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田沼意知暗殺への大詰め ~意知暗殺計画も大詰めの大詰めを迎え、全ての外堀は埋まった~
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将軍・家治が王子村の邊へと鷹狩りに赴いた3月18日、一橋治済は霊巌島にある福井藩中屋敷へと赴いた。
福井藩中屋敷は川に囲まれており、そこで治済は本来ならば例の如く、一橋上屋敷の大奥より脱出し、船を仕立てるべきところ、今日はそうはせずに、徒歩にて赴いたのであった。
それと言うのも今日は将軍の鷹狩りということで、「交通規制」が大規模な敷かれており、それは川にまで及ぶ。
川という川、水主同心が巡視船を操っており、船を見掛ければ当然、誰何する。
仮に治済が船を仕立てて、霊巌島にある福井藩中屋敷へと向かおうものなら、必ずや水主同心の目に留まり、誰何されるのは必定。
無論、相手が御三卿の一橋治済だと分かれば、水主同心も当然、通行を許すであろうが、しかし、船を仕立ててまで福井藩中屋敷へと赴いたことは水主同心より船手頭を介して幕府へと報告されることになる。
それは家治へと報せが届くことを意味し、そうなれば家治のことである、
「余が放鷹の時を狙うて態々、船を仕立てて福井藩中屋敷へと向かうとは一体、何事ぞ…」
必ずや、そう疑念に思い、果たして家老はこのことを承知しているのかと、林忠篤と水谷勝富の両名を糺すことも考えられた。
その場合、林忠篤と水谷勝富の二人に「籠脱け」の事実がバレることになる。
林忠篤は良いとしても、水谷勝富に「籠脱け」の事実がバレるのは治済としては甚だ都合が悪かった。
そこで治済は今日は堂々と表門より福井藩中屋敷へと足を運んだ次第であった。
その方が怪しまれずに済むからだ。
当然、治済一人ではなく、家老の林忠篤と水谷勝富を随えて、霊巌島へと足を運んだのであった。
尤も、林忠篤と水谷勝富が、とりわけ勝富が治済に、
「ピタリと…」
張付くことが出来たのは福井藩中屋敷の表向までであり、大奥へは治済一人が足を運び、そこで実兄の松平越前守重富と、それに「今日の主役」とも言うべき遊佐卜庵信庭との「密会」に臨んだ。
遊佐信庭は幕府の表番医師であったが、それだけではなく治済の片腕でもあった。
遊佐信庭は実弟、荒二郎信鷹と共に、今は一橋家大奥にて老女を勤める岡村に養われた過去を持ち、それ故、遊佐信庭はその所縁により治済と通じており、家基毒殺の折にも多大なる「貢献」をした。
その遊佐信庭はここ霊巌島の福井藩中屋敷より程近い北八丁堀にある長澤町にて診療所を兼ねた屋鋪に住んでおり、そこで今日、治済はその遊佐信庭との「密会」に臨むに当たり、ここ霊巌島にある福井藩中屋敷をその場所として選んだのであった。
さて、治済がそうまでして遊佐信庭との「密会」に臨んだのは外でもない、
「意知暗殺決行日である天明4(1784)年3月24日の表番外科の勤務を知る為…」
それに尽きた。
3月24日、その日、それも朝五つ(午前8時頃)より昼八つ(午後2時頃)までの朝番を勤める表番外科の勤務が知りたかったのだ。
仮に、表番外科の中でも名医が朝番の勤務に入っていたならば、昼の九つ半(午後1時頃)過ぎに襲われる予定の意知を適切に治療してしまう恐れがあり得た。
表番医師は平日は交代で医師溜に詰め、殿中表向にて病人や、或いは怪我人が出たならば、直ちに治療に当たる。
そこで意知暗殺を企む治済としては意知が襲われる予定の昼の九つ半(午後1時頃)過ぎ、即ち、その間の朝五つ(午前8時頃)より昼八つ(午後2時頃)までの朝番の勤務に入る医師、それも表番外科の医師には出来れば、否、絶対に名医でない者が相応しかったのだ。
遊佐信庭なれば内科医とは申せ、表番医師であるので当然、表番外科の勤務についても把握していた。
「されば…、24日の朝番を勤めしは天野良順敬登と岡田養仙勝苞、そして栗崎道巴正明の3人にて…」
表番外科に属する医師は内科である表番医師とは異なり、
「基本的には宿直がない」
ということで、宵五つ(午後8時頃)より翌、暁八つ(午前2時頃)までの宵番と暁八つ(午前2時頃)より朝五つ(午前8時頃)までの不寝番はなく、|あるのは朝番と、それに昼八つ(午後2時頃)より宵五つ(午後8時頃)までの当番の勤務だけであった。
それ故、表番外科医は内科の表番医師よりも人数が少なく、約半分程度であった。
そこで表番医師も表番外科医も3人で勤務を勤め、3月24日の朝番の勤務に入る表番外科医は天野敬登と岡田勝苞、栗崎正明の3人とのことであった。
「してその3人の技量は如何に?」
名医か否か、治済は遊佐信庭にその点を糺した。
「されば天野良順につきましては何ら問題はなく…」
何ら問題はない、というのはつまりは名医ではないことを示唆していた。
事実、天野敬登は齢67であり、手許も覚束無く、縫合さえもままならないという有様であった。
だが遊佐信庭によると後の二人、岡田勝苞と栗崎正明の二人は名医とのことであった。
岡田勝苞は天野敬登よりも一つ年下に過ぎないものの、それでも技量は確かであり、一方、栗崎正明は齢53と仕事盛りであり、岡田勝苞同様、その技量はこれまた確なもので、表番外科の中でもこの岡田勝苞と栗崎正明が双璧をなしているとのことであった。
治済は遊佐信庭よりそう聞かされて当然、表情を曇らせた。
「或るいは岡田、栗崎、この両名が山城めの疵を適切に療治するやも知れぬな…」
最悪、岡田勝苞と栗崎正明の二人の名医が意知を助ける可能性もあり得た。
「されば…、何としてでも、岡田、栗崎の二人には朝番を勤めさせぬ訳にはゆかぬな…」
治済が独り言の様にそう呟くと、「畏れながら…」と遊佐信庭の声が割って入った。
「許す。申せ」
治済が遊佐信庭を促すと、信庭は岡田勝苞と栗崎正明に朝番を勤めさせない策について治済に進言に及んだ。
「されば…、明々後日の21日には大納言様が御放鷹とのこと…」
遊佐信庭がそう切出したので、治済も素早く勘を働かせた。
「もしや…、岡田、栗崎の両名を家斉が鷹狩りに扈従させようと申すのか?」
治済が先回りしてそう尋ねると、遊佐信庭も、「御意」と応じた。
遊佐信庭によると、鷹狩りに扈従した医師はその翌日の勤めは許され、更にその翌日より勤務再開とのことである。
表番外科医の岡田勝苞と栗崎正明の二人を例に取れば、仮に明々後日の3月21日に予定されている家斉の鷹狩りに扈従したならば、翌日の22日は休みとなり、23日より朝番より勤務再開となる。
「されば24日は当番となり…」
遊佐信庭が控え目な口調でそう告げると、治済も信庭の言わんとすることには気付いて
朝番の翌日の勤務は当番というのが仕来りであり、そうなれば岡田勝苞と栗崎正明の二人から意知を治療する機会を奪うことが出来る。
「岡田養仙と栗崎道巴が登城せしは早くとも、当番が始まりし昼八つ(午後2時頃)より四半刻(約30分)前なれば…」
即ち、午後1時半頃であれば、既に意知が襲われて、朝番の表番外科医が意知を治療している頃であろう。
否、若しかしたら岡田勝苞と栗崎正明が治療に割って入る可能性もあり得た。
治済がその可能性に思いを馳せると、遊佐信庭もそうと気付いたらしく、そこで關本春臺壽熈と鹿倉以仙格甫の二人の外科医を朝番の勤務に入らせることを提案したのであった。
關本壽熈にしろ、鹿倉格甫にしろ、共に一橋家と所縁があった。
即ち、關本壽熈は実姉が一橋家臣の松本主税峯盈の妻であり、実妹はその養女として迎えられ、一方、鹿倉格甫が妻女は勘定の西村惣兵衛元典が実妹であるのだが、この西村惣兵衛は一橋家臣の田村三大夫幸秀が孫の富之助元友を養嗣子として貰い受けており、鹿倉格甫と一橋家臣の田村三大夫幸秀の孫である富之助とは義理とは申せ、叔母と甥の関係にあった。
斯かる次第で、治済は夫々、松本主税と田村三大夫を介して、表番外科医の關本壽熈と鹿倉格甫の二人をも手懐けており、そのことは遊佐信庭も把握していた。
そこで朝番として、天野敬登に加えて、關本壽熈と鹿倉格甫の二人が加われば、例えば天野敬登が意知の治療に手間取っているところに岡田勝苞と栗崎正明の二人が姿を見せ、天野敬登の治療の手際の悪さを見かねた岡田勝苞と栗崎正明が治療を替わろうとしても、關本壽熈と鹿倉格甫の二人にそれを阻止させることも可能であった。
否、表番外科医だけではなく、表番医師にもそれが可能であった。
即ち、意知暗殺決行日の3月24日、内科の表番医師においては遊佐信庭の外に、峰岸春庵瑞興と中川隆玄瑞照が朝番であり、奇しくも、そして治済にとっては何とも都合の良いことに、峰岸瑞興と中川瑞照の二人もまた、己が手懐けておいた医師であった。
即ち、峰岸瑞興と中川瑞照とは実は兄弟であり、瑞照は中川專庵義方の養嗣子に迎えられ、家を継いだ訳だが、この中川瑞照は今は一橋家臣の鈴木玄昌常曉の娘を娶っており、そこで治済はこの鈴木常曉を介して、まずは中川瑞照を手懐け、次いでその実の兄である峰岸瑞興にも触手を伸ばしたのであった。
それ故、遊佐信庭に加えて、その峰岸瑞興と中川瑞照も朝番の勤務に入るとなると、治済にとっては正に鬼に金棒と言えた。
遊佐信庭や峰岸瑞興、そして中川瑞照にも名医の岡田勝苞や栗崎正明の治療を阻止させることが出来るからだ。
「相分かった…、されば鷹狩りの件、早速にも若年寄首座の酒井石見に命じようぞ…」
治済はそう応じると、昼の八つ半(午後3時頃)に一橋上屋敷に戻れる様、それを見計らい、霊巌島にある福井藩中屋敷をあとにした。
治済が一橋家上屋敷に戻ったのは昼の八つ半(午後3時頃)の少し前のことであった。
治済は帰邸に及ぶなり、岩本喜内を西之丸御側御用取次の小笠原若狭守信喜の屋鋪へと差向けた。
「明々後日の21日に予定されている家斉の鷹狩りにおいて、表番外科医の岡田勝苞と栗崎正明の二人を扈従させたいと、明日にでも小笠原信喜からそう提案して欲しい…」
治済は岩本喜内にその伝言を託した。
治済は同時に、久田縫殿助を若年寄筆頭の酒井忠休の許へと差向けた。
「明日にでも西之丸御側御用取次の小笠原信喜が明々後日の21日に予定されている家斉の鷹狩りにおいて、表番外科医の岡田勝苞と栗崎正明の二人を扈従させたいと、そう提案させるので、その場合、表番医師の支配役である本丸若年寄へとこの件が上申されるであろうから、その折には酒井忠休には若年寄筆頭として是非とも賛成して欲しい…」
その上で、岡田勝苞と栗崎正明の二人は意知暗殺決行日である3月24日に朝番を勤める予定であるが、忠休には若年寄筆頭の権限にてこれを關本壽熈と鹿倉格甫の二人に替えて欲しいと、治済は久田縫殿助にそう伝言を託したのであった。
かくして、岩本喜内と久田縫殿助は夫々、小笠原信喜と酒井忠休の許へと急ぎ、最初に戻って来たのは岩本喜内であり、委細承知との小笠原信喜の返答を治済に伝えた。
一方、酒井忠休の許へと向かった久田縫殿助が治済の許へと戻って来たのはそれよりも半刻(約1時間)程後のことであった。
これは小笠原信喜同様、
「委細承知…」
その返答に加えて、更に治済宛の「報告」があったからだ。
即ち、老中の昼の「廻り」の際に中之間に詰める小普請組支配と新番頭、そして留守居番が漸く判明したので、忠休はそれを治済に伝えるべく、遣いの久田縫殿助に治済への報告を託したのであった。
小普請組支配と新番頭、そして留守居番は皆、中之間を殿中席とし、本来ならば平日は毎日、昼にはその殿中席である中之間にて老中を出迎えられる様に思われるであろう。
だが実際には小普請組支配と新番頭、留守居番に限っては全員ではなく一人だけが昼、中之間に詰めて老中を出迎えられるに過ぎなかった。
それ故、彼等は平日の昼においては毎日、一人が交代で中之間に詰め、老中を出迎えることになり、その内、小普請組支配と留守居番は老中支配である為に、酒井忠休としても24日の昼に小普請組支配、及び留守居番よりは誰が中之間に詰めて老中を出迎えるのか、それを把握するのに手間取り、今日18日になって漸くにそれを把握した次第であった。
即ち、24日の昼には小普請組支配よりは中坊金蔵廣看が、留守居番よりは堀内膳長政が、夫々、老中を出迎えるべく中之間に詰めるそうな。
一方、新番頭だが、こちらは若年寄支配の役目であり、そうであればその若年寄の筆頭の筆頭である酒井忠休の権限を以ってすれば、24日の昼には果たして新番頭よりは誰が中之間に詰めて老中を出迎えるのか、その程度のことを把握することなど容易い筈であった。
実際、それ以前に24日の昼には新番頭においては4番組を束ねる松平忠香が中之間に詰めることを酒井忠休は把握していた。
だが当の松平忠香が、それでは意知の暗殺現場に居合わせることになるので厭だと駄々を捏ね、挙句、忠香が敵対視する6番組を束ねる飯田能登守易信に替えて欲しいと、そうも駄々を捏ねたことから、酒井忠休はその調整に手間取り、今日になって漸くにその調整が着いた次第であった。
新番の中でも飯田易信が番頭として束ねる4番組がいつも、その勤務態度を将軍・家治より賞揚され、褒詞を賜ること度々であり、それが松平忠香の気に喰わぬところであり、そこで忠香は意知暗殺の現場には己ではなく飯田易信に居合わせて貰うことを望んだのだ。
意知暗殺の現場に居合わせながら、意知を助けられなかったとなれば、それが武官である番方であったならば厳しい咎めが予想された。
つまり、意知を助けられなかった飯田易信に何らかの罰を与えられることが期待出来た。
何しろ、飯田易信は新番頭というバリバリの武官、それも番方を束ねるトップであるからだ。
否、仮に飯田易信自身は意知を助けるつもりでも、留守居の太田資倍か、或いは大目付の松平忠郷に阻止させるつもりであり、その場合でも飯田易信が意知を助けられなかったことに変わりはなく、何らかの罰が与えられることになる。
一方、留守居と大目付は文官である役方であるので、仮に意知を助けられなかったとしても、どんなに重くとも精々、差控え程度であろう。
ましてや留守居と大目付は老齢の名誉職、要は閑職であり、それならば意知を助けられずとも致し方ないと、罰せられることすらないやも知れず、太田資倍にしろ松平忠郷にしろ、そのことを十分に把握していたので、治済に協力を誓ったのであった。
ともあれ斯かる事情から忠香は24日の昼においては中之間にて老中を出迎える新番頭を己ではなく飯田易信に替えて欲しいと駄々を捏ね、そこで新番頭を支配する若年寄の中でも筆頭である酒井忠休がその己の権限をフル稼動させて、何とか忠香のご希望通り、24日の昼には飯田易信を中之間に詰めさせることに成功し、忠休はそれらを治済に伝えようとしていたところに久田縫殿助が現れた次第であった。
酒井忠休は久田縫殿助より、治済の伝言を聞かされて、改めて治済の情報収集力に驚かされたものであり、続いて今度は己が治済へと伝えようとしていたそれら一切の件について久田縫殿助に語って聞かせ、治済へと伝えてくれる様、頼んだのであった。
さて、治済は久田縫殿助より酒井忠休の伝言を聞いて、まずは「でかした」と忠休の働きを誉めた。
治済はその上で、小普請組支配の中坊金蔵廣看の名に大いに惹かれた。
それと言うのも治済にはその名に聞覚えがあり、何を隠そう、治済が手懐け、且つ、家基毒殺にも協力してくれた小笠原信喜の娘婿であった。
中坊金蔵は小笠原信喜の次女を娶っており、そうであれば岳父である小笠原信喜より、
「意知暗殺の現場に際会しても、意知を助けぬ様…、仮に留守居番や、或いは新番頭が意知を助けようとしたならば、これを阻止する様に…」
婿である中坊金蔵へとそう言含めて貰うことも可能やも知れぬと、治済はそう考え、そこで翌日の19日、治済はいつもの様に御城へと登城すると、西之丸へも足を運んだ。幸いにも19日は林忠篤が登城する番でもあったからだ。
「倅の家斉に逢う為…」
治済はその名目で西之丸へと足を運び、実際には家斉の御側近くに仕える小笠原信喜に逢った。
小笠原信喜は治済と面会するなり、まずは治済から命じられた通り明後日21日の家斉の鷹狩りに表番外科医の岡田勝苞と栗崎正明の二人を扈従させることを提案したと、伝えた。
治済は信喜を労うと、そこで信喜に初めて意知暗殺計画を打明け、それで信喜も岡田勝苞と栗崎正明の二人を家斉鷹狩りに扈従させようとする治済の真意を悟った。
治済はその上で、信喜の娘婿である小普請組支配の中坊金蔵について、岳父である信喜から中坊金蔵へと意知暗殺計画に「協力」する様、諭して欲しいと、そう頼んだのであった。
それに対して小笠原信喜は勿論、「委細承知」と応じた上で、
「されば中坊金蔵は今は従六位布衣役の小普請組支配なれば、ゆくゆくは従五位下諸大夫役に…」
つまりは書院番頭か、小姓組番頭へと昇進させて欲しいと、治済にそんな「交換条件」を持出したのであった。
抜目ないとは正にこのことで、治済は内心、苦笑しつつも頷いてみせた。
一方、酒井忠休は若年寄筆頭としての権限をフル稼動して、岡田勝苞と栗崎正明の二人の表番外科医を明後日21日の家斉の鷹狩りに扈従させることを将軍・家治に直談判、家治にこれを認めさせると同時に、3月24日の朝番を勤める筈であった岡田勝苞と栗崎正明に替えて、關本壽熈と鹿倉格甫に朝番を勤めさせることをも家治に認めさせたのであった。
これは昨日の鷹狩りにおいて、その直前、酒井忠休が家治に対して、加納久堅も扈従させてはと、そう提案してくれたことへの返礼、お返しの意味が込められていた。
無論、それが一橋治済が描いた意知暗殺計画の一環であるなどとは、さしもの将軍・家治もその時は気付かなかった。
かくして、意知暗殺計画の外堀は完全に埋まった格好であり、あとは本丸とも言うべき佐野善左衛門を陥落すのみであった。
福井藩中屋敷は川に囲まれており、そこで治済は本来ならば例の如く、一橋上屋敷の大奥より脱出し、船を仕立てるべきところ、今日はそうはせずに、徒歩にて赴いたのであった。
それと言うのも今日は将軍の鷹狩りということで、「交通規制」が大規模な敷かれており、それは川にまで及ぶ。
川という川、水主同心が巡視船を操っており、船を見掛ければ当然、誰何する。
仮に治済が船を仕立てて、霊巌島にある福井藩中屋敷へと向かおうものなら、必ずや水主同心の目に留まり、誰何されるのは必定。
無論、相手が御三卿の一橋治済だと分かれば、水主同心も当然、通行を許すであろうが、しかし、船を仕立ててまで福井藩中屋敷へと赴いたことは水主同心より船手頭を介して幕府へと報告されることになる。
それは家治へと報せが届くことを意味し、そうなれば家治のことである、
「余が放鷹の時を狙うて態々、船を仕立てて福井藩中屋敷へと向かうとは一体、何事ぞ…」
必ずや、そう疑念に思い、果たして家老はこのことを承知しているのかと、林忠篤と水谷勝富の両名を糺すことも考えられた。
その場合、林忠篤と水谷勝富の二人に「籠脱け」の事実がバレることになる。
林忠篤は良いとしても、水谷勝富に「籠脱け」の事実がバレるのは治済としては甚だ都合が悪かった。
そこで治済は今日は堂々と表門より福井藩中屋敷へと足を運んだ次第であった。
その方が怪しまれずに済むからだ。
当然、治済一人ではなく、家老の林忠篤と水谷勝富を随えて、霊巌島へと足を運んだのであった。
尤も、林忠篤と水谷勝富が、とりわけ勝富が治済に、
「ピタリと…」
張付くことが出来たのは福井藩中屋敷の表向までであり、大奥へは治済一人が足を運び、そこで実兄の松平越前守重富と、それに「今日の主役」とも言うべき遊佐卜庵信庭との「密会」に臨んだ。
遊佐信庭は幕府の表番医師であったが、それだけではなく治済の片腕でもあった。
遊佐信庭は実弟、荒二郎信鷹と共に、今は一橋家大奥にて老女を勤める岡村に養われた過去を持ち、それ故、遊佐信庭はその所縁により治済と通じており、家基毒殺の折にも多大なる「貢献」をした。
その遊佐信庭はここ霊巌島の福井藩中屋敷より程近い北八丁堀にある長澤町にて診療所を兼ねた屋鋪に住んでおり、そこで今日、治済はその遊佐信庭との「密会」に臨むに当たり、ここ霊巌島にある福井藩中屋敷をその場所として選んだのであった。
さて、治済がそうまでして遊佐信庭との「密会」に臨んだのは外でもない、
「意知暗殺決行日である天明4(1784)年3月24日の表番外科の勤務を知る為…」
それに尽きた。
3月24日、その日、それも朝五つ(午前8時頃)より昼八つ(午後2時頃)までの朝番を勤める表番外科の勤務が知りたかったのだ。
仮に、表番外科の中でも名医が朝番の勤務に入っていたならば、昼の九つ半(午後1時頃)過ぎに襲われる予定の意知を適切に治療してしまう恐れがあり得た。
表番医師は平日は交代で医師溜に詰め、殿中表向にて病人や、或いは怪我人が出たならば、直ちに治療に当たる。
そこで意知暗殺を企む治済としては意知が襲われる予定の昼の九つ半(午後1時頃)過ぎ、即ち、その間の朝五つ(午前8時頃)より昼八つ(午後2時頃)までの朝番の勤務に入る医師、それも表番外科の医師には出来れば、否、絶対に名医でない者が相応しかったのだ。
遊佐信庭なれば内科医とは申せ、表番医師であるので当然、表番外科の勤務についても把握していた。
「されば…、24日の朝番を勤めしは天野良順敬登と岡田養仙勝苞、そして栗崎道巴正明の3人にて…」
表番外科に属する医師は内科である表番医師とは異なり、
「基本的には宿直がない」
ということで、宵五つ(午後8時頃)より翌、暁八つ(午前2時頃)までの宵番と暁八つ(午前2時頃)より朝五つ(午前8時頃)までの不寝番はなく、|あるのは朝番と、それに昼八つ(午後2時頃)より宵五つ(午後8時頃)までの当番の勤務だけであった。
それ故、表番外科医は内科の表番医師よりも人数が少なく、約半分程度であった。
そこで表番医師も表番外科医も3人で勤務を勤め、3月24日の朝番の勤務に入る表番外科医は天野敬登と岡田勝苞、栗崎正明の3人とのことであった。
「してその3人の技量は如何に?」
名医か否か、治済は遊佐信庭にその点を糺した。
「されば天野良順につきましては何ら問題はなく…」
何ら問題はない、というのはつまりは名医ではないことを示唆していた。
事実、天野敬登は齢67であり、手許も覚束無く、縫合さえもままならないという有様であった。
だが遊佐信庭によると後の二人、岡田勝苞と栗崎正明の二人は名医とのことであった。
岡田勝苞は天野敬登よりも一つ年下に過ぎないものの、それでも技量は確かであり、一方、栗崎正明は齢53と仕事盛りであり、岡田勝苞同様、その技量はこれまた確なもので、表番外科の中でもこの岡田勝苞と栗崎正明が双璧をなしているとのことであった。
治済は遊佐信庭よりそう聞かされて当然、表情を曇らせた。
「或るいは岡田、栗崎、この両名が山城めの疵を適切に療治するやも知れぬな…」
最悪、岡田勝苞と栗崎正明の二人の名医が意知を助ける可能性もあり得た。
「されば…、何としてでも、岡田、栗崎の二人には朝番を勤めさせぬ訳にはゆかぬな…」
治済が独り言の様にそう呟くと、「畏れながら…」と遊佐信庭の声が割って入った。
「許す。申せ」
治済が遊佐信庭を促すと、信庭は岡田勝苞と栗崎正明に朝番を勤めさせない策について治済に進言に及んだ。
「されば…、明々後日の21日には大納言様が御放鷹とのこと…」
遊佐信庭がそう切出したので、治済も素早く勘を働かせた。
「もしや…、岡田、栗崎の両名を家斉が鷹狩りに扈従させようと申すのか?」
治済が先回りしてそう尋ねると、遊佐信庭も、「御意」と応じた。
遊佐信庭によると、鷹狩りに扈従した医師はその翌日の勤めは許され、更にその翌日より勤務再開とのことである。
表番外科医の岡田勝苞と栗崎正明の二人を例に取れば、仮に明々後日の3月21日に予定されている家斉の鷹狩りに扈従したならば、翌日の22日は休みとなり、23日より朝番より勤務再開となる。
「されば24日は当番となり…」
遊佐信庭が控え目な口調でそう告げると、治済も信庭の言わんとすることには気付いて
朝番の翌日の勤務は当番というのが仕来りであり、そうなれば岡田勝苞と栗崎正明の二人から意知を治療する機会を奪うことが出来る。
「岡田養仙と栗崎道巴が登城せしは早くとも、当番が始まりし昼八つ(午後2時頃)より四半刻(約30分)前なれば…」
即ち、午後1時半頃であれば、既に意知が襲われて、朝番の表番外科医が意知を治療している頃であろう。
否、若しかしたら岡田勝苞と栗崎正明が治療に割って入る可能性もあり得た。
治済がその可能性に思いを馳せると、遊佐信庭もそうと気付いたらしく、そこで關本春臺壽熈と鹿倉以仙格甫の二人の外科医を朝番の勤務に入らせることを提案したのであった。
關本壽熈にしろ、鹿倉格甫にしろ、共に一橋家と所縁があった。
即ち、關本壽熈は実姉が一橋家臣の松本主税峯盈の妻であり、実妹はその養女として迎えられ、一方、鹿倉格甫が妻女は勘定の西村惣兵衛元典が実妹であるのだが、この西村惣兵衛は一橋家臣の田村三大夫幸秀が孫の富之助元友を養嗣子として貰い受けており、鹿倉格甫と一橋家臣の田村三大夫幸秀の孫である富之助とは義理とは申せ、叔母と甥の関係にあった。
斯かる次第で、治済は夫々、松本主税と田村三大夫を介して、表番外科医の關本壽熈と鹿倉格甫の二人をも手懐けており、そのことは遊佐信庭も把握していた。
そこで朝番として、天野敬登に加えて、關本壽熈と鹿倉格甫の二人が加われば、例えば天野敬登が意知の治療に手間取っているところに岡田勝苞と栗崎正明の二人が姿を見せ、天野敬登の治療の手際の悪さを見かねた岡田勝苞と栗崎正明が治療を替わろうとしても、關本壽熈と鹿倉格甫の二人にそれを阻止させることも可能であった。
否、表番外科医だけではなく、表番医師にもそれが可能であった。
即ち、意知暗殺決行日の3月24日、内科の表番医師においては遊佐信庭の外に、峰岸春庵瑞興と中川隆玄瑞照が朝番であり、奇しくも、そして治済にとっては何とも都合の良いことに、峰岸瑞興と中川瑞照の二人もまた、己が手懐けておいた医師であった。
即ち、峰岸瑞興と中川瑞照とは実は兄弟であり、瑞照は中川專庵義方の養嗣子に迎えられ、家を継いだ訳だが、この中川瑞照は今は一橋家臣の鈴木玄昌常曉の娘を娶っており、そこで治済はこの鈴木常曉を介して、まずは中川瑞照を手懐け、次いでその実の兄である峰岸瑞興にも触手を伸ばしたのであった。
それ故、遊佐信庭に加えて、その峰岸瑞興と中川瑞照も朝番の勤務に入るとなると、治済にとっては正に鬼に金棒と言えた。
遊佐信庭や峰岸瑞興、そして中川瑞照にも名医の岡田勝苞や栗崎正明の治療を阻止させることが出来るからだ。
「相分かった…、されば鷹狩りの件、早速にも若年寄首座の酒井石見に命じようぞ…」
治済はそう応じると、昼の八つ半(午後3時頃)に一橋上屋敷に戻れる様、それを見計らい、霊巌島にある福井藩中屋敷をあとにした。
治済が一橋家上屋敷に戻ったのは昼の八つ半(午後3時頃)の少し前のことであった。
治済は帰邸に及ぶなり、岩本喜内を西之丸御側御用取次の小笠原若狭守信喜の屋鋪へと差向けた。
「明々後日の21日に予定されている家斉の鷹狩りにおいて、表番外科医の岡田勝苞と栗崎正明の二人を扈従させたいと、明日にでも小笠原信喜からそう提案して欲しい…」
治済は岩本喜内にその伝言を託した。
治済は同時に、久田縫殿助を若年寄筆頭の酒井忠休の許へと差向けた。
「明日にでも西之丸御側御用取次の小笠原信喜が明々後日の21日に予定されている家斉の鷹狩りにおいて、表番外科医の岡田勝苞と栗崎正明の二人を扈従させたいと、そう提案させるので、その場合、表番医師の支配役である本丸若年寄へとこの件が上申されるであろうから、その折には酒井忠休には若年寄筆頭として是非とも賛成して欲しい…」
その上で、岡田勝苞と栗崎正明の二人は意知暗殺決行日である3月24日に朝番を勤める予定であるが、忠休には若年寄筆頭の権限にてこれを關本壽熈と鹿倉格甫の二人に替えて欲しいと、治済は久田縫殿助にそう伝言を託したのであった。
かくして、岩本喜内と久田縫殿助は夫々、小笠原信喜と酒井忠休の許へと急ぎ、最初に戻って来たのは岩本喜内であり、委細承知との小笠原信喜の返答を治済に伝えた。
一方、酒井忠休の許へと向かった久田縫殿助が治済の許へと戻って来たのはそれよりも半刻(約1時間)程後のことであった。
これは小笠原信喜同様、
「委細承知…」
その返答に加えて、更に治済宛の「報告」があったからだ。
即ち、老中の昼の「廻り」の際に中之間に詰める小普請組支配と新番頭、そして留守居番が漸く判明したので、忠休はそれを治済に伝えるべく、遣いの久田縫殿助に治済への報告を託したのであった。
小普請組支配と新番頭、そして留守居番は皆、中之間を殿中席とし、本来ならば平日は毎日、昼にはその殿中席である中之間にて老中を出迎えられる様に思われるであろう。
だが実際には小普請組支配と新番頭、留守居番に限っては全員ではなく一人だけが昼、中之間に詰めて老中を出迎えられるに過ぎなかった。
それ故、彼等は平日の昼においては毎日、一人が交代で中之間に詰め、老中を出迎えることになり、その内、小普請組支配と留守居番は老中支配である為に、酒井忠休としても24日の昼に小普請組支配、及び留守居番よりは誰が中之間に詰めて老中を出迎えるのか、それを把握するのに手間取り、今日18日になって漸くにそれを把握した次第であった。
即ち、24日の昼には小普請組支配よりは中坊金蔵廣看が、留守居番よりは堀内膳長政が、夫々、老中を出迎えるべく中之間に詰めるそうな。
一方、新番頭だが、こちらは若年寄支配の役目であり、そうであればその若年寄の筆頭の筆頭である酒井忠休の権限を以ってすれば、24日の昼には果たして新番頭よりは誰が中之間に詰めて老中を出迎えるのか、その程度のことを把握することなど容易い筈であった。
実際、それ以前に24日の昼には新番頭においては4番組を束ねる松平忠香が中之間に詰めることを酒井忠休は把握していた。
だが当の松平忠香が、それでは意知の暗殺現場に居合わせることになるので厭だと駄々を捏ね、挙句、忠香が敵対視する6番組を束ねる飯田能登守易信に替えて欲しいと、そうも駄々を捏ねたことから、酒井忠休はその調整に手間取り、今日になって漸くにその調整が着いた次第であった。
新番の中でも飯田易信が番頭として束ねる4番組がいつも、その勤務態度を将軍・家治より賞揚され、褒詞を賜ること度々であり、それが松平忠香の気に喰わぬところであり、そこで忠香は意知暗殺の現場には己ではなく飯田易信に居合わせて貰うことを望んだのだ。
意知暗殺の現場に居合わせながら、意知を助けられなかったとなれば、それが武官である番方であったならば厳しい咎めが予想された。
つまり、意知を助けられなかった飯田易信に何らかの罰を与えられることが期待出来た。
何しろ、飯田易信は新番頭というバリバリの武官、それも番方を束ねるトップであるからだ。
否、仮に飯田易信自身は意知を助けるつもりでも、留守居の太田資倍か、或いは大目付の松平忠郷に阻止させるつもりであり、その場合でも飯田易信が意知を助けられなかったことに変わりはなく、何らかの罰が与えられることになる。
一方、留守居と大目付は文官である役方であるので、仮に意知を助けられなかったとしても、どんなに重くとも精々、差控え程度であろう。
ましてや留守居と大目付は老齢の名誉職、要は閑職であり、それならば意知を助けられずとも致し方ないと、罰せられることすらないやも知れず、太田資倍にしろ松平忠郷にしろ、そのことを十分に把握していたので、治済に協力を誓ったのであった。
ともあれ斯かる事情から忠香は24日の昼においては中之間にて老中を出迎える新番頭を己ではなく飯田易信に替えて欲しいと駄々を捏ね、そこで新番頭を支配する若年寄の中でも筆頭である酒井忠休がその己の権限をフル稼動させて、何とか忠香のご希望通り、24日の昼には飯田易信を中之間に詰めさせることに成功し、忠休はそれらを治済に伝えようとしていたところに久田縫殿助が現れた次第であった。
酒井忠休は久田縫殿助より、治済の伝言を聞かされて、改めて治済の情報収集力に驚かされたものであり、続いて今度は己が治済へと伝えようとしていたそれら一切の件について久田縫殿助に語って聞かせ、治済へと伝えてくれる様、頼んだのであった。
さて、治済は久田縫殿助より酒井忠休の伝言を聞いて、まずは「でかした」と忠休の働きを誉めた。
治済はその上で、小普請組支配の中坊金蔵廣看の名に大いに惹かれた。
それと言うのも治済にはその名に聞覚えがあり、何を隠そう、治済が手懐け、且つ、家基毒殺にも協力してくれた小笠原信喜の娘婿であった。
中坊金蔵は小笠原信喜の次女を娶っており、そうであれば岳父である小笠原信喜より、
「意知暗殺の現場に際会しても、意知を助けぬ様…、仮に留守居番や、或いは新番頭が意知を助けようとしたならば、これを阻止する様に…」
婿である中坊金蔵へとそう言含めて貰うことも可能やも知れぬと、治済はそう考え、そこで翌日の19日、治済はいつもの様に御城へと登城すると、西之丸へも足を運んだ。幸いにも19日は林忠篤が登城する番でもあったからだ。
「倅の家斉に逢う為…」
治済はその名目で西之丸へと足を運び、実際には家斉の御側近くに仕える小笠原信喜に逢った。
小笠原信喜は治済と面会するなり、まずは治済から命じられた通り明後日21日の家斉の鷹狩りに表番外科医の岡田勝苞と栗崎正明の二人を扈従させることを提案したと、伝えた。
治済は信喜を労うと、そこで信喜に初めて意知暗殺計画を打明け、それで信喜も岡田勝苞と栗崎正明の二人を家斉鷹狩りに扈従させようとする治済の真意を悟った。
治済はその上で、信喜の娘婿である小普請組支配の中坊金蔵について、岳父である信喜から中坊金蔵へと意知暗殺計画に「協力」する様、諭して欲しいと、そう頼んだのであった。
それに対して小笠原信喜は勿論、「委細承知」と応じた上で、
「されば中坊金蔵は今は従六位布衣役の小普請組支配なれば、ゆくゆくは従五位下諸大夫役に…」
つまりは書院番頭か、小姓組番頭へと昇進させて欲しいと、治済にそんな「交換条件」を持出したのであった。
抜目ないとは正にこのことで、治済は内心、苦笑しつつも頷いてみせた。
一方、酒井忠休は若年寄筆頭としての権限をフル稼動して、岡田勝苞と栗崎正明の二人の表番外科医を明後日21日の家斉の鷹狩りに扈従させることを将軍・家治に直談判、家治にこれを認めさせると同時に、3月24日の朝番を勤める筈であった岡田勝苞と栗崎正明に替えて、關本壽熈と鹿倉格甫に朝番を勤めさせることをも家治に認めさせたのであった。
これは昨日の鷹狩りにおいて、その直前、酒井忠休が家治に対して、加納久堅も扈従させてはと、そう提案してくれたことへの返礼、お返しの意味が込められていた。
無論、それが一橋治済が描いた意知暗殺計画の一環であるなどとは、さしもの将軍・家治もその時は気付かなかった。
かくして、意知暗殺計画の外堀は完全に埋まった格好であり、あとは本丸とも言うべき佐野善左衛門を陥落すのみであった。
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