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清水重好が田沼家を厚遇する理由 ~重好は田沼意知と長谷川平蔵との間に「楔」を打込む~
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「それにしても…、己に罵詈雑言を浴びせし秋元但馬めを態々、西之丸若年寄に推挙してやるとは…、意知よ、そなたも中々の策士よな…」
重好はニヤリと笑みを浮かべた。
成程、その通りであった。
これで秋元永朝が意知に、ひいては田沼家に厚意を抱いてくれるやも知れないからだ。
否、それが無理だとしても秋元永朝の背後に控える井伊直幸や松平定國の歓心を買うことが出来るやも知れず、意知としてはこちらの方が目的であった。
「まぁ、愚かな秋元但馬めのこと、意知が推挙によるもとの申し聞かせたところで、素直に意知に感謝するとも思えず…、なれど秋元但馬めが岳父、否、元岳父の井伊掃部殿は感謝するやも知れぬな…」
重好は意知の思惑を的確に言当てて見せた。
「尤も…、秋元但馬めは妻女に先立たれるや、直ぐに別の娘御を…、それも今は京都所司代を勤めし牧野越中が娘御を室として迎え入れたがの…」
重好は独り言の様にそう呟くと、クックッと微苦笑、或いは冷笑してみせた。
秋元永朝の前妻にして井伊直幸の娘―、正確には養女の八重が安永7(1778)年に卒するや、永朝はその年に早々と当時、大坂城代の要職にあった牧野貞長が娘の美也と再婚を果たしたのであった。無論、出世を考えてのことである。
大坂城代と言えば、老中の待機ポストとも言うべき京都所司代のそのまた待機ポストであり、場合によっては京都所司代を跳び越えて老中に抜擢されることもある。
その様な大坂城代の職にある牧野貞長の娘を娶れば、自が出世にもきっと役立つに違いないと、秋元永朝はそう考えて、牧野貞長の娘の美也を娶ったのであった。
尤も、それから6年が経った今以て秋元永朝はヒラの奏者番のままであり、若年寄はおろか、奏者番の筆頭たる寺社奉行の声すらかからない辺り、幕府の人事は存外、公平と言えるかも知れぬ。
ともあれ、ここで秋元永朝が意知の推挙により奏者番より西之丸附とは申せ、若年寄へと昇進を果たせば、意知を憎く思う永朝当人は兎も角、永朝の今の岳父の牧野貞長は意知に感謝してくれるに違いない。
貞長自身からして、婿の永朝を見限っていたからだ。
永朝の熱心な求婚に絆されて娘の美也を永朝へと嫁がせた貞長ではあったが、間もなく永朝の愚鈍さに気付かされ、大事な娘をくれてしまったことに大いに後悔させられた。
その様な永朝であるので、
「一生、ヒラの奏者番で終わるであろうぞ…」
貞長は婿の永朝をその様に見限っていたところ、意知の推挙により西之丸若年寄へと取立てられたとあらば、貞長が意知に感謝するのは間違いない。
そしてそれは元・岳父の井伊直幸にも当て嵌まろう。
秋元永朝は直幸が養女の八重に先立たれたとは申せ、八重との間には嫡子の攝津守修朝をもうけていたからだ。
しかもこの八重だが実際には前の與板藩主・井伊兵部少輔直存が次女であり、実姉は直幸が室であり、実弟は何と今の西之丸若年寄の井伊直朗なのである。
つまり秋元永朝が嫡子の修朝にとって、井伊直幸が妻女は伯母、西之丸若年寄の井伊直朗は叔父に当たるのだ。
そして井伊直幸にしろ、井伊直朗にしろ、牧野貞長同様、秋元永朝のことは見限っており、そこへ意知の推挙により西之丸若年寄へと出世を果たしたとあらば、井伊直幸も井伊直朗も意知に感謝するに違いない。
とりわけ、西之丸若年寄から本丸若年寄へと昇格を果たす井伊直朗はそうだろう。
何しろ、無能な秋元永朝が西之丸若年寄へと取立てられるのも偏に、西之丸若年寄の己が本丸若年寄へと異動、昇格を果たした為に西之丸若年寄に欠員が生じ、そこへ意知が永朝を推挙してくれた為であり、してみると、己が西之丸若年寄から本丸若年寄へと異動、昇格を果たせたのも意知が推挙の賜物に相違あるまい―、永朝とは真逆、正反対に聡明なる井伊直朗ならば当然、そこに気付く筈だからだ。
