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徳川家基毒殺事件 ~将軍・家治は本丸大奥にて、もう一人の母である安祥院からも貴重な証言と助言を得られる~
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夕の七つ半(午後5時頃)を四半刻(約30分)も回ろうかという頃、平河御門外に安祥院を乗せた駕籠が到着した。
いや、安祥院の駕籠だけではない。清水重好の「御簾中」、妻女の貞子と更に貞子に仕える清水家上臈の薗橋を乗せた駕籠も到着した。
一方、重好は徒歩であった。
こうして安祥院「一家」が平河御門外に勢揃いすると、安祥院を先頭に、まずは平河御門を潜った。
次いで下梅林、上梅林、そして切手の各御門を潜った。
安祥院「一家」はそれら御門を潜るに際して、
「通御判」
それを御門を預かる門番に呈示した。
通御判とは大奥に上がるに際して、と言うよりは御城の諸門を潜るに際して通行手形の役目を果たす。
この通御判さえあれば、御城の全ての諸門の通行は自由であった。
いや、それだけではない。暮六つ(午後6時頃)から翌朝の明六つ(午前6時頃)までの諸門が堅く閉じられている時間帯であったとしても、この通御判を門番に呈示すれば誰何されずに通してくれるという、正に「魔法の道具」であった。
いや、それだけに誰にでもこの「通御判」が発行される訳ではない。
基本的には将軍家の娘を嫁として貰い受けた大名家に発行されるものであった。
或いは将軍家の庶子を養嗣子に貰い受けた大名家にも発行されるであろう。
つまりは将軍家と所縁が出来れば発行されるものであった。
安祥院「一家」の場合、まず安祥院がこの「通御判」を所持していた。
安祥院は将軍家そのものである清水徳川家の始祖・重好の母堂であるので、安祥院もまた将軍家の扱いとなり、この通御判が発行されていた。
また当の清水重好にも、と言うよりは清水徳川家にも勿論、通御判が発行されていた。
それ故、御門においては安祥院・重好母子が夫々、門番に通御判を呈示、すると門番も相手が相手なだけに実に鄭重なる態度で安祥院・重好母子は元より、重好の妻女である貞子とその上臈の薗橋をも通した。
ことに、「最後の関門」とも言うべき切手御門、正しくは裏門切手御門を潜るに際しては、態々、責任者である裏門切手番之頭が安祥院「一家」が門を潜るのを門の外で待受けていたのだ。
裏門切手番之頭は平素、切手御門内にある番頭部屋に詰めていたが、今夕は安祥院「一家」が切手御門を通る、それも大奥にて将軍・家治と夕食を囲むべく、大奥に上る故、切手御門を通ると、裏門切手番之頭が、それも夕番を勤める裏門切手番之頭がその旨、事前連絡を受けていたので、裏門切手番之頭は頃合を見計らって番頭部屋から出ては門外にて安祥院「一家」を出迎えたという訳だ。
さて、こうして「最後の関門」である切手御門を抜けると、愈愈、大奥の廣敷向が見えてくる。
廣敷向とは大奥における男子役人の空間であり、大奥の中でも所謂、
「女の園」
とでも呼ぶべき奥女中の空間、通称、御殿向に辿り着くにはこの廣敷向を、それもまずは廣敷御門を潜らねばならなかった。
するとここ、廣敷御門においても―、安祥院「一家」は廣敷御門を潜るに際しても、先程の切手御門を潜る際と同様、実に鄭重なる扱いを受けた。
即ち、やはり夕番の廣敷番之頭が廣敷御門の前にて安祥院「一家」を待受けており、これを出迎えたのであった。
どうやら、広敷番之頭にもまた、将軍・家治と夕食を囲むことについて、通達が届いていたものと見える。
いや、いつもなら―、普段、安祥院が、或いは重好さえもそうだが、大奥に上るに際しては、ここまで鄭重な扱い、もてなしは受けない。
それが今夕に限ってここまで鄭重なる扱い、もてなしを受けるのは偏に、
「大奥にて将軍・家治と夕食を囲む…」
その目的の為に大奥に上る、それに尽きるであろう。
如何に将軍家である御三卿と雖も、大奥にて将軍と夕食を囲むなど前代未聞であったからだ。
それが重好には、いや、安祥院「一家」には格別に許されたのだから、それだけ将軍・家治が安祥院「一家」を重んじている、分かり易く言えば贔屓にしている証であり、そうとなれば裏門切手番之頭にしろ、廣敷番之頭にしろ、安祥院「一家」を粗略には扱えない。それどころか鄭重に扱わねばならないだろう。
さて、重好は腰に差していた太刀と脇差を出迎えに訪れた廣敷番之頭に預けた。
大奥においては、それも「女の園」である御殿向においては将軍を除いては男が「刃物」を身につけることは許されず、御殿向に足を踏み入れる前、廣敷向において「刃物」を、つまりは刀を預けるのが仕来りであった。
尤も、その場合でも刀を預かるのは御目見得以下、つまりは御家人身分の廣敷添番であり、それは相手が御三卿でも変わらない。
普段ならば清水重好の刀を預かるのは廣敷添番と言う訳だ。
だが今夕は斯かる事情から大奥の警備部門の現場責任者である廣敷番之頭が態々、重好の刀を預かった、謂わば「刀番」を務めたのだ。
ここでもまた、普段よりも鄭重なる対応を受けたという訳だ。
ちなみに安祥院と貞子、それに薗橋は女であるので、御殿向においても懐剣を身に着けることは許されていた。
だが今夕は将軍・家治と夕食を囲む、つまりは将軍・家治に会う訳で、その場合は仮令、女であったとしても懐剣を身に着けることは許されてはいなかった。
