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閑話 一橋治済の更なる「策略」
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翌日―、天明4(1784)年正月4日の鷹狩始だが、西新井村の邊にて行われた。
小姓組番、書院番、新番、小十人組番に加えて、今日は大番も加わり、いつも以上に盛大な鷹狩りであった。
だが盛大な割りには「猟果」は芳しいものではなく、供弓にしてもそれは同様で、僅かに2人の供弓が将軍・家治の御前―、馬上にて獲物を仕留められただけであった。
即ち、小姓組よりは4番組の遠山大三郎資實と書院番組よりは8番組の筒井左膳正盈の2人の供弓が馬上の家治を前にして雁を仕留められただけであった。
治済がこの「猟果」について知ったのは翌日のことであった。
杉山又四郎義制より、その父にして一橋用人の嘉兵衛美成を介して伝えられたのであった。
杉山又四郎は小姓組番士、それも2番組の番士としてやはり、今日のこの西新井村における鷹狩りに供弓として参加しており、杉山嘉兵衛はその倅である又四郎の帰りを屋敷で待っていたのだ。
杉山嘉兵衛は一橋用人として平素、一橋邸内の組屋敷にて起居していたが、今日は帰省と称して北本所南割下水にある屋敷へと帰っていたのだ。無論、帰省とはあくまで口実、建前に過ぎず、実際には治済の為―、治済に対して西新井村の邊における鷹狩りの「猟果」について御注進に及ぶ為であった。
否、それならば何も杉山嘉兵衛を頼らずとも、例えば番頭の鈴木治左衛門直裕を頼っても良かった。
鈴木治左衛門が息、大助勝美もまた書院番士として、2番組の番士として今日の鷹狩りに参加していたからだ。
或いは杉山嘉兵衛と同じく用人の永井與右衛門定之を頼っても良かっただろう。永井與右衛門が息・采女定宣もまた書院番7番組の番士として鷹狩りに参加していたからだ。
また用人格の旗奉行である平岡喜三郎茂高を頼っても良かったやも知れぬ。平岡喜三郎が息である瀬兵衛茂曹もまた鈴木大助と同じく書院番2番組の番士として鷹狩りに参加していたからだ。
その中でも治済が杉山嘉兵衛を選んだのは偏に、杉山嘉兵衛の「猛アピール」による。
「何卒、この嘉兵衛めに、お任せを…」
鷹狩りの様子を欲していた治済に対して杉山嘉兵衛もそうと察すると、小姓組番士を勤める倅の又四郎より鷹狩りの模様を聞出してみせると、その様に「猛アピール」したのであった。
それにひきかえ鈴木治左衛門や、或いは永井與右衛門や平岡喜三郎といった面々は杉山嘉兵衛と同様、治済の忠実なる「番犬」ではあったものの、治済が今、何を考え、そして何を欲しているか、それを忖度するには至らなかった。つまりはその能力には欠けており、そこが杉山嘉兵衛との最大の違いと言えた。
杉山嘉兵衛は治済が言わずとも、治済が何を欲しているのか、忖度することが出来、そこで今回も治済が鷹狩りの様子を知りたがっていると敏感に汲取ることが出来たので、「猛アピール」した次第であった。
そこには勿論、治済からの寵愛を得ようとの動機も隠されていた。否、杉山嘉兵衛はその「動機」を隠そうともせず、それどころかむしろその「動機」をも「猛アピール」した程であった。
それに対して治済もここまで杉山嘉兵衛に「猛アピール」されては悪い気はせず、そこで杉山嘉兵衛を頼ることにしたのであった。
すると杉山嘉兵衛は「帰省」を口実に屋敷へと帰り、そして鷹狩りを終えて帰宅した倅の又四郎より鷹狩りの模様を聞出したのであった。
そうして杉山嘉兵衛はその翌日の5日には、それも昼前には一橋屋敷へと戻り、御城より下城し、帰邸したばかりの治済に対して倅・又四郎より聞出した鷹狩りの模様をそのまま伝えたのであった。
「左様であったか…、ときに嘉兵衛が息の又四郎も供弓であったの…」
治済は嘉兵衛より話を聞き終えるやそう応じたので、これには嘉兵衛も渋い表情となった。
確かに治済の言う通り、杉山又四郎もまた供弓であった。
杉山又四郎はこれまでにも将軍の鷹狩りに供弓として随い、鳥を仕留めては時服を賜ることも度々であり、そこで今回、鷹狩始においてもまた供弓に選ばれたのであるが、しかし今回は生憎と鳥を仕留められなかったのだ。
