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溜間での閣議で田安賢丸定信を白河松平家へ養嗣子に出すことで衆議一決するや、中奥小姓を遣わして老中一同を溜間へと呼寄せる。
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田安家当主大蔵卿治察が舎弟、賢丸定信を帝鑑間詰の白河松平家へと養嗣子に出すことで溜間における閣議が衆議一決するや、溜間の一番末席に控えていた定國が溜間に面した入側にて控えていた中奥小姓に対して老中を連れて来る様、命じた。
ここ溜間は通称であり、正確には御溜と称され、黒書院に附属する部屋であった。
黒書院は上段・下段・西湖之間・囲炉裏之間の4部屋からなり、内、下段が入側を介して御溜こと溜間と繋がっていた。
それ故、中奥小姓が詰めている溜間に面した入側は黒書院下段に面した入側でもあった。
そして黒書院は今でこそ表向に組込まれているものの、嘗ては将軍の居所である中奥に組込まれていた時分があり、しかもその黒書院に附属する溜間自体が中奥とも呼称されていた。
その時の名残から、溜間に仕える小姓を中奥小姓と称し、一方、今の中奥にて将軍に近侍する小姓を中奥小姓と区別して奥小姓とも称される。
それにしても溜間詰の諸侯はあくまで一介の大名、或いはその嫡子に過ぎず、にもかかわらず、将軍同様、小姓が配されおり、その一事を以てしても如何に彼等が―、溜間詰の諸侯やその嫡子が幕府内で重く扱われていたか分かろう。
何しろ大名の筆頭とも言うべき御三家さえも、小姓までは配されてはいなかったからだ。精々、数寄屋坊主が茶の給仕をする程度であり、ちなみに溜間詰の諸侯も御三家同様、数寄屋坊主の茶の給仕を受ける。
しかも溜間詰の諸侯に近侍する中奥小姓は将軍に近侍する小姓、さしずめ奥小姓と同じく従五位下諸太夫役であった。これもまた、溜間詰の幕府内での地位を、つまりは幕府内で重く扱われているのかを示しているものであった。
否、溜間詰の待遇、それも厚遇はこれに止まらず、中奥番士まで配されていたのだ。
中奥番士とは要は黒書院、それも主に溜間周辺の警備に当たる番士であり、事実上、溜間詰の諸侯の「SP」を担っており、溜間詰の諸侯が溜間にて閣議の最中、中奥小姓がその入側、黒書院下段にも面しているその入側にて控えているのに対して、中奥番士は更にその周囲、溜間や入側を囲む板敷の縁頬にて控え、不審者に目を光らせていた。
御城の殿中警備は「五番方」とも称される武官の中でも、小姓組番・書院番・新番・小十人組番の4番組が担っていたが、それでも彼等は御三家や、或いは老中・若年寄の専属の「SP」という訳ではない。
成程、例えば小姓組番の詰所、所謂、番所こそ紅葉之間と、菊間の近くにあったが、しかしだからと言って小姓組番は菊間詰の諸侯の専属の「SP」という訳ではない。
また新番にもそれは当て嵌まろう。即ち、新番の番所である新番所こそ若年寄の執務室である次御用部屋の近くにあるが、しかしだからと言って新番はやはり若年寄専属の「SP」という訳ではないのだ。
小姓組番にしろ新番にしろ、無論、書院番や小十人組番にしてもそうだが、あくまで殿中全体の警備係であった。
その点、中奥番士は溜間詰の諸侯の「SP」という位置付けであり、これもまた「厚遇」であろう。何しろ御三家でさえも、殿中においては専属の「SP」宜しく番士などは配されていなかったからだ。
かくして溜間詰の諸侯は中奥小姓や中奥番士が配される程に幕府内で重く扱われ、元来は帝鑑間が殿中席である伊豫松山松平家が当主の隠岐守定靜が将軍家である御三卿、それも筆頭の田安家より定國を養嗣子に迎えてまで家格の向上を、即ち、殿中席を帝鑑間より斯かる溜間へと昇格を果たそうとしたのも至極、当然と言えた。
さて、定國より老中を連れて来る様、命じられた中奥小姓は老中の執務室である上御用部屋へと足を運んだ。
