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天明3年12月3日、木下川の邊(ほとり)の鷹狩り ~新番士・佐野善左衛門政言の章~
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12月3日、佐野善左衛門政言は今もって信じられなかった。己が「供弓」に選ばれたことが、であった。
通常、「供弓」はベテランが選ばれるのが仕来りであった。
この場合のベテランとは、今までにも「供弓」として、度々、獲物を仕留めては将軍より時服を賜ってきた「ベテラン」という意味であり、そういう者が「供弓」に選ばれるのだ。その方が、
「此度の鷹狩りにおいても…」
確実に獲物を仕留めてくれるに相違ないと、番頭や組頭がそう考えるからで、この辺りの感覚は現代の感覚がそのまま通用する。
さてそこで佐野善左衛門だが、去年の天明2(1782)年2月4日に吹上御庭にて行われた大的上覧―、将軍が御覧になる射的の射手に選ばれた程度であり、これまで鷹狩りの場において弓矢で獲物を仕留めた実績はない。
いや、それどころかそもそも、「供弓」に選ばれたことすら一度としてない。
佐野善左衛門は今から5年前の安永7(1778)年6月5日から今―、天明3(1783)年12月3日の今日までの間、幾度となく―、今年だけでも4回は将軍の鷹狩りに随ったが、それはあくまで新番士として、つまりはその本来の職分である将軍の「SP」として鷹狩りに随ったに過ぎず、「供弓」として鷹狩りに参加した訳ではなく、それはそれ以前―、大番より新番へと異動を果たした安永7(1778)年6月5日から一昨年の天明2(1782)年中にしても同様であった。
無論、大番士であった頃も鷹狩りの場において「供弓」に選ばれたことはない。
にもかかわらず、今日、12月3日の木下川の邊における鷹狩りにおいて、言葉は悪いが、
「何の実績もない…」
佐野善左衛門が「供弓」に選ばれたのは偏に相役、それも「同期の櫻」の矢部主膳の御蔭であった。
矢部主膳は佐野善左衛門と同じく安永7(1778)年6月5日に3番組に入番を果たした。
但し、矢部主膳の場合は佐野善左衛門とは異なり、大番からの異動、横滑りではなく、小十人組番よりの異動、昇格であった。
旗本の家柄は主に、両番家筋、大番家筋、そして小十人家筋に大別出来る。
その内、頂点に立つのは番入、就職する際には小姓組番、若しくは書院番、この両番のどちらかに番入を果たすことが出来る両番家筋であり、それに次ぐのが大番、若しくは新番に番入、就職を果たすことが出来る大番家筋であり、そして小十人家筋は武官においては小十人組番にしか番入、就職を果たすことが出来ない、最下層の家柄であった。
小十人組番は幕府の番方、所謂、「武官五番方」においても最下層であり、矢部主膳の様な小十人家筋の家柄の旗本で占められていた。
それ故、矢部主膳も当初は―、安永7(1778)年6月5日までは小十人組番の番士であったのだが、それが安永7(1778)年6月5日に新番へと異動を果たしたものであり、矢部主膳のその家柄、もとい小十人家筋であることを考えればこれは昇格と言えた。
無論、小十人組番より新番への異動、昇格は前例のないことではない。
だが、そうあることでもなく、それ故、矢部主膳の様に小十人家筋の者が小十人組番より新番へと、或いは大番へと異動、昇格を果たしたならば、大抵の場合、
「大番家筋の皆様に嫌われぬ様に…」
そう大人しくしている例が殆どであり、大番家筋の旗本もそうと分かって、小十人家筋出身の旗本を謂わば、
「異分子…」
として苛める例がこれまた散見され、それは先輩だけでなく、後輩さえも大番家筋の家柄出身であるのを良いことに、小十人家筋出身の先輩を苛める例も散見された。
だがこと、矢部主膳の場合は例外であった。
それと言うのも矢部主膳は大番家筋出身の先輩に対してさえも、
「全く…」
と言って良い程に物怖じせず、いや、それどころか組頭に対してさえもそうであった。
矢部主膳は正に、
「身の程知らず…」
であり、本来ならば即座に「苛め」の「対象」にされてもおかしくはなかったが、しかし実際にはそうはならなかったのは偏に、大奥との縁の御蔭によるものであった。
即ち、矢部主膳の実姉は嘗ては将軍・家治の正室であった倫子の老女、年寄を務めた小枝であり、倫子歿後はその愛娘であった萬壽姫附の老女、年寄を経て、矢部主膳が小十人組番より新番へと異動、昇格を果たした折には、その当時、次期将軍であった家基の老女、年寄を務めていたのだ。
矢部主膳が大番家筋出身のそれも先輩に対して、一切物怖じせず、一方、大番家筋出身の先輩もそれを許していたのは斯かる事情、もとい「縁」による。
尤も、安永8(1779)年2月24日に次期将軍であった家基が薨じたことで、矢部主膳の「専横」も、
「これまでか…」
そう思われたものである。
何しろ矢部主膳の「専横」の源泉たるや、次期将軍の家基に老女、年寄として附属する実姉の小枝の存在にあり、それはひいては次期将軍の家基の存在にあった。
だがその肝心要の家基がいなくなってしまったとあらば、家基に老女、年寄として仕えていた小枝の影響力低下は避けられず、それはそのまま、実弟の矢部主膳の影響力低下を意味していた。
事実、それから天明元(1781)年閏5月までの2年以上もの間、矢部主膳は暫くの間、
「雌伏…」
要は大番家筋出身の先輩から「苛め」の洗礼を受けねばならなかった。
これまで矢部主膳に押さえつけられていたことへの反動、鬱憤からのものであるのは明らかであり、萬年六三郎頼豊や比留所左衛門正珍はその「双璧」と言え、そんな二人に「触発」されて、外の者まで「苛め」に加担する始末であった。
矢部主膳とは「同期の桜」の佐野善左衛門自身はその様な「苛め」には加担しなかったが、しかし、さりとて矢部主膳を庇う様なこともなかった。
佐野善左衛門もまた大番家筋出身の旗本としてかねがね、
「小十人家筋の分際で…」
専横を恣にしていた矢部主膳の存在を苦々しく思っており、それ故、この「事態」を高みの見物よろしく愉しんでいたのだ。
本来ならば番頭がこの「事態」、もとい矢部主膳への「苛め」を阻止すべきところであったが、当時の番頭であった駒木根肥後守政永は典型的な「事勿れ主義」の男であり、
「苛めの阻止…」
その様な「蛮勇」は元より期待出来様筈もなかった。
否、組を事実上、仕切っていた組頭の春田長兵衛久伴は絵に描いた様な、
「秋霜烈日」
その手の男であり、矢部主膳への「苛め」を発見次第、その度に、矢部主膳を庇うと同時に、「苛」をする大番家筋の先輩を厳しく叱責したものである。
春田長兵衛は組を仕切る組頭ということもあろうが、唯一、矢部主膳の「専横」に屈しなかった男であり、一方、矢部主膳も春田長兵衛のその「秋霜烈日」ぶりを前にしては持味とも言うべき「専横」ぶりを発揮するには至らず、大人しくしていた。
そしてその矢部主膳がこれまでの立場を一変、逆転させ、「苛め」を受ける様になるや、春田長兵衛は今度は矢部主膳を庇う側に回ってみせたのだから、春田長兵衛のその「秋霜烈日」ぶりは本物、筋金入りと言えた。
