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徳川家基毒殺事件 ~将軍・家治は本丸大奥にて、もう一人の母である安祥院からも貴重な証言と助言を得られる~

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 ゆうの七つ半(午後5時頃)を四半刻しはんとき(約30分)もまわろうかというころ平河ひらかわ門外もんそと安祥院あんしょういんせた駕籠かご到着とうちゃくした。

 いや、安祥院あんしょういん駕籠かごだけではない。清水しみず重好しげよしの「御簾中ごれんじゅう」、妻女さいじょ貞子ていしさら貞子ていしつかえる清水しみず上臈じょうろう薗橋そのはしせた駕籠かご到着とうちゃくした。

 一方いっぽう重好しげよし徒歩とほであった。

 こうして安祥院あんしょういん一家いっか」が平河ひらかわ門外もんそと勢揃せいぞろいすると、安祥院あんしょういん先頭せんとうに、まずは平河ひらかわもんくぐった。

 いで下梅林しもばいりん上梅林かみばいりん、そして切手きってかくもんくぐった。

 安祥院あんしょういん一家いっか」はそれらもんくぐるにさいして、

とおりばん

 それをもんあずかる門番もんばん呈示ていじした。

 とおりばんとは大奥おおおくがるにさいして、と言うよりは御城えどじょう諸門しょもんくぐるにさいして通行手形パスポート役目やくめたす。

 このとおりばんさえあれば、御城えどじょうすべての諸門しょもん通行つうこう自由フリーパスであった。

 いや、それだけではない。暮六つ(午後6時頃)から翌朝よくちょうの明六つ(午前6時頃)までの諸門しょもんかたじられている時間帯じかんたいであったとしても、このとおりばん門番もんばん呈示ていじすれば誰何すいかされずにとおしてくれるという、まさに「魔法まほう道具どうぐ」であった。

 いや、それだけにだれにでもこの「とおりばん」が発行はっこうされるわけではない。

 基本的きほんてきには将軍家しょうぐんけむすめよめとしてもらけた大名家だいみょうけ発行はっこうされるものであった。

 あるいは将軍家しょうぐんけ庶子しょし養嗣子ようししもらけた大名家だいみょうけにも発行はっこうされるであろう。

 つまりは将軍家しょうぐんけ所縁ゆかり出来できれば発行はっこうされるものであった。

 安祥院あんしょういん一家いっか」の場合ばあい、まず安祥院あんしょういんがこの「とおりばん」を所持しょじしていた。

 安祥院あんしょういん将軍家しょうぐんけそのものである清水しみず徳川家とくがわけ始祖しそ重好しげよし母堂ぼどうであるので、安祥院あんしょういんもまた将軍家しょうぐんけあつかいとなり、このとおりばん発行はっこうされていた。

 またとう清水しみず重好しげよしにも、と言うよりは清水しみず徳川家とくがわけにも勿論もちろんとおりばん発行はっこうされていた。

 それゆえもんにおいては安祥院あんしょういん重好しげよし母子ぼし夫々それぞれ門番もんばんとおりばん呈示ていじ、すると門番もんばん相手あいて相手あいてなだけにじつ鄭重ていちょうなる態度たいど安祥院あんしょういん重好しげよし母子ぼしもとより、重好しげよし妻女さいじょである貞子ていしとその上臈じょうろう薗橋そのはしをもとおした。

 ことに、「最後さいご関門かんもん」とも言うべき切手御門きってごもんただしくは裏門うらもん切手きってもんくぐるにさいしては、態々わざわざ責任者トップである裏門うらもん切手きって番之頭ばんのがしら安祥院あんしょういん一家いっか」がもんくぐるのをもんそと待受まちうけていたのだ。

