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清水重好が田沼家を厚遇する理由 ~重好は田沼意知と長谷川平蔵との間に「楔」を打込む~

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「それにしても…、おのれ罵詈ばり雑言ぞうごんびせし秋元あきもと但馬たじまめを態々わざわざ西之丸にしのまる若年寄わかどしより推挙すいきょしてやるとは…、意知おきともよ、そなたも中々なかなか策士さくしよな…」

 重好しげよしはニヤリとみをかべた。

 成程なるほど、そのとおりであった。

 これで秋元永朝あきもとつねとも意知おきともに、ひいては田沼家たぬまけ厚意こういいてくれるやもれないからだ。

 いや、それが無理むりだとしても秋元永朝あきもとつねとも背後はいごひかえる井伊いい直幸なおひで松平まつだいら定國さだくに歓心かんしんうことが出来できるやもれず、意知おきともとしてはこちらのほう目的もくてきであった。

「まぁ、おろかな秋元あきもと但馬たじまめのこと、意知おきとも推挙すいきょによるもとのもうかせたところで、素直すなお意知おきとも感謝かんしゃするともおもえず…、なれど秋元あきもと但馬たじまめが岳父がくふいやもと岳父がくふ井伊いい掃部かもん殿どの感謝かんしゃするやもれぬな…」

 重好しげよし意知おきとも思惑おもわく的確てきかく言当いいあててせた。

もっとも…、秋元あきもと但馬たじまめは妻女さいじょ先立さきだたれるや、ぐにべつむすめを…、それもいま京都きょうと所司代しょしだいつとめし牧野まきの越中えっちゅうむすめしつとしてむかれたがの…」

 重好しげよしひとごとようにそうつぶやくと、クックッと微苦笑びくしょうあるいは冷笑れいしょうしてみせた。

 秋元永朝あきもとつねとも前妻ぜんさいにして井伊いい直幸なおひでむすめ―、正確せいかくには養女ようじょ八重やえが安永7(1778)年にしゅっするや、永朝つねともはそのとし早々はやばや当時とうじ大坂おおざか城代じょうだい要職ようしょくにあった牧野まきの貞長さだながむすめ美也みや再婚さいこんたしたのであった。無論むろん出世しゅっせかんがえてのことである。

 大坂おおざか城代じょうだいと言えば、老中ろうじゅう待機たいきポストとも言うべき京都きょうと所司代しょしだいのそのまた待機たいきポストであり、場合ばあいによっては京都きょうと所司代しょしだいえて老中ろうじゅう抜擢ばってきされることもある。

 そのよう大坂おおざか城代じょうだいポストにある牧野まきの貞長さだながむすめめとれば、おの出世しゅっせにもきっと役立やくだつにちがいないと、秋元永朝あきもとつねともはそうかんがえて、牧野まきの貞長さだながむすめ美也みやめとったのであった。

 もっとも、それから6年がった今以いまもっ秋元永朝あきもとつねともはヒラの奏者番そうじゃばんのままであり、若年寄わかどしよりはおろか、奏者番そうじゃばん筆頭ひっとうたる寺社じしゃ奉行ぶぎょうこえすらかからないあたり、幕府ばくふ人事じんじ存外ぞんがい公平フェアと言えるかもれぬ。

 ともあれ、ここで秋元永朝あきもとつねとも意知おきとも推挙すいきょにより奏者番そうじゃばんより西之丸にしのまるづきとはもうせ、若年寄わかどしよりへと昇進しょうしんたせば、意知おきともにくおも永朝当人つねともとうにんかく永朝つねともいま岳父がくふ牧野まきの貞長さだなが意知おきとも感謝かんしゃしてくれるにちがいない。

 貞長さだなが自身じしんからして、婿むこ永朝つねとも見限みかぎっていたからだ。

 永朝つねとも熱心ねっしん求婚きゅうこんほだされてむすめ美也みや永朝つねともへととつがせた貞長さだながではあったが、もなく永朝つねとも愚鈍ぐどんさに気付きづかされ、大事だいじむすめをくれてしまったことにおおいに後悔こかいさせられた。

