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田沼意知暗殺への大詰め ~意知暗殺の一週間前、天明4年3月17日の「大詰め」~

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 意知暗殺決行おきともあんさつけっこうとして予定よていしている3月24日の一週間前いっしゅうかんまえの17日ともなると、愈愈いよいよ、その計画けいかく大詰おおづめの段階だんかいむかえた。

 意知暗殺決行おきともあんさつけっこうにおけるさらくわしい、「ひとながれ」が判明はんめいしたのだ。

 すなわち、意知暗殺決行おきともあんさつけっこう現場げんばとして予定よていしている新番所前しんばんしょまえ廊下ろうかから中之間なかのま桔梗之間ききょうのまにかけての、それもひるの九つ半(午後1時頃)ぎの「ひとながれ」についてであった。

 まず新番所前しんばんしょまえ廊下ろうかせっする新番所しんばんしょには萬年まんねん六三郎ろくさぶろう猪飼いかい五郎兵衛ごろべえ白井主税しらいちから、そして佐野さの善左衛門ぜんざえもんめることになっていた。

 佐野さの善左衛門ぜんざえもんさいわいにして、朝五つ(午前8時頃)より昼八つ(午後2時頃)までの朝番あさばんであり、このことは佐野さの善左衛門ぜんざえもんおなじ3番組ばんぐみぞくする矢部やべ主膳しゅぜんよりもたらされた情報じょうほうであった。

 ひるの九つ半(午後1時頃)に「まわり」をえた老中ろうじゅう執務室しつむしつであるうえよう部屋べやへとはいり、するとうえよう部屋べやとは真向まむかいにある若年寄わかどしより執務室しつむしつであるつぎよう部屋べやにて、若年寄わかどしより一党いっとうはその様子ようす見届みとどけてから立上たちあがり、昼飯ひるめしるべくしも部屋べやへとかうわけだが、そのコースじょう新番所前しんばんしょまえ廊下ろうかがあった。

 つまり意知おきともほかの、それも唯一ゆいいつ理解者りかいしゃである加納かのう久堅ひさかたのぞいた若年寄わかどしよりとも新番所前しんばんしょまえ廊下ろうかすすわけで、そのさい新番所前しんばんしょまえ廊下ろうかせっする新番所しんばんしょめる新番士しんばんしが、すなわち、佐野さの善左衛門ぜんざえもんをはじめとする5人の朝番あさばん新番士しんばんしまえ新番所前しんばんしょまえ廊下ろうかすす意知おきともたち若年寄わかどしより叩頭こうとうして出迎でむかえる。

 新番しんばん若年寄わかどしより支配しはいであり、それゆえ、その新番しんばんぞくする新番しんばん支配役しはいやくたる若年寄わかどしよりまえすすさいには若年寄わかどしより敬意けいいひょうし、叩頭こうとうしてこれを出迎でむかえる。

 治済はるさだとしてはそのおり佐野さの善左衛門ぜんざえもん意知おきともおそわせる算段さんだんであった。

 具体的ぐたいてきには意知おきともほか若年寄わかどしよりともに、新番所前しんばんしょまえ廊下ろうかわたえ、中之間なかのま桔梗之間ききょうのま差掛さしかかったところで、佐野さの善左衛門ぜんざえもんおそわせるつもりであった。

 新番所前しんばんしょまえ廊下ろうかより中之間なかのま桔梗之間ききょうのまへとすすむ―、それがまた、若年寄わかどしより昼飯ひるめしためしも部屋べやへとかう「コース」であった。

 それならば意知おきとも新番所前しんばんしょまえ廊下ろうかすすむところを佐野さの善左衛門ぜんざえもんおそわせてもさそうにおもわれるが、その場合ばあいには奥右筆おくゆうひつによって阻止そしされる危険性リスクがありた。

 新番所前しんばんしょまえ廊下ろうか新番所しんばんしょ奥右筆おくゆうひつ執務室しつむしつである奥右筆詰所おくゆうひつつめしょとのあいだはさまれており、新番所前しんばんしょまえ廊下ろうかにて意知おきとも佐野さの善左衛門ぜんざえもんおそわれたとなると、ぐに奥右筆おくゆうひつまる。

 そしてこの奥右筆おくゆうひつだが、「田沼たぬまシンパ」がおおかった。

 こと組頭くみがしら安藤あんどう長左衛門ちょうざえもん定賢さだかたと、それに人事じんじ担当たんとう丸毛まるも金次郎きんじろう利教としのりとそのせがれ宗三郎そうざぶろう利通としみちは「田沼たぬまシンパ」の牙城がじょうと言えた。

