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人気者・意知
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「さればこれにて…」
とりあえず今日の用件は済ませた重好は意知にそう告げて立上がると、意知も蒲団から起上がった。
「寝ていなくとも良いのか?」
重好は意知を気遣ってみせた。
「いえ、病ではござりませぬ故…」
意知はあくまで佐野善左衛門に肩を斬られたが為に療養していた。
しかもその肩の疵も番外科医・岡田一虎の縫合の甲斐あって今や完全に塞がっていた。
それ故、意知の「現場復帰」―、本丸若年寄への復職も近かった。
無論、だからと言って疵口が再び開いてしまう様な激しい運動は禁物だが、しかし重好を見送る程度であればむしろ、「現場復帰」に向けての必要な運動と言えた。
意知は重好にそのことを伝えると、重好も「それなれば…」と意知の見送りを受容れた。
意知は羽織を羽織ると、重好を門の外まで見送りに立った。
その道中、陳情客の待合所を通らねばならず、意知の案内により重好がその待合所に足を踏み入れ、すると陳情客は皆、重好に平伏してみせた。
陳情客の中には重好の顔を知っている者もあれば、知らぬ者もいた。
にもかかわらず皆が―、重好の顔を知らぬ者までが重好に平伏してみせたのは偏にその肩衣にあしらわれた紋所、所謂、
「三つ葉葵」
その紋所による。
三つ葉葵の紋所を用いることが許されている者など御三家や御三卿など相当、限られる。
それ故、重好の顔を知らずとも、平伏させるに充分であったのだ。三つ葉葵の紋所にはそれだけの威力があった。
さて重好は陳情客が平伏する中、立止まると、
「されば意知よ、そなたが薦めに従い、とりあえず西之丸老中の鳥居丹波を本丸老中へと遷し、後任の西之丸老中には白河藩主の松平越中を据えてつかわそうぞ…、また西之丸若年寄についても井伊兵部と酒井飛騨の両名をやはり本丸若年寄へと遷し、その後任には奏者番の秋元但馬と松平玄蕃…、玄蕃頭忠福の両名を据えてつかわそうぞ…」
意知に対して態々そう宣言してみせたのであった。無論、平伏する陳情客に聞かせる為であった。
すると平伏する陳情客も今のその重好の「宣言」から、
「次期将軍におなりあそばされた御三卿の清水宮内卿様に相違あるまい…」
重好の顔を知っている者は勿論のこと、知らぬ者もそう確信した。
今の刻限は既に昼の八つ半(午後3時頃)であり、朝の五つ半(午前9時頃)に将軍・家治が登城した諸大名や旗本らに、
「清水重好を次期将軍に据える…」
そう宣言してから三刻(約6時間)が経過しており、このことは、
「地下水の如く…」
御城の外へも洩れ伝わり、今、こうして重好に平伏する意知目当ての陳情客の耳にも届いていたのだ。
一方、意知は重好がまさかに、彼等陳情客の前で「リーク」するとは予想だにせず、流石に驚いたものの、そこは平静さを装い、「ははぁっ」と応じてみせた。
さて、意知が重好を門の外まで見送ると、それまで待合所に詰めていた、つまりは重好の「宣言」を聞かされた陳情客の幾人かが立上がった。
彼等は外の陳情客と同様、見舞いの名目にて意知の許に馳せ参じた訳だが、しかし意知に逢わずにいったん田沼家上屋敷をあとにした。彼等は恐らくは大名家の用人に相違あるまいと、意知は直感した。
事実、その通りであり、その中には本丸若年寄に内定した井伊兵部こと兵部少輔直朗が家臣―、與板藩江戸家老の松下源左衛門定賢がいた。
大名が老中、或いは若年寄に陳情する際には城使、即ち留守居を差向けるのが普通であり、大名当人は元より、家老が足を運ぶこともない。それは相手が今を時めく田沼意次・意知父子であろうともその例外ではない。
にもかかわらず、井伊直朗に限って態々、家老の松下源左衛門を差向けたのは外でもない、田沼家との近しい関係に由来する。
即ち、井伊直朗は意知が実妹を娶っており、意知とは義兄弟の間柄であったのだ。
それ故、直朗は留守居ではなく、それよりも格上の家老である松下源左衛門を田沼家へと、それも意知の許へと差向けるのを日課としていた。
その松下源左衛門であるが、流石に江戸家老だけあって、御三卿の清水重好の顔を知っており、しかもその重好の口から、主君・直朗の「栄転話」が飛出したのである。
あまつさえ、その「栄転話」が意知の薦めによるものとあらば、ここは是が非でも主君・直朗の「出馬」を促す必要があった。
即ち、直朗自ら、意知の許へと足を運んで貰わねばならない。
これでスマホなどの便利な通信機器があれば、それで主君・直朗と連絡を取合えば済む話だが、生憎とこの時代には斯かる便利な通信機器は影も形もなく、主君・直朗と連絡を取る為にはいったん屋敷へと戻らねばならない。
井伊直朗が住まう屋敷は西之御丸下にある。
直朗が当主を務める與板藩上屋敷は本来、数寄屋橋御門内にあったが、2年前の天明元(1781)年に直朗が奏者番より今の西之丸若年寄に取立てられるや、西之御丸下に屋敷が与えられた。所謂、拝領屋敷であり、爾来、直朗はそこで養嗣子の外也と外也の妻女にして意知が実妹の梅との間に生した娘と共に暮らしていた。
梅は既に亡く、直朗はそこで養嗣子の外也と娶わせた娘に今は亡き愛妻の名である梅を名乗らせていた。
ともあれ松下源左衛門は屋敷へと立ち戻ると、既に御城より帰邸に及んでいた主君・直朗に事の次第を打明けて、「出馬」を願った。
それに対して直朗も勿論、「そういうことなれば」と直ちに腰を上げ、家老の松下源左衛門を随いて、神田橋御門内にある田沼家上屋敷へと足を向けた。
こうして意知の許を訪れた大名の「第一号」は直朗と相成った。
「いや…、義兄上、すっかり御本復の由にて祝着の限り…」
直朗は意知と向き合うとまずはそう切出した。
既に意知が実妹にして、直朗が嘗ての愛妻の梅は卒していたものの、それでも直朗は未だに意知のことを、
「義兄上」
そう呼んで憚らなかった。それは無論、意知と近しい関係にあることを主張することによって自身の出世に役立てようとの思惑からであった。
事実、直朗はまずは次期将軍の清水重好に対して、己を西之丸若年寄から本丸若年寄へと遷任、昇格を進言してくれたことに謝意を示した上で、
「さればこの直朗、義兄上とは同輩ということになりますな…」
そう続けたのであった。その「心」は、
「若年寄筆頭たる首座にはこの直朗を…」
ズバリそれであった。意知は素早く脳内にて、そう「翻訳」、直朗の「心」を読み解いてみせるや、しかし直朗の希望には応えられなかった。
それと言うのも加納久堅の存在があるからだ。
それまで首座であった酒井忠休と次席の太田資愛の両名が若年寄の職を追われた今、加納久堅が若年寄の中で一番の古株であった。
されば酒井忠休に替わる首座と言えば、この加納久堅を措いて外にはない。
そこで意知はその点を直朗に指摘、つまりは将軍・家治に対して加納久堅を若年寄首座に推挙する意向であることを伝えた上で、
「なれど…、加納殿は御齢74と御高齢なれば…」
首座として実務は担えないだろうとも、直朗に水を向けた。
すると聡い直朗のこと、意知の真意に気付いたらしい、
「それでは…、勝手掛を?」
意知にそう確かめる様に尋ねた。
首座に次ぐのは財政担当の勝手掛であり、しかし酒井忠休は首座であり乍、この勝手掛をも手放そうとしなかった。
酒井忠休が勝手掛を兼ねる様になったのはまだ松平伊賀守忠順が若年寄筆頭たる首座にあった時分の安永6(1777)年4月のことであり、去年の天明3(1783)年2月にその松平忠順が現職のまま卒し、勝手掛を兼ねていた次席の酒井忠休が松平忠順の後を襲う格好で首座に任じられた後も、忠休は勝手掛を手放さずに今に至った。
それはさしずめ、玩具を手放さない子供の様なものであり、忠休はそれでも太田資愛を勝手に次席に据えたのであった。
