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松平定邦は若年寄の田沼意知の暗殺を企む養子の定信のその軽挙を田安家の壽桂尼こと寶蓮院に諫めて貰うことにする
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若年寄の田沼意知と御側御用取次の横田準松が加わっての茶会はそれから、昼の八つ半(午後3時頃)まで続いた。
だが定信はその間の記憶が殆どなかった。
気付いた時には北八丁堀にある白河藩の上屋敷に辿り着いていた…、そんな有様であった。
「許せぬ…」
定信がそう呟くと、留守居の日下部武右衛門は、「またか…」と内心、うんざりさせられた。
定信は気付いてはいないであろうが、いや、そもそも記憶すらないであろうが、茶会を終えて一橋屋敷を辞去してから定信はずっと、その言葉を繰言の様に呟き続けていたのだ。
それは北八丁堀にある上屋敷に辿り着いてからも変わらずであり、上屋敷においては日下部武右衛門に加えて、相役の高松八郎は元より、家中、誰一人として定信のその呟きを聞かない者はない、といった有様であった。
やがて定信は我に返ったかと思うと、真正面にいた用人の鵜飼兵右衛門と目が合い、
「何とかせいっ!」
思わずそう怒鳴っていた。
何とかせいっ、と怒鳴られたところで、鵜飼兵右衛門とて何のことやら、さっぱり分からず、「はぁ…」と気のない返事をするより外になかった。
するとそんな気のない返事が定信を苛立たせ、
「山城め…、あの盗賊が小倅の分際にて若年寄を勤めし田沼山城めを討果たすべく、何とか細工を致すのだっ!」
定信は遂に、意知暗殺を口走ったのであった。
これにはさしもの鵜飼兵右衛門も仰天した。
如何に主君の命とは申、軽々には返事など出来様筈もなく、ましてや引受けられる話でもなかった。
「暫し、お待ちを…」
鵜飼兵右衛門は辛うじてそう答えると、定信の許を逃げる様に辞去した。
その鵜飼兵右衛門だが、それから直属の上司の許へと足を運んだ。
即ち、江戸詰の家老、所謂、江戸家老である奥平八郎左衛門と三輪権右衛門の許へと足を運んだのであった。
いや、今はそこに更に今一人、城代家老の吉村又右衛門もいた。
吉村又右衛門は城代家老であり、本来ならば国許である白河の地にて、在府中―、江戸にいる藩主に成代わり、藩政に当たらねばならぬところ、先月の10月初旬に出府、この江戸の土を踏み、ここ北八丁堀にある白河藩上屋敷へと入った。
それと言うのも、当時はまだ藩主であった松平定邦に隠退を勧告する為であった。
つまりはやはり当時はまだ、白河藩の世子、養嗣子であった定信に家督を譲る様、勧告する為であり、それに対して定邦も当時は健康を害しており、元よりそのつもりであったので、吉村又右衛門の勧告もあり、その月の16日に定信に家督を譲った次第であった。
それから吉村又右衛門はしかし、直ぐには国許である白河には戻らず、江戸家老である奥平八郎左衛門と三輪権右衛門と共に飢饉対策について話合っていたのだ。
所謂、天明の大飢饉であり、その被害は白河の地にも及んでいた。
吉村又右衛門が態々、出府に及んだのも、白河の地の状況、謂わば飢饉の被害状況を江戸詰の家老である奥平八郎左衛門と三輪権右衛門に説明する為であり、それこそが―、飢饉こそが藩主であった定邦に引導を渡した最大の理由であった。
これで平時なれば、藩主はそれこそ無能でも構わないだろう。
だが今は大袈裟に言えば乱世であり、藩主が無能では論外、病弱でも困る。
そこで当時は病を患っていた定邦には隠退して貰い、定信に家督を譲る様、勧告したのであった。
さて、白河藩では幸いしてまだ、一人の餓死者も出してはいなかった。
これは会津藩よりの廻米、つまりは会津藩から米を買付けたことが功を奏した為である。
しかし油断は出来なかった。
