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田沼意知暗殺への大詰め ~意知暗殺の一週間前、天明4年3月17日の「大詰め」~
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意知暗殺決行日として予定している3月24日の一週間前の17日ともなると、愈愈、その計画は大詰めの段階を迎えた。
意知暗殺決行日における更に詳しい、「人の流れ」が判明したのだ。
即ち、意知暗殺決行の現場として予定している新番所前廊下から中之間、桔梗之間にかけての、それも昼の九つ半(午後1時頃)過ぎの「人の流れ」についてであった。
まず新番所前廊下に接する新番所には萬年六三郎、猪飼五郎兵衛、白井主税、そして佐野善左衛門が詰めることになっていた。
佐野善左衛門は幸いにして、朝五つ(午前8時頃)より昼八つ(午後2時頃)までの朝番であり、このことは佐野善左衛門と同じ3番組に属する矢部主膳より齎された情報であった。
昼の九つ半(午後1時頃)に「廻り」を終えた老中が執務室である上御用部屋へと入り、すると上御用部屋とは真向かいにある若年寄の執務室である次御用部屋にて、若年寄一党はその様子を見届けてから立上がり、昼飯を摂るべく下部屋へと向かう訳だが、そのコース上に新番所前廊下があった。
つまり意知は外の、それも唯一の理解者である加納久堅を除いた若年寄と共に新番所前廊下を進む訳で、その際、新番所前廊下に接する新番所に詰める新番士が、即ち、佐野善左衛門をはじめとする5人の朝番の新番士が直ぐ目の前の新番所前廊下を進む意知たち若年寄を叩頭して出迎える。
新番は若年寄支配であり、それ故、その新番に属する新番士は支配役たる若年寄が目の前を進む際には若年寄に敬意を表し、叩頭してこれを出迎える。
治済としてはその折に佐野善左衛門に意知を襲わせる算段であった。
具体的には意知が外の若年寄と共に、新番所前廊下を渡り終え、中之間を経て桔梗之間に差掛かったところで、佐野善左衛門に襲わせるつもりであった。
新番所前廊下より中之間を経て桔梗之間へと進む―、それがまた、若年寄が昼飯の為に下部屋へと向かう「コース」であった。
それならば意知が新番所前廊下を進むところを佐野善左衛門に襲わせても良さそうに思われるが、その場合には奥右筆によって阻止される危険性があり得た。
新番所前廊下は新番所と奥右筆の執務室である奥右筆詰所との間に挟まれており、新番所前廊下にて意知が佐野善左衛門に襲われたとなると、直ぐに奥右筆の目に留まる。
そしてこの奥右筆だが、「田沼シンパ」が多かった。
殊に組頭の安藤長左衛門定賢と、それに人事担当の丸毛金次郎利教とその倅の宗三郎利通は「田沼シンパ」の牙城と言えた。
組頭の安藤長左衛門は倅、角蔵定規が妻を迎えるに際して、意次の口利きにより、意次とは親しい幕府御用絵師の狩野養川惟信の長女を娶らせることに成功し、のみならず、その角蔵が去年の天明3(1783)年9月に本丸小納戸として召出された際にも意次の口利きによるとの噂が専らであり、かくして安藤長左衛門はバリバリの「田沼シンパ」であった。
同じことは丸毛金次郎にも当て嵌まり、丸毛金次郎もまた、倅を介して「田沼シンパ」の仲間入りを果たした。
即ち、丸毛金次郎が倅、宗三郎は田沼家臣の星野兵右衛門定次の娘を娶り、丸毛金次郎はその所縁により、神田橋御門内にある田沼家上屋敷に度々、出入りしているらしい。
その様な彼等、「田沼シンパ」が直ぐ目の前にて意知が佐野善左衛門に襲われる現場に際会したならば、必ずや意知を佐野善左衛門の兇刃から守ろうとすべく、意知の許へと駆付け、そして佐野善左衛門を取押さえるやも知れなかった。
治済はそれを恐れて、佐野善左衛門には新番所前廊下ではなく、桔梗之間にて意知を襲わせようと考えたのであった。
それと言うのも、この桔梗之間もまた新番所前廊下と同様、佐野善左衛門たち新番士が詰める新番所に接していた。
しかも桔梗之間には平日の、それも昼の九つ半(午後1時頃)時分には誰も詰めてはいなかった。
桔梗之間は新番組頭と御番医師の殿中席ではあったが、彼等がその殿中席である桔梗之間に詰めるのは月次御礼などの式日に限られ、平日は各々、勤務場所である詰所に詰めていた。
例えば新番組頭ならば時斗之間次がその詰所であり、平日は時斗之間次に詰めていた。
時斗之間次とは新番所前廊下のことであり、そこが新番組頭の勤務場所であった。
一方、御番医師は平素、御屏風部屋の直ぐ隣の医師溜に詰めており、それ故、平日には―、佐野善左衛門に意知を襲わせる時分には桔梗之間には誰も詰めてはいなかった。
否、若しかしたら目附がいるやも知れなかった。
老中の昼の「廻り」を終えるまでは皆、夫々の部屋で大人しくしているのが仕来りであったが、唯一の例外は激務である月番町奉行と勝手方勘定奉行であった。
月番町奉行と勝手方勘定奉行は激務である故に、老中が中之間に見廻りに訪れ、そして中之間を検分し終えて退出したならば、月番町奉行と勝手方勘定奉行もそれに続いて中之間を退出して良いことになっていた。
今月の3月で言えば、北町奉行の曲淵甲斐守景漸が月番であり、そこで曲淵景漸は老中が中之間を見廻り終え、次の見廻り場所である山吹之間へと向かうべく中之間を出ていったならば、月番町奉行の曲淵景漸もその後を追う様に中之間より退出して良いことになっていた。