太田資愛は3年前の天明元(1781)年9月に若年寄に任じられ、加納久堅は元より米倉昌晴よりも後輩に当たる。
酒井忠休がその太田資愛を勝手掛を兼ねさせることなく、勝手に次席に任じたのは、
「資愛なれば御し易い…」
そう考えてのことである。
ともあれその酒井忠休にしろ、太田資愛にしろ、揃って若年寄の職より追われた為に一気に首座と勝手掛が空席となり、そこで意知は首座には加納久堅を据えた上で、次席には井伊直朗を据え、本来の仕来り通り、勝手掛を兼ねさせるつもりであった。
これこそが意知の「真意」であり、直朗もそうと読取った。
「されば勝手掛は激務なれば…」
御齢74と高齢の加納久堅では激務の勝手掛は勤まらず、そこで直朗に勤めて貰いたいのだと、意知は直朗にそう示唆した。
「この直朗に果たして、斯かる大役が務まりましょうか…」
直朗は本心とは裏腹に一応、そんな不安を口にしてみせた。
否、直朗は本心では自信満々、気分はすっかり勝手掛を兼ねた気でいたものの、それをストレートに表面に表しては流石に見識を疑われるというもので、そこで敢えて不安を覗かせてみせたのだ。
意知もその程度のことは勿論、容易に汲取り、
「務まりまする…」
まずはそう断言してみせた上で、
「されば直朗殿はこの意知よりも若年寄としての経歴が長く…」
それ故に立派に勝手掛の大役が務まると、直朗に説いてみせた。
「いや…、若年寄とは名ばかり…、この直朗が務めしはあくまで、閑職の西之丸の若年寄なれば…」
幕政を担う、つまりは忙しい本丸若年寄とでは比較にならないと、直朗は示唆した。
無論、これとて直朗なりの擬態に過ぎない。
「いやいや…、西之丸の若年寄はそもそも定員がたったの2名なれば、西之丸若年寄は一月毎に月番を務めねばならず、されば決して閑職に非ず…」
これは意知の言う通りであるが、しかし西之丸若年寄が閑職ではないことの説明にはならない。
西之丸若年寄は閑職だからこそ2名しか配置されておらず、意知はむしろ西之丸若年寄が閑職であることを指摘していたとも言える。
だがこの場合、直朗にしてみればそれはさしたる問題ではなかった。
大事なのは意知がそうまでして己のことを買ってくれていることにある。即ち、
「大役である勝手掛を兼ねさせるに相応しい…」
直朗のことをそう評価してくれていることであった。
それでも直朗は慎重であった。
「本丸若年寄には既に米倉殿もおられましょう…」
成程、直朗の言う通り、米倉殿こと米倉昌晴もまた、本丸若年寄であり、しかも加納久堅に次いで古株とあらば、この米倉昌晴に勝手掛を兼ねさせても問題はない筈であった。
いや、年功序列という観点からすれば、むしろそうするのが筋と言えた。
だが意知は頭を振った。
「されば米倉殿は…、上様より御不興を蒙られ…」
意知がそう切出すや、
「ああ…、義兄上が佐野某めに襲われし折、その場に居合わせながらも義兄上を見捨て、あまつさえ酒井石見や太田備後と共に逃げた為に?」
直朗が的確に言当てた。
「左様…、されば畏れ多くも上様におかせられては米倉殿を酒井殿や太田殿と同じく、その職を免じられようとあそばされた程にて…」
「それを義兄上が庇われたが為に、米倉殿も何とか若年寄の職に留まることが叶い…、斯かる米倉殿なれば、大役たる勝手掛を兼ねさせるなど以ての外…、仮令、義兄上が頼みであろうとも上様はこれを許さず、と?」
「如何にもその通りにて…、さればここは是非とも直朗殿に出馬願い度…」
意知にそうまで言われては直朗としてもこの上の拝辞は無用であろうと悟るや、
「相分かり申した…、されば勝手掛の件、謹んで引受け申上げる…」
そう受諾したのであった。
直朗はそれから思い出した様に秋元永朝の件にも触れた。
「義兄上は秋元但馬もこの直朗が後任として…、清水宮内卿様に西之丸若年寄へと推挙してくれたそうで…」
忝いと、直朗は意知に謝意を述べた。
だがその謝意とは裏腹に、どこか侮蔑的な響きがあった。
事実、直朗は秋元永朝を軽蔑していた。
「あの秋元但馬めに閑職とは申せ、西之丸若年寄が務まりましょうか…」
直朗はそんな不安を口にした。
「務まりましょうぞ…、それに西之丸若年寄は一人に非ず…」
「そうでござったな…、されば義兄上は今一人、秋元但馬と同じく奏者番の松平玄蕃頭殿も西之丸若年寄に推挙されたとか…」
「左様…、されば松平玄蕃頭殿が必ずや秋元殿を助けてくれるに違いなく…」
松平玄蕃頭こと忠福の援助もあれば、如何に無能な秋元永朝でも西之丸若年寄が務まろうと、直朗は己にそう言聞かせた。
「さればこの直朗より秋元但馬めに、義兄上に…、山城守様に御挨拶をせよと、命じましょうか?」
直朗は気を利かせて意知にそう申出た。
成程、秋元永朝は意知の推薦により西之丸若年寄に内定したのだから、その意知に「御挨拶」、即ち、謝意を述べるべく、意知の許へと足を運ぶのは当然と言えた。
だが秋元永朝がそのことをまだ知らない可能性もあったので、そこで直朗が謂わば「仲介役」を名乗出た訳だが、意知は頭を振った。
「直朗殿が御厚意は有難いものの、なれど秋元殿が果たして如何なる反応を示すか…」
大の田沼嫌い、それも意知嫌いの秋元永朝のことである、その意知によって己が西之丸若年寄に推挙されたとあらば、その上、
「直ぐに意知様の許へと出向き、意知様に感謝の言葉を述べよ…」
井伊直朗からそう命じられたりしたら、却って臍を曲げ、最悪、西之丸若年寄への内定を蹴るやも知れなかった。
ならばここは動かずに成行きに任せるのが得策と、意知は直朗にそう示唆したのであった。
すると直朗もこれには心底、同感であったらしく、
「成程…、あの愚かなる但馬めならばさもあろう…」
直朗は遂にそう言放ったものである。
「いや…、この意知、直朗殿より感謝されただけで十分でござるよ…」
「いやなに…、但馬めは愚かなれども…、その但馬めはこの直朗が実姉の八重との間に嫡子の攝津を…、修朝をもうけたなれば…」
己にとっては甥に当たる修朝の存在があるからこそ、愚かな永朝に代わって意知に感謝している訳で、仮にその修朝の存在がなければ勿論、感謝することもなく、それどころかそもそも秋元永朝を西之丸若年寄に就けることさえ反対していたと、直朗はそうも示唆した程であった。
否、それは意知とて同様であり、秋元永朝が直朗の縁者でなかったならば到底、西之丸若年寄には推挙しなかったであろう。
己に罵詈雑言を浴びせかけてくる相手の出世の為に犬馬の労を取ってやる程には意知はそこまでお人好しではない。
さて、井伊直朗に次いで意知の許を訪れた大名は何と、直朗が当主を務める與板井伊家の本家筋に当たる彦根井伊家の当主たる掃部頭直幸であった。
直幸もまた、意知への見舞いがてら、城使こと留守居の富田権兵衛昌著を差向けており、その富田権兵衛より秋元永朝の件を伝えられ、急ぎ意知の許へと足を運んだ。
「いやぁ、秋元但馬がこと…、西之丸若年寄に推挙せしこと、実に嬉しく思うぞ…」
直幸は意知と向かい合うなり、まずはそう切出し、
「何しろ秋元但馬と申さば、この直幸が室、伊豫が実妹の八重が嫁ぎ先にて、その八重は秋元但馬との間に嫡子を、修朝をもうけ、されば修朝は伊豫にとっては甥…、否、八重は秋元但馬の許へと|
嫁《とつ》ぐにあたり、この直幸が養女として嫁いだによって、さればその八重が産みし修朝はこの直幸にとっては義理とは申せ、孫にも当たるによって…」
意知に秋元永朝との所縁を主張してみせた。
如何にもその通りであったので、意知も「左様でござりまするな」と応じた。
「うむ…、なれどその秋元但馬だがの、果たして西之丸若年寄の大役を果たし得るかどうか、この直幸、心配でならぬのだ…」
どうやら直幸までが秋元永朝の能力に疑問を抱いている様であった。
