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松平定邦は若年寄の田沼意知の暗殺を企む養子の定信のその軽挙を田安家の壽桂尼こと寶蓮院に諫めて貰うことにする

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 若年寄わかどしより田沼たぬま意知おきともそば用取次ようとりつぎ横田よこた準松のりとしくわわっての茶会ちゃかいはそれから、ひるの八つ半(午後3時頃)までつづいた。

 だが定信さだのぶはそのかん記憶きおくほとんどなかった。

 気付きづいたときにはきた八丁堀はっちょうぼりにある白河藩しらかわはん上屋敷かみやしき辿たどいていた…、そんな有様ありさまであった。

ゆるせぬ…」

 定信さだのぶがそうつぶやくと、留守居るすい日下部くさかべ武右衛門ぶえもんは、「またか…」と内心ないしん、うんざりさせられた。

 定信さだのぶ気付きづいてはいないであろうが、いや、そもそも記憶きおくすらないであろうが、茶会ちゃかいえて一橋ひとつばし屋敷やしき辞去じきょしてから定信さだのぶはずっと、その言葉ことば繰言くりごとようつぶやつづけていたのだ。

 それはきた八丁堀はっちょうぼりにある上屋敷かみやしき辿たどいてからもわらずであり、上屋敷かみやしきにおいては日下部くさかべ武右衛門ぶえもんくわえて、相役あいやく高松八郎たかまつはちろうもとより、家中かちゅう誰一人だれひとりとして定信さだのぶのそのつぶやきをかないものはない、といった有様ありさまであった。

 やがて定信さだのぶわれかえったかとおもうと、真正面まっしょうめんにいた用人ようにん鵜飼うかい兵右衛門ひょうえもんい、

なんとかせいっ!」

 おもわずそう怒鳴どなっていた。

 なんとかせいっ、と怒鳴どなられたところで、鵜飼うかい兵右衛門ひょうえもんとてなんのことやら、さっぱりからず、「はぁ…」とのない返事へんじをするよりほかになかった。

 するとそんなのない返事へんじ定信さだのぶ苛立いらだたせ、

山城やましろめ…、あの盗賊とうぞく小倅こせがれ分際ぶんざいにて若年寄わかどしよりつとめし田沼たぬま山城やましろめを討果うちはたすべく、なにとか細工さいくいたすのだっ!」

 定信さだのぶついに、意知暗殺おきともあんさつ口走くちばしったのであった。

 これにはさしもの鵜飼うかい兵右衛門ひょうえもん仰天ぎょうてんした。

 如何いか主君しゅくんめいとはもうせ軽々けいけいには返事へんじなど出来でき様筈ようはずもなく、ましてや引受ひきうけられるはなしでもなかった。

しばし、おちを…」

 鵜飼うかい兵右衛門ひょうえもんかろうじてそうこたえると、定信さだのぶもとげるよう辞去じきょした。

 その鵜飼うかい兵右衛門ひょうえもんだが、それから直属ちょくぞく上司じょうしもとへとあしはこんだ。

 すなわち、江戸えどづめ家老かろう所謂いわゆる江戸えど家老がろうである奥平おくだいら八郎左衛門はちろうざえもん三輪みわ権右衛門ごんえもんもとへとあしはこんだのであった。

 いや、いまはそこにさら今一人いまひとり城代じょうだい家老がろう吉村よしむら又右衛門またえもんもいた。

 吉村よしむら又右衛門またえもん城代じょうだい家老がろうであり、本来ほんらいならば国許くにもとである白河しらかわにて、在府中ざいふちゅう―、江戸えどにいる藩主はんしゅ成代なりかわり、藩政はんせいたらねばならぬところ、先月せんげつの10月初旬しょじゅん出府しゅっぷ、この江戸えどつちみ、ここきた八丁堀はっちょうぼりにある白河藩しらかわはん上屋敷かみやしきへとはいった。