治済はそれを知ると、心底ホッとした。
それと言うのも、これで仮に月番が南町奉行であったならば、意知暗殺計画に支障を来す可能性が高かったからだ。
仮に南町奉行が月番であったならば、老中の後に続いて中之間より退出するのは南町奉行の山村信濃守良旺ということになり、裏を返すと、月番ではない北町奉行の曲淵景漸は引続き、中之間に留まらなければならず、その場合、曲淵景漸が意知暗殺の現場に際会する可能性が高かった。
老中が「廻り」を終えたならば、もう部屋を出ても良さそうに思われるやも知れぬがそうではなかった。
老中の昼の「廻り」のコース上にある中之間は、若年寄が昼飯の為に下部屋へと向かう際のコースとも重なっており、それ故、中之間にて老中の見廻りを出迎えた者達―、月番町奉行と勝手方勘定奉行を除いた留守居や大目付、或いは月番ではない町奉行や公事方勘定奉行、それに作事・普請・小普請の下三奉行たちが老中が「廻り」を終えて上御用部屋へと引揚げた後も引続き、中之間に留まり、今度は昼飯の為に下部屋へと向かう若年寄を出迎えねばならないからだ。
月番ではない町奉行が留守居や大目付、公事方勘定奉行や下三奉行らと共に意知暗殺の現場に際会する可能性が高いのは斯かる事情に因る。
その際、月番ではない、つまりは非番の町奉行が北町奉行の曲淵景漸であったならば、意知暗殺を企む治済にとっては甚だ都合が悪かった。
曲淵景漸は嘗て、刑死人の腑分け、解剖を許した程に進取の気性に富み、意次とは馬が合うことで知られており、何より、正義漢であるので、意知が佐野善左衛門に襲われる現場に際会したならば、急ぎその現場へと駆付け、佐野善左衛門を組伏せて意知を助けるに違いなかった。
その点、南町奉行の山村良旺ならば心配はいらない。
山村良旺は曲淵景漸とは真逆の、前例踏襲、事なかれ主義の男であり、そうであれば、意知暗殺の現場に際会しても、町奉行よりも格上の留守居の太田資倍や、或いは大目付の松平忠郷が意知を助ける姿勢を見せなければ、良旺もそれに従い、意知を見殺しにするに違いない。
同じことは勘定奉行にも当て嵌まる。
勝手方勘定奉行の赤井越前守忠皛と松本伊豆守秀持の二人は意次の片腕として知られており、その様な二人であれば意知を助けるであろうが、しかし、勝手方である為に、月番町奉行の曲淵景漸と共に、留守居や大目付、非番の町奉行や公事方勘定奉行らを中之間に残して、一足先に中之間より退出することが予想され、その場合、赤井忠皛や松本秀持もまた、意知を助け度とも、助けられないという訳だ。
その点、公事方勘定奉行の桑原伊豫守盛員と久世丹後守廣民ならば心配は要らない。
桑原盛員と久世廣民の二人もまた、山村良旺同様、前例踏襲、事なかれ主義であり、留守居の太田資倍や、或いは大目付の松平忠郷の「意思」に逆らってまで、意知を助けることはないであろう。
その点、治済は運に恵まれていた。
治済にはしかし、問題も残されており、それが目附の存在であった。
目附だけは老中が「廻り」を終えて執務室である上御用部屋へと引揚げたならば、若年寄を待たずに直ちに中之間を退出して良いことになっていた。
これは目附の役目柄による。
即ち、目附は平素、執務室である目附部屋にて勤務をし、昼近くになると皆、目附部屋を出て中之間へと足を運ぶ。
勿論、見廻りに訪れた老中を出迎える為だが、その間、目附部屋は無人となる。
否、正確には昼八つ(午後2時頃)より勤務に入る当番の目附が留守を預かり、また徒目附も常時、詰めていたので、無人になることはなかった。
当番の目附は昼前、それも朝番の目附が中之間へと向かう前には登城して目附部屋に詰め、中之間へと向かう彼等、朝番の目附を送出して、目附部屋の留守を預かるのである。
これは目附が極めて機密性が要求される役職であることに起因し、その執務室である目附部屋も当然、機密性が要求され、直属の上司である若年寄は元より、老中さえも目附部屋への出入りは許されていなかったのだ。
それ故、如何に当番の目附が、或いは徒目附が朝番の目附の留守を預かっているとは申せ、留守にする時間は短いに越したことはなく、そこで目附だけは月番町奉行や勝手方勘定奉行に続いて、老中が「廻り」を終えて上御用部屋へと引揚げたならば、直属の上司である若年寄を待たずに、中之間を退出することが許されていたのだ。
さてそこでだ、佐野善左衛門に中之間より桔梗之間へと差掛かった意知を襲わせた場合、その桔梗之間には目附部屋へと引揚げる目附の姿が存在する可能性もあり得た。
中之間より目附部屋へと戻るには桔梗之間を通らねばならないからだ。
つまり、目附部屋へと引揚げる目附が桔梗之間にて佐野善左衛門の兇行に出くわす可能性もあり得、その場合、目附が佐野善左衛門の兇行を阻止、意知を助ける可能性があり得た。
尤も、ここでも治済は運に恵まれていた。
それと言うのも、老中の「廻り」に参加する朝番の目附は6人であるのだが、その内、末吉善左衛門と井上正在の二人は治済の息がかかっていたからだ。
問題は残る4人の目附である。
即ち、安藤郷右衛門惟徳と柳生主膳正久通、跡部大膳良久と松平田宮恒隆の4人の目附であり、この中でも柳生久通と跡部大膳、松平田宮の3人は問題なかった。
