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徳川家基毒殺事件 ~大奥における「宿元」にも一橋治済の影響力が見て取れる~
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「宿元と申さば…」
安祥院は何かを思い出したかの如くそう切出すと、
「例えば、笹岡が宿元を、家基公がご薨去あそばされし後、それまでの伯父、津田日向より祖父にして一橋用人の杉山嘉兵衛へと替えましたる一事を以って致しましても、上様に対する狼煙に外ならず…」
家基附の御客応答であった砂野が唯一人、家基の死後、将軍・家治附の年寄へと異動したのに加えて、同じく家基附の御客応答であった笹岡がやはり家基の死後に身元保証人である「宿元」を態態変更したところにも治済の意思が、即ち、将軍・家治に対する「宣戦布告」、更に言えば家基に続いて家治をも毒殺しようとの意思が読取れると、そう示唆した。
「然らば宿元の変更も一橋民部めが差配…、仕業にて?」
家治が確かめる様に尋ねると、安祥院も「恐らくは…」と応じた。
するとそこでそれまで黙って、安祥院の「証言」の「証人」に徹していた上臈年寄の高岳が、「畏れながら…」と口を挟んだ。
それ故、家治も「許す」と応じて、高岳に発言を許した。
「この高岳も宿元には苦労させられましてござりまする…」
「と申すと?」
家治は高岳を促した。
「さればこの高岳も大納言様…、家基公がご薨去あそばされます前までは、林藤五郎…、いえ、今は林肥後が務めておりましたものを、家基公がご薨去あそばされました後、急に宿元を降りたいと…」
つまりはこういうことであった。
高岳は宝暦10(1760)年、松嶌の勧めに従い、将軍になったばかりの家治附の上臈年寄に採用されるや、高岳の「宿元」を務めた、と言うよりは高岳の「宿元」に手を挙げたのは当時、大坂船手を勤めていた林藤四郎忠久であった。
将軍、それも将軍になったばかりの家治に仕える上臈年寄ともなれば、
「今を時めく…」
その表現が似合う程、大いなる権勢が期待される。要は周囲からは大奥の新たな権力者として認知される。
それ故にその様な上臈年寄、もとい高岳の「宿元」になりたいと願う者はそれこそ、
「引きも切らず…」
であった。
新たなる権力者である高岳の「宿元になれれば、自らもその「おこぼれ」、さしずめ、「権力の甘い蜜」に与れるやも知れないからだ。
その様な中で見事、高岳の「宿元」を勝取ったのが林藤四郎であった。
林藤四郎は高岳とは実は縁者であった。
即ち、林藤四郎の祖母は公卿、中御門宣顕の一人娘の政子であり、その政子の伯父―、中御門宣顕にとっては実兄の岡崎国久の孫娘―、国久の嫡子の岡崎国廣の一人娘こそが高岳であった。
つまり、林藤四郎にとっては高岳は祖母・政子の従弟―、藤四郎の従伯祖父の娘ということで、再従伯母に当たり、逆に高岳にとっては林藤四郎は祖父・岡崎国久の姪・政子の嫡孫ということで、従兄違に当たる。
尤も、高岳は林藤四郎にとって再従叔母とは申せ、年齢は藤四郎の方が高岳よりも上であり、それも親子程の開きがあった。
これは高岳の父にして、藤四郎の従伯祖父の岡崎国廣が遅い時―、その死の直前、元文3(1738)年の正月に生まれたことに由来する。
この年―、元文3(1738)年には林藤四郎もまた、嫡子を授かり、その嫡子こそが林藤四郎に続いて高岳の宿元となる林藤五郎改め肥後守忠篤であった。
高岳にとって林忠篤は従兄違の林藤四郎の倅、従兄違の子供ということで又従弟、所謂、「はとこ」に当たる。
それ故、高岳の「宿元」であった林藤四郎が宝暦13(1763)年11月に歿するや、その地位―、高岳の「宿元」としての地位は、
「さも当然の如く…」
藤四郎の嫡子の林忠篤が引継いだのであった。
林忠篤が父・藤四郎より、高岳の「宿元」としての地位を引継いだ効果はそれから11年後に現れた。