 組頭くみがしら安藤あんどう長左衛門ちょうざえもんせがれ角蔵定規かくぞうさだのりつまむかえるにさいして、意次おきつぐ口利くちききにより、意次おきつぐとはしたしい幕府ばくふよう絵師えし狩野かの養川惟信ようせんこれのぶ長女ちょうじょめとらせることに成功せいこうし、のみならず、その角蔵かくぞう去年きょねんの天明3(1783)年9月に本丸ほんまる小納戸こなんどとして召出めしだされたさいにも意次おきつぐ口利くちききによるとのうわさもっぱらであり、かくして安藤あんどう長左衛門ちょうざえもんはバリバリの「田沼たぬまシンパ」であった。

 おなじことは丸毛まるも金次郎きんじろうにもまり、丸毛まるも金次郎きんじろうもまた、せがれかいして「田沼たぬまシンパ」の仲間入なかまいりをたした。

 すなわち、丸毛まるも金次郎きんじろうせがれ宗三郎そうざぶろう田沼家臣たぬまかしん星野ほしの兵右衛門ひょうえもん定次さだつぐむすめめとり、丸毛まるも金次郎きんじろうはその所縁ゆかりにより、神田橋かんだばし門内もんないにある田沼家たぬまけ上屋敷かみやしき度々たびたび出入でいりしているらしい。

 そのよう彼等かれら、「田沼たぬまシンパ」がまえにて意知おきとも佐野さの善左衛門ぜんざえもんおそわれる現場げんば際会さいかいしたならば、かならずや意知おきとも佐野さの善左衛門ぜんざえもん兇刃きょうじんからまもろうとすべく、意知おきとももとへと駆付かけつけ、そして佐野さの善左衛門ぜんざえもん取押とりおさえるやもれなかった。

 治済はるさだはそれをおそれて、佐野さの善左衛門ぜんざえもんには新番所前しんばんしょまえ廊下ろうかではなく、桔梗之間ききょうのまにて意知おきともおそわせようとかんがえたのであった。

 それと言うのも、この桔梗之間ききょうのまもまた新番所前しんばんしょまえ廊下ろうか同様どうよう佐野さの善左衛門ぜんざえもんたち新番しんばんめる新番所しんばんしょせっしていた。

 しかも桔梗之間ききょうのまには平日へいじつの、それもひるの九つ半(午後1時頃)時分じぶんにはだれめてはいなかった。

 桔梗之間ききょうのま新番しんばん組頭くみがしらばん医師いし殿中でんちゅうせきではあったが、彼等かれらがその殿中でんちゅうせきである桔梗之間ききょうのまめるのは月次御礼つきなみおんれいなどの式日しきじつかぎられ、平日へいじつ各々おのおの勤務きんむ場所ばしょである詰所つめしょめていた。

 たとえば新番組しんばんくみがしらならば時斗之間とけいのまつぎがその詰所つめしょであり、平日へいじつ時斗之間とけいのまつぎめていた。

 時斗之間とけいのまつぎとは新番所前しんばんしょまえ廊下ろうかのことであり、そこが新番組しんばんくみがしら勤務場所きんむばしょであった。

 一方いっぽうばん医師いし平素へいそ屏風びょうぶ部屋べやとなり医師いしだまりめており、それゆえ平日へいじつには―、佐野さの善左衛門ぜんざえもん意知おきともおそわせる時分じぶんには桔梗之間ききょうのまにはだれめてはいなかった。

 いやしかしたら目附めつけがいるやもれなかった。

 老中ろうじゅうひるの「まわり」をえるまではみな夫々それぞれ部屋へや大人おとなしくしているのが仕来しきたりであったが、唯一ゆいいつ例外れいがい激務げきむである月番つきばん町奉行まちぶぎょう勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうであった。

 月番つきばん町奉行まちぶぎょう勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう激務げきむであるゆえに、老中ろうじゅう中之間なかのま見廻みまわりにおとずれ、そして中之間なかのま検分けんぶんえて退出たいしゅつしたならば、月番つきばん町奉行まちぶぎょう勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうもそれにつづいて中之間なかのま退出たいしゅつしていことになっていた。

 今月こんげつの3月で言えば、きた町奉行まちぶぎょう曲淵まがりぶち甲斐守かいのかみ景漸かげつぐ月番つきばんであり、そこで曲淵まがりぶち景漸かげつぐ老中ろうじゅう中之間なかのま見廻みまわえ、つぎ見廻みまわ場所ばしょである山吹之間やまぶきのまへとかうべく中之間なかのまていったならば、月番つきばん町奉行まちぶぎょう曲淵まがりぶち景漸かげつぐもそのあとよう中之間なかのまより退出たいしゅつしていことになっていた。