 それと言うのも、当時とうじはまだ藩主はんしゅであった松平まつだいら定邦さだくに隠退いんたい勧告かんこくするためであった。

 つまりはやはり当時とうじはまだ、白河藩しらかわはん世子せいし養嗣子ようししであった定信さだのぶ家督かとくゆずよう勧告かんこくするためであり、それにたいして定邦さだくに当時とうじ健康けんこうがいしており、もとよりそのつもりであったので、吉村よしむら又右衛門またえもん勧告かんこくもあり、そのつきの16日に定信さだのぶ家督かとくゆずった次第しだいであった。

 それから吉村よしむら又右衛門またえもんはしかし、ぐには国許くにもとである白河しらかわにはもどらず、江戸えど家老がろうである奥平おくだいら八郎左衛門はちろうざえもん三輪みわ権右衛門ごんえもんとも飢饉ききん対策たいさくについて話合はなしあっていたのだ。

 所謂いわゆる天明てんめい大飢饉だいききんであり、その被害ひがい白河しらかわにもおよんでいた。

 吉村よしむら又右衛門またえもん態々わざわざ出府しゅっぷおよんだのも、白河しらかわ状況じょうきょうわば飢饉ききん被害ひがい状況じょうきょう江戸えどづめ家老かろうである奥平おくだいら八郎左衛門はちろうざえもん三輪みわ権右衛門ごんえもん説明せつめいするためであり、それこそが―、飢饉ききんこそが藩主はんしゅであった定邦さだくに引導いんどうわたした最大さいだい理由わけであった。

 これで平時へいじなれば、藩主はんしゅはそれこそ無能むのうでもかまわないだろう。

 だがいま大袈裟おおげさに言えば乱世らんせであり、藩主はんしゅ無能むのうでは論外ろんがい病弱びょうじゃくでもこまる。

 そこで当時とうじやまいわずらっていた定邦さだくにには隠退いんたいしてもらい、定信さだのぶ家督かとくゆずよう勧告かんこくしたのであった。

 さて、白河藩しらかわはんではさいわいしてまだ、一人ひとり餓死者がししゃしてはいなかった。

 これは会津藩あいづはんよりの廻米かいまい、つまりは会津藩あいづはんからこめ買付かいつけたことがこうそうしたためである。

 しかし油断ゆだん出来できなかった。

 このさき飢饉ききんつづようであれば、さら他領たりょうからも廻米かいまいこめ買付かいつけが必要ひつようになるやもれず、そのことで吉村よしむら又右衛門またえもんたちは飢饉ききん対策たいさくについて話合はなしあっていたのだ。

 そこへ鵜飼うかい兵右衛門ひょうえもん姿すがたせ、あらたな主君しゅくん定信さだのぶ若年寄わかどしより田沼たぬま意知おきとも暗殺あんさつたくらんでいることを打明うちあけたのであった。

 鵜飼うかい兵右衛門ひょうえもんはそのうえで、意知暗殺おきともあんさつめいじられてこまっているのでなんとかしてしいと、吉村よしむら又右衛門またえもんたちに泣付なきついたのであった。もとい、丸投まるなげしたのであった。

 一方いっぽう吉村よしむら又右衛門またえもんたちはみな仰天ぎょうてんすると同時どうじ咄嗟とっさに、今日きょう茶会ちゃかいなにかあったにちがいないと気付きづきもした。

 そこで吉村よしむら又右衛門またえもんたちはまずは事実じじつ把握はあくをということで、定信さだのぶ付随つきしたがい、茶会ちゃかい参加さんかした日下部くさかべ武右衛門ぶえもん呼出よびだし、茶会ちゃかいなにかあったのか、そのてんただしたのであった。

 その結果けっか日下部くさかべ武右衛門ぶえもんより意知おきとも老中ろうじゅう昇進しょうしん一件いっけんすなわち、茶会ちゃかい主催者ホストであった一橋ひとつばし治済はるさだ若年寄わかどしより田沼たぬま意知おきともを「スペシャルゲスト」としてんだのみならず、その意知おきともを、