即ち、11年後の安永3(1774)年、家禄3千石の林家の家督を継いだは良いが寄合にて燻っていた忠篤は従六位布衣役である持筒頭に取立てられ、その翌年の安永4(1775)年には早くも遠国奉行の一つ、浦賀奉行へと昇進を果たしたのであった。
そして更に6年後の天明元(1781)年には遂に従五位下諸大夫役である御三卿家老、それも一橋家老へと昇進を遂げ、この時、忠篤はそれまでの林藤五郎忠篤から今の林肥後守忠篤へと改名したのであった。
この林忠篤の「栄達」の背後には勿論、高岳の存在があった。
幕府の人事権を握る老中や側用人といった幕閣や、或いは奥右筆も高岳の存在に配慮して、忠篤を取立てたのであった。
いや、それは忠篤の父、林藤四郎にしても当て嵌まるだろう。
林藤四郎も高岳の「宿元」となる前までは大坂船手という一応は従六位布衣役にあったものの、しかし布衣役の中では比較的、閑職で燻っていた。
それが高岳の「宿元」としての地位を獲得するや、倅の忠篤も任じられた持筒頭へと取立てられ、更に新番頭へと昇進を遂げたのであった。
林藤四郎は宝暦13(1763)年に新番頭として在職中に病歿したのだが、仮に健在であったならば間違いなく遠国奉行へと更なる昇進を遂下手いたことであろう。いや、それどころか江戸町奉行や、御側衆へと栄達を遂げていたやも知れぬ。
それ故、忠篤が父、藤四郎の分まで栄達を遂げたとも言え、そこには高岳の「宿元」としての威光があった。
つまり、林藤四郎・忠篤父子は高岳の「御蔭」で栄達を遂げられた訳で、高岳は林藤四郎・忠篤父子にとっては「恩人」と言えた。
事実、林忠篤も次期将軍であった家基が健在であった頃には高岳に大いに感謝し、また、ただ感謝するだけでなく、それを「形」としても表してきた。
それが安永8(1779)年に家基が薨じてから状況は一変した。
いや、天明元(1781)年閏5月に家基に代わる次期将軍に一橋治済の嫡子・豊千代が選ばれ、更にその直後の6月に忠篤が浦賀奉行から一橋家老へと栄達を果たしたのを機に状況が一変したのだ。
林忠篤は何と、高岳の「宿元」を降りたいと、高岳にそう一方的に通告してきたのだ。
その理由たるや、
「次期将軍・家斉に附属する上臈年寄に選ばれた梅野井の宿元になる為…」
というものであった。
豊千代こと家斉が次期将軍として西之丸入りを果たしたからには、家斉に附属する上臈年寄として、京の都より公卿の娘を迎えねばなるまい。
これで将軍家であれば、それも例えば家基の様な、
「生まれながらの次期将軍…」
であるならば、母に附属している上臈年寄をそのまま、次期将軍の上臈年寄として横滑りさせることも可能であろう。
だが、家斉の場合、将軍家とは言っても「生まれながらの次期将軍」として御城にて育った訳ではなく、一橋家の大奥にて育てられてきた。
いや、一橋家の大奥にも京の都より招いた公卿の娘が上臈年寄を勤めていたことはあった。
それは治済が妻女、所謂、「御簾中」の在子に附属する上臈年寄であり、しかし、明和7(1770)にその在子が病歿するや、在子に附属していた上臈年寄も実家がある京の都へと帰って行った。
それ故、爾来、一橋家には上臈年寄として仕える公卿の娘はおらず、その様な中で家斉は豊千代として育てられた訳だ。
しかし、次期将軍に選ばれたからには、それ故に西之丸にて暮らすからには、その家斉に公卿の娘を上臈年寄として附属させねばならない。それが仕来りであるからだ。
無論、家斉はまだ、次期将軍に過ぎないので上臈年寄は一人で充分であろう。
いや、将軍・家治でさえ、妻女である倫子に先立たれるまでは、家治に附属していた上臈年寄は松嶌と高岳の二人に過ぎず、松嶌の死後は高岳一人となった。
その家治に新たに花園と飛鳥井という二人の公卿の娘が上臈年寄として附属し、今に至るのは倫子に先立たれてからの話であった。
花園と飛鳥井はそれまでは、倫子に附属する上臈年寄であるからだ。
