天明奇聞 ~たとえば意知が死ななかったら~

一橋治済は酒井忠休と若年寄の太田資愛への「手入」の時期について話し合う。そして忠崇が真に菊間本間に出られぬ理由とは。

「されば…、それに備そなえて今いまのうちから二人ふたりに手入ていれをしておくかのう…」

　治済はるさだが口くちにした二人ふたりとは勿論もちろん、若年寄わかどしよりの太田おおた備後守びんごのかみ資愛すけよしと米倉よねくら丹後守たんごのかみ昌晴まさはるの二人ふたりを指さしていた。

　つまり、太田おおた資愛すけよしと米倉昌晴よねくらまさはるの二人ふたりに対たいしても今いまのうちから、意知暗殺おきともあんさつの現場げんば―、意知おきともが番士ばんしに刃やいばを向むけられたその現場げんばに際会さいかいしては、意知おきともを見捨みすててくれる様よう、手入ていれ、即すなわち、懐柔かいじゅうを図はかっておく必要ひつようがあるなと、治済はるさだはそう言っていたのだ。

　忠休ただよしもそうと気付きづくと、しかし頭かぶりを振ふった。

「太田備後おおたびんごは兎とも角かく、米倉よねくら丹後たんごへの手入ていれは御お控ひかえあそばされた方ほうが…」

　忠休ただよしが治済はるさだにそう忠告ちゅうこくすると、治済はるさだは「何故なぜだ?」と尋たずねた。

「されば…、米倉よねくら丹後たんごは成程なるほど、加納かのう遠江とおとうみとは違ちがい申もうして、少すくなくとも己おのれが身みを挺ていしてまで意知おきともめを守まもろうとせし程ほどには意知おきともめと親したしい訳わけではござりませぬ…」

　忠休ただよしが「少すくなくとも」との文節フレーズにアクセントを置おいた。

　すると治済はるさだも、「少すくなくとも、とな?」と喰くい付ついてきた。

「御意ぎょい…、されば米倉よねくら丹後たんごめはそれ程ほどまでには意知おきともめと親したしくないというだけで、さりとて敵対てきたいしている訳わけでもなく…」

「すると…、今いま、この段階だんかいで下手へたに米倉よねくら丹後たんごに斯かかる手入ていれを行おこなおうものなら、米倉よねくら丹後たんごは或あるいはそのことを…、この治済はるさだより手入ていれを受うけしことを山城おきともめに内報ないほうするやも知しれず、と?」

　治済はるさだが先回さきまわりして尋たずねると、忠休ただよしもまたしても「御意ぎょい」と応おうじた。

　成程なるほど、内報ないほう―、意知おきともへと「告口つげぐち」される危険性リスクがあるのならば米倉昌晴よねくらまさはるへの「手入ていれ」は控ひかえた方ほうが良よさそうであった。

「されば太田備後おおたびんごへの手入ていれは差支さしつかえない訳わけだの?」

　治済はるさだは忠休ただよしに確たしかめる様ように尋たずねた。

　太田おおた資愛すけよしならば米倉昌晴よねくらまさはるとは違ちがい、意知おきともに「告口つげぐち」する危険性リスクはないのだなと、その点てんを糺ただしていたのだ。

　忠休ただよしはそれにも「御意ぎょい」と応おうじた上うえで、豫参よさんの一件いっけんを補足ほそくし、治済はるさだを頷うなずかせた。

「成程なるほどのう…、それなれば如何いかにも太田備後おおたびんごは山城おきともめに良よからぬ感情かんじょうを抱だいておろうぞ…」

「御意ぎょい…、されば仮令たとえ、太田備後おおたびんごが畏おそれ多おおくも民部卿様みんぶのきょうさまより手入ていれを受うけ申もうしましたるところで、それを意知おきともめへと内報ないほうせし可能性かのうせいは皆無かいむかと…」

「うむ…、されば早速さっそくにも…」

　太田おおた資愛すけよしへと「手入ていれ」を行おこなおうとする治済はるさだを忠休ただよしが「暫しばらく」と制せいした。

「されば…、太田備後おおたびんごへの手入ていれにつきましては直前ちょくぜん…、3月に入はいってから…、早はやくとも2月の下旬げじゅんが宜よろしかろうと…」

「何故なぜだ?」

「されば今いま…、正月しょうがつのこの段階だんかいで太田備後おおたびんごへと手入ていれをあそばされましては、小心者しょうしんものの太田備後おおたびんごのこと、意知おきともめに告口つげぐちこそ致いたさぬとしても、時ときが経たつにつれて事ことの重大性じゅうだいせいに恐おそれ戦おののき、気後きおくれするやも知しれず…」

