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殺意のお茶会 ~前夜祭~

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 こうして勝富かつとみ治済はるさだとも平河ひらかわもんより御城えどじょう中奥なかおくへと登城とじょう中奥なかおくにある三卿さんきょう家老かろう詰所つめしょにていったんこし落着おちつけたのち中奥なかおくより時斗之間とけいのまとおって表向おもてむきへとあしれると、留守居るすいたむろする蘇鉄之間そてつのまへとあしはこんだ。

 勝富かつとみつとめる三卿さんきょう家老かろうという役職ポスト中奥なかおく詰所つめしょあたえられていながらも、そのはあくまで表向おもてむき役人やくにんであり、それゆえ表向おもてむき役人やくにんなかでも中奥なかおく表向おもてむきとを自由じゆう往来ゆきき出来でき稀有けう役職ポストと言えた。

 さて、その勝富かつとみ予期よきしていたとおり、蘇鉄之間そてつのまでは各藩かくはん留守居るすいたむろしていた。

 と言ってもただ雑然ざつぜんたむろしていたわけではなく、夫々それぞれグループつくっていた。

 すなわち、主君しゅくん殿中でんちゅう席毎せきごとグループかれていた。

 たとえば松之大廊下まつのおおろうか下之部屋しものへや殿中でんちゅうせきとする加賀かが前田家まえだけつかえる留守居るすいならば、おなじく松之大廊下まつのおおろうか下之部屋しものへやめる福井ふくい松平家まつだいらけ矢田やだ松平家まつだいらけ夫々それぞれつかえる留守居るすいグループつくり、情報じょうほう交換こうかんなどにいそしんでいた。

 ちなみに大廣間おおひろまづめ帝鑑間ていかんのまづめ柳間やなぎのまづめといった諸侯しょこうかずおおく、それゆえ、それら諸侯しょこうつかえる留守居るすいさらにそのなかでもいくつかのグループつくっていた。

 たとえば大廣間おおひろまづめ諸侯しょこう大名家だいみょうけは28家にものぼり、つまり、ここ蘇鉄之間そてつのまにてめる、彼等かれら大廣間おおひろまづめ大名だいみょう主君しゅくんあお留守居るすいもまた、28人にのぼる。

 その28人全員ぜんいんひとつのグループつくってたむろしているわけではなく、そのうちでも家門かもん津山つやま松平家まつだいらけ筆頭ひっとうとに薩摩さつま島津しまづ仙台せんだい伊達だて熊本細川くまもとほそかわはぎ毛利もうり鳥取とっとり池田いけだ久留米くるめ有馬ありま米沢上杉よねざわうえすぎの8家で構成こうせいされるグループとそれに、福岡ふくおか黒田くろだ筆頭ひっとう藤堂とうどう徳島とくしま蜂須賀はちすか佐賀さが鍋島なべしま高知こうち山内やまのうち久保田くぼた佐竹さたけ宇和島うわじま伊達だて柳河やながわ立花たちばな對馬つしまそうの9家で構成こうせいされるグループと、それからやはり家門かもん松江まつえ松平家まつだいらけ筆頭ひっとう河越かわごえ明石あかしかく松平家まつだいらけの3家で構成こうせいされるグループと、さら御三家ごさんけ連枝れんしである高須たかす松平家まつだいらけ筆頭ひっとう西條さいじょう守山もりやま府中ふちゅうかく松平まつだいらけ御三家ごさんけ連枝れんしの4家で構成こうせいされるグループと、そして廣島ひろしま浅野家あさのけ筆頭ひっとう岡山おかやま池田いけだ二本松にほんまつ丹羽にわ富山とやま前田まえだの4家で構成こうせいされるグループとに夫々それぞれかれていた。

 つまりいま、ここ蘇鉄之間そてつのまめている、大廣間おおひろまづめ諸侯しょこうつかえる28人の留守居るすいは8人と9人、3人と4人、おなじく4人でグループつくってたむろしていたのだ。

 おなじことは帝鑑間ていかんのまづめ諸侯しょこうつかえる留守居るすいにもまり、帝鑑間ていかんのまづめ定信さだのぶつかえる留守居るすいおなじく帝鑑間ていかんのまづめ鶴岡つるがおか酒井さかい松代まつしろ眞田家さなだけ夫々それぞれつかえる留守居るすいグループつくってたむろしていた。

