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将軍・家治の敗北感と一橋治済の哄笑、そして治済は意知と共に家治の暗殺をも企み始める。

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「いやはや…」

 清水しみず重好しげよし治済はるさだ御座之間ござのまをあとにしてからしばらくして、かいってすわ将軍しょうぐん家治いえはるにそうこえをかけた。ほかにかけるべき言葉ことばつからなかったからだ。

重好しげよしよ、じつはのう…」

 家治いえはるはそう切出きりだすと、昨日きのうけん打明うちあけた。

 すなわち、意知おきともかいして側用人そばようにん水野みずの忠友ただともより、

一橋ひとつばしシンパ」

 ともぶべきそば用取次ようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきらへと、

将軍しょうぐん家治いえはる一橋ひとつばし治済はるさだおのれ一刻いっこくはや隠退いんたいすなわち、我子わがこ家斉いえなりへの将軍しょうぐんしょく譲位じょういのぞむその態度たいどごうやしており、そこで場合ばあいによっては家斉いえなり廃嫡はいちゃくし、家斉いえなりわるあらたな将軍家しょうぐんけ養君ようくん、つまりは次期じき将軍しょうぐん腹違はらちがいのおとうとである三卿さんきょう清水しみず重好しげよしえるつもりである…」

 そのことを「リーク」させたことを家治いえはる重好しげよし打明うちあけたのであった。

「さすればかならずや稲葉いなばより治済はるさだめへとこのことがつたわり、あわよくば治済はるさだめを軽挙妄動けいきょもうどうはしらせることが出来できるやもれぬと…、左様さよう期待きたいしておったのだがのう…」

 重好しげよしはそれで合点がてんがいった。

 重好しげよし治済はるさだより将軍しょうぐん家治いえはるへの拝謁はいえつさそわれ、こうしてここ御座之間ござのまにて治済はるさだとも将軍しょうぐん家治いえはるへの拝謁はいえつのぞんだわけだが、何故なにゆえ治済はるさだ重好しげよしさそったのか、重好しげよし治済はるさだからそこまでは打明うちあけられていなかった。

 だがいま家治いえはるはなしいて重好しげよしようやくに治済はるさだ何故なにゆえおのれさそったのか理解りかい出来できた。

「まさかに…、おそおおくも上様うえさまぜんにてそのてんを…、家斉いえなり廃嫡はいちゃくしてこの重好しげよし家斉いえなりわる次期じき将軍しょうぐんえるつもりか、などとじか上様うえさまに…、それもこの重好しげよし陪席ばいせき申上もうしあげているにてただされるとは…」

 重好しげよしあきれた口調くちょうでそうらした。

治済はるさだめがまこと…、かる捨身すてみ戦法せんぽうてくるとはおもわなんだ…」

 家治いえはるひど落胆らくたんした口振くちぶりであった。

 治済はるさだの「捨身すてみ戦法せんぽう」は家治いえはるには完全かんぜん想定外そうていがいであり、結果けっか

家斉いえなり廃嫡はいちゃくすることはない…」

 つまりはこれからも家斉いえなり次期じき将軍しょうぐんになしおくと、その「言質げんち」を治済はるさだあたえてしまった。家治いえはるひど落胆らくたんするのも当然とうぜんであった。

「いや…、いさささくろうぎたやもれぬな…」

 家治いえはるはポツリとそうらした。

 そこで重好しげよし家治いえはるはげますべく、

「なに…、治済はるさだめはそのうちかならずや尻尾しっぽしましょうぞ…」

 そうこえをかけ、

「そのときこそ、治済はるさだめを完膚かんぷなきまでにたたきのめせばよろしゅうござりまする…」

 さらにそう言葉ことばかさねた。

治済はるさだめをたたきのめす、か…」

御意ぎょい…、正義せいぎ上様うえさまにござりますれば、上様うえさまけることはありませぬ…」

 重好しげよしはそう断言だんげんしてみせた。無論むろん敗北感はいぼくかんちひしがれる家治いえはる勇気ゆうきけるためであったが、しかしそれで重好しげよし期待きたいしたようには家治いえはる勇気ゆうきけられることはなかった。

