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徳川家基毒殺事件 ~大奥における「宿元」にも一橋治済の影響力が見て取れる~

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宿元やどもともうさば…」

 安祥院あんしょういんなにかをおもしたかのごとくそう切出きりだすと、

たとえば、笹岡ささおか宿元やどもとを、家基公いえもとこうがご薨去こうきょあそばされしのち、それまでの伯父おじ津田つだ日向ひゅうがより祖父そふにして一橋ひとつばし用人ようにん杉山すぎやま嘉兵衛かへえへとえましたる一事いちじっていたしましても、上様うえさまたいする狼煙のろしほかならず…」

 家基附いえもとづききゃく応答あしらいであった砂野いさのただ一人ひとり家基いえもと死後しご将軍しょうぐん家治附いえはるづき年寄としよりへと異動いどうしたのにくわえて、おなじく家基附いえもとづききゃく応答あしらいであった笹岡ささおかがやはり家基いえもと死後しご身元みもと保証人ほしょうにんである「宿元やどもと」を態態変更わざわざへんこうしたところにも治済はるさだ意思いしが、すなわち、将軍しょうぐん家治いえはるたいする「宣戦せんせん布告ふこく」、さらに言えば家基いえもとつづいて家治いえはるをも毒殺どくさつしようとの意思いし読取よみとれると、そう示唆しさした。

しからば宿元やどもと変更へんこう一橋ひとつばし民部みんぶめが差配さはい…、仕業しわざにて?」

 家治いえはるたしかめるようたずねると、安祥院あんしょういんも「おそらくは…」とおうじた。

 するとそこでそれまでだまって、安祥院あんしょういんの「証言しょうげん」の「証人しょうにん」にてっしていた上臈じょうろう年寄どしより高岳たかおかが、「おそれながら…」とくちはさんだ。

 それゆえ家治いえはるも「ゆるす」とおうじて、高岳たかおか発言はつげんゆるした。

「この高岳たかおか宿元やどもとには苦労くろうさせられましてござりまする…」

「ともうすと?」

 家治いえはる高岳たかおかうながした。

「さればこの高岳たかおか大納言だいなごんさま…、家基公いえもとこうがご薨去こうきょあそばされますまえまでは、はやし藤五郎とうごろう…、いえ、いまはやし肥後ひごつとめておりましたものを、家基公いえもとこうがご薨去こうきょあそばされましたのちきゅう宿元やどもとりたいと…」

 つまりはこういうことであった。

 高岳たかおかは宝暦10(1760)年、松嶌まつしますすめにしたがい、将軍しょうぐんになったばかりの家治附いえはるづき上臈じょうろう年寄どしより採用さいようされるや、高岳たかおかの「宿元やどもと」をつとめた、と言うよりは高岳たかおかの「宿元やどもと」にげたのは当時とうじ大坂おおざか船手ふなてつとめていたはやし藤四郎とうしろう忠久ただひさであった。

 将軍しょうぐん、それも将軍しょうぐんになったばかりの家治いえはるつかえる上臈じょうろう年寄どしよりともなれば、

いまときめく…」

 その表現ひょうげん似合にあほどおおいなる権勢けんせい期待きたいされる。よう周囲しゅういからは大奥おおおくあらたな権力者けんりょくしゃとして認知にんちされる。

 それゆえにそのよう上臈じょうろう年寄どしより、もとい高岳たかおかの「宿元やどもと」になりたいとねがものはそれこそ、

きもらず…」

 であった。

 あらたなる権力者けんりょくしゃである高岳たかおかの「宿元やどもとになれれば、みずからもその「おこぼれ」、さしずめ、「権力けんりょくあまみつ」にあずかれるやもれないからだ。

