上 下
162 / 169

田沼意知は己を斬りつけた佐野善左衛門と、意知暗殺へと善左衛門を唆した酒井忠休たちの免罪を将軍・家治に懇願す。

しおりを挟む
「それと今一いまひとつ…、この意知おきともめが新番しんばん佐野さの善左衛門ぜんざえもんよりけましたる刃傷にんじょうにつきましても…」

 意知おきともがそう言いかけると、将軍しょうぐん家治いえはる乗出のりだし、「それよ…」と言葉ことばかぶせた。

 意知おきとも殿中でんちゅうにて佐野さの善左衛門ぜんざえもんりつけられた一件いっけんについても一橋ひとつばし治済はるさだかかわっていた。

 それも治済はるさだ定信さだのぶふんして佐野さの善左衛門ぜんざえもん意知暗殺おきともあんさつけしかけるという悪辣あくらつさであり、その姦計かんけい現職げんしょく若年寄わかどしよりである酒井さかい忠休ただよし太田おおた資愛すけよしさらには留守居るすい松平まつだいら忠郷たださと太田おおた資倍すけますはじめとする数多あまた幕府ばくふ重役じゅうやくからんでいた。

 彼等かれらみなしょくうばわれたのみならず、各々おのおのあずけさきにて処罰しょばつであった。

としてはさかさはりつけにしてもらぬ連中れんちゅうよ…」

 家治いえはるはそんな本音ほんねらすと、「いや実際じっさいはりつけしょそうかとおもう」と真顔まがおげたものだから、これには意知おきとも勿論もちろんのこと、すべての幕閣ばっかくおどろかせた。

おそれながら…、この意知おきとも、このとおり、すっかり本復致ほんぷくいたしましたるうえは、それは無理むりもうすものにて…」

 意知おきとも家治いえはるなだめるようくちはさんだ。

 殿中でんちゅうにおける刃傷にんじょう事件じけん被害者ひがいしゃねば、その時点じてん加害者かがいしゃ乱心らんしんよう気違きちがいと認定にんていされ、その時点じてん詮議せんぎ打切うちきり、切腹せっぷくたまわるというのが、忠臣蔵ちゅうしんぐら以降いこう確立かくりつされたルールであった。

 うらかえせば被害者ひがいしゃなないかぎりはどこまでも詮議せんぎくされ、またたまわることもない。精精せいぜい改易かいえきといったところであろうか。遠島えんとうにさえしょされることはないだろう。

 家治いえはる勿論もちろん、そのことは承知しょうちしており、それゆえ、「かっておるわ」とおうじた。

 いや家治いえはるとしては実際じっさい意知おきともりつけた佐野さの善左衛門ぜんざえもんたいしてはそれほど嫌悪感けんおかんってはいなかった。

 無論むろん大事だいじ家臣かしん寵臣ちょうしん意知おきとも疵付きずつけたのだから、いまでも佐野さの善左衛門ぜんざえもんたいしては、

ゆるせぬ…」

 そのおもいがあった。だがそれと嫌悪感けんおかんとはべつであり、家治いえはる佐野さの善左衛門ぜんざえもんたいしてはいかりの感情かんじょうこそいまでもいていたものの、嫌悪感けんおかんはなく、それどころか、

あわれなやつ…」

 いかりとは相反そうはんするそのよう感情かんじょうさえもいていた。

 一方いっぽう佐野さの善左衛門ぜんざえもん使嗾しそうよう使つかい―、それも使つかても同然どうぜんに、意知暗殺おきともあんさつ仕掛しかけた一橋ひとつばし治済はるさだもとより、若年寄わかどしより酒井さかい忠休ただよし太田おおた資愛すけよしらにたいしては家治いえはるいかりの感情かんじょうとも嫌悪感かんおかんをもいていた。

おのれけがさずに、目的もくてきたそうなどとは…」

 それが家治いえはる嫌悪感けんおかん理由りゆうであった。

無論むろんとしても佐野さの善左衛門ぜんざえもんめにあたえるは不可能ふかのうであることぐらい承知しょうちしておるわ…、個人的こじんてきにもそのつもりはない…、なれど佐野さの善左衛門ぜんざえもん使嗾しそうして目的もくてきを…、意知暗殺おきともあんさつたそうとせし連中れんちゅう…、まさしく卑怯ひきょうものべつぞ…」

 どうやら家治いえはる本気ほんき佐野さの善左衛門ぜんざえもん意知暗殺おきともあんさつへとはしらせた連中れんちゅう処刑しょけいしようとかんがえているらしく、そうとさっした意知おきともは、「上様うえさま…」といきんだ。

