上 下
93 / 169

閑話 一橋治済の更なる「策略」

しおりを挟む
 翌日よくじつ―、天明4(1784)年正月しょうがつ4日の鷹狩たかがりはじめだが、西新井村にしあらいむらほとりにておこなわれた。

 小姓こしょう組番ぐみばん書院番しょいんばん新番しんばん小十人こじゅうにん組番ぐみばんくわえて、今日きょう大番おおばんくわわり、いつも以上いじょう盛大せいだい鷹狩たかがりであった。

 だが盛大せいだいりには「猟果りょうか」はかんばしいものではなく、供弓ともゆみにしてもそれは同様どうようで、わずかに2人の供弓ともゆみ将軍しょうぐん家治いえはる御前ごぜん―、馬上ばじょうにて獲物えもの仕留しとめられただけであった。

 すなわち、小姓こしょうぐみよりは4番組ばんぐみ遠山とおやま大三郎だいざぶろう資實すけざね書院番組しょいんばんぐみよりは8番組ばんぐみ筒井左膳つついさぜん正盈まさあきらの2人の供弓ともゆみ馬上ばじょう家治いえはるまえにしてがん仕留しとめられただけであった。

 治済はるさだがこの「猟果りょうか」についてったのは翌日よくじつのことであった。

 杉山すぎやま又四郎またしろう義制よしたつより、そのちちにして一橋ひとつばし用人ようにん嘉兵衛かへえ美成よししげかいしてつたえられたのであった。

 杉山すぎやま又四郎またしろう小姓こしょう組番ぐみばん、それも2番組ばんぐみ番士ばんしとしてやはり、今日きょうのこの西新井村にしあらいむらにおける鷹狩たかがりに供弓ともゆみとして参加さんかしており、杉山すぎやま嘉兵衛かへえはそのせがれである又四郎またしろうかえりを屋敷やしきっていたのだ。

 杉山すぎやま嘉兵衛かへえ一橋ひとつばし用人ようにんとして平素へいそ一橋ひとつばし邸内ていない組屋敷くみやしきにて起居ききょしていたが、今日きょう帰省きせいしょうして北本所きたほんじょみなみ割下水わりげすいにある屋敷やしきへとかえっていたのだ。無論むろん帰省きせいとはあくまで口実こうじつ建前たてまえぎず、実際じっさいには治済はるさだため―、治済はるさだたいして西新井村にしあらいむらほとりにおける鷹狩たかがりの「猟果りょうか」について注進ちゅうしんおよためであった。

 いや、それならばなに杉山すぎやま嘉兵衛かへえたよらずとも、たとえば番頭ばんがしら鈴木すずき治左衛門じざえもん直裕なおひろたよってもかった。

 鈴木すずき治左衛門じざえもんそく大助勝美だいすけかつよしもまた書院番しょいんばんとして、2番組ばんぐみ番士ばんしとして今日きょう鷹狩たかがりに参加さんかしていたからだ。

 あるいは杉山すぎやま嘉兵衛かへえおなじく用人ようにん永井ながい與右衛門よえもん定之さだゆきたよってもかっただろう。永井ながい與右衛門よえもんそく采女うねめ定宣さだよしもまた書院番しょいんばん7番組ばんぐみ番士ばんしとして鷹狩たかがりに参加さんかしていたからだ。

 また用人格ようにんかくはた奉行ぶぎょうである平岡ひらおか喜三郎きさぶろう茂高しげたかたよってもかったやもれぬ。平岡ひらおか喜三郎きさぶろうそくである瀬兵衛せべえ茂曹しげとももまた鈴木すずき大助だいすけおなじく書院番しょいんばん2番組ばんぐみ番士ばんしとして鷹狩たかがりに参加さんかしていたからだ。

 そのなかでも治済はるさだ杉山すぎやま嘉兵衛かへええらんだのはひとえに、杉山すぎやま嘉兵衛かへえの「もうアピール」による。

何卒なにとぞ、この嘉兵衛かへえめに、おまかせを…」

 鷹狩たかがりの様子ようすほっしていた治済はるさだたいして杉山すぎやま嘉兵衛かへえもそうとさっすると、小姓こしょう組番ぐみばんつとめるせがれ又四郎またしろうより鷹狩たかがりの模様もよう聞出ききだしてみせると、そのように「もうアピール」したのであった。

