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田沼意知暗殺への途 ~新番士・矢部主膳正方~

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 ひなくちにした「矢部やべ主膳殿しゅぜんどの」とは新番しんばん矢部やべ主膳正方しゅぜんまさすけのことである。

 と言っても矢部やべ主膳しゅぜん意知おきとも暗殺あんさつさせようと言うのではない。もとよりそのようなことは不可能ふかのうだからだ。

 それと言うのも、矢部やべ主膳しゅぜん叔母おば主膳しゅぜんちち矢部やべ專助正英せんすけまさひで実妹じつまいむめなんと、普請ふしん奉行ぶぎょう岩本いわもと内膳正ないぜんのかみ正利まさとし妻女さいじょであるからだ。

 そのむめ岩本正利いわもとまさとしとのあいだにもうけた次女じじょこそが一橋ひとつばし治済はるさだ愛妾あいしょうとみであり、さらにそのとみ治済はるさだとのあいだ次期じき将軍しょうぐんえらばれた家斉いえなりをもうけたのだ。

 つまり、矢部やべ主膳しゅぜんにとってとみ叔母おばむすめというわけ従姉いとこたり、そのとみんだ家斉いえなり主膳しゅぜんにとっては従甥いとこおいたる。

 そのような、次期じき将軍しょうぐん縁続えんつづきの矢部やべ主膳しゅぜん意知おきとも討果うちはたさせるわけにはゆかなかった。

 だが矢部やべ主膳しゅぜん新番しんばんであるので、相役あいやく同僚どうりょう新番しんばんなか若年寄わかどしより暗殺あんさつをもいとわぬような、そんな御仁ごじんがいないかどうか、矢部やべ主膳しゅぜんたずねてみてはと、ひなかる意味いみ矢部やべ主膳しゅぜんげたのであった。

「うむ…、矢部やべ主膳しゅぜんなれば心当こころあたりがあるやもれぬな…」

 治済はるさだはそうおうずると、

「されば…、明日あすにでもだれぞ、矢部やべ主膳しゅぜんもとへとつかわすとするかの…」

 治済はるさだ用件ようけんがあるので一橋ひとつばし屋敷やしきまでしい―、そのむね矢部やべ主膳しゅぜんへとつたえるべく、だれ適当てきとうもの矢部やべ主膳しゅぜんもとへと差向さしむけようと、治済はるさだはそう示唆しさしたのであった。

「されば…、岩本いわもと市太郎いちたろう矢部やべ主膳しゅぜんもとへと差向さしむけられましては如何いかがでござりましょう…」

 久田ひさだ縫殿助ぬいのすけはそう提案ていあんした。

 岩本いわもと市太郎いちたろうとは一橋ひとつばし徒頭かちがしらにして、岩本正利いわもとまさとし実弟じってい岩本いわもと喜内きない正信まさのぶ次男じなんであった。

 つまり岩本いわもと市太郎いちたろう矢部やべ主膳しゅぜん縁者えんじゃたり―、伯父おじ岩本正利いわもとまさとし妻女さいじょむめ矢部やべ主膳しゅぜん叔母おばであるので―、しかも市太郎いちたろうはこの一橋ひとつばし邸内ていないにある組屋敷くみやしきにてちち岩本いわもと喜内きないははたにらしており、元服げんぷくませてはいたが、いま一橋ひとつばし家臣かしんではないので、

時間じかん自由じゆうく…」

 それゆえ矢部やべ主膳しゅぜんへの「メッセンジャー」としては最適任さいてきにんと言えた。

 するとそこでひなが「おそれながら…」とくちはさんだかとおもうと、

矢部やべ主膳殿しゅぜんどの当家とうけへとあしはこばせますのは明後日あさっての24日がよろしいかと…」

 矢部やべ主膳しゅぜんをこの一橋ひとつばし屋敷やしき、それも大奥おおおくに「ご招待しょうたい」するのは11月24日がいのではないかと、そう提案ていあんしたのであった。

