨んだ。
「大屋明薫もきっと、山木正信同様、賢丸は田安家を継ぐに相応しいと、左様、応えてくれるに相違あるまい…」
家治はそう信じて大屋明薫との面会に臨んだ。
が、現実には家治のその期待を裏切るものであった。
家治は御座之間にて大屋明薫との面会を果たすや、
「仮にだが…、今、治察が歿したとして、賢丸には田安家を治めるだけの器量はあるか…」
前日、山木正信にも投掛けたその問いを、そのまま今度は相役の大屋明薫にも投掛けたのであった。
それに対して大屋明薫もきっと、山木正信同様、
「賢丸定信には田安家を治められるだけの器量がある…」
その答えが返ってくるものと、家治はそう信じていたのだが、違った。
大屋明薫はまず初めに難しい顔付きをした。
「大屋明薫もきっと、山木正信と同様、治察の死を前提とした問いに困惑しているのであろうぞ…」
家治は大屋明薫のその難しい顔付きを目の当たりにして、そう都合良く解釈した。
だがそれはあくまで家治の勝手な「思い込み」に過ぎなかった。
大屋明薫が難しい顔付きをしたのはそうではない。
「畏れながら…、賢丸君におかせられては…、とても田安家を治められるだけの御器量はないものと…」
大屋明薫はそう答えた。明薫はそれ故に、そう答えざるを得ない為に難しい顔付きをしてみせたのだ。
これに対して家治はと言うと、一瞬、聞間違いではないかと思った。それ故、家治は思わず、「なっ、何っ!?」と声を上ずらせて聞返していた。
それで大屋明薫も難しい顔付きのまま、
「ははっ…、されば賢丸君におかせられては、とても田安家を治めるだけの器量はないものと…」
はっきりとそう断じたのであった。
「なっ、何故だっ!?」
家治は何処ぞのデパート王宜しく、思わずそう叫んでいた。
「されば…、賢丸君におかせられては先年より、兄君にして今の御当主、大蔵卿治察殿のその…、死を望まれております御様子にて…」
「なっ、何だとっ!?」
「兄君が亡くなれば、田安家を継げると…」
「そっ、それで賢丸は兄・治察が死を望んでおると申すのかっ!?田安家を継ぎたいが為に…」
それは御三卿になりたい為に、とも言換えることが出来、それに対して、大屋明薫も「御意」と答えた。
だが家治には俄かには信じられない話であった。否、信じ度ない話であった。
すると明薫も家治の様子からそうと察したらしく、
「さればこの儀につきましては、家老は元より、番頭や用人にも…」
賢丸定信が己が御三卿になりたい為に、兄・治察の死を願っていることは家老だけでなく、番頭や用人の間でも有名な話であると、明薫は家治にそう示唆したのであった。
そこで家治は思わず、「なれど…、山木正信は…」と思わずそう口走らせてしまった。
「山木筑前は大方…、賢丸君への忠心からその…」
敢えて嘘を付いたのであろうと、明薫はこれまた家治にそう示唆した。
今の明薫のその示唆だが、昨日、山木正信が将軍・家治より「下問」があったことを承知していることをも抱合していた。
「明薫、そなた…」
「ははっ…、されば昨日、山木筑前へも上様より御下問がありましたこと、筑前当人より聞及びましてござりまする…」
昨日、相役の山木正信より、賢丸定信に田安家を継がせることの是非につき上様より「御下問」があったことを伝え聞いたのだと、明薫は家治に答えた。
「成程…、いや、相役なればさもあろう…」
「されば上様、賢丸君に田安家を継がしめあそばされます是非につきましては、我等、家老だけではのうて、番頭や用人、或いは廣敷用人にも御聞きあそばされましては如何でござりましょう…」
大屋明薫はまるで己の主張の正しさの、つまりは嘘を付いていないことの証を立てるかの様にそう主張した。
家治としてもその提案に惹かれるものがあった。
無論、明薫が嘘を付いているとは思っていなかった。それは斯かる提案を家治にしてみせたことからも明らかであろう。
殊に廣敷用人にも聞いてみるよう、家治に勧めたことからもそれは察せられた。
それと言うのも、賢丸定信は今はまだ元服前、前髪を垂らしており、田安大奥にて生母の登耶と養母の寶蓮院、この両者の手許にて大事に育てられていた。
つまり今、田安家にて一番、賢丸定信と接触する機会に恵まれている家臣と言えば、それは田安大奥にて仕える男子役人の廣敷用人であった。
その廣敷用人から賢丸定信について、具体的には賢丸定信は果たして己が御三卿になりたい為に、兄・治察の死を願っているのか、それを聞いてみたら良いと、明薫は家治にそう勧めていたのだ。
成程、明薫が嘘を付いていたならば、ここまで踏込んだ提案はしないであろう。
それ故、家治は明薫は嘘を付いていないと確信した。
