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プロデューサー、一橋治済。

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 佐野さの善左衛門ぜんざえもん幸田こうだ源之助げんのすけとの「歓談かんだん」をえるや、とも従者じゅうしゃしたがえて雉子橋きじばしもん脇門わきもんよりはし、そしてはしわたって門外もんそとへとた。

 刻限こくげんすでくれの六つ半(午後7時頃)をとうにぎており、将軍しょうぐん家治いえはる鷹狩たかがりからかえってたとあって、当然とうぜん雉子橋きじばしもんかたじられていた。

 だが佐野さの善左衛門ぜんざえもんは、それに幸田こうだ源之助げんのすけも、

将軍しょうぐん家治いえはる鷹狩たかがりへの扈従こしょう…」

 つまりは公用こうようにて御城えどじょうへの帰着きちゃくおそくなったわけで、それも御城えどじょう諸門しょもんじられる暮六つ(午後6時頃)をぎての鷹狩たかがりよりの帰着きちゃくとなり、雉子橋きじばしもん門番もんばんもそれは承知しょうちしていたので、佐野さの善左衛門ぜんざえもん幸田こうだ源之助げんのすけとも従者じゅうしゃしたがえて脇門わきもんよりもんけることがゆるされたのであった。

 佐野さの善左衛門ぜんざえもん厩谷うまやだに屋敷やしきかまえているので雉子橋きじばしもん所謂いわゆる

最寄もよりの…」

 えきならぬもんであるのだが、幸田こうだ源之助げんのすけにとってもまた、

しくも…」

 この雉子橋きじばしもん最寄もよりもんであったのだ。

 すなわち、裏四番うらよんばんちょう屋敷やしきかまえていたのだ。

 裏四番うらよんばんちょうと言えば佐野さの善左衛門ぜんざえもん屋敷やしきかまえる厩谷うまやだにともちかく、それゆえ佐野さの善左衛門ぜんざえもん益々ますます、この幸田こうだ源之助げんのすけというおとこ親近感しんきんかんおぼえたのであった。

 佐野さの善左衛門ぜんざえもん幸田こうだ源之助げんのすけと、

近々きんきん…」

 再会さいかいやくして、田安たやす門外もんそと九段坂くだんざかにてわかれた。

 雉子橋きじばし門外もんそとすすむと、田安たやす門外もんそと九段坂くだんざか突当つきあたり、そこからさら真直まっすぐにすすむと厩谷うまやだにへとつうずるみち突当つきあたる。

 それゆえ佐野さの善左衛門ぜんざえもん主従しゅじゅう幸田こうだ源之助げんのすけ主従しゅじゅう見送みおくられる格好かっこう真直まっすぐにすすんだ。

 一方いっぽう幸田こうだ源之助げんのすけ屋敷やしきかまえる裏四番うらよんばんちょうへは九段坂くだんざか右折うせつしなければならず、それゆえ幸田こうだ源之助げんのすけ主従しゅじゅう佐野さの善左衛門ぜんざえもん主従しゅじゅう見送みおく格好かっこうとなったのだ。

 その幸田こうだ源之助げんのすけ佐野さの善左衛門ぜんざえもん背中せなかけて、それも、

意気揚々いきようよう…」

 ある佐野さの善左衛門ぜんざえもん後姿うしろすがた侮蔑ぶべつ眼差まなざしをけていたとは、佐野さの善左衛門ぜんざえもんもよもやおもいもせぬことであった。

 さて、幸田こうだ源之助げんのすけ屋敷やしき辿たどくと、そこにはじつ叔父おじ―、ちちにして田安たやすにて用人格ようにんかくこおり奉行ぶぎょうつとめる幸田こうだ友之助とものすけ実弟じってい幸田こうだ孫十郎まごじゅうろう親房ちかふさおいである源之助げんのすけかえりをっていた。

 幸田こうだ孫十郎まごじゅうろう幸田こうだ源之助げんのすけにとってはただの叔父おじあらず、一橋ひとつばし家臣かしん、それも馬役うまやくとして主君しゅくん一橋ひとつばし治済はるさだ側近そばちかくにつかえるであったのだ。