 治済はるさだはそれをると、心底しんそこホッとした。

 それと言うのも、これでかり月番つきばんみなみ町奉行まちぶぎょうであったならば、意知暗殺計画おきともあんさつけいかく支障ししょうきた可能性かのうせいたかかったからだ。

 かりみなみ町奉行まちぶぎょう月番つきばんであったならば、老中ろうじゅうあとつづいて中之間なかのまより退出たいしゅつするのはみなみ町奉行まちぶぎょう山村やまむら信濃守しなののかみ良旺たかあきらということになり、うらかえすと、月番つきばんではないきた町奉行まちぶぎょう曲淵まがりぶち景漸かげつぐ引続ひきつづき、中之間なかのまとどまらなければならず、その場合ばあい曲淵まがりぶち景漸かげつぐ意知暗殺おきともあんさつ現場げんば際会さいかいする可能性かのうせいたかかった。

 老中ろうじゅうが「まわり」をえたならば、もう部屋へやてもさそうにおもわれるやもれぬがそうではなかった。

 老中ろうじゅうひるの「まわり」のコースじょうにある中之間なかのまは、若年寄わかどしより昼飯ひるめしためしも部屋べやへとかうさいのコースともかさなっており、それゆえ中之間なかのまにて老中ろうじゅう見廻みまわりを出迎でむかえた者達ものたち―、月番つきばん町奉行まちぶぎょう勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうのぞいた留守居るすい大目付おおめつけあるいは月番つきばんではない町奉行まちぶぎょう公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう、それに作事さくじ普請ふしん小普請こぶしん下三しもさん奉行ぶぎょうたちが老中ろうじゅうが「まわり」をえてうえよう部屋べやへと引揚ひきあげたあと引続ひきつづき、中之間なかのまとどまり、今度こんど昼飯ひるめしためしも部屋べやへとかう若年寄わかどしより出迎でむかえねばならないからだ。

 月番つきばんではない町奉行まちぶぎょう留守居るすい大目付おおめつけ公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう下三しもさん奉行ぶぎょうらととも意知暗殺おきともあんさつ現場げんば際会さいかいする可能性かのうせいたかいのはかる事情じじょうる。

 そのさい月番つきばんではない、つまりは非番ひばん町奉行まちぶぎょうきた町奉行まちぶぎょう曲淵まがりぶち景漸かげつぐであったならば、意知暗殺おきともあんさつたくら治済はるさだにとってははなは都合つごうわるかった。

 曲淵まがりぶち景漸かげつぐかつて、刑死人けいしにん腑分ふわけ、解剖かいぼうゆるしたほど進取しんしゅ気性きしょうみ、意次おきつぐとはうまうことでられており、なにより、正義漢せいぎかんであるので、意知おきとも佐野さの善左衛門ぜんざえもんおそわれる現場げんば際会さいかいしたならば、いそぎその現場げんばへと駆付かけつけ、佐野さの善左衛門ぜんざえもん組伏くみふせて意知おきともたすけるにちがいなかった。

 そのてんみなみ町奉行まちぶぎょう山村やまむら良旺たかあきらならば心配しんぱいはいらない。

 山村やまむら良旺たかあきら曲淵まがりぶち景漸かげつぐとは真逆まぎゃくの、前例ぜんれい踏襲とうしゅうことなかれ主義しゅぎおとこであり、そうであれば、意知暗殺おきともあんさつ現場げんば際会さいかいしても、町奉行まちぶぎょうよりも格上かくうえ留守居るすい太田おおた資倍すけますや、あるいは大目付おおめつけ松平まつだいら忠郷たださと意知おきともたすける姿勢しせいせなければ、良旺たかあきらもそれにしたがい、意知おきとも見殺みごろしにするにちがいない。

 おなじことは勘定かんじょう奉行ぶぎょうにもまる。

 勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう赤井あかい越前守えちぜんのかみ忠皛ただあきら松本まつもと伊豆守いずのかみ秀持ひでもち二人ふたり意次おきつぐ片腕ブレーンとしてられており、そのよう二人ふたりであれば意知おきともたすけるであろうが、しかし、勝手かってがたであるために、月番つきばん町奉行まちぶぎょう曲淵まがりぶち景漸かげつぐともに、留守居るすい大目付おおめつけ非番ひばん町奉行まちぶぎょう公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうらを中之間なかのまのこして、一足先ひとあしさき中之間なかのまより退出たいしゅつすることが予想よそうされ、その場合ばあい赤井あかい忠皛ただあきら松本秀持まつもとひでもちもまた、意知おきともたすたくとも、たすけられないというわけだ。

 そのてん公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう桑原くわばら伊豫守いよのかみ盛員もりかず久世くぜ丹後守たんごのかみ廣民ひろたみならば心配しんぱいらない。

