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一橋家の侍女・雛の「捜査協力」 ~雛は田安家侍女の廣瀬の死の真相を探るべく、田安大奥へと再就職を果たす~

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「そなた…、一橋ひとつばし民部卿殿みんぶのきょうどの謀叛むほん把握はあくしているとな?」

 大番頭おおばんがしら水野みずの忠韶ただてるひなにそう問返といかえすとひなうなずいたので、

「それをまこと包隠つつみかくさずにはなしてくれるともうすのだな?」

 忠韶ただてる念押ねんおしするようかさねて問返といかえし、するとひなはやはりうなずいた。

 それからひな忠韶ただてるいけかぶ茶屋ちゃやへと案内あんないした。

はなしながくなりますゆえ…、さりとて大奥おおおくではほか侍女じじょもありますゆえ…」

 そこでひないけかぶ茶屋ちゃやにて存分ぞんぶん治済はるさだの「謀叛むほん」の数々かずかずについて申立もうしたてたいと、忠韶ただてる願出ねがいでたのであった。

 成程なるほどひなの「職場しょくば」である大奥おおおくには侍女じじょがいた。いや侍女じじょだけではない。治済はるさだ愛妾あいしょうやその子女しじょ、それも幼子おさなごもおり、彼等かれらは「逮捕たいほ予定者よていしゃ」のリストにはなく、それゆえ彼等かれらは、いや彼女等かのじょら身柄みがら拘束こうそくけずに大奥おおおくにてとどまることがゆるされていたのだ。

 だがそのようなかで、つまりは「逮捕たいほ」こそまぬがれたものの、あるじ治済はるさだうしなった愛妾あいしょう侍女じじょたちのがある大奥おおおくにては流石さすがひなも「捜査そうさ協力きょうりょく」などしにくかろう。

 なにしろそれは治済はるさだ裏切うらぎることを意味いみしていたからであり、畢竟ひっきょう、「捜査そうさ協力きょうりょく」を、すなわ治済はるさだ謀叛むほん数々かずかずについて供述きょうじゅつするひなたいして彼女等かのじょら―、治済はるさだ愛妾あいしょう侍女じじょたちがきびしい視線しせん投掛なげかけるのは間違まちがいない。

 そのてんいけかぶ茶屋ちゃやならば、彼女等かのじょらとどかないので、ひなおも存分ぞんぶん、「捜査そうさ協力きょうりょく」が、つまり治済はるさだ謀叛むほん数々かずかず申立もうしたてられることが出来できるというものである。

 こうしてひな水野みずの忠韶ただてるいけかぶ茶屋ちゃやへと案内あんないした。

 いや忠韶ただてるだけではない。永井ながい直温なおあつ大久保おおくぼ忠恕ただみ、それに杉浦正勝すぎうらまさかつすべての大番頭おおばんがしら茶屋ちゃやへと案内あんないしたのだ。

 忠韶ただてる一人ひとりたいして供述きょうじゅつしたのでは間違まちがいがあるかもれないからだ。

 ひな供述きょうじゅつたいして忠韶ただてる聞間違ききまちがいをしたり、あるいは意味いみ取違とりちがえたりしたら大変たいへんである。

 そこでひな忠韶ただてるほかにも永井ながい直温なおあつすべての大番頭おおばんがしらさそったのである。

 いや忠韶ただてるにしてももとよりそのつもりであったので、そこで忠韶ただてるたち4人の大番頭おおばんがしらひな案内あんないによりいけかぶ茶屋ちゃやへとあしはこび、そこでひなから「捜査そうさ協力きょうりょく」を、すなわち、自供じきょうけた。

 ひな自供じきょうだが、治済はるさだ家治いえはるたちに「冥途めいど土産みやげ」として得々とくとくかたったのと寸分違すんぶんたがわぬものであった。

 それどころか治済はるさだはなし補強ほきょうするものであり、治済はるさだ謀叛むほんとして治済はるさだ実兄じっけいである松平まつだいら重富しげとみあるじつとめる福井ふくいはん上屋敷かみやしき使つかわれたこともひな供述きょうじゅつした。

 ここ一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしき大奥おおおく内濠うちぼりである一橋ひとつばしぼりめんしており、そこで治済はるさだ大奥おおおくより船着場ふなつきばしつらえさせ、そこからふねおなじく内濠うちぼりめんしている福井ふくいはん上屋敷かみやしきへとかうのをつねとしていたそうな。

 そうすればなにかと口喧くちやかましい家老かろうに、とりわけ水谷勝富みずのやかつとみ気付きづかれずに、一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしき脱出ぬけだすことが出来できるからだ。

 それゆえ治済はるさだふね使つかうのは実兄じっけいもとへとあしはこさいとどまらない。

 水谷勝富みずのやかつとみ気付きづかれずに一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしき脱出ぬけだそうとおもえばかならふね使つかったそうな。