部屋へやずみのまま、もなく若年寄わかどしよりからさら老中ろうじゅう昇進しょうしんする…」

 そう持上もちあげてみせたことがつたえられ、それで吉村よしむら又右衛門またえもんたちも成程なるほど合点がてんがいったものである。

 だが、納得なっとくばかりもしていられない。暢気のんきかまえていれば、定信さだのぶ不測ふそく事態じたいこすやもれなかったからだ。つまりは意知暗殺おきともあんさつという軽挙妄動けいきょもうどうはしおそれがあった。

 定信さだのぶというじん元来がんらい暗君あんくんではない。それどころか名君めいくん素質そしつさえそなえているほどであった。

 だが、その定信さだのぶ田沼たぬま意次おきつぐ意知おきとも父子ふしまえにすると、見境みさかいがなくなる。

 ともあれ吉村よしむら又右衛門またえもんたちはそろって定信さだのぶ御前ごぜんへと押掛おしかけると、いま飢饉ききん対策たいさく専念せんねんしてくれるよう懇願こんがんしたのであった。

 すると定信さだのぶ吉村よしむら又右衛門またえもんたちがおのれにそのよう意見具申いけんぐしんおよぶのは鵜飼うかい兵右衛門ひょうえもん泣付なきつかれたからに相違そういあるまいと、ぐに気付きづき、

「あの盗賊とうぞく…、奸賊かんぞくめを討果うちはたさぬことにはろくに飢饉ききん対策たいさくにも専念せんねん出来できぬわっ!」

 定信さだのぶはそうてるよう反論はんろんしたかとおもうと、

「そなたらが奸賊かんぞくめを…、山城やましろめを討果うちはたすに躊躇ためらうのであれば、この定信さだのぶみずからの討果うちはたすまでっ!」

 みずからのよごす…、みずからの意知おきとも暗殺あんさつすると、そう宣言せんげんしたのであった。

 こうなると頑固がんこ持味もちあじでもある定信さだのぶである、このうえさら説得せっとくを―、意知暗殺おきともあんさつなどと、馬鹿ばか真似まねめてくれと、そう説得せっとくこころみようとも、益々ますます定信さだのぶ依怙地いじこにさせ、意知暗殺おきともあんさつ妄念もうねん凝固こりかたまらせる効果こうかしかまないだろう。

  吉村よしむら又右衛門またえもんらもそれはかっていたので、それゆえ、ここは一旦いったん退どきと、定信さだのぶ御前ごぜんよりがると、そのあし前藩主ぜんはんしゅ定邦さだくにもとへとあしはこんだ。

 ここ、きた八丁堀はっちょうぼりにある広大こうだいなる白河藩しらかわはん上屋敷かみやしきなかでも一番奥いちばんおく隠居所いんきょじょであり、そこで前藩主ぜんはんしゅ定邦さだくに妻女さいじょ友姫ともひめともらしていた。

 定邦さだくに定信さだのぶ家督かとくゆずってからというもの、体調たいちょう恢復かいふくさせていた。やはり藩主はんしゅとしての重圧ストレス所為せいであったのやもれぬ。

 だがその定邦さだくににまたしても重圧ストレスけることとなった。

 すなわち、吉村よしむら又右衛門またえもんらは定信さだのぶの「軽挙妄動けいきょもうどう」を打明うちあけたうえで、ちちとして定信さだのぶ訓戒くんかいいさめてしいとたのんだのであった。

 だがそれにたいして定邦さだくには、「無理むりだ」と言下ごんかしりぞけた。

定信さだのぶ当家とうけねがって、養嗣子ようししとしてむかえたものなれば、如何いかにこの定邦さだくに定信さだのぶちち養父ようふとはもうせ、定信さだのぶいさめることなど出来でき様筈ようはずもあるまいて…」

