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天明3年12月3日、木下川の邊(ほとり)の鷹狩り ~新番士・佐野善左衛門政言の章~

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 12月3日、佐野さの善左衛門ぜんざえもん政言まさこといまもってしんじられなかった。おのれが「供弓ともゆみ」にえらばれたことが、であった。

 通常つうじょう、「供弓ともゆみ」はベテランがえらばれるのが仕来しきたりであった。

 この場合ばあいのベテランとは、いままでにも「供弓ともゆみ」として、度々たびたび獲物えもの仕留しとめては将軍しょうぐんより時服じふくたまわってきた「ベテラン」という意味いみであり、そういうものが「供弓ともゆみ」にえらばれるのだ。そのほうが、

此度こたび鷹狩たかがりにおいても…」

 確実かくじつ獲物えもの仕留しとめてくれるに相違そういないと、番頭ばんがしら組頭くみがしらがそうかんがえるからで、このあたりの感覚かんかく現代げんだい感覚かんかくがそのまま通用つうようする。

 さてそこで佐野さの善左衛門ぜんざえもんだが、去年きょねんの天明2(1782)年2月4日に吹上ふきあげにわにておこなわれた大的おおまと上覧じょうらん―、将軍しょうぐんらんになる射的しゃてき射手しゃしゅえらばれた程度ていどであり、これまで鷹狩たかがりのにおいて弓矢ゆみや獲物えもの仕留しとめた実績じっせきはない。

 いや、それどころかそもそも、「供弓ともゆみ」にえらばれたことすら一度いちどとしてない。

 佐野さの善左衛門ぜんざえもんいまから5年前ねんまえの安永7(1778)年6月5日からいま―、天明3(1783)年12月3日の今日きょうまでのあいだ幾度いくどとなく―、今年ことしだけでも4回は将軍しょうぐん鷹狩たかがりにしたがったが、それはあくまで新番しんばんとして、つまりはその本来ほんらい職分しょくぶんである将軍しょうぐんの「SP」として鷹狩たかがりにしたがったにぎず、「供弓ともゆみ」として鷹狩たかがりに参加さんかしたわけではなく、それはそれ以前いぜん―、大番おおばんより新番しんばんへと異動いどうたした安永7(1778)年6月5日から一昨年おととしの天明2(1782)年中ねんちゅうにしても同様どうようであった。

 無論むろん大番おおばんであったころ鷹狩たかがりのにおいて「供弓ともゆみ」にえらばれたことはない。

 にもかかわらず、今日きょう、12月3日の木下川きねがわほとりにおける鷹狩たかがりにおいて、言葉ことばわるいが、

なん実績じっせきもない…」

 佐野さの善左衛門ぜんざえもんが「供弓ともゆみ」にえらばれたのはひとえ相役あいやく、それも「同期どうきさくら」の矢部やべ主膳しゅぜんかげであった。

 矢部やべ主膳しゅぜん佐野さの善左衛門ぜんざえもんおなじく安永7(1778)年6月5日に3番組ばんぐみ入番にゅうばんたした。

 ただし、矢部やべ主膳しゅぜん場合ばあい佐野さの善左衛門ぜんざえもんとはことなり、大番おおばんからの異動いどう横滑よこすべりではなく、小十人こじゅうにん組番ぐみばんよりの異動いどう昇格しょうかくであった。

 旗本はたもと家柄いえがらおもに、両番りょうばん家筋いえすじ大番家筋おおばんいえすじ、そして小十人こじゅうにん家筋いえすじ大別たいべつ出来できる。

 そのうち頂点ちょうてんつのは番入ばんいり就職しゅうしょくするさいには小姓こしょう組番ぐみばんしくは書院番しょいんばん、この両番りょうばんのどちらかに番入ばんいりたすことが出来でき両番りょうばん家筋いえすじであり、それにぐのが大番おおばんしくは新番しんばん番入ばんいり就職しゅうしょくたすことが出来でき大番おおばん家筋いえすじであり、そして小十人こじゅうにん家筋いえすじ武官ぶかんにおいては小十人こじゅうにん組番ぐみばんにしか番入ばんいり就職しゅうしょくたすことが出来できない、最下層さいかそう家柄いえがらであった。

 小十人こじゅうにん組番ぐみばん幕府ばくふ番方ばんかた所謂いわゆる、「武官ぶかん五番方ごばんかた」においても最下層さいかそうであり、矢部やべ主膳しゅぜんよう小十人こじゅうにん家筋いえすじ家柄いえがら旗本はたもとめられていた。

 それゆえ矢部やべ主膳しゅぜん当初とうしょは―、安永7(1778)年6月5日までは小十人こじゅうにん組番ぐみばん番士ばんしであったのだが、それが安永7(1778)年6月5日に新番しんばんへと異動いどうたしたものであり、矢部やべ主膳しゅぜんのその家柄いえがら、もとい小十人こじゅうにん家筋いえすじであることをかんがえればこれは昇格しょうかくと言えた。

 無論むろん小十人こじゅうにん組番ぐみばんより新番しんばんへの異動いどう昇格しょうかく前例ぜんれいのないことではない。

 だが、そうあることでもなく、それゆえ矢部やべ主膳しゅぜんよう小十人こじゅうにん家筋いえすじもの小十人こじゅうにん組番ぐみばんより新番しんばんへと、あるいは大番おおばんへと異動いどう昇格しょうかくたしたならば、大抵たいてい場合ばあい

大番家筋おおばんいえすじ皆様みなさまきらわれぬように…」

 そう大人おとなしくしているケースほとんどであり、大番家筋おおばんいえすじ旗本はたもともそうとかって、小十人こじゅうにん家筋いえすじ出身しゅっしん旗本はたもとわば、

異分子いぶんし…」

 としていじめるケースがこれまた散見さんけんされ、それは先輩せんぱいだけでなく、後輩こうはいさえも大番家筋おおばんいえすじ家柄いえがら出身しゅっしんであるのをいことに、小十人こじゅうにん家筋いえすじ出身しゅっしん先輩せんぱいいじめるケース散見さんけんされた。