将軍と会う場合には男であろうが女であろうが、常に「丸腰」でなければならなかった。
それ故、安祥院らも気を利かせて、今夕に限っては最初から懐剣を身に着けてはおらず、「丸腰」の状態であった。
さて、こうして重好が廣敷番之頭を「刀番」にすると、安祥院「一家」はその廣敷番之頭の案内により廣敷御門を潜り、それから玄関の式台へと進んだ。
玄関式台においては大奥を取締まる留守居年寄衆が、その中の一人、高井土佐守直熈であった。
現在、留守居年寄衆はこの高井直熈を含めて4人おり、毎日1人が交代で宿直を務める。
今宵はもう一人の留守居、佐野右兵衛尉茂承が宿直を務めることになっていたが、急遽、高井直熈に変更された。
これは将軍・家治の「鶴の一声」によるものであった。
それと言うのも、大奥にて安祥院「一家」と夕食を囲むに際して、畢竟、刻限が刻限なだけに、大奥を取締ます留守居年寄衆の中でも、宿直を務める留守居が安祥院「一家」を出迎えることになる。
今夕で言えば佐野茂承が安祥院「一家」を出迎える筈であったが、しかし、家治としては佐野茂承だけには安祥院「一家」を出迎えさせたくはなかった。
それと言うのも佐野茂承もまた、小笠原信喜と共に、嘗ては愛息・家基の御側近くに仕える御側衆、それもその筆頭である御用取次の身にあり乍、同じく御用取次の小笠原信喜に手を貸した疑いが、つまりは家基の暗殺、毒殺に手を貸した疑いがあるからだ。
いや、手を貸した、とまでは行かずとも、これを黙過した疑いがあり、ともあれ家治としてはその様な佐野茂承にだけは安祥院「一家」を出迎えさせたくはなかったので、そこで急遽、高井直熈へと今宵の宿直を交代させたのだ。
その高井直熈もまた「丸腰」であり、高井直熈の場合は配下の廣敷添番に大小を預けていた。
こうして「丸腰」の高井直熈が自ら、玄関式台にて安祥院「一家」を出迎えると、まずは廣敷向と御殿向との境目である御錠口、所謂、下ノ錠口へと案内した。
ちなみに重好の「刀番」を務める廣敷番之頭と高井直熈の「刀番」を務める廣敷添番とはその下ノ錠口の手前で安祥院「一家」とその案内役である高井直熈と別れた。
さて、案内役である高井直熈が真先に下ノ錠口を潜って御殿向へと足を踏み入れ、安祥院「一家」もこれに続き、すると御殿向においては表使が勢揃いして安祥院「一家」とその案内役である留守居の高井直熈を出迎えたのであった。
表使とは大奥の外交係であり、年寄の指図を受けて大奥一切の買物を掌り、その役目柄、留守居や廣敷役人とも接触があり、ここ下ノ錠口をも管掌していた。
この表使だが、将軍や御台所にも附属し、その点、将軍にのみ附属する御客応答や、或いは御台所をはじめとする姫君にのみ附属する中年寄とは異なる。
今はここ本丸大奥には将軍・家治の御台所こそ存しないものの、側妾の千穂やそれに養女の種姫が暮らしており、千穂や種姫にも表使が附属していた。
その表使の中でも安祥院「一家」とその案内役である高井直熈を出迎えたのは将軍・家治に附属する6人の奥女中、即ち、富野、民野、生駒、菊野、岩野、松野の6人であった。
こうして6人の将軍・家治附の表使が安祥院「一家」と案内役の高井直熈を出迎えると、高井直熈が「先鋒」を、6人の表使が「殿」を夫々、務める格好で安祥院「一家」を御三之間廊下の手前、御茶之間廊下へと案内した。
留守居である高井直熈が安祥院「一家」を案内出来るのは、と言うよりは足を踏み入れられるのはここ、御三之間廊下の手前、御茶之間廊下までであった。
大奥の中でも所謂、「女の園」の御殿向ではあるが、その御殿向の中でも更に役務向という空間があり、下ノ錠口から御三之間廊下の手前、御茶之間廊下までがその役務向であった。
この役務向は丁度、大奥における「表向」に相当し、それよりも奥は「中奥」に相当する。
つまり御殿向の中でも役務向は政庁としての色彩が濃い空間であるのに対して、それよりも奥は私的な空間と言えようか。
無論、この場合の私的な空間、つまりは大奥における私的な空間とは将軍が寛ぐ空間に外ならず、その様な空間にまでは留守居と雖も容易には立入れない。
そこで高井直熈は御三之間廊下の手前、御茶之間廊下にて、安祥院「一家」の案内役をそれまで、安祥院「一家」の「殿」を務めていた6人の表使と交代、直熈は元来た道を戻り、御殿向より退出した。
こうしてここより先、奥へは彼女ら6人の表使が安祥院「一家」の案内役を務め、安祥院「一家」を御鈴廊下に接する御小座敷の下段へと案内した。
御小座敷の下段においてはこれまた将軍・家治に附属する年寄が勢揃いして安祥院「一家」を出迎え、ここよりは更に案内役が表使から年寄へと交代、年寄が安祥院「一家」を愈愈、最終目的地とも言うべきその直ぐ隣の部屋である御小座敷の上段へと案内した。
御小座敷の上段と下段は共に同じ広さを誇り、12畳の広さであった。
この内、上段は将軍が大奥に奥泊する際、御台所や側室と食事をし、そして枕を交わす場所でもあった。
一方、下段は奥泊の際の当番女中、つまりは宵番の年寄や御中臈、御伽坊主が詰める場所として使われた。
将軍・家治は御小座敷の上段を安祥院「一家」と夕食を囲む場とした。
刻限はちょうど暮六つ(午後6時頃)となり、しかし御小座敷上段にはまだ、家治の姿はなく、安祥院「一家」が先に到着した次第であった。
安祥院「一家」を御小座敷上段へと案内した将軍・家治附の年寄はそれから各々の持場へと戻った。