それと言うのもこの3人は秋霜烈日が要求される目附の職にあり乍、大勢順応、要は、
「長い物には巻かれろ…」
それが持味であり、そうであれば留守居の太田資倍や、或いは大目付の松平忠郷といった顕職にある者が、
「意知を助けず…」
そんな姿勢を見せれば、彼等3人も必ずやそれに従い、意知を助けようとはしない筈である。
だが問題は―、本当に問題なのは安藤郷右衛門の存在であった。
安藤郷右衛門は目附の中でも唯一人、部屋住の身、つまりは家督相続前であり、父は今でも西之丸旗奉行を勤める安藤弾正少弼惟要である。
この安藤惟要は今でこそ西之丸旗奉行という閑職にあったものの、嘗ては勝手方勘定奉行として意次を支え続け、その後、顕職の大目付へと栄転を果たし、その際、300石もの加増がなされたのだが、これは意次の配慮による。
その後、安藤惟要は老齢の為に去年の天明3(1783)年2月に自ら望んで大目付よりも閑職の西之丸旗奉行への異動を願出た次第で、今でも意次には感謝していた。
それは300石の加増に対してもそうだが、それ以上に倅の郷右衛門を目附へと取立ててくれたことに対して大いに感謝しており、惟要は倅の郷右衛門に対しても常々、
「田沼様に感謝の念を忘れぬ様…」
そう申し聞かせていたそうな。
否、さしもの治済もそこまでは把握していないが、それでも安藤惟要・郷右衛門父子が意次に対して感謝していることは把握していたので、そこでその様な安藤郷右衛門ならば、やはり意知暗殺の現場に際会したならば、意知を助けることが予期された。
そこで治済は「懐刀」の久田縫殿助を介して、目附の末吉善左衛門と井上正在の二人に連絡を取り、二人に仔細を打明けた上で、
「仮にだが、安藤郷右衛門が山城めを助ける様な動きを示さば、これを阻止せよ…」
二人にそう命じたのであった。
これで意知暗殺計画を実行に移す上で、残る問題は下三奉行の動向であった。
作事・普請・小普請の所謂、下三奉行のなかに、意知を助ける様な仁がいるのかどうか、である。
そこで治済はその点を探るべく、やはり「懐刀」の岩本喜内を介して、普請奉行を勤める岩本正利に連絡を取った。
岩本正利は一橋家臣の岩本喜内の実兄にして次期将軍・家斉の外祖父に当たり、そうであれば今回の治済が描いた意知暗殺計画の協力者と断言出来た。
治済はその岩本正利に意見を求めたところ、
「下三奉行の中でも意知を助けることが予想されるのは作事奉行の室賀山城守正之と小普請奉行の松浦和泉守信桯の二人…」
正利からはまずはそう返ってきた。
その理由だが、室賀正之については意次に対する「恩義」からであった。
即ち、意次は作事奉行としての室賀正之の実力を大いに買っており、正之もそんな己の能力を正当に評価してくれる意次に対して大いに感謝していた。
それが証拠に意次は正之に対して、
「山城守」
その官職の使用を許したのであった。
室賀正之は「山城守」という己の官職が恩人とも言うべき意次の息、意知のそれと同じであることを憚り、そこで遷任、別の官職を名乗ろうとしたところ、
「その必要なし…」
意次は正之に対して引続き、「山城守」の官職の使用を許したのであった。
かくして室賀正之は意次に大いに感謝しており、そうであれば意次の息、意知の遭難に際会してはこれを助けることが予想された。
また、松浦信桯についてはこちらは打算であった。
無論、室賀正之同様、己の能力を正当に評価してくれる意次のことを信桯は感謝していたが、それ以上に、
「長崎奉行になりたい…」
信桯にはその野望があり、周囲にも常々、そう漏らす程であり、そうであれば意知の遭難に際会しては、
「ここで意知を助ければ、その父、意次に多大な恩を売付けることが出来、そうなれば長崎奉行へと一歩近付く…」
信桯はそう考えるに違いなく、意知を助けるに違いなかった。
それとは逆に、意知を助けない者として、室賀正之とは相役、同僚の作事奉行である柘植長門守正寔が予想された。
柘植正寔は去年の天明3(1783)年3月に作事奉行に着任したばかりの新人ということもあろうが、意次は作事奉行の職掌において、正寔を蚊帳の外において、仕事が出来る室賀正之とばかり打合わせをすることが多かった。
それで柘植正寔も意次に対しては大いに不満を持っており、やはりその不満を常々、周囲に漏らしているとのことで、その様な正寔であれば意次の息・意知の遭難に際会しても、これを座視、黙認することが予期された。
同じことは岩本正利とは相役、同僚の普請奉行、青山但馬守成存にも当て嵌まる。
青山成存もまた、意次には不満を抱いていたのだ。それと言うのも、
「職掌無視」
それに尽きた。
普請奉行の職掌は橋の修繕や、或いは掘割工事であった。
そうであれば橋の修繕や、或いは掘割工事においては普請奉行に命ずるべきところ、直属の上司に当たる老中の田沼意次は管轄外の作事奉行である、それも室賀正之に橋の修繕や掘割工事を命じることが度々であり、それが青山成存の不満の種であり、それは同じく普請奉行たる岩本正利にしても同様であった。
最近では青山成存は意次に対しては殺意に近い憎悪まで抱く様になっていた。
それと言うのも意次が主導する印旛沼の干拓工事についても、本来ならば普請奉行に命ずるべきところ、ここでも意次はやはり作事奉行の室賀正之とばかり打合わせを行い、これでは普請奉行が虚仮にされたも同然と、青山成存は意次に対して大いに憤慨しており、それは今や殺意に近い段階にまで達しつつあり、それ故、柘植正寔同様、意知を助けないに違いない。