そこで意知も、「相役もおりますこと故…」と同僚の存在を主張、そうすることで秋元永朝にも西之丸若年寄が務まることを主張した。
「いやいや…、それだけでは足るまいて…、出来ればこの直幸が直ぐ傍にて見守ってやりたい程ぞ…」
意知は今のその直幸の言葉を素早く脳内にて「翻訳」した。即ち、
「西之丸若年寄の秋元永朝を直ぐ傍で見守りたい…」
「その為には御城入りを果たす必要がある」
「直幸は平日登城が許されている溜間詰の大名」
「しかし同時に直幸は参勤交代の義務があり、しかも今年、辰年に当たる天明4(1784)年は帰国の年、しかも来月の5月には将軍・家治に暇を願い、国許である彦根へと帰国予定」
「それ故、直幸が西之丸若年寄の秋元永朝を見守ることが出来るのは一月程度しか残されていない」
「それを直幸にずっと、秋元永朝を見守らせるには、つまりは帰国の年であるにもかかわらず帰国せず、引続き御城へと登城させられるにはどうすれば良いか」
答え、幕府の御役に就けば良い。
そしてその御役だが、直幸の様な溜間詰の大名の場合、大政参与、即ち、大老を措いて外にはなかった。
「井伊様は秋元但馬を見守りたい…、後見したいとの口実にて、大老になりたいのだな…」
意知はそう「翻訳」を済ませると、
「さればこの意知もかねがね…、大変、僭越ではござりまするが、井伊様におかせられては大所高所から幕政全体の御後見を賜ることが出来ればと、斯様に思うておりましたところ…」
辞を低うして、直幸には大老として腕を振るって貰いたいと、そう匂わせたのであった。
すると直幸も意知のその相変わらずの勘の良さ、呑込の速さに心底、満足させられたらしく、目を細めた。
「いや、流石は意知よ…、良くぞ、そこに気付いてくれたの…」
直幸は意知をそう持上げた。
「畏れ入りまする…、さればこの儀、上様の御耳に…」
間もなく登城、出勤が叶うようになるので、そうなったら早速、将軍・家治に対して井伊直幸を大老に就ける様、進言してみると、意知は直幸に示唆したのであった。
するとそれを見計らったかの様に今度は直幸が嫡子、直富が到着した。
用人の三浦庄二がそのことを告げに、直幸との懇談の席に姿を見せ、すると直幸は
「ちょうど良い頃合ぞ…」
そう合いの手を入れた。
直幸は櫻田御門外にある彦根藩上屋敷にて暮らしており、それに対して嫡子の直富はと言うと、八丁堀にある中屋敷にて新妻の満姫詮子と共に新婚生活を送っていた。
直幸はここ神田橋御門内にある田沼家、相良藩上屋敷へと足を運ぶに際して、もう一人の城使、山本運平をその八丁堀の中屋敷へと遣わし、
「直富もこれより直ちに田沼意知を見舞いに参れ…」
山本運平を介して直富へとそう命じさせたのであった。
こうして直富は山本運平と、それに直富の側役の石居次郎兵衛と共に意知の許へと足を運んだ次第であり、直幸はこの間の事情を意知に伝えると、直富をここへ連れて来てくれる様、頼みもした。
意知もそれを受けて三浦庄二に命じて直富を連れて来させたのであった。
こうして意知の前に直幸・直富父子が揃うと、直幸の口より倅・直富とその妻、満姫詮子との夫婦仲、それも「甘い新婚生活」が語られたのであった。
仙台藩主・伊達重村が息女である満姫詮子が彦根藩井伊家の嫡子、直富の許へと輿入れ、直富が住まう八丁堀の中屋敷へと引き移ったのは去年の、それも意知が若年寄に任じられたのと同じ月、11月の23日のことであった。
爾来、直富はこの姫君である詮子と仲睦まじく暮らしていたが、その時の詮子はまだ直富の「許婚」、婚約者の立場であり、それが正式に妻となったのは今年の2月のことであった。
天明4(1784)年の2月に彦根藩井伊家と仙台藩伊達家は相互に上屋敷を公式訪問して、直富と詮子との婚姻が正式に調った次第である。
その後、直幸は新郎でもある嫡子の直富を随いて御城へと登城し、将軍・家治に結婚の報告がなされ、意知が佐野善左衛門に襲われた6日前の3月18日には詮子からも将軍家―、将軍・家治やそれに御三卿に対して献上品が贈られたのであった。
さて、直幸は直富と詮子との「新婚生活」について意知に一通り語り終えると、
「されば…、詮子が父…、実父のことも頼むぞ…」
直幸は意知にそうも囁いたのであった。
こちらはもう「翻訳」など不要な程に明らかであった。即ち、
「詮子が父、重村が当主を務める仙台藩伊達家の家格―、殿中席を今の大廣間から松之大廊下の下之部屋へと昇叙、引上げてやって欲しい…」
それに外ならない。
伊達重村が家格―、殿中席の格上を望んだのは偏に、ライバルである薩摩藩主・島津重豪の存在であった。
島津重豪は息女の茂姫を次期将軍・家斉の許嫁として西之丸大奥へと送込むことに成功し、このままいけば今年にも薩摩藩島津家の殿中席を大廣間から松之大廊下下之部屋へと昇叙、格上が叶う筈であった。
伊達重村もそれ故に、ライバルの島津重豪に「負けてなるものか…」とばかり、家格―、殿中席の昇叙を望んだのであった。つまりは重豪と同じく、己も松之大廊下下之部屋入りを望んだ次第である。
それが重豪が一橋治済の「謀叛」、家斉の前に次期将軍であった家治の愛息、家基の毒殺に関与したことが発覚し、重豪は失脚、こともあろうにライバル・伊達重村の許へと預けられ、家斉とその許嫁の茂姫も西之丸より追出され、そして薩摩藩島津家自体も今や存亡の危機に立たされており、家格の引上げどころではない。
そうであれば伊達重村としても最早、家格―、殿中席の昇叙に拘らずとも良さそうなものだが、しかし重村は余計に殿中席の昇叙への欲求を募らせていた。
それは偏に、島津重豪を預かったことに由来する。
島津重豪にはいずれ切腹の御沙汰が待受けているであろう。何しろ次期将軍毒殺という大罪、正に天下謀叛に手を貸したのだ。どんなに軽くとも切腹は免れまい。それどころか切腹も許されず百姓、町人同様、斬罪に処されてもおかしくはない。
ともあれ島津重豪は今、伊達重村の許にて「その日」を待つばかりの身であり、その様な重豪に対して、
「薩摩藩島津家が望んでいた…、それもあと少しのところで叶えられたに違いない、大廣間より松之大廊下下之部屋への殿中席の昇叙、仙台藩伊達家の当主たるこの重村が貴様の代わりに叶えてやったぞ…」
重村がそう囁くことが出来れば、
「ライバルの重豪に限りない打撃を与えられる…」
重村はその様な実に悪趣味、底意地の悪い動機から何としてでも「その日」、即ち、重豪が死を賜る前までに殿中席の昇叙を欲していたのだ。
意知もその様な重村の気持ちも分からぬではないが、しかしだからと言って重村の個人的感情から仙台藩伊達家の家格―、殿中席を昇叙させることには―、将軍・家治に対してその旨、進言することは憚られた。
そこで意知は仙台藩伊達家の殿中席の昇叙については、「極力、努力してみます」と応じるに留めた。
それに対して直幸も流石に重村の個人的な欲望に意知を付合わせるのは無理筋とも薄々、気付いていたらしく、意知のその曖昧な返答、もとい婉曲的な拒否を受容れたのであった。
直幸はあくまで重村への義理から仙台藩伊達家の殿中席の昇叙の件を意知に取次いだのであり、結果、意知がそれを拒否しようとも、それは最早、直幸の知ったことではなかった。直幸としては意知に取次いだ時点で義理を果たしたと、そう考えていたからだ。
さて、井伊直幸・直富父子に続いて意知の許を訪れた大名は秋元永朝と共に西之丸若年寄に内定した松平玄蕃頭忠福であった。
これは本丸御側衆、それも平御側の津田日向守信之の「ルート」であった。
4月朔日の今日、奏者番の松平忠福は生憎と、意知の許へと誰も派してはいなかった。
昨日、3月の晦日に当たる29日こそ、松平忠福は城使の飯野源兵衛を意知への見舞いとして、意知の許へと遣わしたが、その翌日の今日は誰も意知の許へは遣わしていなかった。
「また明日にでも意知の許へと誰か遣わせば良かろう…」