この先も飢饉が続く様であれば、更に他領からも廻米、米の買付けが必要になるやも知れず、そのことで吉村又右衛門たちは飢饉対策について話合っていたのだ。
そこへ鵜飼兵右衛門が姿を見せ、新たな主君・定信が若年寄の田沼意知の暗殺を企んでいることを打明けたのであった。
鵜飼兵右衛門はその上で、意知暗殺を命じられて困っているので何とかして欲しいと、吉村又右衛門たちに泣付いたのであった。もとい、丸投げしたのであった。
一方、吉村又右衛門たちは皆、仰天すると同時に咄嗟に、今日の茶会で何かあったに違いないと気付きもした。
そこで吉村又右衛門たちはまずは事実の把握をということで、定信に付随い、茶会に参加した日下部武右衛門を呼出し、茶会で何かあったのか、その点を糺したのであった。
その結果、日下部武右衛門より意知の老中昇進の一件、即ち、茶会の主催者であった一橋治済が若年寄の田沼意知を「スペシャルゲスト」として呼んだのみならず、その意知を、
「部屋住の身のまま、間もなく若年寄から更に老中に昇進する…」
そう持上げてみせたことが伝えられ、それで吉村又右衛門たちも成程と合点がいったものである。
だが、納得ばかりもしていられない。暢気に構えていれば、定信が不測の事態を惹き起こすやも知れなかったからだ。つまりは意知暗殺という軽挙妄動に走る恐れがあった。
定信という仁は元来、暗君ではない。それどころか名君の素質さえ備えている程であった。
だが、その定信も田沼意次・意知父子を前にすると、見境がなくなる。
ともあれ吉村又右衛門たちは揃って定信の御前へと押掛けると、今は飢饉対策に専念してくれる様、懇願したのであった。
すると定信も吉村又右衛門たちが己にその様な意見具申に及ぶのは鵜飼兵右衛門に泣付かれたからに相違あるまいと、直ぐに気付き、
「あの盗賊…、奸賊めを討果たさぬことにはろくに飢饉対策にも専念出来ぬわっ!」
定信はそう吐き捨てる様に反論したかと思うと、
「そなたらが奸賊めを…、山城めを討果たすに躊躇うのであれば、この定信が自らの手で討果たすまでっ!」
自らの手を汚す…、自らの手で意知を暗殺すると、そう宣言したのであった。
こうなると頑固が持味でもある定信である、この上、更に説得を―、意知暗殺などと、馬鹿な真似は止めてくれと、そう説得試みようとも、益々、定信を依怙地にさせ、意知暗殺の妄念を凝固まらせる効果しか生まないだろう。
吉村又右衛門らもそれは分かっていたので、それ故、ここは一旦、退き時と、定信の御前より下がると、その足で前藩主の定邦の許へと足を運んだ。
ここ、北八丁堀にある広大なる白河藩の上屋敷の中でも一番奥が隠居所であり、そこで前藩主の定邦が妻女の友姫と共に暮らしていた。
定邦は定信に家督を譲ってからというもの、体調を恢復させていた。やはり藩主としての重圧の所為であったのやも知れぬ。
だがその定邦にまたしても重圧を掛けることとなった。
即ち、吉村又右衛門らは定信の「軽挙妄動」を打明けた上で、父として定信を訓戒、諫めて欲しいと頼んだのであった。
だがそれに対して定邦は、「無理だ」と言下に斥けた。
「定信は当家が願って、養嗣子として迎えた者なれば、如何にこの定邦が定信の父、養父とは申せ、定信を諫めることなど出来様筈もあるまいて…」
確かに定邦の言う通りであり、定信は定邦が願って、それも家格の向上を目論んで迎えた養嗣子であった。
即ち、白河松平家の殿中席は帝鑑間であった。
だが定邦はこれを溜間へと昇格を果たすべく、その為には将軍家より養嗣子を迎えるのが一番と、そこで将軍家である田安徳川家の血を引く―、田安徳川家の始祖である宗武の子にして、八代将軍・吉宗の孫である定信を養嗣子に迎え、しかも定邦が娘の峰子を娶らせたのであった。
定信は定邦が正に、
「三顧の礼を以って…」
迎えた養嗣子であり、その様な定信に対して、定邦が如何に養父とは言え、物申せる筈もなかった。
「ことは白河藩11万石にもかかわります故…」
吉村又右衛門は尚もそう定邦に縋ったものの、定邦は頭を振るばかりであった。