即ち、上臈年寄の高岳と花園、飛鳥井は将軍・家治を出迎えるべく上御鈴廊下へと足を運び、一方、武家系の年寄の滝川と野村、砂野は毒見の監視役として―、家治附の中年寄が家治が食する夕餉の毒見をするのを監視すべく、奥御膳所へと足を運んだ。
さて、御小座敷の上段にて安祥院「一家」が暫く、手持無沙汰で待っていると、将軍・家治が高岳らの案内にて姿を見せたので、安祥院「一家」も平伏してこれを出迎えようとし、しかし、それを家治は制した。
「安祥院様はこの家治のもう一人の母上も同然にて…」
倅の分際で母親に頭を垂れさせる訳には参らぬ…、成程、その理屈は安祥院には当て嵌まるやも知れぬ。
だが重好とその妻女の貞子、それに上臈の薗橋は将軍・家治よりも身分が低く、そうである以上、将軍たる家治に平伏せぬ訳にはゆかなかった。
それ故、安祥院が会釈程度で家治を出迎えたのに比して、重好たちはやはり平伏して家治を出迎えたのであった。
さて、家治は側妾の千穂と養女の種姫をも伴っていた。
「種や千穂も、御相伴に与らせても宜しゅうござるか?」
家治は安祥院に問うた。無論、安祥院に否やはあり得ず、「はい」と応じた。
それから家治は安祥院を己の隣に座らせ、そして家治と安祥院を挟む格好で千穂と種姫、重好と貞子が夫々、着座し、貞子に仕える清水家上臈の薗橋は貞子の直ぐ隣、上段においては末席に着座した。
するとそれを見計らったかの様に夕餉の膳が運ばれて来た。
こうして「夕食会」が催され、将軍・家治と安祥院の給仕は家治附の上臈年寄の高岳と花園、飛鳥井が担い、一方、千穂と種姫は夫々に附属する年寄の玉澤と向坂が担い、そして重好・貞子夫妻の給仕を担ったのは武家系の年寄の滝川と野村、そして砂野であった。
ちなみに薗橋の給仕は種姫附のもう一人の年寄である清橋が担った。
これはやはり将軍・家治の差配によるものだったが、しかし、清橋にしてみれば内心、さぞかし心外であった。
それと言うのも薗橋は上臈年寄とは申せ、それはあくまでも御三卿たる清水徳川家の大奥にて御簾中である貞子に仕える上臈に過ぎず、ここ本丸大奥にて仕える上臈年寄ではないのだ。
いや、ここ本丸大奥にて仕える上臈年寄の高岳たちさえも、将軍・家治と安祥院、この二人の給仕を担っていると申すのに、何故、高岳たちと同じく、本丸大奥にて年寄を務める己が、高々、清水徳川家の上臈に過ぎぬ薗橋の給仕を担わなければならないのか…、清橋はその様な不満を抱いていたのだ。
確かに清橋のこの不満には一応、尤もな面があったが、しかし、薗橋はただの上臈ではなかった。
即ち、薗橋は公卿、甘露寺家に生まれ、しかも父・規長は従一位・大納言の位にあった。
それ故、清水家においても薗橋は貞子に仕える上臈の身ではあるものの、家族同様、それこそ貞子の妹、いや姉の様に扱われていた。
その点、ここ本丸大奥にて将軍・家治附の上臈年寄の中でも筆頭である高岳は薗橋と同じく公卿、岡崎国廣の娘ではあるものの、岡崎国廣は従三位・非参議止まりで、従一位・権大納言には遠く、及ばなかった。
また同じく家治附の上臈年寄の花園と飛鳥井に至っては、花園の父、西洞院頼篤は正三位・非参議止まり、飛鳥井の父、平松時行は正二位・権中納言止まりであり、その点、薗橋には及ばなかった。
斯かる事情から、何より御三卿たる清水重好夫人の貞子とは姉とも妹とも扱われている薗橋の給仕を清橋が担うのも当然、とまでは言わないにしても致し方ない。
さて、こうして安祥院「一家」は家治と談笑しつつ、夕食を囲み、そして夕食を摂り終え、空となった膳部が下げられるや、家治は千穂附の老女の玉澤、それに種姫附の老女の向坂に夫々、交互に目配せした。
すると玉澤にしろ向坂にしろ心得たもので、家治の目配に対して交互に頷き合うと、まずは向坂が口火を切った。
「御簾中殿、宇治之間にて粗茶などを差上げとう存じます…」
宇治之間とは将軍の嫡子、嫡女の住まいであり、嘗ては萬壽姫が、続いて家基こと竹千代が生まれると、萬壽姫と竹千代がこの宇治之間にて育った。
やがて竹千代が成長し、次期将軍・家基として西之丸へと移ると、宇治之間は再び、萬壽姫の一人部屋となった。
その萬壽姫が歿した後、それから種姫が入るまでの間、宇治之間は「空部屋」であった。
それが次期将軍・家基の婚約者として、西之丸大奥にて暮らしていた種姫が安永8(1779)年2月に家基に先立たれるや、種姫は本丸大奥へと迎えられ、宇治之間を与えられ今に至る。
種姫は家基の婚約者ではあったが、名目上は将軍・家治の養女であったからだ。
そして養女とは言え、将軍・家治の娘であることに変わりはなく、実の娘であった萬壽姫に先立たれた家治にとってはただ一人の娘であり、即ち、嫡女という訳で、宇治之間が与えられた次第であった。
その宇治之間にて、「食後のお茶」でもしませんかと、種姫附の老女の向坂が「御簾中様」こと貞子を誘ったのであった。
すると貞子附の上臈の薗橋も心得たもので、
「簾中殿、是非ともそう致しましょう…」
薗橋は貞子を促し、貞子も薗橋に促されては頷くより外になかった。
いや、心得ていたのは玉澤もそうで、
「私達も、お供しても宜しゅうござりまするか?」
玉澤は向坂にそう声をかけた。態々、玉澤が「私達」と一人称複数を用いたからには、そこには当然、千穂も含まれていた。
それに対して、向坂も、「無論のこと…」と快諾してみせた。
その様を見ていた将軍・家治も、「それが良い」と応ずると、玉澤や向坂、それに向坂と同じく種姫附の年寄の清橋は元より、己に附属する年寄、それも先程まで重好・貞子夫妻の給仕を担っていた武家系の年寄である滝川や野村、砂野にも宇治之間にて種姫たちへの給仕を担う様、命じたのであった。