 ともあれ、治済はるさだは「冥途めいど土産みやげばなし」のさいには実兄じっけい松平まつだいら重富しげとみについてはなにれなかったが、それでも家治いえはる重富しげとみならば治済はるさだ実兄故じっけいゆえ治済はるさだ謀叛むほんなんらかの関与かんよをしているにちがいないと、そうかんがえて「逮捕たいほ予定者よていしゃ」のリストにふくめ、津山つやま松平家まつだいらけ上屋敷かみやしきにその身柄みがらあずけたわけだが、どうやらそれは正解せいかいだったらしい。

 さて、ひな供述きょうじゅつさらに、池原いけはら良明よしあきら刺殺事件しさつじけん、それにつづ小笠原おがさわら主水刺殺事件もんどしさつじけん戸田とだ要人水死事件かなめすいしじけんさらには深谷ふかや盛朝もりともの「自害じがい」にまでおよんだ。

 池原良誠いけはらよしのぶそく良明よしあきら殺害さつがい刺殺しさつしたのはやはり、逐電ちくでんした清水しみず用人ようにん小笠原おがさわら主水もんどであった。

 それも清水家老しみずかろう本多ほんだ昌忠まさただ犯行はんこうせかけるために、かねて昌忠まさただ西川にしかわ伊兵衛いへえかた注文ちゅうもんしておいた印籠いんろう良明よしあきらにぎらせたそうな。

 この印籠いんろうだがやはり清水家しみずけにて小十人こじゅうにんがしらつとめ、そして小笠原おがさわら主水もんどおな逐電ちくでんした黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん昌忠まさただ代理だいり西川にしかわ伊兵衛いへえより昌忠まさただ注文ちゅうもんしておいた印籠いんろう根付ねつけ受取うけとるや、清水家しみずけへともどることなく、一橋家ひとつばしけ下屋敷しもやしきへと駆込かけこみ、それからときかずして小笠原おがさわら主水もんど駆込かけこみ、そうして黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん小笠原おがさわら主水もんど落合おちあうと、小笠原おがさわら主水もんど昌忠まさただ注文ちゅうもんした印籠いんろう根付ねつけわたしたそうな。それが安永8(1779)年の4月4日のことであった。

 それから犯行当日はんこうとうじつの4月9日まで、小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんとも一橋家ひとつばしけ下屋敷しもやしき―、向築地むこうつきじにある下屋敷しもやしきにて寄宿きしゅくしていたそうな。

 そして4月9日、小笠原おがさわら主水もんどはその印籠いんろう根付ねつけたずさえて犯行はんこう現場げんばである、そして池原良誠いけはらよしのぶ屋鋪やしきからも程近ほどちかい、愛宕山あたごやま権現社ごんげんしゃ總門そうもんへとつうずるはしのたもとで池原いけはら良明よしあきら帰宅きたくするのをっていたそうな。

 小笠原おがさわら主水もんど池原いけはら良明よしあきらとはったことはない。

 だが医師いしともなるど、その風体ふうてい独特どくとくのものであり、ぐに判別はんべつがつく。

 そのはしのたもとからは池原家いけはらけ屋鋪やしきもんうかがえたので、そこで医師いしらしき風体ふうていおとこ池原家いけはらけ門前もんぜんとおりかかれば、そのもの間違まちがいなく池原いけはら良明よしあきら差支さしつかえなかった。

 いや、もしかしたら親父おやじ池原良誠いけはらよしのぶである可能性かのうせいたかかったが、それでもかった。

 それと言うのも池原いけはら良明よしあきら殺害さつがいする目的もくてきだが、それは良明よしあきら戸田とだ要人かなめとも家基いえもと真相しんそう探索たんさく乗出のりだしたからであった。

 それこそが池原いけはら良明よしあきら殺害さつがいする目的もくてきすなわち、動機どうきであり、それは一橋ひとつばし治済はるさだ動機どうきと言えた。

 つまり小笠原おがさわら主水もんど清水家しみずけ用人ようにんでありながら一橋ひとつばし治済はるさだつうじていたのだ。

 それは「共犯者きょうはんしゃ」である黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんにもまることであり、治済はるさだおのれ犯罪はんざい―、「謀叛むほん」とんでも差支さしつかえない家基毒殺いえもとどくさつ、この真相しんそう探索たんさく乗出のりだした池原いけはら良明よしあきら邪魔じゃまになり、小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん両名りょうめい池原いけはら良明よしあきらの「始末しまつ」をめいじたとのことであった。

 だがかり池原いけはら良明よしあきらではなく、間違まちがって親父おやじ良誠よしのぶ始末しまつしてしまったとしても、それで良明よしあきら親父おやじおのれ責任せきにんんでくれれば、治済はるさだとしてはそれはそれでかまわなかったそうな。