「定信が軽挙妄動の所為で11万石を喪おうとも、それはそれで止むを得まい…」
定邦はそう投遣りな態度を覗かせた。折角、定信を養嗣子に迎えたと言うに、己の代では溜間への殿中席の昇格を果たせなかったからであろう。
するとそれまで黙って成行を見守っていた友姫が、「畏れながら…」と口を挟んだ。
定邦の妻女にして、定信の養母に当たる友姫もこの場に陪席しており、その友姫は男同士の会話に割って入ったかと思うと、
「女の分際で差出がましゅうはござりまするが…」
そう前置きしてから、「寶蓮院様を頼られましては…」と提案したのであった。
友姫のこの提案には吉村又右衛門ら家老は元より、夫・定邦までもが「成程…」と頷かされた。
事実、友姫のその提案は大いに頷かされるものであった。
それと言うのも、今は当主不在の田安家にて「女主」を務める寶蓮院は、嘗ては田安徳川家の始祖である宗武の「御簾中」、つまりは正室として、己が宗武との間にもうけた子は元より、宗武が側室との間にもうけた子の養育にも当たり、そこには側室の登耶がもうけた定信も含まれていた。
寶蓮院は絵に描いた様な「良妻賢母」であり、我が子と側室がもうけた子を、
「分隔てなく…」
育て上げた。
それ故、さしもの定信もこの寶蓮院には今でも頭が上がらなかった。
その寶蓮院ならば定信を諫めることも可能やも知れなかった。
如何にも女らしい目の付け所であり、悪くない視点であった。
「成程…、壽桂尼なれば、定信を諫められるやも知れぬ…」
定邦もそう応じた。壽桂尼とは寶蓮院の綽名であった。
ともあれ、定邦もそうと決まれば善は急げとばかり、その翌日の11月22日に定邦は自ら、田安屋敷へと足を運んだ。
この中で寶蓮院と「謁見歴」があるのは定邦と友姫の二人だけであり、しかも友姫の場合は寶蓮院が我が子も同然の定信の養家となるここ、白河藩上屋敷に足を運んだ折に顔を合わせた程度であり、それ故、田安屋敷へと足を運び、その大奥―、田安屋敷の大奥にて寶蓮院と謁見したことがあるのは定邦唯一人であった。
そこで定邦が自ら、田安屋敷へと足を運ぶことにしたのだ。
その田安屋敷の門前に到着した定邦は門番所にて己の身分を明かした上で、寶蓮院への面会を希望した。
それに対して門番はと言うと、流石に驚き、しかし、門番は定邦の顔を知らず、そこで一旦、番頭に問合わせてみる旨、定邦に告げた。
定邦もそれなればと、常見文左衛門直與か、竹本要人正美に取次いで貰いたいと願ったのだ。
定邦がここ田安屋敷へと足を運び、その大奥にて寶蓮院と面会に及んだのは、それも面会を重ねたのは今から丁度10年程前の安永2(1773)年頃であり、当時はまだ寶蓮院の手許にて暮らしていた定信を養嗣子として貰い受けるべく、その交渉の為に寶蓮院の許へと何度も足を運んだのであった。
その折、田安屋敷にて警備部門、所謂、番方のトップである番頭を勤めていたのが常見文左衛門直與と竹本要人正美の二人であったのだ。
一方、門番は定邦が常見文左衛門と竹本要人の名を出したことから、目の前の人物が定邦であることに―、白河松平家の前藩主である松平定邦本人でほぼ間違いなかろうと、思った。
「竹本要人は安永3(1774)年の暮に側用人に転じました後、その翌年の安永4(1775)年のやはり暮に歿しまして…、されば竹本要人が後任の番頭は中田左兵衛にて、今でも常見文左衛門と中田左兵衛が番頭を勤めており申す…」
門番がそう告げると、定邦もまずは「おお…」と声を上げたかと思うと、
「中田左兵衛…、確か正綱であったの…」
やはり諱まで正確に口にすると、
「あの頃は…、安永2(1773)年頃は確か用人であったが、左様か…、番頭に遷ったか…」
感慨深げにそう言ったので、愈愈もって門番に、
「目の前の御仁は松平定邦で間違いあるまい…」
そう確信を深めさせた。