 裏門うらもん切手きって番之頭ばんのがしら平素へいそ切手きって門内もんないにある番頭ばんがしら部屋べやめていたが、今夕こんゆう安祥院あんしょういん一家いっか」が切手きってもんとおる、それも大奥おおおくにて将軍しょうぐん家治いえはる夕食ゆうしょくかこむべく、大奥おおおくのぼゆえ切手きってもんとおると、裏門うらもん切手きって番之頭ばんがしらが、それも夕番ゆうばんつとめる裏門うらもん切手きって番之頭ばんのがしらがそのむね事前じぜん連絡れんらくけていたので、裏門うらもん切手きって番之頭ばんのがしら頃合ころあい見計みはからって番頭ばんがしら部屋べやからては門外もんそとにて安祥院あんしょういん一家いっか」を出迎でむかえたというわけだ。

 さて、こうして「最後さいご関門かんもん」である切手御門きってごもんけると、愈愈いよいよ大奥おおおく廣敷向ひろしきむきえてくる。

 廣敷向ひろしきむきとは大奥おおおくにおける男子だんし役人やくにん空間スペースであり、大奥おおおくなかでも所謂いわゆる

おんなその

 とでもぶべき奥女中おくじょちゅう空間スペース通称つうしょう殿向てんむき辿たどくにはこの廣敷向ひろしきむきを、それもまずは廣敷ひろしきもんくぐらねばならなかった。

 するとここ、廣敷ひろしきもんにおいても―、安祥院あんしょういん一家いっか」は廣敷ひろしきもんくぐるにさいしても、先程さきほど切手御門きってごもんくぐさい同様どうようじつ鄭重ていちょうなるあつかいをけた。

 すなわち、やはり夕番ゆうばん廣敷ひろしき番之頭ばんのがしら廣敷ひろしきもんまえにて安祥院あんしょういん一家いっか」を待受まちうけており、これを出迎でむかえたのであった。

 どうやら、広敷ひろしき番之頭ばんのがしらにもまた、将軍しょうぐん家治いえはる夕食ゆうしょくかこむことについて、通達つうたつとどいていたものとえる。

 いや、いつもなら―、普段ふだん安祥院あんしょういんが、あるいは重好しげよしさえもそうだが、大奥おおおくのぼるにさいしては、ここまで鄭重ていちょうあつかい、もてなしはけない。

 それが今夕こんゆうかぎってここまで鄭重ていちょうなるあつかい、もてなしをけるのはひとえに、

大奥おおおくにて将軍しょうぐん家治いえはる夕食ゆうしょくかこむ…」

 その目的もくてきため大奥おおおくのぼる、それにきるであろう。

 如何いか将軍家しょうぐんけである三卿さんきょういえども、大奥おおおくにて将軍しょうぐん夕食ゆうしょくかこむなど前代未聞ぜんだいみもんであったからだ。

 それが重好しげよしには、いや、安祥院あんしょういん一家いっか」には格別かくべつゆるされたのだから、それだけ将軍しょうぐん家治いえはる安祥院あんしょういん一家いっか」をおもんじている、かりやすく言えば贔屓ひいきにしているあかしであり、そうとなれば裏門切手うらもんきって番之頭ばんのがしらにしろ、廣敷ひろしき番之頭ばんのがしらにしろ、安祥院あんしょういん一家いっか」を粗略そりゃくにはあつかえない。それどころか鄭重ていちょうあつかわねばならないだろう。

 さて、重好しげよしこししていた太刀たち脇差わきざし出迎でむかえにおとずれた廣敷番之頭ひろしきばんのがしらあずけた。

 大奥おおおくにおいては、それも「おんなその」である殿向てんむきにおいては将軍しょうぐんのぞいてはおとこが「刃物はもの」をにつけることはゆるされず、殿向てんむきあしれるまえ廣敷向ひろしきむきにおいて「刃物はもの」を、つまりはかたなあずけるのが仕来しきたりであった。

 もっとも、その場合ばあいでもかたなあずかるのは御目見得以下おめみえいか、つまりは御家人ごけにん身分クラス廣敷添番ひろしきそえばんであり、それは相手あいて御三卿ごさんきょうでもわらない。

 普段ふだんならば清水しみず重好しげよしかたなあずかるのは廣敷添番ひろしきそえばんと言うわけだ。

 だが今夕こんゆうかる事情じじょうから大奥おおおく警備けいび部門ぶもん現場げんば責任者せきにんしゃである廣敷番之頭ひろしきばんのがしら態々わざわざ重好しげよしかたなあずかった、わば「刀番かたなばん」をつとめたのだ。