実際じっさいけがしたものと、それをそそのかせしもの…、どちらがつみおもいかは明白めいはくであろう?」

 家治いえはる意知おきともに、いや意知おきともふくめ、いま、この居並いならすべての幕閣ばっかくたいしていどようたずねた。

 たしかに実行犯じっこうはん教唆犯きょうさはんとでは、教唆犯きょうさはんほうつみおもい。

「されば佐野さの善左衛門ぜんざえもんにこそあたえられぬとしてもだ、佐野さの善左衛門ぜんざえもんけしかけし連中れんちゅうべつぞ?」

 これもまた家治いえはるの言うとおりであった。

 殿中でんちゅうでの刃傷にんじょうにおいては被害者ひがいしゃなないかぎりは、加害者かがいしゃたいしてあたえる、切腹せっぷくめいずることは出来できない―、その原則げんそくはあくまで実行犯じっこうはんにのみ適用てきようされるにぎず、教唆犯きょうさはんはそのかぎりにあらず、つまりは切腹せっぷくめいじても一向いっこう差支さしつかえなかった。

 いや教唆きょうさなどとは武士ぶしにあるまじきもっと卑怯ひきょう卑劣ひれつなる振舞ふるまいであろう。そのつみ万死ばんしあたいする。

 それゆえ仮令たとえ意知暗殺おきともあんさつ未遂みすいわったとはもうせ、その暗殺あんさつ未遂事件みすいじけん教唆犯きょうさはん家治いえはるあたえてもなん差支さしつかえないというのはかる理由りゆうによる。

 だが意知おきともとしては、「はい、そうですか」と素直すなおおうずるわけにはゆかなかった。

おそれながら…、佐野さの善左衛門ぜんざえもん使嗾しそうせしもの厳罰げんばつしょしましては、この意知おきともつみもまた剔抉てっけつされねばならず…」

「なに?意知おきともつみ、だと?」

 家治いえはるくびかしげた。

御意ぎょい…、されば殿中でんちゅうさわがさせしつみにて…」

なにもうすか…、殿中でんちゅうさわがさせしは佐野さの善左衛門ぜんざえもんであろうが…」

たしかに…、なれどこの意知おきともさやにて応戦おうせんし、やはり殿中でんちゅうさわがさせ…」

「それはむをまい。応戦おうせんせぬことには…」

御意ぎょい…、なれどつみつみにて、喧嘩けんかとももくせられ…」

 殿中でんちゅうでの喧嘩けんか両成敗りょうせいばい、それゆえに、佐野さの善左衛門ぜんざえもん意知おきとも殿中でんちゅうにて「喧嘩けんか」をするよう仕向しむけた酒井さかい忠休ただよしたち教唆犯きょうさはんばっするのだれば、おのればっせられなければならない―、意知おきともいささか、牽強付会けんきょうふかいぎる論法ろんぽうもちいて、酒井さかい忠休ただよしたち教唆犯きょうさはんかばったのであった。

殿中でんちゅうにて佐野さの善左衛門ぜんざえもんめにりつけられし一件いっけん…、それを意知おきとも喧嘩けんかもうすのか?」

御意ぎょい…」

「いや、喧嘩けんかあらず…、どうかんがえても佐野さの善左衛門ぜんざえもんめが一方的いっぽうてきにそなたにりかかり…」

一方的いっぽうてき…、と上様うえさまおおせられまするか…」

左様さよう…」

成程なるほど…、これでこの意知おきとも百姓ひゃくしょう町人ちょうにんなれば、一方的いっぽうてきりつけられれば、純然じゅんぜんたる被害者ひがいしゃ…、被害者ひがいしゃ…、刃傷にんじょう事件じけん被害者ひがいしゃもうせましょうが、なれどこの意知おきともかりにも武士ぶしなれば、一方的いっぽうてきりつけられましたとなると、それだけでつみ…、武士ぶしとしての心掛こころがけがりぬつみ…」

 意知おきとも意見いけんにはおなじく武士ぶし、言うなれば「軍事ぐんじ官僚かんりょう」であるほか幕閣ばっかくうなずいた。幕府ばくふとはすなわち、軍事ぐんじ政権せいけんであるからだ。

 そして家治いえはるはそのちょう征夷せいいたい将軍しょうぐんであり、家治いえはるもまた、意知おきとものその意見いけんうなずかされた。それはけっして牽強付会けんきょうふかいとも言切いいきれないからだ。