 桑原盛員くわばらもりかず久世くぜ廣民ひろたみ二人ふたりもまた、山村やまむら良旺たかあきら同様どうよう前例ぜんれい踏襲とうしゅうことなかれ主義しゅぎであり、留守居るすい太田おおた資倍すけますや、あるいは大目付おおめつけ松平まつだいら忠郷たださとの「意思いし」にさからってまで、意知おきともたすけることはないであろう。

 そのてん治済はるさだツキめぐまれていた。

 治済はるさだにはしかし、問題もんだいのこされており、それが目附めつけ存在そんざいであった。

 目附めつけだけは老中ろうじゅうが「まわり」をえて執務室しつむしつであるうえよう部屋べやへと引揚ひきあげたならば、若年寄わかどしよりたずにただちに中之間なかのま退出たいしゅつしていことになっていた。

 これは目附めつけ役目やくめがらによる。

 すなわち、目附めつけ平素へいそ執務室しつむしつである目附めつけ部屋べやにて勤務きんむをし、ひるちかくになるとみな目附めつけ部屋べや中之間なかのまへとあしはこぶ。

 勿論もちろん見廻みまわりにおとずれた老中ろうじゅう出迎でむかえるためだが、そのかん目附めつけ部屋べや無人むじんとなる。

 いや正確せいかくには昼八つ(午後2時頃)より勤務シフトはい当番とうばん目附めつけ留守るすあずかり、またかち目附めつけ常時じょうじめていたので、無人むじんになることはなかった。

 当番とうばん目附めつけ昼前ひるまえ、それも朝番あさばん目附めつけ中之間なかのまへとかうまえには登城とじょうして目附めつけ部屋べやめ、中之間なかのまへとかう彼等かれら朝番あさばん目附めつけ送出おくりだして、目附めつけ部屋べや留守るすあずかるのである。

 これは目附めつけきわめて機密性きみつせい要求ようきゅうされる役職ポストであることに起因きいんし、その執務室しつむしつである目附めつけ部屋べや当然とうぜん機密性きみつせい要求ようきゅうされ、直属ちょくぞく上司じょうしである若年寄わかどしよりもとより、老中ろうじゅうさえも目附めつけ部屋べやへの出入でいりはゆるされていなかったのだ。

 それゆえ如何いか当番とうばん目附めつけが、あるいはかち目附めつけ朝番あさばん目附めつけ留守るすあずかっているとはもうせ、留守るすにする時間じかんみじかいにしたことはなく、そこで目附めつけだけは月番つきばん町奉行まちぶぎょう勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうつづいて、老中ろうじゅうが「まわり」をえてうえよう部屋べやへと引揚ひきあげたならば、直属ちょくぞく上司じょうしである若年寄わかどしよりたずに、中之間なかのま退出たいしゅつすることがゆるされていたのだ。

 さてそこでだ、佐野さの善左衛門ぜんざえもん中之間なかのまより桔梗之間ききょうのまへと差掛さしかかった意知おきともおそわせた場合ばあい、その桔梗之間ききょうのまには目附めつけ部屋べやへと引揚ひきあげる目附めつけ姿すがた存在そんざいする可能性かのうせいもありた。

 中之間なかのまより目附めつけ部屋べやへともどるには桔梗之間ききょうのまとおらねばならないからだ。

 つまり、目附めつけ部屋べやへと引揚ひきあげる目附めつけ桔梗之間ききょうのまにて佐野さの善左衛門ぜんざえもん兇行きょうこうくわす可能性かのうせいもあり、その場合ばあい目附めつけ佐野さの善左衛門ぜんざえもん兇行きょうこう阻止そし意知おきともたすける可能性かのうせいがありた。

 もっとも、ここでも治済はるさだツキめぐまれていた。

 それと言うのも、老中ろうじゅうの「まわり」に参加さんかする朝番あさばん目附めつけは6人であるのだが、そのうち末吉すえよし善左衛門ぜんざえもん井上正在いのうえまさあり二人ふたり治済はるさだいきがかかっていたからだ。

 問題もんだいのこる4人の目附めつけである。

 すなわち、安藤あんどう郷右衛門ごうえもん惟徳これのり柳生やぎゅう主膳正しゅぜんのかみ久通ひさみち跡部あとべ大膳だいぜん良久よしひさ松平まつだいら田宮たみや恒隆つねたかの4人の目附めつけであり、このなかでも柳生やぎゅう久通ひさみち跡部あとべ大膳だいぜん松平まつだいら田宮たみやの3人は問題もんだいなかった。

