164 / 169
現場不在証明(アリバイ)崩し ~長谷川平蔵は池原良明刺殺事件時における清水家サイドのアリバイ崩しに挑む~
しおりを挟む
同じ頃、新たに西之丸先手鉄砲頭に任じられた長谷川平蔵は早速、清水重好の陰謀の探索に乗出した。
まずは件の池原良明刺殺事件時における鉄壁の現場不在証明崩しからであった。
池原良明が愛宕山権現社の總門へと通ずる橋にて刺殺されたと思しき刻限、清水家においては主の重好を筆頭に、八役、即ち、家老、番頭、用人、旗奉行、長柄奉行、物頭、郡奉行、そして勘定奉行の全員に現場不在証明があった。
否、それに今一人、番頭よりも格上にして家老に次ぐ重職である御側御用人にまで現場不在証明があった。
池原良明刺殺事件時、清水家においては、それも重好と八役プラス側用人は皆、丁度、清水家上屋敷を取囲む竹橋御門、田安御門、そして清水御門、夫々の門番を掌っていた|伊勢崎藩酒井家、下総多古藩松平家、そして旗本の鈴木家、各家より遣わされた使者の接遇に努めていたのだ。
門番を掌る彼等、大名や旗本が清水家上屋敷へと遣いの者を差向けたのは偏に、家老の本多昌忠が実弟にして、重好の近習を務める本多六三郎を見舞う為であった。
清水家においては日頃より竹橋御門、田安御門、そして清水御門に食事を差入れているらしく、その清水家の家老の弟が親知らずの歯痛で苦しんでいるということで、そこで日頃の食事の礼も兼ねて見舞いの使者を清水家へと差遣わした次第である。
かくして清水重好と八役プラス側用人は彼等、見舞いの使者の接遇に努め、それが丁度、池原良明が刺殺された時分とのことであった。
そこで長谷川平蔵はこの現場不在証明が真かどうか、自ら調べ直すことにした。
即ち、当時の竹橋御門番の伊勢崎酒井家、田安御門番の下総多古藩松平家、そして清水御門番の旗本・鈴木家、夫々の屋敷へと出向いては見舞いの使者を勤めた、即ち、清水家の現場不在証明を証言した彼等からもう一度、その時のことを尋ねたのであった。
結果、重好達の現場不在証明は微妙なものとなった。
正確には親知らずの所為で歯痛に苦しめられていた筈の本多六三郎の現場不在証明が微妙なものとなった。
それが―、病臥しているのが間違いなく本多六三郎だと証言したのは清水御門番を勤めていた旗本・鈴木家の遣いの者だけで、竹橋御門番を勤めていた伊勢崎藩酒井家、並びに田安御門番を勤めていた下総多古藩松平家、この両家よりの遣いの者に関しては、
「確と本多六三郎の姿を見た訳ではない…、ただ鈴木家よりの遣いの者が病床の本多六三郎に頻りに話しかけ、結果、療治に当たっていた安藤正朋より制されたので、そこで身共は本多六三郎に近付くのは遠慮したのだ…」
長谷川平蔵の聴取に対して揃ってそう証言したのだ。
だとしたら本多六三郎の姿を確かに見たのは、そう証言するのは清水御門番を勤めていた旗本・鈴木家よりの見舞いの者だけということになり、仮にこの証言が嘘であれば、清水家の現場不在証明は崩れる。
即ち、本多六三郎こそが池原良明刺殺事件の真の下手人である可能性が高かった。
さも一橋治済の陰謀の一環であるかの様に装った池原良明の刺殺―、清水重好がそれを実行に移すべく、実行犯として選んだのは八役プラス側用人の中からだろうと、つまりはその中に実行犯がいるに違いないと、平蔵はそれまでそう睨んでいた。
清水家においては外にも数多の家臣がいたが、その様な大それた陰謀を持掛けるとなると、その相手は八役か、側用人に限られる。下手に末端の家臣に声をかけたりしたら、要は池原良明の殺しを頼んだりしたら、それを逆手に取られ、最悪、脅される可能性があり得たからだ。
無論、その場合には重好のことである。直ちにその不心得者の口を塞ぐであろうが、その様な危険性がはっきりしている以上は最初から末端の家臣になど声をかけずに、八役か、側用人に声をかけるのが一番であった。
だが、八役プラス側用人には確たる現場不在証明があり、しかし八役の一人、家老の本多昌忠が実弟の六三郎には現場不在証明がない、となると、この本多六三郎こそが下手人である可能性が高い。本多六三郎は八役でもなければ側用人でもなく、一介の近習番に過ぎないものの、しかし家老の兄を持っており、その立場は八役や側用人に次ぐと言えよう。
否、その場合には本多六三郎の療治に当たっていたとする歯科医の安藤安仙正朋が本多六三郎の療治に当たっていたのも嘘ということになる。