 たしかに定邦さだくにの言うとおりであり、定信さだのぶ定邦さだくにねがって、それも家格かかく向上こうじょう目論もくろんでむかえた養嗣子ようししであった。

 すなわち、白河しらかわ松平家まつだいらけ殿中でんちゅうせき帝鑑間ていかんのまであった。

 だが定邦さだくにはこれを溜間たまりのまへと昇格しょうかくたすべく、そのためには将軍家しょうぐんけより養嗣子ようししむかえるのが一番いちばんと、そこで将軍家しょうぐんけである田安たやす徳川家とくがわけく―、田安たやす徳川家とくがわけ始祖しそである宗武むねたけにして、八代はちだい将軍しょうぐん吉宗よしむねまごである定信さだのぶ養嗣子ようししむかえ、しかも定邦さだくにむすめ峰子みねこめとらせたのであった。

 定信さだのぶ定邦さだくにまさに、

三顧さんこれいって…」

 むかえた養嗣子ようししであり、そのよう定信さだのぶたいして、定邦さだくに如何いか養父ようふとは言え、物申ものもうせるはずもなかった。

「ことは白河藩しらかわはん11万石にもかかわりますゆえ…」

 吉村よしむら又右衛門またえもんなおもそう定邦さだくにすがったものの、定邦さだくにあたまるばかりであった。

定信さだのぶ軽挙妄動けいきょもうどう所為せいで11万石をうしなおうとも、それはそれでむをまい…」

 定邦さだくにはそう投遣なげやりな態度たいどのぞかせた。折角せっかく定信さだのぶ養嗣子ようししむかえたと言うに、おのれだいでは溜間たまりのまへの殿中でんちゅうせき昇格しょうかくたせなかったからであろう。

 するとそれまでだまって成行なりゆき見守みまもっていた友姫ともひめが、「おそれながら…」とくちはさんだ。

 定邦さだくに妻女さいじょにして、定信さだのぶ養母ようぼたる友姫ともひめもこの陪席ばいせきしており、その友姫ともひめ男同士おとこどうし会話かいわってはいったかとおもうと、

おなご分際ぶんざい差出さしでがましゅうはござりまするが…」

 そう前置まえおきしてから、「寶蓮院様ほうれんいんさまたよられましては…」と提案ていあんしたのであった。

 友姫ともひめのこの提案ていあんには吉村よしむら又右衛門またえもん家老かろうもとより、おっと定邦さだくにまでもが「成程なるほど…」とうなずかされた。

 事実じじつ友姫ともひめのその提案ていあんおおいにうなずかされるものであった。

 それと言うのも、いま当主とうしゅ不在ふざい田安たやすにて「女主おんなあるじ」をつとめる寶蓮院ほうれんいんは、かつては田安たやす徳川家とくがわけ始祖しそである宗武むねたけの「御簾中ごれんじゅう」、つまりは正室せいしつとして、おのれ宗武むねたけとのあいだにもうけたもとより、宗武むねたけ側室そくしつとのあいだにもうけた養育よういくにもたり、そこには側室そくしつ登耶とやがもうけた定信さだのぶふくまれていた。

