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田沼意知暗殺への大詰め ~意知暗殺計画も大詰めの大詰めを迎え、全ての外堀は埋まった~

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 将軍しょうぐん家治いえはる王子村おうじむらほとりへと鷹狩たかがりにおもむいた3月18日、一橋ひとつばし治済はるさだ霊巌島れいがんじまにある福井ふくいはん中屋敷なかやしきへとおもむいた。

 福井ふくいはん中屋敷なかやしきかわかこまれており、そこで治済はるさだ本来ほんらいならばれいごとく、一橋ひとつばし上屋敷かみやしき大奥おおおくより脱出ぬけだし、ふね仕立したてるべきところ、今日きょうはそうはせずに、徒歩とほにておもむいたのであった。

 それと言うのも今日きょう将軍しょうぐん鷹狩たかがりということで、「交通こうつう規制きせい」が大規模だいきぼかれており、それはかわにまでおよぶ。

 かわというかわ水主かこ同心どうしん巡視船じゅんしせんあやつっており、ふね見掛みかければ当然とうぜん誰何すいかする。

 かり治済はるさだふね仕立したてて、霊巌島れいがんじまにある福井ふくいはん中屋敷なかやしきへとかおうものなら、かならずや水主かこ同心どうしんまり、誰何すいかされるのは必定ひつじょう

 無論むろん相手あいて三卿さんきょう一橋ひとつばし治済はるさだだとかれば、水主かこ同心どうしん当然とうぜん通行つうこうゆるすであろうが、しかし、ふね仕立したててまで福井ふくいはん中屋敷なかやしきへとおもむいたことは水主かこ同心どうしんより船手ふなてがしらかいして幕府ばくふへと報告ほうこくされることになる。

 それは家治いえはるへとしらせがとどくことを意味いみし、そうなれば家治いえはるのことである、

放鷹ほうようときねろうて態々わざわざふね仕立したてて福井ふくいはん中屋敷なかやしきへとかうとは一体いったい何事なにごとぞ…」

 かならずや、そう疑念ぎねんおもい、たして家老かろうはこのことを承知しょうちしているのかと、はやし忠篤ただあつ水谷勝富みずのやかつとみ両名りょうめいただすこともかんがえられた。

 その場合ばあいはやし忠篤ただあつ水谷勝富みずのやかつとみ二人ふたりに「籠脱かごぬけ」の事実じじつがバレることになる。

 はやし忠篤ただあついとしても、水谷勝富みずのやかつとみに「籠脱かごぬけ」の事実じじつがバレるのは治済はるさだとしてははなは都合つごうわるかった。

 そこで治済はるさだ今日きょう堂々どうどう表門おもてもんより福井ふくいはん中屋敷なかやしきへとあしはこんだ次第しだいであった。

 そのほうあやしまれずにむからだ。

 当然とうぜん治済はるさだ一人ひとりではなく、家老かろうはやし忠篤ただあつ水谷勝富みずのやかつとみしたがえて、霊巌島れいがんじまへとあしはこんだのであった。

 もっとも、はやし忠篤ただあつ水谷勝富みずのやかつとみが、とりわけ勝富かつとみ治済はるさだに、

「ピタリと…」

 張付はりつくことが出来できたのは福井ふくいはん中屋敷なかやしき表向おもてむきまでであり、大奥おおおくへは治済はるさだ一人ひとりあしはこび、そこで実兄じっけい松平まつだいら越前守えちぜんのかみ重富しげとみと、それに「今日きょう主役しゅやく」とも言うべき遊佐ゆさ卜庵信庭ぼくあんのぶにわとの「密会みっかい」にのぞんだ。

 遊佐ゆさ信庭のぶにわ幕府ばくふおもてばん医師いしであったが、それだけではなく治済はるさだ片腕かたうででもあった。

 遊佐ゆさ信庭のぶにわ実弟じってい荒二郎あらじろう信鷹のぶたかともに、いま一橋家ひとつばしけ大奥おおおくにて老女ろうじょつとめる岡村おかむらやしなわれた過去かこち、それゆえ遊佐ゆさ信庭のぶにわはその所縁ゆかりにより治済はるさだつうじており、家基毒殺いえもとどくさつおりにも多大ただいなる「貢献こうけん」をした。

 その遊佐ゆさ信庭のぶにわはここ霊巌島れいがんじま福井ふくいはん中屋敷なかやしきより程近ほどちか北八丁堀きたはっちょうぼりにある長澤ながさわちょうにて診療所しんりょうじょねた屋鋪やしきんでおり、そこで今日きょう治済はるさだはその遊佐ゆさ信庭のぶにわとの「密会みっかい」にのぞむにたり、ここ霊巌島れいがんじまにある福井ふくいはん中屋敷なかやしきをその場所ばしょとしてえらんだのであった。