 だがこと、矢部やべ主膳しゅぜん場合ばあい例外れいがいであった。

 それと言うのも矢部やべ主膳しゅぜん大番家筋おおばんいえすじ出身しゅっしん先輩せんぱいたいしてさえも、

まったく…」

 と言ってほど物怖ものおじせず、いや、それどころか組頭くみがしらたいしてさえもそうであった。

 矢部やべ主膳しゅぜんまさに、

ほどらず…」

 であり、本来ほんらいならば即座そくざに「いじめ」の「対象ターゲット」にされてもおかしくはなかったが、しかし実際じっさいにはそうはならなかったのはひとえに、大奥おおおくとのえにしかげによるものであった。

 すなわち、矢部やべ主膳しゅぜん実姉じっしかつては将軍しょうぐん家治いえはる正室せいしつであった倫子ともこ老女ろうじょ年寄としよりつとめた小枝さえだであり、倫子ともこ歿後ぼつごはその愛娘まなむすめであった萬壽ますひめづき老女ろうじょ年寄としよりて、矢部やべ主膳しゅぜん小十人こじゅうにん組番ぐみばんより新番しんばんへと異動いどう昇格しょうかくたしたおりには、その当時とうじ次期じき将軍しょうぐんであった家基いえもと老女ろうじょ年寄としよりつとめていたのだ。

 矢部やべ主膳しゅぜん大番家筋おおばんいえすじ出身しゅっしんのそれも先輩せんぱいたいして、一切いっさい物怖ものおじせず、一方いっぽう大番家筋おおばんいえすじ出身しゅっしん先輩せんぱいもそれをゆるしていたのはかる事情じじょう、もとい「えにし」による。

 もっとも、安永8(1779)年2月24日に次期じき将軍しょうぐんであった家基いえもとこうじたことで、矢部やべ主膳しゅぜんの「専横ちから」も、

「これまでか…」

 そうおもわれたものである。

 なにしろ矢部やべ主膳しゅぜんの「専横ちから」の源泉げんせんたるや、次期じき将軍しょうぐん家基いえもと老女ろうじょ年寄としよりとして附属ふぞくする実姉じっし小枝さえだ存在そんざいにあり、それはひいては次期じき将軍しょうぐん家基いえもと存在そんざいにあった。

 だがその肝心かんじんかなめ家基いえもとがいなくなってしまったとあらば、家基いえもと老女ろうじょ年寄としよりとしてつかえていた小枝さえだ影響力えいきょうりょく低下ていかけられず、それはそのまま、実弟じってい矢部やべ主膳しゅぜん影響力えいきょうりょく低下ていか意味いみしていた。

 事実じじつ、それから天明元(1781)年うるう5月までの2ねん以上いじょうものあいだ矢部やべ主膳しゅぜんしばらくのあいだ

雌伏しふく…」

 よう大番家筋おおばんいえすじ出身しゅっしん先輩せんぱいから「いじめ」の洗礼せんれいけねばならなかった。

 これまで矢部やべ主膳しゅぜんさえつけられていたことへの反動はんどう鬱憤うっぷんからのものであるのはあきらかであり、萬年まんねん六三郎ろくさぶろう頼豊よりとよ比留ひる所左衛門しょざえもん正珍まさよしはその「双璧そうへき」と言え、そんな二人ふたりに「触発しょくはつ」されて、ほかものまで「いじめ」に加担かたんする始末しまつであった。

 矢部やべ主膳しゅぜんとは「同期どうきさくら」の佐野さの善左衛門ぜんざえもん自身じしんはそのような「いじめ」には加担かたんしなかったが、しかし、さりとて矢部やべ主膳しゅぜんかばようなこともなかった。

 佐野さの善左衛門ぜんざえもんもまた大番家筋おおばんいえすじ出身しゅっしん旗本はたもととしてかねがね、

小十人こじゅうにん家筋いえすじ分際ぶんざいで…」

 専横せんおうほしいままにしていた矢部やべ主膳しゅぜん存在そんざい苦々にがにがしくおもっており、それゆえ、この「事態じたい」をたかみの見物けんぶつよろしくたのしんでいたのだ。

 本来ほんらいならば番頭ばんがしらがこの「事態じたい」、もとい矢部やべ主膳しゅぜんへの「いじめ」を阻止そしすべきところであったが、当時とうじ番頭ばんがしらであった駒木根こまきね肥後守ひごのかみ政永まさなが典型的てんけいてきな「事勿ことなか主義しゅぎ」のおとこであり、

いじめの阻止そし…」

 そのような「蛮勇ばんゆう」はもとより期待きたい出来でき様筈ようはずもなかった。

 いやくみ事実上じじつじょう仕切しきっていた組頭くみがしら春田はるた長兵衛ちょうべえ久伴ひさともいたような、

秋霜烈日しゅうそうれつじつ

 そのタイプおとこであり、矢部やべ主膳しゅぜんへの「いじめ」を発見はっけん次第しだい、そのたびに、矢部やべ主膳しゅぜんかばうと同時どうじに、「いじ」をする大番家筋おおばんいえすじ先輩せんぱいきびしく叱責しっせきしたものである。

 春田はるた長兵衛ちょうべえくみ仕切しき組頭くみがしらということもあろうが、唯一ゆいいつ矢部やべ主膳しゅぜんの「専横せんおう」にくっしなかったおとこであり、一方いっぽう矢部やべ主膳しゅぜん春田はるた長兵衛ちょうべえのその「秋霜烈日しゅうそうれつじつ」ぶりをまえにしては持味もちあじとも言うべき「専横せんおう」ぶりを発揮はっきするにはいたらず、大人おとなしくしていた。

 そしてその矢部やべ主膳しゅぜんがこれまでの立場たちば一変いっぺん逆転ぎゃくてんさせ、「いじめ」をけるようになるや、春田はるた長兵衛ちょうべえ今度こんど矢部やべ主膳しゅぜんかばがわまわってみせたのだから、春田はるた長兵衛ちょうべえのその「秋霜烈日しゅうそうれつじつ」ぶりは本物ほんもの筋金入すじがねいりと言えた。

