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殺意のお茶会 ~前夜祭~
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こうして勝富は治済と共に平河御門より御城は中奥へと登城、中奥にある御三卿家老の詰所にていったん腰を落着けた後、中奥より時斗之間を通って表向へと足を踏み入れると、留守居が屯する蘇鉄之間へと足を運んだ。
勝富が勤める御三卿家老という役職は中奥に詰所が与えられていながらも、その身はあくまで表向役人であり、それ故、表向役人の中でも中奥と表向とを自由に往来出来る稀有な役職と言えた。
さて、その勝富が予期していた通り、蘇鉄之間では各藩の留守居が屯していた。
と言ってもただ雑然と屯していた訳ではなく、夫々、組を作っていた。
即ち、主君の殿中席毎に組が分かれていた。
例えば松之大廊下の下之部屋を殿中席とする加賀前田家に仕える留守居ならば、同じく松之大廊下の下之部屋に詰める福井松平家や矢田松平家に夫々仕える留守居と組を作り、情報交換などに勤しんでいた。
ちなみに大廣間詰や帝鑑間詰、柳間詰といった諸侯は数が多く、それ故、それら諸侯に仕える留守居は更にその中でもいくつかの組を作っていた。
例えば大廣間詰の諸侯、大名家は28家にも上り、つまり、ここ蘇鉄之間にて詰める、彼等大廣間詰の大名を主君と仰ぐ留守居もまた、28人に上る。
その28人全員が一つの組を作って屯している訳ではなく、その内でも御家門の津山松平家を筆頭とに薩摩島津・仙台伊達・熊本細川・萩毛利・鳥取池田・久留米有馬・米沢上杉の8家で構成される組とそれに、福岡黒田家を筆頭に津藤堂・徳島蜂須賀・佐賀鍋島・高知山内・久保田佐竹・宇和島伊達・柳河立花・對馬宗の9家で構成される組と、それからやはり家門の松江松平家を筆頭に河越・明石の各松平家の3家で構成される組と、更に御三家の連枝である高須松平家を筆頭に西條・守山・府中の各松平、御三家の連枝の4家で構成される組と、そして廣島浅野家を筆頭に岡山池田・二本松丹羽・富山前田の4家で構成される組とに夫々分かれていた。
つまり今、ここ蘇鉄之間に詰めている、大廣間詰の諸侯に仕える28人の留守居は8人と9人、3人と4人、同じく4人で組を作って屯していたのだ。
同じことは帝鑑間詰の諸侯に仕える留守居にも当て嵌まり、帝鑑間詰の定信に仕える留守居は同じく帝鑑間詰の鶴岡酒井家、松代眞田家夫々に仕える留守居と組を作って屯していた。
今、この蘇鉄之間には帝鑑間詰の諸侯に仕える留守居だけでも60人前後もの留守居が詰めており、各々、組を作っては屯していた。
水谷勝富はその60人以上もの帝鑑間詰の諸侯に仕える留守居の顔を全て把握している訳では勿論なかったが、しかしそれでも主だった留守居、即ち、主だった帝鑑間詰の大名、それに仕える留守居の顔程度なれば把握しており、その中には定信に仕える留守居も含まれていた。
一方、留守居の方は、これは何も帝鑑間詰の諸侯に仕える留守居に限らず、全て…、大廣間詰や柳間詰の諸侯に仕える留守居にも当て嵌まることだが、水谷勝富の顔を見知っていた。
それ故、勝富が蘇鉄之間に足を踏み入れるや、それまで情報交換もとい雑談に興じていた留守居は皆、暫し雑談を中断したかと思うと、
「御三卿家老が一体、何の用だ…」
やはり留守居は皆、揃ってそう言いたげな表情で勝富を出迎えたのであった。
勝富はそんな留守居を掻き分ける様にして、定信に仕える留守居の許へと足を伸ばした。
やがて勝富は「お目当て」である定信に仕える留守居を見つけるや、その傍へと歩み寄り、そこで腰を下ろした。
御三卿家老の水谷勝富の「お目当て」の留守居が定信に仕えるそれだと分かると、外の留守居、定信に仕える留守居と、それを囲んでいた鶴岡酒井家、松代眞田家両家に仕える留守居を除いて再び雑談を再開した。
そんな中、勝富は定信に仕える留守居こと日下部武右衛門に対してまずは挨拶した後、治済の意向を伝えたのであった。