「そはまた何故なにゆえに?」

 久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ主君しゅくん治済はるさだ成代なりかわり、たずねた。

「されば明日あすはやし肥後ひご殿どの登城とじょうされ、明後日あさって水谷みずのや但馬たじま殿どの登城とじょうされますによって…」

 ひながそうこたえると、治済はるさだも「成程なるほど」と合点がてんがいった。

 三卿さんきょう家老かろう交代こうたい御城えどじょう登城とじょうするので、ここ一橋ひとつばしにおいては明日あすの23日にははやし肥後守ひごのかみ忠篤ただあつ登城とじょうする予定よていであり、さらにその翌日よくじつの24日には今度こんど水谷みずのや但馬守たじまのかみ勝富かつとみ登城とじょうする予定よていであり、うらかえせば24日は水谷勝富みずのやかつとみ日中にっちゅうは、すくなくとも治済はるさだ御城えどじょうより下城げじょうせぬかぎりはここ一橋ひとつばし屋敷やしき留守るすにするというわけだ。

 それゆえなにかと口喧やかましい存在そんざい水谷勝富みずのやかつとみ不在ふざいとなる24日に矢部やべ主膳しゅぜんまねくのは如何いかにも良策りょうさくと言えた。

 これでかりに、はやし忠篤ただあつ登城とじょうする、それゆえに、水谷勝富みずのやかつとみ一橋ひとつばし屋敷やしき留守るすあずかるおり矢部やべ主膳しゅぜん一橋ひとつばし屋敷やしきまねこうものなら、水谷勝富みずのやかつとみのことである、かならずや誰何すいかするにちがいなかった。

 そのてんはやし忠篤ただあつならばその心配しんぱい無用むようであった。

 水谷勝富みずのやかつとみ登城とじょうする当然とうぜんはやし忠篤ただあつ一橋ひとつばし屋敷やしき留守るすあずかるわけだが、いま忠実ちゅうじつ番犬ばんけんしているはやし忠篤ただあつならば、あらかじめ、矢部やべ主膳しゅぜん来訪らいほうげておけば、それだけではやし忠篤ただあつすべてを呑込のみこみ、誰何すいかするよう無粋ぶすい真似まねはすまい。

相分あいわかった…、されば忠篤ただあつにはこの治済はるさだよりはなしを…、矢部やべ主膳しゅぜんがことをはなしておくとして、廣敷用人ひろしきようにんにもこのむねはなしとおしておかねばなるまいの…」

 一橋ひとつばし屋敷やしきあるじたる治済はるさだみずから、訪問客ほうもんきゃく大奥おおおくへと案内あんないするぶんには廣敷用人ひろしきようにんがその訪問客ほうもんきゃく誰何すいかすることはない。

 だが、治済はるさだ不在ふざいおり訪問客ほうもんきゃく大奥おおおくへと立入たちいろうとすれば当然とうぜん誰何すいかすることになる。

 それならばいっそのこと24日は治済はるさだ御城えどじょう登城とじょうになどおよばずに、この一橋ひとつばし屋敷やしきにて訪問客ほうもんきゃくを、すなわち、矢部やべ主膳しゅぜん来訪らいほう待受まちうければはなし簡単かんたんだが、しかし、平日へいじつはいつも登城とじょうする治済はるさだが24日にかぎって、それも水谷勝富みずのやかつとみ登城とじょうするかぎって、登城とじょうしないとなれば、

おの一橋ひとつばし屋敷やしき留守るすにするあいだだれか…、この勝富かつとみにはられたくないもの一橋ひとつばし屋敷やしきへと引入ひきいれるつもりではあるまいの…」

 勝富かつとみにそう勘繰かんぐられるのは間違まちがいなかろう。それゆえ、24日にかぎって治済はるさだ登城とじょうしないというわけにはゆかないのだ。

「されば平井ひらい逸平いっぺいめが相応ふさわしいかと…」

 現在げんざい、この一橋ひとつばしには4人もの廣敷用人ひろしきようにんがおり、久田ひさだ縫殿助ぬいのすけはそのなかから、平井ひらい逸平いっぺい俊相しゅんすけげた。

 それには理由わけがあり、

治済はるさだ一番いちばん忠実ちゅうじつなる番犬ばんけんだから…」

 それにきた。

 平井ひらい逸平いっぺい元々もともと一橋ひとつばし領内りょうないにおける代官所だいかんしょにて手代てだいつとめており、しかも百姓ひゃくしょう身分みぶんであった。

 だが平井ひらい逸平いっぺい才智さいちけ、いや、だからこそ百姓ひゃくしょうまれではあったが、代官所だいかんしょ手代てだい取立とりたてられ、しかも平井ひらい逸平いっぺいのその目覚めざましいはたらきぶりが「本社ほんしゃ」とも言うべき江戸えど一橋ひとつばし屋敷やしきまで、その「社長しゃちょう」とも言うべき治済はるさだみみにまでとどき、

