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閑話 領主として領民を慈しむ佐野善左衛門政言はそれゆえにドツボにハマる。そして偽造受領書…。
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その頃、佐野善左衛門は播磨屋の奥座敷にて七草粥に舌鼓を打っていた。
そして新右衛門が一橋家上屋敷より御店へと戻り、再び佐野善左衛門のいる奥座敷へと足を運ぶと、ちょうど善左衛門が七草粥を平らげたところであった。
「あっ、これは播磨屋殿…」
善左衛門は箸を置くと、新右衛門を見上げた。
「七草粥の御味は如何でござりましたかな?」
新右衛門は善左衛門と向かい合うなり、そう尋ねた。
「大変美味しく頂き…、馳走になり申した…」
善左衛門はそう感謝の言葉を口にすると新右衛門に頭を下げたので、これには新右衛門も大いに恐縮させられた。
それから新右衛門は女中に命じて善左衛門の膳を下げさせると、「ときに佐野様…」と切出した。
「商人の分際で差出がましゅうはござりまするが…、豊作の折などには五公五民、或いは六公四民になされましては如何でござりましょう…」
年貢の徴収率を上げてはどうかと、新右衛門は善左衛門にそう進言をしたのであった。
成程、それは善左衛門も考えぬではなかった。
今よりも年貢の徴収率を上げれば、この播磨屋への「積立貯蓄」も例えば年10両から20両へと、倍の額を積立てることが可能となろう。
善左衛門政言が領する都賀郡は肥沃の地であり、米の味も良く、外の一般的な産地の米に較べて若干だが、高値で取引されていた。
均せば1石につき1両2分といったところであろうか。だからこそ、善左衛門政言は、否、佐野善左衛門家においては豊作の折にも堅く四公六民を守ることが出来たのだ。
豊作の折には流石に米の値が下がると言っても、それでも佐野善左衛門家が領する都賀の地より収穫される米に限って言えば1石1両を下ることはないからだ。
そして逆に一昨年の天明2(1782)年から去年の天明3(1783)年にかけての飢饉、所謂、「天明の飢饉」の折には、
「零公十民」
つまりは年貢を徴収せずとも家計を維持出来、のみならず10両の「積立貯蓄」へと回す余裕もまった。
だがそれを、外の旗本と同様に豊作の折には領民から今まで以上に年貢を取立てれば、毎年10両ずつの「積立貯蓄についても、今まで以上に、それも倍の20両を積立てることが出来様。
そして毎年の積立額が増えれば、それはそのまま利息に反映される。
今、善左衛門は「積立貯蓄」のうちから200両を取崩した為に、残りの「積立貯蓄」の額は366両に減ってしまい、そこに10両を積立てれば376両となり、そこに1割の利息が付いて今年の年末には元利合計414両に化ける。
だがそれが仮に20両を積立てることが出来ればどうなるか。
その場合には386両に1割の利息が付き、すると年末に化ける元利合計は425両となり、1両も利息が違ってくる。
新右衛門はそれ故、善左衛門に年貢の徴収率を上げることを勧めたのだ。そこには、
「年貢の徴収率を上げることで財産を増やせば、田沼意知様への賂に回すお金もそれだけ増やすことが出来ますよ…」
そんな思惑が込められてもいた。
それは善左衛門も考えたことであり、のみならず、その誘惑に駆られもしたことであった。
確かに財産を増やすことで、今まで以上に多額の贈賄をすれば―、意知へと金をばら撒けば、より確実に立身出世が果たせよう。
だがその為に―、自が野望の為に領民を踏み躙る様な真似は少なくとも善左衛門には出来なかった。
年貢の徴収率を上げるということは偏に、領民から年貢を収奪することに、つまりは領民を踏み躙ることに外ならず、それは國の寶である領民を大事にせよとの佐野家の家訓に反することであったからだ。
「播磨屋殿の進言は有難いが…、なれどそれだけは出来ぬ…」
善左衛門は新右衛門からの進言を謝絶した。
それから善左衛門は200両―、切餅8つが包まれた風呂敷を抱えて席を立った。
「まだ昼の九つ半(午後1時頃)でござりまするが…」
意知が神田橋御門内の上屋敷に戻るにはまだ、一刻(約2時間)程あるが、と新右衛門は善左衛門を見上げつつ、そう示唆した。
「否…、御屋敷にて待つ故に…」
善左衛門はそう応えた。それは嘘ではないが、正確性には欠けていた。
善左衛門がこれから逢おうとしているのは意知ではなく新番頭の松平忠香だからだ。