 そのよう永朝つねともであるので、

一生いっしょう、ヒラの奏者番そうじゃばんわるであろうぞ…」

 貞長さだなが婿むこ永朝つねともをそのよう見限みかぎっていたところ、意知おきとも推挙すいきょにより西之丸にしのまる若年寄わかどしよりへと取立とりたてられたとあらば、貞長さだなが意知おきとも感謝かんしゃするのは間違まちがいない。

 そしてそれはもと岳父がくふ井伊いい直幸なおひでにもまろう。

 秋元永朝あきもとつねとも直幸なおひで養女ようじょ八重やえ先立さきだたれたとはもうせ、八重やえとのあいだには嫡子ちゃくし攝津守せっつのかみ修朝のぶともをもうけていたからだ。

 しかもこの八重やえだが実際じっさいにはさき與板よいた藩主はんしゅ井伊いい兵部少輔ひょうぶしょうゆう直存なおあり次女じじょであり、実姉じっし直幸なおひでしつであり、実弟じっていなんいま西之丸にしのまる若年寄わかどしより井伊いい直朗なおあきらなのである。

 つまり秋元永朝あきもとつねとも嫡子ちゃくし修朝のぶともにとって、井伊いい直幸なおひで妻女さいじょ伯母おば西之丸にしのまる若年寄わかどしより井伊いい直朗なおあきら叔父おじたるのだ。

 そして井伊いい直幸なおひでにしろ、井伊いい直朗なおあきらにしろ、牧野まきの貞長同様さだながどうよう秋元永朝あきもとつねとものことは見限みかぎっており、そこへ意知おきとも推挙すいきょにより西之丸にしのまる若年寄わかどしよりへと出世しゅっせたしたとあらば、井伊いい直幸なおひで井伊いい直朗なおあきら意知おきとも感謝かんしゃするにちがいない。

 とりわけ、西之丸にしのまる若年寄わかどしよりから本丸ほんまる若年寄わかどしよりへと昇格しょうかくたす井伊いい直朗なおあきらはそうだろう。

 なにしろ、無能むのう秋元永朝あきもとつねとも西之丸にしのまる若年寄わかどしよりへと取立とりたてられるのもひとえに、西之丸にしのまる若年寄わかどしよりおのれ本丸ほんまる若年寄わかどしよりへと異動いどう昇格しょうかくたしたため西之丸にしのまる若年寄わかどしより欠員けついんしょうじ、そこへ意知おきとも永朝つねとも推挙すいきょしてくれたためであり、してみると、おのれ西之丸にしのまる若年寄わかどしよりから本丸ほんまる若年寄わかどしよりへと異動いどう昇格しょうかくたせたのも意知おきとも推挙すいきょ賜物たまもの相違そういあるまい―、永朝つねともとは真逆まぎゃく正反対せいはんたい聡明そうめいなる井伊いい直朗なおあきらならば当然とうぜん、そこに気付きづはずだからだ。

 また秋元永朝あきもとつねとも嫡子ちゃくし修朝のぶとも義兄ぎけいである松平まつだいら定國さだくにからも感謝かんしゃされるやもれないが、しかしこちらはなんとも期待きたいうすであった。それと言うのも定國さだくに永朝程つねともほどには無能むのうではなかったが、それでもにぶいところがあるからだ。

 それでも意知おきともにとっては井伊いい直幸なおひで井伊いい直朗なおあきら牧野まきの貞長さだがなといった面々めんめんから感謝かんしゃされれば十分じゅうぶんであった。

 無能むのう秋元永朝あきもとつねともから、あるいはにぶ松平まつだいら定國さだくにから感謝かんしゃされようがされまいが、それはさしたる問題もんだいではない。

 大事だいじなのは井伊いい直幸なおひで井伊いい直朗なおあきら、それに牧野まきの貞長さだながといった幕政ばくせいおもきをなす面々めんめんから感謝かんしゃされることがなによりも大事だいじであったからだ。

 実力じつりょくでのしがり、それゆえ血筋ちすじ由緒ゆいしょといったものをたない田沼家たぬまけにとって、幕政ばくせいおもきをなす井伊家いいけ牧野家まきのけといった名門めいもん後援こうえんられればなにかと心強こころづよいからだ。