そんなことをすれば、配下の大番家筋出身の旗本から「反撥」を喰らうのは目に見えていたからだ。
そうであれば、ここは矢部主膳の「自業自得」と、この「事態」に見て見ぬフリを決込むのが賢い選択と言えた。
或いは組頭自ら、「苛」に加担するのがもっと賢い選択と言えた。
だが、「秋霜烈日」の春田長兵衛はそうはせず、あえて火中の栗を拾って見せたのだ。
「それこそが、組を仕切る…、組の風儀を正すべき組頭たる者の務め…」
春田長兵衛はそう思い定めていたからだ。
かくして矢部主膳は春田長兵衛の御蔭で随分と救われたものである。
また、安永9(1780)年6月に番頭がそれまでの駒木根政永から松浦越中守信桯へと交代したことも矢部主膳には幸いであった。
松浦信桯は春田長兵衛程ではないにしても、それでも如何なる理由があろうとも、「苛め」を許さぬ程の「秋霜烈日」さは持合わせていたからだ。
斯かる次第で矢部主膳は春田長兵衛の存在に加え、松浦信桯の存在にも助けられ、安永9(1780)年6月より天明元(1781)年4月までの僅か1年にも満たない間だけは、
「全く…」
と言って良い程に「苛め」の被害を受けずに済んだ。
そして天明元(1781)年4月に番頭であった松浦信桯が小普請奉行へと栄転を果たすや、矢部主膳の「立場」はまたもや「逆転」する。
松浦信桯に代わって着任した番頭の蜷川相模守親文が一介の番士に過ぎない矢部主膳を重用、と言うよりは、
「やたらと…」
チヤホヤ、持上げて見せたからだ。
後から考えれば蜷川親文はこの時点で―、松浦信桯に代わる3番組の新番頭に着任した天明元(1781)年4月時点で、
「家基に代わる次期将軍は御三卿の一橋家の当主、治済の一子、豊千代でほぼ決まり…」
その情報を大奥ルートで掴んでいたものと思われる。
蜷川親文の妻女の淡は旗奉行を勤めた笹本靱負佐忠省の長女であり、その次女、つまりは淡の実妹はその当時―、天明元(1781)年4月時点では本丸大奥にて将軍・家治に附属する老女、年寄の野村であったのだ。
それ故、蜷川親文にしてみれば野村は妻女・淡の実妹という訳で、義妹に当たり、この野村を通じて蜷川親文の許にも大奥の情報はほぼ、
「リアルタイムで…」
伝わっていたものと思われる。
そして次期将軍に内定した一橋豊千代―、後の家斉の祖母、それも母方の祖母である岩は何と、己が番頭として差配する3番組の番士、矢部主膳の叔母に当たることをも、蜷川親文は掴んだものと思われる。
それ故、蜷川親文は3番組の番頭として着任早々、一介の配下、番士に過ぎない矢部主膳をチヤホヤ、持上げ始めたものと見える。
だがその当時―、家基に代わる次期将軍が一橋豊千代、後の家斉に正式決定する天明元(1781)年閏5月のその直前の4月の段階では、
「番頭ともあろう者が一体、何故に、一介の平の番士に過ぎぬ矢部主膳如きにヘイコラするのか…」
3番組の大方の番士は皆、そう思ったものである。組頭の春田長兵衛ですらそうであった。
唯一、矢部主膳だけは「当人」ということもあり、蜷川親文の「行動」を理解していたものと見える。
矢部主膳はこれまで己を「苛め」の被害から守ってくれていた、それこそ、
「その身を挺してまで…」
守ってくれた春田長兵衛への恩義など一切忘れたかの様に、春田長兵衛の頭越しに、要は春田長兵衛を無視して、蜷川親文と親密に話込む姿が散見された。
こうなっては外の大番家筋の先輩番士も、仮令、春田長兵衛の存在がなくとも、矢部主膳に手出し出来なかった。
番頭と親密に話す相手を苛めるだけの気概、根性など持合わせてはいなかったからだ。
否、そもそも下らぬ「苛め」に興じる様な、それも束になって、でしか苛めを行なえぬ様な輩はそもそも、その程度に過ぎぬ。
ともあれ、天明元(1781)年閏5月に一橋豊千代、後の家斉が家基に代わる次期将軍に正式決定したことで、矢部主膳の「世界観」たるや再び、逆転、それも大逆転を見せた。
何しろ今度の「縁」たるや、
「次期将軍の外戚…」
という、正にゴールド、いや、プラチナものであるからだ。
以前の、
「実姉が次期将軍に老女として仕えている…」
その様な「縁」とは較べものにならぬ程のプラチナものの「縁」であった。
これで再び、矢部主膳の「専横」が「再発」したのは言うまでもない。
否、一橋豊千代が次期将軍に正式決定した当初は組頭の春田長兵衛は元より、大方の先輩番士も矢部主膳がその一橋豊千代の外戚であるなどとは思いも寄らぬことであった。
如何に同じ組の番士とは言え、「家族構成」まで把握している訳ではなかったからだ。
それ故、矢部主膳は自ら、己が次期将軍に決まった一橋豊千代の外戚であると吹聴したい欲望を必死に押し殺し、代わりに番頭の蜷川親文から吹聴して貰うことにした。
自らその様なことを吹聴したところで誰も信じないからだ。否、それどころか、
「遂に気でも触れたか…」
そう気違い扱いされるのがオチだからだ。
それよりも新番頭という重職にある蜷川親文より吹聴して貰った方が「効果的」、皆も信じるに違いない。
案の定、蜷川親文の「吹聴」に対して、組頭の春田長兵衛をはじめとして、大方の番士はまずは驚愕、次いでその「吹聴」の内容を信じた。
こうなると、矢部主膳の天下、再び、我が世の春が訪れたというものである。
それまで矢部主膳を苛めてきた大番家筋出身の先輩は今度はその矢部主膳に土下座せねばならぬことになったのだ。
無論、矢部主膳が強要したことではない。だが、そう仕向けたのは矢部主膳に外ならなかった。
「今までの、この身に対する貴殿らの仕打ち、とくと豊千代公の耳に…」
次期将軍にお前たちから受けた「苛め」を告口してやると、そう仄めかされれば、誰でも、ことに「苛め」を行なった当人にしてみれば土下座してでも許しを乞わずにはいられないだろう。
矢部主膳はそう仄めかすことで、これまで己を苛めてきた大番家筋出身の先輩を皆、「勤務場所」である新番所にて土下座させたのであった。
無論、これを黙って見過ごす様な春田長兵衛ではない。
「武士たる身が、ましてや上様を御護り申上げる新番士たる者が斯様な…、次期将軍との縁を盾に、周囲を、それも己を虐げし者を屈服させる様な女女しい真似を致すでないっ!どうしても己を虐げし者が許せぬと申すのであらば、斯かる縁になどに頼らずに、正々堂々、果たし合いを致すべきであろうがっ!」
正々堂々、タイマンを張れと、春田長兵衛は矢部主膳を一喝、大喝した。
それには佐野善左衛門も大賛成であったが、しかし、矢部主膳はと言うと、その様な春田長兵衛の一喝、大喝に怯む様子も見せず、それどころか冷笑を浮かべたかと思うと、
「時代遅れの、物の道理も分からぬ武弁が…」
まずはそう春田長兵衛を侮蔑し、
「組頭風情が、畏れ多くも次期将軍にあらせられる豊千代公の外戚たるこの身に対して、一人前に意見するでないわっ!」
更にそう冷罵した上で、矢部主膳は腰に差していた扇子を引抜いたかと思うと、その扇子で何と春田長兵衛の額を敲いて見せたのだ。
矢部主膳のその、尋常ならざる所業にはさしもの番頭の蜷川親文も啞然とさせられた。
が、蜷川親文は矢部主膳のその暴挙を叱責するまでには至らなかった。