そして忠香ならば昼の九つ半(午後1時頃)の今時分ならば既に下谷廣小路にある屋鋪に帰宅しているに違いなく、仮に帰宅していなかったとしても新右衛門に答えた様に、屋鋪にて待つつもりであった。
「さればこれにて…」
善左衛門は新右衛門にそう挨拶して播磨屋をあとにした。
日本橋は金吹町にある播磨屋をあとにした善左衛門はそれから、筋違御門を目指して歩き、そうして筋違御門を潜ると、その門外へと通ずる橋を渡り、筋違御門外へと出ると、そこから更に下谷御成街道を真直ぐに進んだ。
そして下谷御成街道を進むと、下谷廣小路に突当たる。そこには忠香の屋鋪があり、善左衛門が斯かる道順を辿って忠香の屋鋪に着いたのは播磨屋を出てから四半刻(約30分)程後のことであった。
その四半刻程前、即ち、善左衛門が播磨屋を出た昼の九つ半(午後1時頃)、忠香の屋鋪には先客があった。
外ならぬ一橋治済が「懐刀」の岩本喜内であったが、無論、善左衛門はそんなことは知る由もない。
善左衛門は何も知らずに忠香の屋鋪の門を潜り、そんな善左衛門を忠香は歓待し、奥座敷へと案内した。
その奥座敷の直ぐ隣の別間においては岩本喜内が控えていた訳だが、やはり善左衛門はそんなことは知る由もない。
こうして善左衛門は直ぐ隣で岩本喜内が聞耳を立てている中、挨拶もそこそこ、大事に抱えて来た厚みのある風呂敷を目の前の忠香へと差出した。
「これは…」
それが200両―、切餅8つが包まれた風呂敷であろうことは忠香にも分かっていた。岩本喜内より事前に―、善左衛門が来る直前に忠香を訪ねては、
「今日当たり佐野善左衛門がまた賂を…、意知に届けて欲しいと、200両もの金子を届けるであろう…」
岩本喜内は忠香にそう教えていたからだ。
それでも忠香は素知らぬ顔で、「これは?」と目の前に置かれた風呂敷の中身について善左衛門に尋ねた。
すると善左衛門は忠香が予期した通りの答えを寄越した。
「されば山城守様へと…」
意知に渡して欲しいと、善左衛門は忠香にそう示唆しつつ、風呂敷の包みを解いた。
包みの中からは忠香が予め、岩本喜内より教えられた通り、切餅8個、即ち200両もの金子が顔を覗かせた。
「これは…、200両もあるではないか…」
忠香は一応、善左衛門の手前、驚いて見せた。
「左様…、さればその金子にて何としてでも供弓に推挙して頂き度…」
新御番3番組と4番組が参加する次の鷹狩りにおいて、その内、3番組に属する己がまた供弓に選ばれる様、意知に推挙して欲しいと、善左衛門は忠香にそう頼んでいたのだ。
「承知仕った…、否、200両もあれば間違いなく供弓に推挙されるであろうぞ…」
忠香は善左衛門にそう請合ってみせた。
これで善左衛門も自信を得、意気揚々、忠香の屋鋪をあとにした。
それと同時に別間より岩本喜内が奥座敷へと顔を覗かせると、今しがた善左衛門が置いていった切餅8つのうち6つ、つまりは200両のうち150両を召上げたのであった。
忠香としては150両も召上げられて些か納得出来ぬ思いであった。
しかし前回―、善左衛門より50両を巻上げた際には本来、村上半左衛門とその50両を折半すべきところ、忠香が独り占めにしたという「弱味」があったので、今回は150両を召上げられても致し方ないと、忠香は己を納得させた。
一方、岩本喜内は150両を抱えて忠香の屋鋪をあとにすると、しかし一橋上屋敷には戻らずに本郷御茶之水へと向かった。
本郷御茶之水には宇田川平七の屋鋪があり、岩本喜内は宇田川平七を訪ねるべく、同所へと足を向けたのであった。
岩本喜内が忠香から召上げた150両だが、これは田沼家臣、それも意知に附属する村上半左衛門・勝之進父子に渡すべき金子であった。
前回に引続いて今回もまた、意知の右筆を勤める村上勝之進には受領書を、それも今回は、
「田沼意知、確かに佐野善左衛門政言より200両の金子を受領しました…」
その受領書を偽造して貰わねばならず、150両はその為の「報酬」であった。
前回―、佐野善左衛門より50両を巻上げた際には村上半左衛門・勝之進父子には、殊に勝之進には「ただ働き」をさせてしまい、今回もまた「ただ働き」をさせる訳にはいかない。
今回は佐野善左衛門から前回の4倍の金子、200両も巻上げておきながら、村上半左衛門・勝之進父子には今回もまた、
「びた一文…」
払わずに、倅の勝之進に斯かる受領書を偽造させようなどとは到底、不可能というものであろう。
如何に村上半左衛門が女婿の宇田川平七の「立身出世」を餌にしようとも、それで釣られるのは岳父の村上半左衛門であり、実際に受領書を偽造する、謂わば危ない橋を渡る勝之進はそんな餌には釣られまい。