残るは松浦信桯とは相役、同僚の小普請奉行、村上甲斐守正清であるが、これは岩本正利をして、何とも分からぬとの返答であった。
そこで治済は村上正清については留守居の太田資倍と大目付の松平忠郷にその「処置」を頼むことにした。
即ち、仮に村上正清が意知を助ける素振りを見せたならば、太田資倍と松平忠郷に阻止して貰うことにした。
だがそれで済むのは村上正清唯一人であり、意知を助けることが予期される室賀正之と松浦信桯の動ききまでは封じられまい。
だが救いはあった。
まず室賀正之だが、件の印旛沼の干拓工事をも任されている故に、老中の「廻り」を終えたならば、目附と同様、若年寄を待たずに中之間より退出し、その執務室である御用詰所へと戻ることが許されていた。
つまり室賀正之は意知が佐野善左衛門に襲われる頃には執務室にて仕事を再開させている頃という訳で、これでは意知を助け様がなかった。
だが小普請奉行の松浦信桯はそこまでは許されておらず、信桯は意知を助けられることになる。
そこで治済は若年寄筆頭の酒井忠休の力を借りることにした。
下三奉行の中でも小普請奉行は唯一、若年寄支配であり、そこで事前に―、意知暗殺決行日の前日の23日の、それも意知が中奥へと出向き、若年寄の執務室である次御用部屋を不在にしている間に松浦信桯を次御用部屋へと呼寄せ、そこで酒井忠休から松浦信桯へと何か、適当な仕事を命じて貰うのである。その際、
「明日は仕事を優先させ、老中の昼の廻りを終えたならば、我等、若年寄を待つことなく、直ちに仕事に取掛かる様に…」
そう付加えれば、松浦信桯も目附や作事奉行の室賀正之に続いて松浦信桯をも中之間より退出させることが出来る。
治済がそんなアイディアを口にすると、岩本正利が「それなれば…」と、更に良いアイディアを思いついた。
「この岩本正利、屋敷替の任務を仰せ付かっており…」
大名や旗本の引越しである屋敷替の事務手続は普請奉行の職掌であり、普請奉行の岩本正利がその事務手続を命じられていた。
だが岩本正利はまだ、普請奉行となって日が浅く、事務手続作業に不慣れであり、そこで小普請奉行の松浦信桯が岩本正利を助けてやれと、若年寄筆頭の酒井忠休から松浦信桯に命じて貰うのである。
岩本正利は一昨年の天明2(1782)年11月に小普請奉行より普請奉行へと栄転を果たし、前職の小普請奉行時代は松浦信桯が相役、同僚であったのだ。
そうであれば松浦信桯が嘗ての同僚の岩本正利を助けてやれと命じても何ら不自然ではないだろう。
否、それならば相役の青山成存がいるだろと、松浦信桯は不審がるやも知れぬ。
岩本正利が仕事に躓いているのなら、昔、相役を勤めた己ではなしに、今の相役である青山成存を頼れば良いではないかと、松浦信桯はそう不審に思うやも知れなかった。
だが治済のその疑問に対しても岩本正利は慌てる様子も見せずに、「それなれば…」と、既に答えを用意していた。
それは実に単純なもので、
「岩本正利は青山成存とはどうも、旨くいっていないらしく、岩本正利が仕事に慣れないのもその為らしい…」
岩本正利が仕事を覚えられないのも、先輩である青山成存との不仲が原因であると、松浦信桯にそう囁いてやれば、松浦信桯も納得するであろう。
否、出世主義者の松浦信桯のことである。次期将軍・家斉の外祖父に当たる岩本正利の名が出た途端、それも岩本正利を助けられるとあれば、仮令、疑問に思うところはあっても、それらを捨去るに違いなかった。
そうして晴れて24日、それも老中が「廻り」を終えて執務室である次御用部屋へと引揚げたならば、直ちに岩本正利が松浦信桯を促し、中之間を退出して御用詰所へと向かうのである。
やはり出世主義者の松浦信桯のことである、次期将軍・家斉の外祖父に当たる岩本正利から促されれば、何ら躊躇も抵抗も見せずに中之間をあとにするであろう。
そうすれば松浦信桯の動きを完全に封じられるというものである。つまりは信桯から意知を助ける機会を奪うことが出来るという訳だ。
「成程…、さすれば正利も山城めの遭難に出くわさずに済むというものよのう…」
治済がニヤリと笑みを浮かべて岩本正利にそう応ずると、正利も頭を掻きつつ、「見抜かれましてござりまするなぁ…」と冗談めかして応じた。
即ち、意知の遭難に際会してこれを助けずに見殺しにすれば何らかの咎めを受けるやも知れず、さりとて岩本正利としては意知を助ける選択肢など元よりなく、そこで何ら咎めを受けずに意知を見殺しにするには、意知の遭難の現場に居合わせないのが一番であり、そこで岩本正利は松浦信桯を従い、一足先に中之間より退出することで、難を逃れようとしたのであった。
否、治済としてもそれは望むところであった。
我が子・家斉の外祖父に当たる岩本正利が意知遭難の現場に居合わせるのは治済としても出来れば、否、絶対に避けたいところであったからだ。
それと言うのも、意知が遭難するということは間違いなく大出血を意味しており、そうであれば岩本正利がその近くにいれば、意知の穢れた血で正利が穢れることになるからだ。仮令、血がつかないとしても「空気感染」する。