それでも家治は明薫の勧めもあり、外の者の意見も、とりわけ廣敷用人の意見も聞いてみたいと思った。
その上で、賢丸定信に田安家を継がせるか否か、判断した方がより客観性が高まるというものである。
否、そうではない。それはあくまで「建前」であった。
「大屋明薫はやはり嘘を付いていたのだ…」
つまりは賢丸定信は己が御三卿になりたい為に、当主である兄の死を願う様な男ではないと、家治はそれを明らかにしたいが為に廣敷用人からも意見を聞いてみたいと思ったのだ。
御三卿大奥に仕える男子役人の廣敷用人の定員は大抵3人であり、田安家もそうであろう。
仮に大屋明薫の「証言」通り、真実、賢丸定信がその様な男であれば、廣敷用人の内、一人くらいは明薫と同じ「証言」をするであろう。
逆にそうでなければ、つまりは賢丸定信は決して邪な思惑から兄の死を願う様な男でなければ、廣敷用人は皆、口を揃えてそう「証言」する筈であった。
家治はその「可能性」に賭けることにした。
問題は如何にして彼等、廣敷用人をここ御城へと召出すかであった。
彼等、廣敷用人は田安大奥に、もっと言えば寶蓮院や登耶に仕える男子役人である。
その彼等を一斉にこの御城へと召喚すれば必ずや寶蓮院や登耶は不審に思うであろう。
何しろ、御三卿に仕える家臣の中でも殿中席があるのは、つまりはここ御城へと登城する機会があるのは家老のみであり、家老に次ぐ重職である番頭や用人はその機会がなかった。
御三卿の番頭や用人と言えば従六位布衣役であるにもかかわらず、である。
否、御三卿の番頭や用人は従六位布衣役であるので、その任命こそ、今、家治が大屋明薫と向かい合っているここ、御座之間にて将軍より直々に為された。
つまりは御三卿番頭や用人の御役への拝命時こそ登城するものの、その程度であり、後は登城する機会はなく、それ故、殿中席は設けられていなかった。
本来、従六位布衣役である御三卿の番頭や用人ですらこの有様なのだから、そもそも従六位布衣役ですらない御三卿大奥の廣敷用人は言うに及ばず、であった。
それ故、その様な廣敷用人を、田安家廣敷用人を一斉に御城へと召出せば、どうしても寶蓮院や登耶に不審を抱かせてしまう。
だが家治としては出来れば、否、絶対にそれは避けたいところであった。
殊に、寶蓮院から不審を抱かれるのは避けたかった。
何しろ寶蓮院と言えば、田安家の始祖、宗武の正室として絶大なる権威を誇っていた。
その権威たるや、今の田安家当主である治察をも上回るものがあった。
何しろ治察は寶蓮院の実の子であり、しかもその治察は当主とは言え、病気がちで、今は賢丸定信も暮らす田安大奥にて病臥の身であった。
その為、畢竟、寶蓮院が病弱な我が子・治察に代わって田安家を切盛りせざるを得ない。
寶蓮院が当主・治察をも凌ぐ権威を持つのも当然であった。
そして家治はこの寶蓮院が苦手であった。
無論、寶蓮院が嫌いという訳ではない。それどころか好きであった。
だが寶蓮院を前にすると、どうしても頭が上がらないのだ。
寶蓮院は将軍家である御三卿、それも筆頭の田安家の始祖・宗武の正室にして、現当主の治察の実母ということもあり、御城の本丸、西之丸を問わず、大奥への出入りは自由であり、大奥にて家治が寶蓮院と向合う機会も度々であった。
その際、家治はまるで実の母を前にするかの様な錯覚に襲われるのだ。
家治が寶蓮院に頭が上がらないのはその為であった。
仮に家治は寶蓮院に仕える廣敷用人を召出せば、寶蓮院は必ずやここ御城本丸大奥へと登城し、家治に面会を求め、そして廣敷用人の一件につき、家治を詰問するに違いなかった。
そうなった場合、家治は寶蓮院に何もかも、それこそ、
「洗い浚い…」
白状に及んでしまうであろう。
だがそうなると、家老について、殊に大屋明薫の賢丸定信に関しての「証言」にも触れざるを得ず、その場合、明薫が「不利益」を蒙るやも知れぬ。
少なくとも、養母の寶蓮院は元より、その生母の登耶からも不興を買うのは避けられまい。
何しろ、明薫のその「証言」たるや、賢丸定信を刺すのも同然であった。
これで明薫の「証言」が家治も期待する通り、真赤な偽りであれば、家治としては明薫がどうなろうとも知ったことではなかったが、しかし、真赤な偽りとは断ぜられない今の段階においては明薫の身の上を案じない訳にはゆかなかった。
そこで家治としてはただ己の為だけではない、明薫の為をも思えばこそ、寶蓮院に不審を抱かれることなく廣敷用人をこの御城へと召出す手立について思案した。
すると大屋明薫も家治の様子からそうと察したらしく、そこで実に絶妙なる「口実」を捻り出した。