「面目次第もなく…」
嘉兵衛は如何にも申訳なさそうに謝罪してみせた。
「否、別に謝るには及ばぬ…」
治済は嘉兵衛をそう慰めた。
「されば…、遠山大三郎と筒井左膳の二人は若年寄の田沼山城守殿に賂を…、それも例えば200両もの賂を贈ったればこそ、供弓に選ばれ、且つ、雁を仕留めたとの戦功が認定された…、斯様に佐野善左衛門めに吹込みましては如何でござりましょうや…」
その場に陪席していた岩本喜内がそう口を挟んだ。
成程、佐野善左衛門から更に金を引出させるには格好の「口実」、もとい「虚言」と言えた。
だがこれに同じく陪席していた久田縫殿助が否定的反応を示した。
「されば遠山大三郎は当家に所縁のありし者ぞ…」
即ち、遠山大三郎資實は実は表右筆組頭の神谷三左衛門脩正が一橋家臣の友町次郎左衛門依角が娘の鋭との間にもうけた次男であり、大三郎は遠山孝五郎資倍が養嗣子として迎えられ、遠山家を継いだ訳だが、養父・孝五郎の実妹にして、大三郎にとっては義理の叔母に当たる齢はこれまた一橋家と所縁のある、それも深い所縁のある吉松次左衛門正弘の許に嫁いでいたのだ。
奥右筆でもある吉松次左衛門は叔母がここ一橋家の老女として仕えており、のみならず、実弟の庄次郎正常はここ一橋家にて家斉がまだ豊千代として暮らしていた頃にその小姓として仕え、それが豊千代改め家斉が次期将軍として西之丸入りを果たすや、吉松庄次郎も独立、新たに旗本として一家を成すことが許され、その上、家斉の小納戸に取立てられたのだ。
西之丸小納戸も本丸小納戸同様、従六位布衣役であり、それだけ吉松庄次郎は家斉の寵愛が篤かった。
遠山大三郎は義理の叔母を介してその様な吉松次左衛門・庄次郎兄弟と所縁があったのだ。
否、遠山大三郎自身も今では吉松次左衛門の長女の勝を娶っており、その間に嫡子の勝太郎資倫までもうけていたのだ。
事程左様に遠山大三郎は一橋家と所縁があったのだ。
成程、その様な遠山大三郎が金の力で、それも、
「意知に賄賂を贈ったから…」
鷹狩始において供弓に選ばれ、且つ、見事雁を仕留めたとの戦功が認定されたとあっては、大三郎とは所縁の深い一橋家を、ひいてはその当主たる治済をも貶めることにはなりはしまいかと、それ故、久田縫殿助は岩本喜内の意見に否定的反応を示したのであった。
「されば…、筒井左膳であれば良いのか?」
岩本喜内は久田縫殿助に尋ねた。
「否…、筒井左膳もまた…、遠山大三郎程ではないにしても、当家と少なからず所縁が…」
筒井左膳もまた遠山大三郎同様、養嗣子であった。
即ち、筒井左膳は何と大名、七日市藩主の前田大和守利理が八男であり、それが西之丸書院番士を勤めていた筒井與次右衛門政悦の養嗣子として迎えられた訳だが、この筒井與次右衛門が実妹の通は嘗て、小川長左衛門康存の妻であり、この小川長左衛門が本家筋の庶子である小河彦次郎康久・清左衛門康友兄弟は一橋家臣であり、更にその下の弟の定四郎安普は一橋家臣の戸川金治安利の養嗣子であった。
それ故、筒井左膳もまた、義理の叔母である通を介して一橋家と所縁があったと言える。
尤も、通の場合は小川長左衛門と離婚しており、しかも偽装離婚などではなく、本当に切れていたので、それ故、今では筒井左膳と一橋家とは所縁はないも同然であった。
それでも嘗ては筒井左膳は一橋家と所縁があったので、その様な筒井左膳のことを、
「金の力で…」
手柄を立てられたと、その様に貶めても良いものかと、久田縫殿助は躊躇した次第である。
するとこれには治済当人より、「余への気遣いは無用ぞ…」との声が掛けられた。
「されば筒井左膳は…、縫殿助によれば大名の息なれば、金の力で手柄を立てられた…、それには説得力があろうぞ…」
治済は更にそう補足した。
成程、庶子とは申せ、大名の息なれば金に困ることはないだろう、そこで筒井左膳は実家である前田家より多額の金子を用立てて貰い、それを意知への賂として贈った為に、筒井左膳は晴れて供弓に選ばれたのみならず、雁を仕留めたとの戦功をも認められた…、佐野善左衛門にそう吹聴すれば、善左衛門のことである、容易に信じるに違いなかった。
治済はその上で、更なる策略を巡らした。