 そのようなか見事みごと高岳たかおかの「宿元やどもと」を勝取かちとったのがはやし藤四郎とうしろうであった。

 はやし藤四郎とうしろう高岳たかおかとはじつ縁者えんじゃであった。

 すなわち、はやし藤四郎とうしろう祖母そぼ公卿くぎょう中御門なかのみかど宣顕のぶあき一人娘ひとりむすめ政子まさこであり、その政子まさこ伯父おじ―、中御門なかのみかど宣顕のぶあきにとっては実兄じっけい岡崎国久おかざきくにひさ孫娘まごむすめ―、国久くにひさ嫡子ちゃくし岡崎国廣おかざきくにひろ一人娘ひとりむすめこそが高岳たかおかであった。

 つまり、はやし藤四郎とうしろうにとっては高岳たかおか祖母そぼ政子まさこ従弟いとこ―、藤四郎とうしろう従伯祖父いとこおおおじむすめということで、再従伯母はとこおばたり、ぎゃく高岳たかおかにとってははやし藤四郎とうしろう祖父そふ岡崎国久おかざきくにひさめい政子まさこ嫡孫ちゃくそんということで、従兄違いとこちがいたる。

 もっとも、高岳たかおかはやし藤四郎とうしろうにとって再従叔母はとこおばとはもうせ、年齢とし藤四郎とうしろうほう高岳たかおかよりもうえであり、それも親子おやこほどひらきがあった。

 これは高岳たかおかちちにして、藤四郎とうしろう従伯祖父いとこおおおじ岡崎国廣おかざきくにひろおそとき―、その直前ちょくぜん、元文3(1738)年の正月しょうがつまれたことに由来ゆらいする。

 このとし―、元文3(1738)年にははやし藤四郎とうしろうもまた、嫡子ちゃくしさずかり、その嫡子ちゃくしこそがはやし藤四郎とうしろうつづいて高岳たかおか宿元やどもととなるはやし藤五郎とうごろうあらた肥後守ひごのかみ忠篤ただあつであった。

 高岳たかおかにとってはやし忠篤ただあつ従兄違いとこちがいはやし藤四郎とうしろうせがれ従兄違いとこちがい子供こどもということでまた従弟いとこ所謂いわゆる、「はとこ」にたる。

 それゆえ高岳たかおかの「宿元やどもと」であったはやし藤四郎とうしろうが宝暦13(1763)年11月に歿ぼっするや、その地位ちい―、高岳たかおかの「宿元やどもと」としての地位ちいは、

「さも当然とうぜんごとく…」

 藤四郎とうしろう嫡子ちゃくしはやし忠篤ただあつ引継ひきついだのであった。

 はやし忠篤ただあつちち藤四郎とうしろうより、高岳たかおかの「宿元やどもと」としての地位ちい引継ひきついだ効果こうかはそれから11年後にあらわれた。

 すなわち、11年後の安永3(1774)年、家禄かろく3千石の林家はやしけ家督かとくいだはいが寄合よりあいにてくすぶっていた忠篤ただあつ従六位じゅろくい布衣ほいやくである持筒頭もちづつがしら取立とりたてられ、その翌年よくねんの安永4(1775)年にははやくも遠国おんごく奉行ぶぎょうひとつ、浦賀うらが奉行ぶぎょうへと昇進しょうしんたしたのであった。

 そしてさらに6年後の天明元(1781)年にはつい従五位下じゅごいのげ諸大夫しょだいぶやくである三卿さんきょう家老かろう、それも一橋ひとつばし家老かろうへと昇進しょうしんげ、このとき忠篤ただあつはそれまでのはやし藤五郎とうごろう忠篤ただあつからいまはやし肥後守ひごのかみ忠篤ただあつへと改名かいめいしたのであった。

 このはやし忠篤ただあつの「栄達えいたつ」の背後はいごには勿論もちろん高岳たかおか存在そんざいがあった。

 幕府ばくふ人事権じんじけんにぎ老中ろうじゅう側用人そばようにんといった幕閣ばっかくや、あるいは奥右筆おくゆうひつ高岳たかおか存在そんざい配慮はいりょして、忠篤ただあつ取立とりたてたのであった。