 それで池原いけはら良明よしあきら探索たんさくあきらめるやもれなかったからだ。

 だが結果けっかから言えば、小笠原おがさわら主水もんど池原いけはら良明よしあきら仕留しとめることに成功せいこうし、その昌忠まさただ注文ちゅうもん受取うけとはずであった印籠いんろうにぎらせたそうな。

 ちなみにそうまでして本多ほんだ昌忠まさただ池原いけはら良明よしあきらごろしのぎぬせようとしたのはやはり「個人的こじんてきうらみ」からであった。

 すなわち、小笠原おがさわら主水もんど用人ようにんから側用人そばようにんへの昇格しょうかくのぞんでいたにもかかわらず、これを家老かろう本多ほんだ昌忠まさただはばまれたことで、一方いっぽう黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん久左衛門きゅうざえもん目附めつけより小十人こじゅうにんがしらへと降格こうかくさせられたのは家老かろう本多ほんだ昌忠まさただ所為せいであるとして、各々おのおの昌忠まさただうらんでいたそうな。

 かくして小笠原おがさわら主水もんど愛宕山あたごやま権現社ごんげんしゃ總門そうもんへとつうずるはしにおいて池原いけはら良明よしあきら刺殺しさつ、それが清水家老しみずかろう本多ほんだ昌忠まさただ犯行はんこうであるかのようせかけると、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん向築地むこうつきじにある一橋家ひとつばしけ下屋敷しもやしきへともどったそうな。

 だがここでまさかの誤算ごさん発生はっせいした。

 なんと、小笠原おがさわら主水もんど池原いけはら良誠よしのぶ印籠いんろうにぎらせただけで、根付ねつけ持帰もちかえってたのだ。

 印籠いんろう根付ねつけはセットである。池原いけはら良明よしあきらいわわのきわ下手人げしゅにんである本多ほんだ昌忠まさただ印籠いんろうつかみ、そして息絶いきたえた―、そういう物語ストーリーにするためには根付ねつけ犯行現場はんこうげんばに、それもむくろそばちていなければならない。

 それが根付ねつけだけは持帰もちかえってるとは、かる物語ストーリー破綻はたんきたす。

 当然とうぜん黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん小笠原おがさわら主水もんど難詰なんきつしたそうだが、それにたいして小笠原おがさわら主水もんどなんと、一橋ひとつばし治済はるさだおどしにかかったのだ。

 小笠原おがさわら主水もんどとて現場げんば根付ねつけちていなければ物語ストーリー破綻はたんきたすことぐらい承知しょうちしていた。

 にもかかわらずえて根付ねつけ持帰もちかえったのは、これを治済はるさだへのおどしの材料ざいりょうにするためであったそうな。

「この根付ねつけしかるべきところにおそれながらとうったれば一橋ひとつばしさまわりでござろう…」

 小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんとも小笠原おがさわら主水もんど出迎でむかえた治済はるさだ寵臣ちょうしん岩本いわもと喜内きないをそうおどしたそうな。

 そこで岩本いわもと喜内きないすき小笠原おがさわら主水もんど殺害さつがい背中せなかから脇差わきざしにて一突ひとつきにし、その遺骸いがい下屋敷しもやしきにわにてうずめたそうな。

 ところで池原いけはら良明よしあきら刺殺しさつされ、その実行犯じっこうはんである小笠原おがさわら主水もんどまでがくちふさがれた4月9日、向築地むこうつきじにある下屋敷しもやしきにて、それも夜半やはん岩本いわもと喜内きないまでがいたのは、治済はるさだ愛妾あいしょう喜志きよし懐妊かいにん、それも出産しゅっさん間近まぢかために、

産穢さんえけるため…」

 その名目めいもくで4月1日より喜志きよし男児だんじ出産しゅっさんした19日までのあいだ、その向築地むこうつきじにある下屋敷しもやしきへとあしはこんでは、「どんちゃんさわぎ」にきょうじていたそうだが、これもまた口実こうじつぎず、

一仕事ひとしごとえた小笠原おがさわら主水もんど出迎でむかえるため…」

 それこそが岩本いわもと喜内きない夜半やはんであるにもかかわらず、上屋敷かみやしきではなく下屋敷しもやしきめていたまこと理由わけであり、このとき岩本いわもと喜内きないだけがめていたのでは如何いかにも不自然ふしぜんと、そこで喜内きないほかにも目附めつけ岩本いわもと喜内きないとは相役あいやく同僚どうりょう徒頭かちがしらが4月1日より19日までのあいだ毎日まいにち下屋敷しもやしきへとあしはこび、また侍女じじょにまで酌婦しゃくふとしてやはり毎日まいにち下屋敷しもやしきへとあしはこばせたそうで、その侍女じじょなかには勿論もちろんひなふくまれており、だからこそひな斯様かよう詳細しょうさい証言しょうげん可能かのうであったのだ。

