149 / 169
清水重好の更なる拷問、そして将軍・家治は家斉に替わり、腹違いの弟である重好を将軍家御養君、即ち、次期将軍に指名する
しおりを挟む
岩本喜内正信が「自白」に及んだのは重好が「取調べ」を開始してからちょうど四半刻(約30分)が経過した頃であった。
重好の「取調べ」、それは岩本喜内が「サンドバッグ」宜しく、重好に撲られ続けたことを意味しており、それも顔面を四半刻(約30分)程も撲られ続けた。
その御蔭で岩本喜内の顔面はすっかり変形し、正に「お岩さん」と言えた。
それも元祖、「お岩さん」より酷い。何しろ、岩本喜内の場合、頬骨と鼻が重好の拳によって潰されたからだ。
この様な有様の岩本喜内には最早、正常な判断能力は残っておらず、
「田安家侍女の廣瀬、及びそれに続く池原良明刺殺事件、良明刺殺事件の実行犯である元・清水家用人の小笠原主水の口封じ、それに戸田要人水死事件、そして自害に見せかけての深谷盛朝刺殺事件、これら一連の事件もまた、一橋治済が指図によるものであろう…」
重好にそう迫られれば、うんうんと肯くより外になかった。
そこで重好は更に、
「実行犯の小笠原主水の口を封じたのは岩本喜内よ、うぬであろうぞ…、また戸田要人を一橋家上屋敷内にて、それも池において水死させたは、うぬと、それにうぬの実兄、普請奉行の岩本正利とその息にして本丸小納戸の正五郎、そして目附の深谷盛朝を自害に見せかけて刺殺せしは盛朝が縁者にして一橋家臣の横山善太郎直重であろうぞ…」
岩本喜内にそうも迫り、やはり喜内にこれを認めさせたのであった。
すると重好の「取調べ」に陪席していた、それも岩本喜内の両足首を抑えつけていた清水家老の吉川從弼が早速、口書、自白調書を作成した。
と言っても実際には重好の独り言であったが、吉川從弼はそれをさも、岩本喜内が自白った様に口書として認めると、岩本喜内に爪印を押させたのであった。
否、岩本喜内は最早、爪印を押したという認識さえなかったやも知れぬ。
だが兎も角、これで「形」は整った。
重好は次いで横山善太郎の穿鑿、取調べが行われている蔵へと足を運び、やはり重好が自ら、横山善太郎の「取調べ」を行うことにした。
重好はまずは横山善太郎に岩本喜内の口書、自白調書を突付け、その上で横山善太郎にも深谷盛朝殺しを自白する様、迫ったのだ。
無論、横山善太郎にとっては一向に身に覚えのないことであったので否定した。
そこで重好はこの横山善太郎をも「サンドバッグ」とした。
尤も、横山善太郎は岩本喜内よりは骨があり、頬骨と鼻、それに歯を折られても中々、深谷盛朝殺しを認め様とはせず、そこで重好は指を折り始めた。
重好はまずは横山善太郎の右手の親指から折り始め、薬指まで折ったところで、さしもの横山善太郎も遂に陥落、深谷盛朝殺しを認めたのであった。
重好はこうして岩本喜内に続いて横山善太郎よりも「自白」を取ると、その口書、自白調書を携えて家老の吉川從弼と共に再び急ぎ御城へと登城、将軍・家治に面会を求めた。
そして重好は家治に対して、岩本喜内及び横山善太郎、両名の口書、自白調書を差出した。
家治はそれに目を通すと、一橋治済に対する怒りの余りからであろう、ワナワナと身を震わせたものである。
家治は次いで、側用人の水野忠友に岩本正五郎の捕縛、逮捕を命じたのであった。
岩本正利こそ田沼意知暗殺未遂事件の共犯者として逮捕され、その身柄は高取藩主・植村右衛門佐家利の許に預けられていた。
岩本正利の家禄こそ500石と、意知暗殺未遂事件の実行犯、佐野善左衛門のそれと同じであり、そうであるならば岩本正利も佐野善左衛門と同じく小傳馬町の牢屋敷へと送られるべきところ、そうはならずに大名家に御預となったのは偏に、普請奉行を勤めていたことによる。
即ち、普請奉行の役高は2000石であり、それ故、その普請奉行を勤めていた岩本正利は家禄が2000石の旗本と看做され、そこで大名家に、それも高取藩主の植村家利の許に預けられることに相成ったのだ。
そしてその息、本丸小納戸の岩本正五郎はと言うと、意知暗殺未遂事件に関与したという確たる証はなく、無論、家基暗殺事件に関与したというそれもなく、そこで今は虎ノ御門内にある屋敷にて謹慎しており、御城への出仕を控えていた。