それ故、家斉に附属する上臈年寄も一人で充分であり、そこで京の都より公卿・園基衡の四女である梅野井を招くことにしたのだ。
その際、梅野井にも勿論、「宿元」が必要となり、それに手を挙げたのが一橋家老の林忠篤であった。
林忠篤はこの時点で既に、高岳の「宿元」であり、その上、更に梅野井の「宿元」まで引受けるのは難しい様に思われた。
いや、「宿元」には厳格に制限がある訳ではなく、一人の旗本が複数の奥女中の「宿元」を務めている例ならば散見された。
だがその奥女中も年寄ともなれば話は別である。複数の年寄の「宿元」を一人の旗本が務めるのは難しい。
そこで林忠篤が梅野井の「宿元」を務めようと思えば、どうしても高岳の「宿元」から降りなければなるまい。
そこで忠篤は高岳に対して「宿元」から降りる旨、一方的に通告し、梅野井の「宿元」になった。
これは謂わば、忠篤が高岳から梅野井へと乗換えたとも称せられ、ひいては高岳の背後にいる将軍・家治から梅野井の背後にいる次期将軍・家斉へと乗換えたとも称せられるだろう。
将軍と次期将軍とではどちらがより将来性があるかと言えば、それはやはり次期将軍であろう。
それなら将軍に附属する上臈年寄の「宿元」を務めるよりは、次期将軍に附属する上臈年寄の「宿元」を務めた方が、己の栄達に適う…、林忠篤は大方そう考えて、そこで一橋家老という地位を利用、いや、濫用して治済に泣付きでもしたのであろう、梅野井の「宿元」の地位を捥ぎ取ったものと思われる。
いや、これで家斉が家治の実の子であったならば、忠篤もこの様な挙には出なかったであろう。
如何に将軍が次期将軍に較べて将来性に欠けるとは言っても、次期将軍にとって現将軍が実の父であれば、その父に仕えていた者たち、この場合で言えば将軍・家治に附属する上臈年寄の高岳も、家斉が実の父である家治を継いで新たな将軍となった暁にも、家斉は引続き、高岳を将軍としての己に附属する上臈年寄として重んじ、それが為に高岳も先代・家治に続いて権勢を恣にすることが出来様。
だが実際には家治と家斉は実の親子ではない、あくまで養親子に過ぎないのだ。
そうであれば治済が養父・家治を継いで新たな将軍となった暁には家治に仕えていた者たち、ことに近侍していた者たちは、
「軒並み…」
放逐されることが予想され、その中には勿論、高岳も含まれていよう。
いや、流石に高岳が大奥から追放される様なことはあるまいが、しかし、それまで恣にしてきた権勢を大いに、いや、完全に殺がれるであろう。
そうなれば高岳は最早、何の権限も持たない、謂わば「お飾り」の上臈年寄へと転落するであろう。
そしてその「被害」は高岳の「宿元」を務めている林忠篤にまで及ぶやも知れない。
無論、元服したばかりの家斉のそれだけの「器量」はないであろう。
家斉だけならば、断言は出来ないが、しかし、先代・家治に近侍していた者たちを軒並み追放する様な真似はすまい。
だが家斉には一橋治済という実父がおり、しかも未だ健在故、その治済が我が子・家斉を嗾かけて、先代・家治に近侍していた者たちを軒並み追放させるに違いなかった。
林忠篤は恐らくはそこまで読切ったからこそ、治済に懇願、泣付いて家斉に附属する上臈年寄の梅野井の「宿元」の地位を勝取ったものと思われる。
そうすることで、忠篤は治済に対して、
「今後は将軍・家治ではなく、次期将軍・家斉に忠誠を誓う…」
その様に思わせられるからだ。そしてそれはそのまま、
「治済に忠誠を誓う…」
そう転化、昇華させられる。何しろ治済は家斉の実父だからだ。
ともあれ、林忠篤が高岳から梅野井へと「宿元」を乗換えたのは斯かる事情によるものに違いなく、その旨、高岳は家治に告げたのであった。
「それは災難であったの…」
家治はまずはそう同情した。
だがその口調はどこか他人事の様であり、家治もそうと気付くと、己に仕える上臈年寄が災難に際会していたにもかかわらず、それに気付きもしなかった己を恥じた。