 ちなみにほか家臣かしんについては交代こうたい下屋敷しもやしきへとあしはこんだそうな。

 そしてひな詳細しょうさい証言しょうげんはこれにとどまらなかった。

 岩本いわもと喜内きない小笠原おがさわら主水もんど刺殺しさつ、そのむくろにわうずめるにさいして着物きもの大小だいしょう二本にほんると、それらに重石おもしくくけていけしずめると同時どうじに、全裸ぜんらとなった小笠原おがさわら主水もんどにわうずめたそうで、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんがこれを手伝てつだったそうな。

 ちなみにこのときくだん根付ねつけ岩本いわもと喜内きない回収かいしゅうしたそうだが、これがのち命取いのちとりとなる。

 岩本いわもと喜内きないせばいのにその根付ねつけ我物わがものとしたのだ。余程よほど細工さいくったらしい。

 ところがそれを岩本いわもと喜内きない間抜まぬけにもつぎ犯罪はんざいおり犯行はんこう現場げんばとしてしまったのだ。

 つぎ犯罪はんざい、それは戸田とだ要人水死事件かなめすいしじけんであり、一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしきがその犯行はんこう現場げんばであった。

 池原いけはら良明よしあきらあとも、戸田とだ要人かなめがその遺志いしいで家基いえもと真相しんそう探索たんさくつづけ、治済はるさだはそこで岩本いわもと喜内きない黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん戸田とだ要人かなめ始末しまつ指示しじしたそうな。

 黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん岩本いわもと喜内きない小笠原おがさわら主水もんどくちふうじた直後ちょくご用人ようにん杉山すぎやま嘉兵衛かへえもとへと逃込にげこんだそうな。

 一橋家ひとつばしけ家臣かしんなかでも用人ようにん杉山すぎやま嘉兵衛かへえだけは家基いえもと縁者えんじゃでもあるということで、

杉山すぎやま嘉兵衛かへえだけは一橋ひとつばし用人ようにんでありながら例外的れいがいてき治済はるさだいきがかかっていないに相違そういあるまい…」

 家治いえはるからはそうられていた。いや、それはおおいなる誤解ごかいというものだが、しかし治済はるさだにしてみれば好都合こうつごうであった。

 治済はるさだ家治いえはるのそのおおいなる誤解ごかいには勿論もちろん気付きづいており、そこでそれを逆手さかてることにしたのであった。

 すなわち、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん身柄みがら杉山すぎやま嘉兵衛かへえもとあずけることであった。

 黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん本多ほんだ昌忠まさただ名代みょうだいとして西川にしかわ伊兵衛いへえかたより印籠いんろう根付ねつけ受取うけとったことはいずれあきらかとなり、その場合ばあい黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんもまた池原いけはら良明よしあきらごろしになんらかの関係かんけいがあるのではないかと、そう辿たどくのにそう時間じかんようさないであろう。

 その場合ばあい家治いえはるのことである、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんつけるべく一橋家ひとつばしけ屋敷やしきという屋敷やしきを、上屋敷かみやしき下屋敷しもやしきわずに徹底的てっていてき捜索そうさくさせるに相違そういない―、治済はるさだはそう予期よきして黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん杉山すぎやま嘉兵衛かへえ屋鋪やしきにてかくまわせたそうな。

 杉山すぎやま嘉兵衛かへえ自身じしん一橋ひとつばし用人ようにんということもあり、一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしき組屋敷くみやしきにて起居ききょしていたものの、それとはべつ本所ほんじょみなみ割下水わりげすい屋鋪やしきかまえており、そこでは嫡子ちゃくしにしていま小姓こしょう組番ぐみばん杉山すぎやま又四郎またしろう義制よしたつ起居ききょしており、そこへ黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんかくまわせたそうな。

 そしてそれから4ヵ月後の8月2日、杉山すぎやま又四郎またしろうがさも、戸田とだ要人かなめ味方みかたのフリをして、それも家基いえもと縁者えんじゃであったことを強調きょうちょうして、

「この杉山すぎやま又四郎またしろうもまた家基公いえもとこう真相しんそうおおいに興味きょうみがある…」

 戸田とだ要人かなめにそう刷込すりこませ、そのうえ言葉ことばたくみに一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしきへとおびせ、そこで、それも邸内ていないいけにて戸田とだ要人かなめ水死すいしさせたのであった。

 実際じっさいには黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん杉山すぎやま又四郎またしろういけ手前てまえ戸田とだ要人かなめ身体からださえけ、そのうえ岩本いわもと喜内きない戸田とだ要人かなめかおいけみずけて窒息死ちっそくしさせたのであった。