 さて、治済はるさだがそうまでして遊佐ゆさ信庭のぶにわとの「密会みっかい」にのぞんだのはほかでもない、

意知暗殺決行おきともあんさつけっこうである天明4(1784)年3月24日のおもてばん外科げか勤務シフトため…」

 それにきた。

 3月24日、その、それも朝五つ(午前8時頃)より昼八つ(午後2時頃)までの朝番あさばんつとめるおもてばん外科げか勤務シフトりたかったのだ。

 かりに、おもてばん外科げかなかでも名医めいい朝番あさばん勤務シフトはいっていたならば、ひるの九つ半(午後1時頃)ぎにおそわれる予定よてい意知おきとも適切てきせつ治療ちりょうしてしまうおそれがありた。

 おもてばん医師いし平日へいじつ交代こうたい医師いしだまりめ、殿中でんちゅう表向おもてむきにて病人びょうにんや、あるいは怪我人けがにんたならば、ただちに治療ちりょうたる。

 そこで意知暗殺おきともあんさつたくら治済はるさだとしては意知おきともおそわれる予定よていひるの九つ半(午後1時頃)ぎ、すなわち、そのかんの朝五つ(午前8時頃)より昼八つ(午後2時頃)までの朝番あさばん勤務シフトはい医師いし、それもおもてばん外科げか医師いしには出来できれば、いや絶対ぜったい名医めいいでないもの相応ふさわしかったのだ。

 遊佐ゆさ信庭のぶにわなれば内科医ないかいとはもうせ、おもてばん医師いしであるので当然とうぜんおもてばん外科げか勤務シフトについても把握はあくしていた。

「されば…、24日の朝番あさばんつとめしは天野あまの良順りょうじゅん敬登たかなり岡田おかだ養仙勝苞ようせんかつしげ、そして栗崎くりさき道巴どうは正明まさあきらの3人にて…」

 おもてばん外科げかぞくする医師いし内科ないかであるおもてばん医師いしとはことなり、

基本的きほんてきには宿直とのいがない」

 ということで、宵五つ(午後8時頃)よりよく、暁八つ(午前2時頃)までの宵番よいばんと暁八つ(午前2時頃)より朝五つ(午前8時頃)までの不寝番ねずのばんはなく、|あるのは朝番あさばんと、それに昼八つ(午後2時頃)より宵五つ(午後8時頃)までの当番とうばん勤務シフトだけであった。

 それゆえおもてばん外科医げかい内科ないかおもてばん医師いしよりも人数にんずうすくなく、約半分やくはんぶん程度ていどであった。

 そこでおもてばん医師いしおもてばん外科医げかいも3人で勤務シフトつとめ、3月24日の朝番あさばん勤務シフトはいおもてばん外科医げかい天野あまの敬登たかなり岡田おかだ勝苞かつしげ栗崎くりさき正明まさあきらの3人とのことであった。

「してその3人の技量ぎりょう如何いかに?」

 名医めいいいなか、治済はるさだ遊佐ゆさ信庭のぶにわにそのてんただした。

「されば天野あまの良順りょうじゅんにつきましてはなん問題もんだいはなく…」

 なん問題もんだいはない、というのはつまりは名医めいいではないことを示唆しさしていた。

 事実じじつ天野あまの敬登たかなりよわい67であり、手許てもと覚束おぼつかく、縫合ほうごうさえもままならないという有様ありさまであった。

 だが遊佐ゆさ信庭のぶにわによるとあと二人ふたり岡田おかだ勝苞かつしげ栗崎くりさき正明まさあきら二人ふたり名医めいいとのことであった。

 岡田おかだ勝苞かつしげ天野あまの敬登たかなりよりもひと年下とししたぎないものの、それでも技量ぎりょうたしかであり、一方いっぽう栗崎くりさき正明まさあきらよわい53と仕事しごとざかりであり、岡田おかだ勝苞同様かつしげどうよう、その技量ぎりょうはこれまたたしかなもので、おもてばん外科げかなかでもこの岡田おかだ勝苞かつしげ栗崎くりさき正明まさあきら双璧そうへきをなしているとのことであった。

 治済はるさだ遊佐ゆさ信庭のぶにわよりそうかされて当然とうぜん表情ひょうじょうくもらせた。

るいは岡田おかだ栗崎くりさき、この両名りょうめい山城おきともめのきず適切てきせつ療治りょうじするやもれぬな…」

 最悪さいあく岡田おかだ勝苞かつしげ栗崎くりさき正明まさあきら二人ふたり名医めいい意知おきともたすける可能性かのうせいもありた。

「されば…、なんとしてでも、岡田おかだ栗崎くりさき二人ふたりには朝番あさばんつとめさせぬわけにはゆかぬな…」

 治済はるさだひとごとようにそうつぶやくと、「おそれながら…」と遊佐ゆさ信庭のぶにわこえってはいった。

ゆるす。もうせ」

 治済はるさだ遊佐ゆさ信庭のぶにわうながすと、信庭のぶにわ岡田おかだ勝苞かつしげ栗崎くりさき正明まさあきら朝番あさばんつとめさせないさくについて治済はるさだ進言アドバイスおよんだ。

「されば…、明々後日しあさっての21日には大納言だいなごんさま放鷹ほうようとのこと…」

 遊佐ゆさ信庭のぶにわがそう切出きりだしたので、治済はるさだ素早すばやかんはたらかせた。

「もしや…、岡田おかだ栗崎くりさき両名りょうめい家斉いえなり鷹狩たかがりに扈従こしょうさせようともうすのか?」

 治済はるさだ先回さきまわりしてそうたずねると、遊佐ゆさ信庭のぶにわも、「御意ぎょい」とおうじた。

 遊佐ゆさ信庭のぶにわによると、鷹狩たかがりに扈従こしょうした医師いしはその翌日よくじつつとめはゆるされ、さらにその翌日よくじつより勤務きんむ再開さいかいとのことである。

 おもてばん外科医げかい岡田おかだ勝苞かつしげ栗崎くりさき正明まさあきら二人ふたりれいれば、かり明々後日しあさっての3月21日に予定よていされている家斉いえなり鷹狩たかがりに扈従こしょうしたならば、翌日よくじつの22日はやすみとなり、23日より朝番あさばんより勤務きんむ再開さいかいとなる。

「されば24日は当番とうばんとなり…」

 遊佐ゆさ信庭のぶにわひか口調くちょうでそうげると、治済はるさだ信庭のぶにわの言わんとすることには気付きづいて

 朝番あさばん翌日よくじつ勤務シフト当番とうばんというのが仕来しきたりであり、そうなれば岡田おかだ勝苞かつしげ栗崎くりさき正明まさあきら二人ふたりから意知おきとも治療ちりょうする機会チャンスうばうことが出来できる。

岡田おかだ養仙ようせん栗崎くりさき道巴どうは登城とじょうせしははやくとも、当番とうばんはじまりし昼八つ(午後2時頃)より四半刻しはんとき(約30分)まえなれば…」

 すなわち、午後1時半ごろであれば、すで意知おきともおそわれて、朝番あさばんおもてばん外科医げかい意知おきとも治療ちりょうしているころであろう。

 いやしかしたら岡田おかだ勝苞かつしげ栗崎くりさき正明まさあきら治療ちりょうってはい可能性かのうせいもありた。

 治済はるさだがその可能性かのうせいおもいをせると、遊佐ゆさ信庭のぶにわもそうと気付きづいたらしく、そこで關本せきもと春臺しゅんだい壽熈としてる鹿倉しかくら以仙いせん格甫のりよし二人ふたり外科医げかい朝番あさばん勤務シフトはいらせることを提案ていあんしたのであった。

 關本壽熈せきもととしてるにしろ、鹿倉格甫しかくらのりよしにしろ、とも一橋家ひとつばしけ所縁ゆかりがあった。

 すなわち、關本壽熈せきもととしてる実姉じっし一橋ひとつばし家臣かしん松本まつもと主税ちから峯盈みねみつつまであり、実妹じつまいはその養女ようじょとしてむかえられ、一方いっぽう鹿倉格甫しかくらのりよし妻女さいじょ勘定かんじょう西村にしむら惣兵衛そうべえ元典もとのり実妹じつまいであるのだが、この西村にしむら惣兵衛そうべえ一橋ひとつばし家臣かしん田村たむら三大夫さんだゆう幸秀ゆきひでまご富之助とみのすけ元友もととも養嗣子ようししとしてもらけており、鹿倉格甫しかくらのりよし一橋ひとつばし家臣かしん田村たむら三大夫さんだゆう幸秀ゆきひでまごである富之助とみのすけとは義理ぎりとはもうせ、叔母おばおい関係かんけいにあった。