 いま、この蘇鉄之間そてつのまには帝鑑間ていかんのまづめ諸侯しょこうつかえる留守居るすいだけでも60人前後ぜんごもの留守居るすいめており、各々おのおのグループつくってはたむろしていた。

 水谷勝富みずのやかつとみはその60人以上いじょうもの帝鑑間ていかんのまづめ諸侯しょこうつかえる留守居るすいかおすべ把握はあくしているわけでは勿論もちろんなかったが、しかしそれでもおもだった留守居るすいすなわち、おもだった帝鑑間ていかんのまづめ大名だいみょう、それにつかえる留守居るすいかお程度ていどなれば把握はあくしており、そのなかには定信さだのぶつかえる留守居るすいふくまれていた。

 一方いっぽう留守居るすいほうは、これはなに帝鑑間ていかんのまづめ諸侯しょこうつかえる留守居るすいかぎらず、すべて…、大廣間おおひろまづめ柳間やなぎのまづめ諸侯しょこうつかえる留守居るすいにもまることだが、水谷勝富みずのやかつとみかお見知みしっていた。

 それゆえ勝富かつとみ蘇鉄之間そてつのまあしれるや、それまで情報じょうほう交換こうかんもとい雑談ざつだんきょうじていた留守居るすいみなしば雑談ざつだん中断ちゅうだんしたかとおもうと、

三卿さんきょう家老かろう一体いったいなんようだ…」

 やはり留守居るすいみなそろってそう言いたげな表情ひょうじょう勝富かつとみ出迎でむかえたのであった。

 勝富かつとみはそんな留守居るすいけるようにして、定信さだのぶつかえる留守居るすいもとへとあしばした。

 やがて勝富かつとみは「お目当めあて」である定信さだのぶつかえる留守居るすいつけるや、そのそばへとあゆり、そこでこしろした。

 三卿さんきょう家老かろう水谷勝富みずのやかつとみの「お目当めあて」の留守居るすい定信さだのぶつかえるそれだとかると、ほか留守居るすい定信さだのぶつかえる留守居るすいと、それをかこんでいた鶴岡つるがおか酒井さかい松代まつしろ眞田家さなだけ両家りょうけつかえる留守居るすいのぞいてふたた雑談ざつだん再開さいかいした。

 そんななか勝富かつとみ定信さだのぶつかえる留守居るすいこと日下部くさかべ武右衛門ぶえもんたいしてまずは挨拶あいさつしたのち治済はるさだ意向いこうつたえたのであった。

 すなわち、定信さだのぶ茶会ちゃかい招待しょうたいしたいむねつたえたのであった。

 そのうえ勝富かつとみは、定信さだのぶにもこのむねつたえたうえで、定信さだのぶ希望きぼう日時にちじいてもらいたいとも、日下部くさかべ武右衛門ぶえもんたのんだのであった。

 それは定信さだのぶ治済はるさだ招待しょうたい受容うけいれるものと、その前提ぜんていはなしすすめていた。

 いや、三卿さんきょうたる一橋ひとつばし治済はるさだからの招待しょうたいともなれば、もとよりことわ選択肢せんたくしなどあろうはずもなかった。

 日下部くさかべ武右衛門ぶえもんもそれは重々じゅうじゅう承知しょうちしていたので、「かしこまってござる」とおうじた。

 水谷勝富みずのやかつとみはそれからふたた中奥なかおくへともどると、ひかえ座敷ざしきめていた治済はるさだたいして「メッセンジャー」の任務にんむたしたことをつたえた。

「おお、ご苦労くろうであったの…、されば明日あすにでも返事へんじけるであろうぞ…」

 治済はるさだはそうこたえた。たしかに明日あす、17日には定信さだのぶ返事へんじ留守居るすいつうじてけるにちがいなかった。

 その場合ばあい定信さだのぶ返事へんじくのは相役あいやく同僚どうりょう一橋ひとつばし家老かろうであるはやし忠篤ただあつということになろう。明日あす忠篤ただあつ登城とじょうする当番とうばんだからだ。