蜷川親文は先々代の番頭であった駒木根政永同様、否、それに輪をかけた事勿れ主義の男であり、そうであれば次期将軍の外戚に列なる者を叱ることなど、期待出来様筈もなかった。
一方、扇子で額を敲かれた春田長兵衛は一瞬、己の身に何が起こったのか理解出来なかった。それだけ衝撃的な出来事であったからだ。
何しろ武士が、それも衆人環視の許で額を扇子で敲かれるなど、武士にとってこれ程の屈辱はないからだ。
これまで、その身を挺してまで己を「苛め」の被害から守ってきてくれた正に恩人とも言うべき者に対する仕打ちではないだろう。
ましてや、組頭なのである。その組頭の額を平の番士の分際で扇子で敲いて見せるとは、到底、将軍の「SP」として仕える者の所業ではない。
春田長兵衛はそれから直ぐに己の身に降りかかった「災厄」を呑込むや、
「反射的に…」
刀に手をかけた。この屈辱を雪ぐには、屈辱を与えた当人をその場にて討果たすより外にないからだ。
このまま黙って見過ごせば、命を永らえる代わりに、
「臆病者…」
その評判が一生、ついて回ることになる。武士にとってそれは死よりも辛いことであった。
それよりはこの場にて矢部主膳を討果たし、切腹自裁を賜るのが武士の道と言え、春田長兵衛が矢部主膳を討果たそうとしたのは極めて自然なことであった。
だが結果から言えば、春田長兵衛が矢部主膳を討果たすことはなかった。
その前に佐野善左衛門が春田長兵衛を組伏せ、刀を抜かせなかったからだ。
こうしてその場は収まったが、しかし、その代償は余りにも大きかった。
それまで新番組3番組の風儀をその持前の「秋霜烈日」ぶりで治めていた春田長兵衛が矢部主膳を討漏らしたことで、爾来、半死半生、いや、武士としては完全に死んだも同然であり、その「秋霜烈日」ぶりも、
「嘘の様に…」
消え去ってしまい、結果、3番組の風儀は大いに乱れる様になった。
元凶は無論、矢部主膳であり、矢部主膳は3番組の中でそれこそ、将軍の様に振舞い、それをまた、誰も阻止することが出来ず、それどころか矢部主膳に気に入られ様と、取入る始末であった。
春田長兵衛はそれから1年後の天明2(1782)年6月に組頭の職を辞し、その後任として着任したのが今の組頭である兒島孫助正恒であり、この兒島孫助は、
「嘗ての…」
秋霜烈日ぶりを持合わせていた頃の春田長兵衛とは正反対の、元より秋霜烈日など持合わせてはいない典型的な事勿れ主義の男であり、初めから矢部主膳に対峙する気概など放棄しており、それどころか組頭であり乍、配下となる矢部主膳に取入る始末であった。
この様な状況下では例えば、
「鷹狩りにおける供弓…」
その「選考結果」など、矢部主膳の今の「力」を以てすれば、
「いとも容易く…」
変更出来るというものである。
即ち、今日12月3日の木下川の邊の鷹狩りにおける「供弓」だが、佐野善左衛門も属する新番3番組からは、
「萬年六三郎頼豊」
「猪飼五郎兵衛正胤」
「宮重久右衛門信志」
「河嶋八右衛門高玄」
「飯室三郎兵衛昌春」
当初は以上の5人が選ばれていた。
選考に当たったのは組頭の兒島孫助であり、番頭の蜷川親文の許しも既に得ていた11月晦日の時点で、これを矢部主膳がその「力」を以てして、
「無理やり…」
変更させたのであった。
否、当初は猪飼五郎兵衛の「辞退」から始まった。
「手前も御放鷹における供弓を務めるには些か年故、この辺で後進に道を譲り度…」
猪飼五郎兵衛は明和6(1769)年4月に大番より新番へと異動、横滑りを果たした正に、
「バリバリの…」
大番家筋出身の旗本ではあったが、にもかかわらず、矢部主膳に対する「苛め」には加担しなかった稀有な存在であった。
その猪飼五郎兵衛は大番士であった頃より鷹狩りの場において供弓として度々、獲物を仕留めては時服を賜い、また、水馬の術にも勝れ、褒美の黄金を賜うことも屡であり、それ故、明和6(1769)年4月に今の新番、3番組に異動してきてからというもの、鷹狩りの際には必ず供弓に選ばれていた。
だがその猪飼五郎兵衛も今年、天明3(1783)年で齢47、まだまだ働き盛りではあるが、しかし、
「野山を駈回って…」
鳥獣を射落とす程には若くないのも事実であった。
そこで猪飼五郎兵衛はこの際、後進に道を譲りたいとして、己の替わりに矢部主膳を推挙したのであった。
これで周囲には―、3番組の新番士には猪飼五郎兵衛の「真意」が読み取れた。
猪飼五郎兵衛の「真意」、それは即ち、後進に道を譲りたい云々は「口実」に過ぎず、実際には、
「矢部主膳に取入ろうとの魂胆に相違あるまいて…」
3番組の新番士は皆、誰もがそう直感した。佐野善左衛門もその一人であった。
思えば猪飼五郎兵衛は「大番家筋の先輩」であり乍、矢部主膳への「苛め」に加担しなかった稀有な存在であり、それ故、「復権後」の矢部主膳から土下座を求められなかった、これまた稀有な存在でもあった。
その猪飼五郎兵衛は更に、矢部主膳の覚えが目出度くなる様にと、
「鷹狩りにおける供弓…」
という「晴れの舞台」を矢部主膳に提供したのだろうと、佐野善左衛門も含めて3番組の新番士は誰もがそう思った。
さて、矢部主膳は猪飼五郎兵衛の「厚意」を素直に受取ったかと思うと、
「組の中でも一番の弓矢の遣手の猪飼殿さえ、この俺に道を譲ってくれたのだから、萬年、手前も後進に道を譲れ」
猪飼五郎兵衛と共に供弓に選ばれていた「先輩」の萬年六三郎にそう迫ったのであった。
「手前が猪飼殿よりも弓矢の技量に勝れているなら話は別だが、実際には手前は猪飼殿の足許にも及ばねぇ…、なら猪飼殿よりも真先に後進に道を譲らなきゃならねぇだろ?」
矢部主膳のその口汚い罵りに萬年六三郎も顔面蒼白となった。
何しろ矢部主膳が32歳であるのに対して、萬年六三郎は63歳と、31歳も齢が離れており、それ故、萬年六三郎と矢部主膳とは親子の様なものであった。
萬年六三郎はその矢部主膳から斯様に口汚く罵られたのだから、顔面蒼白になるのも当然であった。
だが、矢部主膳のその「口の利き方」は兎も角、内容自体はその通りであった。
確かに矢部主膳が言う様に、否、罵った様に、弓矢の技量という点においては萬年六三郎は猪飼五郎兵衛には敵わなかった。
成程、萬年六三郎は例えば、吹上御庭で行われる大的上覧などの場において度々、的を射ては時服を賜ってきた。
が、これまで鷹狩りの場において鳥を射て時服を賜ったことはなく、そこが的だけでなく、鳥をも射て時服を賜ることが屡の猪飼五郎兵衛との最大の違い、それも所謂、「実力差」というやつであった
的を射て時服を賜るのと、鳥を射て時服を賜るのと、どちらが価値があるかと言えば、それはやはり何といっても後者であろう。
鳥を射る方が的を射るよりも遥かに難易度が高いからだ。
萬年六三郎は的を射て時服を賜ることこそ屡であったが、鳥を射て時服を賜ったことはなく、にもかかわらず、これまで鷹狩りの場においては猪飼五郎兵衛共々、常に供弓に選ばれ続け、それはとりもなおさず、3番組には鳥を射て時服を賜るだけの弓矢の遣手がたったの2人しか居ないことに起因する。
一人は勿論、猪飼五郎兵衛であり、あとの一人は宮重久右衛門信志であった。