「いや、この家治に仕えてくれていると申すに、斯かる憂目に遭っていたなどとは…、それに気付いてやれず、済まなんだ…」
家治は高岳に頭を下げたので、これには高岳も驚き慌てた。
高岳の目的はあくまで「注意喚起」、即ち、一橋治済の「影響力」が大奥にまで確実に侵蝕していることを家治に伝えたかったのであり、頭を下げさせることが目的ではなかった。
「して…、高岳は林肥後めに逃げられからは誰に宿元を?」
林忠篤が高岳の「宿元」を降りた後も、高岳が今でもこうして大奥勤めを続けられているということは、新たな「宿元」を見つけたに相違なかった。
如何に上臈年寄と雖も、「宿元」なしでは大奥勤めは続けられないからだ。
「されば水谷但馬…、林肥後が相役の水谷但馬守勝富が宿元を引受けてくれ申しました…」
水谷勝富もまた、林忠篤の相役、同僚の一橋家老であり、それ故、水谷勝富は林忠篤の「言動」は具に目の当たりにし、そこで高岳が「宿元」を失って難儀しているに相違あるまいと、勝富が高岳の「宿元」を引継いでくれたのであった。
「左様か…、いや、水谷勝富には色々と世話になるのう…」
家治は嘗ては小納戸頭取として将軍たる己に仕えていた水谷勝富のその力量、人物を信頼して、一橋治済の監視役として、家老として治済の許へと送込んだのであった。
無論、家基の暗殺を阻止するのが目的であり、しかし、結果としてそれは失敗に終わった。
だが、それでも水谷勝富は精一杯、一橋家老としての職務を、つまりは治済の「監視役」としての役目を全うした。それは家治が認めるところであった。
その水谷勝富が敢えて、相役の林忠篤が投出した高岳の「宿元」の地位を引継いでくれたのだ。
それは火中の栗を拾うも同然であった。
何しろこれで、家斉政権における水谷勝富の「席」はどこにもなくなったからだ。
既に水谷勝富はこれまで、治済の「監視役」として治済とは散々、衝突して来たと専らの噂であり、ここへ来て、高岳の「宿元」まで敢えて引継いで見せるとは、これで治済との「対立」は決定的なものになったと言えるからだ。
そうまでして治済に屈しない水谷勝富という男に、その男気に家治は大いに感じ入った。
安祥院は何かを思い出したかの如くそう切出すと、
「例えば、笹岡が宿元を、家基公がご薨去あそばされし後、それまでの伯父、津田日向より祖父にして一橋用人の杉山嘉兵衛へと替えましたる一事を以って致しましても、上様に対する狼煙に外ならず…」
家基附の御客応答であった砂野が唯一人、家基の死後、将軍・家治附の年寄へと異動したのに加えて、同じく家基附の御客応答であった笹岡がやはり家基の死後に身元保証人である「宿元」を態態変更したところにも治済の意思が、即ち、将軍・家治に対する「宣戦布告」、更に言えば家基に続いて家治をも毒殺しようとの意思が読取れると、そう示唆した。
「然らば宿元の変更も一橋民部めが差配…、仕業にて?」
家治が確かめる様に尋ねると、安祥院も「恐らくは…」と応じた。
するとそこでそれまで黙って、安祥院の「証言」の「証人」に徹していた上臈年寄の高岳が、「畏れながら…」と口を挟んだ。
それ故、家治も「許す」と応じて、高岳に発言を許した。
「この高岳も宿元には苦労させられましてござりまする…」
「と申すと?」
家治は高岳を促した。
「さればこの高岳も大納言様…、家基公がご薨去あそばされます前までは、林藤五郎…、いえ、今は林肥後が務めておりましたものを、家基公がご薨去あそばされました後、急に宿元を降りたいと…」
つまりはこういうことであった。
高岳は宝暦10(1760)年、松嶌の勧めに従い、将軍になったばかりの家治附の上臈年寄に採用されるや、高岳の「宿元」を務めた、と言うよりは高岳の「宿元」に手を挙げたのは当時、大坂船手を勤めていた林藤四郎忠久であった。
将軍、それも将軍になったばかりの家治に仕える上臈年寄ともなれば、
「今を時めく…」
その表現が似合う程、大いなる権勢が期待される。要は周囲からは大奥の新たな権力者として認知される。