「それほどまでに才智さいちけたものであらば…」

 治済はるさだはそうかんがえると、「本社ほんしゃ」である江戸えど一橋ひとつばし屋敷やしきへと平井ひらい逸平いっぺい呼寄よびよせ、まずは廣敷用達ひろしきようたしとして試用しようした。

 するとこれがまた目覚めざましいはたらきぶりであり、そこで治済はるさだ廣敷用達ひろしきようたしから一気いっき廣敷用人ひろしきようにんへと取立とりたて、のみならず三頭さんとう左巴ひだりともえという格式かくしきある紋所もんどころ着用ちゃくようゆるしたうえに、小川丁おがわちょうおもて神保じんぼう小路こうじという一等地いっとうち屋敷やしきまであたえたのだ。

 平井ひらい逸平いっぺい三卿さんきょう家臣かしんなかでも「抱入かかえいれ」の身分みぶんぞくする。

 三卿さんきょう家臣かしん旗本はたもと当主とうしゅ嫡子ちゃくし構成こうせいされる附人つけびと旗本はたもと次男じなん三男坊さんなんぼうあるいは御家人ごけにん構成こうせいされる附切つけきり、そして三卿さんきょう個人的こじんてきやと抱入かかえいれの3つの階層かいそう区分くぶんされ、抱入かかえいれ家臣かしんもっと身分みぶんひくく、平井ひらい逸平いっぺいよう百姓ひゃくしょう出身しゅっしんものもおれば、浪人ろうにん出身しゅっしんものもいた。

 だがそれだけに―、抱入かかえいれ家臣かしん三卿さんきょう直接ちょくせつやとれるだけに、三卿さんきょうたいする忠誠心ちゅうせいしんというてんではこの抱入かかえいれ家臣かしんもっとたかく、三卿さんきょう忠実ちゅうじつであった。

 平井ひらい逸平いっぺいもその、

「ご多分たぶんれず…」

 4人の廣敷用人ひろしきようにんなかでも治済はるさだたいする忠誠心ちゅうせいしんでは一番いちばんと言えた。

 それは治済はるさだ自身じしんみとめるところであり、いや、治済はるさだだけでなく、周囲しゅういからも―、この久田ひさだ縫殿助ぬいのすけからもみとめられていた。

 それゆえ久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ平井ひらい逸平いっぺいげたのであった。

 治済はるさだ久田ひさだ縫殿助ぬいのすけのその「推挙すいきょ」を至当しとうみとめるや、ひなめいじて久田ひさだ縫殿助ぬいのすけれてさせた。

 いまはもう暮六くれむつ(午後6時頃)であり、大半たいはん家臣かしん仕事しごとえ、組屋敷くみやしきにてやすんでいるころであった。

 だが、例外れいがいもあり、廣敷用人ひろしきようにんがそうであった。それと言うのも、この大奥おおおくまも役目やくめをもになっていたからだ。

 御城えどじょう大奥おおおくには警備けいび部門ぶもんのトップである廣敷番之頭ひろしきばんのがしらかれていたが、それにたいして三卿さんきょう大奥おおおくには、と言うと、流石さすが廣敷番之頭ひろしきばんのがしらかれず、廣敷用人ひろしきようにん廣敷番之頭ひろしきばんのがしら役目やくめをもになっていたのだ。

 ここ一橋ひとつばし屋敷やしきにおいては、いや、一橋ひとつばし屋敷やしきかぎらず、三卿さんきょう屋敷やしきすべてにまろうが、大奥おおおく表向おもてむきとの境目さかいめ廣敷用人ひろしきようにん番所ばんしょがあり、廣敷用人ひろしきようにんはその番所ばんしょめて大奥おおおくへと立入たちい不審者ふしんしゃがいないかどうかひからせていた。

 ここ一橋ひとつばしにおいては4人の廣敷用人ひろしきようにんがおり、毎日まいにち、「三交代制さんこうたいせい」で番所ばんしょめていた。

 すなわち、朝五つ(午前8時頃)から夕七つ(午後4時頃)までの朝番あさばんと夕七つ(午後4時頃)から暁九つ(午前0時頃)までの宵番よいばん、そして|暁九つ(午前0時頃)から翌朝よくちょうの朝五つ(午前8時頃)までの不寝番ねずのばんの「三交代制さんこうたいせい」であり、いま暮六くれむつ(午後6時頃)をぎたころであるので、ちょうど宵番よいばん番所ばんしょめていた。