萬年六三郎はそんな2人に次ぐ弓矢の遣手であり、それ故、「定員」が5人である供弓に常に選ばれ続けていたのである。
あとの2人、残る「2枠」についてだが、河嶋八右衛門高玄がやはり常に選ばれ続けた。
河嶋八右衛門は矢部主膳よりも一つ年下の、しかし、矢部主膳やそれに佐野善左衛門とは「同期の桜」であった。
だが、矢部主膳とは異なり、河嶋八右衛門もまた大番家筋出身の旗本であり、安永7(1778)年6月5日までは大番士であり、大番士時代に的を射て褒美を賜い、のみならず騎射をも務めて褒美を賜ったことすらある。
騎射は鳥を射るのと同等か、或いはそれよりも難易度が高く、猪飼五郎兵衛も、それに勿論、宮重久右衛門も騎射を務めて褒美を賜ったことはない。
それ故、河嶋八右衛門は安永7(1778)年6月5日に大番より新番へと、3番組の新番士へと異動、横滑りを果たすや、斯かる「実績」が買われて、やはり鷹狩りの際には常に供弓に選ばれ続け、今に至る。
そして残る「1枠」についてだが、去年の天明2(1782)年8月9日に飯室三郎兵衛昌春が大番より異動、横滑りを果たすまでは過去に一度でも的を射て時服を賜ったことがある番士が交替で、それこそ、
「輪番制…」
供弓に選ばれた。
だが去年、天明2(1782)年8月9日に飯室三郎兵衛が大番より異動、横滑りを果たすや、残り「1枠」についてもこの飯室三郎兵衛が「獲得」した。
それはやはり、飯室三郎兵衛のその弓矢の技量を買われてのものである。
飯室三郎兵衛はまだ小普請、無職であった頃より弓場始や、或いは大的上覧の場において射手を務めては時服、黄金を賜ってきた。
河嶋八右衛門も新番に異動後、弓場始の射手を務め、褒美を賜ったことがあるが、飯室三郎兵衛の様に時服、黄金を賜ったことはない。
ここで言う褒美とは白銀のことであり、白銀と時服、或いは黄金とではどちらが価値があるかと言えば、時服や黄金であった。
弓場始や、或いは大的上覧において射手を務めた者には皆、白銀が褒美として下される。それは謂わば、
「参加賞」
その様なものであり、全く価値のないもの、とまでは言わないにしても、それ程のものではなかった。
価値があるのやはり時服や黄金であり、弓場始や大的上覧において、特に勝れた技量を将軍に披露した射手には「参加賞」に加えて後日、時服や黄金が与えられるのが仕来りであり、飯室三郎兵衛はその栄誉に浴したことがあった。
飯室三郎兵衛が残り「1枠」を獲得したのは斯かる実績によるものであり、かくして天明2(1782)年8月9日以降の鷹狩りにおいては、3番組では以上の5人が常に供弓として選抜され続けていたのだ。
それ故、今回の木下川の邊における鷹狩りにおいても組頭の兒島孫助は、
「当然の如く…」
以上の5人を選んだ訳だが、しかし、猪飼五郎兵衛の「辞退」に端を発し、変更を来すことになった。
さて、そこで萬年六三郎だが、矢部主膳による侮蔑も同然の「引退勧告」に対して顔面蒼白となり、しかし、今の矢部主膳に逆らえる筈もなく、
「然らば…、誰を替わりの供弓に…」
萬年六三郎はか細い声で、それも如何にも、
「恐る恐る…」
といった体で矢部主膳に己の後任について尋ねるのが精一杯であった。
その際、矢部主膳が口にした「後任」こそが誰あろう、佐野善左衛門であったのだ。
「されば佐野善左衛門は去年、宮重久右衛門や河嶋八右衛門共々、大的上覧の射手を務め、褒美を賜りし実績があれば、佐野善左衛門こそが供弓に相応しかろう…」
矢部主膳はそれまでの口調を一変、改めてそう主張した。
成程、如何にもその通りではあるが、しかし、あくまで褒美、即ち、白銀という「参加賞」を賜ったに過ぎず、それ程のものではなかった。
佐野善左衛門よりももっと外に供弓に相応しい番士がいるのではあるまいか…、佐野善左衛門を除いた誰もがそう思った
だが今の3番組において矢部主膳の「声」は「天の声」と化しており、この「声」には組頭と雖も、否、番頭と雖も、逆らうことなど出来ず、その様な状況下では斯かる疑問を口にすることさえも憚られ、結局、
「佐野善左衛門は矢部主膳とは同期の桜だから、それで佐野善左衛門を選んだのだろう…」
安易にそう考えて納得することにした。
斯くして、佐野善左衛門は矢部主膳の「御蔭」で萬年六三郎の後任として供弓に選ばれたのであった。
それまで佐野善左衛門は矢部主膳という男を嫌悪していた。
小十人家筋というその出自の卑しさに加え、これまで己を苛め抜いた大番家筋出身の先輩を土下座させるという女女しさも相俟って、嫌悪感しかなかった。
だが、それが今回の一件で佐野善左衛門は矢部主膳に対する「評価」を一変させた。
「矢部主膳は中々に人を見る目があるではないか…」
佐野善左衛門は己を評価してくれる相手に対してはその「真意」については、
「何の疑いもせずに…」
その己に対する「評価」を鵜呑みにし、且つ、その評価してくれる相手にも、
「盲目的に…」
好印象を抱くという単純さを持合わせていた。
そして仮令、その者がつい今しがたまで己が嫌悪感を抱いていた者であったとしてもで、この辺の「融通無碍」、もとい変わり身の早さ」は最早、芸術的でさえあった。
ともあれ佐野善左衛門としては折角の「好機」、己の弓矢の技量を将軍の前で披露出来る「好機」に恵まれた格好であり、
「何としてでも…」
この「好機」をモノにしてみせると、佐野善左衛門は気負った。
何しろ、己の弓矢の技量を将軍に披露、それも鳥を射て弓矢の技量に勝れていることを見せつければ、それが出世の糸口になるかも知れないからだ。
さて、そこで佐野善左衛門の競争相手として目されるのは何と言っても新番4番組であろう。
本丸新番は1番組から6番組まであり、鷹狩りの際には1番組と2番組、3番組と4番組、そして5番組と6番組が夫々、ペアを組んでは将軍の「SP」として鷹狩りに随う。
無論、4番組にしても5人の供弓を選ぶことが許されており、この4番組だが、端的に言って、
「少数精鋭…」
その四文字が当て嵌まる。
4番組の番士の大半はそもそも、的を射て時服を賜ったことすらない連中ばかりであり―、その点では佐野善左衛門も同様なのだが、しかし、「ツブ」が揃っていた。
即ち、組頭の田村庄左衛門直佳、それに番士の森彌五郎定救、正木十郎右衛門弘榮、兒島榮次郎正苗、篠山長次郎資房の5人であり、鷹狩りにおいては4番組ではいつもこの5人が供弓を務めていた。この5人はいずれも鳥を射て、或いは、しばしば的を射て時服を賜ってきた面々であるからだ。
それにしても組頭が自ら、供弓として「出馬」するなど4番組ぐらいのものであろう。
何しろ新番組頭の半数はそもそも、的を射て時服を賜ったことすらないからだ。
佐野善左衛門が属する3番組の組頭である兒島孫助は嘗て一度だけ、的を射て時服を賜ったことがある程度であり、それも随分と昔の話であった。
その点、4番組の組頭である田村庄左衛門は新番組頭の中では唯一、鳥を射て時服を賜った実績があり、のみならず、還暦を過ぎた今でも配下の番士に混じって供弓として鷹狩りに参加していたのだ。
佐野善左衛門はその様な田村庄左衛門を組頭に戴く4番組の番士が正直、羨ましかった。