それでも門番は一応、門番所にて定邦を待たせる傍ら、番頭へとこの旨、告げに行き、するとそれから暫くして、常見文左衛門と中田左兵衛という二人の番頭に加えて、廣敷用人の杉浦猪兵衛良昭までが姿を見せた。
仮に定邦を寶蓮院に逢わせるとして、その場合には大奥へと定邦を案内しなければならず、その際、案内役を勤められるのは廣敷用人を措いて外にはいなかった。
それ故、廣敷用人の杉浦猪兵衛までが定邦の待つ門番所へと姿を見せた次第であった。
そして彼等は―、常見文左衛門たちは皆、松平定邦と「謁見歴」があり、直ぐに定邦本人であると見分けられた。
それで門番も、それまで定邦を疑ったことを土下座して詫び様としたが、それを定邦が制した。門番はあくまで己の職務に忠実であるに過ぎなかったからだ。
それに何より、詫びなければならないのは予約も取らずに押掛けた定邦の方であった。
実際、定邦は常見文左衛門らに対して、
「いや、突然に押掛けて申訳ない…」
そう詫びの言葉を口にし、これには常見文左衛門らも大いに恐縮させられた。
そんな中、杉浦猪兵衛が、「お久しゅうござりまする…」と定邦に声を掛けた。
10年程前の安永2(1773)年頃に定邦が寶蓮院と交渉を重ねていた際、定邦の大奥への「案内役」を勤めていたのが廣敷用人であるこの杉浦猪兵衛であり、猪兵衛はそれから10年経った今でもここ田安屋敷にて廣敷用人を勤めていた。
「おお、久方ぶりよのう…、今でも廣敷用人にて?」
定邦が杉浦猪兵衛にそう尋ねると、猪兵衛は「ははっ」と首肯した上で、
「毛利斎宮や竹本又八郎も同じく…」
そう補足した。
毛利斎宮とは毛利斎宮元卓のことであり、一方、竹本又八郎とは竹本正甫のことであり、この毛利斎宮と竹本又八郎もまた、杉浦猪兵衛同様、安永2(1773)年から天明3(1783)年の今に至るまで廣敷用人の座にあり、定邦は毛利斎宮や竹本又八郎の案内をも受けたことがあった。
「左様か…、毛利斎宮や竹本又八郎も未だ、廣敷用人であったか…」
定邦はやはり感慨深げにそう応ずるや、廣敷用人の杉浦猪兵衛の案内を受けて大奥へと足を踏み入れ、そして更に奥座敷へと通された。
その奥座敷にて定邦はこれまた暫く待たされた後、漸くに寶蓮院との面会に漕ぎ着けられたのであった。
だが定信はその間の記憶が殆どなかった。
気付いた時には北八丁堀にある白河藩の上屋敷に辿り着いていた…、そんな有様であった。
「許せぬ…」
定信がそう呟くと、留守居の日下部武右衛門は、「またか…」と内心、うんざりさせられた。
定信は気付いてはいないであろうが、いや、そもそも記憶すらないであろうが、茶会を終えて一橋屋敷を辞去してから定信はずっと、その言葉を繰言の様に呟き続けていたのだ。
それは北八丁堀にある上屋敷に辿り着いてからも変わらずであり、上屋敷においては日下部武右衛門に加えて、相役の高松八郎は元より、家中、誰一人として定信のその呟きを聞かない者はない、といった有様であった。
やがて定信は我に返ったかと思うと、真正面にいた用人の鵜飼兵右衛門と目が合い、
「何とかせいっ!」
思わずそう怒鳴っていた。
何とかせいっ、と怒鳴られたところで、鵜飼兵右衛門とて何のことやら、さっぱり分からず、「はぁ…」と気のない返事をするより外になかった。
するとそんな気のない返事が定信を苛立たせ、
「山城め…、あの盗賊が小倅の分際にて若年寄を勤めし田沼山城めを討果たすべく、何とか細工を致すのだっ!」
定信は遂に、意知暗殺を口走ったのであった。
これにはさしもの鵜飼兵右衛門も仰天した。
如何に主君の命とは申、軽々には返事など出来様筈もなく、ましてや引受けられる話でもなかった。
「暫し、お待ちを…」
鵜飼兵右衛門は辛うじてそう答えると、定信の許を逃げる様に辞去した。
その鵜飼兵右衛門だが、それから直属の上司の許へと足を運んだ。
即ち、江戸詰の家老、所謂、江戸家老である奥平八郎左衛門と三輪権右衛門の許へと足を運んだのであった。
いや、今はそこに更に今一人、城代家老の吉村又右衛門もいた。
