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閑話 一橋治済が佐野善左衛門の「積立貯蓄」の存在を知っていた理由。
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治済が家老二人を随えて一橋上屋敷に戻ったのはそれから―、播磨屋新右衛門が帰ってから間もなくの昼の四つ半(午前11時頃)のことであった。
小倉小兵衛はその直前―、新右衛門が帰った直後に、岩本喜内に新右衛門よりの報せを伝えたのであった。
実を言えば、小倉小兵衛とて治済より直接に、
「当家の掛屋を相勤めし播磨屋新右衛門方に佐野善左衛門政言なる旗本が積立貯蓄をしているに相違なく、さればそれな佐野善左衛門政言は近々、積立貯蓄を解約するか、或いは一部を取崩すに相違なく、その折にはこの治済の耳に入れよと、その旨、播磨屋新右衛門に申付けよ…」
そう命じられた訳ではなく、岩本喜内を介して命じられたのであった。
それ故、小倉小兵衛もまた、治済に直接に新右衛門よりの報せを伝えることは許されずに、岩本喜内に伝えたのであった。
こうして治済は岩本喜内より新右衛門よりの報せを聞かされるや、大いに満足したものである。
「この分ですと、佐野善左衛門殿よりは200両に止まらず、残りの366両につきましても吐出させることが出来るのでは…」
つまりは善左衛門からその「積立貯蓄」全額を搾り取れるのではないかと、岩本喜内はそんな見通しを立てた。
治済も岩本喜内のその「見立て」には大いに同感であり、仮に「見立て」通り、善左衛門から「積立貯蓄」全額を吐出させれば、その上で望んでいた立身出世も叶わないとなれば、善左衛門は当然、意知に騙されたと思うであろう。
そしてその思いはやがて、怨みへと、それも殺意へと昇華するに違いなかった。
「それにしても…、高山が殊勲は甲ぞ…」
治済はそれから思い出したかの様にそう呟いた。
治済が口にした高山とは治済に近習として仕える高山巳之助盛方であった。
高山巳之助は治済の側近くに仕える近習の中でも一際、眉目秀麗であり、治済はそんな高山巳之助を愛で、この巳之助にも佐野善左衛門を使嗾して意知を討果たさせる計画を打明けていたのだ。
すると高山巳之助はその名に聞覚えがあったらしく、「ああ…」と声を上げたのであった。
実際、高山巳之助にはその名に―、佐野善左衛門政言の名に聞覚えがあった。
それと言うのも高山巳之助は本丸小姓組番士の高山平左衛門守眞の実弟であり、つまりは巳之助は「附切」の身分で一橋家にて治済の近習として仕えている訳だが、その兄、と言うよりは実家である高山家の知行は450石であり、その知行所は何と、奇しくも佐野善左衛門家と同じく、下野國は都賀郡であったのだ。
知行取の旗本は知行所が同じだと親しくなるか、それとも嫌うかのどちらかであり、高山平左衛門と佐野善左衛門の場合は前者であった。
高山平左衛門は以前、佐野善左衛門より播磨屋にて「積立貯蓄」をしていることを打明けられたことがあり、それが弟の巳之助へと伝わった次第であった。
高山巳之助が佐野善左衛門の名に聞覚えがあったのは斯かる次第であり、巳之助は善左衛門の名を思い出すと、その善左衛門が播磨屋にて「積立貯蓄」をしていることも併せて治済に伝えたのであった。
無論、善左衛門は「積立貯蓄」の額までは如何に親しい高山平左衛門であっても打明けなかったので、巳之助にもその点までは伝わらなかった。
それ故、巳之助も善左衛門の「積立貯蓄」の額までは治済に教えることは出来なかった。
だが治済はそれを聞いて、少なくない額であることを確信した。
それと言うのも播磨屋が治済が当主を務める一橋家の掛屋御用をも承っており、その縁で治済も以前、何かの折に播磨屋が扱う「積立貯蓄」の存在を耳にしたことがあったからだ。
それは恐らく、一橋家勘定奉行の小倉小兵衛を介してだったと思うが、何でも播磨屋では年利1割にも及ぶ「積立貯蓄」を扱っており、しかもその最低預入額は100両であると、治済は小倉小兵衛より聞かされたことがあったのだ。
治済はそれ故、高山巳之助より佐野善左衛門が播磨屋にて「積立貯蓄」をしていると聞かされて、それが100両以上であると確信したものである。