如何に意知が上様の覚えが目出度かろうとも、そう毎日毎日、見舞意の使者を遣わすこともなかろうと、忠福にはその思いがあり、それ故、今日はここ神田橋御門内にある田沼家の上屋敷には忠福の家来の姿がなかったのだ。そうであれば、
「意知の推挙により奏者番の松平忠福を西之丸若年寄に据えよう…」
重好のその「リーク」も忠福の家来には伝わらず、畢竟、主君・忠福の耳にその「リーク」が達することもなく、このままいけば忠福が自ら、意知の許へと足を運ぶこともなかったであろう。
にもかかわらず、忠福が意知の許へと自ら足を運んだのは、否、運べたのは津田信之の御蔭であった。
津田信之もまた、用人を見舞いに立てて意知の許へと差向け、それも忠福とは異なり、毎日、4人の用人を交代で意知の許へと差向けていた。
今日はその中の一人、水野佐左衛門が意知の見舞いとして、田沼家上屋敷へと足を運び、そこで水野佐左衛門は重好の「リーク」を耳にし、驚いた。
それと言うのも、「リーク」に名の挙がった松平忠福は主君・津田信之の縁者であったからだ。
即ち、津田信之が嫡子、壱岐守信久は松平忠福が次女を娶っていたからだ。
津田信之が嫡子、信久にとって奏者番の松平忠福は岳父に当たり、その忠福が西之丸若年寄に取立てられる、それも意知の推挙により取立てられるとあらば、
「ここは是非とも忠福当人より意知へと謝意を示して貰わねばなるまい…」
主君・津田信之ならば必ずやそう考えるに違いないと、水野佐左衛門はそう予期し、重好の「リーク」後、外の陳情客を見廻してみた。
水野佐左衛門は忠福に仕える城使、飯野源兵衛の顔は知っていたが、今日はその飯野源兵衛の姿が見当たらない。
若しかしたら今日は忠福が当主を務める松平家においては家老か用人クラスを差向けたのやも知れず、水野佐左衛門もそこまでは―、彼等の顔までは把握しておらず、その場合は「お手上げ」であった。
或いは今日は誰も意知の許へと差向けてはいない可能性もあり―、それが正解であったのだが、あらゆる可能性が考えられる場合、常に最悪の可能性を考えるのが「危機管理」の鉄則であった。
そしてこの場合の「最悪の可能性」とは、
「松平家においては今日は誰も意知の許へと見舞いの使者を差向けてはいない…」
それに外ならない。その場合には折角の「栄転話」も直ぐには忠福が当主を務める松平家には伝わらないからだ。
そこで水野佐左衛門は外の大名家の家臣と共に席を立つと、いったん田沼家上屋敷を脱出し、急ぎ神田佐久間町にある屋敷へと立返り、このことを主君・津田信之の耳に入れ、忠福が当主を務める松平家にもこのことを伝えるべきかどうか、信之の判断を仰いだ。
すると信之もまた「最悪の可能性」を考えて、水野佐左衛門に命じ、忠福が当主を務める松平家にもその「栄転話」を「リーク」させることにした。
忠福が当主を務める小幡藩上屋敷は外櫻田にあり、水野佐左衛門はそこへ駆付けると、江戸詰用人の一人、小林門右衛門へと重好の「リーク」を伝えたのであった。
すると小林門右衛門は仰天し、それで水野佐左衛門も今日は松平家においては誰も意知の許へと差向けてはいなかったのだと、そう悟ったものである。
やはり主君が参勤交代で江戸を留守にしていると、どうしてもこういうところで詰の甘さが目につく。
水野佐左衛門はそれから小林門右衛門に対して、
「急ぎ、田沼様の許へと…」
意知の許へと馳せ参じ、西之丸若年寄に推挙してくれたことの礼を述べた方が良いと、水野佐左衛門は主君・津田信之よりの言伝であるとして、小林門右衛門にそう伝えたのであった。
一方、小林門右衛門にしても態々、津田信之から言われるまでもなくそうするつもりであったので、門右衛門は急ぎ支度を整えると、意知の許へと足を運んだのであった。
小林門右衛門は意知と向かい合うと、次期将軍の重好に対して主君・忠福を西之丸若年寄に推挙してくれたことの礼を述べた。
それに対して意知も忠福の能力を褒めそやし、だからこそ西之丸若年寄に推挙したのだと、そう応じたものの、無論、それだけが理由ではなかった。
「されば津田殿にもよしなに…」
意知は小林門右衛門を大いに持上げると、そう付加えたのであった。
それで小林門右衛門も「成程…」と、意知が己を西之丸若年寄に推挙した理由に合点がいった。
即ち、津田信之が実姉の於千穂の方は家基の実母にして、家基亡き今も大奥にて絶大なる権力を振るっていた。
意知はゆくゆくは老中を目指しており、その折、大奥を味方に付けておけば、老中を目指す上でも何かと役に立つに違いない。
そこで意知はその大奥の実力者の一人である於千穂の方を取込もうと、まずはその外戚である松平忠福から取込もうと思いつき、そこで忠福を西之丸若年寄に推挙したのであった。
一方、忠福を主君に仰ぐ小林門右衛門は「ぼんぼん」の秋元永朝とは異なり海千山千、意知の意図するところに気付くと、阿吽の呼吸で応じたものである。
そしてこの小林門右衛門に続いて姿を見せたのが松平定信であった。
定信自身は大事な家臣を態々、意知の許へと差向けるのを良しとせず、その旨、家臣には命じていなかったものの、しかし家臣の方が気を利かせて、
「自主的に…」
意知の見舞いに足を運んでいたのだ。
今日は城使の日下部武右衛門が意知の許へと足を運んでおり、そこで重好より件の「リーク」が飛出したものだから、日下部武右衛門また、いったん田沼家上屋敷を脱出し、急ぎ北八丁堀にある白河藩上屋敷へと立戻ると、主君・定信に対して重好の「リーク」、即ち、
「意知が次期将軍の清水宮内卿様に対して殿様を西之丸老中に推挙してくれた…」
そのことを伝えたのであった。
これにはさしもの定信も驚きこそしたものの、しかしそれで、
「意知に礼を述べなければ…」
その発想には至らなかった。
そこで日下部武右衛門より定信に対して、意知の許へと足を運んで意知に礼を述べるよう勧めなければならなかった。
それに対して定信は当然と言うべきか、難色を示した。
「何故、畏れ多くも吉宗公が血を引く高貴なるこの私が成上がり者の田沼が小倅を見舞わねばならぬのだ?」
定信はそう信じて疑わず、且つ、実際に口にして憚るところがなかった。
日下部武右衛門は内心、主君・定信のその、どうしようもない「選民思想」にやれやれと思いつつ、
「殿様はゆくゆくは本丸老中になられる御方…」
その際、今の内から意知と誼を通じておけば、本丸老中へと遷任、昇格を果たす上で何かと役に立つに違いないと、実に功利的な理由を並べて定信に意知を見舞うことを勧めたのであった。
すると定信も日下部武右衛門のこの功利的な「説得」には心を動かされたらしく、漸くに意知の許へと足を運ぶことにしたのだ。
その定信を意知は実に鄭重に出迎えた。
「畏れ多くも八代様が御血筋にあらせられし越中様にまで御見舞いを頂けまするとは、この意知にとりましては正しく、過ぎたる栄誉と申すものにて…」
意知は定信をそう持上げて、定信を実に良い心地にさせた。
定信は意知のその「ヨイショ」を真に受け、「うむ」と素直に応じた。
意知はそんな定信に対して内心、舌を出しつつ、
「されば次期将軍を支えし西之丸老中は畏れ多くも八代様が御血筋にあらせられる越中様を措いて外に人はなく…」
次期将軍・重好に対して定信を西之丸老中に推薦した理由を告げたのであった。
すると定信はやはり、それも真に受け、「うんうん」と何度も頷き、実に満足気に「さもあろう」とも応じた。
斯かる意知の「ヨイショ」が功を奏してか、意知の許へと足を運んで良かったと、定信にそう思わせるに至った。
定信という男は実に分かり易く、意知はそんな定信が愛おしくさえ感じられた程であった。
こうして本丸老中や若年寄、或いは西之丸老中や若年寄に内定した有力な大名が続々と「田沼詣」、それも意知を見舞いに姿を見せた為に、そのことが外の大名は元より、旗本にまで広まり、田沼家上屋敷はいよいよ陳情客、それも意知目当ての「見舞客」で溢れ返った。