「成程なるほど…、それで3月…、早はやくとも2月の下旬げじゅんが良よいという訳わけだの?太田備後おおたびんごめに余計よけいな恐おそれを抱いだかせる暇いとまを与あたえぬ為ために…」

「御意ぎょい…」

　意知暗殺おきともあんさつを実行じっこうに移うつす3月よりも遥はるか前まえである今いま、正月しょうがつのこの段階だんかいで小心者しょうしんものの太田おおた資愛すけよしに「手入ていれ」を行おこなっては、

「時ときが経たつにつれて…」

　つまりは意知暗殺おきともあんさつの3月が近付ちかづくにつれて、資愛すけよしは事ことの重大性じゅうだいせいに恐おそれ戦おののくようになり、結果けっか、資愛すけよしを尻込しりごみさせるやも知しれず、それよりは3月の直前ちょくぜんになってから「手入ていれ」を行おこなった方ほうが、資愛すけよしに余計よけいな恐おそれを生しょうじさせずに済すむ。

「相分あいわかった。されば太田備後おおたびんごには2月の下旬げじゅんになってから手入ていれを致いたそうぞ…」

　治済はるさだがそう宣せんしたので、忠休ただよしも「ははぁっ」と応おうじた。

　それから治済はるさだは兄あに・重富しげとみと揃そろって暫しばし、忠休ただよしと談笑だんしょうに花はなを咲さかせた。その頃ころにはそれまで船ふねを漕こいでいた忠崇ただたかも再ふたたび目めを覚さまして談笑だんしょうに加くわわった。

　こうして忠休ただよし・忠崇ただたかの父子ふしは夕ゆうの七つ半(午後5時頃)まで重富しげとみ・治済はるさだの兄弟きょうだいと談笑だんしょうして、夕ゆうの七つ半(午後5時頃)に重富しげとみ・治済はるさだの兄弟きょうだいに見送みおくられて福井ふくい藩はん上屋敷かみやしきをあとにした。

「やれやれ…、忠休ただよしという男おとこ、扱あつかい易やすうて助たすかったのう…」

　重富しげとみは忠休ただよし・忠崇ただたか父子ふしが消きえたところで、弟おとうと・治済はるさだにそう語かたり掛かけた。

「全まったく…、いや、扱あつかい易やすうこと、この上うえなく…」

　治済はるさだも苦笑くしょうしてそう応おうじたので、兄あに・重富しげとみもつられて、「くっくっ」と皮肉ひにくな笑えみ、と言うよりは嘲笑ちょうしょうを漏もらした。

「何なにしろ、吾等われら、兄弟きょうだいの虚言きょげんを真まに受うけたのだからの…」

　それこそが重富しげとみの嘲笑ちょうしょうの所以ゆえんであった。

　即すなわち、重富しげとみ・治済はるさだ兄弟きょうだいが忠休ただよし・忠崇ただたか父子ふしへと語かたって聞きかせた、

「若年寄わかどしよりの忠休ただよしが成人嫡子せいじんちゃくしにして将軍しょうぐん・家治いえはるへの御目見得おめみえを済すませた忠崇ただたかがそれにもかかわらず、未いまだ菊間きくのま本間ほんまに出でられない理由りゆうについて…」

　それである。否いや、虚言きょげんであった。

　意次おきつぐが忠崇ただたかの才能さいのうを恐おそれて菊間きくのま本間ほんまに出ださぬ様よう、画策かくさくしたからだと、重富しげとみ・治済はるさだ兄弟きょうだいは忠休ただよし・忠崇ただたか付しふしにそう語かたって聞きかせた訳わけだが、無論むろん、それは真赤まっかな嘘うそであった。

　それでは真まことの理由りゆうだが、偏ひとえに、忠崇ただたかの無能むのうさに原因げんいんがあった。

　菊間きくのま本間ほんまに出でるということは「半役人はんやくにん」になることを意味いみしていた。

　平日へいじつは毎日まいにち、交代こうたいで菊間きくのま本間ほんまに詰つめては不時ふじの用ように備そなえる…、それこそが「半役人はんやくにん」に求もとめられる職責しょくせき、つまりは菊間きくのま本間ほんまに詰つめる者ものの職責しょくせきであり、それ故ゆえ、無能むのうでは困こまるのだ。

　酒井さかい忠崇ただたかが菊間きくのま本間ほんまへと出でられる「有資格者ゆうしかくしゃ」であるにもかかわらず、未いまだ菊間きくのま本間ほんまに出でられぬのも、その無能むのうさ故ゆえであった。