即ち、定信を茶会に招待したい旨、伝えたのであった。
その上で勝富は、定信にもこの旨、伝えた上で、定信の希望の日時を聞いて来て貰いたいとも、日下部武右衛門に頼んだのであった。
それは定信が治済の招待を受容れるものと、その前提で話を進めていた。
いや、御三卿たる一橋治済からの招待ともなれば、元より断る選択肢などあろう筈もなかった。
日下部武右衛門もそれは重々承知していたので、「畏まってござる」と応じた。
水谷勝富はそれから再び中奥へと戻ると、御控座敷に詰めていた治済に対して「メッセンジャー」の任務を果たしたことを伝えた。
「おお、ご苦労であったの…、されば明日にでも返事が聞けるであろうぞ…」
治済はそう応えた。確かに明日、17日には定信の返事が留守居を通じて聞けるに違いなかった。
その場合、定信の返事を聞くのは相役、同僚の一橋家老である林忠篤ということになろう。明日は忠篤が登城する日、当番だからだ。
いや、それは定信に仕える留守居にも当て嵌まろう。
それと言うのも大名家に仕える留守居は大抵、2人である場合が多く、平日はこの2人が「城使」として交代で登城するのが仕来りであり、この点、御三卿家老と似ていた。
定信に、白河松平家に仕える留守居もまた2人おり、日下部武右衛門とあと一人、高松八郎がそうであり、明日は高松八郎が登城する日であった。
それ故、定信の返事を携えて登城する留守居は高松八郎ということになり、その高松八郎より返事を受ける一橋家老は林忠篤ということになる。
さて、ここ御控座敷にはもう一人の御三卿である清水重好も詰めており、重好は治済と勝富とのやり取りを目の当たりにして、
「卒爾乍…、茶会を催されるので?」
そう口を挟んだのであった。
「左様…、いや、八代様の孫同士、偶さかにはゆるりと語合いたいと思うて…」
治済はそう応ずるや、
「おお、そうであった…、宮内殿もまた、八代様の孫であったの…」
今思い出したかの様にそう付加えたのであった。
確かに宮内殿こと宮内卿清水重好もまた、八代様こと八代将軍・吉宗の孫であった。
「如何かな?宮内殿も茶会に…」
治済は重好をも茶会に誘った。
それに対して重好はと言うと、突然のことでもあり、返答に窮した。
するとその重好の様子を見て取った治済は、
「いや、直ぐには、ご返答に及び申さず…、まだ日取も決まってはおらぬ故…」
重好にそう応えたのであった。
「あの…、この重好も、お伺い致しても宜しいので?」
重好は治済に確かめる様に尋ねると、治済も「無論のこと」と快諾してみせた。
「されば宮内殿も八代様の孫なれば、孫同士で心行くまで語合う茶会にお招き申しても何ら差支えござるまい?」
治済はそうも補足し、それは正しくその通りであったので、重好としても、「はあ」と応えるより外になかった。
一方、日下部武右衛門はいつもよりも早くに下城すると、北八丁堀にある上屋敷へと急ぎ帰り、主君・定信に対して、一橋家老の水谷勝富より託されたその伝言をそのまま伝えたのであった。
「左様か…、いや、民部卿殿が直々の招きとあらば受けぬ訳には参るまいて…」
定信はまるで将軍にでもなったつもりでそう応じたかと思うと、
「然は然り乍ら、明日、明後日という訳にも参るまいて…、左様、21日が良かろう…、21日…、11月21日なれば代参もない故に…」
そう応じたのであった。
成程、茶会の準備期間を考えれば最低でも4~5日はみてやらなければなるまい。
また、東叡山や三縁山、或いは紅葉山への代参の日も避けた方が無難であった。
代参、将軍に成代わって老中や側用人、或いは若年寄が霊廟へと参拝する日に茶会を催しては、将軍に対する不敬とも受取られかねなかったからだ。
その点、11月21日は代参の日ではないので、茶会を催しても何ら差支えはない筈であった。
翌日の17日、今度は林忠篤が蘇鉄之間へと足を運び、高松八郎より定信の意向を、即ち、11月21日が良い旨、伝え聞くと、それをそのまま治済へと伝えた。