「さてと…、意知おきともよ、いでそばしゅう人事じんじだがの…」

 重好しげよし今度こんどはそう切出きりだすと、田沼たぬま能登守のとのかみ意致おきむね引続ひきつづ西之丸にしのまるそば用取次ようとりつぎ留任りゅうにんさせる意向いこうであることをつたえ、意知おきともおどろかせた。

 それはそうだろう。なにしろ意致おきむね一橋ひとつばし家老かろうつとめていたおりに、治済はるさだが「謀叛むほん」、すなわ家基いえもと毒殺どくさつめられずにみすみす、家基いえもと見殺みごろしにしてしまったのだ。

 これでは意致おきむね治済はるさだの「共犯者きょうはんしゃ」と看做みなされてもいたかたない。

 それがほか一橋ひとつばし家臣かしんとはことなり、逮捕たいほ捕縛ほばくまぬがれたのはひとえ将軍しょうぐん家治いえはる恩情おんじょう賜物たまものであった。

 家治いえはる一応いちおう

三卿さんきょう家老かろう三卿さんきょう監視かんしせしがおもたる職掌しょくしょうなれば、ほか一橋ひとつばし家臣かしん…、番頭ばんがしら以下いか家臣かしんとはことなり、治済はるさだめが謀叛むほんには関与かんよしていないであろうぞ…」

 そのよう名目めいもくとなえて、家基暗殺いえもとあんさつにおける一橋ひとつばし家老かろう逮捕たいほ捕縛ほばくめんじたのであったが、実際じっさいには、

意致おきむね逮捕たいほ捕縛ほばくしたくない…」

 その一念いちねんからとなえた名目めいもくぎず、これで意致おきむね家基暗殺いえもとあんさつ家老かろうつとめていなかったならば、家治いえはる家老かろう逮捕たいほ捕縛ほばく踏切ふみきっていたやもれぬ。

 家治いえはる事程ことほど左様さよう意致おきむねを、と言うよりは田沼家たぬまけっており、それゆえ意致おきむねもとより、その従弟いとこたる意知おきともちち意次おきつぐなんとも心苦こころぐるしいばかりであった。

 そのよう家治いえはるからをかけられながらも、その期待きたい裏切うらぎり、治済はるさだの「謀叛むほんすなわ家基いえもと暗殺あんさつ毒殺どくさつゆるしてしまったからだ。

 そこで意致おきむね首魁しゅかいとも言うべき治済はるさだ逮捕たいほ捕縛ほばくされた時点じてん西之丸にしのまる老中ろうじゅう鳥居とりい忠意ただおき進退伺しんたいうかがい、つまりは西之丸にしのまるそば用取次ようとりつぎおよそばしゅう辞表じひょう提出ていしゅつし、爾来じらい神田橋かんだばし門外もんそと屋敷やしきにて謹慎きんしん、ひきこもっていた。

 鳥居とりい忠意ただおき提出ていしゅつされた意致おきむねの「辞表じひょう」は本来ほんらいなればさら西之丸にしのまるあるじたる家斉いえなりへと奉呈ほうていされるべきところ、鳥居とりい忠意ただおきはそうはせずに本丸ほんまるあるじたる将軍しょうぐん家治いえはるへと奉呈ほうていした。

 家斉いえなり実父じっぷ治済はるさだ逮捕たいほ捕縛ほばくされたことで、

家斉公いえなりこうがこの西之丸にしのまるわれるのも、そうとおくはあるまい…」

 忠意ただおきはそう見越みこして家斉いえなりではなく家治いえはるへと意致おきむねの「辞表じひょう」を奉呈ほうていしたのであった。

 そして家治いえはるへと奉呈ほうていされた意致おきむねの「辞表じひょう」だが、家治いえはるいまだこれを受理じゅりせずにいた。

 家治いえはるとしては勿論もちろん意致おきむねめさせるつもりはなかった。

 家斉いえなり西之丸にしのまるわれたことで、西之丸にしのまるそばしゅうみな―、小笠原おがさわら若狭守わかさのかみ信喜のぶよし佐野さの右兵衛尉うひょうえのじょう茂承もちつぐ二人ふたりのぞいた彼等かれらはいったん、本丸ほんまるへと引取ひきとられる格好かっこうで、家治いえはるつかえることになった。