 いや、それは忠篤ただあつちちはやし藤四郎とうしろうにしてもまるだろう。

 はやし藤四郎とうしろう高岳たかおかの「宿元やどもと」となるまえまでは大坂おおざか船手ふなてという一応いちおう従六位じゅろくい布衣ほいやくにあったものの、しかし布衣ほいやくなかでは比較的ひかくてき閑職かんしょくくすぶっていた。

 それが高岳たかおかの「宿元やどもと」としての地位ちい獲得かくとくするや、せがれ忠篤ただあつにんじられた持筒頭もちづつがしらへと取立とりたてられ、さら新番頭しんばんがしらへと昇進しょうしんげたのであった。

 はやし藤四郎とうしろうは宝暦13(1763)年に新番頭しんばんがしらとして在職中ざいしょくちゅう病歿びょうぼつしたのだが、かり健在けんざいであったならば間違まちがいなく遠国おんごく奉行ぶぎょうへとさらなる昇進しょうしん下手いたことであろう。いや、それどころか江戸えど町奉行まちぶぎょうや、そばしゅうへと栄達えいたつげていたやもれぬ。

 それゆえ忠篤ただあつちち藤四郎とうしろうぶんまで栄達えいたつげたとも言え、そこには高岳たかおかの「宿元やどもと」としての威光いこうがあった。

 つまり、はやし藤四郎とうしろう忠篤ただあつ父子ふし高岳たかおかの「かげ」で栄達えいたつげられたわけで、高岳たかおかはやし藤四郎とうしろう忠篤ただあつ父子ふしにとっては「恩人おんじん」と言えた。

 事実じじつはやし忠篤ただあつ次期じき将軍しょうぐんであった家基いえもと健在けんざいであったころには高岳たかおかおおいに感謝かんしゃし、また、ただ感謝かんしゃするだけでなく、それを「かたち」としてもあらわしてきた。

 それが安永8(1779)年に家基いえもとこうじてから状況じょうきょう一変いっぺんした。

 いや、天明元(1781)年うるう5月に家基いえもとわる次期じき将軍しょうぐん一橋ひとつばし治済はるさだ嫡子ちゃくし豊千代とよちよえらばれ、さらにその直後ちょくごの6月に忠篤ただあつ浦賀うらが奉行ぶぎょうから一橋ひとつばし家老かろうへと栄達えいたつたしたのを状況じょうきょう一変いっぺんしたのだ。

 はやし忠篤ただあつなんと、高岳たかおかの「宿元やどもと」をりたいと、高岳たかおかにそう一方的いっぽうてき通告つうこくしてきたのだ。

 その理由わけたるや、

次期じき将軍しょうぐん家斉いえなり附属ふぞくする上臈じょうろう年寄どしよりえらばれた梅野井うめのい宿元やどもとになるため…」

 というものであった。

 豊千代とよちよこと家斉いえなり次期じき将軍しょうぐんとして西之丸にしのまるりをたしたからには、家斉いえなり附属ふぞくする上臈じょうろう年寄どしよりとして、きょうみやこより公卿くぎょうむすめむかえねばなるまい。

 これで将軍家しょうぐんけであれば、それもたとえば家基いえもとような、

まれながらの次期じき将軍しょうぐん…」

 であるならば、はは附属ふぞくしている上臈じょうろう年寄どしよりをそのまま、次期じき将軍しょうぐん上臈じょうろう年寄どしよりとして横滑よこすべりさせることも可能かのうであろう。

 だが、家斉いえなり場合ばあい将軍家しょうぐんけとは言っても「まれながらの次期じき将軍しょうぐん」として御城えどじょうにてそだったわけではなく、一橋ひとつばし大奥おおおくにてそだてられてきた。

 いや、一橋ひとつばし大奥おおおくにもきょうみやこよりまねいた公卿くぎょうむすめ上臈じょうろう年寄どしよりつとめていたことはあった。

 それは治済はるさだ妻女さいじょ所謂いわゆる、「御簾中ごれんじゅう」の在子ありこ附属ふぞくする上臈じょうろう年寄どしよりであり、しかし、明和7(1770)にその在子ありこ病歿びょうぼつするや、在子ありこ附属ふぞくしていた上臈じょうろう年寄どしより実家じっかがあるきょうみやこへとかえってった。