治済は意知暗殺計画を実行に移す上で密かにそれを恐れていたので、今の岩本正利からの提案は治済のその懸念を打消す効果があったので、治済にとっては正に渡りに船であった。
そこで治済は酒井忠休にも連絡を取ったのであった。
意知暗殺決行日における更に詳しい、「人の流れ」が判明したのだ。
即ち、意知暗殺決行の現場として予定している新番所前廊下から中之間、桔梗之間にかけての、それも昼の九つ半(午後1時頃)過ぎの「人の流れ」についてであった。
まず新番所前廊下に接する新番所には萬年六三郎、猪飼五郎兵衛、白井主税、そして佐野善左衛門が詰めることになっていた。
佐野善左衛門は幸いにして、朝五つ(午前8時頃)より昼八つ(午後2時頃)までの朝番であり、このことは佐野善左衛門と同じ3番組に属する矢部主膳より齎された情報であった。
昼の九つ半(午後1時頃)に「廻り」を終えた老中が執務室である上御用部屋へと入り、すると上御用部屋とは真向かいにある若年寄の執務室である次御用部屋にて、若年寄一党はその様子を見届けてから立上がり、昼飯を摂るべく下部屋へと向かう訳だが、そのコース上に新番所前廊下があった。
つまり意知は外の、それも唯一の理解者である加納久堅を除いた若年寄と共に新番所前廊下を進む訳で、その際、新番所前廊下に接する新番所に詰める新番士が、即ち、佐野善左衛門をはじめとする5人の朝番の新番士が直ぐ目の前の新番所前廊下を進む意知たち若年寄を叩頭して出迎える。
新番は若年寄支配であり、それ故、その新番に属する新番士は支配役たる若年寄が目の前を進む際には若年寄に敬意を表し、叩頭してこれを出迎える。
治済としてはその折に佐野善左衛門に意知を襲わせる算段であった。
具体的には意知が外の若年寄と共に、新番所前廊下を渡り終え、中之間を経て桔梗之間に差掛かったところで、佐野善左衛門に襲わせるつもりであった。
新番所前廊下より中之間を経て桔梗之間へと進む―、それがまた、若年寄が昼飯の為に下部屋へと向かう「コース」であった。
それならば意知が新番所前廊下を進むところを佐野善左衛門に襲わせても良さそうに思われるが、その場合には奥右筆によって阻止される危険性があり得た。
新番所前廊下は新番所と奥右筆の執務室である奥右筆詰所との間に挟まれており、新番所前廊下にて意知が佐野善左衛門に襲われたとなると、直ぐに奥右筆の目に留まる。
そしてこの奥右筆だが、「田沼シンパ」が多かった。
殊に組頭の安藤長左衛門定賢と、それに人事担当の丸毛金次郎利教とその倅の宗三郎利通は「田沼シンパ」の牙城と言えた。
組頭の安藤長左衛門は倅、角蔵定規が妻を迎えるに際して、意次の口利きにより、意次とは親しい幕府御用絵師の狩野養川惟信の長女を娶らせることに成功し、のみならず、その角蔵が去年の天明3(1783)年9月に本丸小納戸として召出された際にも意次の口利きによるとの噂が専らであり、かくして安藤長左衛門はバリバリの「田沼シンパ」であった。
同じことは丸毛金次郎にも当て嵌まり、丸毛金次郎もまた、倅を介して「田沼シンパ」の仲間入りを果たした。
即ち、丸毛金次郎が倅、宗三郎は田沼家臣の星野兵右衛門定次の娘を娶り、丸毛金次郎はその所縁により、神田橋御門内にある田沼家上屋敷に度々、出入りしているらしい。
その様な彼等、「田沼シンパ」が直ぐ目の前にて意知が佐野善左衛門に襲われる現場に際会したならば、必ずや意知を佐野善左衛門の兇刃から守ろうとすべく、意知の許へと駆付け、そして佐野善左衛門を取押さえるやも知れなかった。
治済はそれを恐れて、佐野善左衛門には新番所前廊下ではなく、桔梗之間にて意知を襲わせようと考えたのであった。
それと言うのも、この桔梗之間もまた新番所前廊下と同様、佐野善左衛門たち新番士が詰める新番所に接していた。
しかも桔梗之間には平日の、それも昼の九つ半(午後1時頃)時分には誰も詰めてはいなかった。
桔梗之間は新番組頭と御番医師の殿中席ではあったが、彼等がその殿中席である桔梗之間に詰めるのは月次御礼などの式日に限られ、平日は各々、勤務場所である詰所に詰めていた。
例えば新番組頭ならば時斗之間次がその詰所であり、平日は時斗之間次に詰めていた。
時斗之間次とは新番所前廊下のことであり、そこが新番組頭の勤務場所であった。
一方、御番医師は平素、御屏風部屋の直ぐ隣の医師溜に詰めており、それ故、平日には―、佐野善左衛門に意知を襲わせる時分には桔梗之間には誰も詰めてはいなかった。
否、若しかしたら目附がいるやも知れなかった。
老中の昼の「廻り」を終えるまでは皆、夫々の部屋で大人しくしているのが仕来りであったが、唯一の例外は激務である月番町奉行と勝手方勘定奉行であった。
月番町奉行と勝手方勘定奉行は激務である故に、老中が中之間に見廻りに訪れ、そして中之間を検分し終えて退出したならば、月番町奉行と勝手方勘定奉行もそれに続いて中之間を退出して良いことになっていた。
今月の3月で言えば、北町奉行の曲淵甲斐守景漸が月番であり、そこで曲淵景漸は老中が中之間を見廻り終え、次の見廻り場所である山吹之間へと向かうべく中之間を出ていったならば、月番町奉行の曲淵景漸もその後を追う様に中之間より退出して良いことになっていた。
治済はそれを知ると、心底ホッとした。
それと言うのも、これで仮に月番が南町奉行であったならば、意知暗殺計画に支障を来す可能性が高かったからだ。