すで治済はるさだめに家基いえもとを…、家基いえもといのちうばわれた…、いや家基いえもとばかりではない、倫子ともこ萬壽ますいのちまでもうばわれたのだ…」

 この時点じてんすで将軍しょうぐん敗北はいぼくではないかと、家治いえはる重好しげよしにそうげた。

「…にもかかわらず、治済はるさだめを油断ゆだんさせる方便ほうべんではあっても、かたきとももうすべき治済はるさだめのせがれ豊千代とよちよ…、いや家斉いえなりめを養君ようくんえざるをなかったたしてこのさき治済はるさだめにつことなどありようか…」

 家治いえはるさらにそうつづけ、重好しげよしだまらせてしまった。

 重好しげよしとしては最早もはやいま家治いえはるにかけるべき言葉ことば見当みあたらなかったからだ。

 さて、こうして家治いえはる腹違はらちがいのおとうとである重好しげよしまえ敗北感はいぼくかんちひしがれているころ治済はるさだ家老かろう水谷勝富みずのやかつとみしたがえてさっさと下城げじょう一橋ひとつばし屋敷やしきへと「凱旋がいせん帰国きこく」した。

 治済はるさだれいごとく、「大奥おおおく」へと直行ちょっこうすると、「懐刀ふところがたな」の久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ岩本いわもと喜内きない二人ふたり召出めしだし、そこで二人ふたり今日きょう御座之間ござのま一件いっけんについてかたってかせた。

成程なるほど…、それは中々なかなかさくでござりましたな…」

 久田ひさだ縫殿助ぬいのすけは「策士さくし」らしく、治済はるさだのその「捨身すてみ戦法せんぽう」に感心かんしんした様子ようすであった。

 一方いっぽう、それとは正反対せいはんたい反応はんのうしめしたのが岩本いわもと喜内きないであった。

「なれど…、家治公いえはるこう将軍しょうぐんである以上いじょう如何いか上様うえさまかる言質げんちあたえられたとしても…」

 その「言質げんち」とやらを取消とりけして、やはり家斉いえなり廃嫡はいちゃくして、わりに清水しみず重好しげよし次期じき将軍しょうぐんえることなど容易たやすいのではあるまいかと、岩本いわもと喜内きないはそう表情ひょうじょうくもらせた。

 岩本いわもと喜内きないのその意見いけん多分たぶんに、

「ライバルである久田ひさだ縫殿助ぬいのすけへの対抗心たいこうしんから…」

 そのよう一面いちめんがあったが、しかし正論せいろんでもあった。

 たしかに、如何いか家治いえはる治済はるさだたいして「言質げんち」を、

家斉いえなり廃嫡はいちゃくにはしない…」

 その「言質げんち」をあたえたとしても、それを取消とりけすことなど造作ぞうさもない。

「さればこのさい上様うえさまのおいのちを…」

 家治いえはるころしてはどうかと、岩本いわもと喜内きないじつ重大じゅうだいなことをサラリと言ってのけた。

 成程なるほど家治いえはるねばこと簡単かんたんであった。次期じき将軍しょうぐんである我子わがこ家斉いえなり将軍しょうぐんしょくころがりむからだ。

「そのためにもそろそろ、宇田川うたがわ平五郎へいごろうぜん奉行ぶぎょうえられては…」

 岩本いわもと喜内きないさらにそんな提案ていあんまでした。

 それは治済はるさだかんがえていたことではあった。

 宇田川うたがわ平五郎へいごろう定義さだよし…、家基いえもとがまだ存命ぞんめいころより西之丸にしのまるにて書院番しょいんばんとして家基いえもとつかえ、いま家斉いえなりつかえていた。

 その宇田川うたがわ平五郎へいごろう田沼たぬま家臣かしん、それも意知おきともつかえる村上むらかみ半左衛門はんざえもん重勝しげかつむすめめとっており、傍目はためには、

田沼たぬまシンパ…」

 そううつっていた。

 だが実際じっさいには宇田川うたがわ平五郎へいごろう一橋ひとつばしシンパ、それも、

かく一橋ひとつばしシンパ」

 であった。

 治済はるさだはまず、宇田川うたがわ平五郎へいごろう岳父がくふたる村上むらかみ半左衛門はんざえもんひそかに手懐てなずけ、そして村上むらかみ半左衛門はんざえもんつうじて宇田川うたがわ平五郎へいごろうをも手懐てなずけることに成功せいこうしたのだ。