そこで長谷川平蔵は配下の與力、同心に命じて当時、清水御門番を勤めていた旗本の鈴木數馬安節、並びに歯科医―、歯科を専門とする幕府奥医師の安藤安仙正朋、この両者と清水家との所縁について調べさせた。
仮に鈴木家の見舞いの使者が本多六三郎の現場不在証明を偽証したり、或いは安藤正朋が居もしない本多六三郎の治療をしたなどと、これまた偽証したりとなれば、鈴木家の当主、數馬安節や安藤正朋もまた、池原良明刺殺事件の共犯者ということになり、その場合、二人には必ずや清水家との所縁がある筈であった。
そこで平蔵はそのことを配下に附された、それも定信の計らいにより父・宣雄に仕えていた與力、同心らに命じて調べさせたのであった。
その結果、とんでもない事実が判明したのだ。
やはりと言うべきか、鈴木數馬にしろ安藤正朋にしろ、清水家との所縁があったのだ。
まず鈴木數馬だが、実母は何と重好の乳人を務めていたのだ。
それだけではない、清水御門番はそもそも、家禄が3千石以上の旗本、所謂、寄合から選ばれる。
だが鈴木家の場合、家禄はたったの3百俵、それも蔵米取の旗本に過ぎなかったのだ。
尤も、その鈴木家の当主たる數馬が清水自身《かずまじしん》、清水御門番を拝命するまでは、それも安永2(1773)年3月までは本丸にて従六位布衣役である小納戸を勤めており、それが、
「故ありて…」
小納戸の役を許され、役寄合として寄合入りを果たしたのだ。
成程、この場合は確かに鈴木數馬も寄合の一人に数えられるが、しかし清水御門番を勤め得る旗本の条件はあくまで家禄が3千石以上であり、役寄合は対象外であった。
にもかかわらず鈴木數馬が清水御門番を拝命出来たのは偏に清水重好の御蔭に違いなかった。
即ち、鈴木數馬を清水御門番に任じて欲しいと、重好がそう、腹違いの兄にして将軍の家治に懇願したからに違いない。
それは今、清水御門番を勤めているのが三浦五郎左衛門義和であることからも明らかであろう。
三浦五郎左衛門に至っては重好が母堂、安祥院の実の甥―、安祥院が実弟である三浦五郎左衛門義如が倅であった。
三浦五郎左衛門は西之丸にて家斉に小納戸として仕えていたが、先頃、その家斉が婚約者の茂姫共々、西之丸を追放されるや、三浦五郎左衛門は清水御門番へと転身を果たしたのであった。
西之丸にて、それも中奥にて家斉に仕えていた者たち、それも従六位布衣役以上の者はいったん役寄合という形で寄合入りを果たし、そこには三浦五郎左衛門も含まれていた。
五郎左衛門が当主を務める三浦家もまた、家禄が5百俵に過ぎず、それも蔵米取であった。
そこへ直ちにその三浦五郎左衛門が清水御門番へと転身を果たせたのはやはり重好の口添えがあったからに違いない。
そして重好が晴れて次期将軍として西之丸入りを果たせば、三浦五郎左衛門も直ちに門番の職を解かれ、西之丸入りを果たすに違いなく、その場合、後任の清水御門番はやはり、清水家所縁の者が任じられるに違いなかった。
また、安藤正朋についてもやはり清水家と所縁があり、実弟の安藤甚十郎正房が清水家にて近習番として重好に仕えており、本多六三郎とは相役であった。
かくして池原良明刺殺事件時における重好達の現場不在証明、殊に本多六三郎の現場不在証明は崩れたと言える。
やはり本多六三郎こそが池原良明刺殺事件の真の下手人だと、平蔵はそう確信した。
そんな平蔵に対して別の同心からは更に衝撃的な情報が齎された。
清水家老・本多昌忠が妻女の実弟、つまりは義弟は何と、田安用人の朝比奈六左衛門泰有だというのである。
朝比奈六左衛門と言えば、相役、同僚の田安用人・押田吉次郎と共に、同家廣敷用人の竹本又八郎による無理心中―、妻女を道連れにしての無理心中事件の現場に立会った一人である。
竹本又八郎はやはり同家侍女にして、治済の陰謀を告発しようとしていた廣瀬を扼殺、しかし治済が捕らえられたことで己にも探索の手が伸びそうなのでと、斯かる遺書を残して妻女を道連れにしての無理心中を図った訳だが、ことここに至っては、
「偽装心中…」
その言葉が平蔵の脳裏を過ぎった。
まずは件の池原良明刺殺事件時における鉄壁の現場不在証明崩しからであった。
池原良明が愛宕山権現社の總門へと通ずる橋にて刺殺されたと思しき刻限、清水家においては主の重好を筆頭に、八役、即ち、家老、番頭、用人、旗奉行、長柄奉行、物頭、郡奉行、そして勘定奉行の全員に現場不在証明があった。