とりあえず今日の用件は済ませた重好は意知にそう告げて立上がると、意知も蒲団から起上がった。
「寝ていなくとも良いのか?」
重好は意知を気遣ってみせた。
「いえ、病ではござりませぬ故…」
意知はあくまで佐野善左衛門に肩を斬られたが為に療養していた。
しかもその肩の疵も番外科医・岡田一虎の縫合の甲斐あって今や完全に塞がっていた。
それ故、意知の「現場復帰」―、本丸若年寄への復職も近かった。
無論、だからと言って疵口が再び開いてしまう様な激しい運動は禁物だが、しかし重好を見送る程度であればむしろ、「現場復帰」に向けての必要な運動と言えた。
意知は重好にそのことを伝えると、重好も「それなれば…」と意知の見送りを受容れた。
意知は羽織を羽織ると、重好を門の外まで見送りに立った。
その道中、陳情客の待合所を通らねばならず、意知の案内により重好がその待合所に足を踏み入れ、すると陳情客は皆、重好に平伏してみせた。
陳情客の中には重好の顔を知っている者もあれば、知らぬ者もいた。
にもかかわらず皆が―、重好の顔を知らぬ者までが重好に平伏してみせたのは偏にその肩衣にあしらわれた紋所、所謂、
「三つ葉葵」
その紋所による。
三つ葉葵の紋所を用いることが許されている者など御三家や御三卿など相当、限られる。
それ故、重好の顔を知らずとも、平伏させるに充分であったのだ。三つ葉葵の紋所にはそれだけの威力があった。
さて重好は陳情客が平伏する中、立止まると、
「されば意知よ、そなたが薦めに従い、とりあえず西之丸老中の鳥居丹波を本丸老中へと遷し、後任の西之丸老中には白河藩主の松平越中を据えてつかわそうぞ…、また西之丸若年寄についても井伊兵部と酒井飛騨の両名をやはり本丸若年寄へと遷し、その後任には奏者番の秋元但馬と松平玄蕃…、玄蕃頭忠福の両名を据えてつかわそうぞ…」
意知に対して態々そう宣言してみせたのであった。無論、平伏する陳情客に聞かせる為であった。
すると平伏する陳情客も今のその重好の「宣言」から、
「次期将軍におなりあそばされた御三卿の清水宮内卿様に相違あるまい…」
重好の顔を知っている者は勿論のこと、知らぬ者もそう確信した。
今の刻限は既に昼の八つ半(午後3時頃)であり、朝の五つ半(午前9時頃)に将軍・家治が登城した諸大名や旗本らに、
「清水重好を次期将軍に据える…」
そう宣言してから三刻(約6時間)が経過しており、このことは、
「地下水の如く…」
御城の外へも洩れ伝わり、今、こうして重好に平伏する意知目当ての陳情客の耳にも届いていたのだ。
一方、意知は重好がまさかに、彼等陳情客の前で「リーク」するとは予想だにせず、流石に驚いたものの、そこは平静さを装い、「ははぁっ」と応じてみせた。
さて、意知が重好を門の外まで見送ると、それまで待合所に詰めていた、つまりは重好の「宣言」を聞かされた陳情客の幾人かが立上がった。
彼等は外の陳情客と同様、見舞いの名目にて意知の許に馳せ参じた訳だが、しかし意知に逢わずにいったん田沼家上屋敷をあとにした。彼等は恐らくは大名家の用人に相違あるまいと、意知は直感した。
事実、その通りであり、その中には本丸若年寄に内定した井伊兵部こと兵部少輔直朗が家臣―、與板藩江戸家老の松下源左衛門定賢がいた。
大名が老中、或いは若年寄に陳情する際には城使、即ち留守居を差向けるのが普通であり、大名当人は元より、家老が足を運ぶこともない。それは相手が今を時めく田沼意次・意知父子であろうともその例外ではない。
にもかかわらず、井伊直朗に限って態々、家老の松下源左衛門を差向けたのは外でもない、田沼家との近しい関係に由来する。
即ち、井伊直朗は意知が実妹を娶っており、意知とは義兄弟の間柄であったのだ。
それ故、直朗は留守居ではなく、それよりも格上の家老である松下源左衛門を田沼家へと、それも意知の許へと差向けるのを日課としていた。
その松下源左衛門であるが、流石に江戸家老だけあって、御三卿の清水重好の顔を知っており、しかもその重好の口から、主君・直朗の「栄転話」が飛出したのである。
あまつさえ、その「栄転話」が意知の薦めによるものとあらば、ここは是が非でも主君・直朗の「出馬」を促す必要があった。
即ち、直朗自ら、意知の許へと足を運んで貰わねばならない。
これでスマホなどの便利な通信機器があれば、それで主君・直朗と連絡を取合えば済む話だが、生憎とこの時代には斯かる便利な通信機器は影も形もなく、主君・直朗と連絡を取る為にはいったん屋敷へと戻らねばならない。
井伊直朗が住まう屋敷は西之御丸下にある。
直朗が当主を務める與板藩上屋敷は本来、数寄屋橋御門内にあったが、2年前の天明元(1781)年に直朗が奏者番より今の西之丸若年寄に取立てられるや、西之御丸下に屋敷が与えられた。所謂、拝領屋敷であり、爾来、直朗はそこで養嗣子の外也と外也の妻女にして意知が実妹の梅との間に生した娘と共に暮らしていた。
梅は既に亡く、直朗はそこで養嗣子の外也と娶わせた娘に今は亡き愛妻の名である梅を名乗らせていた。
ともあれ松下源左衛門は屋敷へと立ち戻ると、既に御城より帰邸に及んでいた主君・直朗に事の次第を打明けて、「出馬」を願った。
それに対して直朗も勿論、「そういうことなれば」と直ちに腰を上げ、家老の松下源左衛門を随いて、神田橋御門内にある田沼家上屋敷へと足を向けた。
こうして意知の許を訪れた大名の「第一号」は直朗と相成った。
「いや…、義兄上、すっかり御本復の由にて祝着の限り…」
直朗は意知と向き合うとまずはそう切出した。
既に意知が実妹にして、直朗が嘗ての愛妻の梅は卒していたものの、それでも直朗は未だに意知のことを、
「義兄上」
そう呼んで憚らなかった。それは無論、意知と近しい関係にあることを主張することによって自身の出世に役立てようとの思惑からであった。
事実、直朗はまずは次期将軍の清水重好に対して、己を西之丸若年寄から本丸若年寄へと遷任、昇格を進言してくれたことに謝意を示した上で、
「さればこの直朗、義兄上とは同輩ということになりますな…」
そう続けたのであった。その「心」は、
「若年寄筆頭たる首座にはこの直朗を…」
ズバリそれであった。意知は素早く脳内にて、そう「翻訳」、直朗の「心」を読み解いてみせるや、しかし直朗の希望には応えられなかった。
それと言うのも加納久堅の存在があるからだ。
それまで首座であった酒井忠休と次席の太田資愛の両名が若年寄の職を追われた今、加納久堅が若年寄の中で一番の古株であった。
されば酒井忠休に替わる首座と言えば、この加納久堅を措いて外にはない。
そこで意知はその点を直朗に指摘、つまりは将軍・家治に対して加納久堅を若年寄首座に推挙する意向であることを伝えた上で、
「なれど…、加納殿は御齢74と御高齢なれば…」
首座として実務は担えないだろうとも、直朗に水を向けた。
すると聡い直朗のこと、意知の真意に気付いたらしい、
「それでは…、勝手掛を?」
意知にそう確かめる様に尋ねた。
首座に次ぐのは財政担当の勝手掛であり、しかし酒井忠休は首座であり乍、この勝手掛をも手放そうとしなかった。
酒井忠休が勝手掛を兼ねる様になったのはまだ松平伊賀守忠順が若年寄筆頭たる首座にあった時分の安永6(1777)年4月のことであり、去年の天明3(1783)年2月にその松平忠順が現職のまま卒し、勝手掛を兼ねていた次席の酒井忠休が松平忠順の後を襲う格好で首座に任じられた後も、忠休は勝手掛を手放さずに今に至った。
それはさしずめ、玩具を手放さない子供の様なものであり、忠休はそれでも太田資愛を勝手に次席に据えたのであった。
太田資愛は3年前の天明元(1781)年9月に若年寄に任じられ、加納久堅は元より米倉昌晴よりも後輩に当たる。