また秋元永朝が嫡子、修朝の義兄である松平定國からも感謝されるやも知れないが、しかしこちらは何とも期待薄であった。それと言うのも定國は永朝程には無能ではなかったが、それでも鈍いところがあるからだ。
それでも意知にとっては井伊直幸や井伊直朗、牧野貞長といった面々から感謝されれば十分であった。
無能な秋元永朝から、或いは鈍い松平定國から感謝され様がされまいが、それはさしたる問題ではない。
大事なのは井伊直幸や井伊直朗、それに牧野貞長といった幕政に重きをなす面々から感謝されることが何よりも大事であったからだ。
実力でのし上がり、それ故、血筋や由緒といったものを持たない田沼家にとって、幕政に重きをなす井伊家や牧野家といった名門の後援を得られれば何かと心強いからだ。
「さてと…、意知よ、次いで側衆の人事だがの…」
重好は今度はそう切出すと、田沼能登守意致を引続き西之丸御側御用取次に留任させる意向であることを伝え、意知を驚かせた。
それはそうだろう。何しろ意致は一橋家老を勤めていた折に、治済が「謀叛」、即ち家基の毒殺を止められずにみすみす、家基を見殺しにしてしまったのだ。
これでは意致も治済の「共犯者」と看做されても致し方ない。
それが外の一橋家臣とは異なり、逮捕、捕縛を免れたのは偏に将軍・家治の恩情の賜物であった。
家治は一応、
「御三卿家老は御三卿を監視せしが主たる職掌なれば、外の一橋家臣…、番頭以下の家臣とは異なり、治済めが謀叛には関与していないであろうぞ…」
その様な名目を唱えて、家基暗殺時における一橋家老の逮捕、捕縛は免じたのであったが、実際には、
「意致は逮捕、捕縛したくない…」
その一念から唱えた名目に過ぎず、これで意致が家基暗殺時に家老を勤めていなかったならば、家治も家老の逮捕、捕縛に踏切っていたやも知れぬ。
家治は事程左様に意致を、と言うよりは田沼家を買っており、それ故、意致は元より、その従弟に当たる意知や父・意次も何とも心苦しいばかりであった。
その様に家治から目をかけられ乍も、その期待を裏切り、治済の「謀叛、即ち家基の暗殺、毒殺を許してしまったからだ。
そこで意致は首魁とも言うべき治済が逮捕、捕縛された時点で西之丸老中の鳥居忠意に進退伺、つまりは西之丸御側御用取次、及び側衆の辞表を提出し、爾来、神田橋御門外の屋敷にて謹慎、ひきこもっていた。
鳥居忠意に提出された意致の「辞表」は本来なれば更に西之丸の主たる家斉へと奉呈されるべきところ、鳥居忠意はそうはせずに本丸の主たる将軍・家治へと奉呈した。
家斉の実父、治済が逮捕、捕縛されたことで、
「家斉公がこの西之丸を追われるのも、そう遠くはあるまい…」
忠意はそう見越して家斉ではなく家治へと意致の「辞表」を奉呈したのであった。
そして家治へと奉呈された意致の「辞表」だが、家治は未だこれを受理せずにいた。
家治としては勿論、意致を辞めさせるつもりはなかった。
家斉が西之丸を追われたことで、西之丸御側衆は皆―、小笠原若狭守信喜と佐野右兵衛尉茂承の二人を除いた彼等はいったん、本丸へと引取られる格好で、家治に仕えることになった。
これは何も、西之丸御側衆に限った話ではなく、西之丸中奥にて家斉に仕えていた小姓や小納戸にも当て嵌まる。
つまり西之丸中奥役人が本丸中奥役人へと異動を果たし、主君を家斉から家治へと変えた訳である。
ちなみに小笠原信喜と佐野茂承の二人の西之丸御側御用取次は家基毒殺事件、及び意知暗殺未遂事件に関与した疑いで逮捕、捕縛されていた。
さて、そこで田沼意致だが、意致もまた、主君を家治に変えた。
意致は今は本丸御側御用取次の一人として列なっていた訳だが、意致は相変わらず出仕せず屋敷にひきこもったままであった。
これで重好が次期将軍として西之丸入りを果たせばいったん本丸中奥へと引取られた西之丸中奥役人も再び、西之丸中奥へと戻ることになる。
その中には勿論、意致も含まれる訳だが、西之丸の新たなる盟主となった重好が意致の「辞表」を受理したならば、家治としても最早、どうにも出来ない。