 それにしても意知おきともみずからを追詰おいつめるよう意見いけん繰出くりだしてまで、なにのぞもうとしているのか。

 それは佐野さの善左衛門ぜんざえもん使嗾しそうけしかけてまでおのれ討果うちはたさんとほっした酒井さかい忠休ただよしの「免罪めんざい」であった。

 家治いえはるもそうと気付きづくや、

意知おきともよ…、そうまでして酒井さかい忠休ただよしらをすくいたいのか?」

 いささあきれた口調くちょうたずねた。

 それはまさしくそのとおりであり、意知おきともも「御意ぎょい」とおうじると、

「このとおり、意知おきともいま恢復かいふくいたしましたなれば、このうえ、この意知如おきともごときのため処罰者しょばつしゃたくはござりませぬ…」

 家治いえはるにそう懇願こんがんしたのであった。

「なれど…、それで酒井さかい忠休ただよしだがそなたに感謝かんしゃするとはかぎるまいぞ?」

 家治いえはる意知おきともかんがえをピタリと言当いいあててみせた。

 如何いかにも意知おきとも酒井さかい忠休ただよしらの免罪めんざい将軍しょうぐん家治いえはる懇願こんがんすることで、

酒井さかい忠休ただよしたちから感謝かんしゃされるやも…」

 その下心したごころがあった。

 無論むろん酒井さかい忠休ただよしたちから感謝かんしゃされたところで、意知おきとも自身じしんなに見返みかえりがあるというわけでもなし、いや、そもそも家治いえはるいま指摘してきしたとおり、感謝かんしゃすらされないかもれなかった。

 それでもすくなくとも、これ以上いじょう酒井さかい忠休ただよしたちから逆恨さかうらみされずにむだろう。それゆえ意知おきとも酒井さかい忠休ただよしたちの免罪めんざい家治いえはる懇願こんがんしたのであった。

「まぁ、意知おきともがそうまでもうすならばゆるしてつかわしてもいが…」

上様うえさま…」

なんだ?」

「さればこのうえは、佐野さの善左衛門ぜんざえもん何卒なにとぞ寛恕かんじょほどを…」

なんと…、佐野さの善左衛門ぜんざえもんまでゆるせともうすのか?」

 家治いえはる流石さすがまるくした。

「されば佐野さの善左衛門ぜんざえもんあわれなるおとこにて…」

 意知おきとものこの意見いけんには家治いえはるうなずかされた。

佐野さの善左衛門ぜんざえもんは…、善左衛門ぜんざえもんなりに公儀こうぎため…、もそっと申上もうしあげますれば御国おんこくためおもえばこそ、この意知おきとも討果うちはたさんとほっしたに相違そういなく、されば結果的けっかてきには討果うちはたすことはかなわず、意知おきともはこのとおり、無事ぶじ…、となりますればかる佐野さの善左衛門ぜんざえもんばっするわけにはまいりますまいて…」

「それは…、いささか、買被かいかぶりがようぞ…、第一だいいち佐野さの善左衛門ぜんざえもんめはだまされたとはもうせ、おのれ私怨しえんにて意知おきともりつけたのだからな…」

たしかに…、なれど最前さいぜん申上もうしあげましたるとおり、公儀こうぎため御国おんこくため…、その動機どうききにしもあらず、されば見方みかたによりましては、公儀こうぎにとりましては忠義ちゅうぎしんとも…」

忠義ちゅうぎしん、のう…」

御意ぎょい…、佐野さの善左衛門ぜんざえもんたしかにこの意知おきともりかかりましたが、なれどけっして上様うえさまあだなすものにあらず、それどころかこの意知おきとも討果うちはたすことが上様うえさまへの忠義ちゅうぎ上様うえさま御為おためになるとしんじていたに相違そういなく、さればかる佐野さの善左衛門ぜんざえもんばっしましては、忠義ちゅうぎ否定ひていすることにもなりかねず、ここは何卒なにとぞ佐野さの善左衛門ぜんざえもん心根こころねに…、上様うえさまへの忠義ちゅうぎこころめんじて、上様うえさま寛恕かんじょたまわたく…」

 意知おきとも家治いえはるにそうも懇願こんがんすると平伏へいふくしてみせた。

 勿論もちろん、ここにもやはり意知おきともなりの下心したごころ、もとい「皮算用かわざんよう」がかくされていた。

 すなわち、田沼たぬま意次おきつぐ意知おきとも父子ふし幕府ばくふなかでもとりわけ、番方ばんかた武官ぶかんからの人気にんきとぼしかった。もっと言えば評判ひょうばんわるかった。