上御用部屋への入室が許されているのは基本的にはその補佐役である若年寄や、或いは御側御用取次、奥右筆組頭、それに同朋頭や御用部屋坊主のみであったが、実は中奥小姓もそこに加わる。
無論、中奥小姓は正式に上御用部屋への入室が認められている訳ではないので、そこで同朋頭に一声かける必要はあった。
同朋頭は老中・若年寄や大名・諸役人との間で取次に従事し、それ故、老中の執務室である上御用部屋への入室が認められていたのだ。
その同朋頭は老中が上御用部屋において閣議の最中には、即ち、若年寄もまた次御用部屋にて閣議の最中でもあるが、その折には上御用部屋と次御用部屋との間に挟まれた廊下にて控えていた。
これは同朋頭が老中・若年寄と大名・諸役人との間に取次に従事する為であった。
いつ何時、老中、或いは若年寄から御用を、取次を命じられても良い様にと、そこで同朋頭は老中や若年寄が閣議の最中にはその夫々の執務室である上御用部屋と次御用部屋との間に挟まれた廊下にて控えていたのだ。
中奥小姓はその廊下まで進むことが許されていたのだ。これも外の諸役人は元より大名さえも、それこそ御三家でさえも許されていなかった。
そして中奥小姓は同朋頭に一声かけさえすれば、上御用部屋や次御用部屋、夫々の「住人」とも言うべき老中や若年寄の意向を確かめずして入室が許されていた。
今もそうであり、中奥小姓が上御用部屋へと入室すると、それだけで老中たちはそうと察した。即ち、
「溜間詰の諸侯が我等、老中に御用がおありだ…」
老中首座にして、老中としての経歴も一番長い松平右近将監武元は元より、平の老中にして、それも一番の新人である田沼主殿頭意次さえもそう察せられた。
案の定、中奥小姓より溜間詰の諸侯が老中に用件があることを告げられるや、老中一同、立上がり、そして中奥小姓の先立ち、案内を受けて溜間へと向かった。
これで溜間以外の諸侯であれば、その殿中席へと老中を呼付けるなど考えられないことであった。
否、松之大廊下、それも上ノ部屋を殿中席とする御三家なれば、或いはその下ノ部屋を殿中席とする加賀前田家や福井松平家といった諸侯なれば老中を呼付けることも可能やも知れぬが、しかし、所謂、大廊下詰とも称される彼等、御三家などは今日の様な平日、登城が許されておらず、そもそもいなかった。
今日の様な平日、登城が許されている大名諸侯と言えば幕府政治顧問の溜間を除いては精々、雁間詰の諸侯に限られ、それ故、雁間には今、所謂、詰衆がいたものの、しかし彼等詰衆が殿中席である雁間へと老中を呼付けるなど到底、許されないことであった。
だが相手が溜間詰の諸侯ともなると話は別であり、溜間詰の諸侯より呼出しを受けたならば老中一同、謹んで溜間へと足を運ばねばなるまい。
さて、老中一同が中奥小姓の案内により溜間に姿を見せるや、溜間詰の諸侯、即ち、定溜の会津松平家の当主である肥後守容清、それに一代限りにて溜間に詰めることが許された伊豫松山松平家の当主である隠岐守定靜と、その嫡子である中務大輔定國の三者は三様の反応を示した。
即ち、松平定國は溜間の中でも床の間とは正反対の、中奥番士が控える板敷の縁頬を背にして、つまりは末席にて控え、そこへ老中一同が姿を見せるや平伏してこれを出迎えた。
これは偏に官位の所為である。
松平定國は養父・定靜に倣い、溜間に詰めることが認められている、つまりは幕府政治顧問であるとは言え、その官位は従四位下諸太夫、所謂、四品に過ぎず、老中の官位である従四位下侍従よりも、たったの「一階級」だけだが低いものであった。
それ故、定國の場合、仮に幕府の御役に就く機会に恵まれたとしても、非常置の最高職たる大老は元より、常置の最高職たる老中、或いは老中に准ずる京都所司代にも就けず、就けるとしたら大坂城代か側用人といったところであろうか。大坂城代と側用人は共に四品に相当する御役だからだ。
かくして今の定國は溜間詰とは申せ、老中一同を末席にて、それも平伏して出迎えねばならず、これが定國には何とも屈辱であった。
何しろ定國は八代将軍・吉宗の孫であり、当人もその意識で凝固まっており、あまつさえ、