 そんなことをすれば、配下はいか大番家筋おおばんいえすじ出身しゅっしん旗本はたもとから「反撥ブーイング」をらうのはえていたからだ。

 そうであれば、ここは矢部やべ主膳しゅぜんの「自業自得じごうじとく」と、この「事態じたい」にぬフリを決込きめこむのがかしこ選択せんたくと言えた。

 あるいは組頭くみがしらみずから、「いじめ」に加担かたんするのがもっとかしこ選択せんたくと言えた。

 だが、「秋霜烈日しゅうそうれつじつ」の春田はるた長兵衛ちょうべえはそうはせず、あえて火中かちゅうくりひろってせたのだ。

「それこそが、くみ仕切しきる…、くみ風儀ふうぎただすべき組頭くみがしらたるものつとめ…」

 春田はるた長兵衛ちょうべえはそうおもさだめていたからだ。

 かくして矢部やべ主膳しゅぜん春田はるた長兵衛ちょうべえかげ随分ずいぶんすくわれたものである。

 また、安永9(1780)年6月に番頭ばんがしらがそれまでの駒木根こまきね政永まさながから松浦まつら越中守えっちゅうのかみ信桯のぶきよへと交代こうたいしたことも矢部やべ主膳しゅぜんにはさいわいであった。

 松浦まつら信桯のぶきよ春田はるた長兵衛ちょうべえほどではないにしても、それでも如何いかなる理由わけがあろうとも、「いじめ」をゆるさぬほどの「秋霜烈日しゅうそうれつじつ」さは持合もちあわせていたからだ。

 かる次第しだい矢部やべ主膳しゅぜん春田はるた長兵衛ちょうべえ存在そんざいくわえ、松浦まつら信桯のぶきよ存在そんざいにもたすけられ、安永9(1780)年6月より天明元(1781)年4月までのわずか1年にもたないあいだだけは、

まったく…」

 と言ってほどに「いじめ」の被害ひがいけずにんだ。

 そして天明元(1781)年4月に番頭ばんがしらであった松浦まつら信桯のぶきよ小普請こぶしん奉行ぶぎょうへと栄転えいてんたすや、矢部やべ主膳しゅぜんの「立場たちば」はまたもや「逆転ぎゃくてん」する。

 松浦まつら信桯のぶきよわって着任ちゃくにんした番頭ばんがしら蜷川にながわ相模守さがみのかみ親文ちかぶん一介いっかい番士ばんしぎない矢部やべ主膳しゅぜん重用ちょうよう、と言うよりは、

「やたらと…」

 チヤホヤ、持上もちあげてせたからだ。

 あとからかんがえれば蜷川にながわ親文ちかぶんはこの時点じてんで―、松浦まつら信桯のぶきよわる3番組ばんぐみ新番頭しんばんがしら着任ちゃくにんした天明元(1781)年4月時点じてんで、

家基いえもとわる次期じき将軍しょうぐん三卿さんきょう一橋ひとつばし当主とうしゅ治済はるさだ一子いっし豊千代とよちよでほぼまり…」

 その情報じょうほう大奥おおおくルートでつかんでいたものとおもわれる。

 蜷川親文にながわちかぶん妻女さいじょあわはた奉行ぶぎょうつとめた笹本ささもと靱負佐ゆきえのすけ忠省ただみ長女ちょうじょであり、その次女じじょ、つまりはあわ実妹じつまいはその当時とうじ―、天明元(1781)年4月時点じてんでは本丸大奥ほんまるおおおくにて将軍しょうぐん家治いえはる附属ふぞくする老女ろうじょ年寄としより野村のむらであったのだ。

 それゆえ蜷川親文にながわちかぶんにしてみれば野村のむら妻女さいじょあわ実妹じつまいというわけで、義妹ぎまいたり、この野村のむらつうじて蜷川親文にながわちかぶんもとにも大奥おおおく情報じょうほうはほぼ、

「リアルタイムで…」

 つたわっていたものとおもわれる。

 そして次期じき将軍しょうぐん内定ないていした一橋ひとつばし豊千代とよちよ―、のち家斉いえなり祖母そぼ、それも母方ははかた祖母そぼであるいわなんと、おのれ番頭ばんがしらとして差配さはいする3番組ばんぐみ番士ばんし矢部やべ主膳しゅぜん叔母おばたることをも、蜷川親文にながわちかぶんつかんだものとおもわれる。

 それゆえ蜷川親文にながわちかぶんは3番組ばんぐみ番頭ばんがしらとして着任ちゃくにん早々はやばや一介いっかい配下はいか番士ばんしぎない矢部やべ主膳しゅぜんをチヤホヤ、持上もちあはじめたものとえる。

 だがその当時とうじ―、家基いえもとわる次期じき将軍しょうぐん一橋ひとつばし豊千代とよちよのち家斉いえなり正式決定せいしきけっていする天明元(1781)年うるう5月のその直前ちょくぜんの4月の段階だんかいでは、

番頭ばんがしらともあろうもの一体いったい何故なにゆえに、一介いっかいヒラ番士ばんしぎぬ矢部やべ主膳如しゅぜんごときにヘイコラするのか…」

 3番組ばんぐみ大方おおかた番士ばんしみな、そうおもったものである。組頭くみがしら春田はるた長兵衛ちょうべえですらそうであった。

 唯一ゆいいつ矢部やべ主膳しゅぜんだけは「当人とうにん」ということもあり、蜷川親文にながわちかぶんの「行動こうどう」を理解りかいしていたものとえる。

 矢部やべ主膳しゅぜんはこれまでおのれを「いじめ」の被害ひがいからまもってくれていた、それこそ、

「そのていしてまで…」

 まもってくれた春田はるた長兵衛ちょうべえへの恩義おんぎなど一切忘いっさいわすれたかのように、春田はるた長兵衛ちょうべえ頭越あたまごしに、よう春田はるた長兵衛ちょうべえ無視むしして、蜷川親文にながわちかぶん親密しんみつ話込はなしこ姿すがた散見さんけんされた。

 こうなってはほか大番家筋おおばんいえすじ先輩せんぱい番士ばんしも、仮令たとえ春田はるた長兵衛ちょうべえ存在そんざいがなくとも、矢部やべ主膳しゅぜん手出てだ出来できなかった。