村上勝之進にとっては宇田川平七はあくまで義兄、姉の夫に過ぎず、岳父に当たる村上半左衛門に較べた場合、宇田川平七との縁は薄く、その様な村上勝之進に対しては義兄・宇田川平七の「立身出世」という餌は通用しないであろう。
それよりも150両という金子が何よりの餌に違いない。
そうであれば岩本喜内としては今、村上半左衛門・勝之進父子に渡すべき150両もの金子を抱えている訳だから、このまま神田橋御門内にある田沼家上屋敷へと足を運び、そこで勤めている村上半左衛門か、或いはその倅の勝之進にでも150両を渡すのが合理的と言えた。
だがそれは出来ない相談というものであった。
一橋家臣である岩本喜内が謂ってみれば、
「敵陣…」
そうも称せられる田沼家上屋敷へとノコノコと出向いて村上半左衛門か、或いは倅の勝之進に何がしかの「贈物」をしようものなら、あっという間に、
「村上半左衛門・勝之進父子は一橋家の家臣と親しい…」
田沼の家中にそうと知れ渡り、そうなれば意次・意知父子の耳に届くのも時間の問題であろう。
そしてその場合、勘の良い意次や意知のことである。村上半左衛門・勝之進父子が一橋家臣の岩本喜内を介して、一橋家の当主たる治済と親しいと、そのことにまで思い至るに違いなく、だがそれは治済としては、無論、その「懐刀」の岩本喜内にとっても甚だ都合が悪かった。
何しろ、村上半左衛門・勝之進父子が一橋治済と親しいことは、それも治済の息が掛かっていることは田沼家には秘密であったからだ。
斯かる次第で岩本喜内としては田沼家上屋敷へと足を運ぶ訳にはゆかず、そこで宇田川平七の屋鋪へと足を運んだのであった。
己の代わりに宇田川平七に田沼家上屋敷へと足を運んで貰う為であった。
即ち、宇田川平七より岳父の村上半左衛門へと150両を渡して貰い、その上で宇田川平七にとっては義弟に当たる村上勝之進に件の受領書の偽造を頼んで貰う為である。
宇田川平七ならば村上半左衛門・勝之進父子に接触を持ったところで怪しまれず、ひいては治済の息が掛かっているものと勘付かれることもないからだ。
かくして岩本喜内は宇田川平七に斯かる依頼をすべく本郷御茶之水にある宇田川平七の屋鋪へと足を運んだのであった。
宇田川平七は西之丸書院番士であり、それ故、「勤務」次第で在宅していない可能性もあり得た。
今は既に昼の八つ半(午後3時頃)を回ろうかという頃合であり、これで仮に宇田川平七の今日の「勤務」が昼八つ(午後2時頃)より始まる当番であったならば、宇田川平七は今頃は既に西之丸にて「勤務」に入っているからだ。
その場合には岩本喜内としては宇田川平七の妻女である椿に頼むつもりであった。
椿ならば村上半左衛門にとっては実娘、村上勝之進にとっては実姉に当たり、ある意味、宇田川平七が頼むよりも「効果的」と言えた。
そしてこの椿にしてもまた、治済の息が掛かっていた。
だが幸いにして宇田川平七は在宅していた。今日は宇田川平七は非番であったからだ。
岩本喜内は宇田川平七と面会すると、まずは懐中より治済直筆の書状を取出し、それを宇田川平七に渡した。
そこには田沼家上屋敷へと足を運び、村上半左衛門に150両の報酬と引換えに、その倅である勝之進に意知が佐野善左衛門政言より200両の金子を受取ったとする受領書を偽造して貰いたいと、そう認められていたのだ。
岩本喜内は宇田川平七がその書状を読み終えるのを見計らい、懐中より次いで切餅6つ、150両が包まれた包を取出し、それを宇田川平七へと差出した。
宇田川平七は「委細承知…」と応ずるや、切餅6つの包と共に治済直筆の書状をも携えて田沼家上屋敷へと急いだ。
岩本喜内としては主君・治済の直筆の書状については出来ればその場にて破棄して貰いたいところであったが、しかしその書状がなければ村上半左衛門・勝之進父子としても、とりわけ実際に受領書を偽造する村上勝之進は義兄の宇田川平七の話だけでは受領書を偽造してはくれないであろう。
そのことは宇田川平七は元より、岩本喜内にも分かっていたので、そこで喜内は宇田川平七が件の書状を直ちに破り捨てずに、村上半左衛門・勝之進父子の許へと150両もの金子と共に持込むことを黙過したのであった。
こうして宇田川平七は神田橋御門内にある上屋敷へと足を運んだ。
今月―、天明4(1784)年正月は老中においては田沼意次が月番であり、しかも今日7日は意次にとっては、
「御用番月御對客日…」
登城前に陳情客の相手をしてやらなければならない日に指定されていたので、田沼家上屋敷の門前はそれこそ誇張ではなし、
「黒山の人だかり…」
その表現がピタリと合う程、陳情客で埋め尽くされており、神田橋御門まで陳情客が列を成していた。