 それゆえ爾来じらい一橋ひとつばしには上臈じょうろう年寄どしよりとしてつかえる公卿くぎょうむすめはおらず、そのようなか家斉いえなり豊千代とよちよとしてそだてられたわけだ。

 しかし、次期じき将軍しょうぐんえらばれたからには、それゆえ西之丸にしのまるにてらすからには、その家斉いえなり公卿くぎょうむすめ上臈じょうろう年寄どしよりとして附属ふぞくさせねばならない。それが仕来しきたりであるからだ。

 無論むろん家斉いえなりはまだ、次期じき将軍しょうぐんぎないので上臈じょうろう年寄どしより一人ひとり充分じゅうぶんであろう。

 いや、将軍しょうぐん家治いえはるでさえ、妻女さいじょである倫子ともこ先立さきだたれるまでは、家治いえはる附属ふぞくしていた上臈じょうろう年寄どしより松嶌まつしま高岳たかおか二人ふたりぎず、松嶌まつしま死後しご高岳たかおか一人ひとりとなった。

 その家治いえはるあらたに花園はなぞの飛鳥井あすかいという二人ふたり公卿くぎょうむすめ上臈じょうろう年寄どしよりとして附属ふぞくし、いまいたるのは倫子ともこ先立さきだたれてからのはなしであった。

 花園はなぞの飛鳥井あすかいはそれまでは、倫子ともこ附属ふぞくする上臈じょうろう年寄どしよりであるからだ。

 それゆえ家斉いえなり附属ふぞくする上臈じょうろう年寄どしより一人ひとり充分じゅうぶんであり、そこできょうみやこより公卿くぎょう園基衡そのもとひら四女よんじょである梅野井うめのいまねくことにしたのだ。

 そのさい梅野井うめのいにも勿論もちろん、「宿元やどもと」が必要ひつようとなり、それにげたのが一橋ひとつばし家老かろうはやし忠篤ただあつであった。

 はやし忠篤ただあつはこの時点じてんすでに、高岳たかおかの「宿元やどもと」であり、そのうえさら梅野井うめのいの「宿元やどもと」まで引受ひきうけるのはむずかしいようおもわれた。

 いや、「宿元やどもと」には厳格げんかく制限せいげんがあるわけではなく、一人ひとり旗本はたもと複数ふくすう奥女中おくじょちゅうの「宿元やどもと」をつとめているケースならば散見さんけんされた。

 だがその奥女中おくじょちゅう年寄としよりともなればはなしべつである。複数ふくすう年寄としよりの「宿元やどもと」を一人ひとり旗本はたもとつとめるのはむずかしい。

 そこではやし忠篤ただあつ梅野井うめのいの「宿元やどもと」をつとめようとおもえば、どうしても高岳たかおかの「宿元やどもと」からりなければなるまい。

 そこで忠篤ただあつ高岳たかおかたいして「宿元やどもと」からりるむね一方的いっぽうてき通告つうこくし、梅野井うめのいの「宿元やどもと」になった。

 これはわば、忠篤ただあつ高岳たかおかから梅野井うめのいへと乗換のりかえたともしょうせられ、ひいては高岳たかおか背後はいごにいる将軍しょうぐん家治いえはるから梅野井うめのい背後はいごにいる次期じき将軍しょうぐん家斉いえなりへと乗換のりかえたともしょうせられるだろう。

 将軍しょうぐん次期じき将軍しょうぐんとではどちらがより将来性しょうらいせいがあるかと言えば、それはやはり次期じき将軍しょうぐんであろう。

 それなら将軍しょうぐん附属ふぞくする上臈じょうろう年寄どしよりの「宿元やどもと」をつとめるよりは、次期じき将軍しょうぐん附属ふぞくする上臈じょうろう年寄どしよりの「宿元やどもと」をつとめたほうが、おれの栄達えいたつかなう…、はやし忠篤ただあつ大方おおかたそうかんがえて、そこで一橋ひとつばし家老かろうという地位ちい利用りよう、いや、濫用らんようして治済はるさだ泣付なきつきでもしたのであろう、梅野井うめのいの「宿元やどもと」の地位ちいったものとおもわれる。