だが、重好から差出された調書により、岩本正利・正五郎父子が戸田要人水死事件に関与、それも実行したことは明らかであり、こうなれば正五郎も逮捕出来る。
そこで家治は側用人の水野忠友に岩本正五郎の逮捕を命じたのであった。
岩本正五郎は旗本の倅であり、本来ならば目附に逮捕を|命じるべきところ、家治はそうはせずに水野忠友に逮捕を命じたのは外でもない、正五郎が中奥役人である為であった。
岩本正五郎はここ中奥にて将軍・家治に小納戸として近侍しており、そこで家治は中奥の最高長官として中奥役人の頂点に立つ側用人たる水野忠友に岩本正五郎の逮捕を命じたのであった。
その際、重好は家治に対して、岩本正五郎の穿鑿、取調べをも願出、家治もこれを許すと忠友に対して岩本正五郎の身柄は大番頭の大久保忠恕の許へと移送する様、命じたのであった。
家治は更に気を利かせて、岩本正利の身柄をも大久保忠恕の許へと移送することにした。
「岩本正利めも、重好が料理したいのであろう?」
家治は実に底意地の悪い笑みを浮かべて重好にそう水を向けるや、重好も「畏れ入りまする…」と降参して見せた。正しくその通りであったからだ。
家治はそんな重好の態度に呵呵大笑して見せると、今度は中奥兼帯の老中、田沼意次を召出し、岩本正利の身柄を高取藩上屋敷から大番頭の大久保忠恕の屋敷へと移送する様、意次に命じたのであった。
すると意次は意外にも難色を示した。
「仮にも岩本内膳は役高2000石の旗本なれば…」
家禄2000石の旗本と同様に扱うべきではないか、つまりはこれまで通り、大名家にて預けるべきではないかと、それが意次が岩本内膳こと内膳正正利を旗本である大久保忠恕の屋敷へと移送することに難色を示した理由であった。
成程、意次の言分には一理あったが、しかし今の家治は私情を優先させた。
家治は重好が取ってきた調書を意次にも突付け、
「さればここまで余を愚弄せし岩本内膳めは最早、2000石の旗本として遇するには及ばずっ」
家治はそう断じたのだ。
すると意次もこうなっては逆らい難く、「ははぁっ」と応ずるより外になかった。
こうして岩本正五郎は虎ノ御門内の屋敷にて逮捕され、大久保忠恕の屋敷へと移送され、一方、岩本正利も同じく高取藩上屋敷より大久保忠恕の屋敷へと移送され、岩本正利・正五郎父子はこうして大久保忠恕の屋敷にて、「涙の御対面」を果たすことになった次第である。
尤も、「涙の御対面」も束の間、岩本正利・正五郎父子は早速、重好の「取調べ」を受けることになった。
重好としては岩本正利にしろ正五郎にしろ、少しくは骨のあるところを期待したのだが、その淡い期待は裏切られ、親子とも、重好によって十数発撲られたところで、実にあっさりと「自白」に及んだ。
重好としては今少し、岩本正利・正五郎父子を「サンドバッグ」にしたいところであったが、しかし素直に「自白」したとあらば、それも出来なかった。
こうして重好としては些か、「不完全燃焼」の嫌いはあったものの、岩本正利・正五郎父子をも「自白」に追込むと、即ち、戸田要人水死事件への関与、それも岩本喜内と共に実行したことを認めさせると、このことをやはり口書、自白調書として纏め、岩本正利・正五郎父子に爪印を押させた。
重好はその上で、その口書、自白調書を携えて、家老の吉川從弼を随えて本日三度目の登城を果たすと、家治にその口書、自白調書をも差出したのであった。
「良うやった…」
家治は心底、重好を労うと続けて、
「されば重好よ…、此度のそなたの働きぶりには余も大いに感じ入ったぞ…、そこでだ重好よ、家斉めに替わりて、そなたが余の養君になってはくれぬか?」
将軍家御養君、即ち次期将軍になってはくれぬかと、腹違いの弟である重好にそう持掛けたのであった。
重好は正にそれが狙いでここまで働いてきた、否、危ない橋を渡ってきた次第で、その様な重好にとって家治のその申出は正に大願成就、
「謹んで、お受け致しまする…」
重好がそう即答したのは言うまでもない。
それは天明4(1784)年3月の晦日、29日の夜のことであった。
重好の「取調べ」、それは岩本喜内が「サンドバッグ」宜しく、重好に撲られ続けたことを意味しており、それも顔面を四半刻(約30分)程も撲られ続けた。
その御蔭で岩本喜内の顔面はすっかり変形し、正に「お岩さん」と言えた。
それも元祖、「お岩さん」より酷い。何しろ、岩本喜内の場合、頬骨と鼻が重好の拳によって潰されたからだ。