意致の「辞表」だが、家治はこれを直ちに破り棄てたものの、意致が改めて西之丸の新当主たる重好に「辞表」を提出したならば、それに対して重好がその「辞表」を受理したならば、如何に将軍・家治と雖も如何ともし難い。
だが重好は意致を引続き、御側御用取次として仕え続けさせる意向を示したものだから、意知が驚いたのも当然であった。
何しろ重好は家斉に仕えていた西之丸老中の鳥居忠意と、それに西之丸若年寄の井伊直朗と酒井忠香を、
「家斉の色がついているから…」
その為に本丸へと追いやり、彼等に変わる人材について、こうして意知と話合いに及んでいたのだ。
そうであれば西之丸御側衆についても当然、
「新たな人材を…」
重好がそう考えてもおかしくはない、否、それどころかそれが自然であった。
何しろ、「家斉の色」という点では表向役人たる老中や若年寄よりも中奥役人の方が濃かったからだ。
殊に田沼意致は御側衆の中でも筆頭たる御用取次として家斉に仕えていたのだ。「家斉の色」という点ではこの意致が一番、色濃く、重好とてそれは承知の筈であり、本来ならば意致は「家斉の色」を嫌う重好によって真先に馘首されてもおかしくはない。
にもかかわらず実際には重好は意致を御側御用取次として仕え続けさせる意向を示したので、意知を驚かせたのであった。
否、重好が意知を驚かせたのはこれに止まらなかった。
西之丸御側衆は筆頭の小笠原信喜と佐野茂承の二人が逮捕、捕縛されたことで定員に2名の欠員が生じ、そこで重好はその欠員を埋めるべく、
「西之丸小納戸頭取の新見豊前守正則と西之丸小納戸の石谷次郎左衛門清定を御側衆に取立て、その内、新見正則には筆頭の御用取次を兼ねさせしめようと思うておるのだ…」
重好は意知にそう囁いたのであった。
新見正則は意知の叔母―、意次の実妹の夫であり、石谷次郎左衛門はその正則の次女を娶っていた。つまり石谷次郎左衛門は意知の従姉の夫であった。
新見正則にしろ石谷次郎左衛門にしろ田沼家と所縁が深く、その様な二人を重好は西之丸御側衆に取立てようと言うのである。
しかもその内の一人、新見正則を側衆の筆頭、御用取次に抜擢しようとまで言うのである。
田沼家にとっては真に以て光栄な人事と言えたが、重好が何故、そこまで田沼家を厚遇してくれるのか、意知には重好の魂胆を図りかねた。
すると重好もそうと察したらしく、
「されば…、長谷川平蔵なる者が何やら嗅ぎ回っている様だが…」
重好はそう切出して意知を「成程…」と内心、頷かせた。
「田安家侍女の廣瀬、及び池原良明刺殺事件やそれに続く元・清水家用人の小笠原主水刺殺事件、戸田要人水死事件、そして西之丸目附の深谷盛朝刺殺事件について、この重好こそが黒幕であると、長谷川平蔵は見立てている様だが、意知は平蔵と親しい様なので、平蔵を何とかしろ…」
要は平蔵の探索を止めさせろと、重好は意知にそう示唆しており、その為の「田沼家への厚遇」であった。
「畏れ多くも上様におかせられては、長谷川平蔵にはいたく失望された由にて…」
重好は如何にも残念そうに切出した。
これは事実であった。
即ち、平蔵は廣瀬らの死についても治済が黒幕であると、治済自身に認めさせるので、
「治済への詮議、取調べをやらせて欲しい…」
意次を介して将軍・家治に願出、家治も平蔵を信じて治済の取調べを任せたというに、結果はその家治の期待を裏切るものであった。
「廣瀬らの死については、己を黒幕に仕立てようとする清水重好こそが真の黒幕である…」
治済のその様な言分、もとい悪足掻きをそのまま調書に認めて家治に提出したものだから、家治が平蔵に失望したのも当然であった。
この件は療養中の意知も父・意次を介して知らされていたので把握していた。
「上様は或いは、斯かる平蔵の仲立ちを務めし意次にも失望したやも知れぬなぁ…」
重好は意知を脅す様なことまで口にした。
それでも重好は意知を土俵際まで追詰める程、愚かではなく、
「いやいや…、意次や、それに意知に絶大なる信頼を寄せる上様のこと故、左様なことはあるまいな…」
実に絶妙なタイミングで軌道修正を図った。
「なれどこのまま、平蔵めを捨置けば、或いは斯かる事態に相成るやも知れぬ…」