　否いや、意次おきつぐなどはむしろ、先例せんれいに従したがい、

「そろそろ酒井さかい忠崇ただたかを菊間きくのま本間ほんまに出だしては…」

　将軍しょうぐん・家治いえはるにそう勧すすめた程ほどであったが、家治いえはるがそれを拒絶きょぜつしたのだ。寵愛ちょうあいする意次おきつぐからの進言アドバイスにもかかわらず、であった。

　忠崇ただたかの無能むのうさについては将軍しょうぐん・家治いえはるも御お側そば御ご用取次ようとりつぎを介かいして御庭番おにわばんより齎もたらされた情報じょうほうにより把握はあくしていた。

　それ故ゆえ、家治いえはるはその様ような酒井さかい忠崇ただたかを菊間きくのま本間ほんまへと出だそうものなら、外ほかの者もの―、菊間きくのま本間ほんまへと出でている者ものに迷惑めいわくが掛かかるとして、忠崇ただたかを菊間きくのま本間ほんまに出ださなかったのだ。

　治済はるさだはそのことを意いを通つうずる御お側そば御ご用取次ようとりつぎの一人ひとり、稲葉いなば正明まさあきらより齎もたらされて把握はあくしており、しかし、忠休ただよし・忠崇ただたか父子ふしに対たいしては、兄あに・重富しげとみとも謀はかって、捩ねじ曲まげて伝つたえたのであった。

　すると忠休ただよし・忠崇ただたか父子ふしもそうとも気付きづかずに、大変たいへん耳心地みみごこちの良よい話はなし、否いや、虚言きょげんであった為ために何なんの疑うたがいもせずに真まに受うけたのであった。

「否いや…、少すこし頭あたまを働はたらかせれば偽いつわりだと分わかりそうなものを…」

　重富しげとみはしみじみとした口調くちょうでそう告つげた。

　確たしかにその通とおりであった。

　如何いかに意次おきつぐが将軍しょうぐん・家治いえはるより寵愛ちょうあいを受うけている老中ろうじゅうと雖いえども、菊間きくのま本間ほんまへと出でられる「有資格者ゆうしかくしゃ」をその一存いちぞんで菊間きくのま本間ほんまへと出ださせないなど、おおよそ不可能ふかのうであった。

　意次おきつぐにそこまでの権限けんげんはなく、してみると忠崇ただたかが菊間きくのま本間ほんまに出でられぬのは将軍しょうぐん・家治いえはるの意思いしに外ほかならない。

　愚息ぐそくである忠崇ただたかは兎とも角かく、若年寄わかどしより筆頭ひっとうを勤つとめる父ちち・忠休ただよしならば幕閣ばっかくである以上いじょう、当然とうぜん、その点てんに気付きづいて然しかるべきだが、しかし重富しげとみ・治済はるさだ兄弟きょうだいの「虚言きょげん」が余程よほどに耳みみに心地ここちが良よかったらしく、すっかり失念しつねんしていたものと見みえる。

「いやはや…、なれど吾等われらとしては忠休ただよし・忠崇ただたかの馬鹿ばかさ加減かげんに感謝かんしゃせねばなりませぬな…」

　治済はるさだは口許くちもとを歪ゆがめさせてそう漏もらすと、兄あに・重富しげとみも頷うなずいた。

　治済はるさだはそれから船ふねで一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしきへと、それも船着場ふなつきばが併設へいせつされている大奥おおおくへと戻もどった。

　今日きょう、治済はるさだが忠休ただよし・忠崇ただたか父子ふしと逢あう為ために、一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしきではなく、兄あに・重富しげとみが当主とうしゅを務つとめる福井ふくい藩はん上屋敷かみやしきを選えらんだのも正まさにそこに理由わけがあった。

　即すなわち、一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしきに、それも表門おもてもんより若年寄わかどしよりの酒井さかい忠休ただよしとその息そくの忠休ただよしを招まねいては必かならずや、秋霜烈日しゅうそうれつじつなる家老かろうの水谷勝富みずのやかつとみを介かいして将軍しょうぐん・家治いえはるへと伝つたわるに違ちがいなく、治済はるさだとしてはそれを避さけるべく、水谷勝富みずのやかつとみにも気付きづかれることなく船ふねで往来ゆきき出来できる福井ふくい藩はん上屋敷かみやしきへと忠休ただよし・忠崇ただたか父子ふしを招まねいたのであった。

　それならば忠休ただよし・忠崇ただたか父子ふしが船ふねで直接ちょくせつに一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしきの大奥おおおくに併設へいせつされている船着場ふなつきばに乗付のりつければ済すむ様ようにも思おもわれるが、しかし忠休ただたか・忠崇ただたか父子ふしが住すまう上屋敷かみやしきは生憎あいにくと一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしきや、或あるいは福井ふくい藩はん上屋敷かみやしきとは異ことなり、川かわに面めんしてはいなかったのだ。