 寶蓮院ほうれんいんいたような「良妻りょうさい賢母けんぼ」であり、こと側室そくしつがもうけたを、

分隔わけへだてなく…」

 そだげた。

 それゆえ、さしもの定信さだのぶもこの寶蓮院ほうれんいんにはいまでもあたまがらなかった。

 その寶蓮院ほうれんいんならば定信さだのぶいさめることも可能かのうやもれなかった。

 如何いかにもおんならしいどころであり、わるくない視点してんであった。

成程なるほど…、壽桂尼じゅけいにどのなれば、定信さだのぶいさめられるやもれぬ…」

 定邦さだくにもそうおうじた。壽桂尼じゅけいにとは寶蓮院ほうれんいん綽名ニックネームであった。

 ともあれ、定邦さだくにもそうとまればぜんいそげとばかり、その翌日よくじつの11月22日に定邦さだくにみずから、田安屋敷たやすやしきへとあしはこんだ。

 このなか寶蓮院ほうれんいんと「謁見歴えっけんれき」があるのは定邦さだくに友姫ともひめ二人ふたりだけであり、しかも友姫ともひめ場合ばあい寶蓮院ほうれんいん同然どうぜん定信さだのぶ養家ようかとなるここ、白河藩しらかわはん上屋敷かみやしきあしはこんだおりかおわせた程度ていどであり、それゆえ田安たやす屋敷やしきへとあしはこび、その大奥おおおく―、田安屋敷たやすやしき大奥おおおくにて寶蓮院ほうれんいん謁見えっけんしたことがあるのは定邦さだくに唯一人ただひとりであった。

 そこで定邦さだくにみずから、田安屋敷たやすやしきへとあしはこぶことにしたのだ。

 その田安屋敷たやすやしき門前もんぜん到着とうちゃくした定邦さだくに門番所もんばんしょにておのれ身分みぶんかしたうえで、寶蓮院ほうれんいんへの面会めんかい希望きぼうした。

 それにたいして門番もんばんはと言うと、流石さすがおどろき、しかし、門番もんばん定邦さだくにかおらず、そこで一旦いったん番頭ばんがしら問合といあわせてみるむね定邦さだくにげた。

 定邦さだくにもそれなればと、常見つねみ文左衛門ぶんざえもん直與なおともか、竹本たけもと要人かなめ正美まさよし取次とりついでもらいたいとねがったのだ。

 定邦さだくにがここ田安屋敷たやすやしきへとあしはこび、その大奥おおおくにて寶蓮院ほうれんいん面会めんかいおよんだのは、それも面会めんかいかさねたのはいまから丁度ちょうど10年程前ほどまえの安永2(1773)年ごろであり、当時とうじはまだ寶蓮院ほうれんいん手許てもとにてらしていた定信さだのぶ養嗣子ようししとしてもらけるべく、その交渉こうしょうため寶蓮院ほうれんいんもとへと何度なんどあしはこんだのであった。

 そのおり田安屋敷たやすやしきにて警備部門けいびぶもん所謂いわゆる番方ばんかたのトップである番頭ばんがしらつとめていたのが常見つねみ文左衛門ぶんざえもん直與なおとも竹本たけもと要人かなめ正美まさよし二人ふたりであったのだ。

 一方いっぽう門番もんばん定邦さだくに常見つねみ文左衛門ぶんざえもん竹本たけもと要人かなめしたことから、まえ人物じんぶつ定邦さだくにであることに―、白河しらかわ松平家まつだいらけ前藩主ぜんはんしゅである松平まつだいら定邦本人さだくにほんにんでほぼ間違まちがいなかろうと、おもった。

竹本たけもと要人かなめは安永3(1774)年のくれ側用人そばようにんてんじましたのち、その翌年よくねんの安永4(1775)年のやはりくれ歿ぼっしまして…、されば竹本たけもと要人かなめ後任こうにん番頭ばんがしら中田なかた左兵衛さへえにて、いまでも常見つねみ文左衛門ぶんざえもん中田なかた左兵衛さへえ番頭ばんがしらつとめておりもうす…」

 門番もんばんがそうげると、定邦さだくにもまずは「おお…」とこえげたかとおもうと、

中田なかた左兵衛さへえ…、たし正綱まさつなであったの…」

 やはりいみなまで正確せいかくくちにすると、

「あのころは…、安永2(1773)年ごろたし用人ようにんであったが、左様さようか…、番頭ばんがしらうつったか…」

 感慨深かんがいぶかげにそう言ったので、愈愈いよいよもって門番もんばんに、

まえ御仁ごじん松平まつだいら定邦さだくに間違まちがいあるまい…」

 そう確信かくしんふかめさせた。

 それでも門番もんばん一応いちおう門番所もんばんしょにて定邦さだくにたせるかたわら、番頭ばんがしらへとこのむねげにき、するとそれからしばらくして、常見つねみ文左衛門ぶんざえもん中田なかた左兵衛さへえという二人ふたり番頭ばんがしらくわえて、廣敷用人ひろしきようにん杉浦すぎうら猪兵衛いへえ良昭よしあきまでが姿すがたせた。