 かる次第しだいで、治済はるさだ夫々それぞれ松本まつもと主税ちから田村たむら三大夫さんだゆうかいして、おもてばん外科医げかい關本壽熈せきもととしてる鹿倉格甫しかくらのりよし二人ふたりをも手懐てなずけており、そのことは遊佐ゆさ信庭のぶにわ把握はあくしていた。

 そこで朝番あさばんとして、天野あまの敬登たかなりくわえて、關本壽熈せきもととしてる鹿倉格甫しかくらのりよし二人ふたりくわわれば、たとえば天野あまの敬登たかなり意知おきとも治療ちりょう手間取てまどっているところに岡田おかだ勝苞かつしげ栗崎くりさき正明まさあきら二人ふたり姿すがたせ、天野あまの敬登たかなり治療ちりょう手際てぎわわるさをかねた岡田おかだ勝苞かつしげ栗崎くりさき正明まさあきら治療ちりょうわろうとしても、關本壽熈せきもととしてる鹿倉格甫しかくらのりよし二人ふたりにそれを阻止そしさせることも可能かのうであった。

 いやおもてばん外科医げかいだけではなく、おもてばん医師いしにもそれが可能かのうであった。

 すなわち、意知暗殺決行おきともあんさつけっこうの3月24日、内科ないかおもてばん医師いしにおいては遊佐ゆさ信庭のぶにわほかに、峰岸みねぎし春庵しゅんあん瑞興よしおき中川なかがわ隆玄りゅうげん瑞照のぶてる朝番あさばんであり、しくも、そして治済はるさだにとってはなんとも都合つごういことに、峰岸瑞興みねぎしよしおき中川瑞照なかがわのぶてる二人ふたりもまた、おのれ手懐てなずけておいた医師いしであった。

 すなわち、峰岸瑞興みねぎしよしおき中川瑞照なかがわのぶてるとはじつ兄弟きょうだいであり、瑞照のぶてる中川專庵義方なかがわせんあんよしかた養嗣子ようししむかえられ、いえいだわけだが、この中川瑞照なかがわのぶてるいま一橋ひとつばし家臣かしん鈴木すずき玄昌げんしょう常曉つねあきむすめめとっており、そこで治済はるさだはこの鈴木すずき常曉つねあきかいして、まずは中川瑞照なかがわのぶてる手懐てなずけ、いでそのじつあにである峰岸瑞興みねぎしよしおきにも触手しょくしゅばしたのであった。

 それゆえ遊佐ゆさ信庭のぶにわくわえて、その峰岸瑞興みねぎしよしおき中川瑞照なかがわよしてる朝番あさばん勤務シフトはいるとなると、治済はるさだにとってはまさおに金棒かなぼうと言えた。

 遊佐ゆさ信庭のぶにわ峰岸瑞興みねぎしよしおき、そして中川瑞照なかがわよしてるにも名医めいい岡田おかだ勝苞かつしげ栗崎くりさき正明まさあきら治療ちりょう阻止そしさせることが出来できるからだ。

相分あいわかった…、されば鷹狩たかがりのけん早速さっそくにも若年寄わかどしより首座しゅざ酒井さかい石見いわみめいじようぞ…」

 治済はるさだはそうおうじると、ひるの八つ半(午後3時頃)に一橋ひとつばし上屋敷かみやしきもどれるよう、それを見計みはからい、霊巌島れいがんじまにある福井ふくいはん中屋敷なかやしきをあとにした。

 治済はるさだ一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしきもどったのはひるの八つ半(午後3時頃)のすこまえのことであった。

 治済はるさだ帰邸きていおよぶなり、岩本いわもと喜内きない西之丸にしのまるそば用取次ようとりつぎ小笠原おがさわら若狭守わかさのかみ信喜のぶよし屋鋪やしきへと差向さしむけた。

明々後日しあさっての21日に予定よていされている家斉いえなり鷹狩たかがりにおいて、おもてばん外科医げかい岡田おかだ勝苞かつしげ栗崎くりさき正明まさあきら二人ふたり扈従こしょうさせたいと、明日あすにでも小笠原おがさわら信喜のぶよしからそう提案ていあんしてしい…」

 治済はるさだ岩本いわもと喜内きないにその伝言でんごんたくした。

 治済はるさだ同時どうじに、久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ若年寄わかどしより筆頭ひっとう酒井さかい忠休ただよしもとへと差向さしむけた。

明日あすにでも西之丸にしのまるそば用取次ようとりつぎ小笠原おがさわら信喜のぶよし明々後日しあさっての21日に予定よていされている家斉いえなり鷹狩たかがりにおいて、おもてばん外科医げかい岡田おかだ勝苞かつしげ栗崎くりさき正明まさあきら二人ふたり扈従こしょうさせたいと、そう提案ていあんさせるので、その場合ばあいおもてばん医師いし支配しはいやくである本丸ほんまる若年寄わかどしよりへとこのけん上申じょうしんされるであろうから、そのおりには酒井さかい忠休ただよしには若年寄わかどしより筆頭ひっとうとして是非ぜひとも賛成さんせいしてしい…」

 そのうえで、岡田おかだ勝苞かつしげ栗崎くりさき正明まさあきら二人ふたり意知暗殺決行おきともあんさつけっこうである3月24日に朝番あさばんつとめる予定よていであるが、忠休ただよしには若年寄わかどしより筆頭ひっとう権限けんげんにてこれを關本壽熈せきもととしてる鹿倉格甫しかくらのりよし二人ふたりえてしいと、治済はるさだ久田ひさだ縫殿助ぬいのすけにそう伝言でんごんたくしたのであった。

 かくして、岩本いわもと喜内きない久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ夫々それぞれ小笠原おがさわら信喜のぶよし酒井さかい忠休ただよしもとへといそぎ、最初さいしょもどってたのは岩本いわもと喜内きないであり、委細いさい承知しょうちとの小笠原おがさわら信喜のぶよし返答へんとう治済はるさだつたえた。

 一方いっぽう酒井さかい忠休ただよしもとへとかった久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ治済はるさだもとへともどってたのはそれよりも半刻はんとき(約1時間)程後ほどのちのことであった。

 これは小笠原おがさわら信喜同様のぶよしどうよう

委細いさい承知しょうち…」

 その返答へんとうくわえて、さら治済宛はるさだあての「報告ほうこく」があったからだ。

 すなわち、老中ろうじゅうひるの「まわり」のさい中之間なかのまめる小普請こぶしんぐみ支配しはい新番頭しんばんがしら、そして留守居るすいばんようや判明はんめいしたので、忠休ただよしはそれを治済はるさだつたえるべく、つかいの久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ治済はるさだへの報告ほうこくたくしたのであった。

 小普請こぶしんぐみ支配しはい新番頭しんばんがしら、そして留守居るすいばんみな中之間なかのま殿中でんちゅうせきとし、本来ほんらいならば平日へいじつ毎日まいにちひるにはその殿中でんちゅうせきである中之間なかのまにて老中ろうじゅう出迎でむかえられるようおもわれるであろう。

 だが実際じっさいには小普請こぶしんぐみ支配しはい新番頭しんばんがしら留守居るすいばんかぎっては全員ぜんいんではなく一人ひとりだけがひる中之間なかのまめて老中ろうじゅう出迎でむかえられるにぎなかった。

 それゆえ彼等かれら平日へいじつひるにおいては毎日まいにち一人ひとり交代こうたい中之間なかのまめ、老中ろうじゅう出迎でむかえることになり、そのうち小普請こぶしんぐみ支配しはい留守居るすいばん老中ろうじゅう支配しはいであるために、酒井さかい忠休ただよしとしても24日のひる小普請こぶしんぐみ支配しはいおよ留守居るすいばんよりはだれ中之間なかのまめて老中ろうじゅう出迎でむかえるのか、それを把握はあくするのに手間取てまどり、今日きょう18日になってようやくにそれを把握はあくした次第しだいであった。

 すなわち、24日のひるには小普請こぶしんぐみ支配しはいよりは中坊なかのぼう金蔵廣看きんぞうひろみつが、留守居るすいばんよりは堀内膳長政ほりないぜんながまさが、夫々それぞれ老中ろうじゅう出迎でむかえるべく中之間なかのまめるそうな。

 一方いっぽう新番頭しんばんがしらだが、こちらは若年寄わかどしより支配しはい役目やくめであり、そうであればその若年寄わかどしより筆頭ひっとう筆頭ひっとうである酒井さかい忠休ただよし権限けんげんってすれば、24日のひるにはたして新番頭しんばんがしらよりはだれ中之間なかのまめて老中ろうじゅう出迎でむかえるのか、その程度ていどのことを把握はあくすることなど容易たやすはずであった。

 実際じっさい、それ以前いぜんに24日のひるには新番頭しんばんがしらにおいては4番組ばんぐみたばねる松平まつだいら忠香ただよし中之間なかのまめることを酒井さかい忠休ただよし把握はあくしていた。

