上 下
131 / 169

天明の大獄 ~津山藩主の松平康致は福井藩主の松平重富を、仙台藩主の伊達重村は薩摩藩主の島津重豪を夫々、預けられ、狂喜乱舞す~

しおりを挟む
 よく、3月25日、稲葉いなば正明まさあきら登城とじょうすると、宿直とのいえたばかりの伊丹いたみ雅楽助うたのすけからこえけられ、一橋ひとつばし治済はるさだがここ中奥なかおくにて「逮捕たいほ」されたことを耳打みみうちした。

 稲葉いなば正明まさあきら当然とうぜん仰天ぎょうてんした。

 なにしろ一橋ひとつばし治済はるさだが「逮捕たいほ」された以上いじょう治済はるさだの「共犯者きょうはんしゃ」であるおのれの「逮捕たいほ」も「時間じかん問題もんだい」と言えたからだ。

 だがそのよう稲葉いなば正明まさあきらとは正反対せいはんたいに、伊丹いたみ雅楽助うたのすけいたって落着おちつきをはらっており、

「されば…、上様うえさまねばこと解決かいけつです…」

 じつおそろしいことを正明まさあきら耳打みみうちした。

 それから伊丹いたみ雅楽助うたのすけ将軍しょうぐん家治いえはるおのれ田沼家たぬまけ所縁ゆかりものとして、治済はるさだとは所縁ゆかりなきもの誤信ごしん家治いえはる雅楽助うたのすけただ一人ひとり休息之間きゅうそくのま下段げだんにて治済はるさだ監視かんしめいじ、いまいままで治済はるさだ監視かんしをしていたわけだが、そのおり治済はるさだより家治いえはる毒殺どくさつめいじられたことも正明まさあきら打明うちあけたのであった。

上様うえさまを…、毒殺どくさつ…」

左様さよう…、この雅楽助うたのすけ膳番ぜんばん小納戸こなんどなれば…」

成程なるほど…、そのうえぜん奉行ぶぎょう上村かみむら彌三郎やさぶろうのぞいて…、高尾たかお惣十郎そうじゅうろう山木やまき次郎八じろはち二人ふたり一橋ひとつばし民部卿様みんぶのきょうさまいきのかかりしものなれば…」

 高尾たかお惣十郎そうじゅうろうあるいは山木やまき次郎八じろはち当番とうばん―、まずはじめに将軍しょうぐん家治いえはる食事しょくじ毒見どくみになときすなわち、膳番ぜんばん小納戸こなんどによる2回目かいめ毒見どくみ監視かんしするときに、その食事しょくじどくれるつもりだなと、正明まさあきら雅楽助うたのすけにそう示唆しさし、雅楽助うたのすけうなずかせた。

「なれど…、膳番ぜんばん小納戸こなんどはそなたのほかにもおろう?」

 ぜん奉行ぶぎょうによる最初さいしょ毒見どくみだが、ぜん奉行ぶぎょう定員ていいんが3人ということもあり、朝昼晩あさひるばんかく一人ひとりになう。

 一方いっぽう膳番ぜんばん小納戸こなんどによる2回目かいめ毒見どくみだが、膳番ぜんばん小納戸こなんどは5人おり、2人が交代こうたい毒見どくみになわけだが、この5人の膳番ぜんばん小納戸こなんどなかでも治済はるさだいきがかかっているのはこの伊丹いたみ雅楽助うたのすけただ一人ひとりであり、のこる4人は治済はるさだいきはかかっていなかった。

 それどころか清水しみず重好しげよしあるいは田沼家たぬまけ所縁ゆかりものたちばかりで、かりに2回目かいめ毒見どくみさい伊丹いたみ雅楽助うたのすけ食事しょくじどく混入こんにゅう、それを毒見どくみ監視役かんしやくであるはずぜん奉行ぶぎょう高尾たかお惣十郎そうじゅうろうか、あるいは山木やまき次郎八じろはち黙認もくにんしたとしても、伊丹いたみ雅楽助うたのすけともに2回目かいめ毒見どくみにな膳番ぜんばん小納戸こなんど―、治済はるさだいきがかかっていない小納戸こなんどがそれをゆるさず、かならずや見咎みとがめるはずであった。

 稲葉いなば正明まさあきら伊丹いたみ雅楽助うたのすけにそのてんただした。

 それにたいして、膳番ぜんばん小納戸こなんどである伊丹いたみ雅楽助うたのすけもそのことならば稲葉いなば正明まさあきら態々わざわざ指摘してきされずとも自覚じかくしているところであり、それでもなおあわてた様子ようすせなかったのには理由わけがあった。

上様うえさま余程よほどにこの伊丹いたみ雅楽助うたのすけめを信頼しんらいしているらしく…」

 伊丹いたみ雅楽助うたのすけはそう前置まえおきしてから、宿直とのいける、と言うよりは治済はるさだの「監視役かんしやく」の当番とうばんけた直後ちょくご―、いまよりすこまえのことだが、家治いえはるより膳番ぜんばん小納戸こなんど増員ぞういん持掛もちかけられたことを正明まさあきら打明うちあけた。

 膳番ぜんばん小納戸こなんどをあと1人、やして6人体制たいせいとしたいが、一体いったいだれ膳番ぜんばんねさせればいものかと、家治いえはる雅楽助うたのすけ相談そうだん持掛もちかけたそうな。

 なにしろ将軍しょうぐん食事しょくじ毒見どくみをもにな膳番ぜんばんである、じつ治済はるさだいきがかかっている小納戸こなんどであるにもかかわらず、そうとも気付きづかずに下手へたにそのようもの膳番ぜんばんねさせたりしたらてられない。いや文字もじどおり、いのちにかかわる。

 そこで伊丹いたみ雅楽助うたのすけが「これは…」とおももの推挙すいきょしてしいとも、家治いえはる雅楽助うたのすけ打診だしんしたのだ。

なんと…、上様うえさまはそれほどまでに…」

 伊丹いたみ雅楽助うたのすけがそれほどまでに将軍しょうぐん家治いえはるから信頼しんらいされていることに、稲葉いなば正明まさあきらおどろいた。

左様さよう…、それもこれもこの雅楽助うたのすけめが田沼家たぬまけ所縁ゆかりものでござろうが…」

 そのじつ一橋ひとつばし治済はるさだいきがかかっていようなどとは、上様うえさまもよもやおもわなんでござろうと、雅楽助うたのすけはクックッとわらいをらした。

 さてそこで膳番ぜんばん推挙すいきょまかされた伊丹いたみ雅楽助うたのすけとしてはもう一人ひとり治済はるさだいきがかかっているもの膳番ぜんばん推挙すいきょするつもりだとも、正明まさあきら打明うちあけたのであった。

無論むろん、だからともうして、流石さすが岩本いわもと正五郎しょうごろうめを推挙すいきょするわけにはゆかず…」

 雅楽助うたのすけ冗談じょうだんじりにそうげた。

 たしかに、岩本いわもと正五郎しょうごろうでは如何いかにもまずい。

 成程なるほど岩本いわもと正五郎しょうごろう治済はるさだ愛称あいしょうにして次期じき将軍しょぐん家斉いえなり母堂ぼどうとみ実弟じっていすなわ家斉いえなり叔父おじであり、そのてん治済はるさだいきがかかっていると断言だんげん出来できたが、しかし家治いえはるにもそうと気付きづかれてしまう。

 大事だいじなのは治済はるさだいきがかかっていながらも、家治いえはるにはそうとは気付きづかれない、まさ伊丹いたみ雅楽助うたのすけよう人材じんざいあらたに膳番ぜんばん推挙すいきょすることであった。

左様さような…、都合つごう人材じんざいがそなたのほかにもおるともうすか?」

 稲葉いなば正明まさあきらくびかしげた。

 稲葉いなば正明まさあきら小納戸こなんどや、あるいは小姓こしょう事実上じじつじょう支配しはいするそば用取次ようとりつぎ役職ポストにあったが、それでもすべての小納戸こなんどについて把握はあくしているわけではなかった。

「されば大井おおい庄三郎しょうざぶろうなれば…」

 大井おおい庄三郎しょうざぶろう昌富まさとみ―、伊丹いたみ雅楽助うたのすけおなじく、3年前ねんまえの天明元(1781)年4月のそれも21日に本丸ほんまる小納戸こなんど取立とりたてられた所謂いわゆる、「同期どうきさくら」であった。

 いや、それ以上いじょう大井おおい庄三郎しょうざぶろう平塚ひらつか喜右衛門きえもん爲善ためよし長女ちょうじょめとっていたのだ。

 この平塚ひらつか喜右衛門きえもんと言えば、西之丸にしのまる大奥おおおくにて次期じき将軍しょうぐん家斉附いえなりづき武家ぶけけい年寄としよりである高橋たかはし実兄じっけいにもたる。

 高橋たかはしと言えばいまでこそ西之丸にしのまる大奥おおおくにて年寄としよりとして次期じき将軍しょうぐん家斉いえなりつかえているものの、そのむかし家治いえはる御台所みだいどころ倫子ともこ中年寄ちゅうどしよりとしてつかえていた、あの高橋たかはしである。

 御台所みだいどころ食事しょくじ毒見どくみをもにな中年寄ちゅうどしよりのその職権しょっけん濫用らんよう毒見どくみかこつけては砒素ひそ食事しょくじ混入こんにゅう砒素ひそ中毒ちゅうどくによって倫子ともこいたらしめた高橋たかはし実兄じっけい平塚ひらつか喜右衛門きえもんであり、つまり大井おおい庄三郎しょうざぶろう高橋たかはしめいめとっていたのだ。

 それゆえ、この大井おおい庄三郎しょうざぶろうもまた、高橋たかはしさらには平塚ひらつか喜右衛門きえもんかいして治済はるさだいきがかかっていたのだ。

 そこで伊丹いたみ雅楽助うたのすけ将軍しょうぐん家治いえはるたいして、この大井おおい庄三郎しょうざぶろうげるや、

雅楽助うたのすけ推挙すいきょせしものなれば…」

 家治いえはる大井おおい庄三郎しょうざぶろうあらたに膳番ぜんばん召加めしくわえることにしたそうな。

 のみならず、今日きょう夕餉ゆうげより伊丹いたみ雅楽助うたのすけとも大井おおい庄三郎しょうざぶろう毒見どくみになわせようとも、家治いえはるめいじたそうな。

「されば…、今日きょうじゅうにも上様うえさまいのちを?」

 稲葉いなば正明まさあきら流石さすがおどろき、そのあまり、こえひそませてたずね、すると伊丹いたみ雅楽助うたのすけも「左様さよう…」とこえひそませてこたえた。

「してどくは…、如何いかなるどく所存しょぞんか?」

「されば…、最早もはや即効性そっこうせいどくかぎりますゆえに、斑猫はんみょうどくを…」

斑猫はんみょうもうさば、あの家基公いえもとこういのちうばいし?」

左様さよう…」

かるどく雅楽助うたのすけよ、そなた所持しょじしているともうすのか?」

「いえ…、流石さすがにこの雅楽助うたのすけは…、なれどぜん奉行ぶぎょうは…、それも高尾たかお惣十郎そうじゅうろう山木やまき次郎八じろはちなれば所持しょじしておりまする…」

「そは…、このときに…、上様うえさまいのち頂戴ちょうだいせしとき見越みこして高尾たかお惣十郎そうじゅうろう山木やまき次郎八じろはち、この二人ふたり日頃ひごろより斑猫はんみょうどくたせていたともうすのか?民部卿様みんぶのきょうさまは…」

 稲葉いなば正明まさあきらおそおそたずねた。

 正明まさあきら一橋ひとつばし治済はるさだの「共犯者きょうはんしゃ」であると自認じにんしていた。

 倫子ともこ萬壽姫ますひめ、そして家基いえもと毒殺どくさし、さらには意知暗殺おきともあんさつにもした。

 もっとも、意知暗殺おきともあんさつについては未遂みすいわったものの、ともあれ「共犯者きょうはんしゃ」であることにちがいはなかった。

 だがその正明まさあきらをしても、まさかに治済はるさだ家治暗殺いえはるあんさつにもそなえて、高尾たかお惣十郎そうじゅうろう山木やまき次郎八じろはち二人ふたりぜん奉行ぶぎょう日頃ひごろより斑猫はんみょうどく所持しょじさせていたとは初耳はつみみであった。

「されば今宵こよい…、夕餉ゆうげ毒見どくみにないしぜん奉行ぶぎょう都合つごういことに高尾たかお惣十郎そうじゅうろうなれば…」

 これよりただちに高尾たかお惣十郎そうじゅうろう屋鋪やしきへとあしはこんでは在宅ざいたくしているであろうあるじ高尾たかお惣十郎そうじゅうろうたいして、斑猫はんみょう使つかときたことをつたえる所存しょぞんであると、伊丹いたみ雅楽助うたのすけさら小声こごえ稲葉いなば正明まさあきら打明うちあけたのであった。

「されば稲葉いなばさま…、稲葉いなばさま今日きょうにも召捕めしとらえられることに相成あいなりましょうが、それもすこしの辛抱しんぼうにて…」

 成程なるほど、「主犯しゅはん」である一橋ひとつばし治済はるさだが「逮捕たいほ」されたうえは、治済はるさだくわだてた謀叛むほんともべる一連いちれん事件じけんすべてに関与かんよした「共謀きょうぼう共同きょうどう正犯せいはん」たる稲葉いなば正明まさあきらの「逮捕たいほ」も時間じかん問題もんだいであろう。

 が、「逮捕たいほ」を指揮しきする将軍しょうぐん家治いえはる今日きょうじゅうねばまだ、十分じゅうぶん逆転ぎゃくてん可能かのうであった。

 仮令たとえ逮捕たいほされたとしても、将軍しょうぐん家治いえはるんだとなれば、将軍職しょうぐんしょくぐのは次期じき将軍しょうぐんたる家斉いえなりいてほかにはいないからだ。

 無論むろん家治いえはるはやはり今日きょうじゅうにも家斉いえなり廃嫡はいちゃく、つまりは家斉いえなりとの養子ようし縁組えんぐみ解消かいしょうして、家斉いえなり次期じき将軍職しょうぐんしょくよりはいすると、そう宣言せんげんするであろうが、しかし実際じっさい家斉いえなり西之丸にしのまるから追出おいだすともなれば、その手続てつづきには時間じかんがかかり、その最中さなかいや、その手続てつづきにはいまえ家治いえはるんだとなれば、家斉いえなり廃嫡はいちゃく有耶無耶うやむやにすることが出来できる。

 家斉いえなり引続ひきつづ次期じき将軍しょうぐんとして西之丸にしのまる居座いすわつづけ、そしてときいて将軍職しょうぐんしょくおそい、本丸ほんまるへと乗込のりこむことが可能かのうであった。

 それゆえ伊丹いたみ雅楽助うたのすけ稲葉いなば正明まさあきらに、「すこしの辛抱しんぼう…」と言ったのだ。

 そしてそれは治済はるさだにもまることであった。

 さて、将軍しょうぐん家治いえはる大奥おおおくにてあさの「総触そうぶれ」をえると休息之間きゅうそくのまもどり、そば用取次ようとりつぎ召出めしだした。

 そば用取次ようとりつぎ休息之間きゅうそくのまへとあしはこぶとそこにはすで側用人そばようにん水野みずの忠友ただとも姿すがたがあり、家治いえはるはそこで、

臨時りんじ朝會ちょうえおこなう…」

 諸大名しょだいみょう緊急きんきゅう召集しょうしゅうするむねそば用取次ようとりつぎ申渡もうしわたしたのであった。

 ただし、すべての諸大名しょだいみょうではなく、松之大廊下まつのおおろうかづめ溜間たまりのまづめ大廣間おおひろまづめ帝鑑間ていかんのまづめ諸侯しょこうかぎるというものであった。。

 それも松之大廊下まつのおおろうかづめ諸侯しょこうとそれに溜間たまりのまづめ大廣間おおひろまづめ諸侯しょこうについては在府中ざいふちゅう―、この江戸えどにいる大名だいみょうであればその全員ぜんいん登城とじょうさせ、さら将軍しょうぐん家治いえはるへの目見得めみえませている嫡子ちゃくしもあればその嫡子ちゃくしとも登城とじょうさせることとし、かり国許くにもと帰国中きこくちゅうで、目見得めみえみの嫡子ちゃくしがいれば、その嫡子ちゃくしだけを登城とじょうさせることとした。

 一方いっぽう帝鑑間ていかんのまづめ諸侯しょこうかんしてはその一部いちぶだけを登城とじょうさせることとし、やはり在府中ざいふちゅう大名だいみょうかぎり、しかも成人嫡子せいじんちゃくしがいればその嫡子ちゃくしとも登城とじょうさせ、そうではなく国許くにもと帰国きこくちゅうでもやはり成人嫡子せいじんちゃくしがいればその嫡子ちゃくし登城とじょうさせるというものであった。

 そしてその「臨時りんじ朝会ちょうえ」だが、表向おもてむき白書院しろしょいんにておこない、そのかん―、「臨時りんじ朝会議ちょうえ」の最中さなかにおいては諸役人しょやくにん各々おのおの殿中でんちゅうせきにて心静こころしずかにひかえるようにともあわせてめいじた。

 家治いえはるのこのめいたいしてそば用取次ようとりつぎなかでも横田よこた準松のりとし本郷泰行ほんごうやすゆき二人ふたり戸惑とまどいの表情ひょうじょうかべてせたのとは好対照こうたいしょうに、稲葉いなば正明まさあきらなにもかもさっしているふうであった。

 事実じじつ稲葉いなば正明まさあきらは「臨時りんじ朝會ちょうえ」の意味いみするところをさっしていた。

治済はるさだ謀叛むほん加担かたんしたおれたちを逮捕たいほするため臨時りんじ朝會ちょうえだな…」

 正明まさあきらはそうさっしていた。

 その「逮捕たいほ」の会場ステージとして白書院しろしょいんえらばれたに相違そういない。

 そこでおそらくはいま小座敷之間こざしきのまにて身柄みがらさられているであろう治済はるさだも「スペシャルゲスト」として登場とうじょうてられるにちがいない。

 治済はるさだ伊丹いたみ雅楽助うたのすけ宿直とのいけるまではここ休息之間きゅうそくのまにて雅楽助うたのすけの「監視下かんしか」にかれ、そのなんと、この中奥なかおく小座敷之間こざしきのまにて一泊いっぱくしたらしい清水しみず重好しげよし松平まつだいら定信さだのぶ、そして田沼たぬま意知おきともへと治済はるさだの「監視かんし」が引継ひきつがれ、そのさい治済はるさだには家治いえはるめいによりなわたれたそうな。

 もっとも、如何いか将軍しょうぐん家治いえはるめいとはもうせ、三卿さんきょう一橋ひとつばし治済はるさだなわつことには意知おきとももとより定信さだのぶさえも躊躇ちゅうちょし、そこでおな三卿さんきょう清水しみず重好しげよし治済はるさだなわったそうな。

 そのうえ治済はるさだ重好しげよしにより小座敷之間こざしきのまへとてられ、定信さだのぶ意知おきともがそのあといてったそうな。このことは伊丹いたみ雅楽助うたのすけよりかされたことであった。

 さて、家治いえはるの「臨時りんじ朝會ちょうえ」の命令めいれいたいして、そば用取次ようとりつぎ直属ちょくぞく上司じょうしたる側用人そばようにん水野みずの忠友ただとも真先まっさきに、「かしこまりましてござりまする…」とおうじたことから、そば用取次ようとりつぎとしても、それにつづいて「かしこまりましてござりまする」とこたえるよりほかになかった。

 こうしてただちに「臨時りんじ朝會ちょうえ」のため諸々もろもろ手続てつづきがられ、白書院しろしょいんのそれも下段げだんかる大名だいみょう諸侯しょこうあるいはその成人嫡子せいじんちゃくしあつめられたのはひるの九つ半(午後1時頃)のことであった。

 ちなみにこのかん重好しげよし定信さだのぶ、そして意知おきともはずっと、休息之間きゅうそくのまよりもさらおく小座敷之間こざしきのまにて縄目なわめ治済はるさだ監視かんししていた。

 そして家治いえはる白書院しろしょいんのそれも下段げだん大名諸侯だいみょうしょこうおよびその成人嫡子せいじんちゃくしあつまったと、そのむねそば用取次ようとりつぎよりしらせがはいるや、そば用取次ようとりつぎには、とりわけ稲葉いなば正明まさあきらにはさき白書院しろしょいん上段じょうだんにてひかえているようめいじた。

 こうして家治いえはる稲葉いなば正明まさあきらほか横田よこた準松のりとし本郷泰行ほんごうやすゆき、それに松平まつだいら忠寄ただよりともにここ中奥なかおくより表向おもてむき白書院しろしょいんへといやると、水野みずの忠友ただとも三卿さんきょう家老かろう詰所つめしょへと差向さしむけ、治済はるさだ将軍しょうぐん家治いえはる狙撃そげきしようとしたくだんの「証拠品しょうこひん」をかかえて不寝番ねずのばんつとめていた一橋ひとつばし家老かろうはやし忠篤ただあつと、その忠篤ただあつ証拠湮滅しょうこいんめつはからぬようにと、やはり不寝番ねずのばんつとめていた清水家老しみずかろう本多ほんだ昌忠まさただ二人ふたり小座敷之間こざしきのまへとれてさせたのだ。

 家治いえはる自身じしん忠友ただとも三卿さんきょう家老かろう詰所つめしょへと差向さしむるや、そのかん小座敷之間こざしきのまへとあしはこび、そこで重好しげよし定信さだのぶ、そして意知おきともの3人、いや縄目なわめ治済はるさだふくめれば4人と合流ごうりゅうした。

 そしてそこへ忠友ただともが「証拠品しょうこひん」をかかえた一橋ひとつばし家老かろうはやし忠篤ただあつとそれを監視かんししていた清水家老しみずかろう本多ほんだ昌忠まさただ、この二人ふたり家老かろうともない、姿すがたせ、家治いえはる縄目なわめ治済はるさだ先頭せんとうに、表向おもてむき白書院しろしょいんへとかった。これで治済はるさだうしろにこうものならされるやもれなかったからだ。

 一方いっぽう、このとき白書院しろしょいん下段げだんにおいては松之大廊下まつのおおろうかなかでも上之部屋かみのへやめる御三家ごさんけ筆頭ひっとうとする大名だいみょう諸侯しょこうおよびその嫡子ちゃくしひかえていた。

 すなわち、尾張おわり大納言だいなごん宗睦むねちかとその嫡子ちゃくし中将ちゅうじょう治行はるゆき紀伊きい中納言ちゅうなごん治貞はるさだ嫡子ちゃくし中将ちゅうじょう治寶はるとみ水戸みと宰相さいしょう治保はるもり御三家ごさんけ真前まんまえひかえ、その真後まうしろには松之大廊下まつのおおろうか下之部屋しものへやめる福井ふくい藩主はんしゅ松平まつだいら越前守えちぜんのかみ重富しげとみとその嫡子ちゃくし伊豫守いよのかみ治好はるよし矢田やだ藩主はんしゅ松平まつだいら左兵衛督さひょうえのすけ信成のぶしげ大名諸侯だいみょうしょこうおよびその嫡子ちゃくしひかえていた。

 この松之大廊下まつのおおろうか下之部屋しものへやづめつづいて居並いならぶのは彦根ひこね藩主はんしゅ井伊いい掃部頭かもんのかみ直幸なおひでとその嫡子ちゃくし玄蕃頭げんばのかみ直富なおとみ高松藩主たかまつはんしゅ松平まつだいら讃岐守さぬきのかみ頼起よりおき会津あいづ藩主はんしゅ松平まつだいら肥後守ひごのかみ容頌かたのぶ嫡子ちゃくし駿河守するがのかみ容詮かたさだ溜間たまりのまづめ大名諸侯だいみょうしょこうおよびその嫡子ちゃくしであった。

 それからさらに、高須たかす藩主はんしゅ松平まつだいら摂津守せっつのかみ義裕よしひろ津山つやま藩主はんしゅ松平まつだいら越後守えちごのかみ康致やすむね河越藩主かわごえはんしゅ松平まつだいら大和守やまとのかみ直恒なおつね明石あかし藩主はんしゅ松平まつだいら左兵衛督さひょうえのすけ直泰なおひろ薩摩さつま藩主はんしゅ松平まつだいら薩摩守さつまのかみ重豪しげひで仙台藩主せんだいはんしゅ松平まつだいら陸奥守むつのかみ重村しげむら宇和島うわじま藩主はんしゅ伊達だて遠江守とおとうみのかみ村候むらとき嫡子ちゃくし大膳大夫たいぜんだゆう村壽むらひさ熊本藩主くまもとはんしゅ細川ほそかわ越中守えっちゅうのかみ重賢しげかたとその嫡子ちゃくし中務大輔なかつさかだいすけ治年はるとし萩藩主はぎはんしゅ松平まつだいら大膳大夫たいぜんだゆう治親はるちか鳥取藩主とっとりはんしゅ松平まつだいら相模守さがみのかみ治道はるみち岡山藩主おかやまはんしゅ松平まつだいら内蔵頭くらのかみ治政はるまさ徳嶋藩主とくしまはんしゅ松平まつだいら阿波守あわのかみ治昭はるあき久留米くるめ藩主はんしゅ有馬ありま中務大輔なかつかさだいすけ頼貴よりたか米澤藩主よねざわはんしゅ上杉うえすぎ弾正大弼だんじょうだいひつ治憲はるのり嫡子ちゃくし治廣はるひろ柳河藩主やながわはんしゅ立花たちばな左近将監さこんのしょうげん鑑通あきみち嫡子ちゃくし丹後守たんごのかみ鑑門あきかど二本松にほんまつ藩主はんしゅ丹羽にわ加賀守かがのかみ長貴ながたかおよ定府じょうふ―、つねにこの江戸えどにいる西條さいじょう藩主はんしゅ松平まつだいら左京大夫さきょうだゆう頼謙よりかた田村たむら郡守山藩主ぐんもりやまはんしゅ松平まつだいら大學頭だいがくのかみ頼亮よりあきら新治郡府中藩主にいはりぐんふちゅうはんしゅ松平まつだいら播磨守はりまのかみ頼済よりすみとその嫡子ちゃくし雅楽頭うたのかみ頼勇よりをといった大廣間おおひろまづめ大名諸侯だいみょうしょこうおよびその嫡子ちゃくし溜間たまりのまづめ真後まうしろにひかえ、そして最後さいご一部いちぶ帝鑑間ていかんのまづめすなわち、保科ほしな弾正忠だんじょうちゅう正率まさのり松代藩主まつしろはんしゅ眞田さなだ伊豆守いずのかみ幸弘ゆきひろ今治藩主いまばりはんしゅ松平まつだいら河内守かわちのかみ定奉さだとも郡山こおりやま藩主はんしゅ松平まつだいら甲斐守かいのかみ保明やすあきら高田たかだ藩主はんしゅ榊原さかきばら式部大輔しきぶだいすけ政一まさかず嫡子ちゃくし兵部大輔ひょうぶだいすけ政敦まさあつ松本藩主まつもとはんしゅ松平まつだいら若狭守わかさのかみ光悌みつよし府内ふない藩主はんしゅ松平まつだいら長門守ながとのかみ近儔ちかとも上田うえだ藩主はんしゅ松平まつだいら伊賀守いがのかみ忠済ただまさ挙母ころも藩主はんしゅ内藤ないとう右近将監うこんのしょうげん學文さとふみ新庄しんじょう藩主はんしゅ戸澤とざわ主計頭かずえのかみ正良まさすけ中村藩主なかむらはんしゅ相馬そうま因幡守いなばのかみ祥胤よしたね亀山藩主かめやまはんしゅ石川いしかわ日向守ひゅうがのかみ總博ふさひろ龍野たつの藩主はんしゅ脇坂わきさか淡路守あわじのかみ安親やすちか岸和田きしわだ藩主はんしゅ岡部おかべ美濃守みののかみ長備ながとも三春みはる藩主はんしゅ秋田あきた信濃守しなののかみ干季ゆきすえ沼田ぬまた藩主はんしゅ土岐とき美濃守みののかみ定吉さだよし横須賀よこすか藩主はんしゅ西尾にしお隠岐守おきのかみ忠移ただゆき高取藩主たかとりはんしゅ植村うえむら右衛門佐うえもんのすけ家利いえとし田原たはら藩主はんしゅ三宅みやけ備前守びぜんのかみ康武やすたけ、それにやはり定府じょうふである松平まつだいら大炊頭おおいのかみ頼救よりすけ糸魚川いといがわ藩主はんしゅ松平まつだいら日向守ひゅうがのかみ直紹なおつぐ松平まつだいら兵庫頭ひょうごのかみ直行なおゆき蒲原郡黒川藩主かんばらぐんくろかわはんしゅ柳澤やなぎさわ伊勢守いせのかみ信有のぶとう三日市みっかいち藩主はんしゅ柳澤やなぎさわ信濃守しなののかみ里光さとみ三草みくさ藩主はんしゅ丹羽にわ長門守ながとのかみ氏福うじよし堅田かただ藩主はんしゅ堀田ほった若狭守わかさのかみ正富まさとみ宮川藩主みやがわはんしゅ堀田ほった豊前守ぶぜんのかみ正穀まさよしといった大名諸侯だいみょうしょこうおよびその嫡子ちゃくしひかえていた。

 家治一行いえはるいっこうはそのよう彼等かれら下段げだん居並いならなか縄目なわめ治済はるさだてて上段じょうだん登場とうじょうしたことから、下段げだん居並いなら彼等かれらおどろいたのは言うまでもない。

 そこで家治いえはるみずからのくちから治済はるさだのこれまでの「謀叛むほん」の数々かずかずについて説明せつめいすると、治済はるさだあずけさきとして尾張家おわりけ指定してい一方いっぽう、「共犯者きょうはんしゃ」であるそば用取次ようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきらあずけさきとして紀伊家きいけ指定していした。

 大名だいみょうである、それも大大名だいだいみょうである島津しまづ重豪しげひで筆頭ひっとうに、松平まつだいら重富しげとみ稲葉いなば正明まさあきらといった、

だたる…」

 大名だいみょうくわえて、家禄かろくが500石をえる旗本はたもと多数たすう治済はるさだの「謀叛むほん」に加担かたんしており、その場合ばあい彼等かれら小傳馬町こでんまちょうろう屋敷やしきではなく、大名だいみょう屋敷やしきにその身柄みがらあずけられることになる。

 しかも事件じけん重大性じゅうだいせいかんがみれば、おあずさき大名だいみょう屋敷やしきにしてももそれに相応ふさわしいものでなければならない。

 すなわち、御三家ごさんけ筆頭ひっとうとする松之大廊下まつのおおろうかづめや、幕府ばくふ政治顧問せいじこもんかく溜間たまりのまづめあるいは有力大名ゆうりょくだいみょうめられる大廣間おおひろまづめ古来こらい譜代ふだい大名だいみょうめられる帝鑑間ていかんのまづめといった諸侯しょこう屋敷やしきが「おあずけさき」に相応ふさわしい。

 さて、白書院しろしょいん上段じょうだんにてはそば用取次ようとりつぎひかえており、そのなかでも稲葉いなば正明まさあきらかる「謀叛むほん」に加担かたんしていたとあって―、将軍しょうぐん家治いえはるよりそうかされて、ほか横田よこた準松のりとし本郷泰行ほんごうやすゆき仰天ぎょうてんしたのは言うまでもない。

 横田よこた準松のりとしにしろ、本郷泰行ほんごうやすゆきにしろ、稲葉いなば正明まさあきらをまじまじと見詰みつめたものである。

 下段げだんにおいてもそれは同様どうようであった。

 下段げだん召集しょうしゅうされた大名だいみょう諸侯しょこうなかにも治済はるさだ謀叛むほん加担かたんしたものがおり、それも福井ふくい藩主はんしゅ松平まつだいら重富しげとみ薩摩さつま藩主はんしゅ島津しまづ重豪しげひでとあっては、下段げだん騒然そうぜんとなったのは言うまでもない。

 そんななか将軍しょうぐん家治いえはるはまず、松平まつだいら重富しげとみについては津山つやまはん松平まつだいらをおあずけさきとし、一方いっぽう島津しまづ重豪しげひでについては仙台藩せんだいはん伊達家だてけをおあずさきとして夫々それぞれ指定していした。

 これにたいして津山つやま藩主はんしゅ松平まつだいら康致やすむねにしろ、仙台せんだい藩主はんしゅ伊達だて重村しげむらにしろ、勿論もちろん、あくまで内心ないしんにおいてだが、狂喜きょうき乱舞らんぶしたことは言うまでもない。

 なにしろ松平まつだいら康致やすむね松平まつだいら重富しげとみの、伊達だて重村しげむら島津しまづ重豪しげひでの、夫々それぞれ、ライバルであったからだ。

 すなわち、松平まつだいら康致やすむね松平まつだいら重富しげとみとは、

「どちらが越前えちぜん松平家まつだいらけ宗家そうけか…」

 つまりは康致やすむね当主とうしゅつとめる津山つやま松平家まつだいらけこそが越前えちぜん松平家まつだいらけ宗家そうけであるか、それとも重富しげとみ当主とうしゅつとめる福井ふくい松平家まつだいらけこそが越前えちぜん松平家まつだいらけ宗家そうけであるか、それをめぐってあらそっていたのだ。

 また伊達だて重村しげむら島津しまづ重豪しげひでとは家格かかくめぐって熾烈しれつ競争きょうそういや狂騒きょうそうえんじていた。

 かくして松平まつだいら康致やすむねにしろ伊達だて重村しげむらにしろ失脚しっきゃくいや失脚しっきゃくなどとそのよう生易なまやさしい言葉ことばではまされない、たまわるのは間違まちがいないライバルの身柄みがらあずかれるとあっては、二人ふたり狂喜きょうき乱舞らんぶするのも当然とうぜんであった。

 また諸悪しょあく根源こんげんとも言うべき「大罪人たいざいにん」の一橋ひとつばし治済はるさだ身柄みがらについては尾張家おわりけにてあずかってもらうこととした。

 なにしろ治済はるさだ天下てんが将軍家しょうぐんけ三卿さんきょうであり、そのよう治済はるさだ身柄みがらあずかれるのは御三家ごさんけ筆頭ひっとうたる尾張家おわりけいてほかにはいないであろう。

 またそば用取次ようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきら身柄みがらについては紀伊家きいけにてあずかってもらうこととした。

 稲葉いなば正明まさあきら治済はるさだくわだてたすべての「謀叛むほん」に加担かたんしており、そのよう正明まさあきら身柄みがらあずけるとしたならば、尾張家おわりけ御三家ごさんけ紀伊家きいけいてほかにはない。

 それから意知暗殺おきともあんさつした―、佐野さの善左衛門ぜんざえもん確実かくじつ意知おきとも仕留しとめさせるべく、立回たちまわった若年寄わかどしより筆頭ひっとう酒井さかい忠休ただよし身柄みがら水戸家みとけに、おなじく若年寄わかどしより太田おおた資愛すけよし身柄みがら矢田やだ松平家まつだいらけ夫々それぞれあずけることとした。

 さら意知暗殺おきともあんさつした留守居るすい太田おおた資倍すけます身柄みがら彦根ひこね井伊家いいけに、大目付おおめつけ松平まつだいら忠郷たださと身柄みがら高松たかまつ松平家まつだいらけ夫々それぞれあずけることとした。

 すで老中ろうじゅうひるまわりはえ、留守居るすい太田おおた資倍すけますひるまわりにおける殿中でんちゅうせきである中之間なかのまめていた。

 将軍しょうぐん家治いえはるめいにより中之間なかのまにはほかにも大目付おおめつけ町奉行まちぶぎょう勘定かんじょう奉行ぶぎょうやそれに作事さくじ普請ふしん小普請こぶしん奉行ぶぎょうめたままであった。

 家治いえはるはその中之間なかのまへと小姓こしょう組番ぐみばんおよ書院番しょいんばん差向さしむけては大目付おおめつけ松平まつだいら忠郷たださとを「逮捕たいほ」させた。

 そしてこのとき中之間なかのまにて「逮捕たいほ」されたのは松平まつだいら忠郷たださととどまらない。

 普請ふしん奉行ぶぎょう岩本正利いわもとまさとしも「逮捕たいほ」された。

 ちなみにおなじく意知暗殺おきともあんさつした留守居るすい太田おおた資倍すけますだが、今日きょう宿直とのいということで、まだ登城とじょうしておらず、そこでおなじく留守居るすいにして日勤にっきん、それも朝番あさばん高井たかい土佐守とさのかみ直熈なおひろ資倍すけます屋鋪やしきへと差向さしむけた。

 留守居るすいには夫々それぞれ與力よりき10騎、同心どうしん50人がはいされており、そこで将軍しょうぐん家治いえはるより直々じきじき相役あいやく同僚どうりょう留守居るすい太田おおた資倍すけますの「逮捕たいほ」をめいぜられた高井たかい直熈なおひろ與力よりき50騎、同心どうしん50人をしたがえて、資倍すけます屋鋪やしきへと「逮捕たいほ」にかったのだった。

 このことは小普請こぶしんぐみ支配しはい中坊なかのぼう金蔵きんぞうにもまり、家治いえはる小姓こしょうぐみ4番組ばんぐみたばねる番頭ばんがしら松平まつだいら志摩守しまのかみ乗展のりのぶ中坊なかのぼう金蔵きんぞうの「逮捕たいほ」をめいじ、すると松平まつだいら乗展のりのぶもそれをけて與力よりき10騎、同心どうしん20人をしたがえて中坊なかのぼう金蔵きんぞう屋鋪やしきへと「逮捕たいほ」にかったのであった。

 また意知暗殺おきともあんさつした目附めつけ井上正在いのうえまさあり末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんにしてもいまはまだ登城とじょうしておらず、そこで家治いえはるはこの二人ふたり目附めつけについては先手さきて鉄砲てっぽうがしら杉浦すぎうら長門守ながとのかみ勝興かつおき土方ひじかた宇源太うげんた勝芳かつよし夫々それぞれ、「逮捕たいほ」を命《めい》じ、杉浦勝興すぎうらかつおき井上正在いのうえまさあり屋鋪やしきへと與力よりき10騎、同心どうしん50人をしたがえて、一方いっぽう土方ひじかた宇源太うげんた末吉すえよし善左衛門ぜんざえもん屋鋪やしきへと與力よりき7騎、同心どうしん30人をしたがえて、夫々それぞれ、「逮捕たいほ」にかった。

 ところで先手さきてがしらと言えば人体実験じんたいじっけん協力きょうりょくした先手さきてゆみがしら市岡いちおか左大夫さだゆうかんしては、持筒頭もちづつがしら水野みずの弾正だんじょう勝羨かつなかにその「逮捕たいほ」をめいじ、水野みずの弾正だんじょう完全かんぜん武装ぶそううえ與力よりき10騎、同心どうしん50人をしたがえて、役宅やくたくねた市岡いちおか左大夫さだゆう屋鋪やしきへと「逮捕たいほ」にかった。

 ちなみにおなじく人体実験じんたいじっけん協力きょうりょくした先手さきてゆみがしら飯塚いいづか勘解由かげゆ先手さきて鉄砲てっぽうがしら中島なかじま久右衛門きゅうえもん二人ふたりはこのときすで歿ぼっしていたので、「被疑者ひぎしゃ死亡しぼう」のあつかいせざるをなかった。

 それから意知暗殺おきともあんさつ協力きょうりょくした新番しんばんがしら松平まつだいら忠香ただよしかんしては、すべてのつみみとめていることから、とりあえず「逮捕たいほ」はせずに謹慎きんしん在宅ざいたくでの捜査そうさとした。

 そしてほかにも治済はるさだの「謀叛むほん」に加担かたんしたものがおり、彼等かれらほか書院番しょいんばんがしら小姓こしょう組番ぐみばんがしらあるいは百人ひゃくにんぐみがしら持筒頭もちづつがしらなどのによって―、実際じっさいにはその配下はいか與力よりき同心どうしんによって「逮捕たいほ」されたのであった。

 ところで治済はるさだの「謀叛むほん」に加担かたんしたもの西之丸にしのまるにもおおくおり、たとえば西之丸にしのまる用取次ようとりつぎ小笠原おがさわら信喜のぶよしがそうであった。

 小笠原おがさわら信喜のぶよし稲葉いなば正明まさあきらいで治済はるさだの「|謀叛{むほん》」に加担かたんしていた。

 信喜のぶよし倫子ともこおよ萬壽姫ますひめ毒殺どくさつ事件じけんこそ関与かんよしてはいなかったが、しかしそのあと家基毒殺いえもとどくさつ事件じけんならびに意知暗殺おきともあんさつ未遂事件みすいじけんには関与かんよしていた。

 また西之丸にしのまる大奥おおおくには次期じき将軍しょうぐん家斉いえなり母堂ぼどうとみおよ次期じき将軍しょうぐん家斉附いえなりづき武家ぶけけい年寄としよりである大崎おおさき高橋たかはし筆頭ひっとうに、倫子ともこおよ萬壽姫ますひめ毒殺どくさつ関与かんよした奥女中おくじょちゅう多数たすうおり、そこで家治いえはる彼等かれら彼女等かのじょらの「逮捕たいほ」については大目付おおめつけ久松ひさまつ筑前守ちくぜんのかみ定愷さだたかに「逮捕たいほ」の指揮しきらせることとした。

 それと言うのも今日きょう、3月25日は西之丸にしのまるめる大目付おおめつけ久松定愷ひさまつさだたかであるからだ。

 そのうえ小笠原おがさわら信喜のぶよしかんしては西之丸にしのまる書院番しょいんばんがしら水谷みずのや伊勢守いせのかみ勝久かつひさに「逮捕たいほ」させ、一方いっぽう西之丸にしのまる大奥おおおくへは西之丸にしのまる留守居るすい牧野まきの長門守ながとのかみ成久しげひさ先導せんどうもとはた奉行ぶぎょう安藤あんどう弾正少弼だんじょうしょうひつ惟要これとしやり奉行ぶぎょう渡邊わたなべ圖書頭ずしょのかみ貞綱さだつな、そして持弓頭もちゆみがしら秋山あきやま十右衛門じゅうえもん正直まさなお夫々それぞれ配下はいか與力よりき同心どうしんしたがえて大奥おおおくへと立入たちいった。

 それだけでも大奥おおおく騒乱そうらん状態じょうたいであったが、しかしそれが将軍しょうぐん家治いえはるの「御意ぎょい」ともなれば、大奥おおおくまもるべき男子だんし役人やくにん、それも番方ばんかた武官ぶかんである廣敷ひろしき番之頭ばんのかしらやその配下はいかにしても彼等かれらの「逮捕たいほ」に手出てだしは出来できず、家斉いえなり母堂ぼどうとみやそれに大崎おおさき高橋たかはしたち奥女中おくじょちゅう―、倫子ともこ萬壽姫ますひめ毒殺どくさつ関与かんよした奥女中おくじょちゅう抵抗ていこうむなしく「逮捕たいほ」された。

 いや、まだ一箇所いっかしょ、「逮捕たいほ」にかわねばならない場所ばしょがあった。

 それは一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしきであり、そこには治済はるさだ謀叛むほん加担かたんしたとおもわれる家臣かしん多数たすういるにちがいなかった。

 いや家老かろうのぞいたすべての一橋ひとつばし家臣かしん治済はるさだの「謀叛むほん」に関与かんよしているにちがいなく、そこで家治いえはる大番おおばんぐみ一橋ひとつばし上屋敷かみやしきへと差向さしむけることにした。

 すなわち、1番組ばんぐみたばねる大久保おおくぼ下野守しもつけのかみ忠恕ただみと、その「相棒あいぼう」の6番組ばんぐみたばねる杉浦すぎうら出雲守いずものかみ正勝まさかつならびに4番組ばんぐみたばねる永井ながい信濃守しなののかみ直温なおあつとやはりその「相棒あいぼう」の8番組ばんぐみたばねる水野みずの壱岐守いきのかみ忠韶ただてる、この4人の大番頭おおばんがしらたいして家治いえはる家老かろうのぞすべての一橋ひとつばし家臣かしん逮捕たいほめいじたのであった。

 大番組おおばんぐみには旗本はたもと組頭くみがしら4人に、おなじく旗本はたもと番士ばんし50人、それに御家人ごけにん與力よりき10騎に同心どうしん20人がはいされており、それを4組も一橋家ひとつばしけへと差向さしむけたのであった。

 それもこれもひとえに「不測ふそく事態じたい」にそなえてのものである。

 なにしろ相手あいて将軍家しょうぐんけ三卿さんきょうたる一橋家ひとつばしけ家臣かしんである。

 如何いか将軍しょうぐん家治いえはるめいにより「逮捕たいほ」、召捕めしとるといっても、いざ「逮捕たいほ」、召捕めしとりのだんになって抵抗ていこうするともかぎらない。

 そこで家治いえはるは4組もの大番組おおばんぐみを、しかも今度こんど旗本はたもと番士ばんしまでも一橋家ひとつばしけへと差向さしむけたのであった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

保健室の秘密...

とんすけ
大衆娯楽
僕のクラスには、保健室に登校している「吉田さん」という女の子がいた。 吉田さんは目が大きくてとても可愛らしく、いつも艶々な髪をなびかせていた。 吉田さんはクラスにあまりなじめておらず、朝のHRが終わると帰りの時間まで保健室で過ごしていた。 僕は吉田さんと話したことはなかったけれど、大人っぽさと綺麗な容姿を持つ吉田さんに密かに惹かれていた。 そんな吉田さんには、ある噂があった。 「授業中に保健室に行けば、性処理をしてくれる子がいる」 それが吉田さんだと、男子の間で噂になっていた。

体育教師に目を付けられ、理不尽な体罰を受ける女の子

恩知らずなわんこ
現代文学
入学したばかりの女の子が体育の先生から理不尽な体罰をされてしまうお話です。

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原

糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。 慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。 しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。 目指すは徳川家康の首級ただ一つ。 しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。 その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。

小沢機動部隊

ypaaaaaaa
歴史・時代
1941年4月10日に世界初の本格的な機動部隊である第1航空艦隊の司令長官が任命された。 名は小沢治三郎。 年功序列で任命予定だった南雲忠一中将は”自分には不適任”として望んで第2艦隊司令長官に就いた。 ただ時局は引き返すことが出来ないほど悪化しており、小沢は戦いに身を投じていくことになる。 毎度同じようにこんなことがあったらなという願望を書き綴ったものです。 楽しんで頂ければ幸いです!

色は変わらず花は咲きけり〜平城太上天皇の変

Tempp
歴史・時代
奈良の都には梅が咲き誇っていた。 藤原薬子は小さい頃、兄に会いに遊びに来る安殿親王のことが好きだった。当時の安殿親王は皇族と言えども身分は低く、薬子にとっても兄の友人という身近な存在で。けれども安殿親王が太子となり、薬子の父が暗殺されてその後ろ盾を失った時、2人の間には身分の差が大きく隔たっていた。 血筋こそが物を言う貴族の世、権謀術数と怨念が渦巻き血で血を洗う都の内で薬子と安殿親王(後の平城天皇)が再び出会い、乱を起こすまでの話。 注:権謀術数と祟りと政治とちょっと禁断の恋的配分で、壬申の乱から平安京遷都が落ち着くまでの歴史群像劇です。 // 故里となりにし奈良の都にも色はかはらず花は咲きけり (小さな頃、故郷の平城の都で見た花は今も変わらず美しく咲いているのですね) 『古今和歌集』奈良のみかど

我らの輝かしきとき ~拝啓、坂の上から~

城闕崇華研究所(呼称は「えねこ」でヨロ
歴史・時代
講和内容の骨子は、以下の通りである。 一、日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。 二、日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。 三、ロシアは樺太を永久に日本へ譲渡する。 四、ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。 五、ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。 六、ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。 そして、1907年7月30日のことである。

東洲斎写楽の懊悩

橋本洋一
歴史・時代
時は寛政五年。長崎奉行に呼ばれ出島までやってきた江戸の版元、蔦屋重三郎は囚われの身の異国人、シャーロック・カーライルと出会う。奉行からシャーロックを江戸で世話をするように脅されて、渋々従う重三郎。その道中、シャーロックは非凡な絵の才能を明らかにしていく。そして江戸の手前、箱根の関所で詮議を受けることになった彼ら。シャーロックの名を訊ねられ、咄嗟に出たのは『写楽』という名だった――江戸を熱狂した写楽の絵。描かれた理由とは? そして金髪碧眼の写楽が江戸にやってきた目的とは?

吉宗のさくら ~八代将軍へと至る道~

裏耕記
歴史・時代
破天荒な将軍 吉宗。民を導く将軍となれるのか ――― 将軍?捨て子? 貴公子として生まれ、捨て子として道に捨てられた。 その暮らしは長く続かない。兄の不審死。 呼び戻された吉宗は陰謀に巻き込まれ将軍位争いの旗頭に担ぎ上げられていく。 次第に明らかになる不審死の謎。 運命に導かれるようになりあがる吉宗。 将軍となった吉宗が隅田川にさくらを植えたのはなぜだろうか。 ※※ 暴れん坊将軍として有名な徳川吉宗。 低迷していた徳川幕府に再び力を持たせた。 民の味方とも呼ばれ人気を博した将軍でもある。 徳川家の序列でいくと、徳川宗家、尾張家、紀州家と三番目の家柄で四男坊。 本来ならば将軍どころか実家の家督も継げないはずの人生。 数奇な運命に付きまとわれ将軍になってしまった吉宗は何を思う。 本人の意思とはかけ離れた人生、権力の頂点に立つのは幸運か不運なのか…… 突拍子もない政策や独創的な人事制度。かの有名なお庭番衆も彼が作った役職だ。 そして御三家を模倣した御三卿を作る。 決して旧来の物を破壊するだけではなかった。その効用を充分理解して変化させるのだ。 彼は前例主義に凝り固まった重臣や役人たちを相手取り、旧来の慣習を打ち破った。 そして独自の政策や改革を断行した。 いきなり有能な人間にはなれない。彼は失敗も多く完全無欠ではなかったのは歴史が証明している。 破天荒でありながら有能な将軍である徳川吉宗が、どうしてそのような将軍になったのか。 おそらく将軍に至るまでの若き日々の経験が彼を育てたのだろう。 その辺りを深堀して、将軍になる前の半生にスポットを当てたのがこの作品です。 本作品は、第9回歴史・時代小説大賞の参加作です。 投票やお気に入り追加をして頂けますと幸いです。

処理中です...