それには何としてでも平蔵に圧力をかけ、これ以上、余計な穿鑿はさせないよう釘を刺すのが肝要と、重好は意知に囁いたのであった。
「畏れながら長谷川平蔵なる者、絵に描いた様な猪突猛進なれば、この意知が圧を加えましたところで、却って反撥し、益々、妄想に憑かれ、探索にのめり込むやも知れず…」
意知のその言葉に重好は「ほう」と目を細めさせた。
「意知は妄想と断じてくれるか?廣瀬らの死はこの重好こそが黒幕だとする治済めが供述を…」
「御意…、されば次期将軍に御成りあそばされまする御方が斯かる真似に及ぶとも思えず…」
どうやら意知は重好のことを信じてくれるらしい。
ならば重好としてはそれで十分であった。余り意知に対して、
「平蔵に圧力をかけ、これ以上、余計な探索をさせるな…」
そう追詰めて、結果、意知の心を離れさせてしまっては元も子もないからだ。
ここは意知だけでも己を信じてくれてただけで、ひいては意知と平蔵との間に楔を打込めただけでも良しとせねばなるまいと、重好はそう割切ることにした。
「いや、意知だけでもこの重好を信じてくれればそれで充分ぞえ…」
「畏れ入りまする…、平蔵とて、宮内卿様が次期将軍として西之丸入りを御果たしあそばされますれば、最早、諦めましょうぞ…、否…、妄想から目が醒めましょうぞ…」
確かに意知が申す通りやも知れぬと、重好は思った。
重好が次期将軍として西之丸入りを果たせば、その後で仮に重好こそが廣瀬らの死の黒幕であるとする治済が供述を裏付ける様な確たる証を手に入れたところで、最早、手後れというもの。次期将軍が相手では如何に平蔵と雖も、手も足も出まい。
ならば西之丸入りを急ぐ必要があった。
重好がそんなことを考えていると、「畏れながら…」と意知の声が割って入った。
「何だな?」
「されば長谷川平蔵なる者、出世主義者の一面があり…」
出世という餌を平蔵の前にぶら提げれば、或いは平蔵の動きを封じることが出来るやも知れぬと、意知は重好にそう示唆していたのだ。
重好もそうと看取するや、「成程…」と応じ、
「長谷川平蔵は…、今は確か、西之丸の書院番士であったの…」
意知に確かめる様に尋ねた。
「御意…、されば進物番を兼ねておりますれば…」
「進物番か…、さればさぞかし眉目秀麗、頭脳明晰であるのであろうな…」
将軍、或いは次期将軍への進物の「贈答役」、要は賄賂の受取係は小姓組、書院の両番より眉目秀麗、頭脳明晰な者が選ばれるのが仕来りであり、重好もそのことは当然、把握していた。
「御意…」
「されば…、平蔵めには布衣役でもぶら提げてやるかの…」
出世主義者の長谷川平蔵にぶら提げる「人参」として従六位布衣役は極めて妥当であった。
「されば小十人頭か徒頭…、宮内卿様が御目の届かれまする西之丸の小十人頭か徒頭辺りでは如何でござりましょう…」
平蔵にぶら提げる「人参」について、意知は重好にそう進言した。
意知のその進言はまた妥当なものであり、重好は頷いた。
従六位布衣役にも色々あり、その頂点は何と言っても目附、それも本丸目附であろう。
だが平蔵を本丸目附に就けることは如何に次期将軍たる重好の力を以てしても難しい。
仮に就けられたとしても、それで平蔵にこれ幸いとばかり、廣瀬らの死について探察されては一体、何の為に平蔵を本丸目附に就けてやったのか分からない。
それ故、本丸目附は「人参」としては不適格であり、それは西之丸目附にも当て嵌まろう。
その点、西之丸小十人頭や、或いは西之丸徒頭であれば平蔵の出世欲を満たし、その上、平蔵の「動き」も封じられ、「人参」として正にうってつけであった。
「相分かった…、されば平蔵には西之丸小十人頭か、徒頭を打診致してみようぞ…」
「ははぁっ…、それと今一つ…」
「何だ?」
「長谷川平蔵が実妹は大久保平左衛門忠居が許に嫁しておりますれば…」
「何と…」
「しかもこの大久保平左衛門、義兄の長谷川平蔵とは共に西之丸にても書院番士として仕え、組も同じく4番組なれば…」
長谷川平蔵を懐柔、「人参」をぶら提げるに当たってはこの大久保平左衛門を使ってみてはどうかと、意知はそう示唆していたのだ。