 番頭ばんがしら親密しんみつはな相手あいていじめるだけの気概きがい根性ガッツなど持合もちあわせてはいなかったからだ。

 いや、そもそもくだらぬ「いじめ」にきょうじるような、それもたばになって、でしかいじめをおこなえぬようやからはそもそも、その程度ていどぎぬ。

 ともあれ、天明元(1781)年うるう5月に一橋ひとつばし豊千代とよちよのち家斉いえなり家基いえもとわる次期じき将軍しょうぐん正式決定せいしきけっていしたことで、矢部やべ主膳しゅぜんの「世界観せかいかん」たるやふたたび、逆転ぎゃくてん、それも大逆転だいぎゃくてんせた。

 なにしろ今度こんどの「えにし」たるや、

次期じき将軍しょうぐん外戚がいせき…」

 という、まさにゴールド、いや、プラチナものであるからだ。

 以前いぜんの、

実姉じっし次期じき将軍しょうぐん老女ろうじょとしてつかえている…」

 そのような「えにし」とはくらべものにならぬほどのプラチナものの「えにし」であった。

 これでふたたび、矢部やべ主膳しゅぜんの「専横せんおう」が「再発さいはつ」したのは言うまでもない。

 いや一橋ひとつばし豊千代とよちよ次期じき将軍しょうぐん正式決定せいしきけっていした当初とうしょ組頭くみがしら春田はるた長兵衛ちょうべえもとより、大方おおかた先輩せんぱい番士ばんし矢部やべ主膳しゅぜんがその一橋ひとつばし豊千代とよちよ外戚がいせきであるなどとはおもいもらぬことであった。

 如何いかおなくみ番士ばんしとは言え、「家族かぞく構成こうせい」まで把握はあくしているわけではなかったからだ。

 それゆえ矢部やべ主膳しゅぜんみずから、おのれ次期じき将軍しょうぐんまった一橋ひとつばし豊千代とよちよ外戚がいせきであると吹聴アナウンスしたい欲望よくぼう必死ひっしころし、わりに番頭ばんがしら蜷川親文にながわちかぶんから吹聴アナウンスしてもらうことにした。

 みずからそのようなことを吹聴アナウンスしたところでだれしんじないからだ。いや、それどころか、

ついでもれたか…」

 そう気違きちがあつかいされるのがオチだからだ。

 それよりも新番頭しんばんがしらという重職じゅうしょくにある蜷川親文にながわちかぶんより吹聴アナウンスしてもらったほうが「効果的こうかてき」、みなしんじるにちがいない。

 あんじょう蜷川親文にながわちかぶんの「吹聴アナウンス」にたいして、組頭くみがしら春田はるた長兵衛ちょうべえをはじめとして、大方おおかた番士ばんしはまずは驚愕きょうがくいでその「吹聴アナウンス」の内容ないようしんじた。

 こうなると、矢部やべ主膳しゅぜん天下てんがふたたび、はるおとずれたというものである。

 それまで矢部やべ主膳しゅぜんいじめてきた大番家筋おおばんいえすじ出身しゅっしん先輩せんぱい今度こんどはその矢部やべ主膳しゅぜん土下座どげざせねばならぬことになったのだ。

 無論むろん矢部やべ主膳しゅぜん強要きょうようしたことではない。だが、そう仕向しむけたのは矢部やべ主膳しゅぜんほかならなかった。

いままでの、このたいする貴殿きでんらの仕打しうち、とくと豊千代とよちよこうみみに…」

 次期じき将軍しょうぐんにおまえたちからけた「いじめ」を告口つげぐちしてやると、そうほのめかされれば、だれでも、ことに「いじめ」をおこなった当人とうにんにしてみれば土下座どげざしてでもゆるしをわずにはいられないだろう。

 矢部やべ主膳しゅぜんはそうほのめかすことで、これまでおのれいじめてきた大番家筋おおばんいえすじ出身しゅっしん先輩せんぱいみな、「勤務場所きんむばしょ」である新番所しんばんしょにて土下座どげざさせたのであった。

 無論むろん、これをだまって見過みすごすよう春田はるた長兵衛ちょうべえではない。

武士ぶしたるが、ましてや上様うえさままも申上もうしあげる新番しんばんたるもの斯様かような…、次期じき将軍しょうぐんとのえにしたてに、周囲しゅういを、それもおのれしいたげしもの屈服くっぷくさせるよう女女めめしい真似まねいたすでないっ!どうしてもおのれしいたげしものゆるせぬともうすのであらば、かるえにしになどにたよらずに、正々堂々せいせいどうどうたしいをいたすべきであろうがっ!」

 正々堂々せいせいどうどう、タイマンをれと、春田はるた長兵衛ちょうべえ矢部やべ主膳しゅぜん一喝いっかつ大喝だいかつした。

 それには佐野さの善左衛門ぜんざえもん大賛成だいさんせいであったが、しかし、矢部やべ主膳しゅぜんはと言うと、そのよう春田はるた長兵衛ちょうべえ一喝いっかつ大喝だいかつひる様子ようすせず、それどころか冷笑れいしょうかべたかとおもうと、

時代じだいおくれの、もの道理どうりからぬ武弁ぶべんが…」

 まずはそう春田はるた長兵衛ちょうべえ侮蔑ぶべつし、

組頭くみがしら風情ふぜいが、おそおおくも次期じき将軍しょうぐんにあらせられる豊千代とよちよこう外戚がいせきたるこのたいして、一人前いちにんまえ意見いけんするでないわっ!」

 さらにそう冷罵れいばしたうえで、矢部やべ主膳しゅぜんこししていた扇子せんす引抜ひきぬいたかとおもうと、その扇子せんすなん春田はるた長兵衛ちょうべえひたいたたいてせたのだ。

 矢部やべ主膳しゅぜんのその、尋常じんじょうならざる所業しょぎょうにはさしもの番頭ばんがしら蜷川親文にながわちかぶん啞然あぜんとさせられた。

 が、蜷川親文にながわちかぶん矢部やべ主膳しゅぜんのその暴挙ぼうきょ叱責しっせきするまでにはいたらなかった。

 蜷川親文にながわちかぶん先々代せんせんだい番頭ばんがしらであった駒木根こまきね政永同様まさながどうよういや、それにをかけた事勿ことなか主義しゅぎおとこであり、そうであれば次期将軍じきしょうぐん外戚がいせきつらなるものしかることなど、期待きたい出来でき様筈ようはずもなかった。