 ここでもまた、普段ふだんよりも鄭重ていちょうなる対応たいおうけたというわけだ。

 ちなみに安祥院あんしょういん貞子ていし、それに薗橋そのはしおんなであるので、殿向てんむきにおいても懐剣かいけんけることはゆるされていた。

 だが今夕こんゆう将軍しょうぐん家治いえはる夕食ゆうしょくかこむ、つまりは将軍しょうぐん家治いえはるわけで、その場合ばあい仮令たとえおんなであったとしても懐剣かいけんけることはゆるされてはいなかった。

 将軍しょうぐん場合ばあいにはおとこであろうがおんなであろうが、つねに「丸腰まるごし」でなければならなかった。

 それゆえ安祥院あんしょういんらもかせて、今夕こんゆうかぎっては最初さいしょから懐剣かいけんけてはおらず、「丸腰まるごし」の状態じょうたいであった。

 さて、こうして重好しげよし廣敷番之頭ひろしきばんのがしらを「刀番かたなばん」にすると、安祥院あんしょういん一家いっか」はその廣敷ひろしき番之頭ばんのがしら案内あんないにより廣敷ひろしきもんくぐり、それから玄関げんかん式台しきだいへとすすんだ。

 玄関式台げんかんしきだいにおいては大奥おおおく取締とりしまる留守居るすい年寄としよりしゅうが、そのなか一人ひとり高井たかい土佐守とさのかみ直熈なおひろであった。

 現在げんざい留守居るすい年寄としよりしゅうはこの高井たかい直熈なおひろふくめて4人おり、毎日まいにち1人が交代こうたい宿直とのいつとめる。

 今宵こよいはもう一人ひとり留守居るすい佐野さの右兵衛尉うひょうえのじょう茂承もちつぐ宿直とのいつとめることになっていたが、急遽きゅうきょ高井たかい直熈なおひろ変更へんこうされた。

 これは将軍しょうぐん家治いえはるの「つる一声ひとこえ」によるものであった。

 それと言うのも、大奥おおおくにて安祥院あんしょういん一家いっか」と夕食ゆうしょくかこむにさいして、畢竟ひっきょう刻限こくげん刻限こくげんなだけに、大奥おおおく取締としります留守居るすい年寄としよりしゅうなかでも、宿直とのいつとめる留守居るすい安祥院あんしょういん一家いっか」を出迎でむかえることになる。

 今夕こんゆうで言えば佐野さの茂承もちつぐ安祥院あんしょういん一家いっか」を出迎でむかえるはずであったが、しかし、家治いえはるとしては佐野さの茂承もちつぐだけには安祥院あんしょういん一家いっか」を出迎でむかえさせたくはなかった。

 それと言うのも佐野さの茂承もちつぐもまた、小笠原おがさわら信喜のぶよしともに、かつては愛息あいそく家基いえもと側近そばちかくにつかえるそばしゅう、それもその筆頭ひっとうである用取次ようとりつぎにありながらおなじく用取次ようとりつぎ小笠原おがさわら信喜のぶよししたうたがいが、つまりは家基いえもと暗殺あんさつ毒殺どくさつしたうたがいがあるからだ。

 いや、した、とまではかずとも、これを黙過もっかしたうたがいがあり、ともあれ家治いえはるとしてはそのよう佐野さの茂承もちつぐにだけは安祥院あんしょういん一家いっか」を出迎でむかえさせたくはなかったので、そこで急遽きゅうきょ高井たかい直熈なおひろへと今宵こよい宿直とのい交代こうたいさせたのだ。

 その高井たかい直熈なおひろもまた「丸腰まるごし」であり、高井たかい直熈なおひろ場合ばあい配下はいか廣敷添番ひろしきそえばん大小だいしょうあずけていた。

 こうして「丸腰まるごし」の高井たかい直熈なおひろみずから、玄関式台げんかんしきだいにて安祥院あんしょういん一家いっか」を出迎でむかえると、まずは廣敷向ひろしきむき殿向てんむきとの境目さかいめである錠口じょうぐち所謂いわゆるしも錠口じょうぐちへと案内あんないした。