「されば…、今年の鷹狩始だが、例年に較べて戦果が少ない様だが…、これは山城めへの賂が少なかったから…、善左衛門めにはそう囁いてやるが良かろう…」
小姓組番、書院番、新番、小十人組番に加えて、今日は大番も加わり、いつも以上に盛大な鷹狩りであった。
だが盛大な割りには「猟果」は芳しいものではなく、供弓にしてもそれは同様で、僅かに2人の供弓が将軍・家治の御前―、馬上にて獲物を仕留められただけであった。
即ち、小姓組よりは4番組の遠山大三郎資實と書院番組よりは8番組の筒井左膳正盈の2人の供弓が馬上の家治を前にして雁を仕留められただけであった。
治済がこの「猟果」について知ったのは翌日のことであった。
杉山又四郎義制より、その父にして一橋用人の嘉兵衛美成を介して伝えられたのであった。
杉山又四郎は小姓組番士、それも2番組の番士としてやはり、今日のこの西新井村における鷹狩りに供弓として参加しており、杉山嘉兵衛はその倅である又四郎の帰りを屋敷で待っていたのだ。
杉山嘉兵衛は一橋用人として平素、一橋邸内の組屋敷にて起居していたが、今日は帰省と称して北本所南割下水にある屋敷へと帰っていたのだ。無論、帰省とはあくまで口実、建前に過ぎず、実際には治済の為―、治済に対して西新井村の邊における鷹狩りの「猟果」について御注進に及ぶ為であった。
否、それならば何も杉山嘉兵衛を頼らずとも、例えば番頭の鈴木治左衛門直裕を頼っても良かった。
鈴木治左衛門が息、大助勝美もまた書院番士として、2番組の番士として今日の鷹狩りに参加していたからだ。
或いは杉山嘉兵衛と同じく用人の永井與右衛門定之を頼っても良かっただろう。永井與右衛門が息・采女定宣もまた書院番7番組の番士として鷹狩りに参加していたからだ。
また用人格の旗奉行である平岡喜三郎茂高を頼っても良かったやも知れぬ。平岡喜三郎が息である瀬兵衛茂曹もまた鈴木大助と同じく書院番2番組の番士として鷹狩りに参加していたからだ。
その中でも治済が杉山嘉兵衛を選んだのは偏に、杉山嘉兵衛の「猛アピール」による。
「何卒、この嘉兵衛めに、お任せを…」
鷹狩りの様子を欲していた治済に対して杉山嘉兵衛もそうと察すると、小姓組番士を勤める倅の又四郎より鷹狩りの模様を聞出してみせると、その様に「猛アピール」したのであった。
それにひきかえ鈴木治左衛門や、或いは永井與右衛門や平岡喜三郎といった面々は杉山嘉兵衛と同様、治済の忠実なる「番犬」ではあったものの、治済が今、何を考え、そして何を欲しているか、それを忖度するには至らなかった。つまりはその能力には欠けており、そこが杉山嘉兵衛との最大の違いと言えた。
杉山嘉兵衛は治済が言わずとも、治済が何を欲しているのか、忖度することが出来、そこで今回も治済が鷹狩りの様子を知りたがっていると敏感に汲取ることが出来たので、「猛アピール」した次第であった。
そこには勿論、治済からの寵愛を得ようとの動機も隠されていた。否、杉山嘉兵衛はその「動機」を隠そうともせず、それどころかむしろその「動機」をも「猛アピール」した程であった。
それに対して治済もここまで杉山嘉兵衛に「猛アピール」されては悪い気はせず、そこで杉山嘉兵衛を頼ることにしたのであった。
すると杉山嘉兵衛は「帰省」を口実に屋敷へと帰り、そして鷹狩りを終えて帰宅した倅の又四郎より鷹狩りの模様を聞出したのであった。
そうして杉山嘉兵衛はその翌日の5日には、それも昼前には一橋屋敷へと戻り、御城より下城し、帰邸したばかりの治済に対して倅・又四郎より聞出した鷹狩りの模様をそのまま伝えたのであった。
「左様であったか…、ときに嘉兵衛が息の又四郎も供弓であったの…」
治済は嘉兵衛より話を聞き終えるやそう応じたので、これには嘉兵衛も渋い表情となった。
確かに治済の言う通り、杉山又四郎もまた供弓であった。
杉山又四郎はこれまでにも将軍の鷹狩りに供弓として随い、鳥を仕留めては時服を賜ることも度々であり、そこで今回、鷹狩始においてもまた供弓に選ばれたのであるが、しかし今回は生憎と鳥を仕留められなかったのだ。
「面目次第もなく…」
嘉兵衛は如何にも申訳なさそうに謝罪してみせた。
「否、別に謝るには及ばぬ…」
治済は嘉兵衛をそう慰めた。