 一方いっぽう扇子せんすひたいたたかれた春田はるた長兵衛ちょうべえ一瞬いっしゅんおのれなにこったのか理解りかい出来できなかった。それだけ衝撃的しょうげきてき出来事できごとであったからだ。

 なにしろ武士ぶしが、それも衆人環視しゅうじんかんしもとひたい扇子せんすたたかれるなど、武士ぶしにとってこれほど屈辱くつじょくはないからだ。

 これまで、そのていしてまでおのれを「いじめ」の被害ひがいからまもってきてくれたまさ恩人おんじんとも言うべきものたいする仕打しうちではないだろう。

 ましてや、組頭くみがしらなのである。その組頭くみがしらひたいヒラ番士ばんし分際ぶんざい扇子せんすたたいてせるとは、到底とうてい将軍しょうぐんの「SP」としてつかえるもの所業しょぎょうではない。

 春田はるた長兵衛ちょうべえはそれからぐにおのれりかかった「災厄さいやく」を呑込のみこむや、

反射的はんしゃてきに…」

 かたなをかけた。この屈辱くつじょくそそぐには、屈辱くつじょくあたえた当人とうにんをそのにて討果うちはたすよりほかにないからだ。

 このままだまって見過みすごせば、いのちながらえるわりに、

臆病者おくびょうもの…」

 その評判レッテル一生いっしょう、ついてまわることになる。武士ぶしにとってそれはよりもつらいことであった。

 それよりはこのにて矢部やべ主膳しゅぜん討果うちはたし、切腹せっぷく自裁じさいたまわるのが武士ぶしみちと言え、春田はるた長兵衛ちょうべえ矢部やべ主膳しゅぜん討果うちはたそうとしたのはきわめて自然しぜんなことであった。

 だが結果けっかから言えば、春田はるた長兵衛ちょうべえ矢部やべ主膳しゅぜん討果うちはたすことはなかった。

 そのまえ佐野さの善左衛門ぜんざえもん春田はるた長兵衛ちょうべえ組伏くみふせ、かたなかせなかったからだ。

 こうしてそのおさまったが、しかし、その代償だいしょうあまりにもおおきかった。

 それまで新番組しんばんぐみ3番組ばんぐみ風儀ふうぎをその持前もちまえの「秋霜烈日しゅうそうれつじつ」ぶりでおさめていた春田はるた長兵衛ちょうべえ矢部やべ主膳しゅぜん討漏うちもらしたことで、爾来じらい半死半生はんしはんしょう、いや、武士ぶしとしては完全かんぜんんだも同然どうぜんであり、その「秋霜烈日しゅうそうれつじつ」ぶりも、

うそように…」

 ってしまい、結果けっか、3番組ばんぐみ風儀ふうぎおおいにみだれるようになった。

 元凶げんきょう無論むろん矢部やべ主膳しゅぜんであり、矢部やべ主膳しゅぜんは3番組ばんぐみなかでそれこそ、将軍しょうぐんよう振舞ふるまい、それをまた、だれ阻止そしすることが出来できず、それどころか矢部やべ主膳しゅぜんられようと、取入とりい始末しまつであった。

 春田はるた長兵衛ちょうべえはそれから1年後の天明2(1782)年6月に組頭くみがしらしょくし、その後任こうにんとして着任ちゃくにんしたのがいま組頭くみがしらである兒島こじま孫助正恒まごすけまさつねであり、この兒島こじま孫助まごすけは、

かつての…」

 秋霜烈日しゅうそうれつじつぶりを持合もちあわせていたころ春田はるた長兵衛ちょうべえとは正反対せいはんたいの、もとより秋霜烈日しゅうそうれつじつなど持合もちあわせてはいない典型的てんけいてき事勿ことなか主義しゅぎおとこであり、はじめから矢部やべ主膳しゅぜん対峙たいじする気概きがいなど放棄ほうきしており、それどころか組頭くみがしらでありながら配下はいかとなる矢部やべ主膳しゅぜん取入とりい始末しまつであった。

 このよう状況下じょうきょうかではたとえば、

鷹狩たかがりにおける供弓ともゆみ…」

 その「選考せんこう結果けっか」など、矢部やべ主膳しゅぜんいまの「ちから」をもってすれば、

「いとも容易たやすく…」

 変更へんこう出来できるというものである。

 すなわち、今日きょう12月3日の木下川きねがわほとり鷹狩たかがりにおける「供弓ともゆみ」だが、佐野さの善左衛門ぜんざえもんぞくする新番しんばん3番組ばんぐみからは、

萬年まんねん六三郎ろくさぶろう頼豊よりとよ

猪飼いかい五郎兵衛ごろべえ正胤まさたね

宮重みやしげ久右衛門きゅうえもん信志のぶさだ

河嶋かわしま八右衛門はちえもん高玄たかくろ

飯室いいむろ三郎兵衛さぶろべえ昌春まさはる

 当初とうしょ以上いじょうの5人がえらばれていた。

 選考せんこうたったのは組頭くみがしら兒島こじま孫助まごすけであり、番頭ばんがしら蜷川親文にながわちかぶんゆるしもすでていた11月晦日みそか時点じてんで、これを矢部やべ主膳しゅぜんがその「ちから」をもってして、

無理むりやり…」

 変更へんこうさせたのであった。

 いや当初とうしょ猪飼いかい五郎兵衛ごろべえの「辞退じたい」からはじまった。

手前てまえ放鷹ほうようにおける供弓ともゆみつとめるにはいささ年故としゆえ、このへん後進こうしんみちゆずたく…」

 猪飼いかい五郎兵衛ごろべえは明和6(1769)年4月に大番おおばんより新番しんばんへと異動いどう横滑よこすべりをたしたまさに、

「バリバリの…」

 大番家筋おおばんいえすじ出身しゅっしん旗本はたもとではあったが、にもかかわらず、矢部やべ主膳しゅぜんたいする「いじめ」には加担かたんしなかった稀有けう存在そんざいであった。