否、下城後の所謂、逢客については特に規制はないものの、それでも今日は正規の「御對客日」ということもあって、陳情客もそれならばと、何の遠慮もなしに意次の許へと押掛けたのであった。
否、その内の半分程度は意次ではなく、その息の意知が目当てと思われた。父・意次に較べて、その息・意知の方が将来性があるからだ。
この陳情客の「交通整理」に当たっていたのは平の取次の石原茂七であった。
宇田川平七は田沼家の、それも意知に附属する取次頭取を勤める村上半左衛門の女婿ということもあり、田沼家の主だった家臣とは皆、顔見知りであった。
石原茂七もその一人であり、宇田川平七が石原茂七の背後から声を掛けるや、
「あっ、これは宇田川様…」
石原茂七も振向いてそう応じた。
「ちと、義父上に用事があっての…」
宇田川平七がそう告げるや、石原茂七も、「あっ、それなれば…」と交通整理の職務を放棄し、宇田川平七を邸内へと案内した。陳情客の行列を尻目に、である。
それ故、宇田川平七よりも早くに田沼家上屋敷の門前に着いたにもかかわらず、未だ邸内に入れずに門外にて列を成していた陳情客は皆、宇田川平七に羨望と嫉妬の入混じった視線を投掛けたものである。
否、これで交通整理に当たっていたのが硬骨漢の黒澤市郎右衛門辺りだったらこうはゆくまい。
黒澤市郎右衛門ならば仮令、相手が取次頭取の村上半左衛門が息の宇田川平七であったとしても、あくまで陳情客の一人として扱い、つまりは列に並ぶよう命じた筈だ。
その点、石原茂七は黒澤市郎右衛門とは正反対の男であり、しかも都合の良いことに村上半左衛門に手懐けられていた。
かくして宇田川平七は石原茂七の案内により一切、待たされることなく岳父である村上半左衛門の許へと通されたのであった。
その時、村上半左衛門は同じく意知に取次頭取として附属する伊勢十郎右衛門と共に意知と陳情客との取次に従事していた。
そこへ女婿の宇田川平七が姿を見せたので、村上半左衛門も「これは…」とピンと来るものがあった。
そこで村上半左衛門は伊勢十郎右衛門一人に取次を任せると、宇田川平七を別室へと案内した。
その別室で宇田川平七は岳父・村上半左衛門と二人きりになると、懐中より件の書状と150両を取出し、村上半左衛門へと差出した。
村上半左衛門はまずはその書状に目を通して150両の意味を悟ると、
「委細承知…、暫らく待つが良いぞ…」
宇田川平七にそう言残して、書状を金子を抱えていったん別室を脱出した。
宇田川平七は一人、別室に残され、それから本当に暫らく待たされた後、村上半左衛門が偽造受領書を携えて戻って来た。
宇田川平七は村上半左衛門より偽造受領書を受取るや、
「ときに…、書状は…」
一橋治済直筆の書状はどうしたのかと、村上半左衛門に尋ねた。
すると村上半左衛門は「既に灰よ」と応えたので、それで宇田川平七も安堵し、田沼家上屋敷をあとにした。
それから宇田川平七は再び、本郷御茶之水にある屋鋪へと急ぎ戻った。岩本喜内が宇田川平七の帰りを、と言うよりは偽造受領書を待受けていたからだ。
宇田川平七が屋鋪に辿り着いたのは夕七つ(午後4時頃)を回っており、岩本喜内が首を長くして待っていた。
宇田川平七はその岩本喜内に「御所望」の偽造受領書を渡すと、
「して、書状は…」
岩本喜内もまた、治済直筆の書状がどうなったのか、そのことが気になっていた様で、宇田川平七が村上半左衛門に対してしたのと同じ問を発した。
「されば既に灰に…」
宇田川平七がそう応えると、岩本喜内も漸くにホッとした様子を浮かべた。
岩本喜内はこの後、直ちに宇田川平七の屋鋪を出ると再び、下谷廣小路にある忠香の屋鋪へと足を運び、忠香に偽造受領書を渡した。
「今日は佐野善左衛門めは非番とのこと…、なれば明日は朝番なれば、松平様と勤めを同じくすれば御城にて渡されては如何…」
岩本喜内は忠香にそう進言した。
成程、松平忠香が勤める新番頭は平日は毎日が朝番であり、明日は朝番の「勤務」である平の新番士の佐野善左衛門とは御城での「勤務」が被ることになるので、そこで御城にて佐野善左衛門に偽造受領書を渡すのが合理的であるし、佐野善左衛門を感激させることにも繋がる。
「松平様は昨日、早速にも山城守様の許へと足を運んで下さり、この善左衛門がことを…、次の鷹狩りにおける供弓に推挙なさって下さったのか…」
善左衛門にそう思わせる。否、誤解させることが出来るからだ。
岩本喜内の進言に対して忠香もまた、「委細承知」と応じたのであった。