「本来なれば、この定國こそが兄、治察の後を襲うて…」
田安家の当主、つまりは御三卿の筆頭に立てた筈であり、そうなれば老中を平伏させていたことであろうと、そう信じて疑わなかった。
だが現実には定國は老中に平伏せねばならぬ立場に置かれ、そのことがまた、一橋治済に乗せられた格好ではあるが、
「賢丸めも、この定國と同じく田安家より何処ぞの大名家へと養嗣子に出させてやろう…」
定國をそう駆立てさせたのであった。その動機だが、
「賢丸めにもこの定國と同じ屈辱を舐めさせたい…」
その様な負の感情からであった。
仮に賢丸定信が何処ぞの大名家へと養嗣子に迎えられた場合、その大名家の殿中席はやはり溜間へと昇格するのは間違いなく、そうなれば賢丸定信も元服、成人したならば定國と同様、平日も登城して溜間に詰めることになろう。
その場合、溜間へと足を運ぶ老中に対して賢丸定信もまた、定國同様、平伏せねばならないことになるからだ。
賢丸定信は今はまだ無位無官の身であり、これで何処ぞの大名家へと、この場合は白河松平家へと養嗣子に出されたとして、まずは従五位下諸太夫に叙されるであろう。
白河松平家もまた、外の大名家と同じく嫡子はまずは従五位下諸太夫に叙され、定國と同じく四品、従四位下諸太夫に叙されるのは家督を継いでから間もなくである。
尤もそれは定國が養嗣子として迎えられた伊豫松山松平家とて同じことである。
伊豫松山松平家もまた、嫡子はまず従五位下諸太夫に叙され、四品に叙されるのは家督を継いでから間もなくのことであり、嫡子の間に四品に叙されることはない。
しかし、定國の場合、八代将軍・吉宗の孫ということもあり、そこで未だ、定靜の養嗣子として伊豫松山松平家の部屋住の身であり乍、特別に四品に叙されたのだ。
そしてこの「恩恵」だが、定國の養父となった定靜も蒙る機会に恵まれた。
定靜もまた、
「畏れ多くも八代様が御血筋にあらせられる定國殿が養父として相応しい官位を…」
幕府当局によるその考えの下、定國を養嗣子として迎え入れた2年後の明和7(1770)年11月にそれまでの四品、従四位諸太夫より老中と同格にして伊豫松山松平家の極官である従四位下侍従へと昇叙した訳だが、これは極めて異例なことと言えた。
それと言うのも、伊豫松山松平家の極官である従四位下侍従に到達するには、家督相続後、30年が必要であるからだ。家督相続後、30年を経たないと従四位下侍従に辿り着けないのだ。
だが定靜が伊豫松山松平家の家督を相続したのはそれより5年前の明和2(1765)年2月のことであり、つまり家督を相続してからまだ5年しか経っていないのにその30年経たないと辿り着けない極官である従四位下侍従へと早くも辿り着いてしまったのだ。
無論、八代将軍・吉宗の孫である定國を養嗣子として迎え入れたことによる「霊験」であり、その「霊験」は更に定靜に殿中席の向上をも齎したのであった。
即ち、更にその翌年―、異例とも言える「スピード」で極官である従四位下侍従へと辿り着いたその翌年の明和8(1771)年6月には伊豫松山松平家の本来の殿中席である帝鑑間より、
「その身一代限り…」
という条件附ではあるものの、溜間へと昇格を果たしたのだ。
そして溜間詰ともなると父子同席が原則であり、そうであれば定國もまた、養父・定靜と共に溜間に詰めることになり、しかしその時、定國の官位が従五位下諸太夫のままでは如何にも収まりが悪い。
何しろ溜間詰は幕府政治顧問であり、それに相応しい官位ともなると、最低でも四品は必要であろう。
定國は四品に叙されたのには斯かる事情も含まれていた。
であれば、定信もまた白河松平家へと養嗣子に迎えられたならば、定國と同じ運命を辿るに違いない。
そして仮に定信もまた、嫡子、養嗣子の身で溜間詰が認められたならば、実兄の定國と同じく平伏して老中を出迎えねばなるまい。
否、それだけではない。溜間における席次において定國は定信を己の下に座らせることも出来る。