 ちなみに重好しげよしの「刀番かたなば」をつとめる廣敷番之頭ひろしきばんのがしら高井たかい直熈なおひろの「刀番かたなばん」をつとめる廣敷添番ひろしきそえばんとはそのしも錠口じょうぐち手前てまえ安祥院あんしょういん一家いっか」とその案内役あんないやくである高井たかい直熈なおひろわかれた。

 さて、案内役あんないやくである高井たかい直熈なおひろ真先まっさきしも錠口じょうぐちくぐって殿向てんむきへとあしれ、安祥院あんしょういん一家いっか」もこれにつづき、すると殿向てんむきにおいては表使おもてづかい勢揃せいぞろいして安祥院あんしょういん一家いっか」とその案内役あんないやくである留守居るすい高井たかい直熈なおひろ出迎でむかえたのであった。

 表使おもてづかいとは大奥おおおく外交がいこうがかりであり、年寄としより指図さしずけて大奥一切おおおくいっさい買物かいものつかさどり、その役目柄やくめがら留守居るすい廣敷役人ひろしきやくにんとも接触せっしょくがあり、ここしも錠口じょうぐちをも管掌かんしょうしていた。

 この表使おもてづかいだが、将軍しょうぐん台所だいどころにも附属ふぞくし、そのてん将軍しょうぐんにのみ附属ふぞくするきゃく応答あしらいや、あるいは台所だいどころをはじめとする姫君ひめぎみにのみ附属ふぞくする中年寄ちゅうどしよりとはことなる。

 いまはここ本丸大奥ほんまるおおおくには将軍しょうぐん家治いえはる台所だいどころこそそんしないものの、側妾そくしょう千穂ちほやそれに養女ようじょ種姫たねひめらしており、千穂ちほ種姫たねひめにも表使おもてづかい附属ふぞくしていた。

 その表使おもてづかいなかでも安祥院あんしょういん一家いっか」とその案内役あんないやくである高井たかい直熈なおひろ出迎でむかえたのは将軍しょうぐん家治いえはる附属ふぞくする6人の奥女中おくじょちゅうすなわち、富野とみの民野たみの生駒いこま菊野きくの岩野いわの松野まつのの6人であった。

 こうして6人の将軍しょうぐん家治附いえはるづき表使おもてづかい安祥院あんしょういん一家いっか」と案内役あんないやく高井たかい直熈なおひろ出迎でむかえると、高井たかい直熈なおひろが「先鋒せんぽう」を、6人の表使おもてづかいが「殿しんがり」を夫々それぞれつとめる格好かっこう安祥院あんしょういん一家いっか」を三之間さんのま廊下ろうか手前てまえ茶之間ちゃのま廊下ろうかへと案内あんないした。

 留守居るすいである高井たかい直熈なおひろ安祥院あんしょういん一家いっか」を案内あんない出来できるのは、と言うよりはあしれられるのはここ、三之間さんのま廊下ろうか手前てまえ茶之間ちゃのま廊下ろうかまでであった。

 大奥おおおくなかでも所謂いわゆる、「おんなその」の殿向てんむきではあるが、その殿向てんむきなかでもさら役務向やくづとめむきという空間スペースがあり、しも錠口じょうぐちから三之間さんのま廊下ろうか手前てまえ茶之間ちゃのま廊下ろうかまでがその役務向やくづとめむきであった。

 この役務向やくづとめむき丁度ちょうど大奥おおおくにおける「表向おもてむき」に相当そうとうし、それよりもおくは「中奥なかおく」に相当そうとうする。

 つまり殿向てんむきなかでも役務向やくづとめむき政庁せいちょうとしての色彩しきさい空間スペースであるのにたいして、それよりもおく私的プライベート空間くうかんと言えようか。

 無論むろん、この場合ばあい私的プライベート空間くうかん、つまりは大奥おおおくにおける私的プライベート空間くうかんとは将軍しょうぐんくつろ空間くうかんほかならず、そのよう空間くうかんにまでは留守居るすいいえど容易よういには立入たちいれない。