こうして岩本喜内が全ての「細工」を終えて一橋上屋敷に戻ったのは夕の七つ半(午後5時頃)を過ぎた時分であり、岩本喜内は治済に今日の「細工」の首尾について報告した。
これに対して治済もその首尾に大いに満足した。
そして新右衛門が一橋家上屋敷より御店へと戻り、再び佐野善左衛門のいる奥座敷へと足を運ぶと、ちょうど善左衛門が七草粥を平らげたところであった。
「あっ、これは播磨屋殿…」
善左衛門は箸を置くと、新右衛門を見上げた。
「七草粥の御味は如何でござりましたかな?」
新右衛門は善左衛門と向かい合うなり、そう尋ねた。
「大変美味しく頂き…、馳走になり申した…」
善左衛門はそう感謝の言葉を口にすると新右衛門に頭を下げたので、これには新右衛門も大いに恐縮させられた。
それから新右衛門は女中に命じて善左衛門の膳を下げさせると、「ときに佐野様…」と切出した。
「商人の分際で差出がましゅうはござりまするが…、豊作の折などには五公五民、或いは六公四民になされましては如何でござりましょう…」
年貢の徴収率を上げてはどうかと、新右衛門は善左衛門にそう進言をしたのであった。
成程、それは善左衛門も考えぬではなかった。
今よりも年貢の徴収率を上げれば、この播磨屋への「積立貯蓄」も例えば年10両から20両へと、倍の額を積立てることが可能となろう。
善左衛門政言が領する都賀郡は肥沃の地であり、米の味も良く、外の一般的な産地の米に較べて若干だが、高値で取引されていた。
均せば1石につき1両2分といったところであろうか。だからこそ、善左衛門政言は、否、佐野善左衛門家においては豊作の折にも堅く四公六民を守ることが出来たのだ。
豊作の折には流石に米の値が下がると言っても、それでも佐野善左衛門家が領する都賀の地より収穫される米に限って言えば1石1両を下ることはないからだ。
そして逆に一昨年の天明2(1782)年から去年の天明3(1783)年にかけての飢饉、所謂、「天明の飢饉」の折には、
「零公十民」
つまりは年貢を徴収せずとも家計を維持出来、のみならず10両の「積立貯蓄」へと回す余裕もまった。
だがそれを、外の旗本と同様に豊作の折には領民から今まで以上に年貢を取立てれば、毎年10両ずつの「積立貯蓄についても、今まで以上に、それも倍の20両を積立てることが出来様。
そして毎年の積立額が増えれば、それはそのまま利息に反映される。
今、善左衛門は「積立貯蓄」のうちから200両を取崩した為に、残りの「積立貯蓄」の額は366両に減ってしまい、そこに10両を積立てれば376両となり、そこに1割の利息が付いて今年の年末には元利合計414両に化ける。
だがそれが仮に20両を積立てることが出来ればどうなるか。
その場合には386両に1割の利息が付き、すると年末に化ける元利合計は425両となり、1両も利息が違ってくる。
新右衛門はそれ故、善左衛門に年貢の徴収率を上げることを勧めたのだ。そこには、
「年貢の徴収率を上げることで財産を増やせば、田沼意知様への賂に回すお金もそれだけ増やすことが出来ますよ…」
そんな思惑が込められてもいた。
それは善左衛門も考えたことであり、のみならず、その誘惑に駆られもしたことであった。
確かに財産を増やすことで、今まで以上に多額の贈賄をすれば―、意知へと金をばら撒けば、より確実に立身出世が果たせよう。
だがその為に―、自が野望の為に領民を踏み躙る様な真似は少なくとも善左衛門には出来なかった。
年貢の徴収率を上げるということは偏に、領民から年貢を収奪することに、つまりは領民を踏み躙ることに外ならず、それは國の寶である領民を大事にせよとの佐野家の家訓に反することであったからだ。
「播磨屋殿の進言は有難いが…、なれどそれだけは出来ぬ…」
善左衛門は新右衛門からの進言を謝絶した。
それから善左衛門は200両―、切餅8つが包まれた風呂敷を抱えて席を立った。
「まだ昼の九つ半(午後1時頃)でござりまするが…」
意知が神田橋御門内の上屋敷に戻るにはまだ、一刻(約2時間)程あるが、と新右衛門は善左衛門を見上げつつ、そう示唆した。
「否…、御屋敷にて待つ故に…」
善左衛門はそう応えた。それは嘘ではないが、正確性には欠けていた。
善左衛門がこれから逢おうとしているのは意知ではなく新番頭の松平忠香だからだ。
そして忠香ならば昼の九つ半(午後1時頃)の今時分ならば既に下谷廣小路にある屋鋪に帰宅しているに違いなく、仮に帰宅していなかったとしても新右衛門に答えた様に、屋鋪にて待つつもりであった。
「さればこれにて…」
善左衛門は新右衛門にそう挨拶して播磨屋をあとにした。