官位が同格同士の場合、その優劣は先任順、先にその官位に就いた方が優先され、つまりは「早い者勝ち」という訳だ。
定國は今からその様を想像することで、心を落着かせた。
一方、定國が養父・定靜は溜間の中でも次席に、即ち、竹之廊下を背にして控えていた。
溜間は竹之廊下にも通じており、溜間の中でもこの竹之廊下の出入口に当たる場所は次席に位置付けられていた。
それと言うのも、竹之廊下は月次御礼などの際、中奥より表向に出御した将軍が黒書院より白書院へと足を運ぶ際に使われる廊下であり、つまりはそれだけ格式のある廊下ということで、その様な竹之廊下へと通ずる場所故に次席に位置付けられていたのだ。
今、溜間に詰めている諸侯の中でも二番目に高い官位にあるのがこの松平定靜であり、それ故、定靜は竹之廊下を背にして老中を出迎え、且つ、老中と同格の従四位下侍従である為に養嗣子の定國とは異なり、平伏せずに会釈程度に止めた。
そして今、溜間に詰めている諸侯の中で一番高い官位にあるのが定溜の松平容清であり、容清の官位は従四位上中将と大老の有資格者であり、それ故、溜間の中でも最上席である床の間を背にして鎮座し、無論、姿を見せた老中一同に対して、会釈すらせず、逆に老中一同を平伏させた。
ここ溜間は通称であり、正確には御溜と称され、黒書院に附属する部屋であった。
黒書院は上段・下段・西湖之間・囲炉裏之間の4部屋からなり、内、下段が入側を介して御溜こと溜間と繋がっていた。
それ故、中奥小姓が詰めている溜間に面した入側は黒書院下段に面した入側でもあった。
そして黒書院は今でこそ表向に組込まれているものの、嘗ては将軍の居所である中奥に組込まれていた時分があり、しかもその黒書院に附属する溜間自体が中奥とも呼称されていた。
その時の名残から、溜間に仕える小姓を中奥小姓と称し、一方、今の中奥にて将軍に近侍する小姓を中奥小姓と区別して奥小姓とも称される。
それにしても溜間詰の諸侯はあくまで一介の大名、或いはその嫡子に過ぎず、にもかかわらず、将軍同様、小姓が配されおり、その一事を以てしても如何に彼等が―、溜間詰の諸侯やその嫡子が幕府内で重く扱われていたか分かろう。
何しろ大名の筆頭とも言うべき御三家さえも、小姓までは配されてはいなかったからだ。精々、数寄屋坊主が茶の給仕をする程度であり、ちなみに溜間詰の諸侯も御三家同様、数寄屋坊主の茶の給仕を受ける。
しかも溜間詰の諸侯に近侍する中奥小姓は将軍に近侍する小姓、さしずめ奥小姓と同じく従五位下諸太夫役であった。これもまた、溜間詰の幕府内での地位を、つまりは幕府内で重く扱われているのかを示しているものであった。
否、溜間詰の待遇、それも厚遇はこれに止まらず、中奥番士まで配されていたのだ。
中奥番士とは要は黒書院、それも主に溜間周辺の警備に当たる番士であり、事実上、溜間詰の諸侯の「SP」を担っており、溜間詰の諸侯が溜間にて閣議の最中、中奥小姓がその入側、黒書院下段にも面しているその入側にて控えているのに対して、中奥番士は更にその周囲、溜間や入側を囲む板敷の縁頬にて控え、不審者に目を光らせていた。
御城の殿中警備は「五番方」とも称される武官の中でも、小姓組番・書院番・新番・小十人組番の4番組が担っていたが、それでも彼等は御三家や、或いは老中・若年寄の専属の「SP」という訳ではない。
成程、例えば小姓組番の詰所、所謂、番所こそ紅葉之間と、菊間の近くにあったが、しかしだからと言って小姓組番は菊間詰の諸侯の専属の「SP」という訳ではない。
また新番にもそれは当て嵌まろう。即ち、新番の番所である新番所こそ若年寄の執務室である次御用部屋の近くにあるが、しかしだからと言って新番はやはり若年寄専属の「SP」という訳ではないのだ。
小姓組番にしろ新番にしろ、無論、書院番や小十人組番にしてもそうだが、あくまで殿中全体の警備係であった。
その点、中奥番士は溜間詰の諸侯の「SP」という位置付けであり、これもまた「厚遇」であろう。何しろ御三家でさえも、殿中においては専属の「SP」宜しく番士などは配されていなかったからだ。
