天明奇聞 ~たとえば意知が死ななかったら~

閑話 一橋治済は佐野善左衛門への「洗脳」の首尾に大いに満足する。

「なれども…、怪けしからぬ話はなしなれども、金かねさえ積つめば…、山城守様やましろのかみさまに金かねさえ積つめば、畏おそれ多おおくも上様うえさまに手柄てがらが認みとめられ、それがひいては立身出世りっしんしゅっせに繋つながるとも申もうせようぞ…」

　小宮山こみやま義藤次ぎとうじは義弟ぎてい・佐野さの善左衛門ぜんざえもんに対たいして、

「一語一語ひとことひとこと…」

　念ねんを押おす様ように言含いいふくめた。

　すると善左衛門ぜんざえもんの耳朶じだに義兄ぎけい・小宮山こみやま義藤次ぎとうじのその言葉ことばが染渡しみわたり、そして、こびりついた。

　こうして「よしのや久蔵きゅうぞう」方がたにおける密会みっかい、もとより佐野さの善左衛門ぜんざえもんに対たいする「洗脳せんのう」は昼八つ(午後2時頃)に散会さんかいとなった。

　佐野さの善左衛門ぜんざえもんらは店みせを出でると三々五々さんさんごご、各々おのおのの屋鋪やしきへと帰かえった。

　その中なかでも善左衛門ぜんざえもんと義兄ぎけいの小宮山こみやま義藤次ぎとうじだけは途中とちゅうまで一緒いっしょであった。屋鋪やしきが同おなじ方角ほうがくにあるからだ。

　小宮山こみやま義藤次ぎとうじの屋鋪やしきは土手どて四番町よんばんちょうにあり、更さらにその先さき、御城えどじょうにより近ちかい番町ばんちょう御厩谷坂おんまやだにざかに佐野さの善左衛門ぜんざえもんの屋鋪やしきがあった。

　さて、小宮山こみやま義藤次ぎとうじの屋鋪やしきにおいては一橋ひとつばし家臣かしん、それも治済はるさだの近習きんじゅうを勤つとめる成田なりた喜太郎きたろう勝永かつながが義藤次ぎとうじの帰かえりを待受まちうけていた。

　成田なりた喜太郎きたろうは実じつは小宮山こみやま義藤次ぎとうじの息そく・英之助えいのすけ昌與まさともの岳父がくふに当あたる。

　即すなわち、小宮山こみやま英之助えいのすけは成田なりた喜太郎きたろうの末娘すえむすめを娶めとっていたのだ。

　治済はるさだは近習きんじゅうの成田なりた喜太郎きたろうを介かいして、小宮山こみやま義藤次ぎとうじにも触手しょくしゅを伸のばし、結果けっか、小宮山こみやま義藤次ぎとうじをも己おのれが「支配下しはいか」に置おいていた。

　それ故ゆえ、今日きょうの「よしのや久蔵きゅうぞう」における会合かいごう、それも小宮山こみやま義藤次ぎとうじが佐野さの善左衛門ぜんざえもんに吹込ふきこんだ内容ないよう、もとい虚言きょげんは全すべて、治済はるさだが自みずから書下かきおろした台本シナリオによる。

　治済はるさだが佐野さの善左衛門ぜんざえもんを「洗脳せんのう」する為ための台本シナリオを小宮山こみやま義藤次ぎとうじや、更さらに平岡ひらおか與右衛門よえもんや矢部やべ主膳しゅぜんにも与あたえたのであった。

　平岡ひらおか與右衛門よえもんや矢部やべ主膳しゅぜんもまた、大奥おおおくを介かいして―、平岡ひらおか與右衛門よえもんは大叔母おおおばにして次期じき将軍しょうぐん・家斉附いえなりづきの老女ろうじょの大崎おおさきを、矢部やべ主膳しゅぜんは実姉じっしにして家斉いえなりの婚約者こんやくしゃである茂姫附しげひめづきの老女ろうじょの小枝さえだを、夫々介それぞれかいして治済はるさだの息いきがかかっていた。

　それ故ゆえ、小宮山こみやま義藤次ぎとうじは治済はるさだの手てによる台本シナリオに従したがい、義弟ぎていである佐野さの善左衛門ぜんざえもんにそれこそ、

「あることないこと…」

　吹込ふきこみ、それに平岡ひらおか與右衛門よえもんや矢部やべ主膳しゅぜんが適宜てきぎ、補足ほそくした次第しだいであった。

　そうまでして佐野さの善左衛門ぜんざえもんを「洗脳せんのう」しようと治済はるさだが欲ほっしたのは無論むろん、意知暗殺おきともあんさつの一環いっかんであった。

　そして成田なりた喜太郎きたろうは主君しゅくん・治済はるさだの命めいを受うけてここ、土手どて四番町よんばんちょうにある小宮山こみやま義藤次ぎとうじの屋鋪やしきにて義藤次ぎとうじの帰かえりを待受まちうけていたのだ。