日本橋は金吹町にある播磨屋をあとにした善左衛門はそれから、筋違御門を目指して歩き、そうして筋違御門を潜ると、その門外へと通ずる橋を渡り、筋違御門外へと出ると、そこから更に下谷御成街道を真直ぐに進んだ。
そして下谷御成街道を進むと、下谷廣小路に突当たる。そこには忠香の屋鋪があり、善左衛門が斯かる道順を辿って忠香の屋鋪に着いたのは播磨屋を出てから四半刻(約30分)程後のことであった。
その四半刻程前、即ち、善左衛門が播磨屋を出た昼の九つ半(午後1時頃)、忠香の屋鋪には先客があった。
外ならぬ一橋治済が「懐刀」の岩本喜内であったが、無論、善左衛門はそんなことは知る由もない。
善左衛門は何も知らずに忠香の屋鋪の門を潜り、そんな善左衛門を忠香は歓待し、奥座敷へと案内した。
その奥座敷の直ぐ隣の別間においては岩本喜内が控えていた訳だが、やはり善左衛門はそんなことは知る由もない。
こうして善左衛門は直ぐ隣で岩本喜内が聞耳を立てている中、挨拶もそこそこ、大事に抱えて来た厚みのある風呂敷を目の前の忠香へと差出した。
「これは…」
それが200両―、切餅8つが包まれた風呂敷であろうことは忠香にも分かっていた。岩本喜内より事前に―、善左衛門が来る直前に忠香を訪ねては、
「今日当たり佐野善左衛門がまた賂を…、意知に届けて欲しいと、200両もの金子を届けるであろう…」
岩本喜内は忠香にそう教えていたからだ。
それでも忠香は素知らぬ顔で、「これは?」と目の前に置かれた風呂敷の中身について善左衛門に尋ねた。
すると善左衛門は忠香が予期した通りの答えを寄越した。
「されば山城守様へと…」
意知に渡して欲しいと、善左衛門は忠香にそう示唆しつつ、風呂敷の包みを解いた。
包みの中からは忠香が予め、岩本喜内より教えられた通り、切餅8個、即ち200両もの金子が顔を覗かせた。
「これは…、200両もあるではないか…」
忠香は一応、善左衛門の手前、驚いて見せた。
「左様…、さればその金子にて何としてでも供弓に推挙して頂き度…」
新御番3番組と4番組が参加する次の鷹狩りにおいて、その内、3番組に属する己がまた供弓に選ばれる様、意知に推挙して欲しいと、善左衛門は忠香にそう頼んでいたのだ。
「承知仕った…、否、200両もあれば間違いなく供弓に推挙されるであろうぞ…」
忠香は善左衛門にそう請合ってみせた。
これで善左衛門も自信を得、意気揚々、忠香の屋鋪をあとにした。
それと同時に別間より岩本喜内が奥座敷へと顔を覗かせると、今しがた善左衛門が置いていった切餅8つのうち6つ、つまりは200両のうち150両を召上げたのであった。
忠香としては150両も召上げられて些か納得出来ぬ思いであった。
しかし前回―、善左衛門より50両を巻上げた際には本来、村上半左衛門とその50両を折半すべきところ、忠香が独り占めにしたという「弱味」があったので、今回は150両を召上げられても致し方ないと、忠香は己を納得させた。
一方、岩本喜内は150両を抱えて忠香の屋鋪をあとにすると、しかし一橋上屋敷には戻らずに本郷御茶之水へと向かった。
本郷御茶之水には宇田川平七の屋鋪があり、岩本喜内は宇田川平七を訪ねるべく、同所へと足を向けたのであった。
岩本喜内が忠香から召上げた150両だが、これは田沼家臣、それも意知に附属する村上半左衛門・勝之進父子に渡すべき金子であった。
前回に引続いて今回もまた、意知の右筆を勤める村上勝之進には受領書を、それも今回は、
「田沼意知、確かに佐野善左衛門政言より200両の金子を受領しました…」
その受領書を偽造して貰わねばならず、150両はその為の「報酬」であった。
前回―、佐野善左衛門より50両を巻上げた際には村上半左衛門・勝之進父子には、殊に勝之進には「ただ働き」をさせてしまい、今回もまた「ただ働き」をさせる訳にはいかない。
今回は佐野善左衛門から前回の4倍の金子、200両も巻上げておきながら、村上半左衛門・勝之進父子には今回もまた、
「びた一文…」
払わずに、倅の勝之進に斯かる受領書を偽造させようなどとは到底、不可能というものであろう。
如何に村上半左衛門が女婿の宇田川平七の「立身出世」を餌にしようとも、それで釣られるのは岳父の村上半左衛門であり、実際に受領書を偽造する、謂わば危ない橋を渡る勝之進はそんな餌には釣られまい。
村上勝之進にとっては宇田川平七はあくまで義兄、姉の夫に過ぎず、岳父に当たる村上半左衛門に較べた場合、宇田川平七との縁は薄く、その様な村上勝之進に対しては義兄・宇田川平七の「立身出世」という餌は通用しないであろう。
それよりも150両という金子が何よりの餌に違いない。