成程、大久保一党は清水家とは所縁が深く、その大久保一党に属する平左衛門なる者は平蔵との仲介役としてはこれまたうってつけやも知れなかった。
重好は意知の示唆に深く頷くと共に、大いに感謝した。
重好はニヤリと笑みを浮かべた。
成程、その通りであった。
これで秋元永朝が意知に、ひいては田沼家に厚意を抱いてくれるやも知れないからだ。
否、それが無理だとしても秋元永朝の背後に控える井伊直幸や松平定國の歓心を買うことが出来るやも知れず、意知としてはこちらの方が目的であった。
「まぁ、愚かな秋元但馬めのこと、意知が推挙によるもとの申し聞かせたところで、素直に意知に感謝するとも思えず…、なれど秋元但馬めが岳父、否、元岳父の井伊掃部殿は感謝するやも知れぬな…」
重好は意知の思惑を的確に言当てて見せた。
「尤も…、秋元但馬めは妻女に先立たれるや、直ぐに別の娘御を…、それも今は京都所司代を勤めし牧野越中が娘御を室として迎え入れたがの…」
重好は独り言の様にそう呟くと、クックッと微苦笑、或いは冷笑してみせた。
秋元永朝の前妻にして井伊直幸の娘―、正確には養女の八重が安永7(1778)年に卒するや、永朝はその年に早々と当時、大坂城代の要職にあった牧野貞長が娘の美也と再婚を果たしたのであった。無論、出世を考えてのことである。
大坂城代と言えば、老中の待機ポストとも言うべき京都所司代のそのまた待機ポストであり、場合によっては京都所司代を跳び越えて老中に抜擢されることもある。
その様な大坂城代の職にある牧野貞長の娘を娶れば、自が出世にもきっと役立つに違いないと、秋元永朝はそう考えて、牧野貞長の娘の美也を娶ったのであった。
尤も、それから6年が経った今以て秋元永朝はヒラの奏者番のままであり、若年寄はおろか、奏者番の筆頭たる寺社奉行の声すらかからない辺り、幕府の人事は存外、公平と言えるかも知れぬ。
ともあれ、ここで秋元永朝が意知の推挙により奏者番より西之丸附とは申せ、若年寄へと昇進を果たせば、意知を憎く思う永朝当人は兎も角、永朝の今の岳父の牧野貞長は意知に感謝してくれるに違いない。
貞長自身からして、婿の永朝を見限っていたからだ。
永朝の熱心な求婚に絆されて娘の美也を永朝へと嫁がせた貞長ではあったが、間もなく永朝の愚鈍さに気付かされ、大事な娘をくれてしまったことに大いに後悔させられた。
その様な永朝であるので、
「一生、ヒラの奏者番で終わるであろうぞ…」
貞長は婿の永朝をその様に見限っていたところ、意知の推挙により西之丸若年寄へと取立てられたとあらば、貞長が意知に感謝するのは間違いない。
そしてそれは元・岳父の井伊直幸にも当て嵌まろう。
秋元永朝は直幸が養女の八重に先立たれたとは申せ、八重との間には嫡子の攝津守修朝をもうけていたからだ。
しかもこの八重だが実際には前の與板藩主・井伊兵部少輔直存が次女であり、実姉は直幸が室であり、実弟は何と今の西之丸若年寄の井伊直朗なのである。
つまり秋元永朝が嫡子の修朝にとって、井伊直幸が妻女は伯母、西之丸若年寄の井伊直朗は叔父に当たるのだ。
そして井伊直幸にしろ、井伊直朗にしろ、牧野貞長同様、秋元永朝のことは見限っており、そこへ意知の推挙により西之丸若年寄へと出世を果たしたとあらば、井伊直幸も井伊直朗も意知に感謝するに違いない。
とりわけ、西之丸若年寄から本丸若年寄へと昇格を果たす井伊直朗はそうだろう。
何しろ、無能な秋元永朝が西之丸若年寄へと取立てられるのも偏に、西之丸若年寄の己が本丸若年寄へと異動、昇格を果たした為に西之丸若年寄に欠員が生じ、そこへ意知が永朝を推挙してくれた為であり、してみると、己が西之丸若年寄から本丸若年寄へと異動、昇格を果たせたのも意知が推挙の賜物に相違あるまい―、永朝とは真逆、正反対に聡明なる井伊直朗ならば当然、そこに気付く筈だからだ。
また秋元永朝が嫡子、修朝の義兄である松平定國からも感謝されるやも知れないが、しかしこちらは何とも期待薄であった。それと言うのも定國は永朝程には無能ではなかったが、それでも鈍いところがあるからだ。
それでも意知にとっては井伊直幸や井伊直朗、牧野貞長といった面々から感謝されれば十分であった。