吉村又右衛門は城代家老であり、本来ならば国許である白河の地にて、在府中―、江戸にいる藩主に成代わり、藩政に当たらねばならぬところ、先月の10月初旬に出府、この江戸の土を踏み、ここ北八丁堀にある白河藩上屋敷へと入った。
それと言うのも、当時はまだ藩主であった松平定邦に隠退を勧告する為であった。
つまりはやはり当時はまだ、白河藩の世子、養嗣子であった定信に家督を譲る様、勧告する為であり、それに対して定邦も当時は健康を害しており、元よりそのつもりであったので、吉村又右衛門の勧告もあり、その月の16日に定信に家督を譲った次第であった。
それから吉村又右衛門はしかし、直ぐには国許である白河には戻らず、江戸家老である奥平八郎左衛門と三輪権右衛門と共に飢饉対策について話合っていたのだ。
所謂、天明の大飢饉であり、その被害は白河の地にも及んでいた。
吉村又右衛門が態々、出府に及んだのも、白河の地の状況、謂わば飢饉の被害状況を江戸詰の家老である奥平八郎左衛門と三輪権右衛門に説明する為であり、それこそが―、飢饉こそが藩主であった定邦に引導を渡した最大の理由であった。
これで平時なれば、藩主はそれこそ無能でも構わないだろう。
だが今は大袈裟に言えば乱世であり、藩主が無能では論外、病弱でも困る。
そこで当時は病を患っていた定邦には隠退して貰い、定信に家督を譲る様、勧告したのであった。
さて、白河藩では幸いしてまだ、一人の餓死者も出してはいなかった。
これは会津藩よりの廻米、つまりは会津藩から米を買付けたことが功を奏した為である。
しかし油断は出来なかった。
この先も飢饉が続く様であれば、更に他領からも廻米、米の買付けが必要になるやも知れず、そのことで吉村又右衛門たちは飢饉対策について話合っていたのだ。
そこへ鵜飼兵右衛門が姿を見せ、新たな主君・定信が若年寄の田沼意知の暗殺を企んでいることを打明けたのであった。
鵜飼兵右衛門はその上で、意知暗殺を命じられて困っているので何とかして欲しいと、吉村又右衛門たちに泣付いたのであった。もとい、丸投げしたのであった。
一方、吉村又右衛門たちは皆、仰天すると同時に咄嗟に、今日の茶会で何かあったに違いないと気付きもした。
そこで吉村又右衛門たちはまずは事実の把握をということで、定信に付随い、茶会に参加した日下部武右衛門を呼出し、茶会で何かあったのか、その点を糺したのであった。
その結果、日下部武右衛門より意知の老中昇進の一件、即ち、茶会の主催者であった一橋治済が若年寄の田沼意知を「スペシャルゲスト」として呼んだのみならず、その意知を、
「部屋住の身のまま、間もなく若年寄から更に老中に昇進する…」
そう持上げてみせたことが伝えられ、それで吉村又右衛門たちも成程と合点がいったものである。
だが、納得ばかりもしていられない。暢気に構えていれば、定信が不測の事態を惹き起こすやも知れなかったからだ。つまりは意知暗殺という軽挙妄動に走る恐れがあった。
定信という仁は元来、暗君ではない。それどころか名君の素質さえ備えている程であった。
だが、その定信も田沼意次・意知父子を前にすると、見境がなくなる。
ともあれ吉村又右衛門たちは揃って定信の御前へと押掛けると、今は飢饉対策に専念してくれる様、懇願したのであった。
すると定信も吉村又右衛門たちが己にその様な意見具申に及ぶのは鵜飼兵右衛門に泣付かれたからに相違あるまいと、直ぐに気付き、
「あの盗賊…、奸賊めを討果たさぬことにはろくに飢饉対策にも専念出来ぬわっ!」
定信はそう吐き捨てる様に反論したかと思うと、
「そなたらが奸賊めを…、山城めを討果たすに躊躇うのであれば、この定信が自らの手で討果たすまでっ!」
自らの手を汚す…、自らの手で意知を暗殺すると、そう宣言したのであった。
こうなると頑固が持味でもある定信である、この上、更に説得を―、意知暗殺などと、馬鹿な真似は止めてくれと、そう説得試みようとも、益々、定信を依怙地にさせ、意知暗殺の妄念を凝固まらせる効果しか生まないだろう。