そうであれば岩本喜内としては今、村上半左衛門・勝之進父子に渡すべき150両もの金子を抱えている訳だから、このまま神田橋御門内にある田沼家上屋敷へと足を運び、そこで勤めている村上半左衛門か、或いはその倅の勝之進にでも150両を渡すのが合理的と言えた。
だがそれは出来ない相談というものであった。
一橋家臣である岩本喜内が謂ってみれば、
「敵陣…」
そうも称せられる田沼家上屋敷へとノコノコと出向いて村上半左衛門か、或いは倅の勝之進に何がしかの「贈物」をしようものなら、あっという間に、
「村上半左衛門・勝之進父子は一橋家の家臣と親しい…」
田沼の家中にそうと知れ渡り、そうなれば意次・意知父子の耳に届くのも時間の問題であろう。
そしてその場合、勘の良い意次や意知のことである。村上半左衛門・勝之進父子が一橋家臣の岩本喜内を介して、一橋家の当主たる治済と親しいと、そのことにまで思い至るに違いなく、だがそれは治済としては、無論、その「懐刀」の岩本喜内にとっても甚だ都合が悪かった。
何しろ、村上半左衛門・勝之進父子が一橋治済と親しいことは、それも治済の息が掛かっていることは田沼家には秘密であったからだ。
斯かる次第で岩本喜内としては田沼家上屋敷へと足を運ぶ訳にはゆかず、そこで宇田川平七の屋鋪へと足を運んだのであった。
己の代わりに宇田川平七に田沼家上屋敷へと足を運んで貰う為であった。
即ち、宇田川平七より岳父の村上半左衛門へと150両を渡して貰い、その上で宇田川平七にとっては義弟に当たる村上勝之進に件の受領書の偽造を頼んで貰う為である。
宇田川平七ならば村上半左衛門・勝之進父子に接触を持ったところで怪しまれず、ひいては治済の息が掛かっているものと勘付かれることもないからだ。
かくして岩本喜内は宇田川平七に斯かる依頼をすべく本郷御茶之水にある宇田川平七の屋鋪へと足を運んだのであった。
宇田川平七は西之丸書院番士であり、それ故、「勤務」次第で在宅していない可能性もあり得た。
今は既に昼の八つ半(午後3時頃)を回ろうかという頃合であり、これで仮に宇田川平七の今日の「勤務」が昼八つ(午後2時頃)より始まる当番であったならば、宇田川平七は今頃は既に西之丸にて「勤務」に入っているからだ。
その場合には岩本喜内としては宇田川平七の妻女である椿に頼むつもりであった。
椿ならば村上半左衛門にとっては実娘、村上勝之進にとっては実姉に当たり、ある意味、宇田川平七が頼むよりも「効果的」と言えた。
そしてこの椿にしてもまた、治済の息が掛かっていた。
だが幸いにして宇田川平七は在宅していた。今日は宇田川平七は非番であったからだ。
岩本喜内は宇田川平七と面会すると、まずは懐中より治済直筆の書状を取出し、それを宇田川平七に渡した。
そこには田沼家上屋敷へと足を運び、村上半左衛門に150両の報酬と引換えに、その倅である勝之進に意知が佐野善左衛門政言より200両の金子を受取ったとする受領書を偽造して貰いたいと、そう認められていたのだ。
岩本喜内は宇田川平七がその書状を読み終えるのを見計らい、懐中より次いで切餅6つ、150両が包まれた包を取出し、それを宇田川平七へと差出した。
宇田川平七は「委細承知…」と応ずるや、切餅6つの包と共に治済直筆の書状をも携えて田沼家上屋敷へと急いだ。
岩本喜内としては主君・治済の直筆の書状については出来ればその場にて破棄して貰いたいところであったが、しかしその書状がなければ村上半左衛門・勝之進父子としても、とりわけ実際に受領書を偽造する村上勝之進は義兄の宇田川平七の話だけでは受領書を偽造してはくれないであろう。
そのことは宇田川平七は元より、岩本喜内にも分かっていたので、そこで喜内は宇田川平七が件の書状を直ちに破り捨てずに、村上半左衛門・勝之進父子の許へと150両もの金子と共に持込むことを黙過したのであった。
こうして宇田川平七は神田橋御門内にある上屋敷へと足を運んだ。
今月―、天明4(1784)年正月は老中においては田沼意次が月番であり、しかも今日7日は意次にとっては、
「御用番月御對客日…」
登城前に陳情客の相手をしてやらなければならない日に指定されていたので、田沼家上屋敷の門前はそれこそ誇張ではなし、
「黒山の人だかり…」
その表現がピタリと合う程、陳情客で埋め尽くされており、神田橋御門まで陳情客が列を成していた。
否、下城後の所謂、逢客については特に規制はないものの、それでも今日は正規の「御對客日」ということもあって、陳情客もそれならばと、何の遠慮もなしに意次の許へと押掛けたのであった。