 それゆえ治済はるさだ松平まつだいら定信さだのぶ成済なりすまして、田安たやす下屋敷しもやしきにて佐野さの善左衛門ぜんざえもんう―、治済はるさだその計画けいかく、もとい「危険きけん遊戯ゆうぎ」に幸田こうだ源之助げんのすけ叔父おじである幸田こうだ孫十郎まごじゅうろうにもおおいに「活躍かつやく」してもらっていた。

 すなわち、その「危険きけん遊戯ゆうぎ」にはかせない「協力者きょうりょくしゃ」の一人ひとり用人格ようにんかくこおり奉行ぶぎょう幸田こうだ友之助とものすけへの「手入ていれ」をこの幸田こうだ孫十郎まごじゅうろうにもになってもらっていたのだ。

 田安たやすの、それも女主おんなあるじである寶蓮院ほうれんいんとその周辺しゅうへんものに、

気付きづかれることなく…」

 田安たやす下屋敷しもやしき勝手かって使つかうには番頭ばんがしら用人ようにん協力きょうりょくかせず、そこで一橋ひとつばし治済はるさだ彼等かれら田安たやす番頭ばんがしら用人ようにんへの「手入ていれ」にかんして基本的きほんてきには側近そっきんちゅう側近そっきんである久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ岩本いわもと喜内きないになってもらっていたものの、さらに、

ねんにはねんを…」

 幸田こうだ友之助とものすけへの「手入ていれ」にはその実弟じっていにして、治済はるさだ股肱ここうしんとも言うべき幸田こうだ孫十郎まごじゅうろうにもになってもらっていたのだ。

 その幸田こうだ孫十郎まごじゅうろう今日きょう休暇きゅうかり、実家じっかであるここ裏四番うらよんばんちょうにある屋敷やしき帰省きせいしていたのはほかでもない、今日きょう鷹狩たかがりにおける「首尾しゅび」をおいである幸田こうだ源之助げんのすけより聞出ききだためであった。

 幸田こうだ源之助げんのすけ帰宅きたく早々そうそう奥座敷おくざしきにて叔父おじ幸田こうだ孫十郎まごじゅうろう二人ふたりきりになると、今日きょう鷹狩たかがりにおける「あらまし」をかたってかせた。

 いや、それだけではない、佐野さの善左衛門ぜんざえもんへの「手入ていれ」の「あらまし」についてもかたってかせ、すると幸田こうだ孫十郎まごじゅうろうはその「上首尾じょうしゅび」におおいに満足まんぞくした様子ようすであった。

「されば…、上手うまこと成就じょうじゅせしあかつきにはまこと、この源之助げんのすけめを家斉公いえなりこう側近そばちかくにつかえし小納戸こなんどに、お取立とりたくださりますので?」

 幸田こうだ源之助げんのすけ叔父おじ孫十郎まごじゅうろうにすっかりかたえるや、期待きたいめてたしかめるようにそうたずね、すると叔父おじ孫十郎まごじゅうろう深々ふかぶかうなずいてみせた。

 よく12月4日、幸田こうだ孫十郎まごじゅうろう一橋ひとつばし屋敷やしきへともどると、おのれ縄張テリトリーとも言うべき厩舎きゅうしゃにて主君しゅくん一橋ひとつばし治済はるさだい、そこで昨日きのうおい幸田こうだ源之助げんのすけよりいたはなしをそのままつたえた。

 すると治済はるさだもまた、幸田こうだ孫十郎まごじゅうろう同様どうよういや、それ以上いじょうにその「上首尾じょうしゅび」ぶりをよろこんだ。

 治済はるさだはそれから大奥おおおくへとかい、久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ岩本いわもと喜内きない、それにもう一人ひとり側近そっきんちゅう側近そっきんである用人ようにん杉山すぎやま嘉兵衛かへえ紅一点こういってん侍女じじょひなをもまじえてさらに「謀議ぼうぎ」をらした。

 治済はるさだ彼等かれらにもいましがた幸田こうだ孫十郎まごじゅうろうかいしてつたえられた昨日きのう鷹狩たかがりの「首尾しゅび」、それも「上首尾じょうしゅび」ぶりをかたってかせた。