仮に南町奉行が月番であったならば、老中の後に続いて中之間より退出するのは南町奉行の山村信濃守良旺ということになり、裏を返すと、月番ではない北町奉行の曲淵景漸は引続き、中之間に留まらなければならず、その場合、曲淵景漸が意知暗殺の現場に際会する可能性が高かった。
老中が「廻り」を終えたならば、もう部屋を出ても良さそうに思われるやも知れぬがそうではなかった。
老中の昼の「廻り」のコース上にある中之間は、若年寄が昼飯の為に下部屋へと向かう際のコースとも重なっており、それ故、中之間にて老中の見廻りを出迎えた者達―、月番町奉行と勝手方勘定奉行を除いた留守居や大目付、或いは月番ではない町奉行や公事方勘定奉行、それに作事・普請・小普請の下三奉行たちが老中が「廻り」を終えて上御用部屋へと引揚げた後も引続き、中之間に留まり、今度は昼飯の為に下部屋へと向かう若年寄を出迎えねばならないからだ。
月番ではない町奉行が留守居や大目付、公事方勘定奉行や下三奉行らと共に意知暗殺の現場に際会する可能性が高いのは斯かる事情に因る。
その際、月番ではない、つまりは非番の町奉行が北町奉行の曲淵景漸であったならば、意知暗殺を企む治済にとっては甚だ都合が悪かった。
曲淵景漸は嘗て、刑死人の腑分け、解剖を許した程に進取の気性に富み、意次とは馬が合うことで知られており、何より、正義漢であるので、意知が佐野善左衛門に襲われる現場に際会したならば、急ぎその現場へと駆付け、佐野善左衛門を組伏せて意知を助けるに違いなかった。
その点、南町奉行の山村良旺ならば心配はいらない。
山村良旺は曲淵景漸とは真逆の、前例踏襲、事なかれ主義の男であり、そうであれば、意知暗殺の現場に際会しても、町奉行よりも格上の留守居の太田資倍や、或いは大目付の松平忠郷が意知を助ける姿勢を見せなければ、良旺もそれに従い、意知を見殺しにするに違いない。
同じことは勘定奉行にも当て嵌まる。
勝手方勘定奉行の赤井越前守忠皛と松本伊豆守秀持の二人は意次の片腕として知られており、その様な二人であれば意知を助けるであろうが、しかし、勝手方である為に、月番町奉行の曲淵景漸と共に、留守居や大目付、非番の町奉行や公事方勘定奉行らを中之間に残して、一足先に中之間より退出することが予想され、その場合、赤井忠皛や松本秀持もまた、意知を助け度とも、助けられないという訳だ。
その点、公事方勘定奉行の桑原伊豫守盛員と久世丹後守廣民ならば心配は要らない。
桑原盛員と久世廣民の二人もまた、山村良旺同様、前例踏襲、事なかれ主義であり、留守居の太田資倍や、或いは大目付の松平忠郷の「意思」に逆らってまで、意知を助けることはないであろう。
その点、治済は運に恵まれていた。
治済にはしかし、問題も残されており、それが目附の存在であった。
目附だけは老中が「廻り」を終えて執務室である上御用部屋へと引揚げたならば、若年寄を待たずに直ちに中之間を退出して良いことになっていた。
これは目附の役目柄による。
即ち、目附は平素、執務室である目附部屋にて勤務をし、昼近くになると皆、目附部屋を出て中之間へと足を運ぶ。
勿論、見廻りに訪れた老中を出迎える為だが、その間、目附部屋は無人となる。
否、正確には昼八つ(午後2時頃)より勤務に入る当番の目附が留守を預かり、また徒目附も常時、詰めていたので、無人になることはなかった。
当番の目附は昼前、それも朝番の目附が中之間へと向かう前には登城して目附部屋に詰め、中之間へと向かう彼等、朝番の目附を送出して、目附部屋の留守を預かるのである。
これは目附が極めて機密性が要求される役職であることに起因し、その執務室である目附部屋も当然、機密性が要求され、直属の上司である若年寄は元より、老中さえも目附部屋への出入りは許されていなかったのだ。
それ故、如何に当番の目附が、或いは徒目附が朝番の目附の留守を預かっているとは申せ、留守にする時間は短いに越したことはなく、そこで目附だけは月番町奉行や勝手方勘定奉行に続いて、老中が「廻り」を終えて上御用部屋へと引揚げたならば、直属の上司である若年寄を待たずに、中之間を退出することが許されていたのだ。
さてそこでだ、佐野善左衛門に中之間より桔梗之間へと差掛かった意知を襲わせた場合、その桔梗之間には目附部屋へと引揚げる目附の姿が存在する可能性もあり得た。
中之間より目附部屋へと戻るには桔梗之間を通らねばならないからだ。
つまり、目附部屋へと引揚げる目附が桔梗之間にて佐野善左衛門の兇行に出くわす可能性もあり得、その場合、目附が佐野善左衛門の兇行を阻止、意知を助ける可能性があり得た。
尤も、ここでも治済は運に恵まれていた。
それと言うのも、老中の「廻り」に参加する朝番の目附は6人であるのだが、その内、末吉善左衛門と井上正在の二人は治済の息がかかっていたからだ。
問題は残る4人の目附である。
即ち、安藤郷右衛門惟徳と柳生主膳正久通、跡部大膳良久と松平田宮恒隆の4人の目附であり、この中でも柳生久通と跡部大膳、松平田宮の3人は問題なかった。
それと言うのもこの3人は秋霜烈日が要求される目附の職にあり乍、大勢順応、要は、
「長い物には巻かれろ…」
それが持味であり、そうであれば留守居の太田資倍や、或いは大目付の松平忠郷といった顕職にある者が、
「意知を助けず…」