 本日ほんじつ宵番よいばんは―、夕七つ(午後4時頃)より廣敷番之頭ひろしきばんのがしら役目やくめねていたのは、さいわいにも平井ひらい逸平いっぺいであった。

 ひなはその番所ばんしょへとおもむくと、めていた平井ひらい逸平いっぺいたいして、治済はるさだんでいることをげ、こうしてひな平井ひらい逸平いっぺいともない、治済はるさだぜんへともどってた。

 治済はるさだ平井ひらい逸平いっぺい相対そうたいするや、矢部やべ主膳しゅぜんけんつたえた。

矢部やべ主膳殿しゅぜんどのまいられまするは24日…、明後日あさっての24日にて?」

 平井ひらい逸平いっぺいはそう聞返ききかえしたので、治済はるさだ左様さようおうじた。

「いや、矢部やべ主膳しゅぜん新番しんばんつとめておるゆえに、そのつと次第しだいだがの…」

 治済はるさだはそう補足ほそくした。

 幕府ばくふ所謂いわゆる、「武官ぶかん五番方ごばんかた」にしても「交代制こうたいせい」をり、しかし、平井ひらい逸平いっぺいよう三卿さんきょう廣敷用人ひろしきようにんとはことなり、「四交代制よんこうたいせい」であった。

 すなわち、「武官ぶかん五番方ごばんかた」は一日いちにち6時間勤務きんむであり、その勤務シフトだが、朝五つ(午前8時頃)より昼八つ(午後2時頃)までの朝番あさばん、昼八つ(午後2時頃)より宵五つ(午後8時頃)までの当番とうばん、宵五つ(午後8時頃)より翌日よくじつの暁八つ(午前2時頃)までの宵番よいばん、そして暁八つ(午前2時頃)より朝五つ(午前8時頃)までの不寝番ねずのばんの「四交代制よんこうたいせい」であった。

 矢部やべ主膳しゅぜんは「武官ぶかん五番方ごばんかた」のひとつ、新番しんばん番士ばんしゆえ当然とうぜん、その「四交代制よんこうたいせい」で新番しんばんとしてのつとめをたしており、これで24日が朝番あさばんならば―、矢部やべ主膳しゅぜん朝番あさばんつとめることになっているならば、その矢部やべ主膳しゅぜん一橋ひとつばしまねくことは出来できなかった。

 いや、ただまねくだけならば「不可能ふかのう」ということはありなかった。

 矢部やべ主膳しゅぜんつとめをえる昼八つ(午後2時頃)以降いこう矢部やべ主膳しゅぜん一橋ひとつばしへとあしはこんでもらえればそれでむからだ。

 だが、それだと水谷勝富みずのやかつとみ気付きづかれることになる。

 矢部やべ主膳しゅぜんまねくにさいしては、

水谷勝富みずのやかつとみぬすんで…」

 という「オプション」がいていたからだ。

 治済はるさだ水谷勝富みずのやかつとみともにここ一橋ひとつばし屋敷やしき不在ふざいにするのははやくともあさの五つ半(午前9時頃)よりおそくともひるの九つ半(午後1時頃)までであり、ちょうど「武官ぶかん五番方ごばんかた」の勤務シフト、それも朝番あさばん勤務シフト範囲内はんいないであった。

 これでは―、矢部やべ主膳しゅぜん朝番あさばんならば、

水谷勝富みずのやかつとみぬすんで…」

 矢部やべ主膳しゅぜん一橋ひとつばしまねくことは不可能ふかのうであろう。

 いや、矢部やべ主膳しゅぜんの24日の勤務シフトかり朝番あさばんだとしても、治済はるさだ矢部やべ主膳しゅぜん勤務シフトえる昼八つ(午後2時頃)以降いこう御城えどじょうとどまれば、家老かろう水谷勝富みずのやかつとみ治済はるさだの「監視役かんしやく」として畢竟ひっきょう御城えどじょうとどまることになるので、

水谷勝富みずのやかつとみぬすんで…」

 矢部やべ主膳しゅぜん一橋ひとつばしまねくことも可能かのうやもれぬ。

 だが実際じっさいにはそれもまた不可能ふかのうであった。

 それと言うのも、普段ふだんおそくともひるの九つ半(午後1時頃)までには下城げじょうする治済はるさだが24日にかぎって昼八つ(午後2時頃)以降いこう御城えどじょうとどまれば、それだけで水谷勝富みずのやかつとみあやしまれるであろう。

 なにしろ、水谷勝富みずのやかつとみ口喧くちやかましいだけではない、かんおとこでもある。

 24日にかぎって、治済はるさだ中々なかなか下城げじょうおよばなければ、それだけで、

おれがいないあいだに…、治済はるさだ監視役かんしやくつとめているあいだに、一橋ひとつばし屋敷やしきだれぞ、それもおれ気付きづかれぬようひそかに引込ひきこむつもりではあるまいの…」

 水谷勝富みずのやかつとみにそうと気付きづかれる危険性リスクがあった。

 かる次第しだいで、矢部やべ主膳しゅぜんをここ一橋ひとつばしまねくことが出来できるのは矢部やべ主膳しゅぜん朝番あさばん以外いがいの、当番とうばん宵番よいばん、そして不寝番ねずのばんかぎられた。

 当番とうばん宵番よいばん、そして不寝番ねずのばんいずれかであれば、朝五つ(午前8時頃)以降いこうより昼八つ(午後2時頃)まえまでのあいだ勤務シフトがなく、それはちょうど、治済はるさだ水谷勝富みずのやかつとみしたがいて、御城えどじょうとどまる、つまりは一橋ひとつばし屋敷やしき不在ふざいにする時間じかんともかさなるからだ。

「まぁ、24日が朝番あさばんなれば、さらにその明後日あさっての26日にでもまねけばい…」

 かりに24日が矢部やべ主膳しゅぜんにとっては朝番あさばん勤務シフトであったとしても、その明後日あさっての26日ならば―、やはり治済はるさだ水谷勝富みずのやかつとみしたがい、御城えどじょう登城とじょうする26日であれば、矢部やべ主膳しゅぜんのその勤務シフト最早もはや朝番あさばん以外いがいであるのは間違まちがいないからだ。

 朝番あさばんつとめたもの明後日あさってにもふたたび、朝番あさばんつとめることはありないと断言だんげん出来できるからだ。

 くして平井ひらい逸平いっぺい納得なっとくし、「かしこまりましてござりまする」とおうずるや、

よろしければこの平井ひらい逸平いっぺい矢部やべ主膳殿しゅぜんどのもとへとむかえにまいりまするが…」

 そう提案ていあんしたのであった。

「されば24日はさいわいにも、廣敷用人ひろしきようにんとして専念せんねん出来できますゆえ…」

 平井ひらい逸平いっぺいはそう付加つけくわえた。

 三卿さんきょう、それもここ一橋ひとつばしにおいては廣敷用人ひろしきようにん平井ひらい逸平いっぺいふくめて4人おり、そこで日々ひび、そのうちの3人の廣敷用人ひろしきようにん交代こうたいで、それも「三交代制さんこうたいせい」で廣敷番之頭ひろしきばんのがしら役目やくめになわせ、のこ一人ひとり本業ほんぎょうとも言うべき廣敷用人ひろしきようにん専念せんねんさせていた。

 今日きょう、22日をれいるならば、まず外山とやま彌十郎やじゅうろう正直まさなおが暁九つ(午前0時頃)より朝五つ(ごぜん8時頃)まで不寝番ねずのばんとして、いで平田ひらた重右衛門じゅうえもん正好まさよしが朝五つ(午前8時頃)から夕七つ(午後4時頃)まで朝番あさばんとして、夫々それぞれ廣敷番之頭ひろしきばんのがしら役目やくめ兼務けんむし、暮六くれむつ(午後6時頃)をぎたいまでは平井ひらい逸平いっぺいがそれより一刻いっとき(約2時間程)まえの夕七つ(午後4時頃)より宵番よいばんとして廣敷番之頭ひろしきばんのがしら兼務けんむ開始スタートさせ、これから暁九つ(午前0時頃)までその宵番よいばんつとめる予定よていであった。

 それゆえのこったもう一人ひとり廣敷用人ひろしきようにんである上原うえはら中兵衛ちゅうべえ行隆ゆきたか今日きょう一日いちにち廣敷用人ひろしきようにんとしての本業ほんぎょう専念せんねんしていた。つまりは廣敷番之頭ひろしきばんのがしらとしての兼務けんむからは免除めんじょされていた。

 平井ひらい逸平いっぺいによると暁九つ(午前0時頃)に宵番よいばんえたならば、つまりは廣敷番之頭ひろしきばんのがしらとしての兼務けんむから解放かいほうされたならば、明日あすの23日は朝五つ(午前8時頃)までやすんだのち、朝五つ(午前8時頃)よりふたたび、廣敷番之頭ひろしきばんのがしらとして夕七つ(午後4時頃)まで朝番あさばんつとめ、それをえたならばさらにその翌日よくじつの24日はようやく、廣敷番之頭ひろしきばんのがしらとしての兼務けんむからは解放かいほうされ、廣敷用人ひろしきようにんとしての本業ほんぎょう専念せんねん出来できるとのことであった。

 もっともそれも―、廣敷用人ひろしきようにんとしての本業ほんぎょう専念せんねん出来できるのも、廣敷番之頭ひろしきばんのがしら勤務シフトひとつである朝番あさばんおなじく、朝五つ(午前8時頃)から夕七つ(午後4時頃)までであり、そのは夕七つ(午後4時頃)から暁九つ(午前0時頃)までやすんだのちふたたび、今度こんど不寝番ねずのばんを、|暁九つ(午前0時頃)より朝五つ(午前8時頃)まで廣敷番之頭ひろしきばんのがしらとして兼務けんむしなければならなかった。

 それは今日きょう、22日に廣敷用人ひろしきようにんとしての本業ほんぎょう専念せんねん出来でき上原うえはら中兵衛ちゅうべえにもまることであり、上原うえはら中兵衛ちゅうべえはこれから―、明日あす23日の暁九つ(午前0時頃)より朝五つ(午前8時頃)まで廣敷番之頭ひろしきばんのがしらとして不寝番ねずのばんつとめねばならなかった。

 かる次第しだい明後日あさっての24日は平井ひらい逸平いっぺい廣敷用人ひろしきようにんとしての本業ほんぎょう専念せんねん出来できるので、そこでみずか矢部やべ主膳しゅぜんもとへと出向でむいて、矢部やべ主膳しゅぜんをここ一橋ひとつばし大奥おおおくへとれてましょうかと、治済はるさだにそう提案ていあんしたのであった。

 それは如何いかにも治済はるさだたいする忠誠心ちゅうせいしんにおいてはだれにもけをらないと自他じたともみとめる平井ひらい逸平いっぺいらしい提案ていあんであり、治済はるさだにとっては、

わたりにふね…」

 まさにそのものの提案ていあんであった。

 矢部やべ主膳しゅぜん一人ひとり一橋ひとつばし屋敷やしきあしはこぶよりも、平井ひらい逸平いっぺいれててくれたほう断然だんぜん好都合こうつごうであったからだ。

 矢部やべ主膳しゅぜんもとへは事前じぜんに―、明日あすの23日にも岩本いわもと市太郎いちたろう治済直筆はるさだじきひつ一橋ひとつばし大奥おおおくへの「招待状しょうたいじょう」をとどけさせる予定よていであったが、矢部やべ主膳しゅぜんがそれをたずさえて、ここ一橋ひとつばし屋敷やしき門前もんぜん到着とうちゃくしたところで、

「スンナリ…」

 邸内ていないはいれるかどうか、それは治済はるさだにも自信じしんがなかった。

 無論むろん治済はるさだとしても矢部やべ主膳しゅぜんのことは、つまりは、

矢部やべ主膳しゅぜんたならば、スンナリとおしてやってくれ…」

 それをもんあずかる番頭ばんがしら事前じぜんつたえるつもりであったが、しかし治済はるさだのその意向いこう配下はいか組頭くみがしらをはじめとし、末端まったん門番もんばんにまで浸透しんとうするかどうか、治済はるさだにも自信じしんがなかったのだ。仮令たとえ矢部やべ主膳しゅぜん治済直筆はるさだじきじつの「招待状しょうたいじょう」をたずさえていたとしてもだ。

 だが、一橋ひとつばし家臣かしんである平井ひらい逸平いっぺい矢部やべ主膳しゅぜんれててくれるならばはなしべつである。

 一橋ひとつばし家臣かしんみずかれてものならば門番もんばん一切いっさい誰何すいかはしない。

 そのうえ平井ひらい逸平いっぺい家臣かしんなかでもここ、大奥おおおく男子だんし役人やくにんである廣敷用人ひろしきようにんでもあり、それゆえ、その平井ひらい逸平いっぺいれてものならば、大奥おおおくへの不審者ふしんしゃひからせる廣敷番之頭ひろしきばんのがしらとしての役目やくめ兼務けんむする廣敷用人ひろしきようにんからも誰何すいかされることはないだろう。

「されば逸平いっぺいよ、そなたにたのむとしようぞ…」

 治済はるさだ平井ひらい逸平いっぺい矢部やべ主膳しゅぜんの「送迎役そうげいやく」をたのんだのであった。

「ははっ…、して矢部やべ主膳殿しゅぜんどのまいは…」

 平井ひらい逸平いっぺいはそのてんたずねた。矢部やべ主膳しゅぜんの「住所じゅうしょ」がからないことには平井ひらい逸平いっぺいとて、「送迎役そうげいやく」をたすことは出来できず、それゆえもっともな質問しつもんであった。

 するとその質問しつもんには久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ即答そくとうした。久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ一橋ひとつばしきっての知恵者ちえしゃだけあって、一橋ひとつばしとは、と言うよりは治済はるさだ所縁ゆかりのあるものの「住所じゅうしょ」についてはすべ把握はあくしていたのだ。

「されば北本所きたほんじょ牛御前うしのごぜん旅所たびしょぞ…」

 そこが矢部やべ主膳しゅぜん屋敷やしき所在地しょざいちであった。

承知しょうちつかまつりましてござりまする…」

 平井ひらい逸平いっぺいうやうやしくそうおうずると、治済はるさだ御前ごぜんよりがり、番所ばんしょへともどった。

 治済はるさだ平井ひらい逸平いっぺいがらせると、つづいて、矢部やべ主膳宛しゅぜんあて書状しょじょうもとい一橋ひとつばし大奥おおおくへの「招待状しょうたいじょう」をしたためると、今度こんど久田ひさだ縫殿助ぬいのすけめいじて、組屋敷くみやしきにてやすんでいた岩本いわもと喜内きない市太郎いちたろう父子ふしび、そして喜内きない市太郎いちたろうにも矢部やべ主膳しゅぜんけんつたえたうえで、治済はるさだしたためたばかりの「招待状しょうたいじょう」を市太郎いちたろうたくしたのであった。

 ただ「招待状しょうたいじょう」を市太郎いちたろうたくすだけならば、市太郎いちたろう一人ひとりべばはなしにもおもわれるやもれないが、しかし、市太郎いちたろうちち岩本いわもと喜内きないとはことなり、いま家臣かしんではない。

 その市太郎いちたろう家臣かしん同然どうぜんの「メッセンジャー」の役目やくめになわせる以上いじょうあらかじめ、ちち岩本いわもと喜内きないにもはなしとおしておいたほう無難ぶなんであろう。

 喜内きないあずからぬところで、せがれ市太郎いちたろう治済はるさだ使つかわれたとあってはけっしてはしないだろうからだ。

 ともあれ岩本いわもと喜内きない市太郎いちたろう父子ふし治済はるさだはなしを―、矢部やべ主膳しゅぜんけん了承りょうしょうすると、市太郎いちたろうはこれまた、

うやうやしく…」

 治済はるさだより矢部やべ主膳宛しゅぜんあての「招待状しょうたいじょう」を受取うけとったのであった。

 それから治済はるさだ岩本いわもと市太郎いちたろうにも矢部やべ主膳しゅぜんの「住所じゅうしょ」をつたえた。

 もっとも、市太郎いちたろう平井ひらい逸平いっぺいとはことなり、矢部やべ主膳しゅぜんの「住所じゅうしょ」を把握はあくしていた。それと言うのも、岩本いわもと市太郎いちたろうちち喜内きない実兄じっけい市太郎いちたろうにとっては伯父おじである岩本正利いわもとまさとし妻女さいじょむめこそが矢部やべ主膳しゅぜん叔母おばであり、つまりは岩本いわもと市太郎いちたろうにとっても矢部やべ主膳しゅぜん縁者えんじゃであり、それゆえ岩本いわもと市太郎いちたろう縁者えんじゃである矢部やべ主膳しゅぜんの「住所じゅうしょ」を把握はあくしていたのだ。

 くして翌日よくじつの23日、岩本いわもと市太郎いちたろう治済直筆はるさだじきひつの「招待状しょうたいじょう」を持参じさんして北本所きたほんじょ牛御前うしのごぜん旅所たびしょにある矢部やべ主膳しゅぜん屋敷やしきへとあしはこんだ。

 それはちょうど昼前ひるまえひるの四つ半(午前11時頃)であり、さいわいにも矢部やべ主膳しゅぜん在宅ざいたくであった。

 と言うよりはなん仮眠かみんっていたところであった。

 それと言うのも矢部やべ主膳しゅぜん今日きょう23日は、いや、正確せいかくには明日あすの24日の暁八つ(午前2時頃)から朝五つ(午前8時頃)にかけて不寝番ねずのばんつとめるので、それにそなえてすこはや仮眠かみんっていたのだ。

 岩本いわもと市太郎いちたろうはそうともらず、そこで矢部やべ主膳しゅぜんかいうと、まずはこしてしまったことをびたうえで、治済はるさだよりあずかった「招待状しょうたいじょう」をわたしたのであった。

 矢部やべ主膳しゅぜんもまた、治済直筆はるさだじきひつによる「招待状しょうたいじょう」とあって、

うやうやしく…」

 岩本いわもと市太郎いちたろうよりその「招待状しょうたいじょう」を受取うけとると、開封かいふうして一読いちどくするや、

委細いさい承知しょうちつかまつった…、いや、明日あすの24日は不寝番ねずのばんえたのちは、25日に朝番あさばんつとめるばでは時間じかんゆえに…」

 矢部やべ主膳しゅぜんはそうこたえた。これもまたさいわいであった。

「されば24日は…、つとめを…、不寝番ねずのばんえられましたならば直接ちょくせつに…、ここ北本所きたほんじょ牛御前うまのごぜん旅所たびしょ屋敷やしきにはもどられずに、直接ちょくせつ当家とうけへとあしはこばれましては如何いかがでござりましょうや…」

 おのれと、それに廣敷用人ひろしきようにん平井ひらい逸平いっぺい大手おおて門外もんそとへと―、矢部やべ主膳しゅぜん従者じゅうしゃ主君しゅくん主膳しゅぜんかえりを待受まちうける大手おおて門外もんそと下馬げばしょへとあしはこぶので、そこで落合おちあい、一橋ひとつばし大奥おおおくへと案内あんないすると、岩本いわもと市太郎いちたろうかせた。

 すると矢部やべ主膳しゅぜんもまたかせ、

「されば不寝番ねずのばんえしのち半刻はんとき(約1時間程)以上いじょう御城えどじょうにてときかせぎしのち下城げじょういたすとしましょう…」

 あさの五つ半(午前9時頃)をぎたころ大手おおて門外もんそと落合おちあおうと、矢部やべ主膳しゅぜん提案ていあんしたのであった。

 あさの五つ半(午前9時頃)ぎと言えば、治済はるさだ家老かろう水谷勝富みずのやかつとみしたがえて、御城えどじょうへと登城とじょうしてからしばらった頃合ころあいたり、そこで治済はるさだ水谷勝富みずのやかつとみ屋敷やしきからあと―、二人ふたり見送みおくったのち岩本いわもと市太郎いちたろう平井ひらい逸平いっぺい屋敷やしきればいと、矢部やべ主膳しゅぜんはそう言っていたのだ。

 そうすれば水谷勝富みずのやかつとみ気付きづかれずに、一橋ひとつばし屋敷やしきへと、その大奥おおおくへとあしはこぶことが出来できるからだ。

 岩本いわもと市太郎いちたろう矢部やべ主膳しゅぜんのその返答へんとううけたまわると、いそぎ、一橋ひとつばし屋敷やしきへともどり、やはり夕刻ゆうこく―、暮六くれむつ(午後6時頃)ぎにふたた大奥おおおくにて治済はるさだ面会めんかいおよぶや、矢部やべ主膳しゅぜんよりうけたまわったその返答へんとうつたえ、治済はるさだおおいによろこばせた。

 治済はるさだよろこぶと同時どうじ岩本いわもと市太郎いちたろう矢部やべ主膳しゅぜん二人ふたりの「機転きてん」をたたえもした。
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