 幕府ばくふ軍事ぐんじ政権せいけんであるので、その幕府ばくふつかえるものみな番方ばんかた武官ぶかんということになるが、しかしそれはあくまで建前たてまえで、実際じっさいには役方やくかた文官ぶんかん番方ばんかた武官ぶかんとに明確めいかく区分くぶんされていた。

 そのなかでも番方ばんかた武官ぶかんは、

われこそは、武官ぶかんなか武官ぶかん…」

 そのよう優越ゆうえつ意識いしきすなわち、役方やくかた文官ぶんかんよりもまさっている、との優越ゆうえつ意識いしきがあり、ともすれば役方やくかた文官ぶんかんした傾向けいこうがあった。

 そのよう番方ばんかた武官ぶかんにとっては田沼たぬま意次おきつぐはどうにもゆるせぬ存在そんざいであった。

上様うえさまへつらい、算勘さんかんさい成上なりあがりおって…」

 この長袖者ちょうしゅうしゃめが、というわけで、そのせがれ意知おきとももまたしかりである。

 意次おきつぐもとより、意知おきとももそのことは自覚じかくするところであり、そこで意知おきとも佐野さの善左衛門ぜんざえもんりつけられたのを奇貨きかとすることをおもいついたのだ。

 すなわち、番方ばんかた武官ぶかんである佐野さの善左衛門ぜんざえもん免罪めんざい被害者ひがいしゃである意知おきとも自身じしん将軍しょうぐん家治いえはる懇願こんがんすることで、佐野さの善左衛門ぜんざえもん当人とうにんもとより、その背後はいごひかえる数百すうひゃくもの番方ばんかた武官ぶかん好感こうかんられるやもれず、ちょうじて、

人気にんきはくすることになるやもれぬ…」

 意知おきともはそのよう下心したごころ、「皮算用かわざんよう」から佐野さの善左衛門ぜんざえもん免罪めんざいねがったのだ。

 いや、やはりこれとて確実かくじつではない。だがすくなくともこれ以上いじょう番方ばんかた武官ぶかんからわるおもわれることはないだろう。意知おきともとしてはそれだけで十分じゅうぶんであった。

 家治いえはるもそうとさっすると、やはり佐野さの善左衛門ぜんざえもんゆるすことにした。

 それから老中ろうじゅう首座しゅざ松平まつだいら康福やすよしより、溜間たまりのまづめ井伊いい直幸なおひで大老たいろうえる提案ていあんがなされた。

 これは意知おきともちち意次おきつぐかいして、康福やすよしたのんでおいたことであった。

 あらた本丸ほんまる若年寄わかどしよりとしてくわわった、つまりは意知おきとも相役あいやく同僚どうりょうとなった井伊いい直朗なおあきらとの紐帯ちゅうたいつよくするのが目的もくてきであった。

 それなら意知おきとも自身じしん提案ていあんしてもさそうにもおもえるが、大老たいろうともなれば、老中ろうじゅう上座かみざ位置いちし、そのよう大老たいろう人事じんじを、老中ろうじゅう下位かいにある若年寄わかどしより意知おきとも提案ていあんするなど僭越せんえつぎよう。つまりはほどらずもいところで、そこで意知おきとも老中ろうじゅう首座しゅざにして意知おきとももと岳父がくふである松平まつだいら康福やすよしから提案ていあんしてもらうことにしたのだ。

 すると家治いえはるもこの提案ていあん受容うけいれ、井伊いい直幸なおひで大老たいろう就任しゅうにんまった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

徳川家基、不本意!

克全
歴史・時代
幻の11代将軍、徳川家基が生き残っていたらどのような世の中になっていたのか?田沼意次に取立てられて、徳川家基の住む西之丸御納戸役となっていた長谷川平蔵が、田沼意次ではなく徳川家基に取り入って出世しようとしていたらどうなっていたのか?徳川家治が、次々と死んでいく自分の子供の死因に疑念を持っていたらどうなっていたのか、そのような事を考えて創作してみました。

♡ちょっとエッチなアンソロジー〜アソコ編〜♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとエッチなショートショートつめあわせ♡

生贄にされた先は、エロエロ神世界

雑煮
恋愛
村の習慣で50年に一度の生贄にされた少女。だが、少女を待っていたのはしではなくどエロい使命だった。

♡ちょっとエッチなアンソロジー〜おっぱい編〜♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート詰め合わせ♡

マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子

ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。 Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。

♡ちょっとエッチなアンソロジー〜舐める編〜♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショートの詰め合わせ♡

意味がわかるとえろい話

山本みんみ
ホラー
意味が分かれば下ネタに感じるかもしれない話です(意味深)

処理中です...