 いや、それならば幸田こうだ孫十郎まごじゅうろう大奥おおおくへと呼寄よびよせて治済はるさだやそれに杉山すぎやま嘉兵衛かへえらのまえでその「上首尾じょうしゅび」ぶりをかたってもらったほう合理的ごうりてきと言えたが、しかし馬役うまやくぎぬ幸田こうだ孫十郎まごじゅうろうまで大奥おおおくへとまねけば流石さすがに、

なにかとうるさい…」

 家老かろう水谷勝富みずのやかつとみあやしまれるというものであり、そこで二度手間にどでまではあるものの、まず治済はるさだ厩舎きゅうしゃにて幸田こうだ孫十郎まごじゅうろうよりはなしを―、昨日きのう鷹狩たかがりの「首尾しゅび」についていて、いで治済はるさだはそれをそのまま大奥おおおくへとまねいた―、大奥おおおくへとまねいても然程さほど水谷勝富みずのやかつとみからはあやしまれぬ杉山すぎやま嘉兵衛かへえらにかたってかせたのであった。

「そこまで上手うまことはこもうしましたのなら、いっそのこと幸田こうだ源之助げんのすけ殿どのより定信様さだのぶさま御名おなさせましてもよろしかったのではござりますまいか?」

 まずは侍女じじょひながそう口火くちびった。

定信さだのぶもまた、田安たやす出身しゅっしんものとして、田安たやす我物わがものにせんとほっする田沼たぬま意知おきともには憂慮ゆうりょしており、このさい元兇げんきょうとも言うべき田沼たぬま意知おきとも取除とりのぞ必要ひつようがある…」

 つまりは昨日きのう段階だんかい幸田こうだ源之助げんのすけ佐野さの善左衛門ぜんざえもんたいしてそうかたらせて、意知暗殺おきともあんさつけしかけさせてもかったのではないかと、ひなはそう示唆しさしたのであった。

 これにはさしもの治済はるさだ苦笑くしょうさせられた。

相変あいかわらずおそろしい女子おなごよのう、ひなは…」

 治済はるさだはまずは苦笑くしょうじりにそうおうずると、

昨日きのう段階だんかいでそこまで先走さきばしっては流石さすが佐野さの善左衛門ぜんざえもんめを尻込しりごみさせるであろうし、なにより、幸田こうだ源之助げんのすけ真意しんいを…、おのれ山城暗殺おきともあんさつけしかけんとほっせしその真意しんいうたがうであろうぞ…」

 さとよう口調くちょうひなにそうげた。

たしかに…、いまは…、昨日きのう段階だんかいでは佐野さの善左衛門ぜんざえもんめには田沼たぬま山城殿やましろどのへの殺意さつい…、とまではかずとも、悪感情あくかんじょう植付うえつけられれば充分じゅうぶんでござりましょう…」

 用人ようにん杉山すぎやま嘉兵衛かへえがそうくちはさみ、治済はるさだうなずかせ、そしてひな納得なっとくさせた。

「それにしても…、大田おおた善大夫ぜんだゆうらはまこと仕事しごとをしてくれたものよ…」

 治済はるさだはしみじみとそうくちにすると、「クックッ」とわらってみせた。

 昨日きのう鷹狩たかがりにおける騒動そうどう―、木下川きねがわむら淨光寺じょうこうじにおける昼餉ひるげ騒動そうどうだが、将軍しょうぐん家治いえはるはこの騒動そうどうについて、

「これもまた、一橋ひとつばし治済はるさだめが仕業しわざか…」

 一瞬いっしゅん、そうおもった。

 しかし家治いえはるぐに、

牽強付会けんきょうふかい…」

 なにもかも、治済はるさだ所為せいにするのはくないと、そうおもなおすと、「下衆げす勘繰かんぐり」であったと、そうも反省はんせいした。

 だが実際じっさいにはそれは「牽強付会けんきょうふかい」でもなくば、「下衆げす勘繰かんぐり」でもなかった。

 すなわち、

「これもまた、一橋ひとつばし治済はるさだめが仕業しわざか…」

 家治いえはるのその第一印象ファーストインプレッションこそがただしかったのだ。

 なにしろ、昨日きのうさわぎはあくまで「芝居しばい」にぎず、その「芝居しばい」の「脚本きゃくほん」から「演出えんしゅつ」にいたるまで、ようは「プロデューサー」の役目やくめになったのがほかならぬ一橋ひとつばし治済はるさだであるからだ。