 これはなにも、西之丸にしのまるそばしゅうかぎったはなしではなく、西之丸にしのまる中奥なかおくにて家斉いえなりつかえていた小姓こしょう小納戸こなんどにもまる。

 つまり西之丸にしのまる中奥役人なかおくやくにん本丸中奥役人ほんまるなかおくやくにんへと異動いどうたし、主君しゅくん家斉いえなりから家治いえはるへとえたわけである。

 ちなみに小笠原おがさわら信喜のぶよし佐野さの茂承もちつぐ二人ふたり西之丸にしのまるそば用取次ようとりつぎ家基毒殺いえもとどくさつ事件じけんおよ意知暗殺おきともあんさつ未遂事件みすいじけん関与かんよしたうたがいで逮捕たいほ捕縛ほばくされていた。

 さて、そこで田沼たぬま意致おきむねだが、意致おきむねもまた、主君しゅくん家治いえはるえた。

 意致おきむねいま本丸ほんまるそば用取次ようとりつぎ一人ひとりとしてつらなっていたわけだが、意致おきむね相変あいかわらず出仕しゅっしせず屋敷やしきにひきこもったままであった。

 これで重好しげよし次期じき将軍しょうぐんとして西之丸にしのまるりをたせばいったん本丸中奥ほんまるなかおくへと引取ひきとられた西之丸にしのまる中奥役人なかおくやくにんふたたび、西之丸にしのまる中奥なかおくへともどることになる。

 そのなかには勿論もちろん意致おきむねふくまれるわけだが、西之丸にしのまるあらたなる盟主めいしゅとなった重好しげよし意致おきむねの「辞表じひょう」を受理じゅりしたならば、家治いえはるとしても最早もはや、どうにも出来できない。

 意致おきむねの「辞表じひょう」だが、家治いえはるはこれをただちにやぶてたものの、意致おきむねあらためて西之丸にしのまる新当主しんとうしゅたる重好しげよしに「辞表じひょう」を提出ていしゅつしたならば、それにたいして重好しげよしがその「辞表じひょう」を受理じゅりしたならば、如何いか将軍しょうぐん家治いえはるいえど如何いかんともしがたい。

 だが重好しげよし意致おきむね引続ひきつづき、そば用取次ようとりつぎとしてつかつづけさせる意向いこうしめしたものだから、意知おきともおどろいたのも当然とうぜんであった。

 なにしろ重好しげよし家斉いえなりつかえていた西之丸にしのまる老中ろうじゅう鳥居とりい忠意ただおきと、それに西之丸にしのまる若年寄わかどしより井伊いい直朗なおあきら酒井さかい忠香ただよしを、

家斉いえなりいろがついているから…」

 そのため本丸ほんまるへといやり、彼等かれらわる人材じんざいについて、こうして意知おきとも話合はなしあいにおよんでいたのだ。

 そうであれば西之丸にしのまるそばしゅうについても当然とうぜん

あらたな人材じんざいを…」

 重好しげよしがそうかんがえてもおかしくはない、いや、それどころかそれが自然しぜんであった。

 なにしろ、「家斉いえなりいろ」というてんでは表向おもてむき役人やくにんたる老中ろうじゅう若年寄わかどしよりよりも中奥役人なかおくやくにんほうかったからだ。

 こと田沼たぬま意致おきむねそばしゅうなかでも筆頭ひっとうたる用取次ようとりつぎとして家斉いえなりつかえていたのだ。「家斉いえなりいろ」というてんではこの意致おきむね一番いちばん色濃いろこく、重好しげよしとてそれは承知しょうちはずであり、本来ほんらいならば意致おきむねは「家斉いえなりいろ」をきら重好しげよしによって真先まっさき馘首リストラされてもおかしくはない。