無能な秋元永朝から、或いは鈍い松平定國から感謝され様がされまいが、それはさしたる問題ではない。
大事なのは井伊直幸や井伊直朗、それに牧野貞長といった幕政に重きをなす面々から感謝されることが何よりも大事であったからだ。
実力でのし上がり、それ故、血筋や由緒といったものを持たない田沼家にとって、幕政に重きをなす井伊家や牧野家といった名門の後援を得られれば何かと心強いからだ。
「さてと…、意知よ、次いで側衆の人事だがの…」
重好は今度はそう切出すと、田沼能登守意致を引続き西之丸御側御用取次に留任させる意向であることを伝え、意知を驚かせた。
それはそうだろう。何しろ意致は一橋家老を勤めていた折に、治済が「謀叛」、即ち家基の毒殺を止められずにみすみす、家基を見殺しにしてしまったのだ。
これでは意致も治済の「共犯者」と看做されても致し方ない。
それが外の一橋家臣とは異なり、逮捕、捕縛を免れたのは偏に将軍・家治の恩情の賜物であった。
家治は一応、
「御三卿家老は御三卿を監視せしが主たる職掌なれば、外の一橋家臣…、番頭以下の家臣とは異なり、治済めが謀叛には関与していないであろうぞ…」
その様な名目を唱えて、家基暗殺時における一橋家老の逮捕、捕縛は免じたのであったが、実際には、
「意致は逮捕、捕縛したくない…」
その一念から唱えた名目に過ぎず、これで意致が家基暗殺時に家老を勤めていなかったならば、家治も家老の逮捕、捕縛に踏切っていたやも知れぬ。
家治は事程左様に意致を、と言うよりは田沼家を買っており、それ故、意致は元より、その従弟に当たる意知や父・意次も何とも心苦しいばかりであった。
その様に家治から目をかけられ乍も、その期待を裏切り、治済の「謀叛、即ち家基の暗殺、毒殺を許してしまったからだ。
そこで意致は首魁とも言うべき治済が逮捕、捕縛された時点で西之丸老中の鳥居忠意に進退伺、つまりは西之丸御側御用取次、及び側衆の辞表を提出し、爾来、神田橋御門外の屋敷にて謹慎、ひきこもっていた。
鳥居忠意に提出された意致の「辞表」は本来なれば更に西之丸の主たる家斉へと奉呈されるべきところ、鳥居忠意はそうはせずに本丸の主たる将軍・家治へと奉呈した。
家斉の実父、治済が逮捕、捕縛されたことで、
「家斉公がこの西之丸を追われるのも、そう遠くはあるまい…」
忠意はそう見越して家斉ではなく家治へと意致の「辞表」を奉呈したのであった。
そして家治へと奉呈された意致の「辞表」だが、家治は未だこれを受理せずにいた。
家治としては勿論、意致を辞めさせるつもりはなかった。
家斉が西之丸を追われたことで、西之丸御側衆は皆―、小笠原若狭守信喜と佐野右兵衛尉茂承の二人を除いた彼等はいったん、本丸へと引取られる格好で、家治に仕えることになった。
これは何も、西之丸御側衆に限った話ではなく、西之丸中奥にて家斉に仕えていた小姓や小納戸にも当て嵌まる。
つまり西之丸中奥役人が本丸中奥役人へと異動を果たし、主君を家斉から家治へと変えた訳である。
ちなみに小笠原信喜と佐野茂承の二人の西之丸御側御用取次は家基毒殺事件、及び意知暗殺未遂事件に関与した疑いで逮捕、捕縛されていた。
さて、そこで田沼意致だが、意致もまた、主君を家治に変えた。
意致は今は本丸御側御用取次の一人として列なっていた訳だが、意致は相変わらず出仕せず屋敷にひきこもったままであった。
これで重好が次期将軍として西之丸入りを果たせばいったん本丸中奥へと引取られた西之丸中奥役人も再び、西之丸中奥へと戻ることになる。
その中には勿論、意致も含まれる訳だが、西之丸の新たなる盟主となった重好が意致の「辞表」を受理したならば、家治としても最早、どうにも出来ない。
意致の「辞表」だが、家治はこれを直ちに破り棄てたものの、意致が改めて西之丸の新当主たる重好に「辞表」を提出したならば、それに対して重好がその「辞表」を受理したならば、如何に将軍・家治と雖も如何ともし難い。
だが重好は意致を引続き、御側御用取次として仕え続けさせる意向を示したものだから、意知が驚いたのも当然であった。