そこで治済は小倉小兵衛を播磨屋へと差向け、小兵衛に播磨屋に対して善左衛門の「積立貯蓄」の件を触れさせた上で、善左衛門がその「積立貯蓄」を解約するか、取崩す様なことがあれば直ちに教えよと、そう命じさせたのであった。
すると結果は案の定、否、それ以上と言えた。
佐野善左衛門は「積立貯蓄」を解約するでなく、取崩すことによって200両もの金子を用立てた、ということはそれは取りも直さず、「積立貯蓄」の額が200両以上、それも300両以上であることを物語っていた。「積立貯蓄」の最低預入額は100両以上だからだ。
否、小倉小兵衛は気を利かせて、善左衛門の「積立貯蓄」の額までも播磨屋新右衛門より聞出し、その結果、善左衛門の「積立貯蓄」の額は何と、566両であり、200両を取崩してもまだ366両もの大金が残っていることが判明したのだ。
だとするならば佐野善左衛門からはまだ金を、それも366両もの大金を搾り取れると、治済《はるさだ》はそう踏んだ。
それは「懐刀」の岩本喜内も同様であり、
「それにしても…、佐野善左衛門なる者、憐れな男でござりまするなぁ…」
喜内はそう呟いた。そこには善左衛門に対する軽蔑と共に同情も含まれていた。
確かに己が用立てた金子が意知に渡っているものと、そう信じて疑わない佐野善左衛門という男は憐れの一語に尽きた。
「何…、これも全ては天下万民の為ぞ…、あの、どこぞの馬の骨とも知れぬ盗賊も同然の下賤なる成上がり者が小倅めを討果たすは天下万民の為、正義の為ぞ…、その正義の為の使者として、佐野善左衛門が選ばれたのだ…、否、この治済が直々に佐野善左衛門を正義の使者として見出してやったのだ…、されば佐野善左衛門なる男も如何に自が身が破滅しようとも、きっとこの治済に感謝するであろうぞ…」
治済は平然とそう言ってのけた。
治済はその上で、喜内に対して下谷廣小路にある松平忠香の屋敷に行く様、命じた。
「佐野善左衛門のこと…、今日にも200両を忠香の許へと届けるであろうぞ。さればその200両のうち、50両だけ忠香の手許に残し、残りの150両を召上げて参れ…」
意知への賂の名目にて佐野善左衛門より搾り取った200両のうち、50両は忠香の取分とし、残りの150両は村上半左衛門・勝之進父子の取分とすべく、治済は喜内にそう命じたのだ。何しろ前回―、善左衛門より50両搾り取った際には村上半左衛門・勝之進父子には「ただ働き」させてしまったからだ。
「承知仕りました…」
喜内は恭しくそう応ずると、足早にその場をあとにし、下谷廣小路にある忠香の屋敷へと急いだ。
小倉小兵衛はその直前―、新右衛門が帰った直後に、岩本喜内に新右衛門よりの報せを伝えたのであった。
実を言えば、小倉小兵衛とて治済より直接に、
「当家の掛屋を相勤めし播磨屋新右衛門方に佐野善左衛門政言なる旗本が積立貯蓄をしているに相違なく、さればそれな佐野善左衛門政言は近々、積立貯蓄を解約するか、或いは一部を取崩すに相違なく、その折にはこの治済の耳に入れよと、その旨、播磨屋新右衛門に申付けよ…」
そう命じられた訳ではなく、岩本喜内を介して命じられたのであった。
それ故、小倉小兵衛もまた、治済に直接に新右衛門よりの報せを伝えることは許されずに、岩本喜内に伝えたのであった。
こうして治済は岩本喜内より新右衛門よりの報せを聞かされるや、大いに満足したものである。
「この分ですと、佐野善左衛門殿よりは200両に止まらず、残りの366両につきましても吐出させることが出来るのでは…」
つまりは善左衛門からその「積立貯蓄」全額を搾り取れるのではないかと、岩本喜内はそんな見通しを立てた。
治済も岩本喜内のその「見立て」には大いに同感であり、仮に「見立て」通り、善左衛門から「積立貯蓄」全額を吐出させれば、その上で望んでいた立身出世も叶わないとなれば、善左衛門は当然、意知に騙されたと思うであろう。
そしてその思いはやがて、怨みへと、それも殺意へと昇華するに違いなかった。
「それにしても…、高山が殊勲は甲ぞ…」
治済はそれから思い出したかの様にそう呟いた。
治済が口にした高山とは治済に近習として仕える高山巳之助盛方であった。
高山巳之助は治済の側近くに仕える近習の中でも一際、眉目秀麗であり、治済はそんな高山巳之助を愛で、この巳之助にも佐野善左衛門を使嗾して意知を討果たさせる計画を打明けていたのだ。
すると高山巳之助はその名に聞覚えがあったらしく、「ああ…」と声を上げたのであった。
実際、高山巳之助にはその名に―、佐野善左衛門政言の名に聞覚えがあった。