酒井忠休がその太田資愛を勝手掛を兼ねさせることなく、勝手に次席に任じたのは、
「資愛なれば御し易い…」
そう考えてのことである。
ともあれその酒井忠休にしろ、太田資愛にしろ、揃って若年寄の職より追われた為に一気に首座と勝手掛が空席となり、そこで意知は首座には加納久堅を据えた上で、次席には井伊直朗を据え、本来の仕来り通り、勝手掛を兼ねさせるつもりであった。
これこそが意知の「真意」であり、直朗もそうと読取った。
「されば勝手掛は激務なれば…」
御齢74と高齢の加納久堅では激務の勝手掛は勤まらず、そこで直朗に勤めて貰いたいのだと、意知は直朗にそう示唆した。
「この直朗に果たして、斯かる大役が務まりましょうか…」
直朗は本心とは裏腹に一応、そんな不安を口にしてみせた。
否、直朗は本心では自信満々、気分はすっかり勝手掛を兼ねた気でいたものの、それをストレートに表面に表しては流石に見識を疑われるというもので、そこで敢えて不安を覗かせてみせたのだ。
意知もその程度のことは勿論、容易に汲取り、
「務まりまする…」
まずはそう断言してみせた上で、
「されば直朗殿はこの意知よりも若年寄としての経歴が長く…」
それ故に立派に勝手掛の大役が務まると、直朗に説いてみせた。
「いや…、若年寄とは名ばかり…、この直朗が務めしはあくまで、閑職の西之丸の若年寄なれば…」
幕政を担う、つまりは忙しい本丸若年寄とでは比較にならないと、直朗は示唆した。
無論、これとて直朗なりの擬態に過ぎない。
「いやいや…、西之丸の若年寄はそもそも定員がたったの2名なれば、西之丸若年寄は一月毎に月番を務めねばならず、されば決して閑職に非ず…」
これは意知の言う通りであるが、しかし西之丸若年寄が閑職ではないことの説明にはならない。
西之丸若年寄は閑職だからこそ2名しか配置されておらず、意知はむしろ西之丸若年寄が閑職であることを指摘していたとも言える。
だがこの場合、直朗にしてみればそれはさしたる問題ではなかった。
大事なのは意知がそうまでして己のことを買ってくれていることにある。即ち、
「大役である勝手掛を兼ねさせるに相応しい…」
直朗のことをそう評価してくれていることであった。
それでも直朗は慎重であった。
「本丸若年寄には既に米倉殿もおられましょう…」
成程、直朗の言う通り、米倉殿こと米倉昌晴もまた、本丸若年寄であり、しかも加納久堅に次いで古株とあらば、この米倉昌晴に勝手掛を兼ねさせても問題はない筈であった。
いや、年功序列という観点からすれば、むしろそうするのが筋と言えた。
だが意知は頭を振った。
「されば米倉殿は…、上様より御不興を蒙られ…」
意知がそう切出すや、
「ああ…、義兄上が佐野某めに襲われし折、その場に居合わせながらも義兄上を見捨て、あまつさえ酒井石見や太田備後と共に逃げた為に?」
直朗が的確に言当てた。
「左様…、されば畏れ多くも上様におかせられては米倉殿を酒井殿や太田殿と同じく、その職を免じられようとあそばされた程にて…」
「それを義兄上が庇われたが為に、米倉殿も何とか若年寄の職に留まることが叶い…、斯かる米倉殿なれば、大役たる勝手掛を兼ねさせるなど以ての外…、仮令、義兄上が頼みであろうとも上様はこれを許さず、と?」
「如何にもその通りにて…、さればここは是非とも直朗殿に出馬願い度…」
意知にそうまで言われては直朗としてもこの上の拝辞は無用であろうと悟るや、
「相分かり申した…、されば勝手掛の件、謹んで引受け申上げる…」
そう受諾したのであった。
直朗はそれから思い出した様に秋元永朝の件にも触れた。
「義兄上は秋元但馬もこの直朗が後任として…、清水宮内卿様に西之丸若年寄へと推挙してくれたそうで…」
忝いと、直朗は意知に謝意を述べた。
だがその謝意とは裏腹に、どこか侮蔑的な響きがあった。
事実、直朗は秋元永朝を軽蔑していた。
「あの秋元但馬めに閑職とは申せ、西之丸若年寄が務まりましょうか…」
直朗はそんな不安を口にした。
「務まりましょうぞ…、それに西之丸若年寄は一人に非ず…」
「そうでござったな…、されば義兄上は今一人、秋元但馬と同じく奏者番の松平玄蕃頭殿も西之丸若年寄に推挙されたとか…」
「左様…、されば松平玄蕃頭殿が必ずや秋元殿を助けてくれるに違いなく…」
松平玄蕃頭こと忠福の援助もあれば、如何に無能な秋元永朝でも西之丸若年寄が務まろうと、直朗は己にそう言聞かせた。
「さればこの直朗より秋元但馬めに、義兄上に…、山城守様に御挨拶をせよと、命じましょうか?」
直朗は気を利かせて意知にそう申出た。
成程、秋元永朝は意知の推薦により西之丸若年寄に内定したのだから、その意知に「御挨拶」、即ち、謝意を述べるべく、意知の許へと足を運ぶのは当然と言えた。
だが秋元永朝がそのことをまだ知らない可能性もあったので、そこで直朗が謂わば「仲介役」を名乗出た訳だが、意知は頭を振った。
「直朗殿が御厚意は有難いものの、なれど秋元殿が果たして如何なる反応を示すか…」
大の田沼嫌い、それも意知嫌いの秋元永朝のことである、その意知によって己が西之丸若年寄に推挙されたとあらば、その上、
「直ぐに意知様の許へと出向き、意知様に感謝の言葉を述べよ…」
井伊直朗からそう命じられたりしたら、却って臍を曲げ、最悪、西之丸若年寄への内定を蹴るやも知れなかった。
ならばここは動かずに成行きに任せるのが得策と、意知は直朗にそう示唆したのであった。
すると直朗もこれには心底、同感であったらしく、
「成程…、あの愚かなる但馬めならばさもあろう…」
直朗は遂にそう言放ったものである。
「いや…、この意知、直朗殿より感謝されただけで十分でござるよ…」
「いやなに…、但馬めは愚かなれども…、その但馬めはこの直朗が実姉の八重との間に嫡子の攝津を…、修朝をもうけたなれば…」
己にとっては甥に当たる修朝の存在があるからこそ、愚かな永朝に代わって意知に感謝している訳で、仮にその修朝の存在がなければ勿論、感謝することもなく、それどころかそもそも秋元永朝を西之丸若年寄に就けることさえ反対していたと、直朗はそうも示唆した程であった。
否、それは意知とて同様であり、秋元永朝が直朗の縁者でなかったならば到底、西之丸若年寄には推挙しなかったであろう。
己に罵詈雑言を浴びせかけてくる相手の出世の為に犬馬の労を取ってやる程には意知はそこまでお人好しではない。
さて、井伊直朗に次いで意知の許を訪れた大名は何と、直朗が当主を務める與板井伊家の本家筋に当たる彦根井伊家の当主たる掃部頭直幸であった。
直幸もまた、意知への見舞いがてら、城使こと留守居の富田権兵衛昌著を差向けており、その富田権兵衛より秋元永朝の件を伝えられ、急ぎ意知の許へと足を運んだ。
「いやぁ、秋元但馬がこと…、西之丸若年寄に推挙せしこと、実に嬉しく思うぞ…」
直幸は意知と向かい合うなり、まずはそう切出し、
「何しろ秋元但馬と申さば、この直幸が室、伊豫が実妹の八重が嫁ぎ先にて、その八重は秋元但馬との間に嫡子を、修朝をもうけ、されば修朝は伊豫にとっては甥…、否、八重は秋元但馬の許へと|
嫁《とつ》ぐにあたり、この直幸が養女として嫁いだによって、さればその八重が産みし修朝はこの直幸にとっては義理とは申せ、孫にも当たるによって…」
意知に秋元永朝との所縁を主張してみせた。
如何にもその通りであったので、意知も「左様でござりまするな」と応じた。
「うむ…、なれどその秋元但馬だがの、果たして西之丸若年寄の大役を果たし得るかどうか、この直幸、心配でならぬのだ…」
どうやら直幸までが秋元永朝の能力に疑問を抱いている様であった。
そこで意知も、「相役もおりますこと故…」と同僚の存在を主張、そうすることで秋元永朝にも西之丸若年寄が務まることを主張した。
「いやいや…、それだけでは足るまいて…、出来ればこの直幸が直ぐ傍にて見守ってやりたい程ぞ…」