吉村又右衛門らもそれは分かっていたので、それ故、ここは一旦、退き時と、定信の御前より下がると、その足で前藩主の定邦の許へと足を運んだ。
ここ、北八丁堀にある広大なる白河藩の上屋敷の中でも一番奥が隠居所であり、そこで前藩主の定邦が妻女の友姫と共に暮らしていた。
定邦は定信に家督を譲ってからというもの、体調を恢復させていた。やはり藩主としての重圧の所為であったのやも知れぬ。
だがその定邦にまたしても重圧を掛けることとなった。
即ち、吉村又右衛門らは定信の「軽挙妄動」を打明けた上で、父として定信を訓戒、諫めて欲しいと頼んだのであった。
だがそれに対して定邦は、「無理だ」と言下に斥けた。
「定信は当家が願って、養嗣子として迎えた者なれば、如何にこの定邦が定信の父、養父とは申せ、定信を諫めることなど出来様筈もあるまいて…」
確かに定邦の言う通りであり、定信は定邦が願って、それも家格の向上を目論んで迎えた養嗣子であった。
即ち、白河松平家の殿中席は帝鑑間であった。
だが定邦はこれを溜間へと昇格を果たすべく、その為には将軍家より養嗣子を迎えるのが一番と、そこで将軍家である田安徳川家の血を引く―、田安徳川家の始祖である宗武の子にして、八代将軍・吉宗の孫である定信を養嗣子に迎え、しかも定邦が娘の峰子を娶らせたのであった。
定信は定邦が正に、
「三顧の礼を以って…」
迎えた養嗣子であり、その様な定信に対して、定邦が如何に養父とは言え、物申せる筈もなかった。
「ことは白河藩11万石にもかかわります故…」
吉村又右衛門は尚もそう定邦に縋ったものの、定邦は頭を振るばかりであった。
「定信が軽挙妄動の所為で11万石を喪おうとも、それはそれで止むを得まい…」
定邦はそう投遣りな態度を覗かせた。折角、定信を養嗣子に迎えたと言うに、己の代では溜間への殿中席の昇格を果たせなかったからであろう。
するとそれまで黙って成行を見守っていた友姫が、「畏れながら…」と口を挟んだ。
定邦の妻女にして、定信の養母に当たる友姫もこの場に陪席しており、その友姫は男同士の会話に割って入ったかと思うと、
「女の分際で差出がましゅうはござりまするが…」
そう前置きしてから、「寶蓮院様を頼られましては…」と提案したのであった。
友姫のこの提案には吉村又右衛門ら家老は元より、夫・定邦までもが「成程…」と頷かされた。
事実、友姫のその提案は大いに頷かされるものであった。
それと言うのも、今は当主不在の田安家にて「女主」を務める寶蓮院は、嘗ては田安徳川家の始祖である宗武の「御簾中」、つまりは正室として、己が宗武との間にもうけた子は元より、宗武が側室との間にもうけた子の養育にも当たり、そこには側室の登耶がもうけた定信も含まれていた。
寶蓮院は絵に描いた様な「良妻賢母」であり、我が子と側室がもうけた子を、
「分隔てなく…」
育て上げた。
それ故、さしもの定信もこの寶蓮院には今でも頭が上がらなかった。
その寶蓮院ならば定信を諫めることも可能やも知れなかった。
如何にも女らしい目の付け所であり、悪くない視点であった。
「成程…、壽桂尼なれば、定信を諫められるやも知れぬ…」
定邦もそう応じた。壽桂尼とは寶蓮院の綽名であった。
ともあれ、定邦もそうと決まれば善は急げとばかり、その翌日の11月22日に定邦は自ら、田安屋敷へと足を運んだ。
この中で寶蓮院と「謁見歴」があるのは定邦と友姫の二人だけであり、しかも友姫の場合は寶蓮院が我が子も同然の定信の養家となるここ、白河藩上屋敷に足を運んだ折に顔を合わせた程度であり、それ故、田安屋敷へと足を運び、その大奥―、田安屋敷の大奥にて寶蓮院と謁見したことがあるのは定邦唯一人であった。
そこで定邦が自ら、田安屋敷へと足を運ぶことにしたのだ。
その田安屋敷の門前に到着した定邦は門番所にて己の身分を明かした上で、寶蓮院への面会を希望した。