何しろ重好は家斉に仕えていた西之丸老中の鳥居忠意と、それに西之丸若年寄の井伊直朗と酒井忠香を、
「家斉の色がついているから…」
その為に本丸へと追いやり、彼等に変わる人材について、こうして意知と話合いに及んでいたのだ。
そうであれば西之丸御側衆についても当然、
「新たな人材を…」
重好がそう考えてもおかしくはない、否、それどころかそれが自然であった。
何しろ、「家斉の色」という点では表向役人たる老中や若年寄よりも中奥役人の方が濃かったからだ。
殊に田沼意致は御側衆の中でも筆頭たる御用取次として家斉に仕えていたのだ。「家斉の色」という点ではこの意致が一番、色濃く、重好とてそれは承知の筈であり、本来ならば意致は「家斉の色」を嫌う重好によって真先に馘首されてもおかしくはない。
にもかかわらず実際には重好は意致を御側御用取次として仕え続けさせる意向を示したので、意知を驚かせたのであった。
否、重好が意知を驚かせたのはこれに止まらなかった。
西之丸御側衆は筆頭の小笠原信喜と佐野茂承の二人が逮捕、捕縛されたことで定員に2名の欠員が生じ、そこで重好はその欠員を埋めるべく、
「西之丸小納戸頭取の新見豊前守正則と西之丸小納戸の石谷次郎左衛門清定を御側衆に取立て、その内、新見正則には筆頭の御用取次を兼ねさせしめようと思うておるのだ…」
重好は意知にそう囁いたのであった。
新見正則は意知の叔母―、意次の実妹の夫であり、石谷次郎左衛門はその正則の次女を娶っていた。つまり石谷次郎左衛門は意知の従姉の夫であった。
新見正則にしろ石谷次郎左衛門にしろ田沼家と所縁が深く、その様な二人を重好は西之丸御側衆に取立てようと言うのである。
しかもその内の一人、新見正則を側衆の筆頭、御用取次に抜擢しようとまで言うのである。
田沼家にとっては真に以て光栄な人事と言えたが、重好が何故、そこまで田沼家を厚遇してくれるのか、意知には重好の魂胆を図りかねた。
すると重好もそうと察したらしく、
「されば…、長谷川平蔵なる者が何やら嗅ぎ回っている様だが…」
重好はそう切出して意知を「成程…」と内心、頷かせた。
「田安家侍女の廣瀬、及び池原良明刺殺事件やそれに続く元・清水家用人の小笠原主水刺殺事件、戸田要人水死事件、そして西之丸目附の深谷盛朝刺殺事件について、この重好こそが黒幕であると、長谷川平蔵は見立てている様だが、意知は平蔵と親しい様なので、平蔵を何とかしろ…」
要は平蔵の探索を止めさせろと、重好は意知にそう示唆しており、その為の「田沼家への厚遇」であった。
「畏れ多くも上様におかせられては、長谷川平蔵にはいたく失望された由にて…」
重好は如何にも残念そうに切出した。
これは事実であった。
即ち、平蔵は廣瀬らの死についても治済が黒幕であると、治済自身に認めさせるので、
「治済への詮議、取調べをやらせて欲しい…」
意次を介して将軍・家治に願出、家治も平蔵を信じて治済の取調べを任せたというに、結果はその家治の期待を裏切るものであった。
「廣瀬らの死については、己を黒幕に仕立てようとする清水重好こそが真の黒幕である…」
治済のその様な言分、もとい悪足掻きをそのまま調書に認めて家治に提出したものだから、家治が平蔵に失望したのも当然であった。
この件は療養中の意知も父・意次を介して知らされていたので把握していた。
「上様は或いは、斯かる平蔵の仲立ちを務めし意次にも失望したやも知れぬなぁ…」
重好は意知を脅す様なことまで口にした。
それでも重好は意知を土俵際まで追詰める程、愚かではなく、
「いやいや…、意次や、それに意知に絶大なる信頼を寄せる上様のこと故、左様なことはあるまいな…」
実に絶妙なタイミングで軌道修正を図った。
「なれどこのまま、平蔵めを捨置けば、或いは斯かる事態に相成るやも知れぬ…」
それには何としてでも平蔵に圧力をかけ、これ以上、余計な穿鑿はさせないよう釘を刺すのが肝要と、重好は意知に囁いたのであった。
「畏れながら長谷川平蔵なる者、絵に描いた様な猪突猛進なれば、この意知が圧を加えましたところで、却って反撥し、益々、妄想に憑かれ、探索にのめり込むやも知れず…」