 騒動そうどう元兇げんきょうとも言うべき小姓こしょう組番ぐみばん大田おおた善大夫ぜんだゆうだが、じつひそかに―、家治いえはるあずからぬところで一橋ひとつばし治済はるさだつうじていたのだ。

 それと言うのも大田おおた善大夫ぜんだゆうには安次郎やすじろう好行たかゆきなる嫡子ちゃくしがおり、この安次郎やすじろう妻女さいじょはやはり一橋ひとつばし治済はるさだつうじている、と言うよりは治済はるさだの「共犯者きょうはんしゃ」とも言うべき西之丸にしのまる大奥おおおく老女ろうじょ初崎はつざき養女ようじょを―、初崎はつざき姪孫てっそんめとっており、しかもそのあいだ初五郎はつごろう好長たかながなる善大夫ぜんだゆうにとっては嫡孫ちゃくそんまでもうけていたのだ。

 それゆえ大田おおた善大夫ぜんだゆう初崎はつざきかいして一橋ひとつばし治済はるさだつうずるようになったのだ。

 その大田おおた善大夫ぜんだゆうが「騒動そうどう」をこしたのは、すなわち、

「四羽目のがん佐野さの善左衛門ぜんざえもん仕留しとめたもの…」

 そうさわてたのも勿論もちろん一橋ひとつばし治済はるさだけしかけられてのものである。

 その大田おおた善大夫ぜんだゆう味方みかたをしたのが小納戸こなんどにして次期じき将軍しょうぐん家斉いえなり叔父おじである岩本いわもと正五郎しょうごろうであり、これでわっていれば、家治いえはるあるいは、

「やはり…、この騒動そうどう一橋ひとつばし治済はるさだ仕業しわざによるものか…」

 ふたたび、そのような「牽強付会けんきょうふかい」、「下衆げす勘繰かんぐり」を復活ふっかつさせていたやもれぬ。

 だがここで、やはり一見いっけん治済はるさだとは無関係むかんけいおぼしきおなじく小姓こしょう組番ぐみばん戸田とだ次郎左衛門じろうざえもん反対はんたいこえげ、それに小納戸こなんど黒川くろかわ内匠たくみくみしたことから、家治いえはる困惑こんわくさせた。

「四羽目のがん佐野さの善左衛門ぜんざえもん仕留しとめたものではなく、目附めつけ池田修理いけだしゅり当初とうしょ見立みたどおり、さわ吉次郎きちじろう仕留しとめしもの…」

 戸田とだ次郎左衛門じろうざえもんがそう反論はんろんすれば、それに岩本いわもと正利まさとし三女さんじょ―、岩本いわもと正五郎しょうごろううえあねめとってもいる黒川くろかわ内匠たくみ同調どうちょうしたのだ。

 黒川くろかわ内匠たくみ岩本いわもと正五郎しょうごろうとは義理ぎり兄弟きょうだいたり、にもかかわらず、今回こんかいの「騒動そうどう」においては二手ふたてかれてあらそ格好かっこうとなり、それゆえ家治いえはる困惑こんわくさせたのだ。

 何故なぜなら、黒川くろかわ内匠たくみ岩本いわもと正五郎しょうごろう義兄弟ぎきょうだいあらそうということは一橋ひとつばし派内はないあらそいにほかならず、家治いえはるもそれゆえに、

今回こんかいさわぎは一橋ひとつばし治済はるさだとは無関係むかんけい…」

 あらためてそのおもいをつよくしたわけだが、しかし、それこそが治済はるさだの「ねらい」であった。

 じつ大田おおた善大夫ぜんだゆう岩本いわもと正五郎しょうごろうわば「連合軍れんごうぐん」に最初さいしょ反論はんろんの「狼煙のろし」をげた戸田とだ次郎左衛門じろうざえもんもまた、一橋ひとつばし治済はるさだつうじていたのだ。