 その猪飼いかい五郎兵衛ごろべえ大番おおばんであったころより鷹狩たかがりのにおいて供弓ともゆみとして度々たびたび獲物えもの仕留しとめては時服じふくたまい、また、水馬すいばじゅつにもすぐれ、褒美ほうび黄金おうごんたまうこともしばしばであり、それゆえ、明和6(1769)年4月にいま新番しんばん、3番組ばんぐみ異動いどうしてきてからというもの、鷹狩たかがりのさいにはかなら供弓ともゆみえらばれていた。

 だがその猪飼いかい五郎兵衛ごろべえ今年ことし、天明3(1783)年でよわい47、まだまだはたらざかりではあるが、しかし、

野山のやま駈回かけまわって…」

 鳥獣ちょうじゅう射落いおとすほどにはわかくないのも事実じじつであった。

 そこで猪飼いかい五郎兵衛ごろべえはこのさい後進こうしんみちゆずりたいとして、おのれわりに矢部やべ主膳しゅぜん推挙すいきょしたのであった。

 これで周囲しゅういには―、3番組ばんぐみ新番しんばんには猪飼いかい五郎兵衛ごろべえの「真意しんい」がれた。

 猪飼いかい五郎兵衛ごろべえの「真意しんい」、それはすなわち、後進こうしんみちゆずりたい云々うんぬんは「口実こうじつ」にぎず、実際じっさいには、

矢部やべ主膳しゅぜん取入とりいろうとの魂胆こんたん相違そういあるまいて…」

 3番組ばんぐみ新番しんばんみなだれもがそう直感ちょっかんした。佐野さの善左衛門ぜんざえもんもその一人ひとりであった。

 おもえば猪飼いかい五郎兵衛ごろべえは「大番家筋おおばんいえすじ先輩せんぱい」でありながら矢部やべ主膳しゅぜんへの「いじめ」に加担かたんしなかった稀有けう存在そんざいであり、それゆえ、「復権ふっけん」の矢部やべ主膳しゅぜんから土下座どげざもとめられなかった、これまた稀有けう存在そんざいでもあった。

 その猪飼いかい五郎兵衛ごろべえさらに、矢部やべ主膳しゅぜんおぼえが目出度めでたくなるようにと、

鷹狩たかがりにおける供弓ともゆみ…」

 という「れの舞台ぶたい」を矢部やべ主膳しゅぜん提供ていきょうしたのだろうと、佐野さの善左衛門ぜんざえもんふくめて3番組ばんぐみ新番しんばんだれもがそうおもった。

 さて、矢部やべ主膳しゅぜん猪飼いかい五郎兵衛ごろべえの「厚意こうい」を素直すなお受取うけとったかとおもうと、

くみなかでも一番いちばん弓矢ゆみや遣手つかいて猪飼いかい殿どのさえ、このおれみちゆずってくれたのだから、萬年まんねん手前テメエ後進こうしんみちゆずれ」

 猪飼いかい五郎兵衛ごろべえとも供弓ともゆみえらばれていた「先輩せんぱい」の萬年まんねん六三郎ろくさぶろうにそうせまったのであった。

手前テメエ猪飼いかい殿どのよりも弓矢ゆみや技量ぎりょうすぐれているならはなしべつだが、実際じっさいには手前テメエ猪飼いかい殿どの足許あしもとにもおよばねぇ…、なら猪飼いかい殿どのよりも真先まっさき後進こうしんみちゆずらなきゃならねぇだろ?」

 矢部やべ主膳しゅぜんのその口汚くちぎたなののしりに萬年まんねん六三郎ろくさぶろう顔面蒼白がんめんそうはくとなった。

 なにしろ矢部やべ主膳しゅぜんが32歳であるのにたいして、萬年まんねん六三郎ろくさぶろうは63歳と、31歳もとしはなれており、それゆえ萬年まんねん六三郎ろくさぶろう矢部やべ主膳しゅぜんとは親子おやこようなものであった。

 萬年まんねん六三郎ろくさぶろうはその矢部やべ主膳しゅぜんから斯様かよう口汚くちぎたなののしられたのだから、顔面蒼白がんめんそうはくになるのも当然とうぜんであった。

 だが、矢部やべ主膳しゅぜんのその「くちかた」はかく内容ないよう自体じたいはそのとおりであった。

 たしかに矢部やべ主膳しゅぜんが言うように、いやののしったように、弓矢ゆみや技量ぎりょうというてんにおいては萬年まんねん六三郎ろくさぶろう猪飼いかい五郎兵衛ごろべえにはかなわなかった。

 成程なるほど萬年まんねん六三郎ろくさぶろうたとえば、吹上ふきあげにわおこなわれる大的おおまと上覧じょうらんなどのにおいて度々たびたびまとては時服じふくたまわってきた。

 が、これまで鷹狩たかがりのにおいてとり時服じふくたまわったことはなく、そこがまとだけでなく、とりをも時服じふくたまわることがしばしば猪飼いかい五郎兵衛ごろべえとの最大さいだいちがい、それも所謂いわゆる、「実力差じつりょくさ」というやつであった

 まと時服じふくたまわるのと、とり時服じふくたまわるのと、どちらが価値かちがあるかと言えば、それはやはりなんといっても後者こうしゃであろう。

 とりほうまとるよりもはるかに難易度なんいどたかいからだ。

 萬年まんねん六三郎ろくさぶろうまと時服じふくたまわることこそしばしばであったが、とり時服じふくたまわったことはなく、にもかかわらず、これまで鷹狩たかがりのにおいては猪飼いかい五郎兵衛ごろべえ共々ともどもつね供弓ともゆみえらばれつづけ、それはとりもなおさず、3番組ばんぐみにはとり時服じふくたまわるだけの弓矢ゆみや遣手つかいてがたったの2人しかないことに起因きいんする。

 一人ひとり勿論もちろん猪飼いかい五郎兵衛ごろべえであり、あとの一人ひとり宮重みやしげ久右衛門きゅうえもん信志のぶさだであった。

 萬年まんねん六三郎ろくさぶろうはそんな2人に弓矢ゆみや遣手つかいてであり、それゆえ、「定員ていいん」が5人である供弓ともゆみつねえらばれつづけていたのである。

 あとの2人、のこる「2わく」についてだが、河嶋かわしま八右衛門はちえもん高玄たかくろがやはりつねえらばれつづけた。

 河嶋かわしま八右衛門はちえもん矢部やべ主膳しゅぜんよりもひと年下とししたの、しかし、矢部やべ主膳しゅぜんやそれに佐野さの善左衛門ぜんざえもんとは「同期どうきさくら」であった。