 それは家基いえもとがまだ存命ぞんめいころはなしであり、結果けっか宇田川うたがわ平五郎へいごろう家基いえもとの「病死びょうし」にさいしても治済はるさだために、

並々なみなみならぬ…」

 活躍かつやくをしてくれたものである。

 それゆえ宇田川うたがわ平五郎へいごろう治済はるさだにとっては「秘密兵器ひみつへいき」と言えた。

 その「秘密兵器ひみつへいき」を、さしずめ「核爆弾かくばくだん」を炸裂さくれつさせるべきではないかと、岩本いわもと喜内きないはそう示唆しさしていたのだ。

 すなわち、家治いえはるころすともなると、やはり毒殺どくさつしかはなく、そのためには毒見どくみやくであるぜん奉行ぶぎょう協力きょうりょく絶対ぜったい不可欠ふかけつであった。

 いま本丸ほんまるにて将軍しょうぐん家治いえはるつかえるぜん奉行ぶぎょうは3人おり、そのうち、2人まで治済はるさだ手懐てなずけていた。

 山木やまき次郎八じろはち勝明かつあきら高尾たかお惣十郎そうじゅうろう信福のぶとみの2人であった。

 山木やまき次郎八じろはち養父ようふ山木やまき織部正おりべのかみ伴明ともあきらが明和5(1768)年7月から同8(1771)年10月までのたった3年間だけだが一橋ひとつばし家老かろうつとめ、治済はるさだはその3年間でいまはやし忠篤ただあつように、山木やまき伴明ともあきら手懐てなずけ、「一橋ひとつばしシンパ」に仕立したげたのだが、そのさい養嗣子ようししであった山木やまき次郎八じろはちをも、「一橋ひとつばしシンパ」に仕立したげたのであった。

 治済はるさだはその山木やまき次郎八じろはちを7年前ねんまえの安永5(1776)年8月にぜん奉行ぶぎょうとして送込おくりこむことに成功せいこうした。

 おなじことは高尾たかお惣十郎そうじゅうろうにもまる。

 いや高尾たかお惣十郎そうじゅうろう場合ばあい山木やまき次郎八じろはちよりもはるかに治済はるさだとの所縁ゆかりふかいと言えるだろう。

 なにしろ高尾たかお惣十郎そうじゅうろうじつ叔父おじである高尾たかお惣兵衛そうべえ信泰のぶやすはここ一橋ひとつばし屋敷やしきにて治済はるさだ小姓こしょうとしてつかえていたからだ。

 治済はるさだはその高尾たかお惣十郎そうじゅうろうをもやはり7年前の安永5(1776)年の、それも7月にぜん奉行ぶぎょうとして送込おくりこむことに成功せいこうしていた。

 それゆえ山木やまき次郎八じろはち高尾たかお惣十郎そうじゅうろうの2人は治済はるさだためうごいてくれる、つまりは将軍しょうぐん家治いえはる暗殺あんさつしてくれるにちがいなかった。

 問題もんだいはもう一人ひとりぜん奉行ぶぎょう上村かみむら猪十郎いじゅうろう利言としのりであった。

 上村かみむら猪十郎いじゅうろうはやはり田沼家たぬまけにてつかえる、それも城代じょうだい家老がろう倉見くらみ金太夫きんだゆうむすめめとっていたのだ。

 上村かみむら猪十郎いじゅうろうはそれゆえ宇田川うたがわ平五郎へいごろうおな立場たちばであったが、しかしちがてんもあった。

 それは宇田川うたがわ平五郎へいごろう岳父がくふ村上むらかみ半左衛門はんざえもんとはことなり、上村かみむら猪十郎いじゅうろう岳父がくふである倉見くらみ金太夫きんだゆう意次おきつぐまさに、

股肱ここうしん…」

 忠臣ちゅうしんであった。

 そのため治済はるさだもこの倉見くらみ金太夫きんだゆうには「手出てだし」が出来できなかった。

 もっとも、それ以前いぜん倉見くらみ金太夫きんだゆう国許くにもとである相良さがらにて城代じょうだい家老がろうとして主君しゅくん意次おきつぐ成代なりかわり政務せいむたっていたので、物理的ぶつりてきにも「手出てだし」はむずかしかった。