 戸田とだ次郎左衛門じろうざえもんかつ西之丸にしのまる新番しんばんであった本多ほんだ半三郎はんざぶろう敏之としゆき三男さんなんであり、それがかつ西之丸にしのまる小姓こしょう組番ぐみばんであった戸田とだ藤四郎とうしろう光直みつなお養嗣子ようししむかえられ、次郎左衛門じろうざえもん養父ようふ藤四郎とうしろうより戸田家とだけ家督かとくいでいまいたるのだが、この戸田とだ次郎左衛門じろうざえもんうえ実姉じっし―、本多ほんだ半三郎はんざぶろう一人娘ひとりむすめこそがなにかくそう、いまここにいる―、一橋ひとつばし治済はるさだ側近そっきんちゅう側近そっきん久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ長考ながとし実母じつぼであるのだ。

 戸田とだ次郎左衛門じろうざえもんうえ実姉じっしはやはりここ一橋ひとつばしにて物頭ものがしらつとめていた久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ宣如のぶゆきとつぎ、そのあいだ久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ長考ながとしをもうけたのだ。

 それゆえ戸田とだ次郎左衛門じろうざえもん久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ長考ながとしとは叔父おじおい関係かんけいにあり、

一橋ひとつばし治済はるさだとの所縁ゆかり…」

 その観点かんてんからすれば、戸田とだ次郎左衛門じろうざえもん大田おおた善大夫ぜんだゆうよりも、

はるかに…」

 一橋ひとつばし治済はるさだとの所縁ゆかりふかかった。

 その戸田とだ次郎左衛門じろうざえもん一橋ひとつばし治済はるさだためうごくのは当然とうぜんであり、戸田とだ次郎左衛門じろうざえもん大田おおた善大夫ぜんだゆう岩本いわもと正五郎しょうごろうの「連合軍れんごうぐん」に反論はんろんの「狼煙のろし」をげたのも勿論もちろん一橋ひとつばし治済はるさだけしかけられてのことであった。

 大田おおた善大夫ぜんだゆう岩本いわもと正五郎しょうごろうの「連合軍れんごうぐん」にたいしてまず、戸田とだ次郎左衛門じろうざえもん反論はんろんの「狼煙のろし」をげさせ、その直後ちょくご岩本いわもと正五郎しょうごろうとは義兄弟ぎきょうだい黒川くろかわ内匠たくみ戸田とだ次郎左衛門じろうざえもんくみさせることで、家治いえはる完全かんぜん困惑こんわくさせ、ひいては、

今回こんかいさわぎは一橋ひとつばし治済はるさだとは無関係むかんけい…」

 家治いえはるをそう誤導ミスリードさせるのがねらいであった。

 治済はるさだとしてはこの騒動そうどうをきっかけとして、佐野さの善左衛門ぜんざえもん意知おきとも討果うちはたさせるつもりでおり、そのよう治済はるさだにとって、

「これもまた、一橋ひとつばし治済はるさだめが仕業しわざか…」

 家治いえはるにそう気付きづかれるのは如何いかにもまずい。

 そこで治済はるさだは「一橋ひとつばし」である黒川くろかわ内匠たくみ岩本いわもと正五郎しょうごろう義兄弟ぎきょうだいをも、えてあらそわせることで、

今回こんかいさわぎは一橋ひとつばし治済はるさだとは無関係むかんけい…」

 家治いえはるをそう誤導ミスリードさせたのだ。

 家治いえはるはその意味いみ治済はるさだ仕掛しかけた「わな」、もとい「芝居しばい」にまんまとめられたと言えよう。

いや愚息ぐそくめも上様うえさまためはたらきとうぞんじまする…」

 杉山すぎやま嘉兵衛かへえおなじく用人ようにん久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ対抗たいこうすべく、治済はるさだにそう主張アピールするのをわすれなかった。

 用人ようにんとしての経歴キャリアで言えば杉山すぎやま嘉兵衛かへえほう久田ひさだ縫殿助ぬいのすけよりもはるかにながい。だが、

一橋ひとつばし治済はるさだ寵愛ちょうあい…」

 それは久田ひさだ縫殿助ぬいのすけほう杉山すぎやま嘉兵衛かへえよりもまさっており、そのことは杉山すぎやま嘉兵衛かへえ自身じしん自覚じかくするところであった。

 なにしろ杉山すぎやま嘉兵衛かへえはその一代いちだい一橋ひとつばしつかえているのにたいして、久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ場合ばあい―、縫殿助ぬいのすけ長考ながとし場合ばあいちち縫殿助ぬいのすけ宣如のぶゆきつづいて、つまりは、