 にもかかわらず実際じっさいには重好しげよし意致おきむねそば用取次ようとりつぎとしてつかつづけさせる意向いこうしめしたので、意知おきともおどろかせたのであった。

 いや重好しげよし意知おきともおどろかせたのはこれにとどまらなかった。

 西之丸にしのまるそばしゅう筆頭ひっとう小笠原おがさわら信喜のぶよし佐野さの茂承もちつぐ二人ふたり逮捕たいほ捕縛ほばくされたことで定員ていいんに2名の欠員けついんしょうじ、そこで重好しげよしはその欠員けついんめるべく、

西之丸にしのまる小納戸こなんど頭取とうどり新見しんみ豊前守ぶぜんのかみ正則まさのり西之丸にしのまる小納戸こなんど石谷いしがや次郎左衛門じろざえもん清定きよさだそばしゅう取立とりたて、そのうち新見しんみ正則まさのりには筆頭ひっとう用取次ようとりつぎねさせしめようとおもうておるのだ…」

 重好しげよし意知おきともにそうささやいたのであった。

 新見しんみ正則まさのり意知おきとも叔母おば―、意次おきつぐ実妹じつまいおっとであり、石谷いしがや次郎左衛門じろざえもんはその正則まさのり次女じじょめとっていた。つまり石谷いしがや次郎左衛門じろざえもん意知おきとも従姉いとこおっとであった。

 新見しんみ正則まさのりにしろ石谷いしがや次郎左衛門じろざえもんにしろ田沼家たぬまけ所縁ゆかりふかく、そのよう二人ふたり重好しげよし西之丸にしのまるそばしゅう取立とりたてようと言うのである。

 しかもそのうち一人ひとり新見しんみ正則まさのりそばしゅう筆頭ひっとう用取次ようとりつぎ抜擢ばってきしようとまで言うのである。

 田沼家たぬまけにとってはまこともっ光栄こうえい人事じんじと言えたが、重好しげよし何故なにゆえ、そこまで田沼家たぬまけ厚遇こうぐうしてくれるのか、意知おきともには重好しげよし魂胆こんたんはかりかねた。

 すると重好しげよしもそうとさっしたらしく、

「されば…、長谷川はせがわ平蔵へいぞうなるものなにやらまわっているようだが…」

 重好しげよしはそう切出きりだして意知おきともを「成程なるほど…」と内心ないしんうなずかせた。

田安家たやすけ侍女じじょ廣瀬ひろせおよ池原いけはら良明よしあきら刺殺事件しさつじけんやそれにつづもと清水家しみずけ用人ようにん小笠原おがさわら主水刺殺事件もんどしさつじけん戸田とだ要人水死事件かなめすいしじけん、そして西之丸にしのまる目附めつけ深谷ふかや盛朝もりとも刺殺事件しさつじけんについて、この重好しげよしこそが黒幕くろまくであると、長谷川はせがわ平蔵へいぞう見立みたてているようだが、意知おきとも平蔵へいぞうしたしいようなので、平蔵へいぞうなんとかしろ…」

 よう平蔵へいぞう探索たんさくめさせろと、重好しげよし意知おきともにそう示唆しさしており、そのための「田沼家たぬまけへの厚遇こうぐう」であった。

おそおおくも上様うえさまにおかせられては、長谷川はせがわ平蔵へいぞうにはいたく失望しつぼうされたよしにて…」

 重好しげよし如何いかにも残念ざんねんそうに切出きりだした。

 これは事実じじつであった。

 すなわち、平蔵へいぞう廣瀬ひろせらのについても治済はるさだ黒幕くろまくであると、治済はるさだ自身じしんみとめさせるので、

治済はるさだへの詮議せんぎ取調とりしらべをやらせてしい…」

 意次おきつぐかいして将軍しょうぐん家治いえはる願出ねがいで家治いえはる平蔵へいぞうしんじて治済はるさだ取調とりしらべをまかせたというに、結果けっかはその家治いえはる期待きたい裏切うらぎるものであった。

廣瀬ひろせらのについては、おのれ黒幕くろまく仕立したてようとする清水しみず重好しげよしこそがしん黒幕くろまくである…」

 治済はるさだのそのよう言分いいぶん、もとい悪足掻わるあがきをそのまま調書しらべがきしたためて家治いえはる提出ていしゅつしたものだから、家治いえはる平蔵へいぞう失望しつぼうしたのも当然とうぜんであった。