意知のその言葉に重好は「ほう」と目を細めさせた。
「意知は妄想と断じてくれるか?廣瀬らの死はこの重好こそが黒幕だとする治済めが供述を…」
「御意…、されば次期将軍に御成りあそばされまする御方が斯かる真似に及ぶとも思えず…」
どうやら意知は重好のことを信じてくれるらしい。
ならば重好としてはそれで十分であった。余り意知に対して、
「平蔵に圧力をかけ、これ以上、余計な探索をさせるな…」
そう追詰めて、結果、意知の心を離れさせてしまっては元も子もないからだ。
ここは意知だけでも己を信じてくれてただけで、ひいては意知と平蔵との間に楔を打込めただけでも良しとせねばなるまいと、重好はそう割切ることにした。
「いや、意知だけでもこの重好を信じてくれればそれで充分ぞえ…」
「畏れ入りまする…、平蔵とて、宮内卿様が次期将軍として西之丸入りを御果たしあそばされますれば、最早、諦めましょうぞ…、否…、妄想から目が醒めましょうぞ…」
確かに意知が申す通りやも知れぬと、重好は思った。
重好が次期将軍として西之丸入りを果たせば、その後で仮に重好こそが廣瀬らの死の黒幕であるとする治済が供述を裏付ける様な確たる証を手に入れたところで、最早、手後れというもの。次期将軍が相手では如何に平蔵と雖も、手も足も出まい。
ならば西之丸入りを急ぐ必要があった。
重好がそんなことを考えていると、「畏れながら…」と意知の声が割って入った。
「何だな?」
「されば長谷川平蔵なる者、出世主義者の一面があり…」
出世という餌を平蔵の前にぶら提げれば、或いは平蔵の動きを封じることが出来るやも知れぬと、意知は重好にそう示唆していたのだ。
重好もそうと看取するや、「成程…」と応じ、
「長谷川平蔵は…、今は確か、西之丸の書院番士であったの…」
意知に確かめる様に尋ねた。
「御意…、されば進物番を兼ねておりますれば…」
「進物番か…、さればさぞかし眉目秀麗、頭脳明晰であるのであろうな…」
将軍、或いは次期将軍への進物の「贈答役」、要は賄賂の受取係は小姓組、書院の両番より眉目秀麗、頭脳明晰な者が選ばれるのが仕来りであり、重好もそのことは当然、把握していた。
「御意…」
「されば…、平蔵めには布衣役でもぶら提げてやるかの…」
出世主義者の長谷川平蔵にぶら提げる「人参」として従六位布衣役は極めて妥当であった。
「されば小十人頭か徒頭…、宮内卿様が御目の届かれまする西之丸の小十人頭か徒頭辺りでは如何でござりましょう…」
平蔵にぶら提げる「人参」について、意知は重好にそう進言した。
意知のその進言はまた妥当なものであり、重好は頷いた。
従六位布衣役にも色々あり、その頂点は何と言っても目附、それも本丸目附であろう。
だが平蔵を本丸目附に就けることは如何に次期将軍たる重好の力を以てしても難しい。
仮に就けられたとしても、それで平蔵にこれ幸いとばかり、廣瀬らの死について探察されては一体、何の為に平蔵を本丸目附に就けてやったのか分からない。
それ故、本丸目附は「人参」としては不適格であり、それは西之丸目附にも当て嵌まろう。
その点、西之丸小十人頭や、或いは西之丸徒頭であれば平蔵の出世欲を満たし、その上、平蔵の「動き」も封じられ、「人参」として正にうってつけであった。
「相分かった…、されば平蔵には西之丸小十人頭か、徒頭を打診致してみようぞ…」
「ははぁっ…、それと今一つ…」
「何だ?」
「長谷川平蔵が実妹は大久保平左衛門忠居が許に嫁しておりますれば…」
「何と…」
「しかもこの大久保平左衛門、義兄の長谷川平蔵とは共に西之丸にても書院番士として仕え、組も同じく4番組なれば…」
長谷川平蔵を懐柔、「人参」をぶら提げるに当たってはこの大久保平左衛門を使ってみてはどうかと、意知はそう示唆していたのだ。
成程、大久保一党は清水家とは所縁が深く、その大久保一党に属する平左衛門なる者は平蔵との仲介役としてはこれまたうってつけやも知れなかった。
重好は意知の示唆に深く頷くと共に、大いに感謝した。
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