意知は今のその直幸の言葉を素早く脳内にて「翻訳」した。即ち、
「西之丸若年寄の秋元永朝を直ぐ傍で見守りたい…」
「その為には御城入りを果たす必要がある」
「直幸は平日登城が許されている溜間詰の大名」
「しかし同時に直幸は参勤交代の義務があり、しかも今年、辰年に当たる天明4(1784)年は帰国の年、しかも来月の5月には将軍・家治に暇を願い、国許である彦根へと帰国予定」
「それ故、直幸が西之丸若年寄の秋元永朝を見守ることが出来るのは一月程度しか残されていない」
「それを直幸にずっと、秋元永朝を見守らせるには、つまりは帰国の年であるにもかかわらず帰国せず、引続き御城へと登城させられるにはどうすれば良いか」
答え、幕府の御役に就けば良い。
そしてその御役だが、直幸の様な溜間詰の大名の場合、大政参与、即ち、大老を措いて外にはなかった。
「井伊様は秋元但馬を見守りたい…、後見したいとの口実にて、大老になりたいのだな…」
意知はそう「翻訳」を済ませると、
「さればこの意知もかねがね…、大変、僭越ではござりまするが、井伊様におかせられては大所高所から幕政全体の御後見を賜ることが出来ればと、斯様に思うておりましたところ…」
辞を低うして、直幸には大老として腕を振るって貰いたいと、そう匂わせたのであった。
すると直幸も意知のその相変わらずの勘の良さ、呑込の速さに心底、満足させられたらしく、目を細めた。
「いや、流石は意知よ…、良くぞ、そこに気付いてくれたの…」
直幸は意知をそう持上げた。
「畏れ入りまする…、さればこの儀、上様の御耳に…」
間もなく登城、出勤が叶うようになるので、そうなったら早速、将軍・家治に対して井伊直幸を大老に就ける様、進言してみると、意知は直幸に示唆したのであった。
するとそれを見計らったかの様に今度は直幸が嫡子、直富が到着した。
用人の三浦庄二がそのことを告げに、直幸との懇談の席に姿を見せ、すると直幸は
「ちょうど良い頃合ぞ…」
そう合いの手を入れた。
直幸は櫻田御門外にある彦根藩上屋敷にて暮らしており、それに対して嫡子の直富はと言うと、八丁堀にある中屋敷にて新妻の満姫詮子と共に新婚生活を送っていた。
直幸はここ神田橋御門内にある田沼家、相良藩上屋敷へと足を運ぶに際して、もう一人の城使、山本運平をその八丁堀の中屋敷へと遣わし、
「直富もこれより直ちに田沼意知を見舞いに参れ…」
山本運平を介して直富へとそう命じさせたのであった。
こうして直富は山本運平と、それに直富の側役の石居次郎兵衛と共に意知の許へと足を運んだ次第であり、直幸はこの間の事情を意知に伝えると、直富をここへ連れて来てくれる様、頼みもした。
意知もそれを受けて三浦庄二に命じて直富を連れて来させたのであった。
こうして意知の前に直幸・直富父子が揃うと、直幸の口より倅・直富とその妻、満姫詮子との夫婦仲、それも「甘い新婚生活」が語られたのであった。
仙台藩主・伊達重村が息女である満姫詮子が彦根藩井伊家の嫡子、直富の許へと輿入れ、直富が住まう八丁堀の中屋敷へと引き移ったのは去年の、それも意知が若年寄に任じられたのと同じ月、11月の23日のことであった。
爾来、直富はこの姫君である詮子と仲睦まじく暮らしていたが、その時の詮子はまだ直富の「許婚」、婚約者の立場であり、それが正式に妻となったのは今年の2月のことであった。
天明4(1784)年の2月に彦根藩井伊家と仙台藩伊達家は相互に上屋敷を公式訪問して、直富と詮子との婚姻が正式に調った次第である。
その後、直幸は新郎でもある嫡子の直富を随いて御城へと登城し、将軍・家治に結婚の報告がなされ、意知が佐野善左衛門に襲われた6日前の3月18日には詮子からも将軍家―、将軍・家治やそれに御三卿に対して献上品が贈られたのであった。
さて、直幸は直富と詮子との「新婚生活」について意知に一通り語り終えると、
「されば…、詮子が父…、実父のことも頼むぞ…」
直幸は意知にそうも囁いたのであった。
こちらはもう「翻訳」など不要な程に明らかであった。即ち、
「詮子が父、重村が当主を務める仙台藩伊達家の家格―、殿中席を今の大廣間から松之大廊下の下之部屋へと昇叙、引上げてやって欲しい…」
それに外ならない。
伊達重村が家格―、殿中席の格上を望んだのは偏に、ライバルである薩摩藩主・島津重豪の存在であった。
島津重豪は息女の茂姫を次期将軍・家斉の許嫁として西之丸大奥へと送込むことに成功し、このままいけば今年にも薩摩藩島津家の殿中席を大廣間から松之大廊下下之部屋へと昇叙、格上が叶う筈であった。
伊達重村もそれ故に、ライバルの島津重豪に「負けてなるものか…」とばかり、家格―、殿中席の昇叙を望んだのであった。つまりは重豪と同じく、己も松之大廊下下之部屋入りを望んだ次第である。
それが重豪が一橋治済の「謀叛」、家斉の前に次期将軍であった家治の愛息、家基の毒殺に関与したことが発覚し、重豪は失脚、こともあろうにライバル・伊達重村の許へと預けられ、家斉とその許嫁の茂姫も西之丸より追出され、そして薩摩藩島津家自体も今や存亡の危機に立たされており、家格の引上げどころではない。
そうであれば伊達重村としても最早、家格―、殿中席の昇叙に拘らずとも良さそうなものだが、しかし重村は余計に殿中席の昇叙への欲求を募らせていた。
それは偏に、島津重豪を預かったことに由来する。
島津重豪にはいずれ切腹の御沙汰が待受けているであろう。何しろ次期将軍毒殺という大罪、正に天下謀叛に手を貸したのだ。どんなに軽くとも切腹は免れまい。それどころか切腹も許されず百姓、町人同様、斬罪に処されてもおかしくはない。
ともあれ島津重豪は今、伊達重村の許にて「その日」を待つばかりの身であり、その様な重豪に対して、
「薩摩藩島津家が望んでいた…、それもあと少しのところで叶えられたに違いない、大廣間より松之大廊下下之部屋への殿中席の昇叙、仙台藩伊達家の当主たるこの重村が貴様の代わりに叶えてやったぞ…」
重村がそう囁くことが出来れば、
「ライバルの重豪に限りない打撃を与えられる…」
重村はその様な実に悪趣味、底意地の悪い動機から何としてでも「その日」、即ち、重豪が死を賜る前までに殿中席の昇叙を欲していたのだ。
意知もその様な重村の気持ちも分からぬではないが、しかしだからと言って重村の個人的感情から仙台藩伊達家の家格―、殿中席を昇叙させることには―、将軍・家治に対してその旨、進言することは憚られた。
そこで意知は仙台藩伊達家の殿中席の昇叙については、「極力、努力してみます」と応じるに留めた。
それに対して直幸も流石に重村の個人的な欲望に意知を付合わせるのは無理筋とも薄々、気付いていたらしく、意知のその曖昧な返答、もとい婉曲的な拒否を受容れたのであった。
直幸はあくまで重村への義理から仙台藩伊達家の殿中席の昇叙の件を意知に取次いだのであり、結果、意知がそれを拒否しようとも、それは最早、直幸の知ったことではなかった。直幸としては意知に取次いだ時点で義理を果たしたと、そう考えていたからだ。
さて、井伊直幸・直富父子に続いて意知の許を訪れた大名は秋元永朝と共に西之丸若年寄に内定した松平玄蕃頭忠福であった。
これは本丸御側衆、それも平御側の津田日向守信之の「ルート」であった。
4月朔日の今日、奏者番の松平忠福は生憎と、意知の許へと誰も派してはいなかった。
昨日、3月の晦日に当たる29日こそ、松平忠福は城使の飯野源兵衛を意知への見舞いとして、意知の許へと遣わしたが、その翌日の今日は誰も意知の許へは遣わしていなかった。
「また明日にでも意知の許へと誰か遣わせば良かろう…」
如何に意知が上様の覚えが目出度かろうとも、そう毎日毎日、見舞意の使者を遣わすこともなかろうと、忠福にはその思いがあり、それ故、今日はここ神田橋御門内にある田沼家の上屋敷には忠福の家来の姿がなかったのだ。そうであれば、