だがそれと今日の鷹狩りとはまた、話が別であった。
「4番組に負けてなるものか…」
木下川の邊に立った佐野善左衛門はそう気負うと、思わず武者震いがした。
通常、「供弓」はベテランが選ばれるのが仕来りであった。
この場合のベテランとは、今までにも「供弓」として、度々、獲物を仕留めては将軍より時服を賜ってきた「ベテラン」という意味であり、そういう者が「供弓」に選ばれるのだ。その方が、
「此度の鷹狩りにおいても…」
確実に獲物を仕留めてくれるに相違ないと、番頭や組頭がそう考えるからで、この辺りの感覚は現代の感覚がそのまま通用する。
さてそこで佐野善左衛門だが、去年の天明2(1782)年2月4日に吹上御庭にて行われた大的上覧―、将軍が御覧になる射的の射手に選ばれた程度であり、これまで鷹狩りの場において弓矢で獲物を仕留めた実績はない。
いや、それどころかそもそも、「供弓」に選ばれたことすら一度としてない。
佐野善左衛門は今から5年前の安永7(1778)年6月5日から今―、天明3(1783)年12月3日の今日までの間、幾度となく―、今年だけでも4回は将軍の鷹狩りに随ったが、それはあくまで新番士として、つまりはその本来の職分である将軍の「SP」として鷹狩りに随ったに過ぎず、「供弓」として鷹狩りに参加した訳ではなく、それはそれ以前―、大番より新番へと異動を果たした安永7(1778)年6月5日から一昨年の天明2(1782)年中にしても同様であった。
無論、大番士であった頃も鷹狩りの場において「供弓」に選ばれたことはない。
にもかかわらず、今日、12月3日の木下川の邊における鷹狩りにおいて、言葉は悪いが、
「何の実績もない…」
佐野善左衛門が「供弓」に選ばれたのは偏に相役、それも「同期の櫻」の矢部主膳の御蔭であった。
矢部主膳は佐野善左衛門と同じく安永7(1778)年6月5日に3番組に入番を果たした。
但し、矢部主膳の場合は佐野善左衛門とは異なり、大番からの異動、横滑りではなく、小十人組番よりの異動、昇格であった。
旗本の家柄は主に、両番家筋、大番家筋、そして小十人家筋に大別出来る。
その内、頂点に立つのは番入、就職する際には小姓組番、若しくは書院番、この両番のどちらかに番入を果たすことが出来る両番家筋であり、それに次ぐのが大番、若しくは新番に番入、就職を果たすことが出来る大番家筋であり、そして小十人家筋は武官においては小十人組番にしか番入、就職を果たすことが出来ない、最下層の家柄であった。
小十人組番は幕府の番方、所謂、「武官五番方」においても最下層であり、矢部主膳の様な小十人家筋の家柄の旗本で占められていた。
それ故、矢部主膳も当初は―、安永7(1778)年6月5日までは小十人組番の番士であったのだが、それが安永7(1778)年6月5日に新番へと異動を果たしたものであり、矢部主膳のその家柄、もとい小十人家筋であることを考えればこれは昇格と言えた。
無論、小十人組番より新番への異動、昇格は前例のないことではない。
だが、そうあることでもなく、それ故、矢部主膳の様に小十人家筋の者が小十人組番より新番へと、或いは大番へと異動、昇格を果たしたならば、大抵の場合、
「大番家筋の皆様に嫌われぬ様に…」
そう大人しくしている例が殆どであり、大番家筋の旗本もそうと分かって、小十人家筋出身の旗本を謂わば、
「異分子…」
として苛める例がこれまた散見され、それは先輩だけでなく、後輩さえも大番家筋の家柄出身であるのを良いことに、小十人家筋出身の先輩を苛める例も散見された。
だがこと、矢部主膳の場合は例外であった。
それと言うのも矢部主膳は大番家筋出身の先輩に対してさえも、
「全く…」
と言って良い程に物怖じせず、いや、それどころか組頭に対してさえもそうであった。
矢部主膳は正に、
「身の程知らず…」
であり、本来ならば即座に「苛め」の「対象」にされてもおかしくはなかったが、しかし実際にはそうはならなかったのは偏に、大奥との縁の御蔭によるものであった。
即ち、矢部主膳の実姉は嘗ては将軍・家治の正室であった倫子の老女、年寄を務めた小枝であり、倫子歿後はその愛娘であった萬壽姫附の老女、年寄を経て、矢部主膳が小十人組番より新番へと異動、昇格を果たした折には、その当時、次期将軍であった家基の老女、年寄を務めていたのだ。
矢部主膳が大番家筋出身のそれも先輩に対して、一切物怖じせず、一方、大番家筋出身の先輩もそれを許していたのは斯かる事情、もとい「縁」による。
尤も、安永8(1779)年2月24日に次期将軍であった家基が薨じたことで、矢部主膳の「専横」も、
「これまでか…」
そう思われたものである。
何しろ矢部主膳の「専横」の源泉たるや、次期将軍の家基に老女、年寄として附属する実姉の小枝の存在にあり、それはひいては次期将軍の家基の存在にあった。
だがその肝心要の家基がいなくなってしまったとあらば、家基に老女、年寄として仕えていた小枝の影響力低下は避けられず、それはそのまま、実弟の矢部主膳の影響力低下を意味していた。
事実、それから天明元(1781)年閏5月までの2年以上もの間、矢部主膳は暫くの間、
「雌伏…」
要は大番家筋出身の先輩から「苛め」の洗礼を受けねばならなかった。
これまで矢部主膳に押さえつけられていたことへの反動、鬱憤からのものであるのは明らかであり、萬年六三郎頼豊や比留所左衛門正珍はその「双璧」と言え、そんな二人に「触発」されて、外の者まで「苛め」に加担する始末であった。
矢部主膳とは「同期の桜」の佐野善左衛門自身はその様な「苛め」には加担しなかったが、しかし、さりとて矢部主膳を庇う様なこともなかった。
佐野善左衛門もまた大番家筋出身の旗本としてかねがね、
「小十人家筋の分際で…」
専横を恣にしていた矢部主膳の存在を苦々しく思っており、それ故、この「事態」を高みの見物よろしく愉しんでいたのだ。
本来ならば番頭がこの「事態」、もとい矢部主膳への「苛め」を阻止すべきところであったが、当時の番頭であった駒木根肥後守政永は典型的な「事勿れ主義」の男であり、
「苛めの阻止…」
その様な「蛮勇」は元より期待出来様筈もなかった。
否、組を事実上、仕切っていた組頭の春田長兵衛久伴は絵に描いた様な、
「秋霜烈日」
その手の男であり、矢部主膳への「苛め」を発見次第、その度に、矢部主膳を庇うと同時に、「苛」をする大番家筋の先輩を厳しく叱責したものである。
春田長兵衛は組を仕切る組頭ということもあろうが、唯一、矢部主膳の「専横」に屈しなかった男であり、一方、矢部主膳も春田長兵衛のその「秋霜烈日」ぶりを前にしては持味とも言うべき「専横」ぶりを発揮するには至らず、大人しくしていた。
そしてその矢部主膳がこれまでの立場を一変、逆転させ、「苛め」を受ける様になるや、春田長兵衛は今度は矢部主膳を庇う側に回ってみせたのだから、春田長兵衛のその「秋霜烈日」ぶりは本物、筋金入りと言えた。
そんなことをすれば、配下の大番家筋出身の旗本から「反撥」を喰らうのは目に見えていたからだ。
そうであれば、ここは矢部主膳の「自業自得」と、この「事態」に見て見ぬフリを決込むのが賢い選択と言えた。
或いは組頭自ら、「苛」に加担するのがもっと賢い選択と言えた。
だが、「秋霜烈日」の春田長兵衛はそうはせず、あえて火中の栗を拾って見せたのだ。
「それこそが、組を仕切る…、組の風儀を正すべき組頭たる者の務め…」
春田長兵衛はそう思い定めていたからだ。
かくして矢部主膳は春田長兵衛の御蔭で随分と救われたものである。
また、安永9(1780)年6月に番頭がそれまでの駒木根政永から松浦越中守信桯へと交代したことも矢部主膳には幸いであった。
松浦信桯は春田長兵衛程ではないにしても、それでも如何なる理由があろうとも、「苛め」を許さぬ程の「秋霜烈日」さは持合わせていたからだ。
斯かる次第で矢部主膳は春田長兵衛の存在に加え、松浦信桯の存在にも助けられ、安永9(1780)年6月より天明元(1781)年4月までの僅か1年にも満たない間だけは、
「全く…」
と言って良い程に「苛め」の被害を受けずに済んだ。
そして天明元(1781)年4月に番頭であった松浦信桯が小普請奉行へと栄転を果たすや、矢部主膳の「立場」はまたもや「逆転」する。
松浦信桯に代わって着任した番頭の蜷川相模守親文が一介の番士に過ぎない矢部主膳を重用、と言うよりは、
「やたらと…」
チヤホヤ、持上げて見せたからだ。
後から考えれば蜷川親文はこの時点で―、松浦信桯に代わる3番組の新番頭に着任した天明元(1781)年4月時点で、
「家基に代わる次期将軍は御三卿の一橋家の当主、治済の一子、豊千代でほぼ決まり…」
その情報を大奥ルートで掴んでいたものと思われる。
蜷川親文の妻女の淡は旗奉行を勤めた笹本靱負佐忠省の長女であり、その次女、つまりは淡の実妹はその当時―、天明元(1781)年4月時点では本丸大奥にて将軍・家治に附属する老女、年寄の野村であったのだ。
それ故、蜷川親文にしてみれば野村は妻女・淡の実妹という訳で、義妹に当たり、この野村を通じて蜷川親文の許にも大奥の情報はほぼ、
「リアルタイムで…」
伝わっていたものと思われる。
そして次期将軍に内定した一橋豊千代―、後の家斉の祖母、それも母方の祖母である岩は何と、己が番頭として差配する3番組の番士、矢部主膳の叔母に当たることをも、蜷川親文は掴んだものと思われる。
それ故、蜷川親文は3番組の番頭として着任早々、一介の配下、番士に過ぎない矢部主膳をチヤホヤ、持上げ始めたものと見える。
だがその当時―、家基に代わる次期将軍が一橋豊千代、後の家斉に正式決定する天明元(1781)年閏5月のその直前の4月の段階では、
「番頭ともあろう者が一体、何故に、一介の平の番士に過ぎぬ矢部主膳如きにヘイコラするのか…」
3番組の大方の番士は皆、そう思ったものである。組頭の春田長兵衛ですらそうであった。
唯一、矢部主膳だけは「当人」ということもあり、蜷川親文の「行動」を理解していたものと見える。
矢部主膳はこれまで己を「苛め」の被害から守ってくれていた、それこそ、
「その身を挺してまで…」
守ってくれた春田長兵衛への恩義など一切忘れたかの様に、春田長兵衛の頭越しに、要は春田長兵衛を無視して、蜷川親文と親密に話込む姿が散見された。
こうなっては外の大番家筋の先輩番士も、仮令、春田長兵衛の存在がなくとも、矢部主膳に手出し出来なかった。
番頭と親密に話す相手を苛めるだけの気概、根性など持合わせてはいなかったからだ。
否、そもそも下らぬ「苛め」に興じる様な、それも束になって、でしか苛めを行なえぬ様な輩はそもそも、その程度に過ぎぬ。
ともあれ、天明元(1781)年閏5月に一橋豊千代、後の家斉が家基に代わる次期将軍に正式決定したことで、矢部主膳の「世界観」たるや再び、逆転、それも大逆転を見せた。
何しろ今度の「縁」たるや、
「次期将軍の外戚…」
という、正にゴールド、いや、プラチナものであるからだ。
以前の、
「実姉が次期将軍に老女として仕えている…」
その様な「縁」とは較べものにならぬ程のプラチナものの「縁」であった。
これで再び、矢部主膳の「専横」が「再発」したのは言うまでもない。
否、一橋豊千代が次期将軍に正式決定した当初は組頭の春田長兵衛は元より、大方の先輩番士も矢部主膳がその一橋豊千代の外戚であるなどとは思いも寄らぬことであった。
如何に同じ組の番士とは言え、「家族構成」まで把握している訳ではなかったからだ。
それ故、矢部主膳は自ら、己が次期将軍に決まった一橋豊千代の外戚であると吹聴したい欲望を必死に押し殺し、代わりに番頭の蜷川親文から吹聴して貰うことにした。
自らその様なことを吹聴したところで誰も信じないからだ。否、それどころか、
「遂に気でも触れたか…」
そう気違い扱いされるのがオチだからだ。
それよりも新番頭という重職にある蜷川親文より吹聴して貰った方が「効果的」、皆も信じるに違いない。
案の定、蜷川親文の「吹聴」に対して、組頭の春田長兵衛をはじめとして、大方の番士はまずは驚愕、次いでその「吹聴」の内容を信じた。
こうなると、矢部主膳の天下、再び、我が世の春が訪れたというものである。
それまで矢部主膳を苛めてきた大番家筋出身の先輩は今度はその矢部主膳に土下座せねばならぬことになったのだ。
無論、矢部主膳が強要したことではない。だが、そう仕向けたのは矢部主膳に外ならなかった。
「今までの、この身に対する貴殿らの仕打ち、とくと豊千代公の耳に…」
次期将軍にお前たちから受けた「苛め」を告口してやると、そう仄めかされれば、誰でも、ことに「苛め」を行なった当人にしてみれば土下座してでも許しを乞わずにはいられないだろう。
矢部主膳はそう仄めかすことで、これまで己を苛めてきた大番家筋出身の先輩を皆、「勤務場所」である新番所にて土下座させたのであった。
無論、これを黙って見過ごす様な春田長兵衛ではない。
「武士たる身が、ましてや上様を御護り申上げる新番士たる者が斯様な…、次期将軍との縁を盾に、周囲を、それも己を虐げし者を屈服させる様な女女しい真似を致すでないっ!どうしても己を虐げし者が許せぬと申すのであらば、斯かる縁になどに頼らずに、正々堂々、果たし合いを致すべきであろうがっ!」
正々堂々、タイマンを張れと、春田長兵衛は矢部主膳を一喝、大喝した。
それには佐野善左衛門も大賛成であったが、しかし、矢部主膳はと言うと、その様な春田長兵衛の一喝、大喝に怯む様子も見せず、それどころか冷笑を浮かべたかと思うと、
「時代遅れの、物の道理も分からぬ武弁が…」
まずはそう春田長兵衛を侮蔑し、
「組頭風情が、畏れ多くも次期将軍にあらせられる豊千代公の外戚たるこの身に対して、一人前に意見するでないわっ!」
更にそう冷罵した上で、矢部主膳は腰に差していた扇子を引抜いたかと思うと、その扇子で何と春田長兵衛の額を敲いて見せたのだ。
矢部主膳のその、尋常ならざる所業にはさしもの番頭の蜷川親文も啞然とさせられた。
が、蜷川親文は矢部主膳のその暴挙を叱責するまでには至らなかった。
蜷川親文は先々代の番頭であった駒木根政永同様、否、それに輪をかけた事勿れ主義の男であり、そうであれば次期将軍の外戚に列なる者を叱ることなど、期待出来様筈もなかった。
一方、扇子で額を敲かれた春田長兵衛は一瞬、己の身に何が起こったのか理解出来なかった。それだけ衝撃的な出来事であったからだ。
何しろ武士が、それも衆人環視の許で額を扇子で敲かれるなど、武士にとってこれ程の屈辱はないからだ。
これまで、その身を挺してまで己を「苛め」の被害から守ってきてくれた正に恩人とも言うべき者に対する仕打ちではないだろう。
ましてや、組頭なのである。その組頭の額を平の番士の分際で扇子で敲いて見せるとは、到底、将軍の「SP」として仕える者の所業ではない。
春田長兵衛はそれから直ぐに己の身に降りかかった「災厄」を呑込むや、
「反射的に…」
刀に手をかけた。この屈辱を雪ぐには、屈辱を与えた当人をその場にて討果たすより外にないからだ。
このまま黙って見過ごせば、命を永らえる代わりに、
「臆病者…」
その評判が一生、ついて回ることになる。武士にとってそれは死よりも辛いことであった。
それよりはこの場にて矢部主膳を討果たし、切腹自裁を賜るのが武士の道と言え、春田長兵衛が矢部主膳を討果たそうとしたのは極めて自然なことであった。
だが結果から言えば、春田長兵衛が矢部主膳を討果たすことはなかった。
その前に佐野善左衛門が春田長兵衛を組伏せ、刀を抜かせなかったからだ。
こうしてその場は収まったが、しかし、その代償は余りにも大きかった。
それまで新番組3番組の風儀をその持前の「秋霜烈日」ぶりで治めていた春田長兵衛が矢部主膳を討漏らしたことで、爾来、半死半生、いや、武士としては完全に死んだも同然であり、その「秋霜烈日」ぶりも、
「嘘の様に…」
消え去ってしまい、結果、3番組の風儀は大いに乱れる様になった。
元凶は無論、矢部主膳であり、矢部主膳は3番組の中でそれこそ、将軍の様に振舞い、それをまた、誰も阻止することが出来ず、それどころか矢部主膳に気に入られ様と、取入る始末であった。
春田長兵衛はそれから1年後の天明2(1782)年6月に組頭の職を辞し、その後任として着任したのが今の組頭である兒島孫助正恒であり、この兒島孫助は、
「嘗ての…」
秋霜烈日ぶりを持合わせていた頃の春田長兵衛とは正反対の、元より秋霜烈日など持合わせてはいない典型的な事勿れ主義の男であり、初めから矢部主膳に対峙する気概など放棄しており、それどころか組頭であり乍、配下となる矢部主膳に取入る始末であった。
この様な状況下では例えば、
「鷹狩りにおける供弓…」
その「選考結果」など、矢部主膳の今の「力」を以てすれば、
「いとも容易く…」
変更出来るというものである。
即ち、今日12月3日の木下川の邊の鷹狩りにおける「供弓」だが、佐野善左衛門も属する新番3番組からは、
「萬年六三郎頼豊」
「猪飼五郎兵衛正胤」
「宮重久右衛門信志」
「河嶋八右衛門高玄」
「飯室三郎兵衛昌春」
当初は以上の5人が選ばれていた。
選考に当たったのは組頭の兒島孫助であり、番頭の蜷川親文の許しも既に得ていた11月晦日の時点で、これを矢部主膳がその「力」を以てして、
「無理やり…」
変更させたのであった。
否、当初は猪飼五郎兵衛の「辞退」から始まった。
「手前も御放鷹における供弓を務めるには些か年故、この辺で後進に道を譲り度…」
猪飼五郎兵衛は明和6(1769)年4月に大番より新番へと異動、横滑りを果たした正に、
「バリバリの…」
大番家筋出身の旗本ではあったが、にもかかわらず、矢部主膳に対する「苛め」には加担しなかった稀有な存在であった。
その猪飼五郎兵衛は大番士であった頃より鷹狩りの場において供弓として度々、獲物を仕留めては時服を賜い、また、水馬の術にも勝れ、褒美の黄金を賜うことも屡であり、それ故、明和6(1769)年4月に今の新番、3番組に異動してきてからというもの、鷹狩りの際には必ず供弓に選ばれていた。
だがその猪飼五郎兵衛も今年、天明3(1783)年で齢47、まだまだ働き盛りではあるが、しかし、
「野山を駈回って…」
鳥獣を射落とす程には若くないのも事実であった。
そこで猪飼五郎兵衛はこの際、後進に道を譲りたいとして、己の替わりに矢部主膳を推挙したのであった。
これで周囲には―、3番組の新番士には猪飼五郎兵衛の「真意」が読み取れた。
猪飼五郎兵衛の「真意」、それは即ち、後進に道を譲りたい云々は「口実」に過ぎず、実際には、
「矢部主膳に取入ろうとの魂胆に相違あるまいて…」
3番組の新番士は皆、誰もがそう直感した。佐野善左衛門もその一人であった。
思えば猪飼五郎兵衛は「大番家筋の先輩」であり乍、矢部主膳への「苛め」に加担しなかった稀有な存在であり、それ故、「復権後」の矢部主膳から土下座を求められなかった、これまた稀有な存在でもあった。
その猪飼五郎兵衛は更に、矢部主膳の覚えが目出度くなる様にと、
「鷹狩りにおける供弓…」
という「晴れの舞台」を矢部主膳に提供したのだろうと、佐野善左衛門も含めて3番組の新番士は誰もがそう思った。
さて、矢部主膳は猪飼五郎兵衛の「厚意」を素直に受取ったかと思うと、
「組の中でも一番の弓矢の遣手の猪飼殿さえ、この俺に道を譲ってくれたのだから、萬年、手前も後進に道を譲れ」
猪飼五郎兵衛と共に供弓に選ばれていた「先輩」の萬年六三郎にそう迫ったのであった。
「手前が猪飼殿よりも弓矢の技量に勝れているなら話は別だが、実際には手前は猪飼殿の足許にも及ばねぇ…、なら猪飼殿よりも真先に後進に道を譲らなきゃならねぇだろ?」
矢部主膳のその口汚い罵りに萬年六三郎も顔面蒼白となった。
何しろ矢部主膳が32歳であるのに対して、萬年六三郎は63歳と、31歳も齢が離れており、それ故、萬年六三郎と矢部主膳とは親子の様なものであった。
萬年六三郎はその矢部主膳から斯様に口汚く罵られたのだから、顔面蒼白になるのも当然であった。
だが、矢部主膳のその「口の利き方」は兎も角、内容自体はその通りであった。
確かに矢部主膳が言う様に、否、罵った様に、弓矢の技量という点においては萬年六三郎は猪飼五郎兵衛には敵わなかった。
成程、萬年六三郎は例えば、吹上御庭で行われる大的上覧などの場において度々、的を射ては時服を賜ってきた。
が、これまで鷹狩りの場において鳥を射て時服を賜ったことはなく、そこが的だけでなく、鳥をも射て時服を賜ることが屡の猪飼五郎兵衛との最大の違い、それも所謂、「実力差」というやつであった
的を射て時服を賜るのと、鳥を射て時服を賜るのと、どちらが価値があるかと言えば、それはやはり何といっても後者であろう。
鳥を射る方が的を射るよりも遥かに難易度が高いからだ。
萬年六三郎は的を射て時服を賜ることこそ屡であったが、鳥を射て時服を賜ったことはなく、にもかかわらず、これまで鷹狩りの場においては猪飼五郎兵衛共々、常に供弓に選ばれ続け、それはとりもなおさず、3番組には鳥を射て時服を賜るだけの弓矢の遣手がたったの2人しか居ないことに起因する。
一人は勿論、猪飼五郎兵衛であり、あとの一人は宮重久右衛門信志であった。
萬年六三郎はそんな2人に次ぐ弓矢の遣手であり、それ故、「定員」が5人である供弓に常に選ばれ続けていたのである。
あとの2人、残る「2枠」についてだが、河嶋八右衛門高玄がやはり常に選ばれ続けた。
河嶋八右衛門は矢部主膳よりも一つ年下の、しかし、矢部主膳やそれに佐野善左衛門とは「同期の桜」であった。
だが、矢部主膳とは異なり、河嶋八右衛門もまた大番家筋出身の旗本であり、安永7(1778)年6月5日までは大番士であり、大番士時代に的を射て褒美を賜い、のみならず騎射をも務めて褒美を賜ったことすらある。
騎射は鳥を射るのと同等か、或いはそれよりも難易度が高く、猪飼五郎兵衛も、それに勿論、宮重久右衛門も騎射を務めて褒美を賜ったことはない。
それ故、河嶋八右衛門は安永7(1778)年6月5日に大番より新番へと、3番組の新番士へと異動、横滑りを果たすや、斯かる「実績」が買われて、やはり鷹狩りの際には常に供弓に選ばれ続け、今に至る。
そして残る「1枠」についてだが、去年の天明2(1782)年8月9日に飯室三郎兵衛昌春が大番より異動、横滑りを果たすまでは過去に一度でも的を射て時服を賜ったことがある番士が交替で、それこそ、
「輪番制…」
供弓に選ばれた。
だが去年、天明2(1782)年8月9日に飯室三郎兵衛が大番より異動、横滑りを果たすや、残り「1枠」についてもこの飯室三郎兵衛が「獲得」した。
それはやはり、飯室三郎兵衛のその弓矢の技量を買われてのものである。
飯室三郎兵衛はまだ小普請、無職であった頃より弓場始や、或いは大的上覧の場において射手を務めては時服、黄金を賜ってきた。
河嶋八右衛門も新番に異動後、弓場始の射手を務め、褒美を賜ったことがあるが、飯室三郎兵衛の様に時服、黄金を賜ったことはない。
ここで言う褒美とは白銀のことであり、白銀と時服、或いは黄金とではどちらが価値があるかと言えば、時服や黄金であった。
弓場始や、或いは大的上覧において射手を務めた者には皆、白銀が褒美として下される。それは謂わば、
「参加賞」
その様なものであり、全く価値のないもの、とまでは言わないにしても、それ程のものではなかった。
価値があるのやはり時服や黄金であり、弓場始や大的上覧において、特に勝れた技量を将軍に披露した射手には「参加賞」に加えて後日、時服や黄金が与えられるのが仕来りであり、飯室三郎兵衛はその栄誉に浴したことがあった。
飯室三郎兵衛が残り「1枠」を獲得したのは斯かる実績によるものであり、かくして天明2(1782)年8月9日以降の鷹狩りにおいては、3番組では以上の5人が常に供弓として選抜され続けていたのだ。
それ故、今回の木下川の邊における鷹狩りにおいても組頭の兒島孫助は、
「当然の如く…」
以上の5人を選んだ訳だが、しかし、猪飼五郎兵衛の「辞退」に端を発し、変更を来すことになった。
さて、そこで萬年六三郎だが、矢部主膳による侮蔑も同然の「引退勧告」に対して顔面蒼白となり、しかし、今の矢部主膳に逆らえる筈もなく、
「然らば…、誰を替わりの供弓に…」
萬年六三郎はか細い声で、それも如何にも、
「恐る恐る…」
といった体で矢部主膳に己の後任について尋ねるのが精一杯であった。
その際、矢部主膳が口にした「後任」こそが誰あろう、佐野善左衛門であったのだ。
「されば佐野善左衛門は去年、宮重久右衛門や河嶋八右衛門共々、大的上覧の射手を務め、褒美を賜りし実績があれば、佐野善左衛門こそが供弓に相応しかろう…」
矢部主膳はそれまでの口調を一変、改めてそう主張した。
成程、如何にもその通りではあるが、しかし、あくまで褒美、即ち、白銀という「参加賞」を賜ったに過ぎず、それ程のものではなかった。
佐野善左衛門よりももっと外に供弓に相応しい番士がいるのではあるまいか…、佐野善左衛門を除いた誰もがそう思った
だが今の3番組において矢部主膳の「声」は「天の声」と化しており、この「声」には組頭と雖も、否、番頭と雖も、逆らうことなど出来ず、その様な状況下では斯かる疑問を口にすることさえも憚られ、結局、
「佐野善左衛門は矢部主膳とは同期の桜だから、それで佐野善左衛門を選んだのだろう…」
安易にそう考えて納得することにした。
斯くして、佐野善左衛門は矢部主膳の「御蔭」で萬年六三郎の後任として供弓に選ばれたのであった。
それまで佐野善左衛門は矢部主膳という男を嫌悪していた。
小十人家筋というその出自の卑しさに加え、これまで己を苛め抜いた大番家筋出身の先輩を土下座させるという女女しさも相俟って、嫌悪感しかなかった。
だが、それが今回の一件で佐野善左衛門は矢部主膳に対する「評価」を一変させた。
「矢部主膳は中々に人を見る目があるではないか…」
佐野善左衛門は己を評価してくれる相手に対してはその「真意」については、
「何の疑いもせずに…」
その己に対する「評価」を鵜呑みにし、且つ、その評価してくれる相手にも、
「盲目的に…」
好印象を抱くという単純さを持合わせていた。
そして仮令、その者がつい今しがたまで己が嫌悪感を抱いていた者であったとしてもで、この辺の「融通無碍」、もとい変わり身の早さ」は最早、芸術的でさえあった。
ともあれ佐野善左衛門としては折角の「好機」、己の弓矢の技量を将軍の前で披露出来る「好機」に恵まれた格好であり、
「何としてでも…」
この「好機」をモノにしてみせると、佐野善左衛門は気負った。
何しろ、己の弓矢の技量を将軍に披露、それも鳥を射て弓矢の技量に勝れていることを見せつければ、それが出世の糸口になるかも知れないからだ。
さて、そこで佐野善左衛門の競争相手として目されるのは何と言っても新番4番組であろう。
本丸新番は1番組から6番組まであり、鷹狩りの際には1番組と2番組、3番組と4番組、そして5番組と6番組が夫々、ペアを組んでは将軍の「SP」として鷹狩りに随う。
無論、4番組にしても5人の供弓を選ぶことが許されており、この4番組だが、端的に言って、
「少数精鋭…」
その四文字が当て嵌まる。
4番組の番士の大半はそもそも、的を射て時服を賜ったことすらない連中ばかりであり―、その点では佐野善左衛門も同様なのだが、しかし、「ツブ」が揃っていた。
即ち、組頭の田村庄左衛門直佳、それに番士の森彌五郎定救、正木十郎右衛門弘榮、兒島榮次郎正苗、篠山長次郎資房の5人であり、鷹狩りにおいては4番組ではいつもこの5人が供弓を務めていた。この5人はいずれも鳥を射て、或いは、しばしば的を射て時服を賜ってきた面々であるからだ。
それにしても組頭が自ら、供弓として「出馬」するなど4番組ぐらいのものであろう。
何しろ新番組頭の半数はそもそも、的を射て時服を賜ったことすらないからだ。
佐野善左衛門が属する3番組の組頭である兒島孫助は嘗て一度だけ、的を射て時服を賜ったことがある程度であり、それも随分と昔の話であった。
その点、4番組の組頭である田村庄左衛門は新番組頭の中では唯一、鳥を射て時服を賜った実績があり、のみならず、還暦を過ぎた今でも配下の番士に混じって供弓として鷹狩りに参加していたのだ。
佐野善左衛門はその様な田村庄左衛門を組頭に戴く4番組の番士が正直、羨ましかった。
だがそれと今日の鷹狩りとはまた、話が別であった。
「4番組に負けてなるものか…」
木下川の邊に立った佐野善左衛門はそう気負うと、思わず武者震いがした。
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