 だがとう松平まつだいら忠香ただよしが、それでは意知おきとも暗殺あんさつ現場げんば居合いあわせることになるのでいやだと駄々だだね、挙句あげく忠香ただよし敵対視ライバルしする6番組ばんぐみたばねる飯田いいだ能登守のとのかみ易信かねのぶえてしいと、そうも駄々だだねたことから、酒井さかい忠休ただよしはその調整ちょうせい手間取てまどり、今日きょうになってようやくにその調整ちょうせいいた次第しだいであった。

 新番しんばんなかでも飯田いいだ易信かねのぶ番頭ばんがしらとしてたばねる4番組ばんぐみがいつも、その勤務きんむ態度たいど将軍しょうぐん家治いえはるより賞揚しょうようされ、褒詞ほうしたまわること度々たびたびであり、それが松平まつだいら忠香ただよしわぬところであり、そこで忠香ただよし意知暗殺おきともあんさつ現場げんばにはおのれではなく飯田いいだ易信かねのぶ居合いあわせてもらうことをのぞんだのだ。

 意知暗殺おきともあんさつ現場げんば居合いあわせながら、意知おきともたすけられなかったとなれば、それが武官ぶかんである番方ばんかたであったならばきびしいとがめが予想よそうされた。

 つまり、意知おきともたすけられなかった飯田いいだ易信かねのぶなんらかのペナルティあたえられることが期待きたい出来できた。

 なにしろ、飯田いいだ易信かねのぶ新番頭しんばんがしらというバリバリの武官ぶかん、それも番方ばんかたたばねるトップであるからだ。

 いやかり飯田いいだ易信かねのぶ自身じしん意知おきともたすけるつもりでも、留守居るすい太田おおた資倍すけますか、あるいは大目付おおめつけ松平まつだいら忠郷たださと阻止そしさせるつもりであり、その場合ばあいでも飯田いいだ易信かねのぶ意知おきともたすけられなかったことにわりはなく、なんらかのペナルティあたえられることになる。

 一方いっぽう留守居るすい大目付おおめつけ文官ぶんかんである役方やくかたであるので、かり意知おきともたすけられなかったとしても、どんなにおもくとも精々せいぜい差控さしひか程度ていどであろう。

 ましてや留守居るすい大目付おおめつけ老齢ろうれい名誉職めいよしょくよう閑職かんしょくであり、それならば意知おきともたすけられずともいたかたないと、ばっせられることすらないやもれず、太田おおた資倍すけますにしろ松平まつだいら忠郷たださとにしろ、そのことを十分じゅうぶん把握はあくしていたので、治済はるさだ協力きょうりょくちかったのであった。

 ともあれかる事情じじょうから忠香ただよしは24日のひるにおいては中之間なかのまにて老中ろうじゅう出迎でむかえる新番頭しんばんがしらおのれではなく飯田いいだ易信かねのぶえてしいと駄々だだね、そこで新番頭しんばんがしら支配しはいする若年寄わかどしよりなかでも筆頭ひっとうである酒井さかい忠休ただよしがそのおのれ権限けんげんをフル稼動かどうさせて、なんとか忠香ただよしのご希望きぼうどおり、24日のひるには飯田いいだ易信かねのぶ中之間なかのまめさせることに成功せいこうし、忠休ただよしはそれらを治済はるさだつたえようとしていたところに久田ひさだ縫殿助ぬいのすけあわられた次第しだいであった。

 酒井さかい忠休ただよし久田ひさだ縫殿助ぬいのすけより、治済はるさだ伝言でんごんかされて、あらためて治済はるさだ情報収集力じょうほうしゅうしゅうりょくおどろかされたものであり、つづいて今度こんどおのれ治済はるさだへとつたえようとしていたそれら一切いっさいけんについて久田ひさだ縫殿助ぬいのすけかたってかせ、治済はるさだへとつたえてくれるようたのんだのであった。

 さて、治済はるさだ久田ひさだ縫殿助ぬいのすけより酒井さかい忠休ただよし伝言でんごんいて、まずは「でかした」と忠休ただよしはたらきをめた。

 治済はるさだはそのうえで、小普請こぶしんぐみ支配しはい中坊なかのぼう金蔵廣看きんぞうひろみつおおいにかれた。

 それと言うのも治済はるさだにはその聞覚ききおぼえがあり、なにかくそう、治済はるさだ手懐てなずけ、つ、家基毒殺いえもとどくさつにも協力きょうりょくしてくれた小笠原おがさわら信喜のぶよし娘婿むすめむこであった。

 中坊なかのぼう金蔵きんぞう小笠原おがさわら信喜のぶよし次女じじょめとっており、そうであれば岳父がくふである小笠原おがさわら信喜のぶよしより、

意知暗殺おきともあんさつ現場げんば際会さいかいしても、意知おきともたすけぬよう…、かり留守居るすいばんや、あるいは新番頭しんばんがしら意知おきともたすけようとしたならば、これを阻止そしするように…」

 婿むこである中坊なかのぼう金蔵きんぞうへとそう言含いいふくめてもらうことも可能かのうやもれぬと、治済はるさだはそうかんがえ、そこで翌日よくじつの19日、治済はるさだはいつものよう御城えどじょうへと登城とじょうすると、西之丸にしのまるへもあしはこんだ。さいわいにも19日ははやし忠篤ただあつ登城とじょうするばんでもあったからだ。

せがれ家斉いえなりため…」

 治済はるさだはその名目めいもく西之丸にしのまるへとあしはこび、実際じっさいには家斉いえなり側近そばちかくにつかえる小笠原おがさわら信喜のぶよしった。

 小笠原おがさわら信喜のぶよし治済はるさだ面会めんかいするなり、まずは治済はるさだからめいじられたとお明後日あさって21日の家斉いえなり鷹狩たかがりにおもてばん外科医げかい岡田おかだ勝苞かつしげ栗崎くりさき正明まさあきら二人ふたり扈従こしょうさせることを提案ていあんしたと、つたえた。

 治済はるさだ信喜のぶよしねぎらうと、そこで信喜のぶよしはじめて意知暗殺計画おきともあんさつけいかく打明うちあけ、それで信喜のぶよし岡田おかだ勝苞かつしげ栗崎くりさき正明まさあきら二人ふたり家斉いえなり鷹狩たかがりに扈従こしょうさせようとする治済はるさだ真意しんいさとった。

 治済はるさだはそのうえで、信喜のぶよし娘婿むすめむこである小普請こぶしんぐみ支配しはい中坊なかのぼう金蔵きんぞうについて、岳父がくふである信喜のぶよしから中坊なかのぼう金蔵きんぞうへと意知暗殺計画おきともあんさつけいかくに「協力きょうりょく」するようさとしてしいと、そうたのんだのであった。

 それにたいして小笠原おがさわら信喜のぶよし勿論もちろん、「委細いさい承知しょうち」とおうじたうえで、

「されば中坊なかのぼう金蔵きんぞういま従六位じゅろくい布衣ほいやく小普請こぶしんぐみ支配しはいなれば、ゆくゆくは従五位下じゅごいのげ諸大夫しょだいぶやくに…」

 つまりは書院番しょいんばんがしらか、小姓こしょう組番ぐみばんがしらへと昇進しょうしんさせてしいと、治済はるさだにそんな「交換こうかん条件じょうけん」を持出もちだしたのであった。

 抜目ぬけめないとはまさにこのことで、治済はるさだ内心ないしん苦笑くしょうしつつもうなずいてみせた。

 一方いっぽう酒井さかい忠休ただよし若年寄わかどしより筆頭ひっとうとしての権限けんげんをフル稼動かどうして、岡田おかだ勝苞かつしげ栗崎くりさき正明まさあきら二人ふたりおもてばん外科医げかい明後日あさって21日の家斉いえなり鷹狩たかがりに扈従こしょうさせることを将軍しょうぐん家治いえはる直談判じかだんぱん家治いえはるにこれをみとめさせると同時どうじに、3月24日の朝番あさばんつとめるはずであった岡田おかだ勝苞かつしげ栗崎くりさき正明まさあきらえて、關本壽熈せきもととしてる鹿倉格甫しかくらのりよし朝番あさばんつとめさせることをも家治いえはるみとめさせたのであった。

 これは昨日きのう鷹狩たかがりにおいて、その直前ちょくぜん酒井さかい忠休ただよし家治いえはるたいして、加納かのう久堅ひさかた扈従こしょうさせてはと、そう提案ていあんしてくれたことへの返礼へんれい、おかえしの意味いみめられていた。

 無論むろん、それが一橋ひとつばし治済はるさだえがいた意知暗殺計画おきともあんさつけいかく一環いっかんであるなどとは、さしもの将軍しょうぐん家治いえはるもそのとき気付きづかなかった。

 かくして、意知暗殺計画おきともあんさつけいかく外堀そとぼり完全かんぜんまった格好かっこうであり、あとは本丸ほんまるとも言うべき佐野さの善左衛門ぜんざえもん陥落おとすのみであった。
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僕のクラスには、保健室に登校している「吉田さん」という女の子がいた。 吉田さんは目が大きくてとても可愛らしく、いつも艶々な髪をなびかせていた。 吉田さんはクラスにあまりなじめておらず、朝のHRが終わると帰りの時間まで保健室で過ごしていた。 僕は吉田さんと話したことはなかったけれど、大人っぽさと綺麗な容姿を持つ吉田さんに密かに惹かれていた。 そんな吉田さんには、ある噂があった。 「授業中に保健室に行けば、性処理をしてくれる子がいる」 それが吉田さんだと、男子の間で噂になっていた。

体育教師に目を付けられ、理不尽な体罰を受ける女の子

恩知らずなわんこ
現代文学
入学したばかりの女の子が体育の先生から理不尽な体罰をされてしまうお話です。

小沢機動部隊

ypaaaaaaa
歴史・時代
1941年4月10日に世界初の本格的な機動部隊である第1航空艦隊の司令長官が任命された。 名は小沢治三郎。 年功序列で任命予定だった南雲忠一中将は”自分には不適任”として望んで第2艦隊司令長官に就いた。 ただ時局は引き返すことが出来ないほど悪化しており、小沢は戦いに身を投じていくことになる。 毎度同じようにこんなことがあったらなという願望を書き綴ったものです。 楽しんで頂ければ幸いです!

吉宗のさくら ~八代将軍へと至る道~

裏耕記
歴史・時代
破天荒な将軍 吉宗。民を導く将軍となれるのか ――― 将軍?捨て子? 貴公子として生まれ、捨て子として道に捨てられた。 その暮らしは長く続かない。兄の不審死。 呼び戻された吉宗は陰謀に巻き込まれ将軍位争いの旗頭に担ぎ上げられていく。 次第に明らかになる不審死の謎。 運命に導かれるようになりあがる吉宗。 将軍となった吉宗が隅田川にさくらを植えたのはなぜだろうか。 ※※ 暴れん坊将軍として有名な徳川吉宗。 低迷していた徳川幕府に再び力を持たせた。 民の味方とも呼ばれ人気を博した将軍でもある。 徳川家の序列でいくと、徳川宗家、尾張家、紀州家と三番目の家柄で四男坊。 本来ならば将軍どころか実家の家督も継げないはずの人生。 数奇な運命に付きまとわれ将軍になってしまった吉宗は何を思う。 本人の意思とはかけ離れた人生、権力の頂点に立つのは幸運か不運なのか…… 突拍子もない政策や独創的な人事制度。かの有名なお庭番衆も彼が作った役職だ。 そして御三家を模倣した御三卿を作る。 決して旧来の物を破壊するだけではなかった。その効用を充分理解して変化させるのだ。 彼は前例主義に凝り固まった重臣や役人たちを相手取り、旧来の慣習を打ち破った。 そして独自の政策や改革を断行した。 いきなり有能な人間にはなれない。彼は失敗も多く完全無欠ではなかったのは歴史が証明している。 破天荒でありながら有能な将軍である徳川吉宗が、どうしてそのような将軍になったのか。 おそらく将軍に至るまでの若き日々の経験が彼を育てたのだろう。 その辺りを深堀して、将軍になる前の半生にスポットを当てたのがこの作品です。 本作品は、第9回歴史・時代小説大賞の参加作です。 投票やお気に入り追加をして頂けますと幸いです。

始業式で大胆なパンチラを披露する同級生

サドラ
大衆娯楽
今日から高校二年生!…なのだが、「僕」の視界に新しいクラスメイト、「石田さん」の美し過ぎる太ももが入ってきて…

人違いで同級生の女子にカンチョーしちゃった男の子の話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

鐘ヶ岡学園女子バレー部の秘密

フロイライン
青春
名門復活を目指し厳しい練習を続ける鐘ヶ岡学園の女子バレー部 キャプテンを務める新田まどかは、身体能力を飛躍的に伸ばすため、ある行動に出るが…

徳川家基、不本意!

克全
歴史・時代
幻の11代将軍、徳川家基が生き残っていたらどのような世の中になっていたのか?田沼意次に取立てられて、徳川家基の住む西之丸御納戸役となっていた長谷川平蔵が、田沼意次ではなく徳川家基に取り入って出世しようとしていたらどうなっていたのか?徳川家治が、次々と死んでいく自分の子供の死因に疑念を持っていたらどうなっていたのか、そのような事を考えて創作してみました。

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