それ故にその様な上臈年寄、もとい高岳の「宿元」になりたいと願う者はそれこそ、
「引きも切らず…」
であった。
新たなる権力者である高岳の「宿元になれれば、自らもその「おこぼれ」、さしずめ、「権力の甘い蜜」に与れるやも知れないからだ。
その様な中で見事、高岳の「宿元」を勝取ったのが林藤四郎であった。
林藤四郎は高岳とは実は縁者であった。
即ち、林藤四郎の祖母は公卿、中御門宣顕の一人娘の政子であり、その政子の伯父―、中御門宣顕にとっては実兄の岡崎国久の孫娘―、国久の嫡子の岡崎国廣の一人娘こそが高岳であった。
つまり、林藤四郎にとっては高岳は祖母・政子の従弟―、藤四郎の従伯祖父の娘ということで、再従伯母に当たり、逆に高岳にとっては林藤四郎は祖父・岡崎国久の姪・政子の嫡孫ということで、従兄違に当たる。
尤も、高岳は林藤四郎にとって再従叔母とは申せ、年齢は藤四郎の方が高岳よりも上であり、それも親子程の開きがあった。
これは高岳の父にして、藤四郎の従伯祖父の岡崎国廣が遅い時―、その死の直前、元文3(1738)年の正月に生まれたことに由来する。
この年―、元文3(1738)年には林藤四郎もまた、嫡子を授かり、その嫡子こそが林藤四郎に続いて高岳の宿元となる林藤五郎改め肥後守忠篤であった。
高岳にとって林忠篤は従兄違の林藤四郎の倅、従兄違の子供ということで又従弟、所謂、「はとこ」に当たる。
それ故、高岳の「宿元」であった林藤四郎が宝暦13(1763)年11月に歿するや、その地位―、高岳の「宿元」としての地位は、
「さも当然の如く…」
藤四郎の嫡子の林忠篤が引継いだのであった。
林忠篤が父・藤四郎より、高岳の「宿元」としての地位を引継いだ効果はそれから11年後に現れた。
即ち、11年後の安永3(1774)年、家禄3千石の林家の家督を継いだは良いが寄合にて燻っていた忠篤は従六位布衣役である持筒頭に取立てられ、その翌年の安永4(1775)年には早くも遠国奉行の一つ、浦賀奉行へと昇進を果たしたのであった。
そして更に6年後の天明元(1781)年には遂に従五位下諸大夫役である御三卿家老、それも一橋家老へと昇進を遂げ、この時、忠篤はそれまでの林藤五郎忠篤から今の林肥後守忠篤へと改名したのであった。
この林忠篤の「栄達」の背後には勿論、高岳の存在があった。
幕府の人事権を握る老中や側用人といった幕閣や、或いは奥右筆も高岳の存在に配慮して、忠篤を取立てたのであった。
いや、それは忠篤の父、林藤四郎にしても当て嵌まるだろう。
林藤四郎も高岳の「宿元」となる前までは大坂船手という一応は従六位布衣役にあったものの、しかし布衣役の中では比較的、閑職で燻っていた。
それが高岳の「宿元」としての地位を獲得するや、倅の忠篤も任じられた持筒頭へと取立てられ、更に新番頭へと昇進を遂げたのであった。
林藤四郎は宝暦13(1763)年に新番頭として在職中に病歿したのだが、仮に健在であったならば間違いなく遠国奉行へと更なる昇進を遂下手いたことであろう。いや、それどころか江戸町奉行や、御側衆へと栄達を遂げていたやも知れぬ。
それ故、忠篤が父、藤四郎の分まで栄達を遂げたとも言え、そこには高岳の「宿元」としての威光があった。
つまり、林藤四郎・忠篤父子は高岳の「御蔭」で栄達を遂げられた訳で、高岳は林藤四郎・忠篤父子にとっては「恩人」と言えた。
事実、林忠篤も次期将軍であった家基が健在であった頃には高岳に大いに感謝し、また、ただ感謝するだけでなく、それを「形」としても表してきた。
それが安永8(1779)年に家基が薨じてから状況は一変した。
いや、天明元(1781)年閏5月に家基に代わる次期将軍に一橋治済の嫡子・豊千代が選ばれ、更にその直後の6月に忠篤が浦賀奉行から一橋家老へと栄達を果たしたのを機に状況が一変したのだ。
林忠篤は何と、高岳の「宿元」を降りたいと、高岳にそう一方的に通告してきたのだ。
その理由たるや、
「次期将軍・家斉に附属する上臈年寄に選ばれた梅野井の宿元になる為…」