「されば…、上様におかせられましては田安大奥にて療養中の大蔵卿治察殿が身を案じられており、今の治察殿の容態について傍に仕えし者より直に聞いてみたいとの思召しにて…」
明薫がその「口実」を口にするや、家治も膝を打って、「成程」と応じた。
「それなれば寶蓮院殿にも怪しまれずに廣敷用人を召出すことが出来ると申すものぞ…」
家治は思わずそんな本音をぶちまけたものだから、これには明薫も内心、苦笑を禁じ得なかった。
かくして大屋明薫の段取りにより、その翌日、寶蓮院に、それに登耶にも怪しまれずに田安家廣敷用人を御城へと、それも中奥は御座之間へと召出すことに成功した。
今の田安家廣敷用人は慣例通り3人おり、毛利齋宮元卓、杉浦猪兵衛良昭、そして竹本又八郎正甫の3人であり、家治は1人ずつ面会した。
それと言うのも3人同時に、一斉に面会に及べば、
「真実のところを話せぬやも知れず…」
真実、賢丸定信が己が御三卿になりたい為に兄の死を願う様な男だとして、家治がその真偽を糺すべく、3人の廣敷用人を一斉に並べて聴取に及んだとしても、3人は互いに意識し合い、結果、
「真実の証言は得られまい…」
それ故、1人ずつ聴取して欲しいと、大屋明薫が家治に願出た為である。
家治も明薫のその願出は尤もであるとして、そこで1人ずつの聴取と相成った。
さて、家治はまずは毛利齋宮から「聴取」を始めた。
家治は治察の容態について切出した。そういう名目で廣敷用人を召出したからだ。
これに対して毛利齋宮も、
「当たり障りなく…」
家治に応えた。仮に治察が重態だとしても、田安家廣敷用人の身ではそう応えるより外にはないだろう。
家治もそれは理解していたので、治察の容態についてはサラリと受流すと、愈々、本題に入った。
即ち、仮に治察が歿した場合、弟の賢丸定信は田安家を継ぐに相応しいか、その点を糺したのだ。
するとやはりと言うべきか、治察の死を前提としたその問いに毛利齋宮は家老の山木正信同様、まずは躊躇しつつも、それでもこれまた正信同様、
「賢丸君におかせられては田安家を継ぐ器量の持主かと…」
そう太鼓判を押したのであった。
続く杉浦猪兵衛もまた同様であった。
しかし、最後に聴取した竹本又八郎は違った。
何と竹本又八郎は毛利齋宮や杉浦猪兵衛とは異なり、つまりは大屋明薫と同様、
「賢丸君におかせられてはその…、自が御三卿に…、田安家当主になりたいが為に、病臥の身とは申せ、未だ健在にあらせられます当主にして兄君でもある治察殿が死を待望まれる風にて、とても御三卿の…、田安家当主の器とは思えず…」
実に申訳なさそうな様子を浮かべつつ、家治にそう応えたのであった。
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たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した
若き日の滝川一益と滝川義太夫、
尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として
天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が
からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

信忠 ~“奇妙”と呼ばれた男~
佐倉伸哉
歴史・時代
その男は、幼名を“奇妙丸”という。人の名前につけるような単語ではないが、名付けた父親が父親だけに仕方がないと思われた。
父親の名前は、織田信長。その男の名は――織田信忠。
稀代の英邁を父に持ち、その父から『天下の儀も御与奪なさるべき旨』と認められた。しかし、彼は父と同じ日に命を落としてしまう。
明智勢が本能寺に殺到し、信忠は京から脱出する事も可能だった。それなのに、どうして彼はそれを選ばなかったのか? その決断の裏には、彼の辿って来た道が関係していた――。
◇この作品は『小説家になろう(https://ncode.syosetu.com/n9394ie/)』『カクヨム(https://kakuyomu.jp/works/16818093085367901420)』でも同時掲載しています◇

江戸の兄弟 ~遠山金四郎と長谷川平蔵~
ご隠居
歴史・時代
時は文政8(1825)年、12月7日。江戸城本丸に住まう将軍・家斉に近侍する小納戸45人が登用され、その中に遠山景晋の孫(実際には子)の金四郎景元と長谷川平蔵の孫(辰蔵の子)の平蔵宣昭がいた…。
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