 いや、これで家斉いえなり家治いえはるじつであったならば、忠篤ただあつもこのようきょにはなかったであろう。

 如何いか将軍しょうぐん次期じき将軍しょうぐんくらべて将来性しょうらいせいけるとは言っても、次期じき将軍しょうぐんにとってげん将軍しょうぐんじつちちであれば、そのちちつかえていたものたち、この場合ばあいで言えば将軍しょうぐん家治いえはる附属ふぞくする上臈じょうろう年寄どしより高岳たかおかも、家斉いえなりじつちちである家治いえはるいであらたな将軍しょうぐんとなったあかつきにも、家斉いえなり引続ひきつづき、高岳たかおか将軍しょうぐんとしてのおのれ附属ふぞくする上臈じょうろう年寄どしよりとしておもんじ、それがため高岳たかおか先代せんだい家治いえはるつづいて権勢けんせいほしいままにすることが出来できよう

 だが実際じっさいには家治いえはる家斉いえなりじつ親子おやこではない、あくまで養親子ようしんしぎないのだ。

 そうであれば治済はるさだ養父ようふ家治いえはるいであらたな将軍しょうぐんとなったあかつきには家治いえはるつかえていたものたち、ことに近侍きんじしていたものたちは、

軒並のきなみ…」

 放逐ほうちくされることが予想よそうされ、そのなかには勿論もちろん高岳たかおかふくまれていよう。

 いや、流石さすが高岳たかおか大奥おおおくから追放ついほうされるようなことはあるまいが、しかし、それまでほしいままにしてきた権勢けんせいおおいに、いや、完全かんぜんがれるであろう。

 そうなれば高岳たかおか最早もはやなん権限けんげんたない、わば「おかざり」の上臈じょうろう年寄どしよりへと転落てんらくするであろう。

 そしてその「被害ひがい」は高岳たかおかの「宿元やどもと」をつとめているはやし忠篤ただあつにまでおよぶやもれない。

 無論むろん元服げんぷくしたばかりの家斉いえなりのそれだけの「器量きりょう」はないであろう。

 家斉いえなりだけならば、断言だんげん出来できないが、しかし、先代せんだい家治いえはる近侍きんじしていたものたちを軒並のきな追放ついほうするよう真似まねはすまい。

 だが家斉いえなりには一橋ひとつばし治済はるさだという実父じっぷがおり、しかもいま健在故けんざいゆえ、その治済はるさだ家斉いえなりけしかけて、先代せんだい家治いえはる近侍きんじしていたものたちを軒並のきな追放ついほうさせるにちがいなかった。

 はやし忠篤ただあつおそらくはそこまで読切よみきったからこそ、治済はるさだ懇願こんがん泣付なきついて家斉いえなり附属ふぞくする上臈じょうろう年寄どしより梅野井うめのいの「宿元やどもと」の地位ちい勝取かちとったものとおもわれる。

 そうすることで、忠篤ただあつ治済はるさだたいして、

今後こんご将軍しょうぐん家治いえはるではなく、次期じき将軍しょうぐん家斉いえなり忠誠ちゅうせいちかう…」

 そのようおもわせられるからだ。そしてそれはそのまま、

治済はるさだ忠誠ちゅうせいちかう…」

 そう転化てんか昇華しょうかさせられる。なにしろ治済はるさだ家斉いえなり実父じっぷだからだ。

 ともあれ、はやし忠篤ただあつ高岳たかおかから梅野井うめのいへと「宿元やどもと」を乗換のりかえたのはかる事情じじょうによるものにちがいなく、そのむね高岳たかおか家治いえはるげたのであった。