 だが、矢部やべ主膳しゅぜんとはことなり、河嶋かわしま八右衛門はちえもんもまた大番家筋おおばんいえすじ出身しゅっしん旗本はたもとであり、安永7(1778)年6月5日までは大番おおばんであり、大番おおばん時代じだいまと褒美ほうびたまい、のみならず騎射きしゃをもつとめて褒美ほうびたまわったことすらある。

 騎射きしゃとりるのと同等どうとうか、あるいはそれよりも難易度なんいどたかく、猪飼いかい五郎兵衛ごろべえも、それに勿論もちろん宮重みやしげ久右衛門きゅうえもん騎射きしゃつとめて褒美ほうびたまわったことはない。

 それゆえ河嶋かわしま八右衛門はちえもんは安永7(1778)年6月5日に大番おおばんより新番しんばんへと、3番組ばんぐみ新番しんばんへと異動いどう横滑よこすべりをたすや、かる「実績じっせき」がわれて、やはり鷹狩たかがりのさいにはつね供弓ともゆみえらばれつづけ、いまいたる。

 そしてのこる「1わく」についてだが、去年きょねんの天明2(1782)年8月9日に飯室いいむろ三郎兵衛さぶろべえ昌春まさはる大番おおばんより異動いどう横滑よこすべりをたすまでは過去かこ一度いちどでもまと時服じふくたまわったことがある番士ばんし交替こうたいで、それこそ、

輪番制りんばんせい…」

 供弓ともゆみえらばれた。

 だが去年きょねん、天明2(1782)年8月9日に飯室いいむろ三郎兵衛さぶろべえ大番おおばんより異動いどう横滑よこすべりをたすや、のこり「1わく」についてもこの飯室いいむろ三郎兵衛さぶろべえが「獲得かくとく」した。

 それはやはり、飯室いいむろ三郎兵衛さぶろべえのその弓矢ゆみや技量ぎりょうわれてのものである。

 飯室いいむろ三郎兵衛さぶろべえはまだ小普請こぶしん無職ニートであったころより弓場始ゆみばはじめや、あるいは大的おおまと上覧じょうらんにおいて射手しゃしゅつとめては時服じふく黄金おうごんたまわってきた。

 河嶋かわしま八右衛門はちえもん新番しんばん異動いどう弓場始ゆみばはじめ射手しゃしゅつとめ、褒美ほうびたまわったことがあるが、飯室いいむろ三郎兵衛さぶろべえよう時服じふく黄金おうごんたまわったことはない。

 ここで言う褒美ほうびとは白銀しろがねのことであり、白銀しろがね時服じふくあるいは黄金おうごんとではどちらが価値かちがあるかと言えば、時服じふく黄金おうごんであった。

 弓場始ゆみばはじめや、あるいは大的おおまと上覧じょうらんにおいて射手しゃしゅつとめたものにはみな白銀しろがね褒美ほうびとしてくだされる。それはわば、

参加賞さんかしょう

 そのようなものであり、まった価値かちのないもの、とまでは言わないにしても、それほどのものではなかった。

 価値かちがあるのやはり時服じふく黄金おうごんであり、弓場始ゆみばはじめ大的おおまと上覧じょうらんにおいて、とくすぐれた技量ぎりょう将軍しょうぐん披露ひろうした射手しゃしゅには「参加賞さんかしょう」にくわえて後日ごじつ時服じふく黄金おうごんあたえられるのが仕来しきたりであり、飯室いいむろ三郎兵衛さぶろべえはその栄誉えいよよくしたことがあった。

 飯室いいむろ三郎兵衛さぶろべえのこり「1わく」を獲得かくとくしたのはかる実績じっせきによるものであり、かくして天明2(1782)年8月9日以降いこう鷹狩たかがりにおいては、3番組ばんぐみでは以上いじょうの5人がつね供弓ともゆみとして選抜せんばつされつづけていたのだ。

 それゆえ今回こんかい木下川きねがわほとりにおける鷹狩たかがりにおいても組頭くみがしら兒島こじま孫助まごすけは、

当然とうぜんごとく…」

 以上いじょうの5人をえらんだわけだが、しかし、猪飼いかい五郎兵衛ごろべえの「辞退じたい」にたんはっし、変更へんこうきたすことになった。

 さて、そこで萬年まんねん六三郎ろくさぶろうだが、矢部やべ主膳しゅぜんによる侮蔑ぶべつ同然どうぜんの「引退勧告いんたいかんこく」にたいして顔面蒼白がんめんそうはくとなり、しかし、いま矢部やべ主膳しゅぜんさからえるはずもなく、

しからば…、だれわりの供弓ともゆみに…」

 萬年まんねん六三郎ろくさぶろうはかぼそこえで、それも如何いかにも、

おそおそる…」

 といったてい矢部やべ主膳しゅぜんおのれ後任こうにんについてたずねるのが精一杯せいいっぱいであった。

 そのさい矢部やべ主膳しゅぜんくちにした「後任こうにん」こそがだれあろう、佐野さの善左衛門ぜんざえもんであったのだ。

「されば佐野さの善左衛門ぜんざえもん去年きょねん宮重みやしげ久右衛門きゅうえもん河嶋かわしま八右衛門はちえもん共々ともども大的おおまと上覧じょうらん射手しゃしゅつとめ、褒美ほうびたまわりし実績じっせきがあれば、佐野さの善左衛門ぜんざえもんこそが供弓ともゆみ相応ふさわしかろう…」

 矢部やべ主膳しゅぜんはそれまでの口調くちょう一変いっぺんあらためてそう主張しゅちょうした。

 成程なるほど如何いかにもそのとおりではあるが、しかし、あくまで褒美ほうびすなわち、白銀しろがねという「参加賞さんかしょう」をたまわったにぎず、それほどのものではなかった。