 それにひきかえ鈴木すずき治左衛門じざえもんや、あるいは永井ながい與右衛門よえもん平岡ひらおか喜三郎きさぶろうといった面々めんめん杉山すぎやま嘉兵衛かへえ同様どうよう治済はるさだ忠実ちゅうじつなる「番犬ばんけん」ではあったものの、治済はるさだいまなにかんがえ、そしてなにほっしているか、それを忖度そんたくするにはいたらなかった。つまりはその能力のうりょくにはけており、そこが杉山すぎやま嘉兵衛かへえとの最大さいだいちがいと言えた。

 杉山すぎやま嘉兵衛かへえ治済はるさだが言わずとも、治済はるさだなにほっしているのか、忖度そんたくすることが出来でき、そこで今回こんかい治済はるさだ鷹狩たかがりの様子ようすりたがっていると敏感びんかん汲取くみとることが出来できたので、「もうアピール」した次第しだいであった。

 そこには勿論もちろん治済はるさだからの寵愛ちょうあいようとの動機どうきかくされていた。いや杉山すぎやま嘉兵衛かへえはその「動機どうき」をかくそうともせず、それどころかむしろその「動機どうき」をも「もうアピール」したほどであった。

 それにたいして治済はるさだもここまで杉山すぎやま嘉兵衛かへえに「もうアピール」されてはわるはせず、そこで杉山すぎやま嘉兵衛かへえたよることにしたのであった。

 すると杉山すぎやま嘉兵衛かへえは「帰省きせい」を口実こうじつ屋敷やしきへとかえり、そして鷹狩たかがりをえて帰宅きたくしたせがれ又四郎またしろうより鷹狩たかがりの模様もよう聞出ききだしたのであった。

 そうして杉山すぎやま嘉兵衛かへえはその翌日よくじつの5日には、それも昼前ひるまえには一橋ひとつばし屋敷やしきへともどり、御城えどじょうより下城げじょうし、帰邸きていしたばかりの治済はるさだたいしてせがれ又四郎またしろうより聞出ききだした鷹狩たかがりの模様もようをそのままつたえたのであった。

左様さようであったか…、ときに嘉兵衛かへえそく又四郎またしろう供弓ともゆみであったの…」

 治済はるさだ嘉兵衛かへえよりはなしえるやそうおうじたので、これには嘉兵衛かへえしぶ表情ひょうじょうとなった。

 たしかに治済はるさだの言うとおり、杉山すぎやま又四郎またしろうもまた供弓ともゆみであった。

 杉山すぎやま又四郎またしろうはこれまでにも将軍しょうぐん鷹狩たかがりに供弓ともゆみとしてしたがい、とり仕留しとめては時服じふくたまわることも度々たびたびであり、そこで今回こんかい鷹狩たかがりはじめにおいてもまた供弓ともゆみえらばれたのであるが、しかし今回こんかい生憎あいにくとり仕留しとめられなかったのだ。

面目めんぼく次第しだいもなく…」

 嘉兵衛かへえ如何いかにも申訳もうしわけなさそうに謝罪しゃざいしてみせた。

いやべつあやまるにはおよばぬ…」

 治済はるさだ嘉兵衛かへえをそうなぐさめた。

「されば…、遠山とおやま大三郎だいざぶろう筒井左膳つついさぜん二人ふたり若年寄わかどしより田沼たぬま山城守やましろのかみ殿とのまいないを…、それもたとえば200両ものまいないおくったればこそ、供弓ともゆみえらばれ、つ、がん仕留しとめたとの戦功せんこう認定にんていされた…、斯様かよう佐野さの善左衛門ぜんざえもんめに吹込ふきこみましては如何いかがでござりましょうや…」