それと言うのも高山巳之助は本丸小姓組番士の高山平左衛門守眞の実弟であり、つまりは巳之助は「附切」の身分で一橋家にて治済の近習として仕えている訳だが、その兄、と言うよりは実家である高山家の知行は450石であり、その知行所は何と、奇しくも佐野善左衛門家と同じく、下野國は都賀郡であったのだ。
知行取の旗本は知行所が同じだと親しくなるか、それとも嫌うかのどちらかであり、高山平左衛門と佐野善左衛門の場合は前者であった。
高山平左衛門は以前、佐野善左衛門より播磨屋にて「積立貯蓄」をしていることを打明けられたことがあり、それが弟の巳之助へと伝わった次第であった。
高山巳之助が佐野善左衛門の名に聞覚えがあったのは斯かる次第であり、巳之助は善左衛門の名を思い出すと、その善左衛門が播磨屋にて「積立貯蓄」をしていることも併せて治済に伝えたのであった。
無論、善左衛門は「積立貯蓄」の額までは如何に親しい高山平左衛門であっても打明けなかったので、巳之助にもその点までは伝わらなかった。
それ故、巳之助も善左衛門の「積立貯蓄」の額までは治済に教えることは出来なかった。
だが治済はそれを聞いて、少なくない額であることを確信した。
それと言うのも播磨屋が治済が当主を務める一橋家の掛屋御用をも承っており、その縁で治済も以前、何かの折に播磨屋が扱う「積立貯蓄」の存在を耳にしたことがあったからだ。
それは恐らく、一橋家勘定奉行の小倉小兵衛を介してだったと思うが、何でも播磨屋では年利1割にも及ぶ「積立貯蓄」を扱っており、しかもその最低預入額は100両であると、治済は小倉小兵衛より聞かされたことがあったのだ。
治済はそれ故、高山巳之助より佐野善左衛門が播磨屋にて「積立貯蓄」をしていると聞かされて、それが100両以上であると確信したものである。
そこで治済は小倉小兵衛を播磨屋へと差向け、小兵衛に播磨屋に対して善左衛門の「積立貯蓄」の件を触れさせた上で、善左衛門がその「積立貯蓄」を解約するか、取崩す様なことがあれば直ちに教えよと、そう命じさせたのであった。
すると結果は案の定、否、それ以上と言えた。
佐野善左衛門は「積立貯蓄」を解約するでなく、取崩すことによって200両もの金子を用立てた、ということはそれは取りも直さず、「積立貯蓄」の額が200両以上、それも300両以上であることを物語っていた。「積立貯蓄」の最低預入額は100両以上だからだ。
否、小倉小兵衛は気を利かせて、善左衛門の「積立貯蓄」の額までも播磨屋新右衛門より聞出し、その結果、善左衛門の「積立貯蓄」の額は何と、566両であり、200両を取崩してもまだ366両もの大金が残っていることが判明したのだ。
だとするならば佐野善左衛門からはまだ金を、それも366両もの大金を搾り取れると、治済《はるさだ》はそう踏んだ。
それは「懐刀」の岩本喜内も同様であり、
「それにしても…、佐野善左衛門なる者、憐れな男でござりまするなぁ…」
喜内はそう呟いた。そこには善左衛門に対する軽蔑と共に同情も含まれていた。
確かに己が用立てた金子が意知に渡っているものと、そう信じて疑わない佐野善左衛門という男は憐れの一語に尽きた。
「何…、これも全ては天下万民の為ぞ…、あの、どこぞの馬の骨とも知れぬ盗賊も同然の下賤なる成上がり者が小倅めを討果たすは天下万民の為、正義の為ぞ…、その正義の為の使者として、佐野善左衛門が選ばれたのだ…、否、この治済が直々に佐野善左衛門を正義の使者として見出してやったのだ…、されば佐野善左衛門なる男も如何に自が身が破滅しようとも、きっとこの治済に感謝するであろうぞ…」
治済は平然とそう言ってのけた。
治済はその上で、喜内に対して下谷廣小路にある松平忠香の屋敷に行く様、命じた。
「佐野善左衛門のこと…、今日にも200両を忠香の許へと届けるであろうぞ。さればその200両のうち、50両だけ忠香の手許に残し、残りの150両を召上げて参れ…」
意知への賂の名目にて佐野善左衛門より搾り取った200両のうち、50両は忠香の取分とし、残りの150両は村上半左衛門・勝之進父子の取分とすべく、治済は喜内にそう命じたのだ。何しろ前回―、善左衛門より50両搾り取った際には村上半左衛門・勝之進父子には「ただ働き」させてしまったからだ。
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