というものであった。
豊千代こと家斉が次期将軍として西之丸入りを果たしたからには、家斉に附属する上臈年寄として、京の都より公卿の娘を迎えねばなるまい。
これで将軍家であれば、それも例えば家基の様な、
「生まれながらの次期将軍…」
であるならば、母に附属している上臈年寄をそのまま、次期将軍の上臈年寄として横滑りさせることも可能であろう。
だが、家斉の場合、将軍家とは言っても「生まれながらの次期将軍」として御城にて育った訳ではなく、一橋家の大奥にて育てられてきた。
いや、一橋家の大奥にも京の都より招いた公卿の娘が上臈年寄を勤めていたことはあった。
それは治済が妻女、所謂、「御簾中」の在子に附属する上臈年寄であり、しかし、明和7(1770)にその在子が病歿するや、在子に附属していた上臈年寄も実家がある京の都へと帰って行った。
それ故、爾来、一橋家には上臈年寄として仕える公卿の娘はおらず、その様な中で家斉は豊千代として育てられた訳だ。
しかし、次期将軍に選ばれたからには、それ故に西之丸にて暮らすからには、その家斉に公卿の娘を上臈年寄として附属させねばならない。それが仕来りであるからだ。
無論、家斉はまだ、次期将軍に過ぎないので上臈年寄は一人で充分であろう。
いや、将軍・家治でさえ、妻女である倫子に先立たれるまでは、家治に附属していた上臈年寄は松嶌と高岳の二人に過ぎず、松嶌の死後は高岳一人となった。
その家治に新たに花園と飛鳥井という二人の公卿の娘が上臈年寄として附属し、今に至るのは倫子に先立たれてからの話であった。
花園と飛鳥井はそれまでは、倫子に附属する上臈年寄であるからだ。
それ故、家斉に附属する上臈年寄も一人で充分であり、そこで京の都より公卿・園基衡の四女である梅野井を招くことにしたのだ。
その際、梅野井にも勿論、「宿元」が必要となり、それに手を挙げたのが一橋家老の林忠篤であった。
林忠篤はこの時点で既に、高岳の「宿元」であり、その上、更に梅野井の「宿元」まで引受けるのは難しい様に思われた。
いや、「宿元」には厳格に制限がある訳ではなく、一人の旗本が複数の奥女中の「宿元」を務めている例ならば散見された。
だがその奥女中も年寄ともなれば話は別である。複数の年寄の「宿元」を一人の旗本が務めるのは難しい。
そこで林忠篤が梅野井の「宿元」を務めようと思えば、どうしても高岳の「宿元」から降りなければなるまい。
そこで忠篤は高岳に対して「宿元」から降りる旨、一方的に通告し、梅野井の「宿元」になった。
これは謂わば、忠篤が高岳から梅野井へと乗換えたとも称せられ、ひいては高岳の背後にいる将軍・家治から梅野井の背後にいる次期将軍・家斉へと乗換えたとも称せられるだろう。
将軍と次期将軍とではどちらがより将来性があるかと言えば、それはやはり次期将軍であろう。
それなら将軍に附属する上臈年寄の「宿元」を務めるよりは、次期将軍に附属する上臈年寄の「宿元」を務めた方が、己の栄達に適う…、林忠篤は大方そう考えて、そこで一橋家老という地位を利用、いや、濫用して治済に泣付きでもしたのであろう、梅野井の「宿元」の地位を捥ぎ取ったものと思われる。
いや、これで家斉が家治の実の子であったならば、忠篤もこの様な挙には出なかったであろう。
如何に将軍が次期将軍に較べて将来性に欠けるとは言っても、次期将軍にとって現将軍が実の父であれば、その父に仕えていた者たち、この場合で言えば将軍・家治に附属する上臈年寄の高岳も、家斉が実の父である家治を継いで新たな将軍となった暁にも、家斉は引続き、高岳を将軍としての己に附属する上臈年寄として重んじ、それが為に高岳も先代・家治に続いて権勢を恣にすることが出来様。
だが実際には家治と家斉は実の親子ではない、あくまで養親子に過ぎないのだ。
そうであれば治済が養父・家治を継いで新たな将軍となった暁には家治に仕えていた者たち、ことに近侍していた者たちは、
「軒並み…」
放逐されることが予想され、その中には勿論、高岳も含まれていよう。
いや、流石に高岳が大奥から追放される様なことはあるまいが、しかし、それまで恣にしてきた権勢を大いに、いや、完全に殺がれるであろう。
そうなれば高岳は最早、何の権限も持たない、謂わば「お飾り」の上臈年寄へと転落するであろう。
そしてその「被害」は高岳の「宿元」を務めている林忠篤にまで及ぶやも知れない。
無論、元服したばかりの家斉のそれだけの「器量」はないであろう。
家斉だけならば、断言は出来ないが、しかし、先代・家治に近侍していた者たちを軒並み追放する様な真似はすまい。
だが家斉には一橋治済という実父がおり、しかも未だ健在故、その治済が我が子・家斉を嗾かけて、先代・家治に近侍していた者たちを軒並み追放させるに違いなかった。
林忠篤は恐らくはそこまで読切ったからこそ、治済に懇願、泣付いて家斉に附属する上臈年寄の梅野井の「宿元」の地位を勝取ったものと思われる。
そうすることで、忠篤は治済に対して、
「今後は将軍・家治ではなく、次期将軍・家斉に忠誠を誓う…」
その様に思わせられるからだ。そしてそれはそのまま、
「治済に忠誠を誓う…」
そう転化、昇華させられる。何しろ治済は家斉の実父だからだ。
ともあれ、林忠篤が高岳から梅野井へと「宿元」を乗換えたのは斯かる事情によるものに違いなく、その旨、高岳は家治に告げたのであった。
「それは災難であったの…」
家治はまずはそう同情した。
だがその口調はどこか他人事の様であり、家治もそうと気付くと、己に仕える上臈年寄が災難に際会していたにもかかわらず、それに気付きもしなかった己を恥じた。
「いや、この家治に仕えてくれていると申すに、斯かる憂目に遭っていたなどとは…、それに気付いてやれず、済まなんだ…」
家治は高岳に頭を下げたので、これには高岳も驚き慌てた。
高岳の目的はあくまで「注意喚起」、即ち、一橋治済の「影響力」が大奥にまで確実に侵蝕していることを家治に伝えたかったのであり、頭を下げさせることが目的ではなかった。
「して…、高岳は林肥後めに逃げられからは誰に宿元を?」
林忠篤が高岳の「宿元」を降りた後も、高岳が今でもこうして大奥勤めを続けられているということは、新たな「宿元」を見つけたに相違なかった。
如何に上臈年寄と雖も、「宿元」なしでは大奥勤めは続けられないからだ。
「されば水谷但馬…、林肥後が相役の水谷但馬守勝富が宿元を引受けてくれ申しました…」
水谷勝富もまた、林忠篤の相役、同僚の一橋家老であり、それ故、水谷勝富は林忠篤の「言動」は具に目の当たりにし、そこで高岳が「宿元」を失って難儀しているに相違あるまいと、勝富が高岳の「宿元」を引継いでくれたのであった。
「左様か…、いや、水谷勝富には色々と世話になるのう…」
家治は嘗ては小納戸頭取として将軍たる己に仕えていた水谷勝富のその力量、人物を信頼して、一橋治済の監視役として、家老として治済の許へと送込んだのであった。
無論、家基の暗殺を阻止するのが目的であり、しかし、結果としてそれは失敗に終わった。
だが、それでも水谷勝富は精一杯、一橋家老としての職務を、つまりは治済の「監視役」としての役目を全うした。それは家治が認めるところであった。
その水谷勝富が敢えて、相役の林忠篤が投出した高岳の「宿元」の地位を引継いでくれたのだ。
それは火中の栗を拾うも同然であった。
何しろこれで、家斉政権における水谷勝富の「席」はどこにもなくなったからだ。
既に水谷勝富はこれまで、治済の「監視役」として治済とは散々、衝突して来たと専らの噂であり、ここへ来て、高岳の「宿元」まで敢えて引継いで見せるとは、これで治済との「対立」は決定的なものになったと言えるからだ。
そうまでして治済に屈しない水谷勝富という男に、その男気に家治は大いに感じ入った。
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