 その陪席ばいせきしていた岩本いわもと喜内きないがそうくちはさんだ。

 成程なるほど佐野さの善左衛門ぜんざえもんからさらかね引出ひきださせるには格好かっこうの「口実こうじつ」、もとい「虚言きょげん」と言えた。

 だがこれにおなじく陪席ばいせきしていた久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ否定的ひていてき反応はんのうしめした。

「されば遠山とおやま大三郎だいざぶろう当家とうけ所縁ゆかりのありしものぞ…」

 すなわち、遠山とおやま大三郎だいざぶろう資實すけざねじつおもて右筆ゆうひつ組頭くみがしら神谷かみや三左衛門さんざえもん脩正のぶまさ一橋ひとつばし家臣かしん友町ともまち次郎左衛門じろざえもん依角よりずみむすめえいとのあいだにもうけた次男じなんであり、大三郎だいざぶろう遠山とおやま孝五郎たかごろう資倍すけます養嗣子ようししとしてむかえられ、遠山家とおやまけいだわけだが、養父ようふ孝五郎たかごろう実妹じつまいにして、大三郎だいざぶろうにとっては義理ぎり叔母おばたるれいはこれまた一橋家ひとつばしけ所縁ゆかりのある、それもふか所縁ゆかりのある吉松よしまつ次左衛門じざえもん正弘まさひろもととついでいたのだ。

 奥右筆おくゆうひつでもある吉松よしまつ次左衛門じざえもん叔母おばがここ一橋家ひとつばしけ老女ろうじょとしてつかえており、のみならず、実弟じってい庄次郎しょうじろう正常まさつねはここ一橋家ひとつばしけにて家斉いえなりがまだ豊千代とよちよとしてらしていたころにその小姓こしょうとしてつかえ、それが豊千代とよちよあらた家斉いえなり次期じき将軍しょうぐんとして西之丸にしのまるりをたすや、吉松よしまつ庄次郎しょうじろう独立どくりつあらたに旗本はたもととして一家いっかすことがゆるされ、そのうえ家斉いえなり小納戸こなんど取立とりたてられたのだ。

 西之丸にしのまる小納戸こなんど本丸ほんまる小納戸こなんど同様どうよう従六位じゅろくい布衣ほいやくであり、それだけ吉松よしまつ庄次郎しょうじろう家斉いえなり寵愛ちょうあいあつかった。

 遠山とおやま大三郎だいざぶろう義理ぎり叔母おばかいしてそのよう吉松よしまつ次左衛門じざえもん庄次郎しょうじろう兄弟きょうだい所縁ゆかりがあったのだ。

 いや遠山とおやま大三郎だいざぶろう自身じしんいまでは吉松よしまつ次左衛門じざえもん長女ちょうじょかつめとっており、そのあいだ嫡子ちゃくし勝太郎かつたろう資倫すけゆきまでもうけていたのだ。

 事程ことほど左様さよう遠山とおやま大三郎だいざぶろう一橋家ひとつばしけ所縁ゆかりがあったのだ。

 成程なるほど、そのよう遠山とおやま大三郎だいざぶろうかねちからで、それも、

意知おきとも賄賂わいろおくったから…」

 鷹狩たかがりはじめにおいて供弓ともゆみえらばれ、つ、見事みごとがん仕留しとめたとの戦功せんこう認定にんていされたとあっては、大三郎だいざぶろうとは所縁ゆかりふか一橋家ひとつばしけを、ひいてはその当主とうしゅたる治済はるさだをもおとしめることにはなりはしまいかと、それゆえ久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ岩本いわもと喜内きない意見いけん否定的ひていてき反応はんのうしめしたのであった。