親子二代おやこにだい…」

 一橋ひとつばしつかえていたのだ。

 それゆえ、その一代いちだい一橋ひとつばしつかえる杉山すぎやま嘉兵衛かへえよりも、ちち縫殿助ぬいのすけ宣如のぶゆきつづいて一橋ひとつばしつかえる久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ長考ながとしほう治済はるさだ寵愛ちょうあいあついのも当然とうぜんであった。

 いや杉山すぎやま嘉兵衛かへえはだからこそ、久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ長考ながとしに、

けじと…」

 治済はるさだおのれ存在そんざい主張アピールすることに余念よねんがなかった。

 治済はるさだもそのよう杉山すぎやま嘉兵衛かへえむねのうちはかっており、杉山すぎやま嘉兵衛かへえのその「必死ひっしさ」には内心ないしん苦笑くしょうきんなかったが、しかし、おのれ寵愛ちょうあいめぐって杉山すぎやま嘉兵衛かへえ久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ長考ながとしたがいにきそうのは治済はるさだにとっては理想的りそうてきとも言えた。

 それゆえ治済はるさだ久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ長考ながとしにも緊張感きんちょうかんたせる意味いみから、えて杉山すぎやま嘉兵衛かへえ存在そんざいを、いや、そのそくである杉山すぎやま又四郎またしろう義制よしたつ存在そんざい取上とりあげ、持上もちあげてみせた。

かっておるわ…、そなたがそく義制よしたつにとっては最後さいごとりでであるによって、いまはまだ温存おんぞんしておきたいのよ…」

 治済はるさだえて杉山すぎやま又四郎またしろういみなくちにしてそう持上もちあげた。

 杉山すぎやま嘉兵衛かへえ大番家筋おおばんいえすじ出身しゅっしん旗本はたもとであり、本来ほんらいならば大番組おおばんぐみか、あるいは新番組しんばんぐみ番入ばんいり、就職しゅうしょくたすのが仕来しきたりであり、実際じっさい杉山すぎやま嘉兵衛かへえ一橋ひとつばしにて、一橋ひとつばし始祖しそである宗尹むねただ近習きんじゅうばんとしてつかえるまでは大番おおばんであった。

 それは嫡子ちゃくしである杉山すぎやま又四郎またしろう同様どうようであり、しかしそのちち杉山すぎやま嘉兵衛かへえ一橋ひとつばしにて順調じゅんちょう昇進しょうしんかさね、そしていまから14年前ねんまえの明和6(1769)年につい従六位じゅろくい布衣ほいやくである用人ようにんへと昇進しょうしんげるや、そのである杉山すぎやま又四郎またしろうも、

ちちかげにより…」

 大番おおばんよりりょうばん、それも小姓こしょう組番ぐみばんへと番替ばんがえ、栄転えいてんたしたのであった。

 杉山すぎやま又四郎またしろう小姓こしょう組番ぐみばんなかでも2番組ばんぐみぞくしており、それゆえ昨日きのう鷹狩たかがりには扈従こしょうしていなかったのだ。

 昨日きのう鷹狩たかがりには小姓こしょう組番ぐみばんよりは1番組ばんぐみと4番組ばんぐみ扈従こしょうしたために、それゆえ、2番組ばんぐみぞくする杉山すぎやま又四郎またしろう昨日きのう鷹狩たかがりにおいては「活躍かつやく」する余地よちがなかったのだ。

いや杉山すぎやま義制よしたつには最後さいご大一番おおいちばんにて活躍かつやくしてもらわねばならぬゆえ、そなたも義制よしたつにも左様さよう心得こころえておくように…」

 治済はるさだ杉山すぎやま嘉兵衛かへえにそうささやくことで、杉山すぎやま嘉兵衛かへえ狂喜きょうき乱舞らんぶさせた。
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