いや、武家系の年寄に対してだけではない、やはり先程まで将軍たる己とそれに安祥院の給仕を担っていた上臈年寄の花園と飛鳥井に対しても家治は同様に命じた。
こうして御小座敷上段には将軍・家治の外には安祥院とその息・重好、そして家治附の上臈年寄の高岳の4人だけとなった。
いや、家治もそれを期待して、敢えて今夕の「夕食会」には養女の種姫と側妾の千穂をも招き、重好に対しても、妻女の貞子をも、いや、貞子附の上臈の薗橋をも同道させる様にと命じたのだ。
これで今夕の「夕食会」が家治と安祥院、重好の3人だけならば、この後、蔦之間で予定している「密談」に、高岳だけでなく、その外の年寄までが様々な名目にて「参戦」してくる恐れがあったからだ。
そこで家治は「夕食会」には種姫や千穂、貞子や薗橋をも加えることで、それも夕食後には種姫の部屋である宇治之間にて「お茶会」を開かせることで、その「参戦」の恐れを除去した訳だ。
この場合、年寄もまた、給仕として駆出されることになるからだ。
さて、こうして余計な「雑音」が消えたところで高岳は家治たちを御小座敷上段よりも更に奥、大奥の最奥部とでも呼ぶべき蔦之間へと案内した。
蔦之間は将軍が大奥に奥泊した際に、御小座敷上段にて御台所と夕食を共にした後、歓談する場所であった。
御小座敷上段に蒲団が敷かれるまでの間、蔦之間にて歓談をするという訳だ。
その蔦之間にて家治は安祥院からも大奥の「謎」―、嘗て西之丸大奥にて家基に仕えていた奥女中について、ことに家基にとって最期の鷹狩りとなった朝、その日、大奥にて摂った朝食の毒見に関わった初崎や、或いはその姪である、御客応答の砂野、同じく御客応答の笹岡について、それまで家治が信じていた様に、彼女たちが真、家基に忠誠を尽くしてくれていたのか、それともそうではないのか、その点を安祥院に糺した。
その結果、安祥院の話もまた、重好の話をなぞるものであり、「証人」として陪席していた高岳も安祥院の話に頷いてみせた。
即ち、初崎は家基に授乳を拒まれたことで家基を怨んでおり、その初崎の姪の砂野にしても伯母である初崎に感化されて家基を怨んでおり、一方、家基とは従姉弟の間柄にある笹岡は家基を怨んではいないものの、しかし、だからと言って積極的に忠誠を尽くそうとの特別な感慨がある訳でもなく、従弟の家基よりも一橋用人である祖父、杉山嘉兵衛に特別な思い入れがある、噛砕いて言えば、従弟の家基よりも一橋用人の祖父である杉山嘉兵衛の方を大事に思っていた、というものであった。
これで家基の毒殺に、それまで家治が信じていた初崎や砂野、それに笹岡までが関与していた疑いがかなり強まった。
安祥院の今の「証言」だけでは確たる物的証拠には当たらないだろうが、しかし状況証拠としては充分過ぎる。「証人」である高岳も、安祥院」のその「証言」の正確性を認めたからだ。
それから安祥院は重好も気付かなかった恐ろしい「可能性」に触れた。
「大納言様…、今は亡き家基公に仕え奉りし、それも毒殺に関与せし奥女中の殆どが、家斉公や、或いは御縁女殿、それに家斉公の母堂の富の方にそれぞれ年寄として用いられましたのに、そんな中、砂野だけは上様に附属せし年寄として用いられましたのはまた、何故でござりましょう…」
安祥院のその問いかけに対して、家治は「それは砂野当人が希望せし故に…」と応えると、直ぐに「まさか…」と呻いた。
家治もまた、安祥院が気付いたのと同じく「可能性」、ある恐ろしい「可能性」に気付いたからだ。
安祥院もそうと気付くと、「その、まさかにて…」と応じた。
「まさかに…、砂野は…、今度はこの家治が命まで奪おうと?」
家治は声を潜ませて、安祥院に確かめる様に尋ねた。
「されば砂野が、と申しますよりは初崎に命じられて…、いえ、更にその背後に控えし一橋民部卿殿に命じられてのことでござりましょうが…」
安祥院はそう切出すと、ここ本丸大奥にても将軍が食事を摂らねばならないことに触れた。
即ち、将軍は昼食は大奥にて摂らねばならず、その場合もやはり、将軍附の御客応答が毒見を、それをこれまた将軍附の年寄が監視をすることになっていた。
「もしや既に、御客応答の中にも一橋民部卿殿が息のかかりし者が紛れ込んでおるやも知れず、されば斯かる御客応答が二人もおりますれば…」
将軍・家治の毒殺もまた容易である…、安祥院はそう示唆したのだ。
家治は思わず天を仰いだ。
そこで安祥院は将軍・家治に代わって、ある二つの指示を出した。
一つは今の将軍附の御客応答の身許の再調査であった。
「まずは宿元…、そこから更に縁者にも一橋家に所縁があるかどうか、それを調べよ…」
仮に身許保証人である宿元当人か、或いはその縁者に一橋家と所縁があれば、その者は要注意であった。場合によっては毒見から外すか、そもそも御客応答から別の役へと配置換えすることも考えなくてはならないだろう。
そして今一つだが、
「今後は毒見の監視は一人の年寄に任せるのではのうて、必ず、二人の年寄で担わせる様に…、ことに砂野が毒見の監視役の場合は極力、いや、必ずや高岳、そなたが砂野の相役として、共に毒見の監視役を勤める様に…」
安祥院はそれを命じたのであった。これで家治が毒殺される危険性はかなりの程度、少なくすることが出来る。
安祥院は高岳にこの二つの点を指示すると、家治の方へと向直り、「それで宜しゅうござりまするな?」と同意を求めた。