 それと言うのもこの3人は秋霜烈日しゅうそうれつじつ要求ようきゅうされる目附めつけしょくにありながら大勢順応たいせいんじゅんのうようは、

ながものにはかれろ…」

 それが持味もちあじであり、そうであれば留守居るすい太田おおた資倍すけますや、あるいは大目付おおめつけ松平まつだいら忠郷たださとといった顕職けんしょくにあるものが、

意知おきともたすけず…」

 そんな姿勢しせいせれば、彼等かれら3人もかならずやそれにしたがい、意知おきともたすけようとはしないはずである。

 だが問題もんだいは―、本当ほんとう問題もんだいなのは安藤あんどう郷右衛門ごうえもん存在そんざいであった。

 安藤あんどう郷右衛門ごうえもん目附めつけなかでもただ一人ひとり部屋へやずみ、つまりは家督かとく相続前そうぞくまえであり、ちちいまでも西之丸にしのまるはた奉行ぶぎょうつとめる安藤あんどう弾正少弼だんしょうしょうひつ惟要これとしである。

 この安藤惟要あんどうこれとしいまでこそ西之丸にしのまるはた奉行ぶぎょうという閑職かんしょくにあったものの、かつては勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうとして意次おきつぐささつづけ、その顕職けんしょく大目付おおめつけへと栄転えいてんたし、そのさい、300石もの加増かぞうがなされたのだが、これは意次おきつぐ配慮はいりょによる。

 その安藤惟要あんどうこれとし老齢ろうれいため去年きょねんの天明3(1783)年2月にみずかのぞんで大目付おおめつけよりも閑職かんしょく西之丸にしのまるはた奉行ぶぎょうへの異動いどう願出ねがいで次第しだいで、いまでも意次おきつぐには感謝かんしゃしていた。

 それは300石の加増かぞうたいしてもそうだが、それ以上いじょうせがれ郷右衛門ごうえもん目附めつけへと取立とりたててくれたことにたいしておおいに感謝かんしゃしており、惟要これとしせがれ郷右衛門ごうえもんたいしても常々つねづね

田沼様たぬまさま感謝かんしゃねんわすれぬよう…」

 そうもうかせていたそうな。

 いや、さしもの治済はるさだもそこまでは把握はあくしていないが、それでも安藤惟要あんどうこれとし郷右衛門ごうえもん父子ふし意次おきつぐたいして感謝かんしゃしていることは把握はあくしていたので、そこでそのよう安藤あんどう郷右衛門ごうえもんならば、やはり意知暗殺おきともあんさつ現場げんば際会さいかいしたならば、意知おきともたすけることが予期よきされた。

 そこで治済はるさだは「懐刀ふところがたな」の久田ひさだ縫殿助ぬいのすけかいして、目附めつけ末吉すえよし善左衛門ぜんざえもん井上正在いのうえまさあり二人ふたり連絡コンタクトり、二人ふたり仔細しさい打明うちあけたうえで、

かりにだが、安藤あんどう郷右衛門ごうえもん山城おきともめをたすけるよううごきをしめさば、これを阻止そしせよ…」

 二人ふたりにそうめいじたのであった。

 これで意知暗殺計画おきともあんさつけいかく実行じっこううつうえで、のこ問題もんだい下三しもさん奉行ぶぎょう動向どうこうであった。

 作事さくじ普請ふしん小普請こぶしん所謂いわゆる下三しもさん奉行ぶぎょうのなかに、意知おきともたすけるようじんがいるのかどうか、である。

 そこで治済はるさだはそのてんさぐるべく、やはり「懐刀ふところがたな」の岩本いわもと喜内きないかいして、普請ふしん奉行ぶぎょうつとめる岩本正利いわもとまさとし連絡コンタクトった。

 岩本正利いわもとまさとし一橋ひとつばし家臣かしん岩本いわもと喜内きない実兄じっけいにして次期じき将軍しょうぐん家斉いえなり外祖父がいそふたり、そうであれば今回こんかい治済はるさだえがいた意知暗殺計画おきともあんさつけいかく協力者きょうりょくしゃ断言だんげん出来できた。

 治済はるさだはその岩本正利いわもとまさとし意見いけんもとめたところ、

下三しもさん奉行ぶぎょうなかでも意知おきともたすけることが予想よそうされるのは作事さくじ奉行ぶぎょう室賀むろが山城守やましろのかみ正之まさゆき小普請こぶしん奉行ぶぎょう松浦まつら和泉守いずみのかみ信桯のぶきよ二人ふたり…」

 正利まさとしからはまずはそうかえってきた。

 その理由わけだが、室賀むろが正之まさゆきについては意次おきつぐたいする「恩義おんぎ」からであった。

 すなわち、意次おきつぐ作事さくじ奉行ぶぎょうとしての室賀むろが正之まさゆき実力じつりょくおおいにっており、正之まさゆきもそんなおのれ能力のうりょく正当せいとう評価ひょうかしてくれる意次おきつぐたいしておおいに感謝かんしゃしていた。