 このけん療養中りょうようちゅう意知おきともちち意次おきつぐかいしてらされていたので把握はあくしていた。

上様うえさまあるいは、かる平蔵へいぞう仲立なかだちをつとめし意次おきつぐにも失望しつぼうしたやもれぬなぁ…」

 重好しげよし意知おきともおどようなことまでくちにした。

 それでも重好しげよし意知おきとも土俵際どひょうぎわまで追詰おいつめるほどおろかではなく、

「いやいや…、意次おきつぐや、それに意知おきとも絶大ぜつだいなる信頼しんらいせる上様うえさまのことゆえ左様さようなことはあるまいな…」

 じつ絶妙ぜつみょうなタイミングで軌道きどう修正しゅうせいはかった。

「なれどこのまま、平蔵へいぞうめを捨置すておけば、あるいはかる事態じたい相成あいなるやもれぬ…」

 それにはなんとしてでも平蔵へいぞう圧力あつりょくをかけ、これ以上いじょう余計よけい穿鑿せんさくはさせないようくぎすのが肝要かんようと、重好しげよし意知おきともささやいたのであった。

おそれながら長谷川はせがわ平蔵へいぞうなるものいたよう猪突猛進ちょとつもうしんなれば、この意知おきともあつくわえましたところで、かえって反撥はんぱつし、益々ますます妄想もうそうかれ、探索たんさくにのめりむやもれず…」

 意知おきとものその言葉ことば重好しげよしは「ほう」とほそめさせた。

意知おきとも妄想もうそうだんじてくれるか?廣瀬ひろせらのはこの重好しげよしこそが黒幕くろまくだとする治済はるさだめが供述きょうじゅつを…」

御意ぎょい…、されば次期じき将軍しょうぐん御成おなりあそばされまする御方おかたかる真似まねおよぶともおもえず…」

 どうやら意知おきとも重好しげよしのことをしんじてくれるらしい。

 ならば重好しげよしとしてはそれで十分じゅうぶんであった。あま意知おきともたいして、

平蔵へいぞう圧力あつりょくをかけ、これ以上いじょう余計よけい探索たんさくをさせるな…」

 そう追詰おいつめて、結果けっか意知おきともこころはなれさせてしまってはもともないからだ。

 ここは意知おきともだけでもおのれしんじてくれてただけで、ひいては意知おきとも平蔵へいぞうとのあいだくさび打込うちこめただけでもしとせねばなるまいと、重好しげよしはそう割切わりきることにした。

「いや、意知おきともだけでもこの重好しげよししんじてくれればそれで充分じゅうぶんぞえ…」

おそりまする…、平蔵へいぞうとて、宮内卿様くないきょうさま次期じき将軍しょうぐんとして西之丸にしのまるりを御果おはたしあそばされますれば、最早もはやあきらめましょうぞ…、いや…、妄想もうそうからめましょうぞ…」

 たしかに意知おきとももうとおりやもれぬと、重好しげよしおもった。

 重好しげよし次期じき将軍しょうぐんとして西之丸にしのまるりをたせば、そのあとかり重好しげよしこそが廣瀬ひろせらの黒幕くろまくであるとする治済はるさだ供述きょうじゅつ裏付うらづけるようかくたるあかしれたところで、最早もはや手後ておくれというもの。次期じき将軍しょうぐん相手あいてでは如何いか平蔵へいぞういえども、あしまい。

 ならば西之丸にしのまるりをいそ必要ひつようがあった。

 重好しげよしがそんなことをかんがえていると、「おそれながら…」と意知おきともこえってはいった。

なんだな?」

「されば長谷川はせがわ平蔵へいぞうなるもの出世主義しゅっせしゅぎしゃ一面いちめんがあり…」

 出世しゅっせというエサ平蔵へいぞうまえにぶらげれば、あるいは平蔵へいぞううごきをふうじることが出来できるやもれぬと、意知おきとも重好しげよしにそう示唆しさしていたのだ。