「意知の推挙により奏者番の松平忠福を西之丸若年寄に据えよう…」
重好のその「リーク」も忠福の家来には伝わらず、畢竟、主君・忠福の耳にその「リーク」が達することもなく、このままいけば忠福が自ら、意知の許へと足を運ぶこともなかったであろう。
にもかかわらず、忠福が意知の許へと自ら足を運んだのは、否、運べたのは津田信之の御蔭であった。
津田信之もまた、用人を見舞いに立てて意知の許へと差向け、それも忠福とは異なり、毎日、4人の用人を交代で意知の許へと差向けていた。
今日はその中の一人、水野佐左衛門が意知の見舞いとして、田沼家上屋敷へと足を運び、そこで水野佐左衛門は重好の「リーク」を耳にし、驚いた。
それと言うのも、「リーク」に名の挙がった松平忠福は主君・津田信之の縁者であったからだ。
即ち、津田信之が嫡子、壱岐守信久は松平忠福が次女を娶っていたからだ。
津田信之が嫡子、信久にとって奏者番の松平忠福は岳父に当たり、その忠福が西之丸若年寄に取立てられる、それも意知の推挙により取立てられるとあらば、
「ここは是非とも忠福当人より意知へと謝意を示して貰わねばなるまい…」
主君・津田信之ならば必ずやそう考えるに違いないと、水野佐左衛門はそう予期し、重好の「リーク」後、外の陳情客を見廻してみた。
水野佐左衛門は忠福に仕える城使、飯野源兵衛の顔は知っていたが、今日はその飯野源兵衛の姿が見当たらない。
若しかしたら今日は忠福が当主を務める松平家においては家老か用人クラスを差向けたのやも知れず、水野佐左衛門もそこまでは―、彼等の顔までは把握しておらず、その場合は「お手上げ」であった。
或いは今日は誰も意知の許へと差向けてはいない可能性もあり―、それが正解であったのだが、あらゆる可能性が考えられる場合、常に最悪の可能性を考えるのが「危機管理」の鉄則であった。
そしてこの場合の「最悪の可能性」とは、
「松平家においては今日は誰も意知の許へと見舞いの使者を差向けてはいない…」
それに外ならない。その場合には折角の「栄転話」も直ぐには忠福が当主を務める松平家には伝わらないからだ。
そこで水野佐左衛門は外の大名家の家臣と共に席を立つと、いったん田沼家上屋敷を脱出し、急ぎ神田佐久間町にある屋敷へと立返り、このことを主君・津田信之の耳に入れ、忠福が当主を務める松平家にもこのことを伝えるべきかどうか、信之の判断を仰いだ。
すると信之もまた「最悪の可能性」を考えて、水野佐左衛門に命じ、忠福が当主を務める松平家にもその「栄転話」を「リーク」させることにした。
忠福が当主を務める小幡藩上屋敷は外櫻田にあり、水野佐左衛門はそこへ駆付けると、江戸詰用人の一人、小林門右衛門へと重好の「リーク」を伝えたのであった。
すると小林門右衛門は仰天し、それで水野佐左衛門も今日は松平家においては誰も意知の許へと差向けてはいなかったのだと、そう悟ったものである。
やはり主君が参勤交代で江戸を留守にしていると、どうしてもこういうところで詰の甘さが目につく。
水野佐左衛門はそれから小林門右衛門に対して、
「急ぎ、田沼様の許へと…」
意知の許へと馳せ参じ、西之丸若年寄に推挙してくれたことの礼を述べた方が良いと、水野佐左衛門は主君・津田信之よりの言伝であるとして、小林門右衛門にそう伝えたのであった。
一方、小林門右衛門にしても態々、津田信之から言われるまでもなくそうするつもりであったので、門右衛門は急ぎ支度を整えると、意知の許へと足を運んだのであった。
小林門右衛門は意知と向かい合うと、次期将軍の重好に対して主君・忠福を西之丸若年寄に推挙してくれたことの礼を述べた。
それに対して意知も忠福の能力を褒めそやし、だからこそ西之丸若年寄に推挙したのだと、そう応じたものの、無論、それだけが理由ではなかった。
「されば津田殿にもよしなに…」
意知は小林門右衛門を大いに持上げると、そう付加えたのであった。
それで小林門右衛門も「成程…」と、意知が己を西之丸若年寄に推挙した理由に合点がいった。
即ち、津田信之が実姉の於千穂の方は家基の実母にして、家基亡き今も大奥にて絶大なる権力を振るっていた。
意知はゆくゆくは老中を目指しており、その折、大奥を味方に付けておけば、老中を目指す上でも何かと役に立つに違いない。
そこで意知はその大奥の実力者の一人である於千穂の方を取込もうと、まずはその外戚である松平忠福から取込もうと思いつき、そこで忠福を西之丸若年寄に推挙したのであった。
一方、忠福を主君に仰ぐ小林門右衛門は「ぼんぼん」の秋元永朝とは異なり海千山千、意知の意図するところに気付くと、阿吽の呼吸で応じたものである。
そしてこの小林門右衛門に続いて姿を見せたのが松平定信であった。
定信自身は大事な家臣を態々、意知の許へと差向けるのを良しとせず、その旨、家臣には命じていなかったものの、しかし家臣の方が気を利かせて、
「自主的に…」
意知の見舞いに足を運んでいたのだ。
今日は城使の日下部武右衛門が意知の許へと足を運んでおり、そこで重好より件の「リーク」が飛出したものだから、日下部武右衛門また、いったん田沼家上屋敷を脱出し、急ぎ北八丁堀にある白河藩上屋敷へと立戻ると、主君・定信に対して重好の「リーク」、即ち、
「意知が次期将軍の清水宮内卿様に対して殿様を西之丸老中に推挙してくれた…」
そのことを伝えたのであった。
これにはさしもの定信も驚きこそしたものの、しかしそれで、
「意知に礼を述べなければ…」
その発想には至らなかった。
そこで日下部武右衛門より定信に対して、意知の許へと足を運んで意知に礼を述べるよう勧めなければならなかった。
それに対して定信は当然と言うべきか、難色を示した。
「何故、畏れ多くも吉宗公が血を引く高貴なるこの私が成上がり者の田沼が小倅を見舞わねばならぬのだ?」
定信はそう信じて疑わず、且つ、実際に口にして憚るところがなかった。
日下部武右衛門は内心、主君・定信のその、どうしようもない「選民思想」にやれやれと思いつつ、
「殿様はゆくゆくは本丸老中になられる御方…」
その際、今の内から意知と誼を通じておけば、本丸老中へと遷任、昇格を果たす上で何かと役に立つに違いないと、実に功利的な理由を並べて定信に意知を見舞うことを勧めたのであった。
すると定信も日下部武右衛門のこの功利的な「説得」には心を動かされたらしく、漸くに意知の許へと足を運ぶことにしたのだ。
その定信を意知は実に鄭重に出迎えた。
「畏れ多くも八代様が御血筋にあらせられし越中様にまで御見舞いを頂けまするとは、この意知にとりましては正しく、過ぎたる栄誉と申すものにて…」
意知は定信をそう持上げて、定信を実に良い心地にさせた。
定信は意知のその「ヨイショ」を真に受け、「うむ」と素直に応じた。
意知はそんな定信に対して内心、舌を出しつつ、
「されば次期将軍を支えし西之丸老中は畏れ多くも八代様が御血筋にあらせられる越中様を措いて外に人はなく…」
次期将軍・重好に対して定信を西之丸老中に推薦した理由を告げたのであった。
すると定信はやはり、それも真に受け、「うんうん」と何度も頷き、実に満足気に「さもあろう」とも応じた。
斯かる意知の「ヨイショ」が功を奏してか、意知の許へと足を運んで良かったと、定信にそう思わせるに至った。
定信という男は実に分かり易く、意知はそんな定信が愛おしくさえ感じられた程であった。
こうして本丸老中や若年寄、或いは西之丸老中や若年寄に内定した有力な大名が続々と「田沼詣」、それも意知を見舞いに姿を見せた為に、そのことが外の大名は元より、旗本にまで広まり、田沼家上屋敷はいよいよ陳情客、それも意知目当ての「見舞客」で溢れ返った。
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