かくして溜間詰の諸侯は中奥小姓や中奥番士が配される程に幕府内で重く扱われ、元来は帝鑑間が殿中席である伊豫松山松平家が当主の隠岐守定靜が将軍家である御三卿、それも筆頭の田安家より定國を養嗣子に迎えてまで家格の向上を、即ち、殿中席を帝鑑間より斯かる溜間へと昇格を果たそうとしたのも至極、当然と言えた。
さて、定國より老中を連れて来る様、命じられた中奥小姓は老中の執務室である上御用部屋へと足を運んだ。
上御用部屋への入室が許されているのは基本的にはその補佐役である若年寄や、或いは御側御用取次、奥右筆組頭、それに同朋頭や御用部屋坊主のみであったが、実は中奥小姓もそこに加わる。
無論、中奥小姓は正式に上御用部屋への入室が認められている訳ではないので、そこで同朋頭に一声かける必要はあった。
同朋頭は老中・若年寄や大名・諸役人との間で取次に従事し、それ故、老中の執務室である上御用部屋への入室が認められていたのだ。
その同朋頭は老中が上御用部屋において閣議の最中には、即ち、若年寄もまた次御用部屋にて閣議の最中でもあるが、その折には上御用部屋と次御用部屋との間に挟まれた廊下にて控えていた。
これは同朋頭が老中・若年寄と大名・諸役人との間に取次に従事する為であった。
いつ何時、老中、或いは若年寄から御用を、取次を命じられても良い様にと、そこで同朋頭は老中や若年寄が閣議の最中にはその夫々の執務室である上御用部屋と次御用部屋との間に挟まれた廊下にて控えていたのだ。
中奥小姓はその廊下まで進むことが許されていたのだ。これも外の諸役人は元より大名さえも、それこそ御三家でさえも許されていなかった。
そして中奥小姓は同朋頭に一声かけさえすれば、上御用部屋や次御用部屋、夫々の「住人」とも言うべき老中や若年寄の意向を確かめずして入室が許されていた。
今もそうであり、中奥小姓が上御用部屋へと入室すると、それだけで老中たちはそうと察した。即ち、
「溜間詰の諸侯が我等、老中に御用がおありだ…」
老中首座にして、老中としての経歴も一番長い松平右近将監武元は元より、平の老中にして、それも一番の新人である田沼主殿頭意次さえもそう察せられた。
案の定、中奥小姓より溜間詰の諸侯が老中に用件があることを告げられるや、老中一同、立上がり、そして中奥小姓の先立ち、案内を受けて溜間へと向かった。
これで溜間以外の諸侯であれば、その殿中席へと老中を呼付けるなど考えられないことであった。
否、松之大廊下、それも上ノ部屋を殿中席とする御三家なれば、或いはその下ノ部屋を殿中席とする加賀前田家や福井松平家といった諸侯なれば老中を呼付けることも可能やも知れぬが、しかし、所謂、大廊下詰とも称される彼等、御三家などは今日の様な平日、登城が許されておらず、そもそもいなかった。
今日の様な平日、登城が許されている大名諸侯と言えば幕府政治顧問の溜間を除いては精々、雁間詰の諸侯に限られ、それ故、雁間には今、所謂、詰衆がいたものの、しかし彼等詰衆が殿中席である雁間へと老中を呼付けるなど到底、許されないことであった。
だが相手が溜間詰の諸侯ともなると話は別であり、溜間詰の諸侯より呼出しを受けたならば老中一同、謹んで溜間へと足を運ばねばなるまい。
さて、老中一同が中奥小姓の案内により溜間に姿を見せるや、溜間詰の諸侯、即ち、定溜の会津松平家の当主である肥後守容清、それに一代限りにて溜間に詰めることが許された伊豫松山松平家の当主である隠岐守定靜と、その嫡子である中務大輔定國の三者は三様の反応を示した。
即ち、松平定國は溜間の中でも床の間とは正反対の、中奥番士が控える板敷の縁頬を背にして、つまりは末席にて控え、そこへ老中一同が姿を見せるや平伏してこれを出迎えた。
これは偏に官位の所為である。
松平定國は養父・定靜に倣い、溜間に詰めることが認められている、つまりは幕府政治顧問であるとは言え、その官位は従四位下諸太夫、所謂、四品に過ぎず、老中の官位である従四位下侍従よりも、たったの「一階級」だけだが低いものであった。
それ故、定國の場合、仮に幕府の御役に就く機会に恵まれたとしても、非常置の最高職たる大老は元より、常置の最高職たる老中、或いは老中に准ずる京都所司代にも就けず、就けるとしたら大坂城代か側用人といったところであろうか。大坂城代と側用人は共に四品に相当する御役だからだ。
かくして今の定國は溜間詰とは申せ、老中一同を末席にて、それも平伏して出迎えねばならず、これが定國には何とも屈辱であった。
何しろ定國は八代将軍・吉宗の孫であり、当人もその意識で凝固まっており、あまつさえ、
「本来なれば、この定國こそが兄、治察の後を襲うて…」
田安家の当主、つまりは御三卿の筆頭に立てた筈であり、そうなれば老中を平伏させていたことであろうと、そう信じて疑わなかった。
だが現実には定國は老中に平伏せねばならぬ立場に置かれ、そのことがまた、一橋治済に乗せられた格好ではあるが、
「賢丸めも、この定國と同じく田安家より何処ぞの大名家へと養嗣子に出させてやろう…」
定國をそう駆立てさせたのであった。その動機だが、
「賢丸めにもこの定國と同じ屈辱を舐めさせたい…」
その様な負の感情からであった。
仮に賢丸定信が何処ぞの大名家へと養嗣子に迎えられた場合、その大名家の殿中席はやはり溜間へと昇格するのは間違いなく、そうなれば賢丸定信も元服、成人したならば定國と同様、平日も登城して溜間に詰めることになろう。
その場合、溜間へと足を運ぶ老中に対して賢丸定信もまた、定國同様、平伏せねばならないことになるからだ。
賢丸定信は今はまだ無位無官の身であり、これで何処ぞの大名家へと、この場合は白河松平家へと養嗣子に出されたとして、まずは従五位下諸太夫に叙されるであろう。
白河松平家もまた、外の大名家と同じく嫡子はまずは従五位下諸太夫に叙され、定國と同じく四品、従四位下諸太夫に叙されるのは家督を継いでから間もなくである。
尤もそれは定國が養嗣子として迎えられた伊豫松山松平家とて同じことである。
伊豫松山松平家もまた、嫡子はまず従五位下諸太夫に叙され、四品に叙されるのは家督を継いでから間もなくのことであり、嫡子の間に四品に叙されることはない。
しかし、定國の場合、八代将軍・吉宗の孫ということもあり、そこで未だ、定靜の養嗣子として伊豫松山松平家の部屋住の身であり乍、特別に四品に叙されたのだ。
そしてこの「恩恵」だが、定國の養父となった定靜も蒙る機会に恵まれた。
定靜もまた、
「畏れ多くも八代様が御血筋にあらせられる定國殿が養父として相応しい官位を…」
幕府当局によるその考えの下、定國を養嗣子として迎え入れた2年後の明和7(1770)年11月にそれまでの四品、従四位諸太夫より老中と同格にして伊豫松山松平家の極官である従四位下侍従へと昇叙した訳だが、これは極めて異例なことと言えた。
それと言うのも、伊豫松山松平家の極官である従四位下侍従に到達するには、家督相続後、30年が必要であるからだ。家督相続後、30年を経たないと従四位下侍従に辿り着けないのだ。
だが定靜が伊豫松山松平家の家督を相続したのはそれより5年前の明和2(1765)年2月のことであり、つまり家督を相続してからまだ5年しか経っていないのにその30年経たないと辿り着けない極官である従四位下侍従へと早くも辿り着いてしまったのだ。
無論、八代将軍・吉宗の孫である定國を養嗣子として迎え入れたことによる「霊験」であり、その「霊験」は更に定靜に殿中席の向上をも齎したのであった。
即ち、更にその翌年―、異例とも言える「スピード」で極官である従四位下侍従へと辿り着いたその翌年の明和8(1771)年6月には伊豫松山松平家の本来の殿中席である帝鑑間より、
「その身一代限り…」
という条件附ではあるものの、溜間へと昇格を果たしたのだ。
そして溜間詰ともなると父子同席が原則であり、そうであれば定國もまた、養父・定靜と共に溜間に詰めることになり、しかしその時、定國の官位が従五位下諸太夫のままでは如何にも収まりが悪い。
何しろ溜間詰は幕府政治顧問であり、それに相応しい官位ともなると、最低でも四品は必要であろう。