「それは災難さいなんであったの…」

 家治いえはるはまずはそう同情どうじょうした。

 だがその口調くちょうはどこか他人事たにんごとようであり、家治いえはるもそうと気付きづくと、おのれつかえる上臈じょうろう年寄どしより災難さいなん際会さいかいしていたにもかかわらず、それに気付きづきもしなかったおのれじた。

「いや、この家治いえはるつかえてくれているともうすに、かる憂目うきめっていたなどとは…、それに気付きづいてやれず、まなんだ…」

 家治いえはる高岳たかおかあたまげたので、これには高岳たかおかおどろあわてた。

 高岳たかおか目的もくてきはあくまで「注意ちゅうい喚起かんき」、すなわち、一橋ひとつばし治済はるさだの「影響力えいきょうりょく」が大奥おおおくにまで確実かくじつ侵蝕しんしょくしていることを家治いえはるつたえたかったのであり、あたまげさせることが目的もくてきではなかった。

「して…、高岳たかおかはやし肥後ひごめにげられからはだれ宿元やどもとを?」

 はやし忠篤ただあつ高岳たかおかの「宿元やどもと」をりたのちも、高岳たかおかいまでもこうして大奥勤おおおくづとめをつづけられているということは、あらたな「宿元やどもと」をつけたに相違そういなかった。

 如何いか上臈じょうろう年寄どしよりいえども、「宿元やどもと」なしでは大奥おおおくづとめはつづけられないからだ。

「されば水谷みずのや但馬たじま…、はやし肥後ひご相役あいやく水谷みずのや但馬守たじまのかみ勝富かつとみ宿元やどもと引受ひきうけてくれもうしました…」

 水谷勝富みずのやかつとみもまた、はやし忠篤ただあつ相役あいやく同僚どうりょう一橋ひとつばし家老かろうであり、それゆえ水谷勝富みずのやかつとみはやし忠篤ただあつの「言動げんどう」はつぶさたりにし、そこで高岳たかおかが「宿元やどもと」をうしなって難儀なんぎしているに相違そういあるまいと、勝富かつとみ高岳たかおかの「宿元やどもと」を引継ひきついでくれたのであった。

左様さようか…、いや、水谷勝富みずのやかつとみには色々いろいろ世話せわになるのう…」

 家治いえはるかつては小納戸こなんど頭取とうどりとして将軍しょうぐんたるおのれつかえていた水谷勝富みずのやかつとみのその力量りきりょう人物じんぶつ信頼しんらいして、一橋ひとつばし治済はるさだ監視役かんしやくとして、家老かろうとして治済はるさだもとへと送込おくりこんだのであった。

 無論むろん家基いえもと暗殺あんさつ阻止そしするのが目的もくてきであり、しかし、結果けっかとしてそれは失敗しっぱいわった。

 だが、それでも水谷勝富みずのやかつとみ精一杯せいいっぱい一橋ひとつばし家老かろうとしての職務しょくむを、つまりは治済はるさだの「監視役かんしやく」としての役目やくめまっとうした。それは家治いえはるみとめるところであった。

 その水谷勝富みずのやかつとみえて、相役あいやくはやし忠篤ただあつ投出なげだした高岳たかおかの「宿元やどもと」の地位ちい引継ひきついでくれたのだ。

 それは火中かちゅうくりひろうも同然どうぜんであった。

 なにしろこれで、家斉政権いえなりせいけんにおける水谷勝富みずのやかつとみの「せき」はどこにもなくなったからだ。

 すで水谷勝富みずのやかつとみはこれまで、治済はるさだの「監視役かんしやく」として治済はるさだとは散々さんざん衝突しょうとつしてたともっぱらのうわさであり、ここへて、高岳たかおかの「宿元やどもと」までえて引継ひきついでせるとは、これで治済はるさだとの「対立たいりつ」は決定的けっていてきなものになったと言えるからだ。

 そうまでして治済はるさだくっしない水谷勝富みずのやかつとみというおとこに、その男気おとこぎ家治いえはるおおいにかんった。
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