　無論むろん、今日きょうの「よしのや久蔵きゅうぞう」においての佐野さの善左衛門ぜんざえもんへの「洗脳せんのう」の首尾しゅびを確たしかめる為ためであった。

　それならば小宮山こみやま義藤次ぎとうじの許もとでなくとも、例たとえば平岡ひらおか與右衛門よえもんや、或あるいは矢部やべ主膳しゅぜんの許もとへと、治済はるさだが「懐刀ふところがたな」である岩本いわもと喜内きないや久田ひさだ縫殿助ぬいのすけでも差向さしむけて、彼等かれら、平岡ひらおか與右衛門よえもんや矢部やべ主膳しゅぜんより佐野さの善左衛門ぜんざえもんへの「洗脳せんのう」の首尾しゅびを確たしかめても良よかっただろうが、平岡ひらおか與右衛門よえもんや矢部やべ主膳しゅぜんの屋鋪やしきは小宮山こみやま義藤次ぎとうじの屋鋪やしきに較くらべて生憎あいにくと、一橋家ひとつばしけの上屋敷かみやしきから離はなれていたのだ。

　即すなわち、小宮山こみやま義藤次ぎとうじの屋鋪やしきは土手どて四番町よんばんちょうと一橋家ひとつばしけの上屋敷かみやしきから近ちかい距離きょりであるのに対たいして、平岡ひらおか與右衛門よえもんの屋鋪やしきはそれよりも離はなれている湯島ゆしま四丁目、所謂いわゆる、本郷ほんごう櫻馬場角さくらのばばかどにあり、矢部やべ主膳しゅぜんの屋鋪やしきに至いたっては更さらに遠とおい北本所牛御前きたほんじょうしのごぜん御お旅所たびしょの近ちかくにあったのだ。

　一刻いっこくも早はやくに「首尾しゅび」を聞ききたい治済はるさだとしては一橋家ひとつばしけ上屋敷かみやしきから一番近いちばんちかい場所ばしょに屋鋪やしきを構かまえる小宮山こみやま義藤次ぎとうじの許もとへと家臣かしんを差向さしむけるのが合理的ごうりてきであり、そこで家臣かしんの中なかでも一番いちばん、小宮山こみやま義藤次ぎとうじと所縁ゆかりのある成田なりた喜太郎きたろうを差向さしむけた次第しだいであった。

　こうして成田なりた喜太郎きたろうは小宮山こみやま義藤次ぎとうじより佐野さの善左衛門ぜんざえもんへの「洗脳せんのう」の首尾しゅびを確たしかめるや、急いそぎ、主君しゅくん・治済はるさだの許もとへと戻もどり、義藤次ぎとうじより確たしかめたる首尾しゅびをそのまま治済はるさだに伝つたえたのであった。

　すると治済はるさだもその首尾しゅびには大おおいに満足まんぞくしたものであった。

「されば…、佐野さの善左衛門ぜんざえもんめは更さらに200両、山城殿やましろどのの為ために用立ようだてますでしょうか…」

　その場ばに陪席ばいせきしていた岩本いわもと喜内きないがそう口くちを挟はさんだ。

　するとこれには治済はるさだが「用立ようだてるに違ちがいない」と即答そくとう、断言だんげんした。

「その前まえに…、山城殿やましろどのへの殺意さついを募つのらせ、山城殿やましろどのを討果うちはたす可能性かのうせいは…」

　岩本いわもと喜内きないは更さらにそう疑問ぎもんを重かさねた。

　その場合ばあいには佐野さの善左衛門ぜんざえもんより更さらに金かねを吸上すいあげるつもりであった松平まつだいら忠香ただよしや村上むらかみ半左衛門はんざえもんにしてみればその「当あて」が外はずれることになる。

　殊ことに村上むらかみ半左衛門はんざえもんの場合ばあいは未いまだに、

「びた一文いちもん…」

　巻上まきあげられずにいたのだ。倅せがれ・勝之進かつのしんに命めいじて偽にせの受領書じゅりょうしょ―、意知おきともが確たしかに50両の金子きんすを受取うけとったとする、佐野さの善左衛門ぜんざえもん宛あての偽造ぎぞう受領書じゅりょうしょを作成さくせいさせたというのに、である。

　このまま佐野さの善左衛門ぜんざえもんが意知おきともを討果うちはたしてしまえば、村上むらかみ半左衛門はんざえもんにはただ働ばたらきをさせたことになり、その場合ばあい、村上むらかみ半左衛門はんざえもんが黙だまっていないのではないかと、岩本いわもと喜内きないはそれを懸念けねんしていたのだ。

　すると治済はるさだは岩本いわもと喜内きないのその懸念けねんを一笑いっしょうに付ふした。

「たかが50両、山城おきともめに騙だまし取とられた程度ていどで500石の知行ちぎょうを棒ぼうに振ふると思おもうか?」

　治済はるさだにそう反論はんろんされて、岩本いわもと喜内きないも「成程なるほど…」と合点がてんした。

「それに仮かりにだが、喜内きないが懸念けねんする如ごとく、善左衛門ぜんざえもんめが短慮たんりょを起おこし、50両程度ていどで山城おきともめを討果うちはたしたとしても、それはそれで好都合こうつごうと申もうすものにて…」

　確たしかに治済はるさだにとってはこの上うえなく好都合こうつごうであろうが、しかし村上むらかみ半左衛門はんざえもんの立場たちばはどうなるのか―、岩本いわもと喜内きないが内心ないしんそう疑問ぎもんに思おもうや、治済はるさだもそうと察さっして、

「されば村上むらかみ半左衛門はんざえもんめには婿むこの宇田川うたがわ平五郎へいごろうめの出世しゅっせを餌えさに黙だまらせるによって案あんずるな…」

　岩本いわもと喜内きないにそう説明せつめいし、喜内きないを得心とくしんさせたのであった。