否、その内の半分程度は意次ではなく、その息の意知が目当てと思われた。父・意次に較べて、その息・意知の方が将来性があるからだ。
この陳情客の「交通整理」に当たっていたのは平の取次の石原茂七であった。
宇田川平七は田沼家の、それも意知に附属する取次頭取を勤める村上半左衛門の女婿ということもあり、田沼家の主だった家臣とは皆、顔見知りであった。
石原茂七もその一人であり、宇田川平七が石原茂七の背後から声を掛けるや、
「あっ、これは宇田川様…」
石原茂七も振向いてそう応じた。
「ちと、義父上に用事があっての…」
宇田川平七がそう告げるや、石原茂七も、「あっ、それなれば…」と交通整理の職務を放棄し、宇田川平七を邸内へと案内した。陳情客の行列を尻目に、である。
それ故、宇田川平七よりも早くに田沼家上屋敷の門前に着いたにもかかわらず、未だ邸内に入れずに門外にて列を成していた陳情客は皆、宇田川平七に羨望と嫉妬の入混じった視線を投掛けたものである。
否、これで交通整理に当たっていたのが硬骨漢の黒澤市郎右衛門辺りだったらこうはゆくまい。
黒澤市郎右衛門ならば仮令、相手が取次頭取の村上半左衛門が息の宇田川平七であったとしても、あくまで陳情客の一人として扱い、つまりは列に並ぶよう命じた筈だ。
その点、石原茂七は黒澤市郎右衛門とは正反対の男であり、しかも都合の良いことに村上半左衛門に手懐けられていた。
かくして宇田川平七は石原茂七の案内により一切、待たされることなく岳父である村上半左衛門の許へと通されたのであった。
その時、村上半左衛門は同じく意知に取次頭取として附属する伊勢十郎右衛門と共に意知と陳情客との取次に従事していた。
そこへ女婿の宇田川平七が姿を見せたので、村上半左衛門も「これは…」とピンと来るものがあった。
そこで村上半左衛門は伊勢十郎右衛門一人に取次を任せると、宇田川平七を別室へと案内した。
その別室で宇田川平七は岳父・村上半左衛門と二人きりになると、懐中より件の書状と150両を取出し、村上半左衛門へと差出した。
村上半左衛門はまずはその書状に目を通して150両の意味を悟ると、
「委細承知…、暫らく待つが良いぞ…」
宇田川平七にそう言残して、書状を金子を抱えていったん別室を脱出した。
宇田川平七は一人、別室に残され、それから本当に暫らく待たされた後、村上半左衛門が偽造受領書を携えて戻って来た。
宇田川平七は村上半左衛門より偽造受領書を受取るや、
「ときに…、書状は…」
一橋治済直筆の書状はどうしたのかと、村上半左衛門に尋ねた。
すると村上半左衛門は「既に灰よ」と応えたので、それで宇田川平七も安堵し、田沼家上屋敷をあとにした。
それから宇田川平七は再び、本郷御茶之水にある屋鋪へと急ぎ戻った。岩本喜内が宇田川平七の帰りを、と言うよりは偽造受領書を待受けていたからだ。
宇田川平七が屋鋪に辿り着いたのは夕七つ(午後4時頃)を回っており、岩本喜内が首を長くして待っていた。
宇田川平七はその岩本喜内に「御所望」の偽造受領書を渡すと、
「して、書状は…」
岩本喜内もまた、治済直筆の書状がどうなったのか、そのことが気になっていた様で、宇田川平七が村上半左衛門に対してしたのと同じ問を発した。
「されば既に灰に…」
宇田川平七がそう応えると、岩本喜内も漸くにホッとした様子を浮かべた。
岩本喜内はこの後、直ちに宇田川平七の屋鋪を出ると再び、下谷廣小路にある忠香の屋鋪へと足を運び、忠香に偽造受領書を渡した。
「今日は佐野善左衛門めは非番とのこと…、なれば明日は朝番なれば、松平様と勤めを同じくすれば御城にて渡されては如何…」
岩本喜内は忠香にそう進言した。
成程、松平忠香が勤める新番頭は平日は毎日が朝番であり、明日は朝番の「勤務」である平の新番士の佐野善左衛門とは御城での「勤務」が被ることになるので、そこで御城にて佐野善左衛門に偽造受領書を渡すのが合理的であるし、佐野善左衛門を感激させることにも繋がる。
「松平様は昨日、早速にも山城守様の許へと足を運んで下さり、この善左衛門がことを…、次の鷹狩りにおける供弓に推挙なさって下さったのか…」
善左衛門にそう思わせる。否、誤解させることが出来るからだ。
岩本喜内の進言に対して忠香もまた、「委細承知」と応じたのであった。
こうして岩本喜内が全ての「細工」を終えて一橋上屋敷に戻ったのは夕の七つ半(午後5時頃)を過ぎた時分であり、岩本喜内は治済に今日の「細工」の首尾について報告した。
これに対して治済もその首尾に大いに満足した。
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