それに対して門番はと言うと、流石に驚き、しかし、門番は定邦の顔を知らず、そこで一旦、番頭に問合わせてみる旨、定邦に告げた。
定邦もそれなればと、常見文左衛門直與か、竹本要人正美に取次いで貰いたいと願ったのだ。
定邦がここ田安屋敷へと足を運び、その大奥にて寶蓮院と面会に及んだのは、それも面会を重ねたのは今から丁度10年程前の安永2(1773)年頃であり、当時はまだ寶蓮院の手許にて暮らしていた定信を養嗣子として貰い受けるべく、その交渉の為に寶蓮院の許へと何度も足を運んだのであった。
その折、田安屋敷にて警備部門、所謂、番方のトップである番頭を勤めていたのが常見文左衛門直與と竹本要人正美の二人であったのだ。
一方、門番は定邦が常見文左衛門と竹本要人の名を出したことから、目の前の人物が定邦であることに―、白河松平家の前藩主である松平定邦本人でほぼ間違いなかろうと、思った。
「竹本要人は安永3(1774)年の暮に側用人に転じました後、その翌年の安永4(1775)年のやはり暮に歿しまして…、されば竹本要人が後任の番頭は中田左兵衛にて、今でも常見文左衛門と中田左兵衛が番頭を勤めており申す…」
門番がそう告げると、定邦もまずは「おお…」と声を上げたかと思うと、
「中田左兵衛…、確か正綱であったの…」
やはり諱まで正確に口にすると、
「あの頃は…、安永2(1773)年頃は確か用人であったが、左様か…、番頭に遷ったか…」
感慨深げにそう言ったので、愈愈もって門番に、
「目の前の御仁は松平定邦で間違いあるまい…」
そう確信を深めさせた。
それでも門番は一応、門番所にて定邦を待たせる傍ら、番頭へとこの旨、告げに行き、するとそれから暫くして、常見文左衛門と中田左兵衛という二人の番頭に加えて、廣敷用人の杉浦猪兵衛良昭までが姿を見せた。
仮に定邦を寶蓮院に逢わせるとして、その場合には大奥へと定邦を案内しなければならず、その際、案内役を勤められるのは廣敷用人を措いて外にはいなかった。
それ故、廣敷用人の杉浦猪兵衛までが定邦の待つ門番所へと姿を見せた次第であった。
そして彼等は―、常見文左衛門たちは皆、松平定邦と「謁見歴」があり、直ぐに定邦本人であると見分けられた。
それで門番も、それまで定邦を疑ったことを土下座して詫び様としたが、それを定邦が制した。門番はあくまで己の職務に忠実であるに過ぎなかったからだ。
それに何より、詫びなければならないのは予約も取らずに押掛けた定邦の方であった。
実際、定邦は常見文左衛門らに対して、
「いや、突然に押掛けて申訳ない…」
そう詫びの言葉を口にし、これには常見文左衛門らも大いに恐縮させられた。
そんな中、杉浦猪兵衛が、「お久しゅうござりまする…」と定邦に声を掛けた。
10年程前の安永2(1773)年頃に定邦が寶蓮院と交渉を重ねていた際、定邦の大奥への「案内役」を勤めていたのが廣敷用人であるこの杉浦猪兵衛であり、猪兵衛はそれから10年経った今でもここ田安屋敷にて廣敷用人を勤めていた。
「おお、久方ぶりよのう…、今でも廣敷用人にて?」
定邦が杉浦猪兵衛にそう尋ねると、猪兵衛は「ははっ」と首肯した上で、
「毛利斎宮や竹本又八郎も同じく…」
そう補足した。
毛利斎宮とは毛利斎宮元卓のことであり、一方、竹本又八郎とは竹本正甫のことであり、この毛利斎宮と竹本又八郎もまた、杉浦猪兵衛同様、安永2(1773)年から天明3(1783)年の今に至るまで廣敷用人の座にあり、定邦は毛利斎宮や竹本又八郎の案内をも受けたことがあった。
「左様か…、毛利斎宮や竹本又八郎も未だ、廣敷用人であったか…」
定邦はやはり感慨深げにそう応ずるや、廣敷用人の杉浦猪兵衛の案内を受けて大奥へと足を踏み入れ、そして更に奥座敷へと通された。
その奥座敷にて定邦はこれまた暫く待たされた後、漸くに寶蓮院との面会に漕ぎ着けられたのであった。
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