無論、家治に異存などあろう筈もなく、家治からも改めて高岳にその二つの点を頼み、高岳を平伏させた。
「いや、安祥院様、今宵の御厚情、終生、忘れませぬぞ…」
家治は心底、安祥院に感謝した。
いや、安祥院の駕籠だけではない。清水重好の「御簾中」、妻女の貞子と更に貞子に仕える清水家上臈の薗橋を乗せた駕籠も到着した。
一方、重好は徒歩であった。
こうして安祥院「一家」が平河御門外に勢揃いすると、安祥院を先頭に、まずは平河御門を潜った。
次いで下梅林、上梅林、そして切手の各御門を潜った。
安祥院「一家」はそれら御門を潜るに際して、
「通御判」
それを御門を預かる門番に呈示した。
通御判とは大奥に上がるに際して、と言うよりは御城の諸門を潜るに際して通行手形の役目を果たす。
この通御判さえあれば、御城の全ての諸門の通行は自由であった。
いや、それだけではない。暮六つ(午後6時頃)から翌朝の明六つ(午前6時頃)までの諸門が堅く閉じられている時間帯であったとしても、この通御判を門番に呈示すれば誰何されずに通してくれるという、正に「魔法の道具」であった。
いや、それだけに誰にでもこの「通御判」が発行される訳ではない。
基本的には将軍家の娘を嫁として貰い受けた大名家に発行されるものであった。
或いは将軍家の庶子を養嗣子に貰い受けた大名家にも発行されるであろう。
つまりは将軍家と所縁が出来れば発行されるものであった。
安祥院「一家」の場合、まず安祥院がこの「通御判」を所持していた。
安祥院は将軍家そのものである清水徳川家の始祖・重好の母堂であるので、安祥院もまた将軍家の扱いとなり、この通御判が発行されていた。
また当の清水重好にも、と言うよりは清水徳川家にも勿論、通御判が発行されていた。
それ故、御門においては安祥院・重好母子が夫々、門番に通御判を呈示、すると門番も相手が相手なだけに実に鄭重なる態度で安祥院・重好母子は元より、重好の妻女である貞子とその上臈の薗橋をも通した。
ことに、「最後の関門」とも言うべき切手御門、正しくは裏門切手御門を潜るに際しては、態々、責任者である裏門切手番之頭が安祥院「一家」が門を潜るのを門の外で待受けていたのだ。
裏門切手番之頭は平素、切手御門内にある番頭部屋に詰めていたが、今夕は安祥院「一家」が切手御門を通る、それも大奥にて将軍・家治と夕食を囲むべく、大奥に上る故、切手御門を通ると、裏門切手番之頭が、それも夕番を勤める裏門切手番之頭がその旨、事前連絡を受けていたので、裏門切手番之頭は頃合を見計らって番頭部屋から出ては門外にて安祥院「一家」を出迎えたという訳だ。
さて、こうして「最後の関門」である切手御門を抜けると、愈愈、大奥の廣敷向が見えてくる。
廣敷向とは大奥における男子役人の空間であり、大奥の中でも所謂、
「女の園」
とでも呼ぶべき奥女中の空間、通称、御殿向に辿り着くにはこの廣敷向を、それもまずは廣敷御門を潜らねばならなかった。
するとここ、廣敷御門においても―、安祥院「一家」は廣敷御門を潜るに際しても、先程の切手御門を潜る際と同様、実に鄭重なる扱いを受けた。
即ち、やはり夕番の廣敷番之頭が廣敷御門の前にて安祥院「一家」を待受けており、これを出迎えたのであった。
どうやら、広敷番之頭にもまた、将軍・家治と夕食を囲むことについて、通達が届いていたものと見える。
いや、いつもなら―、普段、安祥院が、或いは重好さえもそうだが、大奥に上るに際しては、ここまで鄭重な扱い、もてなしは受けない。
それが今夕に限ってここまで鄭重なる扱い、もてなしを受けるのは偏に、
「大奥にて将軍・家治と夕食を囲む…」
その目的の為に大奥に上る、それに尽きるであろう。
如何に将軍家である御三卿と雖も、大奥にて将軍と夕食を囲むなど前代未聞であったからだ。
それが重好には、いや、安祥院「一家」には格別に許されたのだから、それだけ将軍・家治が安祥院「一家」を重んじている、分かり易く言えば贔屓にしている証であり、そうとなれば裏門切手番之頭にしろ、廣敷番之頭にしろ、安祥院「一家」を粗略には扱えない。それどころか鄭重に扱わねばならないだろう。
さて、重好は腰に差していた太刀と脇差を出迎えに訪れた廣敷番之頭に預けた。
大奥においては、それも「女の園」である御殿向においては将軍を除いては男が「刃物」を身につけることは許されず、御殿向に足を踏み入れる前、廣敷向において「刃物」を、つまりは刀を預けるのが仕来りであった。
尤も、その場合でも刀を預かるのは御目見得以下、つまりは御家人身分の廣敷添番であり、それは相手が御三卿でも変わらない。
普段ならば清水重好の刀を預かるのは廣敷添番と言う訳だ。
だが今夕は斯かる事情から大奥の警備部門の現場責任者である廣敷番之頭が態々、重好の刀を預かった、謂わば「刀番」を務めたのだ。
ここでもまた、普段よりも鄭重なる対応を受けたという訳だ。
ちなみに安祥院と貞子、それに薗橋は女であるので、御殿向においても懐剣を身に着けることは許されていた。
だが今夕は将軍・家治と夕食を囲む、つまりは将軍・家治に会う訳で、その場合は仮令、女であったとしても懐剣を身に着けることは許されてはいなかった。
将軍と会う場合には男であろうが女であろうが、常に「丸腰」でなければならなかった。
それ故、安祥院らも気を利かせて、今夕に限っては最初から懐剣を身に着けてはおらず、「丸腰」の状態であった。
さて、こうして重好が廣敷番之頭を「刀番」にすると、安祥院「一家」はその廣敷番之頭の案内により廣敷御門を潜り、それから玄関の式台へと進んだ。