 佐野さの善左衛門ぜんざえもんよりももっとほか供弓ともゆみ相応ふさわしい番士ばんしがいるのではあるまいか…、佐野さの善左衛門ぜんざえもんのぞいただれもがそうおもった

 だがいまの3番組ばんぐみにおいて矢部やべ主膳しゅぜんの「こえ」は「てんこえ」としており、この「こえ」には組頭くみがしらいえども、いや番頭ばんがしらいえども、さからうことなど出来できず、そのよう状況下じょうきょうかではかる疑問ぎもんくちにすることさえもはばかられ、結局けっきょく

佐野さの善左衛門ぜんざえもん矢部やべ主膳しゅぜんとは同期どうきさくらだから、それで佐野さの善左衛門ぜんざえもんえらんだのだろう…」

 安易あんいにそうかんがえて納得なっとくすることにした。

 くして、佐野さの善左衛門ぜんざえもん矢部やべ主膳しゅぜんの「かげ」で萬年まんねん六三郎ろくさぶろう後任こうにんとして供弓ともゆみえらばれたのであった。

 それまで佐野さの善左衛門ぜんざえもん矢部やべ主膳しゅぜんというおとこ嫌悪けんおしていた。

 小十人こじゅうにん家筋いえすじというその出自しゅつじいやしさにくわえ、これまでおのれいじいた大番家筋おおばんいえすじ出身しゅっしん先輩せんぱい土下座どげざさせるという女女めめしさも相俟あいまって、嫌悪感けんおかんしかなかった。

 だが、それが今回こんかい一件いっけん佐野さの善左衛門ぜんざえもん矢部やべ主膳しゅぜんたいする「評価ひょうか」を一変いっぺんさせた。

矢部やべ主膳しゅぜん中々なかなかひとがあるではないか…」

 佐野さの善左衛門ぜんざえもんおのれ評価ひょうかしてくれる相手あいてたいしてはその「真意しんい」については、

なんうたがいもせずに…」

 そのおのれたいする「評価ひょうか」を鵜呑うのみにし、つ、その評価ひょうかしてくれる相手あいてにも、

盲目的もうもくてきに…」

 好印象こういんしょうくという単純たんじゅんさを持合もちあわせていた。

 そして仮令たとえ、そのものがついいましがたまでおのれ嫌悪感けんおかんいていたものであったとしてもで、このへんの「融通ゆうづう無碍むげ」、もといわりはやさ」は最早もはや芸術的げいじゅつてきでさえあった。

 ともあれ佐野さの善左衛門ぜんざえもんとしては折角せっかくの「好機チャンス」、おのれ弓矢ゆみや技量ぎりょう将軍しょうぐんまえ披露ひろう出来できる「好機チャンス」にめぐまれた格好かっこうであり、

なんとしてでも…」

 この「好機チャンス」をモノにしてみせると、佐野さの善左衛門ぜんざえもん気負きおった。

 なにしろ、おのれ弓矢ゆみや技量ぎりょう将軍しょうぐん披露ひろう、それもとり弓矢ゆみや技量ぎりょうすぐれていることをせつければ、それが出世しゅっせ糸口いとぐちになるかもれないからだ。

 さて、そこで佐野さの善左衛門ぜんざえもん競争相手ライバルとしてもくされるのはなんと言っても新番しんばん4番組ばんぐみであろう。

 本丸新番ほんまるしんばんは1番組ばんぐみから6番組ばんぐみまであり、鷹狩たかがりのさいには1番組ばんぐみと2番組ばんぐみ、3番組ばんぐみと4番組ばんぐみ、そして5番組ばんぐみと6番組ばんぐみ夫々それぞれ、ペアをんでは将軍しょうぐんの「SP」として鷹狩たかがりにしたがう。

 無論むろん、4番組ばんぐみにしても5人の供弓ともゆみえらぶことがゆるされており、この4番組ばんぐみだが、端的たんてきに言って、

少数しょうすう精鋭せいえい…」

 その四文字よんもじまる。

 4番組ばんぐみ番士ばんし大半たいはんはそもそも、まと時服じふくたまわったことすらない連中れんちゅうばかりであり―、そのてんでは佐野さの善左衛門ぜんざえもん同様どうようなのだが、しかし、「ツブ」がそろっていた。

 すなわち、組頭くみがしら田村たむら庄左衛門しょうざえもん直佳なおよし、それに番士ばんしもり彌五郎やごろう定救さだひら正木まさき十郎右衛門じゅうろうえもん弘榮ひろなが兒島こじま榮次郎えいじろう正苗まさみつ篠山ささやま長次郎ちょうじろう資房すけふさの5人であり、鷹狩たかがりにおいては4番組ばんぐみではいつもこの5人が供弓ともゆみつとめていた。この5人はいずれもとりて、あるいは、しばしばまと時服じふくたまわってきた面々めんめんであるからだ。

 それにしても組頭くみがしらみずから、供弓ともゆみとして「出馬しゅつば」するなど4番組ばんぐみぐらいのものであろう。

 なにしろ新番しんばん組頭くみがしら半数はんすうはそもそも、まと時服じふくたまわったことすらないからだ。

 佐野さの善左衛門ぜんざえもんぞくする3番組ばんぐみ組頭くみがしらである兒島こじま孫助まごすけかつ一度いちどだけ、まと時服じふくたまわったことがある程度ていどであり、それも随分ずいぶんまえはなしであった。

 そのてん、4番組ばんぐみ組頭くみがしらである田村たむら庄左衛門しょうざえもん新番しんばん組頭くみがしらなかでは唯一ゆいいつとり時服じふくたまわった実績じっせきがあり、のみならず、還暦かんれきぎたいまでも配下はいか番士ばんしじって供弓ともゆみとして鷹狩たかがりに参加さんかしていたのだ。

 佐野さの善左衛門ぜんざえもんはそのよう田村たむら庄左衛門しょうざえもん組頭くみがしらいただく4番組ばんぐみ番士ばんし正直しょうじきうらやましかった。

 だがそれと今日きょう鷹狩たかがりとはまた、はなしべつであった。

「4番組ばんぐみけてなるものか…」

 木下川きねがわほとりった佐野さの善左衛門ぜんざえもんはそう気負きおうと、おもわず武者震むしゃぶるいがした。
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