 それが証拠しょうこ意次おきつぐ正之まさゆきたいして、

山城守やましろのかみ

 その官職かんしょく使用しようゆるしたのであった。

 室賀むろが正之まさゆきは「山城守やましろのかみ」というおのれ官職かんしょく恩人おんじんとも言うべき意次おきつぐそく意知おきとものそれとおなじであることをはばかり、そこで遷任せんにんべつ官職かんしょく名乗なのろうとしたところ、

「その必要ひつようなし…」

 意次おきつぐ正之まさゆきたいして引続ひきつづき、「山城守やましろのかみ」の官職かんしょく使用しようゆるしたのであった。

 かくして室賀むろが正之まさゆき意次おきつぐおおいに感謝かんしゃしており、そうであれば意次おきつぐそく意知おきとも遭難そうなん際会さいかいしてはこれをたすけることが予想よそうされた。

 また、松浦まつら信桯のぶきよについてはこちらは打算ださんであった。

 無論むろん室賀むろが正之同様まさゆきどうようおのれ能力のうりょく正当せいとう評価ひょうかしてくれる意次おきつぐのことを信桯のぶきよ感謝かんしゃしていたが、それ以上いじょうに、

長崎ながさき奉行ぶぎょうになりたい…」

 信桯のぶきよにはその野望やぼうがあり、周囲しゅういにも常々つねづね、そうらすほどであり、そうであれば意知おきとも遭難そうなん際会さいかいしては、

「ここで意知おきともたすければ、そのちち意次おきつぐ多大ただいおん売付うりつけることが出来でき、そうなれば長崎ながさき奉行ぶぎょうへと一歩いっぽ近付ちかづく…」

 信桯のぶきよはそうかんがえるにちがいなく、意知おきともたすけるにちがいなかった。

 それとはぎゃくに、意知おきともたすけないものとして、室賀むろが正之まさゆきとは相役あいやく同僚どうりょう作事さくじ奉行ぶぎょうである柘植つげ長門守ながとのかみ正寔まさざね予想よそうされた。

 柘植つげ正寔まさざね去年きょねんの天明3(1783)年3月に作事さくじ奉行ぶぎょう着任ちゃくにんしたばかりの新人ルーキーということもあろうが、意次おきつぐ作事さくじ奉行ぶぎょう職掌しょくしょうにおいて、正寔まさざね蚊帳かやそとにおいて、仕事しごと出来でき室賀むろが正之まさゆきとばかり打合うちあわせをすることがおおかった。

 それで柘植つげ正寔まさざね意次おきつぐたいしてはおおいに不満ふまんっており、やはりその不満ふまん常々つねづね周囲しゅういらしているとのことで、そのよう正寔まさざねであれば意次おきつぐそく意知おきとも遭難そうなん際会さいかいしても、これを座視ざし黙認もくにんすることが予期よきされた。

 おなじことは岩本正利いわもとまさとしとは相役あいやく同僚どうりょう普請ふしん奉行ぶぎょう青山あおやま但馬守たじまのかみ成存なりすみにもまる。

 青山成存あおやまなりすみもまた、意次おきつぐには不満ふまんいていたのだ。それと言うのも、

職掌しょくしょう無視むし

 それにきた。

 普請ふしん奉行ぶぎょう職掌しょくしょうはし修繕しゅうぜんや、あるいは掘割ほりわり工事こうじであった。

 そうであればはし修繕しゅうぜんや、あるいは掘割ほりわり工事こうじにおいては普請ふしん奉行ぶぎょうめいずるべきところ、直属ちょくぞく上司じょうしたる老中ろうじゅう田沼たぬま意次おきつぐ管轄外かんかつがい作事さくじ奉行ぶぎょうである、それも室賀むろが正之まさゆきはし修繕しゅうぜん掘割ほりわり工事こうじめいじることが度々たびたびであり、それが青山成存あおやまなりすみ不満ふまんたねであり、それはおなじく普請ふしん奉行ぶぎょうたる岩本正利いわもとまさとしにしても同様どうようであった。

 最近さいきんでは青山成存あおやまなりすみ意次おきつぐたいしては殺意さついちか憎悪ぞうおまでようになっていた。

 それと言うのも意次おきつぐ主導しゅどうする印旛沼いんばぬま干拓かんたく工事こうじについても、本来ほんらいならば普請ふしん奉行ぶぎょうめいずるべきところ、ここでも意次おきつぐはやはり作事さくじ奉行ぶぎょう室賀むろが正之まさゆきとばかり打合うちあわせをおこない、これでは普請ふしん奉行ぶぎょう虚仮コケにされたも同然どうぜんと、青山成存あおやまなりすみ意次おきつぐたいしておおいに憤慨ふんがいしており、それはいま殺意さついちか段階レベルにまでたっしつつあり、それゆえ柘植つげ正寔同様まさざねどうよう意知おきともたすけないにちがいない。