そんな姿勢を見せれば、彼等3人も必ずやそれに従い、意知を助けようとはしない筈である。
だが問題は―、本当に問題なのは安藤郷右衛門の存在であった。
安藤郷右衛門は目附の中でも唯一人、部屋住の身、つまりは家督相続前であり、父は今でも西之丸旗奉行を勤める安藤弾正少弼惟要である。
この安藤惟要は今でこそ西之丸旗奉行という閑職にあったものの、嘗ては勝手方勘定奉行として意次を支え続け、その後、顕職の大目付へと栄転を果たし、その際、300石もの加増がなされたのだが、これは意次の配慮による。
その後、安藤惟要は老齢の為に去年の天明3(1783)年2月に自ら望んで大目付よりも閑職の西之丸旗奉行への異動を願出た次第で、今でも意次には感謝していた。
それは300石の加増に対してもそうだが、それ以上に倅の郷右衛門を目附へと取立ててくれたことに対して大いに感謝しており、惟要は倅の郷右衛門に対しても常々、
「田沼様に感謝の念を忘れぬ様…」
そう申し聞かせていたそうな。
否、さしもの治済もそこまでは把握していないが、それでも安藤惟要・郷右衛門父子が意次に対して感謝していることは把握していたので、そこでその様な安藤郷右衛門ならば、やはり意知暗殺の現場に際会したならば、意知を助けることが予期された。
そこで治済は「懐刀」の久田縫殿助を介して、目附の末吉善左衛門と井上正在の二人に連絡を取り、二人に仔細を打明けた上で、
「仮にだが、安藤郷右衛門が山城めを助ける様な動きを示さば、これを阻止せよ…」
二人にそう命じたのであった。
これで意知暗殺計画を実行に移す上で、残る問題は下三奉行の動向であった。
作事・普請・小普請の所謂、下三奉行のなかに、意知を助ける様な仁がいるのかどうか、である。
そこで治済はその点を探るべく、やはり「懐刀」の岩本喜内を介して、普請奉行を勤める岩本正利に連絡を取った。
岩本正利は一橋家臣の岩本喜内の実兄にして次期将軍・家斉の外祖父に当たり、そうであれば今回の治済が描いた意知暗殺計画の協力者と断言出来た。
治済はその岩本正利に意見を求めたところ、
「下三奉行の中でも意知を助けることが予想されるのは作事奉行の室賀山城守正之と小普請奉行の松浦和泉守信桯の二人…」
正利からはまずはそう返ってきた。
その理由だが、室賀正之については意次に対する「恩義」からであった。
即ち、意次は作事奉行としての室賀正之の実力を大いに買っており、正之もそんな己の能力を正当に評価してくれる意次に対して大いに感謝していた。
それが証拠に意次は正之に対して、
「山城守」
その官職の使用を許したのであった。
室賀正之は「山城守」という己の官職が恩人とも言うべき意次の息、意知のそれと同じであることを憚り、そこで遷任、別の官職を名乗ろうとしたところ、
「その必要なし…」
意次は正之に対して引続き、「山城守」の官職の使用を許したのであった。
かくして室賀正之は意次に大いに感謝しており、そうであれば意次の息、意知の遭難に際会してはこれを助けることが予想された。
また、松浦信桯についてはこちらは打算であった。
無論、室賀正之同様、己の能力を正当に評価してくれる意次のことを信桯は感謝していたが、それ以上に、
「長崎奉行になりたい…」
信桯にはその野望があり、周囲にも常々、そう漏らす程であり、そうであれば意知の遭難に際会しては、
「ここで意知を助ければ、その父、意次に多大な恩を売付けることが出来、そうなれば長崎奉行へと一歩近付く…」
信桯はそう考えるに違いなく、意知を助けるに違いなかった。
それとは逆に、意知を助けない者として、室賀正之とは相役、同僚の作事奉行である柘植長門守正寔が予想された。
柘植正寔は去年の天明3(1783)年3月に作事奉行に着任したばかりの新人ということもあろうが、意次は作事奉行の職掌において、正寔を蚊帳の外において、仕事が出来る室賀正之とばかり打合わせをすることが多かった。
それで柘植正寔も意次に対しては大いに不満を持っており、やはりその不満を常々、周囲に漏らしているとのことで、その様な正寔であれば意次の息・意知の遭難に際会しても、これを座視、黙認することが予期された。
同じことは岩本正利とは相役、同僚の普請奉行、青山但馬守成存にも当て嵌まる。
青山成存もまた、意次には不満を抱いていたのだ。それと言うのも、
「職掌無視」
それに尽きた。
普請奉行の職掌は橋の修繕や、或いは掘割工事であった。
そうであれば橋の修繕や、或いは掘割工事においては普請奉行に命ずるべきところ、直属の上司に当たる老中の田沼意次は管轄外の作事奉行である、それも室賀正之に橋の修繕や掘割工事を命じることが度々であり、それが青山成存の不満の種であり、それは同じく普請奉行たる岩本正利にしても同様であった。
最近では青山成存は意次に対しては殺意に近い憎悪まで抱く様になっていた。
それと言うのも意次が主導する印旛沼の干拓工事についても、本来ならば普請奉行に命ずるべきところ、ここでも意次はやはり作事奉行の室賀正之とばかり打合わせを行い、これでは普請奉行が虚仮にされたも同然と、青山成存は意次に対して大いに憤慨しており、それは今や殺意に近い段階にまで達しつつあり、それ故、柘植正寔同様、意知を助けないに違いない。
残るは松浦信桯とは相役、同僚の小普請奉行、村上甲斐守正清であるが、これは岩本正利をして、何とも分からぬとの返答であった。