この様な有様の岩本喜内には最早、正常な判断能力は残っておらず、
「田安家侍女の廣瀬、及びそれに続く池原良明刺殺事件、良明刺殺事件の実行犯である元・清水家用人の小笠原主水の口封じ、それに戸田要人水死事件、そして自害に見せかけての深谷盛朝刺殺事件、これら一連の事件もまた、一橋治済が指図によるものであろう…」
重好にそう迫られれば、うんうんと肯くより外になかった。
そこで重好は更に、
「実行犯の小笠原主水の口を封じたのは岩本喜内よ、うぬであろうぞ…、また戸田要人を一橋家上屋敷内にて、それも池において水死させたは、うぬと、それにうぬの実兄、普請奉行の岩本正利とその息にして本丸小納戸の正五郎、そして目附の深谷盛朝を自害に見せかけて刺殺せしは盛朝が縁者にして一橋家臣の横山善太郎直重であろうぞ…」
岩本喜内にそうも迫り、やはり喜内にこれを認めさせたのであった。
すると重好の「取調べ」に陪席していた、それも岩本喜内の両足首を抑えつけていた清水家老の吉川從弼が早速、口書、自白調書を作成した。
と言っても実際には重好の独り言であったが、吉川從弼はそれをさも、岩本喜内が自白った様に口書として認めると、岩本喜内に爪印を押させたのであった。
否、岩本喜内は最早、爪印を押したという認識さえなかったやも知れぬ。
だが兎も角、これで「形」は整った。
重好は次いで横山善太郎の穿鑿、取調べが行われている蔵へと足を運び、やはり重好が自ら、横山善太郎の「取調べ」を行うことにした。
重好はまずは横山善太郎に岩本喜内の口書、自白調書を突付け、その上で横山善太郎にも深谷盛朝殺しを自白する様、迫ったのだ。
無論、横山善太郎にとっては一向に身に覚えのないことであったので否定した。
そこで重好はこの横山善太郎をも「サンドバッグ」とした。
尤も、横山善太郎は岩本喜内よりは骨があり、頬骨と鼻、それに歯を折られても中々、深谷盛朝殺しを認め様とはせず、そこで重好は指を折り始めた。
重好はまずは横山善太郎の右手の親指から折り始め、薬指まで折ったところで、さしもの横山善太郎も遂に陥落、深谷盛朝殺しを認めたのであった。
重好はこうして岩本喜内に続いて横山善太郎よりも「自白」を取ると、その口書、自白調書を携えて家老の吉川從弼と共に再び急ぎ御城へと登城、将軍・家治に面会を求めた。
そして重好は家治に対して、岩本喜内及び横山善太郎、両名の口書、自白調書を差出した。
家治はそれに目を通すと、一橋治済に対する怒りの余りからであろう、ワナワナと身を震わせたものである。
家治は次いで、側用人の水野忠友に岩本正五郎の捕縛、逮捕を命じたのであった。
岩本正利こそ田沼意知暗殺未遂事件の共犯者として逮捕され、その身柄は高取藩主・植村右衛門佐家利の許に預けられていた。
岩本正利の家禄こそ500石と、意知暗殺未遂事件の実行犯、佐野善左衛門のそれと同じであり、そうであるならば岩本正利も佐野善左衛門と同じく小傳馬町の牢屋敷へと送られるべきところ、そうはならずに大名家に御預となったのは偏に、普請奉行を勤めていたことによる。
即ち、普請奉行の役高は2000石であり、それ故、その普請奉行を勤めていた岩本正利は家禄が2000石の旗本と看做され、そこで大名家に、それも高取藩主の植村家利の許に預けられることに相成ったのだ。
そしてその息、本丸小納戸の岩本正五郎はと言うと、意知暗殺未遂事件に関与したという確たる証はなく、無論、家基暗殺事件に関与したというそれもなく、そこで今は虎ノ御門内にある屋敷にて謹慎しており、御城への出仕を控えていた。
だが、重好から差出された調書により、岩本正利・正五郎父子が戸田要人水死事件に関与、それも実行したことは明らかであり、こうなれば正五郎も逮捕出来る。
そこで家治は側用人の水野忠友に岩本正五郎の逮捕を命じたのであった。
岩本正五郎は旗本の倅であり、本来ならば目附に逮捕を|命じるべきところ、家治はそうはせずに水野忠友に逮捕を命じたのは外でもない、正五郎が中奥役人である為であった。
岩本正五郎はここ中奥にて将軍・家治に小納戸として近侍しており、そこで家治は中奥の最高長官として中奥役人の頂点に立つ側用人たる水野忠友に岩本正五郎の逮捕を命じたのであった。