 のこるは松浦まつら信桯のぶきよとは相役あいやく同僚どうりょう小普請こぶしん奉行ぶぎょう村上むらかみ甲斐守かいのかみ正清まさきよであるが、これは岩本正利いわもとまさとしをして、なんともからぬとの返答へんとうであった。

 そこで治済はるさだ村上正清むらかみまさきよについては留守居るすい太田おおた資倍すけます大目付おおめつけ松平まつだいら忠郷たださとにその「処置しょち」をたのむことにした。

 すなわち、かり村上正清むらかみまさきよ意知おきともたすける素振そぶりをせたならば、太田おおた資倍すけます松平まつだいら忠郷たださと阻止そししてもらうことにした。

 だがそれでむのは村上正清むらかみまさきよただ一人ひとりであり、意知おきともたすけることが予期よきされる室賀むろが正之まさゆき松浦まつら信桯のぶきよ動きうごきまではふうじられまい。

 だがすくいはあった。

 まず室賀むろが正之まさゆきだが、くだん印旛沼いんばぬま干拓かんたく工事こうじをもまかされているゆえに、老中ろうじゅうの「まわり」をえたならば、目附めつけ同様どうよう若年寄わかどしよりたずに中之間なかのまより退出たいしゅつし、その執務室しつむしつである用詰所ようつめしょへともどることがゆるされていた。

 つまり室賀むろが正之まさゆき意知おきとも佐野さの善左衛門ぜんざえもんおそわれるころには執務室しつむしつにて仕事しごと再開さいかいさせているころというわけで、これでは意知おきともたすようがなかった。

 だが小普請こぶしん奉行ぶぎょう松浦まつら信桯のぶきよはそこまではゆるされておらず、信桯のぶきよ意知おきともたすけられることになる。

 そこで治済はるさだ若年寄わかどしより筆頭ひっとう酒井さかい忠休ただよしちからりることにした。

 下三しもさん奉行ぶぎょうなかでも小普請こぶしん奉行ぶぎょう唯一ゆいいつ若年寄わかどしより支配しはいであり、そこで事前じぜんに―、意知暗殺決行おきともあんさつけっこう前日ぜんじつの23日の、それも意知おきとも中奥なかおくへと出向でむき、若年寄わかどしより執務室しつむしつであるつぎよう部屋べや不在ふざいにしているあいだ松浦まつら信桯のぶきよつぎよう部屋べやへと呼寄よびよせ、そこで酒井さかい忠休ただよしから松浦まつら信桯のぶきよへとなにか、適当てきとう仕事しごとめいじてもらうのである。そのさい

明日あす仕事しごと優先ゆうせんさせ、老中ろうじゅうひるまわりをえたならば、我等われら若年寄わかどしよりつことなく、ただちに仕事しごと取掛とりかかるように…」

 そう付加つけくわえれば、松浦まつら信桯のぶきよ目附めつけ作事さくじ奉行ぶぎょう室賀むろが正之まさゆきつづいて松浦まつら信桯のぶきよをも中之間なかのまより退出たいしゅつさせることが出来できる。

 治済はるさだがそんなアイディアをくちにすると、岩本正利いわもとまさとしが「それなれば…」と、あらいアイディアをおもいついた。

「この岩本正利いわもとまさとし屋敷やしきがえ任務にんむおおかっており…」

 大名だいみょう旗本はたもと引越ひっこしである屋敷やしきがえ事務じむ手続てつづき普請ふしん奉行ぶぎょう職掌しょくしょうであり、普請ふしん奉行ぶぎょう岩本正利いわもとまさとしがその事務じむ手続てつづきめいじられていた。

 だが岩本正利いわもとまさとしはまだ、普請ふしん奉行ぶぎょうとなってあさく、事務じむ手続てつづき作業さぎょう不慣ふなれであり、そこで小普請こぶしん奉行ぶぎょう松浦まつら信桯のぶきよ岩本正利いわもとまさとしたすけてやれと、若年寄わかどしより筆頭ひっとう酒井さかい忠休ただよしから松浦まつら信桯のぶきよめいじてもらうのである。

 岩本正利いわもとまさとし一昨年おととしの天明2(1782)年11月に小普請こぶしん奉行ぶぎょうより普請ふしん奉行ぶぎょうへと栄転えいてんたし、前職ぜんしょく小普請こぶしん奉行ぶぎょう時代じだい松浦まつら信桯のぶきよ相役あいやく同僚どうりょうであったのだ。