 そこで高井たかい直熈なおひろ三之間さんのま廊下ろうか手前てまえ茶之間ちゃのま廊下ろうかにて、安祥院あんしょういん一家いっか」の案内役あんないやくをそれまで、安祥院あんしょういん一家いっか」の「殿しんがり」をつとめていた6人の表使おもてづかい交代バトンタッチ直熈なおひろもとみちもどり、殿向てんむきより退出たいしゅつした。

 こうしてここよりさきおくへは彼女かのじょら6人の表使おもてづかい安祥院あんしょういん一家いっか」の案内役あんないやくつとめ、安祥院あんしょういん一家いっか」をすず廊下ろうかせっする小座敷こざしき下段げだんへと案内あんないした。

 小座敷こざしき下段げだんにおいてはこれまた将軍しょうぐん家治いえはる附属ふぞくする年寄としより勢揃せいぞろいして安祥院あんしょういん一家いっか」を出迎でむかえ、ここよりはさら案内役あんないやく表使おもてづかいから年寄としよりへと交代バトンタッチ年寄としより安祥院あんしょういん一家いっか」を愈愈いよいよ最終さいしゅう目的地もくてきちとも言うべきそのとなり部屋へやである小座敷こざしき上段じょうだんへと案内あんないした。

 小座敷こざしき上段じょうだん下段げだんともおなひろさをほこり、12畳のひろさであった。

 このうち上段じょうだん将軍しょうぐん大奥おおおく奥泊おくどまりするさい台所だいどころ側室そくしつ食事しょくじをし、そしてまくらわす場所ばしょでもあった。

 一方いっぽう下段げだん奥泊おくどまりさい当番とうばん女中じょちゅう、つまりは宵番よいばん年寄としより中臈ちゅうろうとぎ坊主ぼうずめる場所ばしょとして使つかわれた。

 将軍しょうぐん家治いえはる小座敷こざしき上段じょうだん安祥院あんしょういん一家いっか」と夕食ゆうしょくかことした。

 刻限こくげんはちょうど暮六くれむつ(午後6時頃)となり、しかし小座敷こざしき上段じょうだんにはまだ、家治いえはる姿すがたはなく、安祥院あんしょういん一家いっか」がさき到着とうちゃくした次第しだいであった。

 安祥院あんしょういん一家いっか」を小座敷こざしき上段じょうだんへと案内あんないした将軍しょうぐん家治附いえはるづき年寄としよりはそれから各々おのおの持場もちばへともどった。

 すなわち、上臈じょうろう年寄どしより高岳たかおか花園はなぞの飛鳥井あすかい将軍しょうぐん家治いえはる出迎でむかえるべくかみすず廊下ろうかへとあしはこび、一方いっぽう武家ぶけけい年寄としより滝川たきがわ野村のむら砂野いさの毒見どくみ監視役かんしやくとして―、家治附いえはるづき中年寄ちゅうどしより家治いえはるしょくする夕餉ゆうげ毒見どくみをするのを監視かんしすべく、おく膳所ぜんしょへとあしはこんだ。

 さて、小座敷こざしき上段じょうだんにて安祥院あんしょういん一家いっか」がしばらく、手持無沙汰てもちぶさたっていると、将軍しょうぐん家治いえはる高岳たかおからの案内あんないにて姿すがたせたので、安祥院あんしょういん一家いっか」も平伏へいふくしてこれを出迎でむかえようとし、しかし、それを家治いえはるせいした。

安祥院あんしょういんさまはこの家治いえはるのもう一人ひとり母上ははうえ同然どうぜんにて…」

 せがれ分際ぶんざい母親ははおやこうべれさせるわけにはまいらぬ…、成程なるほど、その理屈りくつ安祥院あんしょういんにはまるやもれぬ。

 だが重好しげよしとその妻女さいじょ貞子ていし、それに上臈じょうろう薗橋そのはし将軍しょうぐん家治いえはるよりも身分みぶんひくく、そうである以上いじょう将軍しょうぐんたる家治いえはる平伏へいふくせぬわけにはゆかなかった。

 それゆえ安祥院あんしょういん会釈えしゃく程度ていど家治いえはる出迎でむかえたのにして、重好しげよしたちはやはり平伏へいふくして家治いえはる出迎でむかえたのであった。

 さて、家治いえはる側妾そくしょう千穂ちほ養女ようじょ種姫たねひめをもともなっていた。

たね千穂ちほも、相伴しょうばんあずからせてもよろしゅうござるか?」

 家治いえはる安祥院あんしょういんうた。無論むろん安祥院あんしょういんいなやはありず、「はい」とおうじた。

 それから家治いえはる安祥院あんしょういんおのれとなりすわらせ、そして家治いえはる安祥院あんしょういんはさ格好かっこう千穂ちほ種姫たねひめ重好しげよし貞子ていし夫々それぞれ着座ちゃくざし、貞子ていしつかえる清水家しみずけ上臈じょうろう薗橋そのはし貞子ていしとなり上段じょうだんにおいては末席まっせき着座ちゃくざした。

 するとそれを見計みはからったかのよう夕餉ゆうげぜんはこばれてた。

 こうして「夕食会ゆうしょくかい」がもよおされ、将軍しょうぐん家治いえはる安祥院あんしょういん給仕きゅうじ家治附いえはるづき上臈じょうろう年寄どしより高岳たかおか花園はなぞの飛鳥井あすかいにない、一方いっぽう千穂ちほ種姫たねひめ夫々それぞれ附属ふぞくする年寄としより玉澤たまさわ向坂さきさかにない、そして重好しげよし貞子ていし夫妻ふさい給仕きゅうじになったのは武家ぶけけい年寄としより滝川たきがわ野村のむら、そして砂野いさのであった。

 ちなみに薗橋そのはし給仕きゅうじ種姫附たねひめづきのもう一人ひとり年寄としよりである清橋きよはしになった。

 これはやはり将軍しょうぐん家治いえはる差配さはいによるものだったが、しかし、清橋きよはしにしてみれば内心ないしん、さぞかし心外しんがいであった。

 それと言うのも薗橋そのはし上臈じょうろう年寄どしよりとはもうせ、それはあくまでも三卿さんきょうたる清水しみず徳川家とくがわけ大奥おおおくにて御簾中ごれんじゅうである貞子ていしつかえる上臈じょうろうぎず、ここ本丸大奥ほんまるおおおくにてつかえる上臈じょうろう年寄どしよりではないのだ。

 いや、ここ本丸大奥ほんまるおおおくにてつかえる上臈じょうろう年寄どしより高岳たかおかたちさえも、将軍しょうぐん家治いえはる安祥院あんしょういん、この二人ふたり給仕きゅうじになっているともうすのに、何故なにゆえ高岳たかおかたちとおなじく、本丸大奥ほんまるおおおくにて年寄としよりつとめるおのれが、高々たかだか清水しみず徳川家とくがわけ上臈じょうろうぎぬ薗橋そのはし給仕きゅうじになわなければならないのか…、清橋きよはしはそのよう不満ふまんいていたのだ。

 たしかに清橋きよはしのこの不満ふまんには一応いちおうもっともなめんがあったが、しかし、薗橋そのはしはただの上臈じょうろうではなかった。

 すなわち、薗橋そのはし公卿くぎょう甘露寺かんろじまれ、しかもちち規長のりなが従一位じゅいちい大納言だいなごんくらいにあった。

 それゆえ清水家しみずけにおいても薗橋そのはし貞子ていしつかえる上臈じょうろうではあるものの、家族かぞく同様どうよう、それこそ貞子ていしいもうと、いやあねようあつかわれていた。

 そのてん、ここ本丸大奥ほんまるおおおくにて将軍しょうぐん家治附いえはるづき上臈じょうろう年寄どしよりなかでも筆頭ひっとうである高岳たかおか薗橋そのはしおなじく公卿くぎょう岡崎国廣おかざきくにひろむすめではあるものの、岡崎国廣おかざきくにひろ従三位じゅさんみ参議さんぎまりで、従一位じゅいちい権大納言ごんだいなごんにはとおく、およばなかった。