定國は四品に叙されたのには斯かる事情も含まれていた。
であれば、定信もまた白河松平家へと養嗣子に迎えられたならば、定國と同じ運命を辿るに違いない。
そして仮に定信もまた、嫡子、養嗣子の身で溜間詰が認められたならば、実兄の定國と同じく平伏して老中を出迎えねばなるまい。
否、それだけではない。溜間における席次において定國は定信を己の下に座らせることも出来る。
官位が同格同士の場合、その優劣は先任順、先にその官位に就いた方が優先され、つまりは「早い者勝ち」という訳だ。
定國は今からその様を想像することで、心を落着かせた。
一方、定國が養父・定靜は溜間の中でも次席に、即ち、竹之廊下を背にして控えていた。
溜間は竹之廊下にも通じており、溜間の中でもこの竹之廊下の出入口に当たる場所は次席に位置付けられていた。
それと言うのも、竹之廊下は月次御礼などの際、中奥より表向に出御した将軍が黒書院より白書院へと足を運ぶ際に使われる廊下であり、つまりはそれだけ格式のある廊下ということで、その様な竹之廊下へと通ずる場所故に次席に位置付けられていたのだ。
今、溜間に詰めている諸侯の中でも二番目に高い官位にあるのがこの松平定靜であり、それ故、定靜は竹之廊下を背にして老中を出迎え、且つ、老中と同格の従四位下侍従である為に養嗣子の定國とは異なり、平伏せずに会釈程度に止めた。
そして今、溜間に詰めている諸侯の中で一番高い官位にあるのが定溜の松平容清であり、容清の官位は従四位上中将と大老の有資格者であり、それ故、溜間の中でも最上席である床の間を背にして鎮座し、無論、姿を見せた老中一同に対して、会釈すらせず、逆に老中一同を平伏させた。
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アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
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史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した
若き日の滝川一益と滝川義太夫、
尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として
天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が
からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

信忠 ~“奇妙”と呼ばれた男~
佐倉伸哉
歴史・時代
その男は、幼名を“奇妙丸”という。人の名前につけるような単語ではないが、名付けた父親が父親だけに仕方がないと思われた。
父親の名前は、織田信長。その男の名は――織田信忠。
稀代の英邁を父に持ち、その父から『天下の儀も御与奪なさるべき旨』と認められた。しかし、彼は父と同じ日に命を落としてしまう。
明智勢が本能寺に殺到し、信忠は京から脱出する事も可能だった。それなのに、どうして彼はそれを選ばなかったのか? その決断の裏には、彼の辿って来た道が関係していた――。
◇この作品は『小説家になろう(https://ncode.syosetu.com/n9394ie/)』『カクヨム(https://kakuyomu.jp/works/16818093085367901420)』でも同時掲載しています◇

江戸の兄弟 ~遠山金四郎と長谷川平蔵~
ご隠居
歴史・時代
時は文政8(1825)年、12月7日。江戸城本丸に住まう将軍・家斉に近侍する小納戸45人が登用され、その中に遠山景晋の孫(実際には子)の金四郎景元と長谷川平蔵の孫(辰蔵の子)の平蔵宣昭がいた…。
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