玄関式台においては大奥を取締まる留守居年寄衆が、その中の一人、高井土佐守直熈であった。
現在、留守居年寄衆はこの高井直熈を含めて4人おり、毎日1人が交代で宿直を務める。
今宵はもう一人の留守居、佐野右兵衛尉茂承が宿直を務めることになっていたが、急遽、高井直熈に変更された。
これは将軍・家治の「鶴の一声」によるものであった。
それと言うのも、大奥にて安祥院「一家」と夕食を囲むに際して、畢竟、刻限が刻限なだけに、大奥を取締ます留守居年寄衆の中でも、宿直を務める留守居が安祥院「一家」を出迎えることになる。
今夕で言えば佐野茂承が安祥院「一家」を出迎える筈であったが、しかし、家治としては佐野茂承だけには安祥院「一家」を出迎えさせたくはなかった。
それと言うのも佐野茂承もまた、小笠原信喜と共に、嘗ては愛息・家基の御側近くに仕える御側衆、それもその筆頭である御用取次の身にあり乍、同じく御用取次の小笠原信喜に手を貸した疑いが、つまりは家基の暗殺、毒殺に手を貸した疑いがあるからだ。
いや、手を貸した、とまでは行かずとも、これを黙過した疑いがあり、ともあれ家治としてはその様な佐野茂承にだけは安祥院「一家」を出迎えさせたくはなかったので、そこで急遽、高井直熈へと今宵の宿直を交代させたのだ。
その高井直熈もまた「丸腰」であり、高井直熈の場合は配下の廣敷添番に大小を預けていた。
こうして「丸腰」の高井直熈が自ら、玄関式台にて安祥院「一家」を出迎えると、まずは廣敷向と御殿向との境目である御錠口、所謂、下ノ錠口へと案内した。
ちなみに重好の「刀番」を務める廣敷番之頭と高井直熈の「刀番」を務める廣敷添番とはその下ノ錠口の手前で安祥院「一家」とその案内役である高井直熈と別れた。
さて、案内役である高井直熈が真先に下ノ錠口を潜って御殿向へと足を踏み入れ、安祥院「一家」もこれに続き、すると御殿向においては表使が勢揃いして安祥院「一家」とその案内役である留守居の高井直熈を出迎えたのであった。
表使とは大奥の外交係であり、年寄の指図を受けて大奥一切の買物を掌り、その役目柄、留守居や廣敷役人とも接触があり、ここ下ノ錠口をも管掌していた。
この表使だが、将軍や御台所にも附属し、その点、将軍にのみ附属する御客応答や、或いは御台所をはじめとする姫君にのみ附属する中年寄とは異なる。
今はここ本丸大奥には将軍・家治の御台所こそ存しないものの、側妾の千穂やそれに養女の種姫が暮らしており、千穂や種姫にも表使が附属していた。
その表使の中でも安祥院「一家」とその案内役である高井直熈を出迎えたのは将軍・家治に附属する6人の奥女中、即ち、富野、民野、生駒、菊野、岩野、松野の6人であった。
こうして6人の将軍・家治附の表使が安祥院「一家」と案内役の高井直熈を出迎えると、高井直熈が「先鋒」を、6人の表使が「殿」を夫々、務める格好で安祥院「一家」を御三之間廊下の手前、御茶之間廊下へと案内した。
留守居である高井直熈が安祥院「一家」を案内出来るのは、と言うよりは足を踏み入れられるのはここ、御三之間廊下の手前、御茶之間廊下までであった。
大奥の中でも所謂、「女の園」の御殿向ではあるが、その御殿向の中でも更に役務向という空間があり、下ノ錠口から御三之間廊下の手前、御茶之間廊下までがその役務向であった。
この役務向は丁度、大奥における「表向」に相当し、それよりも奥は「中奥」に相当する。
つまり御殿向の中でも役務向は政庁としての色彩が濃い空間であるのに対して、それよりも奥は私的な空間と言えようか。
無論、この場合の私的な空間、つまりは大奥における私的な空間とは将軍が寛ぐ空間に外ならず、その様な空間にまでは留守居と雖も容易には立入れない。
そこで高井直熈は御三之間廊下の手前、御茶之間廊下にて、安祥院「一家」の案内役をそれまで、安祥院「一家」の「殿」を務めていた6人の表使と交代、直熈は元来た道を戻り、御殿向より退出した。
こうしてここより先、奥へは彼女ら6人の表使が安祥院「一家」の案内役を務め、安祥院「一家」を御鈴廊下に接する御小座敷の下段へと案内した。
御小座敷の下段においてはこれまた将軍・家治に附属する年寄が勢揃いして安祥院「一家」を出迎え、ここよりは更に案内役が表使から年寄へと交代、年寄が安祥院「一家」を愈愈、最終目的地とも言うべきその直ぐ隣の部屋である御小座敷の上段へと案内した。
御小座敷の上段と下段は共に同じ広さを誇り、12畳の広さであった。
この内、上段は将軍が大奥に奥泊する際、御台所や側室と食事をし、そして枕を交わす場所でもあった。
一方、下段は奥泊の際の当番女中、つまりは宵番の年寄や御中臈、御伽坊主が詰める場所として使われた。
将軍・家治は御小座敷の上段を安祥院「一家」と夕食を囲む場とした。
刻限はちょうど暮六つ(午後6時頃)となり、しかし御小座敷上段にはまだ、家治の姿はなく、安祥院「一家」が先に到着した次第であった。
安祥院「一家」を御小座敷上段へと案内した将軍・家治附の年寄はそれから各々の持場へと戻った。
即ち、上臈年寄の高岳と花園、飛鳥井は将軍・家治を出迎えるべく上御鈴廊下へと足を運び、一方、武家系の年寄の滝川と野村、砂野は毒見の監視役として―、家治附の中年寄が家治が食する夕餉の毒見をするのを監視すべく、奥御膳所へと足を運んだ。
さて、御小座敷の上段にて安祥院「一家」が暫く、手持無沙汰で待っていると、将軍・家治が高岳らの案内にて姿を見せたので、安祥院「一家」も平伏してこれを出迎えようとし、しかし、それを家治は制した。