 かり定邦さだくに寶蓮院ほうれんいんわせるとして、その場合ばあいには大奥おおおくへと定邦さだくに案内あんないしなければならず、そのさい案内役あんないやくつとめられるのは廣敷用人ひろしきようにんいてほかにはいなかった。

 それゆえ廣敷用人ひろしきようにん杉浦すぎうら猪兵衛いへえまでが定邦さだくに門番所もんばんしょへと姿すがたせた次第しだいであった。

 そして彼等かれらは―、常見つねみ文左衛門ぶんざえもんたちはみな松平まつだいら定邦さだくにと「謁見歴えっけんれき」があり、ぐに定邦本人さだくにほんにんであると見分みわけられた。

 それで門番もんばんも、それまで定邦さだくにうたがったことを土下座どげざしてようとしたが、それを定邦さだくにせいした。門番もんばんはあくまでおのれ職務しょくむ忠実ちゅうじつであるにぎなかったからだ。

 それになにより、びなければならないのは予約アポらずに押掛おしかけた定邦さだくにほうであった。

 実際じっさい定邦さだくに常見つねみ文左衛門ぶんざえもんらにたいして、

「いや、突然とつぜん押掛おしかけて申訳もうしわけない…」

 そうびの言葉ことばくちにし、これには常見つねみ文左衛門ぶんざえもんらもおおいに恐縮きょうしゅくさせられた。

 そんななか杉浦すぎうら猪兵衛いへえが、「おひさしゅうござりまする…」と定邦さだくにこえけた。

 10年程前ほどまえの安永2(1773)年ごろ定邦さだくに寶蓮院ほうれんいん交渉こうしょうかさねていたさい定邦さだくに大奥おおおくへの「案内役あんないやく」をつとめていたのが廣敷用人ひろしきようにんであるこの杉浦すぎうら猪兵衛いへえであり、猪兵衛いへえはそれから10年ったいまでもここ田安屋敷たやすやしきにて廣敷用人ひろしきようにんつとめていた。

「おお、久方ひさかたぶりよのう…、いまでも廣敷用人ひろしきようにんにて?」

 定邦さだくに杉浦すぎうら猪兵衛いへえにそうたずねると、猪兵衛いへえは「ははっ」と首肯しゅこうしたうえで、

毛利もうり斎宮さいぐう竹本たけもと又八郎はちろうおなじく…」

 そう補足ほそくした。

 毛利もうり斎宮さいぐうとは毛利もうり斎宮元卓さいぐうもとなりのことであり、一方いっぽう竹本たけもと又八郎またはちろうとは竹本たけもと正甫まさなみのことであり、この毛利もうり斎宮さいぐう竹本たけもと又八郎またはちろうもまた、杉浦すぎうら猪兵衛いへえ同様どうよう、安永2(1773)年から天明3(1783)年のいまいたるまで廣敷用人ひろしきようにんにあり、定邦さだくに毛利もうり斎宮さいぐう竹本たけもと又八郎またはちろう案内あんないをもけたことがあった。

左様さようか…、毛利もうり斎宮さいぐう竹本たけもと又八郎またはちろういまだ、廣敷用人ひろしきようにんであったか…」

 定邦さだくにはやはり感慨深かんがいぶかげにそうおうずるや、廣敷用人ひろしきようにん杉浦すぎうら猪兵衛いへえ案内あんないけて大奥おおおくへとあしれ、そしてさら奥座敷おくざしきへととおされた。

 その奥座敷おくざしきにて定邦さだくにはこれまたしばらたされたのちようやくに寶蓮院ほうれんいんとの面会めんかいけられたのであった。
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