 いや、それは定信さだのぶつかえる留守居るすいにもまろう。

 それと言うのも大名家だいみょうけつかえる留守居るすい大抵たいてい、2人である場合ばあいおおく、平日へいじつはこの2人が「城使しろづかい」として交代こうたい登城とじょうするのが仕来しきたりであり、このてん三卿さんきょう家老かろうていた。

 定信さだのぶに、白河しらかわ松平家まつだいらけつかえる留守居るすいもまた2人おり、日下部くさかべ武右衛門ぶえもんとあと一人ひとり高松八郎たかまつはちろうがそうであり、明日あす高松八郎たかまつはちろう登城とじょうするであった。

 それゆえ定信さだのぶ返事へんじたずさえて登城とじょうする留守居るすい高松八郎たかまつはちろうということになり、その高松八郎たかまつはちろうより返事へんじける一橋ひとつばし家老かろうはやし忠篤ただあつということになる。

 さて、ここひかえ座敷ざしきにはもう一人ひとり三卿さんきょうである清水しみず重好しげよしめており、重好しげよし治済はるさだ勝富かつとみとのやりりをたりにして、

卒爾そつじながら…、茶会ちゃかいもよおされるので?」

 そうくちはさんだのであった。

左様さよう…、いや、八代様はちだいさままご同士どうしたまさかにはゆるりと語合かたりあいたいとおもうて…」

 治済はるさだはそうおうずるや、

「おお、そうであった…、宮内くない殿どのもまた、八代様はちだいさままごであったの…」

 いまおもしたかのようにそう付加つけくわえたのであった。

 たしかに宮内くない殿どのこと宮内くないきょう清水しみず重好しげよしもまた、八代様はちだいさまこと八代はちだい将軍しょうぐん吉宗よしむねまごであった。

如何いかがかな?宮内くない殿どの茶会ちゃかいに…」

 治済はるさだ重好しげよしをも茶会ちゃかいさそった。

 それにたいして重好しげよしはと言うと、突然とつぜんのことでもあり、返答へんとうきゅうした。

 するとその重好しげよし様子ようすった治済はるさだは、

「いや、ぐには、ご返答へんとうおよもうさず…、まだ日取ひどりまってはおらぬゆえ…」

 重好しげよしにそうこたえたのであった。

「あの…、この重好しげよしも、おうかがいたしてもよろしいので?」

 重好しげよし治済はるさだたしかめるようたずねると、治済はるさだも「無論むろんのこと」と快諾かいだくしてみせた。

「されば宮内くない殿どの八代様はちだいさままごなれば、まご同士どうし心行こころゆくまで語合かたりあ茶会ちゃかいにおまねもうしてもなん差支さしつかえござるまい?」

 治済はるさだはそうも補足ほそくし、それはまさしくそのとおりであったので、重好しげよしとしても、「はあ」とこたえるよりほかになかった。

 一方いっぽう日下部くさかべ武右衛門ぶえもんはいつもよりもはやくに下城げじょうすると、きた八丁堀はっちょうぼりにある上屋敷かみやしきへといそかえり、主君しゅくん定信さだのぶたいして、一橋ひとつばし家老かろう水谷勝富みずのやかつとみよりたくされたその伝言でんごんをそのままつたえたのであった。

左様さようか…、いや、民部卿みんぶのきょう殿どの直々じきじきまねきとあらばけぬわけにはまいるまいて…」

 定信さだのぶはまるで将軍しょうぐんにでもなったつもりでそうおうじたかとおもうと、

ながら、明日あす明後日あさってというわけにもまいるまいて…、左様さよう、21日がかろう…、21日…、11月21日なれば代参だいさんもないゆえに…」

 そうおうじたのであった。

 成程なるほど茶会ちゃかい準備じゅんび期間きかんかんがえれば最低さいていでも4~5日はみてやらなければなるまい。

 また、東叡山とうえいざん三縁山さんえんざんあるいは紅葉山もみじやまへの代参だいさんけたほう無難ぶなんであった。

 代参だいさん将軍しょうぐん成代なりかわって老中ろうじゅう側用人そばようにんあるいは若年寄わかどしより霊廟れいびょうへと参拝さんぱいする茶会ちゃかいもよおしては、将軍しょうぐんたいする不敬ふけいとも受取うけとられかねなかったからだ。