 そして戸田とだ要人かなめ水死体すいしたいれいごとく、大奥おおおくへとつうずる船着場ふなつきばへとはこび、そしてふねせては一橋ひとつばしぼりにて投棄とうきしたのであった。

 そうすることで、さも戸田とだ要人かなめあしでもすべらせてほりちたかのようせかけるためであったが、しかし実際じっさいにはおおいにすべったのは治済はるさだほうであった。

 すなわち、戸田とだ要人かなめくちには多量たりょう水草すいそうふくまれており、いけみず窒息死ちっそくしさせられたことをしめしていた。

 しかもそれで家治いえはる一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしき、それもいけ周囲しゅうい捜索そうさく踏切ふみきったところ、くだん根付ねつけちていたのだからてられない。

 どうやら岩本いわもと喜内きない戸田とだ要人かなめいけみずけて窒息死ちっそくしさせるさいとしてしまったらしい。

 だがそれでも戸田とだ要人かなめ水死すいしさせたとする決定的けっていてき証拠しょうこてこず、さりとてこのまま黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん杉山すぎやま又四郎またしろうかたかくまわせるのも危険きけんであると、そこで治済はるさだ黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんをどこぞへとうつしたそうだが、そこがたして何処どこなのか、そこまではひなにもからぬそうだ。

 さて、池原いけはら良明よしあきらつづいて戸田とだ要人かなめまで殺害さつがい、そのくちふうじたことで、

「これで最早もはや家基いえもと真相しんそうさぐやからはおるまい…」

 治済はるさだがそう安心あんしんしていたところ、あん相違そういして西之丸にしのまる目附めつけ深谷ふかや盛朝もりとも探索たんさく引継ひきついだことから、治済はるさだ盛朝もりとも殺害さつがいまで計画けいかく、そこで家臣かしん横山よこやま善太郎ぜんたろう直重なおしげ使つかったそうな。

 深谷ふかや盛朝もりともには本家ほんけすじたる深谷ふかや喜四郎きしろう忠囿ただそのなるものがあり、この深谷ふかや喜四郎きしろう実妹じつまいめとっていたのが一橋ひとつばし家臣かしん横山よこやま善太郎ぜんたろうであった。

 そこで深谷ふかや盛朝もりとも横山よこやま善太郎ぜんたろうとは顔見知かおみしりであったが、その程度ていどであった。

 たがいにこれといって感慨かんがいはなく、だからこそ横山よこやま善太郎ぜんたろう縁者えんじゃである深谷ふかや盛朝もりとも殺害さつがいには躊躇ちゅうちょなかった。

 もっとも、だからと言って簡単かんたんころせるものではない。ましてや自害じがいせかけるとなれば尚更なおさらであろう。

 池原いけはら良明よしあきら戸田とだ要人かなめつづいて深谷ふかや盛朝もりともまで始末しまつするとなれば、絶対ぜったい自害じがいせかけることが必要ひつようであった。

 これでころしともなれば、流石さすが治済はるさだ無事ぶじではまないやもれず、治済はるさだ自身じしんがそれをおそれていたからだそうな。

 そこで治済はるさだはまず横山よこやま善太郎ぜんたろう深谷ふかや盛朝もりともへと近付ちかづけさせることからはじめたそうな。すなわち、

おのれつかえる治済はるさだがどうやら家基公いえもとこう毒殺どくさつした可能性かのうせいがあり、一橋ひとつばし家臣かしんとしてどう振舞ふるまえばいのかなやんでいる…」

 横山よこやま善太郎ぜんたろうには深谷ふかや盛朝もりともにそうささやかせて盛朝もりともへと近付ちかづけさせたのであった。

 これには深谷ふかや盛朝もりとももコロリとだまされてしまい、すっかり横山よこやま善太郎ぜんたろうゆるしたそうな。

 横山よこやま善太郎ぜんたろう戸田とだ要人かなめ始末しまつされたあと、安永8(1779)年9月より深谷ふかや盛朝もりともと「交際こうさい」をはじめ、それが翌年よくねんの11月までつづいた。

 そのころになると横山よこやま善太郎ぜんたろう深谷ふかや盛朝もりともとはたがいの屋鋪やしき往来ゆききするほど盛朝もりともからの信頼しんらいていた。横山よこやま善太郎ぜんたろうもまた、一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしき組屋敷くみやしきにて起居ききょしていたのだが、それとはべつ屋鋪やしきかまえており、そこで深谷ふかや盛朝もりともまねくこともあったそうな。

 そして11月8日に横山よこやま善太郎ぜんたろう愈々いよいよ、「決行けっこう」にうつったそうな。

 11月8日も横山よこやま善太郎ぜんたろう深谷ふかや盛朝もりとも屋鋪やしきまねかれ、あらかじ用意よういしておいたねむぐすり盛朝もりともすき盛朝もりともちゃ混入こんにゅう、そうして盛朝もりともねむらせたところで、自害じがいせかけて殺害さつがいしたそうな。

 屋鋪やしきには当然とうぜん家族かぞく家族かぞくなどの家人けにんがいた。

 だがこのかぎっては盛朝もりとも家人けにん全員ぜんいん外出がいしゅつさせたうえ横山よこやま善太郎ぜんたろうむかえたのであった。

 なにしろそれが横山よこやま善太郎ぜんたろう希望リクエストであり、

治済はるさだ家基公いえもとこう毒殺どくさつしたカラクリがようやくにかりましたので、ついては二人ふたりだけでいたい…」

 横山よこやま善太郎ぜんたろうよりそう耳打みみうちされては、おのれ屋鋪やしきにてうのが一番安全いちばんあんぜんと、そこでそのかぎって盛朝もりとも家族かぞくとその家臣かしんさらにはその家族かぞくをもみな外出がいしゅつさせたうえ横山よこやま善太郎ぜんたろう出迎でむかえたのだが、結果けっかから言えばそれが盛朝もりとも命取いのちとりとなってしまった。

 横山よこやま善太郎ぜんたろう深谷ふかや盛朝もりともねむぐすりねむらせてから、盛朝もりとも脇差わきざしき、そしてその脇差わきざし盛朝もりともこころぞう一突ひとつきにしたそうな。

 横山よこやま善太郎ぜんたろうはそれからさらあらかじ用意よういしておいた遺書いしょまでむくろとなった盛朝もりともそばいたのであった。

 横山よこやま善太郎ぜんたろう右筆ゆうひつとして治済はるさだつかえており、他人たにん筆跡ひっせき真似まねるのが得意とくいなそうで、深谷ふかや盛朝もりともとは文通ぶんつうわして、盛朝もりとも筆跡ひっせき修得しゅうとくし、それを遺書いしょ偽造ぎぞう反映はんえいさせたそうな。

 以上いじょうひな治済はるさだ謀叛むほん数々かずかずであり、しかし田安家たやすけ侍女じじょ廣瀬ひろせ不審死ふしんしげた一件いっけんについては流石さすがひならない様子ようすであった。

 だがこれよりまえ―、池原いけはら良明よしあきらもとより、家基いえもと殺害さつがいされるまえ、つまりはまだ存命ぞんめいであった安永4(1775)年になぞげた廣瀬ひろせ一件いっけんについてはひな把握はあくしておらず、そこでひなおどろくべき提案ていあんをした。

「さればこのひなめを田安家たやすけにて…、その大奥おおおくにて召抱めしかかえられるよう便宜べんぎはかってはくださいませぬか?」

 田安家たやすけ上屋敷かみやしき大奥おおおく再就職さいしゅうしょく、というのは名目めいもくで、そのじつ廣瀬ひろせ一件いっけんについて探索たんさくしたいと、ひなはそう申出もうしでていたのだ。

 これには水野みずの忠韶ただてるたち大番頭おおばんがしらおおいにおどろかされたものの、

わるかんがえではない…」

 そのようにもおもえた。

 廣瀬ひろせにもやはり治済はるさだからんでいると間違まちがいなかった。

 なにしろ廣瀬ひろせ寶蓮院ほうれんいんかいして―、寶蓮院ほうれんいんとも本丸大奥ほんまるおおおくへとのぼり、そこで倫子ともこおのれ中年寄ちゅうどしよりとしてつかえていた萬壽姫ますひめじつ病死びょうしなどではなく毒殺どくさつされたのではないかと、そう家治いえはる告発こくはつしようとした矢先やさきなぞを、それも縊死いしげたからだ。

 だとしたら田安家たやすけ上屋敷かみやしきつかえるものなかにも一橋ひとつばし治済はるさだいきがかかっているものひそんでおり、廣瀬ひろせはそのものにかかってげた、つまりはころされた可能性かのうせいたかかった。

 だがこれを解明かいめいするのは中々なかなかむずかしい。

 なにしろ、廣瀬ひろせからすでに9年が経過けいかしていたからだ。

 それでも廣瀬ひろせ真相しんそう解明ときあかそうとするならば、つまりは治済はるさだ謀叛むほん一端いったん白日はくじつもとさらそうとするならば、だれかが田安家たやすけ上屋敷かみやしき大奥おおおくへともぐみ、そのもの探索たんさくさせるのが早道はやみちと言えた。

 その役目やくめひなになおうと言うのである。水野みずの忠韶ただてるたち大番頭おおばんがしらが「わるかんがえではない…」とそうおもったのも当然とうぜんであった。

 それにひなにしてもこのまま一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしき大奥おおおくにてつかつづけるのはむずかしかろう。

 なにしろ、同僚どうりょうとも言うべき一橋ひとつばし家臣かしんの「逮捕たいほ」をふせぐべく水野みずの忠韶ただてる人質ひとじちってまで、「逮捕たいほ」に抵抗ていこうしたあかねひなたおしてしまったのである。

 そのようひなはこのさき、ここ一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしき大奥おおおくにてつかつづけるというのはまさはりむしろひとしい。

 一橋家ひとつばしけにおいてはおとこ家臣かしん家老かろう水谷勝富みずのやかつとみのぞいて、それにいまもまだ御城えどじょうのこっているやはり家老かろうはやし忠篤ただあつをものぞいてみな、「逮捕たいほ」されてしまった。

 だがおなごについては、つまりは大奥おおおくにてつかえる侍女じじょあるいは治済はるさだ愛妾あいしょうかぎってはその子女しじょともに「逮捕たいほ予定者よていしゃ」にはふくまれておらず、それゆえ引続ひきつづ大奥おおおくにてらすことがゆるされていた。

 もっとも、それでは一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしきおなごしかいないことになってしまい、それでは如何いかにも無用心ぶようじんというわけで、一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしきへと「逮捕たいほ」に差向さしむけられた4つの大番組おおばんぐみ―、1番組ばんぐみと6番組ばんぐみ、4番組ばんぐみと8番組ばんぐみの4大番組おおばんぐみ交代こうたい一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしき警衛けいえいたることになっていた。

 今後こんご一橋家ひとつばしけ取潰とりつぶされるのかどうか、それはまだからぬが、それでもなんらかの沙汰さたくだされるのは間違まちがいなく、それまでのあいだはこの4大番組おおばんぐみ交代こうたい一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしき警衛けいえいたる。

 そしてそれは一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしき大奥おおおくにてつかえる侍女じじょや、あるいは愛妾あいしょうやその家族かぞくにもまる。

 ひな勿論もちろん引続ひきつづ一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしき大奥おおおくにて侍女じじょとしてつかつづけることは出来できるものの、しかしそれでははりむしろと、そこで新天地しんてんちもとめたのであろう。

 つまりは廣瀬ひろせ探索たんさくというのは口実こうじつで、田安家たやすけ上屋敷かみやしき大奥おおおく再就職さいしゅうしょくたすこと、それ自体じたい目的もくてきであったのやもれぬ。

 もっとも、だからと言ってそれがわるわけではなかろう。なにしろひなはここまで捜査そうさ協力きょうりょくをしたのだ。それぐらいの余得よとくあずからせても問題もんだいはあるまい。

 それに廣瀬ひろせ探索たんさくというのも、あながち口実こうじつとも言切いいきれまい。ひなのことである。まこと探索たんさく乗出のりだすことが期待きたい出来できた。

 かる次第しだい水野みずの忠韶ただてるたち大番頭おおばんがしらみなひなのそのねがい聞届ききとどけてやることで衆議一決しゅうぎいっけつ、しかし最終的さいしゅうてき決裁権者けっさいけんしゃである将軍しょうぐん家治いえはる協力きょうりょくなければならず、そこで忠韶ただてるとそれに永井ながい直温なおあつ二人ふたり大番頭おおばんがしら代表だいひょうしていそ御城えどじょうへともどると、将軍しょうぐん家治いえはるたいして「逮捕たいほ」の報告ほうこくともに、ひなの「捜査そうさ協力きょうりょく」についてもあわせてかたってかせたのであった。

 それにたいして家治いえはるひな願出ねがいでゆるした。

 成程なるほどひな治済はるさだ共犯者きょうはんしゃであったやもれぬが、前非ぜんぴいてここまで「捜査そうさ協力きょうりょく」をしてくれた以上いじょう、その程度ていどねがい聞届ききとどけてやらねばなるまい。

 いや、そのねがいにしても治済はるさだ謀叛むほん一端いったんあきらかにするものであるならば、なおこと聞届ききとどけねばなるまい。

 そこで家治いえはる今度こんどそば用取次ようとりつぎ見習みならい松平まつだいら忠寄ただより田安家たやすけ上屋敷かみやしきへと差向さしむけた。

一橋家ひとつばしけ侍女じじょひな田安家たやすけ大奥おおおくにて召抱めしかかえてしい…」

 家治いえはる田安家たやすけ女主おんなあるじである寶蓮院ほうれんいんにそうたのむべく、そこで松平まつだいら忠寄ただより使者ししゃとしててたのであった。

 本来ほんらいならば家治いえはる自身じしん田安家たやすけ上屋敷かみやしきへとあしはこびたいところであったが、将軍しょうぐんともなると、そうもゆくまい。

 そこでそばしゅうなかでもとりわけたか家格かかくほこる、用取次ようとりつぎ見習みならいの松平まつだいら忠寄ただより寶蓮院ほうれんいんもとへとつかわしたのであった。

 松平まつだいら忠寄ただより由緒正ゆいしょただしき五井ごい松平まつだいらのそれも嫡流ちゃくりゅうであり、家柄いえがらというてんでは忠寄ただよりそばしゅうなかでも一頭地いっとうちいていた。

 そして由緒ゆいしょというてんでは寶蓮院ほうれんいんにしても同様どうようであった。

 なにしろ寶蓮院ほうれんいんさき太政だじょう大臣だいじん近衛このえ家久いえひさ息女そくじょにして、三卿さんきょう筆頭ひっとう田安家たやすけ始祖しそである宗武むねたけしつでもあったという由緒ゆいしょほこる。

 それほど由緒ゆいしょほこ寶蓮院ほうれんいんたいして使者ししゃ差向さしむけるともなれば、それも寶蓮院ほうれんいんに「再就職さいしゅうしょく」の陳情ちんじょうため使者ししゃともなれば、由緒正ゆいしょただしきもの使者ししゃてる必要ひつようがあった。

 家治いえはる基本的きほんてきには祖父そふ吉宗譲よしむねゆずりの実力じつりょく主義者しゅぎしゃではあったが、さりとて家柄いえがら由緒ゆいしょといったものをまった無視むしするアナーキストでもなかった。

 実力じつりょくがあるが、しかし由緒ゆいしょというてんでは松平まつだいら忠寄ただよりよりもおとる、たとえば用取次ようとりつぎ横田よこた準松のりとしや、あるいは本郷泰行ほんごうやすゆき寶蓮院ほうれんいんもとへと差向さしむけて、

そばしゅうなかにはもっと由緒正ゆいしょただしき松平まつだいら忠寄ただよりがおろうに…」

 にもかかわらずえて、その忠寄ただよりよりも由緒ゆいしょおと横田よこた準松のりとしあるいは本郷泰行ほんごうやすゆき差向さしむけるとは、

上様うえさまはこの寶蓮院ほうれんいんくびられておいでか…」

 寶蓮院ほうれんいんかる邪推じゃすいをさせるおそれがありた。

 いや寶蓮院ほうれんいん人柄ひとがらからして、それは到底とうていありないであろうことは家治いえはる承知しょうちしていたが、しかしすこしでもその危険性リスクがあるのならば、そのっておくのが賢明けんめいであろう。

 かる次第しだい家治いえはる忠寄ただより使者ししゃてたのであり、それにたいして寶蓮院ほうれんいんひなの「再就職さいしゅうしょく」のけん快諾かいだくしたのであった。

 そのさい身元みもと保証人ほしょうにん所謂いわゆる宿元やどもと必要ひつようとなり、それは大番頭おおばんがしら杉浦正勝すぎうらまさかつ引受ひきうけた。

 ひなの「再就職さいしゅうしょく」がかなったけんは―、寶蓮院ほうれんいんにそれをみとめてもらったけんについては将軍しょうぐん家治いえはるより大番頭おおばんがしら水野みずの忠韶ただてるかいしてひなへとつたえられると、そのにいた杉浦正勝すぎうらまさかつが、「それなれば…」とひな宿元やどもとになることを申出もうしでたのであった。

 杉浦正勝すぎうらまさかつひな宿元やどもとになると申出もうしでたのには理由わけがあり、縁者えんじゃ杉浦すぎうら猪兵衛いへえ良昭よしあき存在そんざいがその理由わけであった。

 杉浦すぎうら猪兵衛いへえ杉浦すぎうら正勝まさかつ縁者えんじゃにして、田安家たやすけ上屋敷かみやしきにて廣敷用人ひろしきようにんとして寶蓮院ほうれんいんつかえていたのだ。

 そこで杉浦正勝すぎうらまさかつひな宿元やどもとになることとし、ひなはこうしてそのうち田安たやす大奥おおおくに「再就職さいしゅうしょく」をたしたのであった。


 そのおり―、それも田安家たやすけもんくぐ直前ちょくぜんひな見送みおくりにおとずれた杉浦正勝すぎうらまさかつたいして、「そうそう…」となにかをおもしたかのよう切出きりだすと、

治済はるさだめは島津しまづ重豪しげひでよりひそかに連発銃れんぱつじゅう買求かいもとめ、その連発銃れんぱつじゅう一橋家ひとつばしけ大奥おおおくにて保管ほかんしておりまして、治済はるさだ最期さいご登城とじょうおりにその連発銃れんぱつじゅうよう、このひなめいじたのでござりまする…」

 じつにとんでもないことをおもしたのであった。
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