否、それに今一人、番頭よりも格上にして家老に次ぐ重職である御側御用人にまで現場不在証明があった。
池原良明刺殺事件時、清水家においては、それも重好と八役プラス側用人は皆、丁度、清水家上屋敷を取囲む竹橋御門、田安御門、そして清水御門、夫々の門番を掌っていた|伊勢崎藩酒井家、下総多古藩松平家、そして旗本の鈴木家、各家より遣わされた使者の接遇に努めていたのだ。
門番を掌る彼等、大名や旗本が清水家上屋敷へと遣いの者を差向けたのは偏に、家老の本多昌忠が実弟にして、重好の近習を務める本多六三郎を見舞う為であった。
清水家においては日頃より竹橋御門、田安御門、そして清水御門に食事を差入れているらしく、その清水家の家老の弟が親知らずの歯痛で苦しんでいるということで、そこで日頃の食事の礼も兼ねて見舞いの使者を清水家へと差遣わした次第である。
かくして清水重好と八役プラス側用人は彼等、見舞いの使者の接遇に努め、それが丁度、池原良明が刺殺された時分とのことであった。
そこで長谷川平蔵はこの現場不在証明が真かどうか、自ら調べ直すことにした。
即ち、当時の竹橋御門番の伊勢崎酒井家、田安御門番の下総多古藩松平家、そして清水御門番の旗本・鈴木家、夫々の屋敷へと出向いては見舞いの使者を勤めた、即ち、清水家の現場不在証明を証言した彼等からもう一度、その時のことを尋ねたのであった。
結果、重好達の現場不在証明は微妙なものとなった。
正確には親知らずの所為で歯痛に苦しめられていた筈の本多六三郎の現場不在証明が微妙なものとなった。
それが―、病臥しているのが間違いなく本多六三郎だと証言したのは清水御門番を勤めていた旗本・鈴木家の遣いの者だけで、竹橋御門番を勤めていた伊勢崎藩酒井家、並びに田安御門番を勤めていた下総多古藩松平家、この両家よりの遣いの者に関しては、
「確と本多六三郎の姿を見た訳ではない…、ただ鈴木家よりの遣いの者が病床の本多六三郎に頻りに話しかけ、結果、療治に当たっていた安藤正朋より制されたので、そこで身共は本多六三郎に近付くのは遠慮したのだ…」
長谷川平蔵の聴取に対して揃ってそう証言したのだ。
だとしたら本多六三郎の姿を確かに見たのは、そう証言するのは清水御門番を勤めていた旗本・鈴木家よりの見舞いの者だけということになり、仮にこの証言が嘘であれば、清水家の現場不在証明は崩れる。
即ち、本多六三郎こそが池原良明刺殺事件の真の下手人である可能性が高かった。
さも一橋治済の陰謀の一環であるかの様に装った池原良明の刺殺―、清水重好がそれを実行に移すべく、実行犯として選んだのは八役プラス側用人の中からだろうと、つまりはその中に実行犯がいるに違いないと、平蔵はそれまでそう睨んでいた。
清水家においては外にも数多の家臣がいたが、その様な大それた陰謀を持掛けるとなると、その相手は八役か、側用人に限られる。下手に末端の家臣に声をかけたりしたら、要は池原良明の殺しを頼んだりしたら、それを逆手に取られ、最悪、脅される可能性があり得たからだ。
無論、その場合には重好のことである。直ちにその不心得者の口を塞ぐであろうが、その様な危険性がはっきりしている以上は最初から末端の家臣になど声をかけずに、八役か、側用人に声をかけるのが一番であった。
だが、八役プラス側用人には確たる現場不在証明があり、しかし八役の一人、家老の本多昌忠が実弟の六三郎には現場不在証明がない、となると、この本多六三郎こそが下手人である可能性が高い。本多六三郎は八役でもなければ側用人でもなく、一介の近習番に過ぎないものの、しかし家老の兄を持っており、その立場は八役や側用人に次ぐと言えよう。
否、その場合には本多六三郎の療治に当たっていたとする歯科医の安藤安仙正朋が本多六三郎の療治に当たっていたのも嘘ということになる。
そこで長谷川平蔵は配下の與力、同心に命じて当時、清水御門番を勤めていた旗本の鈴木數馬安節、並びに歯科医―、歯科を専門とする幕府奥医師の安藤安仙正朋、この両者と清水家との所縁について調べさせた。
仮に鈴木家の見舞いの使者が本多六三郎の現場不在証明を偽証したり、或いは安藤正朋が居もしない本多六三郎の治療をしたなどと、これまた偽証したりとなれば、鈴木家の当主、數馬安節や安藤正朋もまた、池原良明刺殺事件の共犯者ということになり、その場合、二人には必ずや清水家との所縁がある筈であった。