「左様か…、相分かった…、いや、この治済、承知したと、済まぬが今一度、蘇鉄之間へと足を運んではくれぬか…」
高松八郎に承知したと伝えて貰いたいと、治済は忠篤に示唆した。
無論、治済の忠実なる番犬を自認する忠篤に異論などあろう筈もなく、それこそ番犬宜しく、
「尻尾を振って…」
蘇鉄之間へと再び足を運んだ。
そうして忠篤をここ御控座敷から去らせたところで治済は重好に対して、「して、如何かな?」と問い掛けた。
勿論、茶会への出欠について尋ねていたのだ。
だが重好はこの段になってもまだ、治済主催の茶会に出席すべきかどうか、思いあぐねていた。
やはりそうと見て取った治済は、
「それなれば…、上様に御相談申上げては如何かな?」
厭味ったらしくそう進言したのであった。
これにはさしもの重好も思わず、「えっ!?」と頓狂な声を上げたものであった。
治済は重好のその反応を目の当たりにして、嗤いたいのを堪えつつ、
「いや、宮内殿は殊の外…、少なくともこの治済なんぞよりも遥かに上様と親しい様に見受けられ申す故…」
そう補足したのであった。
いや、治済としては、
「また大奥にて夕食がてら、御母堂の安祥院様や御簾中の貞子殿をも交えつつ、上様に御相談申上げては…」
本来ならば更にそう補足したいところであった。
一昨日の15日、月次御礼の日の夕方、安祥院「一家」が将軍・家治と夕食を囲むべく、大奥へと上ったことについては既に、治済も把握していた。
それと言うのも昨日の段階で裏門切手番之頭と廣敷番之頭より治済へとその「情報」が齎されたからだ。
即ち、廣敷御門の手前にある裏門切手御門、15日にその御門の夕番を務めていた、つまりは安祥院「一家」を出迎えた2人の番之頭である加藤源之丞光暉と富永隼人守英は共に、一橋家と所縁が、即ち、治済との所縁があった。
加藤源之丞は嘗て、治済に用人として仕えていた横尾六右衛門昭平の三男であり、それ故、六右衛門亡き今でも、加藤源之丞は一橋家とは、と言うよりは治済と「交際」があった。
同じことは富永隼人にも言え、富永隼人はその実妹が旗本の猪飼五郎兵衛正胤の許に嫁いでいた。
この猪飼五郎兵衛は今でこそ新番士を勤めているが、嘗ては一橋館にて仕えており、それ故、猪飼五郎兵衛もまた、今でも一橋家に出入りしており、その猪飼五郎兵衛の義兄に当たる富永隼人もまた、猪飼五郎兵衛を介して一橋家との、即ち、治済との所縁が出来た。
斯かる事情から、大奥へと上るには必須の「関門」とも言うべき裏門切手御門を預かる立場にいる番之頭である加藤源之丞と富永隼人の2人は主だった者が裏門切手御門を通った場合、つまりは大奥に上った場合にはこれを治済へと「ご注進」に及ぶのを常としていた。
しかも一昨日の15日は都合良く、加藤源之丞と富永隼人の2人が夕番を勤めていた為に、安祥院「一家」を出迎えられたこともあって、加藤源之丞と富永隼人の2人はその翌日、つまりは昨日の16日に、治済に対して、正確には治済が家老の水谷勝富と共に御城へと登城して屋敷を留守にしている間に訪れては、留守を預かっていた家老の林忠篤に対して、
「安祥院一家が大奥にて将軍・家治と夕食を囲むべく大奥へと上った…」
それを「ご注進」に及んだ次第であり、治済は帰邸後に忠篤よりそのことを耳打ちされたのであった。
また、重好の「刀番」を勤めた廣敷番之頭の伴勘七郎次名にしてもそうであり、伴勘七郎が嫡子にして大番士の吉五郎次譽が妻女は一橋家にて物頭の要職にある山本武右衛門正凭の養女であり、その間には嫡子、伴勘七郎からすれば嫡孫の勘三郎までもうけており、それ故、伴勘七郎もまた、山本武右衛門を介して治済とは所縁があり、大奥での出来事を治済に「ご注進」に及んでいたのだ。
斯かる次第で治済には大奥での出来事が「筒抜け」であり、安祥院「一家」が将軍・家治と夕食を囲んだことも治済は把握していた訳だ。
だが今、それをこの場で暴露、ぶちまけてしまえば最悪、治済が築いた貴重な「情報ルート」を自ら遮断してしまうことにもなりかねず、それ故、治済もそこまでは口にしなかった。
そのお蔭で重好も大奥での将軍・家治との「夕食会」の一件は治済にも悟られてはいない様子だと、そう言わんばかりに安堵してみせた。
尤も、重好はこの様なことまで、それこそ些事を一々、兄・家治に相談してその判断を仰ぐのも気が引けたので、
「いえ、それには及ばず…」
家治に相談する必要はないと、治済にそう応えた上で、
「お招きに与り度…」
重好は治済主催の茶会に出席することを伝えたのであった。
勝富が勤める御三卿家老という役職は中奥に詰所が与えられていながらも、その身はあくまで表向役人であり、それ故、表向役人の中でも中奥と表向とを自由に往来出来る稀有な役職と言えた。
さて、その勝富が予期していた通り、蘇鉄之間では各藩の留守居が屯していた。
と言ってもただ雑然と屯していた訳ではなく、夫々、組を作っていた。
即ち、主君の殿中席毎に組が分かれていた。
例えば松之大廊下の下之部屋を殿中席とする加賀前田家に仕える留守居ならば、同じく松之大廊下の下之部屋に詰める福井松平家や矢田松平家に夫々仕える留守居と組を作り、情報交換などに勤しんでいた。
ちなみに大廣間詰や帝鑑間詰、柳間詰といった諸侯は数が多く、それ故、それら諸侯に仕える留守居は更にその中でもいくつかの組を作っていた。
例えば大廣間詰の諸侯、大名家は28家にも上り、つまり、ここ蘇鉄之間にて詰める、彼等大廣間詰の大名を主君と仰ぐ留守居もまた、28人に上る。
その28人全員が一つの組を作って屯している訳ではなく、その内でも御家門の津山松平家を筆頭とに薩摩島津・仙台伊達・熊本細川・萩毛利・鳥取池田・久留米有馬・米沢上杉の8家で構成される組とそれに、福岡黒田家を筆頭に津藤堂・徳島蜂須賀・佐賀鍋島・高知山内・久保田佐竹・宇和島伊達・柳河立花・對馬宗の9家で構成される組と、それからやはり家門の松江松平家を筆頭に河越・明石の各松平家の3家で構成される組と、更に御三家の連枝である高須松平家を筆頭に西條・守山・府中の各松平、御三家の連枝の4家で構成される組と、そして廣島浅野家を筆頭に岡山池田・二本松丹羽・富山前田の4家で構成される組とに夫々分かれていた。
つまり今、ここ蘇鉄之間に詰めている、大廣間詰の諸侯に仕える28人の留守居は8人と9人、3人と4人、同じく4人で組を作って屯していたのだ。
同じことは帝鑑間詰の諸侯に仕える留守居にも当て嵌まり、帝鑑間詰の定信に仕える留守居は同じく帝鑑間詰の鶴岡酒井家、松代眞田家夫々に仕える留守居と組を作って屯していた。
今、この蘇鉄之間には帝鑑間詰の諸侯に仕える留守居だけでも60人前後もの留守居が詰めており、各々、組を作っては屯していた。
水谷勝富はその60人以上もの帝鑑間詰の諸侯に仕える留守居の顔を全て把握している訳では勿論なかったが、しかしそれでも主だった留守居、即ち、主だった帝鑑間詰の大名、それに仕える留守居の顔程度なれば把握しており、その中には定信に仕える留守居も含まれていた。
一方、留守居の方は、これは何も帝鑑間詰の諸侯に仕える留守居に限らず、全て…、大廣間詰や柳間詰の諸侯に仕える留守居にも当て嵌まることだが、水谷勝富の顔を見知っていた。
それ故、勝富が蘇鉄之間に足を踏み入れるや、それまで情報交換もとい雑談に興じていた留守居は皆、暫し雑談を中断したかと思うと、
「御三卿家老が一体、何の用だ…」
やはり留守居は皆、揃ってそう言いたげな表情で勝富を出迎えたのであった。
勝富はそんな留守居を掻き分ける様にして、定信に仕える留守居の許へと足を伸ばした。
やがて勝富は「お目当て」である定信に仕える留守居を見つけるや、その傍へと歩み寄り、そこで腰を下ろした。
御三卿家老の水谷勝富の「お目当て」の留守居が定信に仕えるそれだと分かると、外の留守居、定信に仕える留守居と、それを囲んでいた鶴岡酒井家、松代眞田家両家に仕える留守居を除いて再び雑談を再開した。
そんな中、勝富は定信に仕える留守居こと日下部武右衛門に対してまずは挨拶した後、治済の意向を伝えたのであった。
即ち、定信を茶会に招待したい旨、伝えたのであった。
その上で勝富は、定信にもこの旨、伝えた上で、定信の希望の日時を聞いて来て貰いたいとも、日下部武右衛門に頼んだのであった。
それは定信が治済の招待を受容れるものと、その前提で話を進めていた。
いや、御三卿たる一橋治済からの招待ともなれば、元より断る選択肢などあろう筈もなかった。
日下部武右衛門もそれは重々承知していたので、「畏まってござる」と応じた。
水谷勝富はそれから再び中奥へと戻ると、御控座敷に詰めていた治済に対して「メッセンジャー」の任務を果たしたことを伝えた。
「おお、ご苦労であったの…、されば明日にでも返事が聞けるであろうぞ…」
治済はそう応えた。確かに明日、17日には定信の返事が留守居を通じて聞けるに違いなかった。
その場合、定信の返事を聞くのは相役、同僚の一橋家老である林忠篤ということになろう。明日は忠篤が登城する日、当番だからだ。
いや、それは定信に仕える留守居にも当て嵌まろう。
それと言うのも大名家に仕える留守居は大抵、2人である場合が多く、平日はこの2人が「城使」として交代で登城するのが仕来りであり、この点、御三卿家老と似ていた。
定信に、白河松平家に仕える留守居もまた2人おり、日下部武右衛門とあと一人、高松八郎がそうであり、明日は高松八郎が登城する日であった。
それ故、定信の返事を携えて登城する留守居は高松八郎ということになり、その高松八郎より返事を受ける一橋家老は林忠篤ということになる。
さて、ここ御控座敷にはもう一人の御三卿である清水重好も詰めており、重好は治済と勝富とのやり取りを目の当たりにして、
「卒爾乍…、茶会を催されるので?」
そう口を挟んだのであった。
「左様…、いや、八代様の孫同士、偶さかにはゆるりと語合いたいと思うて…」
治済はそう応ずるや、
「おお、そうであった…、宮内殿もまた、八代様の孫であったの…」
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確かに宮内殿こと宮内卿清水重好もまた、八代様こと八代将軍・吉宗の孫であった。
「如何かな?宮内殿も茶会に…」
治済は重好をも茶会に誘った。
それに対して重好はと言うと、突然のことでもあり、返答に窮した。
するとその重好の様子を見て取った治済は、
「いや、直ぐには、ご返答に及び申さず…、まだ日取も決まってはおらぬ故…」
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「あの…、この重好も、お伺い致しても宜しいので?」
重好は治済に確かめる様に尋ねると、治済も「無論のこと」と快諾してみせた。
「されば宮内殿も八代様の孫なれば、孫同士で心行くまで語合う茶会にお招き申しても何ら差支えござるまい?」
治済はそうも補足し、それは正しくその通りであったので、重好としても、「はあ」と応えるより外になかった。
一方、日下部武右衛門はいつもよりも早くに下城すると、北八丁堀にある上屋敷へと急ぎ帰り、主君・定信に対して、一橋家老の水谷勝富より託されたその伝言をそのまま伝えたのであった。
「左様か…、いや、民部卿殿が直々の招きとあらば受けぬ訳には参るまいて…」
定信はまるで将軍にでもなったつもりでそう応じたかと思うと、
「然は然り乍ら、明日、明後日という訳にも参るまいて…、左様、21日が良かろう…、21日…、11月21日なれば代参もない故に…」
そう応じたのであった。
成程、茶会の準備期間を考えれば最低でも4~5日はみてやらなければなるまい。
また、東叡山や三縁山、或いは紅葉山への代参の日も避けた方が無難であった。
代参、将軍に成代わって老中や側用人、或いは若年寄が霊廟へと参拝する日に茶会を催しては、将軍に対する不敬とも受取られかねなかったからだ。
その点、11月21日は代参の日ではないので、茶会を催しても何ら差支えはない筈であった。
翌日の17日、今度は林忠篤が蘇鉄之間へと足を運び、高松八郎より定信の意向を、即ち、11月21日が良い旨、伝え聞くと、それをそのまま治済へと伝えた。
「左様か…、相分かった…、いや、この治済、承知したと、済まぬが今一度、蘇鉄之間へと足を運んではくれぬか…」
高松八郎に承知したと伝えて貰いたいと、治済は忠篤に示唆した。
無論、治済の忠実なる番犬を自認する忠篤に異論などあろう筈もなく、それこそ番犬宜しく、
「尻尾を振って…」
蘇鉄之間へと再び足を運んだ。
そうして忠篤をここ御控座敷から去らせたところで治済は重好に対して、「して、如何かな?」と問い掛けた。
勿論、茶会への出欠について尋ねていたのだ。
だが重好はこの段になってもまだ、治済主催の茶会に出席すべきかどうか、思いあぐねていた。
やはりそうと見て取った治済は、
「それなれば…、上様に御相談申上げては如何かな?」
厭味ったらしくそう進言したのであった。
これにはさしもの重好も思わず、「えっ!?」と頓狂な声を上げたものであった。
治済は重好のその反応を目の当たりにして、嗤いたいのを堪えつつ、
「いや、宮内殿は殊の外…、少なくともこの治済なんぞよりも遥かに上様と親しい様に見受けられ申す故…」
そう補足したのであった。
いや、治済としては、
「また大奥にて夕食がてら、御母堂の安祥院様や御簾中の貞子殿をも交えつつ、上様に御相談申上げては…」
本来ならば更にそう補足したいところであった。
一昨日の15日、月次御礼の日の夕方、安祥院「一家」が将軍・家治と夕食を囲むべく、大奥へと上ったことについては既に、治済も把握していた。
それと言うのも昨日の段階で裏門切手番之頭と廣敷番之頭より治済へとその「情報」が齎されたからだ。
即ち、廣敷御門の手前にある裏門切手御門、15日にその御門の夕番を務めていた、つまりは安祥院「一家」を出迎えた2人の番之頭である加藤源之丞光暉と富永隼人守英は共に、一橋家と所縁が、即ち、治済との所縁があった。
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同じことは富永隼人にも言え、富永隼人はその実妹が旗本の猪飼五郎兵衛正胤の許に嫁いでいた。
この猪飼五郎兵衛は今でこそ新番士を勤めているが、嘗ては一橋館にて仕えており、それ故、猪飼五郎兵衛もまた、今でも一橋家に出入りしており、その猪飼五郎兵衛の義兄に当たる富永隼人もまた、猪飼五郎兵衛を介して一橋家との、即ち、治済との所縁が出来た。
斯かる事情から、大奥へと上るには必須の「関門」とも言うべき裏門切手御門を預かる立場にいる番之頭である加藤源之丞と富永隼人の2人は主だった者が裏門切手御門を通った場合、つまりは大奥に上った場合にはこれを治済へと「ご注進」に及ぶのを常としていた。
しかも一昨日の15日は都合良く、加藤源之丞と富永隼人の2人が夕番を勤めていた為に、安祥院「一家」を出迎えられたこともあって、加藤源之丞と富永隼人の2人はその翌日、つまりは昨日の16日に、治済に対して、正確には治済が家老の水谷勝富と共に御城へと登城して屋敷を留守にしている間に訪れては、留守を預かっていた家老の林忠篤に対して、
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それを「ご注進」に及んだ次第であり、治済は帰邸後に忠篤よりそのことを耳打ちされたのであった。
また、重好の「刀番」を勤めた廣敷番之頭の伴勘七郎次名にしてもそうであり、伴勘七郎が嫡子にして大番士の吉五郎次譽が妻女は一橋家にて物頭の要職にある山本武右衛門正凭の養女であり、その間には嫡子、伴勘七郎からすれば嫡孫の勘三郎までもうけており、それ故、伴勘七郎もまた、山本武右衛門を介して治済とは所縁があり、大奥での出来事を治済に「ご注進」に及んでいたのだ。
斯かる次第で治済には大奥での出来事が「筒抜け」であり、安祥院「一家」が将軍・家治と夕食を囲んだことも治済は把握していた訳だ。
だが今、それをこの場で暴露、ぶちまけてしまえば最悪、治済が築いた貴重な「情報ルート」を自ら遮断してしまうことにもなりかねず、それ故、治済もそこまでは口にしなかった。
そのお蔭で重好も大奥での将軍・家治との「夕食会」の一件は治済にも悟られてはいない様子だと、そう言わんばかりに安堵してみせた。
尤も、重好はこの様なことまで、それこそ些事を一々、兄・家治に相談してその判断を仰ぐのも気が引けたので、
「いえ、それには及ばず…」
家治に相談する必要はないと、治済にそう応えた上で、
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天正十年六月二日、本能寺にて織田信長、死す――。
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その結果、本能寺の信長、そして妙覚寺の織田信忠は、抵抗の暇もなく首級を挙げられる。
両名の首級を四条河原にさらした光秀は、織田政権の崩壊を満天下に明らかとし、畿内にて急速に地歩を固めていく。
一方、近江国日野の所領にいた蒲生賦秀(のちの氏郷)は、信長の悲報を知るや、亡き信長の家族を伊勢国松ヶ島城の織田信雄の元に送り届けるべく安土城に迎えに走る。
だが、瀬田の唐橋を無傷で確保した明智秀満の軍勢が安土城に急速に迫ったため、女子供を連れての逃避行は不可能となる。
かくなる上は、戦うより他に道はなし。
信長の遺した安土城を舞台に、若き闘将・蒲生賦秀の活躍が始まる。
東洲斎写楽の懊悩
橋本洋一
歴史・時代
時は寛政五年。長崎奉行に呼ばれ出島までやってきた江戸の版元、蔦屋重三郎は囚われの身の異国人、シャーロック・カーライルと出会う。奉行からシャーロックを江戸で世話をするように脅されて、渋々従う重三郎。その道中、シャーロックは非凡な絵の才能を明らかにしていく。そして江戸の手前、箱根の関所で詮議を受けることになった彼ら。シャーロックの名を訊ねられ、咄嗟に出たのは『写楽』という名だった――江戸を熱狂した写楽の絵。描かれた理由とは? そして金髪碧眼の写楽が江戸にやってきた目的とは?
吉宗のさくら ~八代将軍へと至る道~
裏耕記
歴史・時代
破天荒な将軍 吉宗。民を導く将軍となれるのか
―――
将軍?捨て子?
貴公子として生まれ、捨て子として道に捨てられた。
その暮らしは長く続かない。兄の不審死。
呼び戻された吉宗は陰謀に巻き込まれ将軍位争いの旗頭に担ぎ上げられていく。
次第に明らかになる不審死の謎。
運命に導かれるようになりあがる吉宗。
将軍となった吉宗が隅田川にさくらを植えたのはなぜだろうか。
※※
暴れん坊将軍として有名な徳川吉宗。
低迷していた徳川幕府に再び力を持たせた。
民の味方とも呼ばれ人気を博した将軍でもある。
徳川家の序列でいくと、徳川宗家、尾張家、紀州家と三番目の家柄で四男坊。
本来ならば将軍どころか実家の家督も継げないはずの人生。
数奇な運命に付きまとわれ将軍になってしまった吉宗は何を思う。
本人の意思とはかけ離れた人生、権力の頂点に立つのは幸運か不運なのか……
突拍子もない政策や独創的な人事制度。かの有名なお庭番衆も彼が作った役職だ。
そして御三家を模倣した御三卿を作る。
決して旧来の物を破壊するだけではなかった。その効用を充分理解して変化させるのだ。
彼は前例主義に凝り固まった重臣や役人たちを相手取り、旧来の慣習を打ち破った。
そして独自の政策や改革を断行した。
いきなり有能な人間にはなれない。彼は失敗も多く完全無欠ではなかったのは歴史が証明している。
破天荒でありながら有能な将軍である徳川吉宗が、どうしてそのような将軍になったのか。
おそらく将軍に至るまでの若き日々の経験が彼を育てたのだろう。
その辺りを深堀して、将軍になる前の半生にスポットを当てたのがこの作品です。
本作品は、第9回歴史・時代小説大賞の参加作です。
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