そこで治済は村上正清については留守居の太田資倍と大目付の松平忠郷にその「処置」を頼むことにした。
即ち、仮に村上正清が意知を助ける素振りを見せたならば、太田資倍と松平忠郷に阻止して貰うことにした。
だがそれで済むのは村上正清唯一人であり、意知を助けることが予期される室賀正之と松浦信桯の動ききまでは封じられまい。
だが救いはあった。
まず室賀正之だが、件の印旛沼の干拓工事をも任されている故に、老中の「廻り」を終えたならば、目附と同様、若年寄を待たずに中之間より退出し、その執務室である御用詰所へと戻ることが許されていた。
つまり室賀正之は意知が佐野善左衛門に襲われる頃には執務室にて仕事を再開させている頃という訳で、これでは意知を助け様がなかった。
だが小普請奉行の松浦信桯はそこまでは許されておらず、信桯は意知を助けられることになる。
そこで治済は若年寄筆頭の酒井忠休の力を借りることにした。
下三奉行の中でも小普請奉行は唯一、若年寄支配であり、そこで事前に―、意知暗殺決行日の前日の23日の、それも意知が中奥へと出向き、若年寄の執務室である次御用部屋を不在にしている間に松浦信桯を次御用部屋へと呼寄せ、そこで酒井忠休から松浦信桯へと何か、適当な仕事を命じて貰うのである。その際、
「明日は仕事を優先させ、老中の昼の廻りを終えたならば、我等、若年寄を待つことなく、直ちに仕事に取掛かる様に…」
そう付加えれば、松浦信桯も目附や作事奉行の室賀正之に続いて松浦信桯をも中之間より退出させることが出来る。
治済がそんなアイディアを口にすると、岩本正利が「それなれば…」と、更に良いアイディアを思いついた。
「この岩本正利、屋敷替の任務を仰せ付かっており…」
大名や旗本の引越しである屋敷替の事務手続は普請奉行の職掌であり、普請奉行の岩本正利がその事務手続を命じられていた。
だが岩本正利はまだ、普請奉行となって日が浅く、事務手続作業に不慣れであり、そこで小普請奉行の松浦信桯が岩本正利を助けてやれと、若年寄筆頭の酒井忠休から松浦信桯に命じて貰うのである。
岩本正利は一昨年の天明2(1782)年11月に小普請奉行より普請奉行へと栄転を果たし、前職の小普請奉行時代は松浦信桯が相役、同僚であったのだ。
そうであれば松浦信桯が嘗ての同僚の岩本正利を助けてやれと命じても何ら不自然ではないだろう。
否、それならば相役の青山成存がいるだろと、松浦信桯は不審がるやも知れぬ。
岩本正利が仕事に躓いているのなら、昔、相役を勤めた己ではなしに、今の相役である青山成存を頼れば良いではないかと、松浦信桯はそう不審に思うやも知れなかった。
だが治済のその疑問に対しても岩本正利は慌てる様子も見せずに、「それなれば…」と、既に答えを用意していた。
それは実に単純なもので、
「岩本正利は青山成存とはどうも、旨くいっていないらしく、岩本正利が仕事に慣れないのもその為らしい…」
岩本正利が仕事を覚えられないのも、先輩である青山成存との不仲が原因であると、松浦信桯にそう囁いてやれば、松浦信桯も納得するであろう。
否、出世主義者の松浦信桯のことである。次期将軍・家斉の外祖父に当たる岩本正利の名が出た途端、それも岩本正利を助けられるとあれば、仮令、疑問に思うところはあっても、それらを捨去るに違いなかった。
そうして晴れて24日、それも老中が「廻り」を終えて執務室である次御用部屋へと引揚げたならば、直ちに岩本正利が松浦信桯を促し、中之間を退出して御用詰所へと向かうのである。
やはり出世主義者の松浦信桯のことである、次期将軍・家斉の外祖父に当たる岩本正利から促されれば、何ら躊躇も抵抗も見せずに中之間をあとにするであろう。
そうすれば松浦信桯の動きを完全に封じられるというものである。つまりは信桯から意知を助ける機会を奪うことが出来るという訳だ。
「成程…、さすれば正利も山城めの遭難に出くわさずに済むというものよのう…」
治済がニヤリと笑みを浮かべて岩本正利にそう応ずると、正利も頭を掻きつつ、「見抜かれましてござりまするなぁ…」と冗談めかして応じた。
即ち、意知の遭難に際会してこれを助けずに見殺しにすれば何らかの咎めを受けるやも知れず、さりとて岩本正利としては意知を助ける選択肢など元よりなく、そこで何ら咎めを受けずに意知を見殺しにするには、意知の遭難の現場に居合わせないのが一番であり、そこで岩本正利は松浦信桯を従い、一足先に中之間より退出することで、難を逃れようとしたのであった。
否、治済としてもそれは望むところであった。
我が子・家斉の外祖父に当たる岩本正利が意知遭難の現場に居合わせるのは治済としても出来れば、否、絶対に避けたいところであったからだ。
それと言うのも、意知が遭難するということは間違いなく大出血を意味しており、そうであれば岩本正利がその近くにいれば、意知の穢れた血で正利が穢れることになるからだ。仮令、血がつかないとしても「空気感染」する。
治済は意知暗殺計画を実行に移す上で密かにそれを恐れていたので、今の岩本正利からの提案は治済のその懸念を打消す効果があったので、治済にとっては正に渡りに船であった。
そこで治済は酒井忠休にも連絡を取ったのであった。
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