そこで平蔵はそのことを配下に附された、それも定信の計らいにより父・宣雄に仕えていた與力、同心らに命じて調べさせたのであった。
その結果、とんでもない事実が判明したのだ。
やはりと言うべきか、鈴木數馬にしろ安藤正朋にしろ、清水家との所縁があったのだ。
まず鈴木數馬だが、実母は何と重好の乳人を務めていたのだ。
それだけではない、清水御門番はそもそも、家禄が3千石以上の旗本、所謂、寄合から選ばれる。
だが鈴木家の場合、家禄はたったの3百俵、それも蔵米取の旗本に過ぎなかったのだ。
尤も、その鈴木家の当主たる數馬が清水自身《かずまじしん》、清水御門番を拝命するまでは、それも安永2(1773)年3月までは本丸にて従六位布衣役である小納戸を勤めており、それが、
「故ありて…」
小納戸の役を許され、役寄合として寄合入りを果たしたのだ。
成程、この場合は確かに鈴木數馬も寄合の一人に数えられるが、しかし清水御門番を勤め得る旗本の条件はあくまで家禄が3千石以上であり、役寄合は対象外であった。
にもかかわらず鈴木數馬が清水御門番を拝命出来たのは偏に清水重好の御蔭に違いなかった。
即ち、鈴木數馬を清水御門番に任じて欲しいと、重好がそう、腹違いの兄にして将軍の家治に懇願したからに違いない。
それは今、清水御門番を勤めているのが三浦五郎左衛門義和であることからも明らかであろう。
三浦五郎左衛門に至っては重好が母堂、安祥院の実の甥―、安祥院が実弟である三浦五郎左衛門義如が倅であった。
三浦五郎左衛門は西之丸にて家斉に小納戸として仕えていたが、先頃、その家斉が婚約者の茂姫共々、西之丸を追放されるや、三浦五郎左衛門は清水御門番へと転身を果たしたのであった。
西之丸にて、それも中奥にて家斉に仕えていた者たち、それも従六位布衣役以上の者はいったん役寄合という形で寄合入りを果たし、そこには三浦五郎左衛門も含まれていた。
五郎左衛門が当主を務める三浦家もまた、家禄が5百俵に過ぎず、それも蔵米取であった。
そこへ直ちにその三浦五郎左衛門が清水御門番へと転身を果たせたのはやはり重好の口添えがあったからに違いない。
そして重好が晴れて次期将軍として西之丸入りを果たせば、三浦五郎左衛門も直ちに門番の職を解かれ、西之丸入りを果たすに違いなく、その場合、後任の清水御門番はやはり、清水家所縁の者が任じられるに違いなかった。
また、安藤正朋についてもやはり清水家と所縁があり、実弟の安藤甚十郎正房が清水家にて近習番として重好に仕えており、本多六三郎とは相役であった。
かくして池原良明刺殺事件時における重好達の現場不在証明、殊に本多六三郎の現場不在証明は崩れたと言える。
やはり本多六三郎こそが池原良明刺殺事件の真の下手人だと、平蔵はそう確信した。
そんな平蔵に対して別の同心からは更に衝撃的な情報が齎された。
清水家老・本多昌忠が妻女の実弟、つまりは義弟は何と、田安用人の朝比奈六左衛門泰有だというのである。
朝比奈六左衛門と言えば、相役、同僚の田安用人・押田吉次郎と共に、同家廣敷用人の竹本又八郎による無理心中―、妻女を道連れにしての無理心中事件の現場に立会った一人である。
竹本又八郎はやはり同家侍女にして、治済の陰謀を告発しようとしていた廣瀬を扼殺、しかし治済が捕らえられたことで己にも探索の手が伸びそうなのでと、斯かる遺書を残して妻女を道連れにしての無理心中を図った訳だが、ことここに至っては、
「偽装心中…」
その言葉が平蔵の脳裏を過ぎった。
1
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
徳川家基、不本意!
克全
歴史・時代
幻の11代将軍、徳川家基が生き残っていたらどのような世の中になっていたのか?田沼意次に取立てられて、徳川家基の住む西之丸御納戸役となっていた長谷川平蔵が、田沼意次ではなく徳川家基に取り入って出世しようとしていたらどうなっていたのか?徳川家治が、次々と死んでいく自分の子供の死因に疑念を持っていたらどうなっていたのか、そのような事を考えて創作してみました。
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子
ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。
Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる