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一橋治済包囲網。
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家治は御休息之間より治済を退がらせると、その場に陪席していた側用人の水野忠友に対して意知に刃傷に及んだ番士、こと新番士の佐野善左衛門を召出すよう命じた。
佐野善左衛門は今、表向の芙蓉之間において目附の山川貞幹と池田修理の取調べを受けており、間もなく辰ノ口の評定所へと移送される筈であった。
佐野善左衛門の身柄は最終的には小傳馬町の牢屋鋪へと移送されるが、その為には町奉行が発行する入牢証文が必要であった。
入牢証文とは謂わば勾留状の様なものであり、それがなければ何人たりとも牢屋鋪へは収容出来ない。
その入牢証文が発給されるまでの間、佐野善左衛門の身柄はとりあえず、辰ノ口の評定所の仮牢に留置かれることとなる。
将軍・家治としてはその前に自ら、狼藉者を、即ち、佐野善左衛門を糺したいと、そう考えてここ、御休息之間へと召出すよう、側用人の忠友に命じたのであった。
だがこれには忠友も流石に難色を示した。
殿中にて若年寄に斬り掛かった者を将軍が自ら詮議するなど前代未聞であったからだ。
「前代未聞と申すのであらば、意知が襲われし折、意知の廻りには留守居や大目付らがいたにもかかわらず誰も助けようとはせなんだ…、その一事を以ってして十分に前代未聞であろうがっ!否、その前に、意知と並んで歩いていた相役の若年寄の酒井石見や太田備後、米倉丹後らに至っては、意知を見捨てて奥右筆詰所へと逃込み、あまつさえ、内から詰所の襖を堅く閉じては意知が詰所へと逃込まぬ様にしたそうではないかっ!」
それらの事情は中奥小姓の津田信久より奥右筆の安藤長左衛門、更に側用人の水野忠友を介して将軍・家治へと伝えられたことであった。
「旗本を差配せし若年寄が斯かる無様なる醜態を晒しただけでも十分に前代未聞であろうがっ!」
そうであれば今更、将軍が自ら狼藉者を糺したところで何の不都合があろうかと、家治は忠友にそう迫ったのであった。
これには忠友も流石に反論のしようがなく、そこで家治の希望通り、佐野善左衛門をここ御休息之間に連れて来ることにした。
するとそこへ御側御用取次の横田準松が姿を見せ、清水重好が面会を求めている旨、家治に取次いだ。
そこで家治は直ちに面会を許した。
「詮議の場に重好を陪席させるのも良いかも知れぬ…」
佐野善左衛門に対する詮議の場に重好をも陪席させれば適宜、重好から貴重な進言を得られるやも知れぬと、家治はそう考えて重好の面会を許したのであった。
こうして忠友が佐野善左衛門を連れて来るべく席を立ち、御休息之間をあとにする一方、横田準松は重好を御休息之間へと連れて来た。
家治は重好に対しては治済の時とは異なり下段に、それも家治が鎮座する上段と下段との閾近くにまで進ませた。
家治はその上で、重好に対して治済との「やり取り」の一部始終を語って聞かせた上で、ここ御休息之間に意知に刃傷に及んだ狼藉者を―、佐野善左衛門を召出すことも伝えた。
「治済めに唆されて意知に刃傷に及びしに相違なく、必ずや治済の名を引出してみせようぞ…、されば重好よ、そなたも力を致して貰いたい…」
家治は重好に詮議への協力を求め、それに対して重好も「ははぁっ」と平伏して応じた。
それから暫くしてから忠友が佐野善左衛門を随いて御休息之間へと戻って来た。
否、姿を見せたのは佐野善左衛門だけではない。佐野善左衛門の両脇には目附の山川貞幹と池田修理がおり、山川貞幹と池田修理は夫々、佐野善左衛門の腕を取っていた。
そして山川貞幹と池田修理は夫々、佐野善左衛門の腕を取りつつ、御休息之間下段に面した入頬に着座した。そこは今しがたまで一橋治済が着座していた場でもあった。
忠友も今度は下段ではなく、佐野善左衛門たちが控える入頬に着座したところで、家治はまずは「あっ」と声を上げた。
入頬に意知を襲った狼藉者が着座したことで、否、正確には山川貞幹と池田修理の二人の目附によって着座させられたことで、上段に鎮座する家治と向かい合った訳だが、家治にはその狼藉者の顔に見覚えがあったからだ。
「そなたは確か…、去年の師走…、木下川への放鷹の折、供弓として扈従せし新番士の佐野善左衛門ではあるまいか…」
その折、佐野善左衛門は雁を仕留めてはいないにもかかわらず、雁を仕留めたと言張っては、戦功認定に当たる目附の池田修理のその認定にも家治の御前において異議を唱えたので、家治も良く覚えていた。
それは佐野善左衛門の右腕を取っていた池田修理にしても同様であり、池田修理は相変わらず佐野善左衛門の右腕を取ったまま、「御意」と応ずるや、
「されば新番3番組に属せし佐野善左衛門政言にて…」
家治にそう「紹介」した。
山川貞幹にしろ池田修理にしろ、佐野善左衛門の腕を取ったまま着座し、今もってその姿勢を保っていたので、将軍・家治と向かい合っても平伏しようにも出来なかった。
それは二人に両腕を取られたまま着座させられた佐野善左衛門にしても同様で、本来ならば―、いつもの他者への気遣いの出来る家治なれば山川貞幹と池田修理の両名に対して佐野善左衛門の「警め」を解く様、命じていたことであろう。
だが、大事な家臣を疵付けられた今、家治はそこまで寛大な気持ちにはなれなかった。意知を疵付けた佐野善左衛門にまで気遣いを見せられる程、家治はそこまで聖人君子ではない。
家治は山川貞幹と池田修理の両目附に佐野善左衛門の腕を取らせたまま尋問を始めた。
「左様か…、して佐野善左衛門はそなたらの穿鑿に何と申開き致したか?」
家治は佐野善左衛門の「供述」について尋ねた。
するとこれには山川貞幹が答えた。
即ち、佐野善左衛門は若年寄の田沼意知から供弓にしてやるからと、そう唆されて620両もの賂に加えて系図まで巻上げられ、それで意知に刃傷に及んだのだと、山川貞幹と池田修理の取調べにそう供述したそうな。
仮にその供述が事実であるとするならば、意知にも責められるべきところがあったことになる。
だが家治には俄かには信じられなかった。
それは重好も同様だったらしく、重好は「上様」と家治に声を掛けると、気になる点があるので、その点を佐野善左衛門に糺しても良いかと、その許しを求めたのであった。
家治としては重好には正にそれを期待していたので、勿論、これを許した。
「されば…、佐野善左衛門とやら…、620両と申さば大金であるが、それをそなたは直に意知に渡したのか?それとも幾度かに分けて意知に渡したのか?」
重好のその問い掛けに対して、佐野善左衛門は初め、答えるべきかどうか逡巡した。それは佐野善左衛門は清水重好とはこれまで面と向かって顔を合わせたことはなく、つまりは誰であるのか分からなかったからだ。
するとそうと察した家治がそんな佐野善左衛門に対して、
「余が実の弟…、清水重好なるぞ…」
御三卿の清水重好であると、そう紹介したことから、佐野善左衛門も重好の問いなれば答えぬ訳には参らぬと、そう思い定めて正直に答えた。
即ち、まず初めに50両、次いで200両、そして最後に370両、3回に分けて意知に贈ったことを佐野善左衛門は供述した。
「されば3回に亘り、そなたが直接に意知へと賂を手渡したのだな?」
重好が念押しする様にそう確かめるや、佐野善左衛門は「いえ…」と自信無げに答えた。
すると重好はそれを見逃さず、「違うのか?」と畳掛けた。
佐野善左衛門はどう答えたら良いものか逡巡している様子がありありで、そこで重好はそんな佐野善左衛門の背中を押すべく、「拷問」を匂わせた。
「のう、善左衛門よ…、意知は命を取留める…、となればどうなるか分かるであろう?」
殿中における刃傷は被害者が死亡した時点で詮議は打切り、加害者は乱心、つまりは気違いと認定され、切腹を命ぜられる。
気違いを詮議しても時間の無駄だからだ。
それが「忠臣蔵」以降、確立された殿中にての刃傷事件の処理規範であった。
だが裏を返せば、つまりは被害者が死なない限りはどこまでも加害者の詮議が続けられ、場合によっては加害者を拷問にかけてでも口を割らせる。
無論、事件の背景を浮かび上がらせる為である。殿中において刃傷に及んだからにはそれなりの理由が、動機があるに違いないからだ。
重好はその点を重好に匂わせたのであり、一方、重好もそうと察すると遂に観念した。
即ち、50両と200両については新番頭の松平大膳亮忠香を介して意知へと贈り、最後の370両については自らが意知へと手渡し、その際、佐野家の系図も意知に貸出したことを佐野善左衛門は供述したのであった。
「待て…、松平大膳亮忠香と申さば4番組の番頭ではあるまいか…、佐野善左衛門は3番組に属せし新番士なれば3番組の番頭を頼るのが筋であろう?だのに、何故に4番組の番頭である松平忠香を頼ったのだ?」
「松平大膳亮様なれば信用出来ると…」
佐野善左衛門は将軍・家治の御前であるにもかかわらず、御三家や、或いは目の前にいる清水重好の様な御三卿でもない、一介の新番頭に過ぎない松平忠香に対して、「様」という最高敬称を付けた。
それは無作法であったが、しかし家治は咎ず黙って佐野善左衛門の供述に聞入っていたので、外の者もその無作法を咎めなかった。
「されば何故に信用出来ると?」
「されば…、松平越中守定信様と親しいとのことなれば…」
思わぬ人物の登場に家治も困惑させられた。
それは重好にしても同様で、
「越中殿と親しいから、一体、何だと申すのだ?」
重好は首を傾げつつもそう尋ねた。
そこで佐野善左衛門は松平忠香を介して松平定信と、それも田安家の下屋敷にて密会を繰返していた一件を自供したのであった。
即ち、松平忠香は件の木下川の邊における鷹狩りの際、供弓であった佐野善左衛門の「手柄」を認めてくれた上で、田安家下屋敷にて定信と引合わせてくれたことを自供した。
佐野善左衛門は更《さら》にその松平定信より田沼家臣、それも意知に取次頭取として仕える村上半左衛門にも引合わせてくれたことも自供した。
その際、定信は佐野善左衛門の為に村上半左衛門への「挨拶料」として10両を用立ててくれ、佐野善左衛門はその10両をその場にて村上半左衛門に差出したそうな。
だがその村上半左衛門曰く、意知は木下川の邊における鷹狩りにて騒ぎを起こした供弓であった佐野善左衛門のことを快く思っておらず、その様な佐野善左衛門が直に意知に対して再び供弓になりたいと願ったところで意知がその陳情を取上げるとは、つまりは佐野善左衛門の陳情を叶えてやるとは思えず、そこで格上の新番頭を介してならば意知も陳情を叶えてやろうと思うやも知れぬと、佐野善左衛門にそう吹込み、そこで佐野善左衛門は直属の上司である新番3番組の番頭である蜷川相模守親文ではなしに、4番組の番頭である松平忠香を頼ることにしたそうな。
50両と200両、この2回に亘る意知への賂については松平忠香を介して意知へと贈ったのは斯かる次第による。
だが最期の3回目、370両の賂については額も額である故に佐野善左衛門が直接に意知に手渡したそうな。
その折、佐野善左衛門は佐野家の系図をも意知に貸出したとのことである。
これは系図の書換、即ち、田沼家が佐野家の主筋であると、その様に系図を書換えたいとの意向であると、佐野善左衛門は村上半左衛門よりそう聞かされ、そこで佐野家の系図を意知へと貸出したとのことであった。
だが結果、佐野善左衛門の供弓になりたいとの陳情が聞届けられることはなく、620両もの賂を毟り取られただけに終わった。
否、毟り取られたのは賂だけではなかった。佐野家の系図もそうであった。佐野家の系図だけは何としてでも返して貰わねばならず、そこで6日前の3月18日の王子村の邊における鷹狩りの機に、それも昼に意知に系図の返却を求めたものの、白を切られた為に佐野善左衛門も遂に堪忍袋の緒が切れたそうな。
家治もそれが6日前の王子村の邊における鷹狩り、それも昼に意知が佐野善左衛門から絡まれていたことをも思い出したのであった。
その日の鷹狩りにおいては禅夷山金輪寺が御膳所、昼餉の場所であり、その御堂にて家治が意知たちや、更には側用人の水野忠友も交えて昼餉を摂っていると、そこへ小納戸の岩本正五郎の案内により佐野善左衛門が姿を見せたかと思うと、佐野家の系図の返却を求めたのであった。
その際、佐野善左衛門は370両という賂の額まで口にしていたのだ。
それは3回目、佐野善左衛門が意知に直接、手渡した賂の額であり、家治はそのことを思い出すと、ここまでの佐野善左衛門の供述には信用性があるものと認めざるを得なかった。
「して…、そなたは意知を討果たさんと、今日、殿中において意知に刃傷に及んだ訳だの?」
今度は家治が佐野善左衛門に糺した。
「御意…、されば昼…、御老中方が廻りを終えられ、次いで御若年寄が昼餉の為に下部屋へと向かうところを狙うて、討果たすが良かろう、と…」
「左様、定信から勧められたと申すのかっ!?」
「御意…」
これは家治にしてみれば定信に裏切られたことを意味していた。
確かに家治は定信に対して、意知に不義があれば討果たして良いと、そう申し聞かせた。
だがそれはあくまで、
「定信自身の手で討果たせ…」
という意味であり、この様な騙し討ちを許した覚えはなかった。
家治は今にも倒れ込みそうな程の衝撃を受けた。
一方、重好はそれとは―、兄・家治とは正反対に相変わらず冷静であった。
「ときに佐野善左衛門とやら…、いつ、田安館にて…、田安家の下屋敷にて逢うたか、覚えておるか?」
重好のその問いに対して、佐野善左衛門は思わず、「はぁ?」と返した。それは己が予期していなかった問いであったからだ。
そこで重好が問いを重ねると、佐野善左衛門も漸くにその問いを呑込み、思い出した。
「されば…、畏れ多くも上様が御放鷹の折が多う御座いましたな…」
「それは…、つまりはそなたが、と申すよりは、新番3番組と4番組は扈従せなんだ…、1番組や2番組、或いは5番組や6番組が扈従せし上様の御放鷹の折に、田安家下屋敷にて越中殿と逢われていた訳だの?」
重好が念押しする様に佐野善左衛門にそう尋ねると、善左衛門も「ははっ」と首肯した。
そこで重好は更に佐野善左衛門を尋問した。
「されば…、最初に逢うた日のことを…、いつ逢うたか、その日付は覚えておるか?」
「確か…、去年の師走…、それも小松川の邊へと御放鷹に赴かれた際だったと…」
「されば13日だの…、して刻限は?」
「昼の八つ半(午後3時頃)過ぎであったかと…」
佐野善左衛門がそう応えるや否や、重好は家治の方を向いたかと思うと、「上様っ!」と声を張上げた。
それに対して家治はと言うと、未だ定信に裏切られたと、そう思い込んでいた為に、「うん?」と気のない返事をよこした。
「今の佐野善左衛門めが口述、お聞きになられましたでしょうっ!?」
重好が勢い込んで尋ねるので、家治も一応は「うむ」と応えたものの、何故、重好はそこまで勢い込むのか、家治には未だ分からなかった。
そこで重好は「絵解き」をしてみせた。
「されば師走の13日、それも昼の八つ半(午後3時頃)過ぎと申さば、上様が御放鷹を終えられ、その帰途、当家に蠣殻町にある清水家下屋敷へと、お立寄りあそばされ、そこで…」
重好にそこまで言われて、家治も漸くに気がついた。
その時刻―、佐野善左衛門が田安家下屋敷にて定信と逢っていたとする12月13日の昼の八つ半(午後3時頃)過ぎ、家治は清水家下屋敷にて定信と逢っていたのだ。
だとするならば、定信がこの世に二人、存在することになるが、そんな馬鹿な話はない。
佐野善左衛門が逢っていたのは定信ではない別の人物である可能性が高かった。
そこで重好は更に尋問を重ねた。
即ち、2回目に定信と逢ったのはいつか、であった。
結果は案の定であった。
2回目に佐野善左衛門が田安家下屋敷にて定信に逢ったのは12月21日、家治が今度は本所へと鷹狩りに赴いた日であり、それもやはり昼の八つ半(午後3時頃)過ぎであった。
そしてその時刻、家治もまたやはり清水家下屋敷にて定信と逢っていたのだ。
定信は田安家下屋敷にはいなかった―、現場不在証明の成立であり、それは同時に佐野善左衛門が逢っていたのは「偽定信」であることを証明していた。
問題はその「偽定信」だが、最早、一人しか考えられなかった。
重好はその「偽定信」を炙り出すべく、まずは松平忠香の召喚を家治に進言し、家治も直ちに諒承し、陪席していた側用人の水野忠友に松平忠香を連れて来る様、命じた。
それから暫くしてから忠香が忠友に伴われて家治の前に姿を見せた。
忠香はここ中奥の御休息之間に佐野善左衛門の姿があり、流石に驚き、次いで居心地の悪さを感じた。
忠香としては今にもこの場から逃出したかったが、しかし家治の命により召喚された以上、そうもゆくまい。
忠香は居心地の悪さを感じつつ佐野善左衛門の隣に、正確には善左衛門の左腕を取っていた目附の山川貞幹の隣に着座し、家治に平伏した。
家治はそれから忠香の頭を上げさせると、自らこれまでの佐野善左衛門の供述を掻い摘んで説明した。
これに対して忠香は内心、「この馬鹿」と佐野善左衛門に対してその口の軽さに罵声を浴びせたものの、しかし喋ってしまった以上は最早、どうにもならない。
何より、佐野善左衛門が逢っていた定信が実は一橋治済であることには家治も流石に気づいてはいない様なので、忠香も余裕であった。
これで仮に意知暗殺未遂の協力により何らかの罰が与えられたとしても、治済の息・家斉が晴れて新将軍となった暁にはその罰も帳消し、赦免された上で、今よりも高い地位に、それこそ御側衆にでも加えられるものと、そう確信していたからだ。
すると家治はそんな忠香に対して、「随分と余裕だのう…」と冷たい言葉を浴びせかけた。
これには忠香も身を縮こまらせ、「いえ、決して左様なことは…」と殊勝な態度を見せた。
だが家治はそんな忠香に対して追撃ちをかけた。
「されば…、家斉が晴れて新将軍になった時のことを想像しているのであろうが…、家斉が将軍になることはない」
家治がそう断言したものだから、忠香も思わず、「えっ!?」と素っ頓狂な声を上げた。
「されば余は…、家斉とは縁組を解消する所存ぞ…」
「なっ…、何を仰せられまする…」
「されば…、そなたが一橋治済とグルになって意知を亡き者にしようと致したこと、既に見通しておるぞ」
家治のその言葉に忠香は目を剥いた。
「治済が定信に扮し、そこな佐野善左衛門めと面会を重ね、そして善左衛門めを嗾けて、意知を討果たさんとせしこと、既に明白ぞっ!」
家治はそう大喝し、忠香を震えさせた。
それから重好が件の現場不在証明について忠香に補足説明した。
「されば余としては今日限りで家斉とは縁組を解消し、家斉を西之丸より追放する所存…、そこで改めて尋ねるが、そなたは治済と共に佐野善左衛門を騙し、意知暗殺へと駆立てさせたな?」
「それは…」
「今、ここで何もかも素直に己が非を認めれば、余としてもこの上、そなたの罪を問うことはせぬ…、引続き、新番頭の職になしおこうぞ…」
家治は忠香に対して、そう「司法取引」を持掛けた。
「だが、あくまで治済めに義理立てすると申すのならば、そなたの罪、徹底的に穿鑿してくれようぞ…、されば御三卿を騙りし罪は重いぞ…」
家治が忠香にそう「脅し」を掛けた途端、
「清水宮内卿様を騙られしは、それがしではのうて、一橋民部卿様でござりまするっ!」
忠香はそう悲鳴を上げたのであった。
忠香のその悲鳴は治済が定信に扮し、佐野善左衛門と面会を重ね、あまつさえ、定信として善左衛門に意知暗殺を嗾けたことを自白するものであった。
それにしても分からぬのは治済が田安家下屋敷を自由に使えたことであったが、それも忠香が自白に及んだ。
何のことはない、下屋敷を管理する奉行、下屋敷奉行を買収、取込んだからであり、それも田安家番頭の中田左兵衛、物頭の金森五郎右衛門、それに用人格郡奉行の幸田友之助を介してのことであった。
つまり中田左兵衛や金森五郎右衛門、幸田友之助についても治済に取込まれていた。
家治は忠香を更に尋問した。どうしても確かめておきたいことがあったからで、
「ときに忠香よ…、そなた、そこな佐野善左衛門から50両、200両と、250両もの金子を預かったな?意知への賄の名目にて…、なれど真は意知へはびた一文、渡ってはおらぬのではあるまいか?」
ズバリ、その点であった。つまり250両もの金子については忠香が着服したのではないかと、家治は忠香を糺したのであった。
すると忠香は「滅相もござりませぬっ!」と悲鳴を上げたかと思うと、
「私めが一人で着服したのではござりませぬっ!」
臆面もなくそう応えたことから、家治は思わずズッコケそうになった。
そこはてっきり否定、白を切るかと思われたからだ。余程に「脅し」の効目があったらしい。
尤も家治としては歓迎すべきところであったので、ここは優しく忠香を促した。飴と鞭である。
すると忠香もそれに応えるかの様に、250両については田沼家臣の村上半左衛門とで「山分け」したことを自供した。
正確には50両については忠香が全額これを着服し、200両については150両が村上半左衛門の許に渡り、残る50両を着服したそうな。
つまり250両のうち、150両を村上半左衛門が、100両を忠香が夫々、着服したそうな。
するとここで佐野善左衛門が声を上げた。
「されば…、この善左衛門への受領書は…」
家治はそれを聞いて、「受領書とな?」と首を傾げた。
そこで佐野善左衛門は忠香より、最初の50両、次いで200両の賂については夫々、忠香より意知直筆の受領書を受取った旨、自供した。
すると忠香が「あれは、村上半左衛門が偽造せしものよ…」と平然とそう嘯いたことから佐野善左衛門を激昂させた。
これで佐野善左衛門が目附の山川貞幹と池田修理によって両腕を取られていなかったならば、間違いなく忠香に飛びかかっていたであろう。
「されば…、佐野家の系図についても…、意知が田沼家が佐野家の主筋であるかの様に系図を書換えたいと、そこで佐野家の系図を求めた事実もない、ということか?」
家治はそこに気付いて忠香にその点をぶつけると、忠香も「御意」と応じ、
「さればそれは村上半左衛門が創作せし出鱈目にて…」
そう打明けたのであった。
「何と…、そは真か?」
家治は思わず問返した。
「真でござりまする…、この期に及んで嘘はつき申さず…」
家治もそれは分かっていた。
「されば…、佐野家の系図まで掠奪すれば…、田沼山城に系図を掠奪されたと佐野善左衛門に思わせることが出来れば、善左衛門は必ずや田沼山城を討果たさんとするに相違なく、と…」
「村上半左衛門が左様、申したのかっ!?」
家治は忠香が嘘をついているとは思えなかったが、しかし俄かには信じられない話であった。
「村上半左衛門は意知が臣ではあるまいか…」
それが信じられない理由であった。
「御意…、なれど村上半左衛門はそれ以上に一橋民部卿様に取込まれておりますれば…」
これまでの話の流れから家治もそうではないかと察していたが、それでも主君の死を願う程に治済に取込まれていたとは、家治には信じ難い、否、理解し難いことであった。
忠香もそうと察してか、「それがしも詳しいことは存じませぬが…」とそう前置きしてから村上半左衛門の娘婿が幕臣で、それも一橋家とも所縁があり、それ故、村上半左衛門はこの娘婿を介して治済に取込まれたらしいことを打明けた。
そこで家治は今度は田沼意知を召喚することにした。
今はもう昼の八つ半(午後3時頃)になろうかという時であり、既に意知は番外科医・岡田一虎の治療、縫合を終えた頃に違いなかった。
だがそうだとしても意知の疵はまだ癒えてはいないだろう。召喚に当たっては十分に配慮する必要があった。
そこで家治はやはり側用人の水野忠友に対して意知の召喚を命じた折、
「意知の病態が難しい様であれば、無理して連れて参る必要はない…」
そう付加えることも忘れなかった。
果たして意知は御休息之間に姿を見せ、但し、上半身、裸であった。
まだ左肩の疵を縫合し終えた直後であり、着物を身につけられないそうな。
本来ならば上半身裸にて将軍の御前に姿を見せるなど、到底、許されないことであったが、しかし今は非常時であり、家治はこれを許した。
家治はその上で、上半身裸の意知を重好も控える下段へと招いた。
被害者である意知を加害者である佐野善左衛門や、その共犯者である松平忠香らと席を|同《おな
》じくさせることなど、つまりは入頬に控えさせることなど家治には到底、受容れられなかったからだ。
一方、意知は下段へと進むことは流石に躊躇したが、それが家治の命とあらば従わない訳にはゆかず、入頬より下段へと進んだ。
こうして家治は意知と向かい合い、意知の受けた疵を目の当たりにして、胸を痛めた。
意知は左肩の疵に加えて、右頬も腫上がっていた。
佐野善左衛門から太刀を取上げようとした際、善左衛門から左拳で撲られた痕であり、それが見事に腫上がっていた。
意知が佐野善左衛門に襲われた中之間と桔梗之間の閾には数多の者がいたにもかかわらず、誰も意知を助けようとはしなかった。
仮に意知が佐野善左衛門に襲われたその場において一人でも二人でも良い、助ける者がいたならば、意知もここまで疵を負うことはなかったであろう。
家治はそう考えると、意知を襲った佐野善左衛門よりも意知を見殺しにしようとした連中に怒りが募った。
だが家治は今はその怒りを抑え、意知に対してもこれまでの流れを説明した。
家治のその説明の中には家臣の村上半左衛門に裏切られているらしいことも含まれており、それに対して意知は家治に頭を垂れた。
「真、家臣の村上半左衛門めが一橋民部卿殿に通じていたならば、これ即ち、主たるこの意知が責…、意知が不徳の致すところにて…」
如何なる裁きも受ける所存と、意知は家治にそう告げた。
無論、家治としては意知を責めるつもりなど毛頭なく、
「全ては一橋治済めが悪いのだ…、否、村上半左衛門が真、治済めに取込まれていたならば、意知としてもこのまま捨置く訳にもゆくまいて、そこで…」
村上半左衛門が真、一橋治済と内通しているかどうか、半左衛門当人に確かめる必要があると、意知に持掛けたのであった。
意知としても元よりそのつもりであったので、「御意」と応えるや、自ら確かめてくれようと席を立とうとしたところ、それを家治が制した。
「その身体では無理と申すものであろう…、されば忠友よ…、側用人たるそなたでは如何にも役不足であろうが、屋敷へと…、神田橋門内の田沼家上屋敷へと足を運び、村上半左衛門を糺してはくれまいか?」
頼む、と家治は忠友に頭まで下げたのであった。
成程、大名の陪臣に過ぎぬ者を天下の側用人が自ら取調べに当たるなど、如何にも役不足であろう。それどころか側用人よりも遥か格下の目附でさえも役不足と言えよう。
だが今、田沼家上屋敷へと出向いて村上半左衛門を取調べられるのは側用人の水野忠友を措いて外にはいなかった。
それは田沼家中において水野忠友はその顔が知られていたが、目附の顔は知られていなかったからだ。
それ故、例えば目附の山川貞幹や池田修理が田沼家上屋敷へと出向いて、赫々云々と、村上半左衛門を取調べたいと申出たところで、田沼家中は誰も信じないであろう。
無論、将軍・家治の直筆の書状でもあれば話は別だが、今の家治は書状を認める時間も惜しく、そこで忠友を田沼家上屋敷へと差向けることにしたのだ。
田沼家中に顔が知られているに違いない忠友ならば、田沼家上屋敷へと足を運んで村上半左衛門を取調べたいと申出れば、歓迎こそされないものの、それでも門前払いを喰らうこともないであろう。
斯かる次第で家治は忠友を頼ることにし、その為に頭まで下げたのであった。
一方、忠友としても将軍・家治から頭まで下げられては断ることなど出来様筈もなく、席を立つと慌しく田沼家上屋敷へと急いだ。
その忠友が戻って来たのはそれから半刻(約1時間)以上も経った夕七つ(午後4時頃)、それも夕の七つ半(午後5時頃)を回ろうかという頃合であった。
忠友は何と村上半左衛門とその息・勝之進の父子を伴い戻って来たのだ。
大名家の陪臣に過ぎぬ者を中奥の最奥部に近い御休息之間にまで連れて来るとは前代未聞であったが、しかしその連れて来た者が中奥の最高長官たる側用人の水野忠友ともなれば、中奥の主たる将軍・家治を除いては誰も注意など出来なかった。
そして将軍・家治にしても忠友のその行動を許した。忠友を田沼家上屋敷へと差向け、村上半左衛門を取調べる様、命じたのは外ならぬ家治であり、その忠友が当の村上半左衛門に加えて、その倅の勝之進まで連れて戻って来たからには余程の事情があるに違いなかったからだ。
実際、その通りであった。
否、家治も村上半左衛門・勝之進父子とは面識こそなかったものの、それでも村上半左衛門の許へと差向けた忠友が二人の男を連れて戻って来たからにはその内の一人は村上半左衛門である可能性が高く、家治はそう当たりを付けた。
だがあとの一人は家治にも分からず、忠友は二人の男―、村上半左衛門・勝之進父子を佐野善左衛門や松平忠香らが控える入頬に控えさせると、家治に二人を紹介した。
意知も忠友の紹介を受け、村上半左衛門・勝之進父子が控える真後ろの入頬へと身体を向け、そして家治へと向直ると、忠友の紹介の通りだと、そう言わんばかりに頷いてみせた。
「さればこの忠友に対して申述べしこと、今一度、畏れ多くも上様の御前において申述べるが良かろう…」
忠友が村上半左衛門・勝之進父子にそう命ずるや、口火を切ったのは親父の村上半左衛門であり、半左衛門は平伏したままの状態で自供を始めた。
即ち、村上半左衛門が婿にして西之丸書院番士の宇田川平七定義は一橋家と所縁があり、治済もその所縁を辿って村上半左衛門に接触、治済は半左衛門に多額の金子を与え、更に婿・宇田川平七の出世を餌に半左衛門を取込んだそうな。
その村上半左衛門は勿論、治済が練りに練った意知暗殺計画も把握しており、佐野善左衛門に与えた意知直筆の賂の受領書は倅にして右筆の勝之進に偽造させたものであった。
無論、治済の命を受けてのものであり、それを証する物証もあった。
即ち、松平忠香が佐野善左衛門より2回目、200両の賂を巻上げた際、治済はその内、150両を召上げ、村上半左衛門が婿・宇田川平七を岳父・半左衛門の許へと差向け、150両の報酬と引換えに、
「田沼意知は確かに佐野善左衛門より200両の賂を受取った…」
その受領書を右筆を勤める倅の勝之進に頼んだ訳だが、治済はその依頼を直筆の書状に認め、宇田川平七に持たせて岳父・村上半左衛門へと渡し、その治済直筆の受領書偽造の依頼書は右筆を勤める倅・勝之進の手へと渡った。
勝之進は治済の希望通り、受領書を偽造して宇田川平七に渡すと同時に、件の依頼書は燃したと嘘をついた。否、宇田川平七だけでなく、父・半左衛門に対しても嘘をついた訳だが、実際には勝之進は治済直筆の依頼書を燃してはいなかった。
「万が一の為…」
即ち、意知の暗殺が失敗に終わり、あまつさえそれが治済の陰謀によるものであると明らかになった場合に備えて保存しておいたのだ。
仮に意知暗殺が治済の陰謀によるものだと明らかになった場合、治済の性格から考えて、己に手を貸した者まで道連れにしようとする筈である。
己一人だけが罰せられてなるものかと、治済は共犯者を道連れにするに違いなく、そこで意知暗殺計画の共犯者の一人である村上勝之進は治済の陰謀を証する傍証とも言うべき物証である件の依頼書を保存しておいたのだ。
その依頼書を幕府へと提出すれば、治済の陰謀を暴くのに協力したということで、幕府の覚えも目出度くなるに違いなく、罪を免れることが出来るやも知れなかったからだ。
村上半左衛門・勝之進父子は水野忠友の訪問を受けると、意知暗殺未遂事件を知らされ、しかもその暗殺計画の背後には一橋治済がいると知らされるや、最初に観念したのは倅の勝之進であった。
勝之進は父・半左衛門とは異なり、それ程までには治済に「忠義立て」するつもりはなかった。
治済が主に手懐けていたのは、具体的には金子を渡していた相手は親父の半左衛門であり、倅の勝之進ではない。
ましてや宇田川平七の昇進など、勝之進にとってはどうでも良かった。
無論、宇田川平七は勝之進にとっても縁者、姉の夫という訳で義兄に当たり、義兄が昇進することで義弟たる己も何らかの「お零れ」に与ることが出来ればそれに越したことはない。
だが、その為に治済と「心中」するつもりは勝之進には毛頭なかった。
そこで勝之進は父・半左衛門にも内緒で「保険」として治済直筆の依頼書を隠していたのであり、それを引張り出すと、忠友に手渡したのであった。
勝之進は同時に何もかも自供に及んだ。
これには父・半左衛門も心底、驚かされると同時に、観念した。
忠友は勝之進より預かったその依頼書を家治に渡した。
否、勝之進はそれだけではない、佐野家の系図をも密かに保存しておいたのだ。
勝之進は父・半左衛門より佐野家の系図を燃しておくよう命じられたものの、やはりやはり燃さずに万が一の「保険」として密かに保存しておいたのだ。
忠友はその佐野家の系図をも勝之進から預かると、家治に対して依頼書と共に手渡したのであった。
忠香も佐野家の系図は燃されたものと、治済よりそう聞かされていたので、村上半左衛門同様、驚かされた。
否、誰よりも佐野善左衛門が驚いた。
まさかにこのような治済の陰謀が隠されていたとは、しかもそうとも気付かずに治済に踊らされて、何の罪もない、それこそ仇でもない意知を討果たそうとした己を佐野善左衛門は大いに恥入り、項垂れた。
佐野善左衛門は今、表向の芙蓉之間において目附の山川貞幹と池田修理の取調べを受けており、間もなく辰ノ口の評定所へと移送される筈であった。
佐野善左衛門の身柄は最終的には小傳馬町の牢屋鋪へと移送されるが、その為には町奉行が発行する入牢証文が必要であった。
入牢証文とは謂わば勾留状の様なものであり、それがなければ何人たりとも牢屋鋪へは収容出来ない。
その入牢証文が発給されるまでの間、佐野善左衛門の身柄はとりあえず、辰ノ口の評定所の仮牢に留置かれることとなる。
将軍・家治としてはその前に自ら、狼藉者を、即ち、佐野善左衛門を糺したいと、そう考えてここ、御休息之間へと召出すよう、側用人の忠友に命じたのであった。
だがこれには忠友も流石に難色を示した。
殿中にて若年寄に斬り掛かった者を将軍が自ら詮議するなど前代未聞であったからだ。
「前代未聞と申すのであらば、意知が襲われし折、意知の廻りには留守居や大目付らがいたにもかかわらず誰も助けようとはせなんだ…、その一事を以ってして十分に前代未聞であろうがっ!否、その前に、意知と並んで歩いていた相役の若年寄の酒井石見や太田備後、米倉丹後らに至っては、意知を見捨てて奥右筆詰所へと逃込み、あまつさえ、内から詰所の襖を堅く閉じては意知が詰所へと逃込まぬ様にしたそうではないかっ!」
それらの事情は中奥小姓の津田信久より奥右筆の安藤長左衛門、更に側用人の水野忠友を介して将軍・家治へと伝えられたことであった。
「旗本を差配せし若年寄が斯かる無様なる醜態を晒しただけでも十分に前代未聞であろうがっ!」
そうであれば今更、将軍が自ら狼藉者を糺したところで何の不都合があろうかと、家治は忠友にそう迫ったのであった。
これには忠友も流石に反論のしようがなく、そこで家治の希望通り、佐野善左衛門をここ御休息之間に連れて来ることにした。
するとそこへ御側御用取次の横田準松が姿を見せ、清水重好が面会を求めている旨、家治に取次いだ。
そこで家治は直ちに面会を許した。
「詮議の場に重好を陪席させるのも良いかも知れぬ…」
佐野善左衛門に対する詮議の場に重好をも陪席させれば適宜、重好から貴重な進言を得られるやも知れぬと、家治はそう考えて重好の面会を許したのであった。
こうして忠友が佐野善左衛門を連れて来るべく席を立ち、御休息之間をあとにする一方、横田準松は重好を御休息之間へと連れて来た。
家治は重好に対しては治済の時とは異なり下段に、それも家治が鎮座する上段と下段との閾近くにまで進ませた。
家治はその上で、重好に対して治済との「やり取り」の一部始終を語って聞かせた上で、ここ御休息之間に意知に刃傷に及んだ狼藉者を―、佐野善左衛門を召出すことも伝えた。
「治済めに唆されて意知に刃傷に及びしに相違なく、必ずや治済の名を引出してみせようぞ…、されば重好よ、そなたも力を致して貰いたい…」
家治は重好に詮議への協力を求め、それに対して重好も「ははぁっ」と平伏して応じた。
それから暫くしてから忠友が佐野善左衛門を随いて御休息之間へと戻って来た。
否、姿を見せたのは佐野善左衛門だけではない。佐野善左衛門の両脇には目附の山川貞幹と池田修理がおり、山川貞幹と池田修理は夫々、佐野善左衛門の腕を取っていた。
そして山川貞幹と池田修理は夫々、佐野善左衛門の腕を取りつつ、御休息之間下段に面した入頬に着座した。そこは今しがたまで一橋治済が着座していた場でもあった。
忠友も今度は下段ではなく、佐野善左衛門たちが控える入頬に着座したところで、家治はまずは「あっ」と声を上げた。
入頬に意知を襲った狼藉者が着座したことで、否、正確には山川貞幹と池田修理の二人の目附によって着座させられたことで、上段に鎮座する家治と向かい合った訳だが、家治にはその狼藉者の顔に見覚えがあったからだ。
「そなたは確か…、去年の師走…、木下川への放鷹の折、供弓として扈従せし新番士の佐野善左衛門ではあるまいか…」
その折、佐野善左衛門は雁を仕留めてはいないにもかかわらず、雁を仕留めたと言張っては、戦功認定に当たる目附の池田修理のその認定にも家治の御前において異議を唱えたので、家治も良く覚えていた。
それは佐野善左衛門の右腕を取っていた池田修理にしても同様であり、池田修理は相変わらず佐野善左衛門の右腕を取ったまま、「御意」と応ずるや、
「されば新番3番組に属せし佐野善左衛門政言にて…」
家治にそう「紹介」した。
山川貞幹にしろ池田修理にしろ、佐野善左衛門の腕を取ったまま着座し、今もってその姿勢を保っていたので、将軍・家治と向かい合っても平伏しようにも出来なかった。
それは二人に両腕を取られたまま着座させられた佐野善左衛門にしても同様で、本来ならば―、いつもの他者への気遣いの出来る家治なれば山川貞幹と池田修理の両名に対して佐野善左衛門の「警め」を解く様、命じていたことであろう。
だが、大事な家臣を疵付けられた今、家治はそこまで寛大な気持ちにはなれなかった。意知を疵付けた佐野善左衛門にまで気遣いを見せられる程、家治はそこまで聖人君子ではない。
家治は山川貞幹と池田修理の両目附に佐野善左衛門の腕を取らせたまま尋問を始めた。
「左様か…、して佐野善左衛門はそなたらの穿鑿に何と申開き致したか?」
家治は佐野善左衛門の「供述」について尋ねた。
するとこれには山川貞幹が答えた。
即ち、佐野善左衛門は若年寄の田沼意知から供弓にしてやるからと、そう唆されて620両もの賂に加えて系図まで巻上げられ、それで意知に刃傷に及んだのだと、山川貞幹と池田修理の取調べにそう供述したそうな。
仮にその供述が事実であるとするならば、意知にも責められるべきところがあったことになる。
だが家治には俄かには信じられなかった。
それは重好も同様だったらしく、重好は「上様」と家治に声を掛けると、気になる点があるので、その点を佐野善左衛門に糺しても良いかと、その許しを求めたのであった。
家治としては重好には正にそれを期待していたので、勿論、これを許した。
「されば…、佐野善左衛門とやら…、620両と申さば大金であるが、それをそなたは直に意知に渡したのか?それとも幾度かに分けて意知に渡したのか?」
重好のその問い掛けに対して、佐野善左衛門は初め、答えるべきかどうか逡巡した。それは佐野善左衛門は清水重好とはこれまで面と向かって顔を合わせたことはなく、つまりは誰であるのか分からなかったからだ。
するとそうと察した家治がそんな佐野善左衛門に対して、
「余が実の弟…、清水重好なるぞ…」
御三卿の清水重好であると、そう紹介したことから、佐野善左衛門も重好の問いなれば答えぬ訳には参らぬと、そう思い定めて正直に答えた。
即ち、まず初めに50両、次いで200両、そして最後に370両、3回に分けて意知に贈ったことを佐野善左衛門は供述した。
「されば3回に亘り、そなたが直接に意知へと賂を手渡したのだな?」
重好が念押しする様にそう確かめるや、佐野善左衛門は「いえ…」と自信無げに答えた。
すると重好はそれを見逃さず、「違うのか?」と畳掛けた。
佐野善左衛門はどう答えたら良いものか逡巡している様子がありありで、そこで重好はそんな佐野善左衛門の背中を押すべく、「拷問」を匂わせた。
「のう、善左衛門よ…、意知は命を取留める…、となればどうなるか分かるであろう?」
殿中における刃傷は被害者が死亡した時点で詮議は打切り、加害者は乱心、つまりは気違いと認定され、切腹を命ぜられる。
気違いを詮議しても時間の無駄だからだ。
それが「忠臣蔵」以降、確立された殿中にての刃傷事件の処理規範であった。
だが裏を返せば、つまりは被害者が死なない限りはどこまでも加害者の詮議が続けられ、場合によっては加害者を拷問にかけてでも口を割らせる。
無論、事件の背景を浮かび上がらせる為である。殿中において刃傷に及んだからにはそれなりの理由が、動機があるに違いないからだ。
重好はその点を重好に匂わせたのであり、一方、重好もそうと察すると遂に観念した。
即ち、50両と200両については新番頭の松平大膳亮忠香を介して意知へと贈り、最後の370両については自らが意知へと手渡し、その際、佐野家の系図も意知に貸出したことを佐野善左衛門は供述したのであった。
「待て…、松平大膳亮忠香と申さば4番組の番頭ではあるまいか…、佐野善左衛門は3番組に属せし新番士なれば3番組の番頭を頼るのが筋であろう?だのに、何故に4番組の番頭である松平忠香を頼ったのだ?」
「松平大膳亮様なれば信用出来ると…」
佐野善左衛門は将軍・家治の御前であるにもかかわらず、御三家や、或いは目の前にいる清水重好の様な御三卿でもない、一介の新番頭に過ぎない松平忠香に対して、「様」という最高敬称を付けた。
それは無作法であったが、しかし家治は咎ず黙って佐野善左衛門の供述に聞入っていたので、外の者もその無作法を咎めなかった。
「されば何故に信用出来ると?」
「されば…、松平越中守定信様と親しいとのことなれば…」
思わぬ人物の登場に家治も困惑させられた。
それは重好にしても同様で、
「越中殿と親しいから、一体、何だと申すのだ?」
重好は首を傾げつつもそう尋ねた。
そこで佐野善左衛門は松平忠香を介して松平定信と、それも田安家の下屋敷にて密会を繰返していた一件を自供したのであった。
即ち、松平忠香は件の木下川の邊における鷹狩りの際、供弓であった佐野善左衛門の「手柄」を認めてくれた上で、田安家下屋敷にて定信と引合わせてくれたことを自供した。
佐野善左衛門は更《さら》にその松平定信より田沼家臣、それも意知に取次頭取として仕える村上半左衛門にも引合わせてくれたことも自供した。
その際、定信は佐野善左衛門の為に村上半左衛門への「挨拶料」として10両を用立ててくれ、佐野善左衛門はその10両をその場にて村上半左衛門に差出したそうな。
だがその村上半左衛門曰く、意知は木下川の邊における鷹狩りにて騒ぎを起こした供弓であった佐野善左衛門のことを快く思っておらず、その様な佐野善左衛門が直に意知に対して再び供弓になりたいと願ったところで意知がその陳情を取上げるとは、つまりは佐野善左衛門の陳情を叶えてやるとは思えず、そこで格上の新番頭を介してならば意知も陳情を叶えてやろうと思うやも知れぬと、佐野善左衛門にそう吹込み、そこで佐野善左衛門は直属の上司である新番3番組の番頭である蜷川相模守親文ではなしに、4番組の番頭である松平忠香を頼ることにしたそうな。
50両と200両、この2回に亘る意知への賂については松平忠香を介して意知へと贈ったのは斯かる次第による。
だが最期の3回目、370両の賂については額も額である故に佐野善左衛門が直接に意知に手渡したそうな。
その折、佐野善左衛門は佐野家の系図をも意知に貸出したとのことである。
これは系図の書換、即ち、田沼家が佐野家の主筋であると、その様に系図を書換えたいとの意向であると、佐野善左衛門は村上半左衛門よりそう聞かされ、そこで佐野家の系図を意知へと貸出したとのことであった。
だが結果、佐野善左衛門の供弓になりたいとの陳情が聞届けられることはなく、620両もの賂を毟り取られただけに終わった。
否、毟り取られたのは賂だけではなかった。佐野家の系図もそうであった。佐野家の系図だけは何としてでも返して貰わねばならず、そこで6日前の3月18日の王子村の邊における鷹狩りの機に、それも昼に意知に系図の返却を求めたものの、白を切られた為に佐野善左衛門も遂に堪忍袋の緒が切れたそうな。
家治もそれが6日前の王子村の邊における鷹狩り、それも昼に意知が佐野善左衛門から絡まれていたことをも思い出したのであった。
その日の鷹狩りにおいては禅夷山金輪寺が御膳所、昼餉の場所であり、その御堂にて家治が意知たちや、更には側用人の水野忠友も交えて昼餉を摂っていると、そこへ小納戸の岩本正五郎の案内により佐野善左衛門が姿を見せたかと思うと、佐野家の系図の返却を求めたのであった。
その際、佐野善左衛門は370両という賂の額まで口にしていたのだ。
それは3回目、佐野善左衛門が意知に直接、手渡した賂の額であり、家治はそのことを思い出すと、ここまでの佐野善左衛門の供述には信用性があるものと認めざるを得なかった。
「して…、そなたは意知を討果たさんと、今日、殿中において意知に刃傷に及んだ訳だの?」
今度は家治が佐野善左衛門に糺した。
「御意…、されば昼…、御老中方が廻りを終えられ、次いで御若年寄が昼餉の為に下部屋へと向かうところを狙うて、討果たすが良かろう、と…」
「左様、定信から勧められたと申すのかっ!?」
「御意…」
これは家治にしてみれば定信に裏切られたことを意味していた。
確かに家治は定信に対して、意知に不義があれば討果たして良いと、そう申し聞かせた。
だがそれはあくまで、
「定信自身の手で討果たせ…」
という意味であり、この様な騙し討ちを許した覚えはなかった。
家治は今にも倒れ込みそうな程の衝撃を受けた。
一方、重好はそれとは―、兄・家治とは正反対に相変わらず冷静であった。
「ときに佐野善左衛門とやら…、いつ、田安館にて…、田安家の下屋敷にて逢うたか、覚えておるか?」
重好のその問いに対して、佐野善左衛門は思わず、「はぁ?」と返した。それは己が予期していなかった問いであったからだ。
そこで重好が問いを重ねると、佐野善左衛門も漸くにその問いを呑込み、思い出した。
「されば…、畏れ多くも上様が御放鷹の折が多う御座いましたな…」
「それは…、つまりはそなたが、と申すよりは、新番3番組と4番組は扈従せなんだ…、1番組や2番組、或いは5番組や6番組が扈従せし上様の御放鷹の折に、田安家下屋敷にて越中殿と逢われていた訳だの?」
重好が念押しする様に佐野善左衛門にそう尋ねると、善左衛門も「ははっ」と首肯した。
そこで重好は更に佐野善左衛門を尋問した。
「されば…、最初に逢うた日のことを…、いつ逢うたか、その日付は覚えておるか?」
「確か…、去年の師走…、それも小松川の邊へと御放鷹に赴かれた際だったと…」
「されば13日だの…、して刻限は?」
「昼の八つ半(午後3時頃)過ぎであったかと…」
佐野善左衛門がそう応えるや否や、重好は家治の方を向いたかと思うと、「上様っ!」と声を張上げた。
それに対して家治はと言うと、未だ定信に裏切られたと、そう思い込んでいた為に、「うん?」と気のない返事をよこした。
「今の佐野善左衛門めが口述、お聞きになられましたでしょうっ!?」
重好が勢い込んで尋ねるので、家治も一応は「うむ」と応えたものの、何故、重好はそこまで勢い込むのか、家治には未だ分からなかった。
そこで重好は「絵解き」をしてみせた。
「されば師走の13日、それも昼の八つ半(午後3時頃)過ぎと申さば、上様が御放鷹を終えられ、その帰途、当家に蠣殻町にある清水家下屋敷へと、お立寄りあそばされ、そこで…」
重好にそこまで言われて、家治も漸くに気がついた。
その時刻―、佐野善左衛門が田安家下屋敷にて定信と逢っていたとする12月13日の昼の八つ半(午後3時頃)過ぎ、家治は清水家下屋敷にて定信と逢っていたのだ。
だとするならば、定信がこの世に二人、存在することになるが、そんな馬鹿な話はない。
佐野善左衛門が逢っていたのは定信ではない別の人物である可能性が高かった。
そこで重好は更に尋問を重ねた。
即ち、2回目に定信と逢ったのはいつか、であった。
結果は案の定であった。
2回目に佐野善左衛門が田安家下屋敷にて定信に逢ったのは12月21日、家治が今度は本所へと鷹狩りに赴いた日であり、それもやはり昼の八つ半(午後3時頃)過ぎであった。
そしてその時刻、家治もまたやはり清水家下屋敷にて定信と逢っていたのだ。
定信は田安家下屋敷にはいなかった―、現場不在証明の成立であり、それは同時に佐野善左衛門が逢っていたのは「偽定信」であることを証明していた。
問題はその「偽定信」だが、最早、一人しか考えられなかった。
重好はその「偽定信」を炙り出すべく、まずは松平忠香の召喚を家治に進言し、家治も直ちに諒承し、陪席していた側用人の水野忠友に松平忠香を連れて来る様、命じた。
それから暫くしてから忠香が忠友に伴われて家治の前に姿を見せた。
忠香はここ中奥の御休息之間に佐野善左衛門の姿があり、流石に驚き、次いで居心地の悪さを感じた。
忠香としては今にもこの場から逃出したかったが、しかし家治の命により召喚された以上、そうもゆくまい。
忠香は居心地の悪さを感じつつ佐野善左衛門の隣に、正確には善左衛門の左腕を取っていた目附の山川貞幹の隣に着座し、家治に平伏した。
家治はそれから忠香の頭を上げさせると、自らこれまでの佐野善左衛門の供述を掻い摘んで説明した。
これに対して忠香は内心、「この馬鹿」と佐野善左衛門に対してその口の軽さに罵声を浴びせたものの、しかし喋ってしまった以上は最早、どうにもならない。
何より、佐野善左衛門が逢っていた定信が実は一橋治済であることには家治も流石に気づいてはいない様なので、忠香も余裕であった。
これで仮に意知暗殺未遂の協力により何らかの罰が与えられたとしても、治済の息・家斉が晴れて新将軍となった暁にはその罰も帳消し、赦免された上で、今よりも高い地位に、それこそ御側衆にでも加えられるものと、そう確信していたからだ。
すると家治はそんな忠香に対して、「随分と余裕だのう…」と冷たい言葉を浴びせかけた。
これには忠香も身を縮こまらせ、「いえ、決して左様なことは…」と殊勝な態度を見せた。
だが家治はそんな忠香に対して追撃ちをかけた。
「されば…、家斉が晴れて新将軍になった時のことを想像しているのであろうが…、家斉が将軍になることはない」
家治がそう断言したものだから、忠香も思わず、「えっ!?」と素っ頓狂な声を上げた。
「されば余は…、家斉とは縁組を解消する所存ぞ…」
「なっ…、何を仰せられまする…」
「されば…、そなたが一橋治済とグルになって意知を亡き者にしようと致したこと、既に見通しておるぞ」
家治のその言葉に忠香は目を剥いた。
「治済が定信に扮し、そこな佐野善左衛門めと面会を重ね、そして善左衛門めを嗾けて、意知を討果たさんとせしこと、既に明白ぞっ!」
家治はそう大喝し、忠香を震えさせた。
それから重好が件の現場不在証明について忠香に補足説明した。
「されば余としては今日限りで家斉とは縁組を解消し、家斉を西之丸より追放する所存…、そこで改めて尋ねるが、そなたは治済と共に佐野善左衛門を騙し、意知暗殺へと駆立てさせたな?」
「それは…」
「今、ここで何もかも素直に己が非を認めれば、余としてもこの上、そなたの罪を問うことはせぬ…、引続き、新番頭の職になしおこうぞ…」
家治は忠香に対して、そう「司法取引」を持掛けた。
「だが、あくまで治済めに義理立てすると申すのならば、そなたの罪、徹底的に穿鑿してくれようぞ…、されば御三卿を騙りし罪は重いぞ…」
家治が忠香にそう「脅し」を掛けた途端、
「清水宮内卿様を騙られしは、それがしではのうて、一橋民部卿様でござりまするっ!」
忠香はそう悲鳴を上げたのであった。
忠香のその悲鳴は治済が定信に扮し、佐野善左衛門と面会を重ね、あまつさえ、定信として善左衛門に意知暗殺を嗾けたことを自白するものであった。
それにしても分からぬのは治済が田安家下屋敷を自由に使えたことであったが、それも忠香が自白に及んだ。
何のことはない、下屋敷を管理する奉行、下屋敷奉行を買収、取込んだからであり、それも田安家番頭の中田左兵衛、物頭の金森五郎右衛門、それに用人格郡奉行の幸田友之助を介してのことであった。
つまり中田左兵衛や金森五郎右衛門、幸田友之助についても治済に取込まれていた。
家治は忠香を更に尋問した。どうしても確かめておきたいことがあったからで、
「ときに忠香よ…、そなた、そこな佐野善左衛門から50両、200両と、250両もの金子を預かったな?意知への賄の名目にて…、なれど真は意知へはびた一文、渡ってはおらぬのではあるまいか?」
ズバリ、その点であった。つまり250両もの金子については忠香が着服したのではないかと、家治は忠香を糺したのであった。
すると忠香は「滅相もござりませぬっ!」と悲鳴を上げたかと思うと、
「私めが一人で着服したのではござりませぬっ!」
臆面もなくそう応えたことから、家治は思わずズッコケそうになった。
そこはてっきり否定、白を切るかと思われたからだ。余程に「脅し」の効目があったらしい。
尤も家治としては歓迎すべきところであったので、ここは優しく忠香を促した。飴と鞭である。
すると忠香もそれに応えるかの様に、250両については田沼家臣の村上半左衛門とで「山分け」したことを自供した。
正確には50両については忠香が全額これを着服し、200両については150両が村上半左衛門の許に渡り、残る50両を着服したそうな。
つまり250両のうち、150両を村上半左衛門が、100両を忠香が夫々、着服したそうな。
するとここで佐野善左衛門が声を上げた。
「されば…、この善左衛門への受領書は…」
家治はそれを聞いて、「受領書とな?」と首を傾げた。
そこで佐野善左衛門は忠香より、最初の50両、次いで200両の賂については夫々、忠香より意知直筆の受領書を受取った旨、自供した。
すると忠香が「あれは、村上半左衛門が偽造せしものよ…」と平然とそう嘯いたことから佐野善左衛門を激昂させた。
これで佐野善左衛門が目附の山川貞幹と池田修理によって両腕を取られていなかったならば、間違いなく忠香に飛びかかっていたであろう。
「されば…、佐野家の系図についても…、意知が田沼家が佐野家の主筋であるかの様に系図を書換えたいと、そこで佐野家の系図を求めた事実もない、ということか?」
家治はそこに気付いて忠香にその点をぶつけると、忠香も「御意」と応じ、
「さればそれは村上半左衛門が創作せし出鱈目にて…」
そう打明けたのであった。
「何と…、そは真か?」
家治は思わず問返した。
「真でござりまする…、この期に及んで嘘はつき申さず…」
家治もそれは分かっていた。
「されば…、佐野家の系図まで掠奪すれば…、田沼山城に系図を掠奪されたと佐野善左衛門に思わせることが出来れば、善左衛門は必ずや田沼山城を討果たさんとするに相違なく、と…」
「村上半左衛門が左様、申したのかっ!?」
家治は忠香が嘘をついているとは思えなかったが、しかし俄かには信じられない話であった。
「村上半左衛門は意知が臣ではあるまいか…」
それが信じられない理由であった。
「御意…、なれど村上半左衛門はそれ以上に一橋民部卿様に取込まれておりますれば…」
これまでの話の流れから家治もそうではないかと察していたが、それでも主君の死を願う程に治済に取込まれていたとは、家治には信じ難い、否、理解し難いことであった。
忠香もそうと察してか、「それがしも詳しいことは存じませぬが…」とそう前置きしてから村上半左衛門の娘婿が幕臣で、それも一橋家とも所縁があり、それ故、村上半左衛門はこの娘婿を介して治済に取込まれたらしいことを打明けた。
そこで家治は今度は田沼意知を召喚することにした。
今はもう昼の八つ半(午後3時頃)になろうかという時であり、既に意知は番外科医・岡田一虎の治療、縫合を終えた頃に違いなかった。
だがそうだとしても意知の疵はまだ癒えてはいないだろう。召喚に当たっては十分に配慮する必要があった。
そこで家治はやはり側用人の水野忠友に対して意知の召喚を命じた折、
「意知の病態が難しい様であれば、無理して連れて参る必要はない…」
そう付加えることも忘れなかった。
果たして意知は御休息之間に姿を見せ、但し、上半身、裸であった。
まだ左肩の疵を縫合し終えた直後であり、着物を身につけられないそうな。
本来ならば上半身裸にて将軍の御前に姿を見せるなど、到底、許されないことであったが、しかし今は非常時であり、家治はこれを許した。
家治はその上で、上半身裸の意知を重好も控える下段へと招いた。
被害者である意知を加害者である佐野善左衛門や、その共犯者である松平忠香らと席を|同《おな
》じくさせることなど、つまりは入頬に控えさせることなど家治には到底、受容れられなかったからだ。
一方、意知は下段へと進むことは流石に躊躇したが、それが家治の命とあらば従わない訳にはゆかず、入頬より下段へと進んだ。
こうして家治は意知と向かい合い、意知の受けた疵を目の当たりにして、胸を痛めた。
意知は左肩の疵に加えて、右頬も腫上がっていた。
佐野善左衛門から太刀を取上げようとした際、善左衛門から左拳で撲られた痕であり、それが見事に腫上がっていた。
意知が佐野善左衛門に襲われた中之間と桔梗之間の閾には数多の者がいたにもかかわらず、誰も意知を助けようとはしなかった。
仮に意知が佐野善左衛門に襲われたその場において一人でも二人でも良い、助ける者がいたならば、意知もここまで疵を負うことはなかったであろう。
家治はそう考えると、意知を襲った佐野善左衛門よりも意知を見殺しにしようとした連中に怒りが募った。
だが家治は今はその怒りを抑え、意知に対してもこれまでの流れを説明した。
家治のその説明の中には家臣の村上半左衛門に裏切られているらしいことも含まれており、それに対して意知は家治に頭を垂れた。
「真、家臣の村上半左衛門めが一橋民部卿殿に通じていたならば、これ即ち、主たるこの意知が責…、意知が不徳の致すところにて…」
如何なる裁きも受ける所存と、意知は家治にそう告げた。
無論、家治としては意知を責めるつもりなど毛頭なく、
「全ては一橋治済めが悪いのだ…、否、村上半左衛門が真、治済めに取込まれていたならば、意知としてもこのまま捨置く訳にもゆくまいて、そこで…」
村上半左衛門が真、一橋治済と内通しているかどうか、半左衛門当人に確かめる必要があると、意知に持掛けたのであった。
意知としても元よりそのつもりであったので、「御意」と応えるや、自ら確かめてくれようと席を立とうとしたところ、それを家治が制した。
「その身体では無理と申すものであろう…、されば忠友よ…、側用人たるそなたでは如何にも役不足であろうが、屋敷へと…、神田橋門内の田沼家上屋敷へと足を運び、村上半左衛門を糺してはくれまいか?」
頼む、と家治は忠友に頭まで下げたのであった。
成程、大名の陪臣に過ぎぬ者を天下の側用人が自ら取調べに当たるなど、如何にも役不足であろう。それどころか側用人よりも遥か格下の目附でさえも役不足と言えよう。
だが今、田沼家上屋敷へと出向いて村上半左衛門を取調べられるのは側用人の水野忠友を措いて外にはいなかった。
それは田沼家中において水野忠友はその顔が知られていたが、目附の顔は知られていなかったからだ。
それ故、例えば目附の山川貞幹や池田修理が田沼家上屋敷へと出向いて、赫々云々と、村上半左衛門を取調べたいと申出たところで、田沼家中は誰も信じないであろう。
無論、将軍・家治の直筆の書状でもあれば話は別だが、今の家治は書状を認める時間も惜しく、そこで忠友を田沼家上屋敷へと差向けることにしたのだ。
田沼家中に顔が知られているに違いない忠友ならば、田沼家上屋敷へと足を運んで村上半左衛門を取調べたいと申出れば、歓迎こそされないものの、それでも門前払いを喰らうこともないであろう。
斯かる次第で家治は忠友を頼ることにし、その為に頭まで下げたのであった。
一方、忠友としても将軍・家治から頭まで下げられては断ることなど出来様筈もなく、席を立つと慌しく田沼家上屋敷へと急いだ。
その忠友が戻って来たのはそれから半刻(約1時間)以上も経った夕七つ(午後4時頃)、それも夕の七つ半(午後5時頃)を回ろうかという頃合であった。
忠友は何と村上半左衛門とその息・勝之進の父子を伴い戻って来たのだ。
大名家の陪臣に過ぎぬ者を中奥の最奥部に近い御休息之間にまで連れて来るとは前代未聞であったが、しかしその連れて来た者が中奥の最高長官たる側用人の水野忠友ともなれば、中奥の主たる将軍・家治を除いては誰も注意など出来なかった。
そして将軍・家治にしても忠友のその行動を許した。忠友を田沼家上屋敷へと差向け、村上半左衛門を取調べる様、命じたのは外ならぬ家治であり、その忠友が当の村上半左衛門に加えて、その倅の勝之進まで連れて戻って来たからには余程の事情があるに違いなかったからだ。
実際、その通りであった。
否、家治も村上半左衛門・勝之進父子とは面識こそなかったものの、それでも村上半左衛門の許へと差向けた忠友が二人の男を連れて戻って来たからにはその内の一人は村上半左衛門である可能性が高く、家治はそう当たりを付けた。
だがあとの一人は家治にも分からず、忠友は二人の男―、村上半左衛門・勝之進父子を佐野善左衛門や松平忠香らが控える入頬に控えさせると、家治に二人を紹介した。
意知も忠友の紹介を受け、村上半左衛門・勝之進父子が控える真後ろの入頬へと身体を向け、そして家治へと向直ると、忠友の紹介の通りだと、そう言わんばかりに頷いてみせた。
「さればこの忠友に対して申述べしこと、今一度、畏れ多くも上様の御前において申述べるが良かろう…」
忠友が村上半左衛門・勝之進父子にそう命ずるや、口火を切ったのは親父の村上半左衛門であり、半左衛門は平伏したままの状態で自供を始めた。
即ち、村上半左衛門が婿にして西之丸書院番士の宇田川平七定義は一橋家と所縁があり、治済もその所縁を辿って村上半左衛門に接触、治済は半左衛門に多額の金子を与え、更に婿・宇田川平七の出世を餌に半左衛門を取込んだそうな。
その村上半左衛門は勿論、治済が練りに練った意知暗殺計画も把握しており、佐野善左衛門に与えた意知直筆の賂の受領書は倅にして右筆の勝之進に偽造させたものであった。
無論、治済の命を受けてのものであり、それを証する物証もあった。
即ち、松平忠香が佐野善左衛門より2回目、200両の賂を巻上げた際、治済はその内、150両を召上げ、村上半左衛門が婿・宇田川平七を岳父・半左衛門の許へと差向け、150両の報酬と引換えに、
「田沼意知は確かに佐野善左衛門より200両の賂を受取った…」
その受領書を右筆を勤める倅の勝之進に頼んだ訳だが、治済はその依頼を直筆の書状に認め、宇田川平七に持たせて岳父・村上半左衛門へと渡し、その治済直筆の受領書偽造の依頼書は右筆を勤める倅・勝之進の手へと渡った。
勝之進は治済の希望通り、受領書を偽造して宇田川平七に渡すと同時に、件の依頼書は燃したと嘘をついた。否、宇田川平七だけでなく、父・半左衛門に対しても嘘をついた訳だが、実際には勝之進は治済直筆の依頼書を燃してはいなかった。
「万が一の為…」
即ち、意知の暗殺が失敗に終わり、あまつさえそれが治済の陰謀によるものであると明らかになった場合に備えて保存しておいたのだ。
仮に意知暗殺が治済の陰謀によるものだと明らかになった場合、治済の性格から考えて、己に手を貸した者まで道連れにしようとする筈である。
己一人だけが罰せられてなるものかと、治済は共犯者を道連れにするに違いなく、そこで意知暗殺計画の共犯者の一人である村上勝之進は治済の陰謀を証する傍証とも言うべき物証である件の依頼書を保存しておいたのだ。
その依頼書を幕府へと提出すれば、治済の陰謀を暴くのに協力したということで、幕府の覚えも目出度くなるに違いなく、罪を免れることが出来るやも知れなかったからだ。
村上半左衛門・勝之進父子は水野忠友の訪問を受けると、意知暗殺未遂事件を知らされ、しかもその暗殺計画の背後には一橋治済がいると知らされるや、最初に観念したのは倅の勝之進であった。
勝之進は父・半左衛門とは異なり、それ程までには治済に「忠義立て」するつもりはなかった。
治済が主に手懐けていたのは、具体的には金子を渡していた相手は親父の半左衛門であり、倅の勝之進ではない。
ましてや宇田川平七の昇進など、勝之進にとってはどうでも良かった。
無論、宇田川平七は勝之進にとっても縁者、姉の夫という訳で義兄に当たり、義兄が昇進することで義弟たる己も何らかの「お零れ」に与ることが出来ればそれに越したことはない。
だが、その為に治済と「心中」するつもりは勝之進には毛頭なかった。
そこで勝之進は父・半左衛門にも内緒で「保険」として治済直筆の依頼書を隠していたのであり、それを引張り出すと、忠友に手渡したのであった。
勝之進は同時に何もかも自供に及んだ。
これには父・半左衛門も心底、驚かされると同時に、観念した。
忠友は勝之進より預かったその依頼書を家治に渡した。
否、勝之進はそれだけではない、佐野家の系図をも密かに保存しておいたのだ。
勝之進は父・半左衛門より佐野家の系図を燃しておくよう命じられたものの、やはりやはり燃さずに万が一の「保険」として密かに保存しておいたのだ。
忠友はその佐野家の系図をも勝之進から預かると、家治に対して依頼書と共に手渡したのであった。
忠香も佐野家の系図は燃されたものと、治済よりそう聞かされていたので、村上半左衛門同様、驚かされた。
否、誰よりも佐野善左衛門が驚いた。
まさかにこのような治済の陰謀が隠されていたとは、しかもそうとも気付かずに治済に踊らされて、何の罪もない、それこそ仇でもない意知を討果たそうとした己を佐野善左衛門は大いに恥入り、項垂れた。
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