「安祥院様はこの家治のもう一人の母上も同然にて…」
倅の分際で母親に頭を垂れさせる訳には参らぬ…、成程、その理屈は安祥院には当て嵌まるやも知れぬ。
だが重好とその妻女の貞子、それに上臈の薗橋は将軍・家治よりも身分が低く、そうである以上、将軍たる家治に平伏せぬ訳にはゆかなかった。
それ故、安祥院が会釈程度で家治を出迎えたのに比して、重好たちはやはり平伏して家治を出迎えたのであった。
さて、家治は側妾の千穂と養女の種姫をも伴っていた。
「種や千穂も、御相伴に与らせても宜しゅうござるか?」
家治は安祥院に問うた。無論、安祥院に否やはあり得ず、「はい」と応じた。
それから家治は安祥院を己の隣に座らせ、そして家治と安祥院を挟む格好で千穂と種姫、重好と貞子が夫々、着座し、貞子に仕える清水家上臈の薗橋は貞子の直ぐ隣、上段においては末席に着座した。
するとそれを見計らったかの様に夕餉の膳が運ばれて来た。
こうして「夕食会」が催され、将軍・家治と安祥院の給仕は家治附の上臈年寄の高岳と花園、飛鳥井が担い、一方、千穂と種姫は夫々に附属する年寄の玉澤と向坂が担い、そして重好・貞子夫妻の給仕を担ったのは武家系の年寄の滝川と野村、そして砂野であった。
ちなみに薗橋の給仕は種姫附のもう一人の年寄である清橋が担った。
これはやはり将軍・家治の差配によるものだったが、しかし、清橋にしてみれば内心、さぞかし心外であった。
それと言うのも薗橋は上臈年寄とは申せ、それはあくまでも御三卿たる清水徳川家の大奥にて御簾中である貞子に仕える上臈に過ぎず、ここ本丸大奥にて仕える上臈年寄ではないのだ。
いや、ここ本丸大奥にて仕える上臈年寄の高岳たちさえも、将軍・家治と安祥院、この二人の給仕を担っていると申すのに、何故、高岳たちと同じく、本丸大奥にて年寄を務める己が、高々、清水徳川家の上臈に過ぎぬ薗橋の給仕を担わなければならないのか…、清橋はその様な不満を抱いていたのだ。
確かに清橋のこの不満には一応、尤もな面があったが、しかし、薗橋はただの上臈ではなかった。
即ち、薗橋は公卿、甘露寺家に生まれ、しかも父・規長は従一位・大納言の位にあった。
それ故、清水家においても薗橋は貞子に仕える上臈の身ではあるものの、家族同様、それこそ貞子の妹、いや姉の様に扱われていた。
その点、ここ本丸大奥にて将軍・家治附の上臈年寄の中でも筆頭である高岳は薗橋と同じく公卿、岡崎国廣の娘ではあるものの、岡崎国廣は従三位・非参議止まりで、従一位・権大納言には遠く、及ばなかった。
また同じく家治附の上臈年寄の花園と飛鳥井に至っては、花園の父、西洞院頼篤は正三位・非参議止まり、飛鳥井の父、平松時行は正二位・権中納言止まりであり、その点、薗橋には及ばなかった。
斯かる事情から、何より御三卿たる清水重好夫人の貞子とは姉とも妹とも扱われている薗橋の給仕を清橋が担うのも当然、とまでは言わないにしても致し方ない。
さて、こうして安祥院「一家」は家治と談笑しつつ、夕食を囲み、そして夕食を摂り終え、空となった膳部が下げられるや、家治は千穂附の老女の玉澤、それに種姫附の老女の向坂に夫々、交互に目配せした。
すると玉澤にしろ向坂にしろ心得たもので、家治の目配に対して交互に頷き合うと、まずは向坂が口火を切った。
「御簾中殿、宇治之間にて粗茶などを差上げとう存じます…」
宇治之間とは将軍の嫡子、嫡女の住まいであり、嘗ては萬壽姫が、続いて家基こと竹千代が生まれると、萬壽姫と竹千代がこの宇治之間にて育った。
やがて竹千代が成長し、次期将軍・家基として西之丸へと移ると、宇治之間は再び、萬壽姫の一人部屋となった。
その萬壽姫が歿した後、それから種姫が入るまでの間、宇治之間は「空部屋」であった。
それが次期将軍・家基の婚約者として、西之丸大奥にて暮らしていた種姫が安永8(1779)年2月に家基に先立たれるや、種姫は本丸大奥へと迎えられ、宇治之間を与えられ今に至る。
種姫は家基の婚約者ではあったが、名目上は将軍・家治の養女であったからだ。
そして養女とは言え、将軍・家治の娘であることに変わりはなく、実の娘であった萬壽姫に先立たれた家治にとってはただ一人の娘であり、即ち、嫡女という訳で、宇治之間が与えられた次第であった。
その宇治之間にて、「食後のお茶」でもしませんかと、種姫附の老女の向坂が「御簾中様」こと貞子を誘ったのであった。
すると貞子附の上臈の薗橋も心得たもので、
「簾中殿、是非ともそう致しましょう…」
薗橋は貞子を促し、貞子も薗橋に促されては頷くより外になかった。
いや、心得ていたのは玉澤もそうで、
「私達も、お供しても宜しゅうござりまするか?」
玉澤は向坂にそう声をかけた。態々、玉澤が「私達」と一人称複数を用いたからには、そこには当然、千穂も含まれていた。
それに対して、向坂も、「無論のこと…」と快諾してみせた。
その様を見ていた将軍・家治も、「それが良い」と応ずると、玉澤や向坂、それに向坂と同じく種姫附の年寄の清橋は元より、己に附属する年寄、それも先程まで重好・貞子夫妻の給仕を担っていた武家系の年寄である滝川や野村、砂野にも宇治之間にて種姫たちへの給仕を担う様、命じたのであった。
いや、武家系の年寄に対してだけではない、やはり先程まで将軍たる己とそれに安祥院の給仕を担っていた上臈年寄の花園と飛鳥井に対しても家治は同様に命じた。