「されば…、筒井左膳つついさぜんであればいのか?」

 岩本いわもと喜内きない久田ひさだ縫殿助ぬいのすけたずねた。

いや…、筒井左膳つついさぜんもまた…、遠山とおやま大三郎だいざぶろうほどではないにしても、当家とうけすくなからず所縁ゆかりが…」

 筒井左膳つついさぜんもまた遠山とおやま大三郎だいざぶろう同様どうよう養嗣子ようししであった。

 すなわち、筒井左膳つついさぜんなん大名だいみょう七日市なのかいち藩主はんしゅ前田まえだ大和守やまとのかみ利理としただ八男はちなんであり、それが西之丸にしのまる書院番しょいんばんつとめていた筒井つつい與次右衛門よじえもん政悦まさよし養嗣子ようししとしてむかえられたわけだが、この筒井つつい與次右衛門よじえもん実妹じつまいつうかつて、小川おがわ長左衛門ちょうざえもん康存やすのりつまであり、この小川おがわ長左衛門ちょうざえもん本家ほんけすじ庶子しょしである小河おがわ彦次郎ひこじろう康久やすひさ清左衛門せいざえもん康友やすとも兄弟きょうだい一橋ひとつばし家臣かしんであり、さらにそのしたおとうと定四郎さだしろう安普やすずみ一橋ひとつばし家臣かしん戸川金治とがわきんじ安利やすとし養嗣子ようししであった。

 それゆえ筒井左膳つついさぜんもまた、義理ぎり叔母おばであるつうかいして一橋家ひとつばしけ所縁ゆかりがあったと言える。

 もっとも、つう場合ばあい小川おがわ長左衛門ちょうざえもん離婚りこんしており、しかも偽装離婚ぎそうりこんなどではなく、本当ほんとうれていたので、それゆえいまでは筒井左膳つついさぜん一橋家ひとつばしけとは所縁ゆかりはないも同然どうぜんであった。

 それでもかつては筒井左膳つついさぜん一橋家ひとつばしけ所縁ゆかりがあったので、そのよう筒井左膳つついさぜんのことを、

かねちからで…」

 手柄てがらてられたと、そのようおとしめてもいものかと、久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ躊躇ちゅうちょした次第しだいである。

 するとこれには治済当人はるさだとうにんより、「への気遣きづかいは無用むようぞ…」とのこえけられた。

「されば筒井左膳つついさぜんは…、縫殿助ぬいのすけによれば大名だいみょうそくなれば、かねちから手柄てがらてられた…、それには説得力せっとくりょくがあろうぞ…」

 治済はるさださらにそう補足ほそくした。

 成程なるほど庶子しょしとはもうせ、大名だいみょうそくなればかねこまることはないだろう、そこで筒井左膳つついさぜん実家じっかである前田家まえだけより多額たがく金子きんす用立ようだててもらい、それを意知おきともへのまいないとしておくったために、筒井左膳つついさぜんれて供弓ともゆみえらばれたのみならず、がん仕留しとめたとの戦功せんこうをもみとめられた…、佐野さの善左衛門ぜんざえもんにそう吹聴ふいちょうすれば、善左衛門ぜんざえもんのことである、容易よういしんじるにちがいなかった。

 治済はるさだはそのうえで、さらなる策略さくりゃくめぐらした。

「されば…、今年ことし鷹狩たかがりはじめだが、例年れいねんくらべて戦果せんかすくないようだが…、これは山城おきともめへのまいないすくなかったから…、善左衛門ぜんざえもんめにはそうささやいてやるがかろう…」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

徳川家基、不本意!

克全
歴史・時代
幻の11代将軍、徳川家基が生き残っていたらどのような世の中になっていたのか?田沼意次に取立てられて、徳川家基の住む西之丸御納戸役となっていた長谷川平蔵が、田沼意次ではなく徳川家基に取り入って出世しようとしていたらどうなっていたのか?徳川家治が、次々と死んでいく自分の子供の死因に疑念を持っていたらどうなっていたのか、そのような事を考えて創作してみました。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

♡ちょっとエッチなアンソロジー〜舐める編〜♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショートの詰め合わせ♡

♡ちょっとエッチなアンソロジー〜おぽこち編〜♡

x頭金x
現代文学
♡ちょっとHなショートショートの詰め合わせ♡

♡ちょっとエッチなアンソロジー〜アソコ編〜♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとエッチなショートショートつめあわせ♡

♡ちょっとエッチなアンソロジー〜おしっこ編〜♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショートの詰め合わせ♡

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

処理中です...