その際、重好は家治に対して、岩本正五郎の穿鑿、取調べをも願出、家治もこれを許すと忠友に対して岩本正五郎の身柄は大番頭の大久保忠恕の許へと移送する様、命じたのであった。
家治は更に気を利かせて、岩本正利の身柄をも大久保忠恕の許へと移送することにした。
「岩本正利めも、重好が料理したいのであろう?」
家治は実に底意地の悪い笑みを浮かべて重好にそう水を向けるや、重好も「畏れ入りまする…」と降参して見せた。正しくその通りであったからだ。
家治はそんな重好の態度に呵呵大笑して見せると、今度は中奥兼帯の老中、田沼意次を召出し、岩本正利の身柄を高取藩上屋敷から大番頭の大久保忠恕の屋敷へと移送する様、意次に命じたのであった。
すると意次は意外にも難色を示した。
「仮にも岩本内膳は役高2000石の旗本なれば…」
家禄2000石の旗本と同様に扱うべきではないか、つまりはこれまで通り、大名家にて預けるべきではないかと、それが意次が岩本内膳こと内膳正正利を旗本である大久保忠恕の屋敷へと移送することに難色を示した理由であった。
成程、意次の言分には一理あったが、しかし今の家治は私情を優先させた。
家治は重好が取ってきた調書を意次にも突付け、
「さればここまで余を愚弄せし岩本内膳めは最早、2000石の旗本として遇するには及ばずっ」
家治はそう断じたのだ。
すると意次もこうなっては逆らい難く、「ははぁっ」と応ずるより外になかった。
こうして岩本正五郎は虎ノ御門内の屋敷にて逮捕され、大久保忠恕の屋敷へと移送され、一方、岩本正利も同じく高取藩上屋敷より大久保忠恕の屋敷へと移送され、岩本正利・正五郎父子はこうして大久保忠恕の屋敷にて、「涙の御対面」を果たすことになった次第である。
尤も、「涙の御対面」も束の間、岩本正利・正五郎父子は早速、重好の「取調べ」を受けることになった。
重好としては岩本正利にしろ正五郎にしろ、少しくは骨のあるところを期待したのだが、その淡い期待は裏切られ、親子とも、重好によって十数発撲られたところで、実にあっさりと「自白」に及んだ。
重好としては今少し、岩本正利・正五郎父子を「サンドバッグ」にしたいところであったが、しかし素直に「自白」したとあらば、それも出来なかった。
こうして重好としては些か、「不完全燃焼」の嫌いはあったものの、岩本正利・正五郎父子をも「自白」に追込むと、即ち、戸田要人水死事件への関与、それも岩本喜内と共に実行したことを認めさせると、このことをやはり口書、自白調書として纏め、岩本正利・正五郎父子に爪印を押させた。
重好はその上で、その口書、自白調書を携えて、家老の吉川從弼を随えて本日三度目の登城を果たすと、家治にその口書、自白調書をも差出したのであった。
「良うやった…」
家治は心底、重好を労うと続けて、
「されば重好よ…、此度のそなたの働きぶりには余も大いに感じ入ったぞ…、そこでだ重好よ、家斉めに替わりて、そなたが余の養君になってはくれぬか?」
将軍家御養君、即ち次期将軍になってはくれぬかと、腹違いの弟である重好にそう持掛けたのであった。
重好は正にそれが狙いでここまで働いてきた、否、危ない橋を渡ってきた次第で、その様な重好にとって家治のその申出は正に大願成就、
「謹んで、お受け致しまする…」
重好がそう即答したのは言うまでもない。
それは天明4(1784)年3月の晦日、29日の夜のことであった。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
徳川家基、不本意!
克全
歴史・時代
幻の11代将軍、徳川家基が生き残っていたらどのような世の中になっていたのか?田沼意次に取立てられて、徳川家基の住む西之丸御納戸役となっていた長谷川平蔵が、田沼意次ではなく徳川家基に取り入って出世しようとしていたらどうなっていたのか?徳川家治が、次々と死んでいく自分の子供の死因に疑念を持っていたらどうなっていたのか、そのような事を考えて創作してみました。
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子
ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。
Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる