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田沼意知暗殺への途 ~新番士・矢部主膳正方~
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雛が口にした「矢部主膳殿」とは新番士の矢部主膳正方のことである。
と言っても矢部主膳に意知を暗殺させようと言うのではない。元よりその様なことは不可能だからだ。
それと言うのも、矢部主膳の叔母、主膳が父、矢部專助正英が実妹の梅は何と、普請奉行の岩本内膳正正利の妻女であるからだ。
その梅が岩本正利との間にもうけた次女こそが一橋治済の愛妾の富であり、更にその富は治済との間に次期将軍に選ばれた家斉をもうけたのだ。
つまり、矢部主膳にとって富は叔母の娘という訳で従姉に当たり、その富が生んだ家斉は主膳にとっては従甥に当たる。
その様な、次期将軍と縁続きの矢部主膳に意知を討果たさせる訳にはゆかなかった。
だが矢部主膳は新番士であるので、相役、同僚の新番士の中で若年寄の暗殺をも厭わぬ様な、そんな御仁がいないかどうか、矢部主膳に尋ねてみてはと、雛は斯かる意味で矢部主膳の名を挙げたのであった。
「うむ…、矢部主膳なれば心当たりがあるやも知れぬな…」
治済はそう応ずると、
「されば…、明日にでも誰ぞ、矢部主膳の許へと遣わすとするかの…」
治済が用件があるので一橋屋敷まで来て欲しい―、その旨を矢部主膳へと伝えるべく、誰か適当な者を矢部主膳の許へと差向けようと、治済はそう示唆したのであった。
「されば…、岩本市太郎を矢部主膳が許へと差向けられましては如何でござりましょう…」
久田縫殿助はそう提案した。
岩本市太郎とは一橋家徒頭にして、岩本正利が実弟の岩本喜内正信が次男であった。
つまり岩本市太郎も矢部主膳の縁者に当たり―、伯父・岩本正利が妻女の梅が矢部主膳の叔母であるので―、しかも市太郎はこの一橋邸内にある組屋敷にて父・岩本喜内と母・谷と暮らしており、元服も済ませてはいたが、未だ一橋家臣ではないので、
「時間に自由が利く…」
それ故、矢部主膳への「メッセンジャー」としては最適任と言えた。
するとそこで雛が「畏れながら…」と口を挟んだかと思うと、
「矢部主膳殿に当家へと足を運ばせますのは明後日の24日が宜しいかと…」
矢部主膳をこの一橋屋敷、それも大奥に「ご招待」するのは11月24日が良いのではないかと、そう提案したのであった。
「そはまた何故に?」
久田縫殿助が主君・治済に成代わり、尋ねた。
「されば明日は林肥後殿が登城され、明後日は水谷但馬殿が登城されますによって…」
雛がそう応えると、治済も「成程」と合点がいった。
御三卿家老は交代で御城に登城するので、ここ一橋家においては明日の23日には林肥後守忠篤が登城する予定であり、更にその翌日の24日には今度は水谷但馬守勝富が登城する予定であり、裏を返せば24日は水谷勝富は日中は、少なくとも治済が御城より下城せぬ限りはここ一橋屋敷を留守にするという訳だ。
それ故、何かと口喧しい存在の水谷勝富が不在となる24日に矢部主膳を招くのは如何にも良策と言えた。
これで仮に、林忠篤が登城する日、それ故に、水谷勝富が一橋屋敷の留守を預かる折に矢部主膳を一橋屋敷に招こうものなら、水谷勝富のことである、必ずや誰何するに違いなかった。
その点、林忠篤ならばその心配は無用であった。
水谷勝富が登城する日は当然、林忠篤が一橋屋敷の留守を預かる訳だが、今や忠実な番犬と化している林忠篤ならば、予め、矢部主膳の来訪を告げておけば、それだけで林忠篤も全てを呑込み、誰何する様な無粋な真似はすまい。
「相分かった…、されば忠篤にはこの治済より話を…、矢部主膳がことを話しておくとして、廣敷用人にもこの旨、話を通しておかねばなるまいの…」
一橋屋敷の主たる治済が自ら、訪問客を大奥へと案内する分には廣敷用人がその訪問客を誰何することはない。
だが、治済が不在の折に訪問客が大奥へと立入ろうとすれば当然、誰何することになる。
それならばいっそのこと24日は治済は御城に登城になど及ばずに、この一橋屋敷にて訪問客を、即ち、矢部主膳が来訪を待受ければ話は簡単だが、しかし、平日はいつも登城する治済が24日に限って、それも水谷勝富が登城する日に限って、登城しないとなれば、
「自が一橋屋敷を留守にする間に誰か…、この勝富には知られたくない者を一橋屋敷へと引入れるつもりではあるまいの…」
勝富にそう勘繰られるのは間違いなかろう。それ故、24日に限って治済が登城しないという訳にはゆかないのだ。
「されば平井逸平めが相応しいかと…」
現在、この一橋家には4人もの廣敷用人がおり、久田縫殿助はその中から、平井逸平俊相の名を挙げた。
それには理由があり、
「治済に一番、忠実なる番犬だから…」
それに尽きた。
平井逸平は元々は一橋家の領内における代官所にて手代を務めており、しかも百姓身分であった。
だが平井逸平は才智に長け、いや、だからこそ百姓の生まれではあったが、代官所の手代に取立てられ、しかも平井逸平のその目覚しい働きぶりが「本社」とも言うべき江戸の一橋屋敷まで、その「社長」とも言うべき治済の耳にまで届き、
「それ程までに才智に長けた者であらば…」
治済はそう考えると、「本社」である江戸の一橋屋敷へと平井逸平を呼寄せ、まずは廣敷用達として試用した。
するとこれがまた目覚ましい働きぶりであり、そこで治済は廣敷用達から一気に廣敷用人へと取立て、のみならず三頭左巴という格式ある紋所の着用を許した上に、小川丁は表神保小路という一等地に屋敷まで与えたのだ。
平井逸平は御三卿家臣の中でも「抱入」の身分に属する。
御三卿家臣は旗本の当主や嫡子で構成される附人と旗本の次男、三男坊、或いは御家人で構成される附切、そして御三卿が個人的に雇う抱入の3つの階層に区分され、抱入の家臣が最も身分が低く、平井逸平の様に百姓出身の者もおれば、浪人出身の者もいた。
だがそれだけに―、抱入の家臣は御三卿が直接、雇い入れるだけに、御三卿に対する忠誠心という点ではこの抱入の家臣が最も高く、御三卿に忠実であった。
平井逸平もその、
「ご多分に漏れず…」
4人の廣敷用人の中でも治済に対する忠誠心では一番と言えた。
それは治済自身も認めるところであり、いや、治済だけでなく、周囲からも―、この久田縫殿助からも認められていた。
それ故、久田縫殿助は平井逸平の名を挙げたのであった。
治済も久田縫殿助のその「推挙」を至当と認めるや、雛に命じて久田縫殿助を連れて来させた。
今はもう暮六つ(午後6時頃)であり、大半の家臣は仕事を終え、組屋敷にて休んでいる頃であった。
だが、例外もあり、廣敷用人がそうであった。それと言うのも、この大奥を守る役目をも担っていたからだ。
御城大奥には警備部門のトップである廣敷番之頭が置かれていたが、それに対して御三卿の大奥には、と言うと、流石に廣敷番之頭は置かれず、廣敷用人が廣敷番之頭の役目をも担っていたのだ。
ここ一橋屋敷においては、いや、一橋屋敷に限らず、御三卿の屋敷全てに当て嵌まろうが、大奥と表向との境目に廣敷用人の番所があり、廣敷用人はその番所に詰めて大奥へと立入る不審者がいないかどうか目を光らせていた。
ここ一橋家においては4人の廣敷用人がおり、毎日、「三交代制」で番所に詰めていた。
即ち、朝五つ(午前8時頃)から夕七つ(午後4時頃)までの朝番と夕七つ(午後4時頃)から暁九つ(午前0時頃)までの宵番、そして|暁九つ(午前0時頃)から翌朝の朝五つ(午前8時頃)までの不寝番の「三交代制」であり、今は暮六つ(午後6時頃)を過ぎた頃であるので、ちょうど宵番が番所に詰めていた。
本日の宵番は―、夕七つ(午後4時頃)より廣敷番之頭の役目を兼ねていたのは、幸いにも平井逸平であった。
雛はその番所へと赴くと、詰めていた平井逸平に対して、治済が呼んでいることを告げ、こうして雛は平井逸平を伴い、治済の御前へと戻って来た。
治済は平井逸平と相対するや、矢部主膳の件を伝えた。
「矢部主膳殿が参られまするは24日…、明後日の24日にて?」
平井逸平はそう聞返したので、治済も左様と応じた。
「いや、矢部主膳も新番士を勤めておる故に、その勤め次第だがの…」
治済はそう補足した。
幕府の所謂、「武官五番方」にしても「交代制」を取り、しかし、平井逸平の様な御三卿の廣敷用人とは異なり、「四交代制」であった。
即ち、「武官五番方」は一日6時間勤務であり、その勤務だが、朝五つ(午前8時頃)より昼八つ(午後2時頃)までの朝番、昼八つ(午後2時頃)より宵五つ(午後8時頃)までの当番、宵五つ(午後8時頃)より翌日の暁八つ(午前2時頃)までの宵番、そして暁八つ(午前2時頃)より朝五つ(午前8時頃)までの不寝番の「四交代制」であった。
矢部主膳は「武官五番方」の一つ、新番の番士故、当然、その「四交代制」で新番士としての勤めを果たしており、これで24日が朝番ならば―、矢部主膳を朝番を勤めることになっているならば、その日は矢部主膳を一橋家に招くことは出来なかった。
いや、ただ招くだけならば「不可能」ということはあり得なかった。
矢部主膳が勤めを終える昼八つ(午後2時頃)以降に矢部主膳に一橋家へと足を運んで貰えればそれで済むからだ。
だが、それだと水谷勝富に気付かれることになる。
矢部主膳を招くに際しては、
「水谷勝富の目を盗んで…」
という「オプション」が付いていたからだ。
治済が水谷勝富と共にここ一橋屋敷を不在にするのは早くとも朝の五つ半(午前9時頃)より遅くとも昼の九つ半(午後1時頃)までであり、ちょうど「武官五番方」の勤務、それも朝番の勤務の範囲内であった。
これでは―、矢部主膳が朝番ならば、
「水谷勝富の目を盗んで…」
矢部主膳を一橋家に招くことは不可能であろう。
いや、矢部主膳の24日の勤務が仮に朝番だとしても、治済が矢部主膳が勤務を終える昼八つ(午後2時頃)以降も御城に留まれば、家老の水谷勝富も治済の「監視役」として畢竟、御城に留まることになるので、
「水谷勝富の目を盗んで…」
矢部主膳を一橋家に招くことも可能やも知れぬ。
だが実際にはそれもまた不可能であった。
それと言うのも、普段は遅くとも昼の九つ半(午後1時頃)までには下城する治済が24日に限って昼八つ(午後2時頃)以降も御城に留まれば、それだけで水谷勝富に怪しまれるであろう。
何しろ、水谷勝富は口喧しいだけではない、勘の良い男でもある。
24日に限って、治済が中々、下城に及ばなければ、それだけで、
「俺がいない間に…、治済の監視役を勤めている間に、一橋屋敷に誰ぞ、それも俺に気付かれぬ様、秘かに引込むつもりではあるまいの…」
水谷勝富にそうと気付かれる危険性があった。
斯かる次第で、矢部主膳をここ一橋家に招くことが出来るのは矢部主膳が朝番以外の、当番、宵番、そして不寝番に限られた。
当番、宵番、そして不寝番の何れかであれば、朝五つ(午前8時頃)以降より昼八つ(午後2時頃)前までの間は勤務がなく、それはちょうど、治済が水谷勝富を随いて、御城に留まる、つまりは一橋屋敷を不在にする時間とも重なるからだ。
「まぁ、24日が朝番なれば、更にその明後日の26日にでも招けば良い…」
仮に24日が矢部主膳にとっては朝番の勤務であったとしても、その明後日の26日ならば―、やはり治済が水谷勝富を随い、御城に登城する26日であれば、矢部主膳のその日の勤務は最早、朝番以外であるのは間違いないからだ。
朝番を勤めた者が明後日にも再び、朝番を勤めることはあり得ないと断言出来るからだ。
斯くして平井逸平も納得し、「畏まりましてござりまする」と応ずるや、
「宜しければこの平井逸平、矢部主膳殿が許へと迎えに参りまするが…」
そう提案したのであった。
「されば24日は幸いにも、廣敷用人として専念出来ます故…」
平井逸平はそう付加えた。
御三卿、それもここ一橋家においては廣敷用人が平井逸平も含めて4人おり、そこで日々、そのうちの3人の廣敷用人に交代で、それも「三交代制」で廣敷番之頭の役目を担わせ、残る一人を本業とも言うべき廣敷用人に専念させていた。
今日、22日を例に取るならば、まず外山彌十郎正直が暁九つ(午前0時頃)より朝五つ(ごぜん8時頃)まで不寝番として、次いで平田重右衛門正好が朝五つ(午前8時頃)から夕七つ(午後4時頃)まで朝番として、夫々、廣敷番之頭の役目を兼務し、暮六つ(午後6時頃)を過ぎた今では平井逸平がそれより一刻(約2時間程)前の夕七つ(午後4時頃)より宵番として廣敷番之頭の兼務を開始させ、これから暁九つ(午前0時頃)までその宵番を勤める予定であった。
それ故、残ったもう一人の廣敷用人である上原中兵衛行隆が今日は一日、廣敷用人としての本業に専念していた。つまりは廣敷番之頭としての兼務からは免除されていた。
平井逸平によると暁九つ(午前0時頃)に宵番を終えたならば、つまりは廣敷番之頭としての兼務から解放されたならば、明日の23日は朝五つ(午前8時頃)まで休んだ後、朝五つ(午前8時頃)より再び、廣敷番之頭として夕七つ(午後4時頃)まで朝番を勤め、それを終えたならば更にその翌日の24日は漸く、廣敷番之頭としての兼務からは解放され、廣敷用人としての本業に専念出来るとのことであった。
尤もそれも―、廣敷用人としての本業に専念出来るのも、廣敷番之頭の勤務の一つである朝番と同じく、朝五つ(午前8時頃)から夕七つ(午後4時頃)までであり、その後は夕七つ(午後4時頃)から暁九つ(午前0時頃)まで休んだ後、再び、今度は不寝番を、|暁九つ(午前0時頃)より朝五つ(午前8時頃)まで廣敷番之頭として兼務しなければならなかった。
それは今日、22日に廣敷用人としての本業に専念出来た上原中兵衛にも当て嵌まることであり、上原中兵衛はこれから―、明日23日の暁九つ(午前0時頃)より朝五つ(午前8時頃)まで廣敷番之頭として不寝番を勤めねばならなかった。
斯かる次第で明後日の24日は平井逸平は廣敷用人としての本業に専念出来るので、そこで自ら矢部主膳の許へと出向いて、矢部主膳をここ一橋家の大奥へと連れて来ましょうかと、治済にそう提案したのであった。
それは如何にも治済に対する忠誠心においては誰にも引けを取らないと自他共に認める平井逸平らしい提案であり、治済にとっては、
「渡りに船…」
正にそのものの提案であった。
矢部主膳が一人で一橋屋敷に足を運ぶよりも、平井逸平が連れて来てくれた方が断然、好都合であったからだ。
矢部主膳の許へは事前に―、明日の23日にも岩本市太郎に治済直筆の一橋大奥への「招待状」を届けさせる予定であったが、矢部主膳がそれを携えて、ここ一橋屋敷の門前に到着したところで、
「スンナリ…」
邸内に入れるかどうか、それは治済にも自信がなかった。
無論、治済としても矢部主膳のことは、つまりは、
「矢部主膳が来たならば、スンナリ通してやってくれ…」
それを門を預かる番頭に事前に伝えるつもりであったが、しかし治済のその意向が配下の組頭をはじめとし、末端の門番にまで浸透するかどうか、治済にも自信がなかったのだ。仮令、矢部主膳が治済直筆の「招待状」を携えていたとしてもだ。
だが、一橋家臣である平井逸平が矢部主膳を連れて来てくれるならば話は別である。
一橋家臣が自ら連れて来た者ならば門番も一切、誰何はしない。
その上、平井逸平は家臣の中でもここ、大奥の男子役人である廣敷用人でもあり、それ故、その平井逸平が連れて来た者ならば、大奥への不審者に目を光らせる廣敷番之頭としての役目を兼務する廣敷用人からも誰何されることはないだろう。
「されば逸平よ、そなたに頼むとしようぞ…」
治済は平井逸平に矢部主膳の「送迎役」を頼んだのであった。
「ははっ…、して矢部主膳殿が住まいは…」
平井逸平はその点を尋ねた。矢部主膳の「住所」が分からないことには平井逸平とて、「送迎役」を果たすことは出来ず、それ故、尤もな質問であった。
するとその質問には久田縫殿助が即答した。久田縫殿助は一橋家きっての知恵者だけあって、一橋家とは、と言うよりは治済と所縁のある者の「住所」については全て把握していたのだ。
「されば北本所は牛御前旅所ぞ…」
そこが矢部主膳の屋敷の所在地であった。
「承知仕りましてござりまする…」
平井逸平は恭しくそう応ずると、治済の御前より下がり、番所へと戻った。
治済は平井逸平を下がらせると、続いて、矢部主膳宛の書状もとい一橋大奥への「招待状」を認めると、今度は久田縫殿助に命じて、組屋敷にて休んでいた岩本喜内・市太郎父子を呼び、そして喜内と市太郎にも矢部主膳の件を伝えた上で、治済は認めたばかりの「招待状」を市太郎に託したのであった。
ただ「招待状」を市太郎に託すだけならば、市太郎一人を呼べば済む話にも思われるやも知れないが、しかし、市太郎は父・岩本喜内とは異なり、未だ家臣ではない。
その市太郎に家臣も同然の「メッセンジャー」の役目を担わせる以上は予め、父・岩本喜内にも話を通しておいた方が無難であろう。
喜内の与り知らぬところで、倅の市太郎が治済に使われたとあっては決して良い気はしないだろうからだ。
ともあれ岩本喜内・市太郎父子は治済の話を―、矢部主膳の件を了承すると、市太郎はこれまた、
「恭しく…」
治済より矢部主膳宛の「招待状」を受取ったのであった。
それから治済は岩本市太郎にも矢部主膳の「住所」を伝えた。
尤も、市太郎は平井逸平とは異なり、矢部主膳の「住所」を把握していた。それと言うのも、岩本市太郎は父・喜内の実兄、市太郎にとっては伯父である岩本正利が妻女の梅こそが矢部主膳の叔母であり、つまりは岩本市太郎にとっても矢部主膳は縁者であり、それ故、岩本市太郎は縁者である矢部主膳の「住所」を把握していたのだ。
斯くして翌日の23日、岩本市太郎は治済直筆の「招待状」を持参して北本所は牛御前旅所にある矢部主膳の屋敷へと足を運んだ。
それはちょうど昼前、昼の四つ半(午前11時頃)であり、幸いにも矢部主膳は在宅であった。
と言うよりは何と仮眠を取っていたところであった。
それと言うのも矢部主膳は今日23日は、いや、正確には明日の24日の暁八つ(午前2時頃)から朝五つ(午前8時頃)にかけて不寝番を勤めるので、それに備えて少し早い仮眠を取っていたのだ。
岩本市太郎はそうとも知らず、そこで矢部主膳と向かい合うと、まずは起こしてしまったことを詫びた上で、治済より預かった「招待状」を渡したのであった。
矢部主膳もまた、治済直筆による「招待状」とあって、
「恭しく…」
岩本市太郎の手よりその「招待状」を受取ると、開封して一読するや、
「委細承知仕った…、いや、明日の24日は不寝番を終えた後は、25日に朝番を勤めるばでは時間が空く故に…」
矢部主膳はそう答えた。これもまた幸いであった。
「されば24日は…、勤めを…、不寝番を終えられましたならば直接に…、ここ北本所の牛御前旅所の御屋敷には戻られずに、直接に当家へと足を運ばれましては如何でござりましょうや…」
己と、それに廣敷用人の平井逸平が大手御門外へと―、矢部主膳が従者が主君・主膳の帰りを待受ける大手御門外の下馬所へと足を運ぶので、そこで落合い、一橋大奥へと案内すると、岩本市太郎は気を利かせた。
すると矢部主膳もまた気を利かせ、
「されば不寝番を終えし後も半刻(約1時間程)以上も御城にて時を稼ぎし後、下城致すとしましょう…」
朝の五つ半(午前9時頃)を過ぎた頃に大手御門外で落合おうと、矢部主膳は提案したのであった。
朝の五つ半(午前9時頃)過ぎと言えば、治済が家老の水谷勝富を随えて、御城へと登城してから暫く経った頃合に当たり、そこで治済と水谷勝富が屋敷から出た後―、二人を見送った後に岩本市太郎と平井逸平も屋敷を出れば良いと、矢部主膳はそう言っていたのだ。
そうすれば水谷勝富に気付かれずに、一橋屋敷へと、その大奥へと足を運ぶことが出来るからだ。
岩本市太郎は矢部主膳のその返答を承ると、急ぎ、一橋屋敷へと立ち戻り、やはり夕刻―、暮六つ(午後6時頃)過ぎに再び大奥にて治済と面会に及ぶや、矢部主膳より承ったその返答を伝え、治済を大いに喜ばせた。
治済は喜ぶと同時に岩本市太郎と矢部主膳、二人の「機転」を褒め称えもした。
と言っても矢部主膳に意知を暗殺させようと言うのではない。元よりその様なことは不可能だからだ。
それと言うのも、矢部主膳の叔母、主膳が父、矢部專助正英が実妹の梅は何と、普請奉行の岩本内膳正正利の妻女であるからだ。
その梅が岩本正利との間にもうけた次女こそが一橋治済の愛妾の富であり、更にその富は治済との間に次期将軍に選ばれた家斉をもうけたのだ。
つまり、矢部主膳にとって富は叔母の娘という訳で従姉に当たり、その富が生んだ家斉は主膳にとっては従甥に当たる。
その様な、次期将軍と縁続きの矢部主膳に意知を討果たさせる訳にはゆかなかった。
だが矢部主膳は新番士であるので、相役、同僚の新番士の中で若年寄の暗殺をも厭わぬ様な、そんな御仁がいないかどうか、矢部主膳に尋ねてみてはと、雛は斯かる意味で矢部主膳の名を挙げたのであった。
「うむ…、矢部主膳なれば心当たりがあるやも知れぬな…」
治済はそう応ずると、
「されば…、明日にでも誰ぞ、矢部主膳の許へと遣わすとするかの…」
治済が用件があるので一橋屋敷まで来て欲しい―、その旨を矢部主膳へと伝えるべく、誰か適当な者を矢部主膳の許へと差向けようと、治済はそう示唆したのであった。
「されば…、岩本市太郎を矢部主膳が許へと差向けられましては如何でござりましょう…」
久田縫殿助はそう提案した。
岩本市太郎とは一橋家徒頭にして、岩本正利が実弟の岩本喜内正信が次男であった。
つまり岩本市太郎も矢部主膳の縁者に当たり―、伯父・岩本正利が妻女の梅が矢部主膳の叔母であるので―、しかも市太郎はこの一橋邸内にある組屋敷にて父・岩本喜内と母・谷と暮らしており、元服も済ませてはいたが、未だ一橋家臣ではないので、
「時間に自由が利く…」
それ故、矢部主膳への「メッセンジャー」としては最適任と言えた。
するとそこで雛が「畏れながら…」と口を挟んだかと思うと、
「矢部主膳殿に当家へと足を運ばせますのは明後日の24日が宜しいかと…」
矢部主膳をこの一橋屋敷、それも大奥に「ご招待」するのは11月24日が良いのではないかと、そう提案したのであった。
「そはまた何故に?」
久田縫殿助が主君・治済に成代わり、尋ねた。
「されば明日は林肥後殿が登城され、明後日は水谷但馬殿が登城されますによって…」
雛がそう応えると、治済も「成程」と合点がいった。
御三卿家老は交代で御城に登城するので、ここ一橋家においては明日の23日には林肥後守忠篤が登城する予定であり、更にその翌日の24日には今度は水谷但馬守勝富が登城する予定であり、裏を返せば24日は水谷勝富は日中は、少なくとも治済が御城より下城せぬ限りはここ一橋屋敷を留守にするという訳だ。
それ故、何かと口喧しい存在の水谷勝富が不在となる24日に矢部主膳を招くのは如何にも良策と言えた。
これで仮に、林忠篤が登城する日、それ故に、水谷勝富が一橋屋敷の留守を預かる折に矢部主膳を一橋屋敷に招こうものなら、水谷勝富のことである、必ずや誰何するに違いなかった。
その点、林忠篤ならばその心配は無用であった。
水谷勝富が登城する日は当然、林忠篤が一橋屋敷の留守を預かる訳だが、今や忠実な番犬と化している林忠篤ならば、予め、矢部主膳の来訪を告げておけば、それだけで林忠篤も全てを呑込み、誰何する様な無粋な真似はすまい。
「相分かった…、されば忠篤にはこの治済より話を…、矢部主膳がことを話しておくとして、廣敷用人にもこの旨、話を通しておかねばなるまいの…」
一橋屋敷の主たる治済が自ら、訪問客を大奥へと案内する分には廣敷用人がその訪問客を誰何することはない。
だが、治済が不在の折に訪問客が大奥へと立入ろうとすれば当然、誰何することになる。
それならばいっそのこと24日は治済は御城に登城になど及ばずに、この一橋屋敷にて訪問客を、即ち、矢部主膳が来訪を待受ければ話は簡単だが、しかし、平日はいつも登城する治済が24日に限って、それも水谷勝富が登城する日に限って、登城しないとなれば、
「自が一橋屋敷を留守にする間に誰か…、この勝富には知られたくない者を一橋屋敷へと引入れるつもりではあるまいの…」
勝富にそう勘繰られるのは間違いなかろう。それ故、24日に限って治済が登城しないという訳にはゆかないのだ。
「されば平井逸平めが相応しいかと…」
現在、この一橋家には4人もの廣敷用人がおり、久田縫殿助はその中から、平井逸平俊相の名を挙げた。
それには理由があり、
「治済に一番、忠実なる番犬だから…」
それに尽きた。
平井逸平は元々は一橋家の領内における代官所にて手代を務めており、しかも百姓身分であった。
だが平井逸平は才智に長け、いや、だからこそ百姓の生まれではあったが、代官所の手代に取立てられ、しかも平井逸平のその目覚しい働きぶりが「本社」とも言うべき江戸の一橋屋敷まで、その「社長」とも言うべき治済の耳にまで届き、
「それ程までに才智に長けた者であらば…」
治済はそう考えると、「本社」である江戸の一橋屋敷へと平井逸平を呼寄せ、まずは廣敷用達として試用した。
するとこれがまた目覚ましい働きぶりであり、そこで治済は廣敷用達から一気に廣敷用人へと取立て、のみならず三頭左巴という格式ある紋所の着用を許した上に、小川丁は表神保小路という一等地に屋敷まで与えたのだ。
平井逸平は御三卿家臣の中でも「抱入」の身分に属する。
御三卿家臣は旗本の当主や嫡子で構成される附人と旗本の次男、三男坊、或いは御家人で構成される附切、そして御三卿が個人的に雇う抱入の3つの階層に区分され、抱入の家臣が最も身分が低く、平井逸平の様に百姓出身の者もおれば、浪人出身の者もいた。
だがそれだけに―、抱入の家臣は御三卿が直接、雇い入れるだけに、御三卿に対する忠誠心という点ではこの抱入の家臣が最も高く、御三卿に忠実であった。
平井逸平もその、
「ご多分に漏れず…」
4人の廣敷用人の中でも治済に対する忠誠心では一番と言えた。
それは治済自身も認めるところであり、いや、治済だけでなく、周囲からも―、この久田縫殿助からも認められていた。
それ故、久田縫殿助は平井逸平の名を挙げたのであった。
治済も久田縫殿助のその「推挙」を至当と認めるや、雛に命じて久田縫殿助を連れて来させた。
今はもう暮六つ(午後6時頃)であり、大半の家臣は仕事を終え、組屋敷にて休んでいる頃であった。
だが、例外もあり、廣敷用人がそうであった。それと言うのも、この大奥を守る役目をも担っていたからだ。
御城大奥には警備部門のトップである廣敷番之頭が置かれていたが、それに対して御三卿の大奥には、と言うと、流石に廣敷番之頭は置かれず、廣敷用人が廣敷番之頭の役目をも担っていたのだ。
ここ一橋屋敷においては、いや、一橋屋敷に限らず、御三卿の屋敷全てに当て嵌まろうが、大奥と表向との境目に廣敷用人の番所があり、廣敷用人はその番所に詰めて大奥へと立入る不審者がいないかどうか目を光らせていた。
ここ一橋家においては4人の廣敷用人がおり、毎日、「三交代制」で番所に詰めていた。
即ち、朝五つ(午前8時頃)から夕七つ(午後4時頃)までの朝番と夕七つ(午後4時頃)から暁九つ(午前0時頃)までの宵番、そして|暁九つ(午前0時頃)から翌朝の朝五つ(午前8時頃)までの不寝番の「三交代制」であり、今は暮六つ(午後6時頃)を過ぎた頃であるので、ちょうど宵番が番所に詰めていた。
本日の宵番は―、夕七つ(午後4時頃)より廣敷番之頭の役目を兼ねていたのは、幸いにも平井逸平であった。
雛はその番所へと赴くと、詰めていた平井逸平に対して、治済が呼んでいることを告げ、こうして雛は平井逸平を伴い、治済の御前へと戻って来た。
治済は平井逸平と相対するや、矢部主膳の件を伝えた。
「矢部主膳殿が参られまするは24日…、明後日の24日にて?」
平井逸平はそう聞返したので、治済も左様と応じた。
「いや、矢部主膳も新番士を勤めておる故に、その勤め次第だがの…」
治済はそう補足した。
幕府の所謂、「武官五番方」にしても「交代制」を取り、しかし、平井逸平の様な御三卿の廣敷用人とは異なり、「四交代制」であった。
即ち、「武官五番方」は一日6時間勤務であり、その勤務だが、朝五つ(午前8時頃)より昼八つ(午後2時頃)までの朝番、昼八つ(午後2時頃)より宵五つ(午後8時頃)までの当番、宵五つ(午後8時頃)より翌日の暁八つ(午前2時頃)までの宵番、そして暁八つ(午前2時頃)より朝五つ(午前8時頃)までの不寝番の「四交代制」であった。
矢部主膳は「武官五番方」の一つ、新番の番士故、当然、その「四交代制」で新番士としての勤めを果たしており、これで24日が朝番ならば―、矢部主膳を朝番を勤めることになっているならば、その日は矢部主膳を一橋家に招くことは出来なかった。
いや、ただ招くだけならば「不可能」ということはあり得なかった。
矢部主膳が勤めを終える昼八つ(午後2時頃)以降に矢部主膳に一橋家へと足を運んで貰えればそれで済むからだ。
だが、それだと水谷勝富に気付かれることになる。
矢部主膳を招くに際しては、
「水谷勝富の目を盗んで…」
という「オプション」が付いていたからだ。
治済が水谷勝富と共にここ一橋屋敷を不在にするのは早くとも朝の五つ半(午前9時頃)より遅くとも昼の九つ半(午後1時頃)までであり、ちょうど「武官五番方」の勤務、それも朝番の勤務の範囲内であった。
これでは―、矢部主膳が朝番ならば、
「水谷勝富の目を盗んで…」
矢部主膳を一橋家に招くことは不可能であろう。
いや、矢部主膳の24日の勤務が仮に朝番だとしても、治済が矢部主膳が勤務を終える昼八つ(午後2時頃)以降も御城に留まれば、家老の水谷勝富も治済の「監視役」として畢竟、御城に留まることになるので、
「水谷勝富の目を盗んで…」
矢部主膳を一橋家に招くことも可能やも知れぬ。
だが実際にはそれもまた不可能であった。
それと言うのも、普段は遅くとも昼の九つ半(午後1時頃)までには下城する治済が24日に限って昼八つ(午後2時頃)以降も御城に留まれば、それだけで水谷勝富に怪しまれるであろう。
何しろ、水谷勝富は口喧しいだけではない、勘の良い男でもある。
24日に限って、治済が中々、下城に及ばなければ、それだけで、
「俺がいない間に…、治済の監視役を勤めている間に、一橋屋敷に誰ぞ、それも俺に気付かれぬ様、秘かに引込むつもりではあるまいの…」
水谷勝富にそうと気付かれる危険性があった。
斯かる次第で、矢部主膳をここ一橋家に招くことが出来るのは矢部主膳が朝番以外の、当番、宵番、そして不寝番に限られた。
当番、宵番、そして不寝番の何れかであれば、朝五つ(午前8時頃)以降より昼八つ(午後2時頃)前までの間は勤務がなく、それはちょうど、治済が水谷勝富を随いて、御城に留まる、つまりは一橋屋敷を不在にする時間とも重なるからだ。
「まぁ、24日が朝番なれば、更にその明後日の26日にでも招けば良い…」
仮に24日が矢部主膳にとっては朝番の勤務であったとしても、その明後日の26日ならば―、やはり治済が水谷勝富を随い、御城に登城する26日であれば、矢部主膳のその日の勤務は最早、朝番以外であるのは間違いないからだ。
朝番を勤めた者が明後日にも再び、朝番を勤めることはあり得ないと断言出来るからだ。
斯くして平井逸平も納得し、「畏まりましてござりまする」と応ずるや、
「宜しければこの平井逸平、矢部主膳殿が許へと迎えに参りまするが…」
そう提案したのであった。
「されば24日は幸いにも、廣敷用人として専念出来ます故…」
平井逸平はそう付加えた。
御三卿、それもここ一橋家においては廣敷用人が平井逸平も含めて4人おり、そこで日々、そのうちの3人の廣敷用人に交代で、それも「三交代制」で廣敷番之頭の役目を担わせ、残る一人を本業とも言うべき廣敷用人に専念させていた。
今日、22日を例に取るならば、まず外山彌十郎正直が暁九つ(午前0時頃)より朝五つ(ごぜん8時頃)まで不寝番として、次いで平田重右衛門正好が朝五つ(午前8時頃)から夕七つ(午後4時頃)まで朝番として、夫々、廣敷番之頭の役目を兼務し、暮六つ(午後6時頃)を過ぎた今では平井逸平がそれより一刻(約2時間程)前の夕七つ(午後4時頃)より宵番として廣敷番之頭の兼務を開始させ、これから暁九つ(午前0時頃)までその宵番を勤める予定であった。
それ故、残ったもう一人の廣敷用人である上原中兵衛行隆が今日は一日、廣敷用人としての本業に専念していた。つまりは廣敷番之頭としての兼務からは免除されていた。
平井逸平によると暁九つ(午前0時頃)に宵番を終えたならば、つまりは廣敷番之頭としての兼務から解放されたならば、明日の23日は朝五つ(午前8時頃)まで休んだ後、朝五つ(午前8時頃)より再び、廣敷番之頭として夕七つ(午後4時頃)まで朝番を勤め、それを終えたならば更にその翌日の24日は漸く、廣敷番之頭としての兼務からは解放され、廣敷用人としての本業に専念出来るとのことであった。
尤もそれも―、廣敷用人としての本業に専念出来るのも、廣敷番之頭の勤務の一つである朝番と同じく、朝五つ(午前8時頃)から夕七つ(午後4時頃)までであり、その後は夕七つ(午後4時頃)から暁九つ(午前0時頃)まで休んだ後、再び、今度は不寝番を、|暁九つ(午前0時頃)より朝五つ(午前8時頃)まで廣敷番之頭として兼務しなければならなかった。
それは今日、22日に廣敷用人としての本業に専念出来た上原中兵衛にも当て嵌まることであり、上原中兵衛はこれから―、明日23日の暁九つ(午前0時頃)より朝五つ(午前8時頃)まで廣敷番之頭として不寝番を勤めねばならなかった。
斯かる次第で明後日の24日は平井逸平は廣敷用人としての本業に専念出来るので、そこで自ら矢部主膳の許へと出向いて、矢部主膳をここ一橋家の大奥へと連れて来ましょうかと、治済にそう提案したのであった。
それは如何にも治済に対する忠誠心においては誰にも引けを取らないと自他共に認める平井逸平らしい提案であり、治済にとっては、
「渡りに船…」
正にそのものの提案であった。
矢部主膳が一人で一橋屋敷に足を運ぶよりも、平井逸平が連れて来てくれた方が断然、好都合であったからだ。
矢部主膳の許へは事前に―、明日の23日にも岩本市太郎に治済直筆の一橋大奥への「招待状」を届けさせる予定であったが、矢部主膳がそれを携えて、ここ一橋屋敷の門前に到着したところで、
「スンナリ…」
邸内に入れるかどうか、それは治済にも自信がなかった。
無論、治済としても矢部主膳のことは、つまりは、
「矢部主膳が来たならば、スンナリ通してやってくれ…」
それを門を預かる番頭に事前に伝えるつもりであったが、しかし治済のその意向が配下の組頭をはじめとし、末端の門番にまで浸透するかどうか、治済にも自信がなかったのだ。仮令、矢部主膳が治済直筆の「招待状」を携えていたとしてもだ。
だが、一橋家臣である平井逸平が矢部主膳を連れて来てくれるならば話は別である。
一橋家臣が自ら連れて来た者ならば門番も一切、誰何はしない。
その上、平井逸平は家臣の中でもここ、大奥の男子役人である廣敷用人でもあり、それ故、その平井逸平が連れて来た者ならば、大奥への不審者に目を光らせる廣敷番之頭としての役目を兼務する廣敷用人からも誰何されることはないだろう。
「されば逸平よ、そなたに頼むとしようぞ…」
治済は平井逸平に矢部主膳の「送迎役」を頼んだのであった。
「ははっ…、して矢部主膳殿が住まいは…」
平井逸平はその点を尋ねた。矢部主膳の「住所」が分からないことには平井逸平とて、「送迎役」を果たすことは出来ず、それ故、尤もな質問であった。
するとその質問には久田縫殿助が即答した。久田縫殿助は一橋家きっての知恵者だけあって、一橋家とは、と言うよりは治済と所縁のある者の「住所」については全て把握していたのだ。
「されば北本所は牛御前旅所ぞ…」
そこが矢部主膳の屋敷の所在地であった。
「承知仕りましてござりまする…」
平井逸平は恭しくそう応ずると、治済の御前より下がり、番所へと戻った。
治済は平井逸平を下がらせると、続いて、矢部主膳宛の書状もとい一橋大奥への「招待状」を認めると、今度は久田縫殿助に命じて、組屋敷にて休んでいた岩本喜内・市太郎父子を呼び、そして喜内と市太郎にも矢部主膳の件を伝えた上で、治済は認めたばかりの「招待状」を市太郎に託したのであった。
ただ「招待状」を市太郎に託すだけならば、市太郎一人を呼べば済む話にも思われるやも知れないが、しかし、市太郎は父・岩本喜内とは異なり、未だ家臣ではない。
その市太郎に家臣も同然の「メッセンジャー」の役目を担わせる以上は予め、父・岩本喜内にも話を通しておいた方が無難であろう。
喜内の与り知らぬところで、倅の市太郎が治済に使われたとあっては決して良い気はしないだろうからだ。
ともあれ岩本喜内・市太郎父子は治済の話を―、矢部主膳の件を了承すると、市太郎はこれまた、
「恭しく…」
治済より矢部主膳宛の「招待状」を受取ったのであった。
それから治済は岩本市太郎にも矢部主膳の「住所」を伝えた。
尤も、市太郎は平井逸平とは異なり、矢部主膳の「住所」を把握していた。それと言うのも、岩本市太郎は父・喜内の実兄、市太郎にとっては伯父である岩本正利が妻女の梅こそが矢部主膳の叔母であり、つまりは岩本市太郎にとっても矢部主膳は縁者であり、それ故、岩本市太郎は縁者である矢部主膳の「住所」を把握していたのだ。
斯くして翌日の23日、岩本市太郎は治済直筆の「招待状」を持参して北本所は牛御前旅所にある矢部主膳の屋敷へと足を運んだ。
それはちょうど昼前、昼の四つ半(午前11時頃)であり、幸いにも矢部主膳は在宅であった。
と言うよりは何と仮眠を取っていたところであった。
それと言うのも矢部主膳は今日23日は、いや、正確には明日の24日の暁八つ(午前2時頃)から朝五つ(午前8時頃)にかけて不寝番を勤めるので、それに備えて少し早い仮眠を取っていたのだ。
岩本市太郎はそうとも知らず、そこで矢部主膳と向かい合うと、まずは起こしてしまったことを詫びた上で、治済より預かった「招待状」を渡したのであった。
矢部主膳もまた、治済直筆による「招待状」とあって、
「恭しく…」
岩本市太郎の手よりその「招待状」を受取ると、開封して一読するや、
「委細承知仕った…、いや、明日の24日は不寝番を終えた後は、25日に朝番を勤めるばでは時間が空く故に…」
矢部主膳はそう答えた。これもまた幸いであった。
「されば24日は…、勤めを…、不寝番を終えられましたならば直接に…、ここ北本所の牛御前旅所の御屋敷には戻られずに、直接に当家へと足を運ばれましては如何でござりましょうや…」
己と、それに廣敷用人の平井逸平が大手御門外へと―、矢部主膳が従者が主君・主膳の帰りを待受ける大手御門外の下馬所へと足を運ぶので、そこで落合い、一橋大奥へと案内すると、岩本市太郎は気を利かせた。
すると矢部主膳もまた気を利かせ、
「されば不寝番を終えし後も半刻(約1時間程)以上も御城にて時を稼ぎし後、下城致すとしましょう…」
朝の五つ半(午前9時頃)を過ぎた頃に大手御門外で落合おうと、矢部主膳は提案したのであった。
朝の五つ半(午前9時頃)過ぎと言えば、治済が家老の水谷勝富を随えて、御城へと登城してから暫く経った頃合に当たり、そこで治済と水谷勝富が屋敷から出た後―、二人を見送った後に岩本市太郎と平井逸平も屋敷を出れば良いと、矢部主膳はそう言っていたのだ。
そうすれば水谷勝富に気付かれずに、一橋屋敷へと、その大奥へと足を運ぶことが出来るからだ。
岩本市太郎は矢部主膳のその返答を承ると、急ぎ、一橋屋敷へと立ち戻り、やはり夕刻―、暮六つ(午後6時頃)過ぎに再び大奥にて治済と面会に及ぶや、矢部主膳より承ったその返答を伝え、治済を大いに喜ばせた。
治済は喜ぶと同時に岩本市太郎と矢部主膳、二人の「機転」を褒め称えもした。
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