 いや、これで倉見くらみ金太夫きんだゆう江戸えどづめであったとしても、やはり「手出てだし」はむずかしかったであろう。

 なにしろ倉見くらみ金太夫きんだゆう城代じょうだい家老がろう着任ちゃくにんしたのは相良城さがらじょう完成かんせいする直前ちょくぜんしろがほぼ完成かんせいしつつあった安永8(1779)年のことであり、それまでは倉見くらみ金太夫きんだゆう江戸えどづめ用人ようにんであったのだ。

 つまりは安永8(1779)年までは倉見くらみ金太夫きんだゆうはこの江戸えどにいたわけで、そうであれば治済はるさだが「手出てだし」をする…、倉見くらみ金太夫きんだゆう手懐てなずける機会チャンスはあった。

 にもかかわらず、治済はるさだ倉見くらみ金太夫きんだゆうには「手出てだし」をしなかったのは倉見くらみ金太夫きんだゆう意次おきつぐの「股肱ここうしん」であったからだ。

 そのよう倉見くらみ金太夫きんだゆう下手へたに「手出てだし」などしようものなら、主君しゅくん意次おきつぐに「通報つうほう」されるおそれがあり、とんだ藪蛇へぶへびともなりかねない。

 それゆえ治済はるさだ倉見くらみ金太夫きんだゆうには「手出てだし」をしなかったのであり、結果けっか倉見くらみ金太夫きんだゆう婿むこである上村かみむら猪十郎いじゅうろうをも手懐てなずけるにはいたらなかった。

 それどころか上村かみむら猪十郎いじゅうろうは、

純然じゅんぜんたる…」

 田沼たぬまシンパと言え、そのよう上村かみむら猪十郎いじゅうろうには家治暗殺いえはるあんさつ協力きょうりょくさせることなど不可能ふかのう断言だんげん出来できた。

 もっとも、3人いるぜん奉行ぶぎょうのうち2人まで手懐てなずけることに成功せいこうしたのだから、家治暗殺いえはるあんさつ態勢たいせいととのったかにえる。

 だが治済はるさだとしては完璧かんぺき目指めざしたいところであった。

 つまりはすべてのぜん奉行ぶぎょう治済はるさだいきのかかったものめたいところであった。なにしろことことである。

 そのためには上村かみむら猪十郎いじゅうろうよりだれべつの、それも治済はるさだいきのかかったもの交替こうたいさせる必要ひつようがあり、そのものこそが、治済はるさだの「かくれシンパ」とも言うべき宇田川うたがわ平五郎へいごろうであったのだ。

 岩本いわもと喜内きない意見いけん治済はるさだはいったんはうなずいたものの、しかしぐに、「いや…」とおもなおした。

いまはまだはやいぞ…、家治いえはるめとかるやりりをした直後ちょくごぜん奉行ぶぎょうを…、それも上村かみむら猪十郎いじゅうろうより宇田川うたがわ平五郎へいごろうへとえるようなことをすれば、宇田川うたがわ平五郎へいごろうじつはこの治済はるさだいきのかかったものではあるまいかと、家治いえはるめに気取けどられるおそれがあるぞ…」

 それこそが治済はるさだおもなおした理由りゆうであった。

「されば…、宇田川うたがわ平五郎へいごろうぜん奉行ぶぎょうへと送込おくりこむは来春らいはる以降いこうでもかろう…」

来春らいはる以降いこう…、でござりまするか?」

 岩本いわもと喜内きないがそう問返といかえしたので、治済はるさだうなずいてせると、

来春らいはるまでには山城おきともめのいのちうばってせるによって、さすれば家治いえはるめもおおいに落胆らくたんし、完全かんぜん判断力はんだんりょく喪失そうしつするであろうぞ…」

 喜内きないにそうげた。

 するとこれには久田ひさだ縫殿助ぬいのすけが「成程なるほど…」とおうじたかとおもうと、

家治公いえはるこう判断力はんだんりょくうしなえば、ぜん奉行ぶぎょうを…、そのなか一人ひとり上村かみむら猪十郎いじゅうろうより宇田川うたがわ平五郎へいごろうへとえさせましたところで、宇田川うたがわ平五郎へいごろうじつ上様うえさま手先てさきなどとは家治公いえはるこう気取けどられるおそれもないと、かる次第しだいにて?」

 治済はるさだにそうたしかめるようたずね、治済はるさだ久田ひさだ縫殿助ぬいのすけのその「物分ものわかりのさ」におおいに満足まんぞくしつつうなずいた。
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