 そのてん、11月21日は代参だいさんではないので、茶会ちゃかいもよおしてもなん差支さしつかえはないはずであった。

 翌日よくじつの17日、今度こんどはやし忠篤ただあつ蘇鉄之間そてつのまへとあしはこび、高松八郎たかまつはちろうより定信さだのぶ意向いこうを、すなわち、11月21日がむねつたくと、それをそのまま治済はるさだへとつたえた。

左様さようか…、相分あいわかった…、いや、この治済はるさだ承知しょうちしたと、まぬが今一度いまいちど蘇鉄之間そてつのまへとあしはこんではくれぬか…」

 高松八郎たかまつはちろう承知しょうちしたとつたえてもらいたいと、治済はるさだ忠篤ただあつ示唆しさした。

 無論むろん治済はるさだ忠実ちゅうじつなる番犬ばんけん自認じにんする忠篤ただあつ異論いろんなどあろうはずもなく、それこそ番犬宜ばんけんよろしく、

尻尾しっぽって…」

 蘇鉄之間そてつのまへとふたたあしはこんだ。

 そうして忠篤ただあつをここひかえ座敷ざしきかららせたところで治済はるさだ重好しげよしたいして、「して、如何いかがかな?」とけた。

 勿論もちろん茶会ちゃかいへの出欠しゅっけつについてたずねていたのだ。

 だが重好しげよしはこのだんになってもまだ、治済主催はるさだしゅさい茶会ちゃかい出席しゅっせきすべきかどうか、おもいあぐねていた。

 やはりそうとった治済はるさだは、

「それなれば…、上様うえさま相談そうだん申上もうしあげては如何いかがかな?」

 厭味いやみったらしくそう進言アドバイスしたのであった。

 これにはさしもの重好しげよしおもわず、「えっ!?」と頓狂とんきょうこえげたものであった。

 治済はるさだ重好しげよしのその反応はんのうたりにして、わらいたいのをこらえつつ、

「いや、宮内くない殿どのことほか…、すくなくともこの治済はるさだなんぞよりもはるかに上様うえさましたしいよう見受みうけられもうゆえ…」

 そう補足ほそくしたのであった。

 いや、治済はるさだとしては、

「また大奥おおおくにて夕食ゆうしょくがてら、母堂ぼどう安祥院あんしょういんさま御簾中ごれんじゅう貞子ていし殿どのをもまじえつつ、上様うえさま相談そうだん申上もうしあげては…」

 本来ほんらいならばさらにそう補足ほそくしたいところであった。

 一昨日おとといの15日、月次御礼つきなみおんれい夕方ゆうがた安祥院あんしょういん一家いっか」が将軍しょうぐん家治いえはる夕食ゆうしょくかこむべく、大奥おおおくへとのぼったことについてはすでに、治済はるさだ把握はあくしていた。

 それと言うのも昨日きのう段階だんかい裏門うらもん切手きって番之頭ばんのがしら廣敷番之頭ひろしきばんのがしらより治済はるさだへとその「情報じょうほう」がもたらされたからだ。

 すなわち、廣敷ひろしきもん手前てまえにある裏門うらもん切手きってもん、15日にそのもん夕番ゆうばんつとめていた、つまりは安祥院あんしょういん一家いっか」を出迎でむかえた2人の番之頭ばんがしらである加藤かとう源之丞げんのじょう光暉みつてる富永とみなが隼人はやと守英もりひでともに、一橋ひとつばし所縁ゆかりが、すなわち、治済はるさだとの所縁ゆかりがあった。

 加藤かとう源之丞げんのじょうかつて、治済はるさだ用人ようにんとしてつかえていた横尾よこお六右衛門ろくえもん昭平てるひら三男さんなんであり、それゆえ六右衛門ろくえもんいまでも、加藤かとう源之丞げんのじょう一橋ひとつばしとは、と言うよりは治済はるさだと「交際こうさい」があった。

 おなじことは富永とみなが隼人はやとにも言え、富永とみなが隼人はやとはその実妹じつまい旗本はたもと猪飼いかい五郎兵衛ごろべえ正胤まさたねもととついでいた。

 この猪飼いかい五郎兵衛ごろべえいまでこそ新番士しんばんしつとめているが、かつては一橋ひとつばしやかたにてつかえており、それゆえ猪飼いかい五郎兵衛ごろべえもまた、いまでも一橋ひとつばし出入でいりしており、その猪飼いかい五郎兵衛ごろべえ義兄ぎけいたる富永とみなが隼人はやともまた、猪飼いかい五郎兵衛ごろべえかいして一橋ひとつばしとの、すなわち、治済はるさだとの所縁ゆかり出来できた。

 かる事情じじょうから、大奥おおおくへとのぼるには必須ひっすの「関門かんもん」とも言うべき裏門うらもん切手きってもんあずかる立場たちばにいる番之頭ばんのがしらである加藤かとう源之丞げんのじょう富永とみなが隼人はやとの2人はおもだったもの裏門うらもん切手きってもんとおった場合ばあい、つまりは大奥おおおくのぼった場合ばあいにはこれを治済はるさだへと「ご注進ちゅうしん」におよぶのをつねとしていた。

 しかも一昨日おとといの15日は都合つごうく、加藤かとう源之丞げんのじょう富永とみなが隼人はやとの2人が夕番ゆうばんつとめていたために、安祥院あんしょういん一家いっか」を出迎でむかえられたこともあって、加藤かとう源之丞げんのじょう富永とみなが隼人はやとの2人はその翌日よくじつ、つまりは昨日きのうの16日に、治済はるさだたいして、正確せいかくには治済はるさだ家老かろう水谷勝富みずのやかつとみとも御城えどじょうへと登城とじょうして屋敷やしき留守るすにしているあいだおとずれては、留守るすあずかっていた家老かろうはやし忠篤ただあつたいして、

安祥院あんしょういん一家いっか大奥おおおくにて将軍しょうぐん家治いえはる夕食ゆうしょくかこむべく大奥おおおくへとのぼった…」

 それを「ご注進ちゅうしん」におよんだ次第しだいであり、治済はるさだ帰邸きてい忠篤ただあつよりそのことを耳打みみうちされたのであった。

 また、重好しげよしの「刀番かたなばん」をつとめた廣敷番之頭ひろしきばんのがしらはん勘七郎かんしちろう次名つぐなにしてもそうであり、はん勘七郎かんしちろう嫡子ちゃくしにして大番士おおばんし吉五郎きちごろう次譽つぐたか妻女さいじょ一橋ひとつばしにて物頭ものがしら要職ようしょくにある山本やまもと武右衛門ぶえもん正凭まさより養女ようじょであり、そのあいだには嫡子ちゃくしはん勘七郎しちろうからすれば嫡孫ちゃくそん勘三郎かんざぶろうまでもうけており、それゆえはん勘七郎かんしちろうもまた、山本やまもと武右衛門ぶえもんかいして治済はるさだとは所縁ゆかりがあり、大奥おおおくでの出来事できごと治済はるさだに「ご注進ちゅうしん」におよんでいたのだ。

 かる次第しだい治済はるさだには大奥おおおくでの出来事できごとが「筒抜つつぬけ」であり、安祥院あんしょういん一家いっか」が将軍しょうぐん家治いえはる夕食ゆうしょくかこんだことも治済はるさだ把握はあくしていたわけだ。

 だがいま、それをこの暴露ばくろ、ぶちまけてしまえば最悪さいあく治済はるさだきずいた貴重きちょうな「情報じょうほうルート」をみずか遮断しゃだんしてしまうことにもなりかねず、それゆえ治済はるさだもそこまではくちにしなかった。

 そのおかげ重好しげよし大奥おおおくでの将軍しょうぐん家治いえはるとの「夕食会ゆうしょくかい」の一件いっけん治済はるさだにもさとられてはいない様子ようすだと、そう言わんばかりに安堵あんどしてみせた。

 もっとも、重好しげよしはこのようなことまで、それこそ些事さじ一々いちいちあに家治いえはる相談そうだんしてその判断はんだんあおぐのもけたので、

「いえ、それにはおよばず…」

 家治いえはる相談そうだんする必要ひつようはないと、治済はるさだにそうこたえたうえで、

「おまねきにあずかたく…」

 重好しげよし治済主催はるさだしゅさい茶会ちゃかい出席しゅっせきすることをつたえたのであった。
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