「されば…、遠山大三郎と筒井左膳の二人は若年寄の田沼山城守殿に賂を…、それも例えば200両もの賂を贈ったればこそ、供弓に選ばれ、且つ、雁を仕留めたとの戦功が認定された…、斯様に佐野善左衛門めに吹込みましては如何でござりましょうや…」
その場に陪席していた岩本喜内がそう口を挟んだ。
成程、佐野善左衛門から更に金を引出させるには格好の「口実」、もとい「虚言」と言えた。
だがこれに同じく陪席していた久田縫殿助が否定的反応を示した。
「されば遠山大三郎は当家に所縁のありし者ぞ…」
即ち、遠山大三郎資實は実は表右筆組頭の神谷三左衛門脩正が一橋家臣の友町次郎左衛門依角が娘の鋭との間にもうけた次男であり、大三郎は遠山孝五郎資倍が養嗣子として迎えられ、遠山家を継いだ訳だが、養父・孝五郎の実妹にして、大三郎にとっては義理の叔母に当たる齢はこれまた一橋家と所縁のある、それも深い所縁のある吉松次左衛門正弘の許に嫁いでいたのだ。
奥右筆でもある吉松次左衛門は叔母がここ一橋家の老女として仕えており、のみならず、実弟の庄次郎正常はここ一橋家にて家斉がまだ豊千代として暮らしていた頃にその小姓として仕え、それが豊千代改め家斉が次期将軍として西之丸入りを果たすや、吉松庄次郎も独立、新たに旗本として一家を成すことが許され、その上、家斉の小納戸に取立てられたのだ。
西之丸小納戸も本丸小納戸同様、従六位布衣役であり、それだけ吉松庄次郎は家斉の寵愛が篤かった。
遠山大三郎は義理の叔母を介してその様な吉松次左衛門・庄次郎兄弟と所縁があったのだ。
否、遠山大三郎自身も今では吉松次左衛門の長女の勝を娶っており、その間に嫡子の勝太郎資倫までもうけていたのだ。
事程左様に遠山大三郎は一橋家と所縁があったのだ。
成程、その様な遠山大三郎が金の力で、それも、
「意知に賄賂を贈ったから…」
鷹狩始において供弓に選ばれ、且つ、見事雁を仕留めたとの戦功が認定されたとあっては、大三郎とは所縁の深い一橋家を、ひいてはその当主たる治済をも貶めることにはなりはしまいかと、それ故、久田縫殿助は岩本喜内の意見に否定的反応を示したのであった。
「されば…、筒井左膳であれば良いのか?」
岩本喜内は久田縫殿助に尋ねた。
「否…、筒井左膳もまた…、遠山大三郎程ではないにしても、当家と少なからず所縁が…」
筒井左膳もまた遠山大三郎同様、養嗣子であった。
即ち、筒井左膳は何と大名、七日市藩主の前田大和守利理が八男であり、それが西之丸書院番士を勤めていた筒井與次右衛門政悦の養嗣子として迎えられた訳だが、この筒井與次右衛門が実妹の通は嘗て、小川長左衛門康存の妻であり、この小川長左衛門が本家筋の庶子である小河彦次郎康久・清左衛門康友兄弟は一橋家臣であり、更にその下の弟の定四郎安普は一橋家臣の戸川金治安利の養嗣子であった。
それ故、筒井左膳もまた、義理の叔母である通を介して一橋家と所縁があったと言える。
尤も、通の場合は小川長左衛門と離婚しており、しかも偽装離婚などではなく、本当に切れていたので、それ故、今では筒井左膳と一橋家とは所縁はないも同然であった。
それでも嘗ては筒井左膳は一橋家と所縁があったので、その様な筒井左膳のことを、
「金の力で…」
手柄を立てられたと、その様に貶めても良いものかと、久田縫殿助は躊躇した次第である。
するとこれには治済当人より、「余への気遣いは無用ぞ…」との声が掛けられた。
「されば筒井左膳は…、縫殿助によれば大名の息なれば、金の力で手柄を立てられた…、それには説得力があろうぞ…」
治済は更にそう補足した。
成程、庶子とは申せ、大名の息なれば金に困ることはないだろう、そこで筒井左膳は実家である前田家より多額の金子を用立てて貰い、それを意知への賂として贈った為に、筒井左膳は晴れて供弓に選ばれたのみならず、雁を仕留めたとの戦功をも認められた…、佐野善左衛門にそう吹聴すれば、善左衛門のことである、容易に信じるに違いなかった。
治済はその上で、更なる策略を巡らした。
「されば…、今年の鷹狩始だが、例年に較べて戦果が少ない様だが…、これは山城めへの賂が少なかったから…、善左衛門めにはそう囁いてやるが良かろう…」
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