 そうであれば松浦まつら信桯のぶきよかつての同僚どうりょう岩本正利いわもとまさとしたすけてやれとめいじてもなん不自然ふしぜんではないだろう。

 いや、それならば相役あいやく青山成存あおやまなりすみがいるだろと、松浦まつら信桯のぶきよ不審ふしんがるやもれぬ。

 岩本正利いわもとまさとし仕事しごとつまづいているのなら、むかし相役あいやくつとめたおのれではなしに、いま相役あいやくである青山成存あおやまなりすみたよればいではないかと、松浦まつら信桯のぶきよはそう不審ふしんおもうやもれなかった。

 だが治済はるさだのその疑問ぎもんたいしても岩本正利いわもとまさとしあわてる様子ようすせずに、「それなれば…」と、すでこたえを用意よういしていた。

 それはじつ単純たんじゅんなもので、

岩本正利いわもとまさとし青山成存あおやまなりすみとはどうも、うまくいっていないらしく、岩本正利いわもとまさとし仕事しごとれないのもそのためらしい…」

 岩本正利いわもとまさとし仕事しごとおぼえられないのも、先輩せんぱいである青山成存あおやまなりすみとの不仲ふなか原因げんいんであると、松浦まつら信桯のぶきよにそうささやいてやれば、松浦まつら信桯のぶきよ納得なっとくするであろう。

 いや出世しゅっせ主義者しゅぎしゃ松浦まつら信桯のぶきよのことである。次期じき将軍しょうぐん家斉いえなり外祖父がいそふたる岩本正利いわもとまさとし途端とたん、それも岩本正利いわもとまさとしたすけられるとあれば、仮令たとえ疑問ぎもんおもうところはあっても、それらを捨去すてさるにちがいなかった。

 そうしてれて24日、それも老中ろうじゅうが「まわり」をえて執務室しつむしつであるつぎよう部屋べやへと引揚ひきあげたならば、ただちに岩本正利いわもとまさとし松浦まつら信桯のぶきようながし、中之間なかのま退出たいしゅつして用詰所ようつめしょへとかうのである。

 やはり出世しゅっせ主義者しゅぎしゃ松浦まつら信桯のぶきよのことである、次期じき将軍しょうぐん家斉いえなり外祖父がいそふたる岩本正利いわもとまさとしからうながされれば、なん躊躇ちゅうちょ抵抗ていこうせずに中之間なかのまをあとにするであろう。

 そうすれば松浦まつら信桯のぶきようごきを完全かんぜんふうじられるというものである。つまりは信桯のぶきよから意知おきともたすける機会チャンスうばうことが出来できるというわけだ。

成程なるほど…、さすれば正利まさとし山城おきともめの遭難そうなんくわさずにむというものよのう…」

 治済はるさだがニヤリとみをかべて岩本正利いわもとまさとしにそうおうずると、正利まさとしあたまきつつ、「見抜みぬかれましてござりまするなぁ…」と冗談じょうだんめかしておうじた。

 すなわち、意知おきとも遭難そうなん際会さいかいしてこれをたすけずに見殺みごろしにすればなんらかのとがめをけるやもれず、さりとて岩本正利いわもとまさとしとしては意知おきともたすける選択肢せんたくしなどもとよりなく、そこでなんとがめをけずに意知おきとも見殺みごろしにするには、意知おきとも遭難そうなん現場げんば居合いあわせないのが一番いちばんであり、そこで岩本正利いわもとまさとし松浦まつら信桯のぶきよしたがい、一足先ひとあしさき中之間なかのまより退出たいしゅつすることで、なんのがれようとしたのであった。

 いや治済はるさだとしてもそれはのぞむところであった。

 家斉いえなり外祖父がいそふたる岩本正利いわもとまさとし意知遭難おきともそうなん現場げんば居合いあわせるのは治済はるさだとしても出来できれば、いや絶対ぜったいけたいところであったからだ。

 それと言うのも、意知おきとも遭難そうなんするということは間違まちがいなく大出血だいしゅっけつ意味いみしており、そうであれば岩本正利いわもとまさとしがそのちかくにいれば、意知おきともけがれた正利まさとしけがれることになるからだ。仮令たとえがつかないとしても「空気くうき感染かんせん」する。

 治済はるさだ意知暗殺計画おきともあんさつけいかく実行じっこううつうえひそかにそれをおそれていたので、いま岩本正利いわもとまさとしからの提案ていあん治済はるさだのその懸念けねん打消うちけ効果こうかがあったので、治済はるさだにとってはまさわたりにふねであった。

 そこで治済はるさだ酒井さかい忠休ただよしにも連絡コンタクトったのであった。
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