こうして御小座敷上段には将軍・家治の外には安祥院とその息・重好、そして家治附の上臈年寄の高岳の4人だけとなった。
いや、家治もそれを期待して、敢えて今夕の「夕食会」には養女の種姫と側妾の千穂をも招き、重好に対しても、妻女の貞子をも、いや、貞子附の上臈の薗橋をも同道させる様にと命じたのだ。
これで今夕の「夕食会」が家治と安祥院、重好の3人だけならば、この後、蔦之間で予定している「密談」に、高岳だけでなく、その外の年寄までが様々な名目にて「参戦」してくる恐れがあったからだ。
そこで家治は「夕食会」には種姫や千穂、貞子や薗橋をも加えることで、それも夕食後には種姫の部屋である宇治之間にて「お茶会」を開かせることで、その「参戦」の恐れを除去した訳だ。
この場合、年寄もまた、給仕として駆出されることになるからだ。
さて、こうして余計な「雑音」が消えたところで高岳は家治たちを御小座敷上段よりも更に奥、大奥の最奥部とでも呼ぶべき蔦之間へと案内した。
蔦之間は将軍が大奥に奥泊した際に、御小座敷上段にて御台所と夕食を共にした後、歓談する場所であった。
御小座敷上段に蒲団が敷かれるまでの間、蔦之間にて歓談をするという訳だ。
その蔦之間にて家治は安祥院からも大奥の「謎」―、嘗て西之丸大奥にて家基に仕えていた奥女中について、ことに家基にとって最期の鷹狩りとなった朝、その日、大奥にて摂った朝食の毒見に関わった初崎や、或いはその姪である、御客応答の砂野、同じく御客応答の笹岡について、それまで家治が信じていた様に、彼女たちが真、家基に忠誠を尽くしてくれていたのか、それともそうではないのか、その点を安祥院に糺した。
その結果、安祥院の話もまた、重好の話をなぞるものであり、「証人」として陪席していた高岳も安祥院の話に頷いてみせた。
即ち、初崎は家基に授乳を拒まれたことで家基を怨んでおり、その初崎の姪の砂野にしても伯母である初崎に感化されて家基を怨んでおり、一方、家基とは従姉弟の間柄にある笹岡は家基を怨んではいないものの、しかし、だからと言って積極的に忠誠を尽くそうとの特別な感慨がある訳でもなく、従弟の家基よりも一橋用人である祖父、杉山嘉兵衛に特別な思い入れがある、噛砕いて言えば、従弟の家基よりも一橋用人の祖父である杉山嘉兵衛の方を大事に思っていた、というものであった。
これで家基の毒殺に、それまで家治が信じていた初崎や砂野、それに笹岡までが関与していた疑いがかなり強まった。
安祥院の今の「証言」だけでは確たる物的証拠には当たらないだろうが、しかし状況証拠としては充分過ぎる。「証人」である高岳も、安祥院」のその「証言」の正確性を認めたからだ。
それから安祥院は重好も気付かなかった恐ろしい「可能性」に触れた。
「大納言様…、今は亡き家基公に仕え奉りし、それも毒殺に関与せし奥女中の殆どが、家斉公や、或いは御縁女殿、それに家斉公の母堂の富の方にそれぞれ年寄として用いられましたのに、そんな中、砂野だけは上様に附属せし年寄として用いられましたのはまた、何故でござりましょう…」
安祥院のその問いかけに対して、家治は「それは砂野当人が希望せし故に…」と応えると、直ぐに「まさか…」と呻いた。
家治もまた、安祥院が気付いたのと同じく「可能性」、ある恐ろしい「可能性」に気付いたからだ。
安祥院もそうと気付くと、「その、まさかにて…」と応じた。
「まさかに…、砂野は…、今度はこの家治が命まで奪おうと?」
家治は声を潜ませて、安祥院に確かめる様に尋ねた。
「されば砂野が、と申しますよりは初崎に命じられて…、いえ、更にその背後に控えし一橋民部卿殿に命じられてのことでござりましょうが…」
安祥院はそう切出すと、ここ本丸大奥にても将軍が食事を摂らねばならないことに触れた。
即ち、将軍は昼食は大奥にて摂らねばならず、その場合もやはり、将軍附の御客応答が毒見を、それをこれまた将軍附の年寄が監視をすることになっていた。
「もしや既に、御客応答の中にも一橋民部卿殿が息のかかりし者が紛れ込んでおるやも知れず、されば斯かる御客応答が二人もおりますれば…」
将軍・家治の毒殺もまた容易である…、安祥院はそう示唆したのだ。
家治は思わず天を仰いだ。
そこで安祥院は将軍・家治に代わって、ある二つの指示を出した。
一つは今の将軍附の御客応答の身許の再調査であった。
「まずは宿元…、そこから更に縁者にも一橋家に所縁があるかどうか、それを調べよ…」
仮に身許保証人である宿元当人か、或いはその縁者に一橋家と所縁があれば、その者は要注意であった。場合によっては毒見から外すか、そもそも御客応答から別の役へと配置換えすることも考えなくてはならないだろう。
そして今一つだが、
「今後は毒見の監視は一人の年寄に任せるのではのうて、必ず、二人の年寄で担わせる様に…、ことに砂野が毒見の監視役の場合は極力、いや、必ずや高岳、そなたが砂野の相役として、共に毒見の監視役を勤める様に…」
安祥院はそれを命じたのであった。これで家治が毒殺される危険性はかなりの程度、少なくすることが出来る。
安祥院は高岳にこの二つの点を指示すると、家治の方へと向直り、「それで宜しゅうござりまするな?」と同意を求めた。
無論、家治に異存などあろう筈もなく、家治からも改めて高岳にその二つの点を頼み、高岳を平伏させた。
「いや、安祥院様、今宵の御厚情、終生、忘れませぬぞ…」
家治は心底、安祥院に感謝した。
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