 重好しげよしもそうと看取かんしゅするや、「成程なるほど…」とおうじ、

長谷川はせがわ平蔵へいぞうは…、いまたしか、西之丸にしのまる書院番しょいんばんであったの…」

 意知おきともたしかめるようたずねた。

御意ぎょい…、されば進物番しんもつばんねておりますれば…」

進物番しんもつばんか…、さればさぞかし眉目びもく秀麗しゅうれい頭脳ずのう明晰めいせきであるのであろうな…」

 将軍しょうぐんあるいは次期じき将軍しょうぐんへの進物しんもつの「贈答役ぞうとうやく」、よう賄賂ワイロ受取係うけとりがかり小姓こしょうぐみ書院しょいんりょうばんより眉目びもく秀麗しゅうれい頭脳ずのう明晰めいせきものえらばれるのが仕来しきたりであり、重好しげよしもそのことは当然とうぜん把握はあくしていた。

御意ぎょい…」

「されば…、平蔵へいぞうめには布衣ほいやくでもぶらげてやるかの…」

 出世しゅっせ主義者しゅぎしゃ長谷川はせがわ平蔵へいぞうにぶらげる「人参にんじん」として従六位じゅろくい布衣ほいやくきわめて妥当だとうであった。

「されば小十人こじゅうにんがしらかちがしら…、宮内卿様くないきょうさま御目おめとどかれまする西之丸にしのまる小十人こじゅうにんがしらかちがしらあたりでは如何いかがでござりましょう…」

 平蔵へいぞうにぶらげる「人参にんじん」について、意知おきとも重好しげよしにそう進言アドバイスした。

 意知おきとものその進言アドバイスはまた妥当だとうなものであり、重好しげよしうなずいた。

 従六位じゅろくい布衣ほいやくにも色々いろいろあり、その頂点トップなんと言っても目附めつけ、それも本丸ほんまる目附めつけであろう。

 だが平蔵へいぞう本丸ほんまる目附めつけけることは如何いか次期じき将軍しょうぐんたる重好しげよしちからもってしてもむずかしい。

 かりけられたとしても、それで平蔵へいぞうにこれさいわいとばかり、廣瀬ひろせらのについて探察たんさくされては一体いったいなんため平蔵へいぞう本丸ほんまる目附めつけけてやったのかからない。

 それゆえ本丸ほんまる目附めつけは「人参にんじん」としては不適格ふてきかくであり、それは西之丸にしのまる目附めつけにもまろう。

 そのてん西之丸にしのまる小十人こじゅうにんがしらや、あるいは西之丸にしのまるかちがしらであれば平蔵へいぞう出世欲しゅっせよくたし、そのうえ平蔵へいぞうの「うごき」もふうじられ、「人参にんじん」としてまさにうってつけであった。

あいかった…、されば平蔵へいぞうには西之丸にしのまる小十人こじゅうにんがしらか、かちがしら打診だしんいたしてみようぞ…」

「ははぁっ…、それと今一いまひとつ…」

なんだ?」

長谷川はせがわ平蔵へいぞう実妹じつまい大久保おおくぼ平左衛門へいざえもん忠居ただおきもとしておりますれば…」

なんと…」

「しかもこの大久保おおくぼ平左衛門へいざえもん義兄ぎけい長谷川はせがわ平蔵へいぞうとはとも西之丸にしのまるにても書院番しょいんばんとしてつかえ、くみおなじく4番組ばんぐみなれば…」

 長谷川はせがわ平蔵へいぞう懐柔かいじゅう、「人参にんじん」をぶらげるにたってはこの大久保おおくぼ平左衛門へいざえもん使つかってみてはどうかと、意知おきともはそう示唆しさしていたのだ。

 成程なるほど大久保おおくぼ一党いっとう清水家しみずけとは所縁ゆかりふかく、その大久保おおくぼ一党いっとうぞくする平左衛門へいざえもんなるもの平蔵へいぞうとの仲介役ちゅうかいやくとしてはこれまたうってつけやもれなかった。

 重好しげよし意知おきとも示唆しさふかうなずくとともに、おおいに感謝かんしゃした。
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