 またおなじく家治附いえはるづき上臈じょうろう年寄どしより花園はなぞの飛鳥井あすかいいたっては、花園はなぞのちち西洞院にしのとういん頼篤よりあつ正三位しょうさんみ非参議ひさんぎまり、飛鳥井あすかいちち平松時行ひらまつときゆき正二位しょうにい権中納言ごんちゅうなごんまりであり、そのてん薗橋そのはしにはおよばなかった。

 かる事情じじょうから、なにより御三卿さんきょうたる清水しみず重好しげよし夫人ふじん貞子ていしとはあねともいもうとともあつかわれている薗橋そのはし給仕きゅうじ清橋きよはしになうのも当然とうぜん、とまでは言わないにしてもいたかたない。

 さて、こうして安祥院あんしょういん一家いっか」は家治いえはる談笑だんしょうしつつ、夕食ゆうしょくかこみ、そして夕食ゆうしょくえ、からとなった膳部ぜんぶげられるや、家治いえはる千穂ちほづき老女ろうじょ玉澤たまさわ、それに種姫附たねひめづき老女ろうじょ向坂さきさか夫々それぞれ交互こうご目配めくばせした。

 すると玉澤たまさわにしろ向坂さきさかにしろ心得こころえたもので、家治いえはる目配めくばせたいして交互こうごうなずうと、まずは向坂さきさか口火くちびった。

簾中れんじゅう殿どの宇治之間うじのまにて粗茶そちゃなどを差上さしあげとうぞんじます…」

 宇治之間うじのまとは将軍しょうぐん嫡子ちゃくし嫡女ちゃくにょまいであり、かつては萬壽ますひめが、つづいて家基いえもとこと竹千代たけちよまれると、萬壽ますひめ竹千代たけちよがこの宇治之間うじのまにてそだった。

 やがて竹千代たけちよ成長せいちょうし、次期じき将軍しょうぐん家基いえもととして西之丸にしのまるへとうつると、宇治之間うじのまふたたび、萬壽ますひめ一人ひとり部屋べやとなった。

 その萬壽ますひめ歿ぼっしたのち、それから種姫たねひめはいるまでのあいだ宇治之間うじのまは「空部屋あきべや」であった。

 それが次期じき将軍しょうぐん家基いえもと婚約者こんやくしゃとして、西之丸にしのまる大奥おおおくにてらしていた種姫たねひめが安永8(1779)年2月に家基いえもと先立さきだたれるや、種姫たねひめ本丸大奥ほんまるおおおくへとむかえられ、宇治之間うじのまあたえられいまいたる。

 種姫たねひめ家基いえもと婚約者こんやくしゃではあったが、名目上めいもくじょう将軍しょうぐん家治いえはる養女ようじょであったからだ。

 そして養女ようじょとは言え、将軍しょうぐん家治いえはるむすめであることにわりはなく、じつむすめであった萬壽ますひめ先立さきだたれた家治いえはるにとってはただ一人ひとりむすめであり、すなわち、嫡女ちゃくにょというわけで、宇治之間うじのまあたえられた次第しだいであった。

 その宇治之間うじのまにて、「食後しょくごのおちゃ」でもしませんかと、種姫附たねひめづき老女ろうじょ向坂さきさかが「御簾中ごれんじゅうさま」こと貞子ていしさそったのであった。

 すると貞子ていしづき上臈じょうろう薗橋そのはし心得こころえたもので、

簾中れんじゅう殿どの是非ぜひともそういたしましょう…」

 薗橋そのはし貞子ていしうながし、貞子ていし薗橋そのはしうながされてはうなずくよりほかになかった。

 いや、心得こころえていたのは玉澤たまさわもそうで、

私達わたくしたちも、おともしてもよろしゅうござりまするか?」

 玉澤たまさわ向坂さきさかにそうこえをかけた。態々わざわざ玉澤たまさわが「私達わたくしたち」と一人称いちにんしょう複数ふくすうもちいたからには、そこには当然とうぜん千穂ちほふくまれていた。

 それにたいして、向坂さきさかも、「無論むろんのこと…」と快諾かいだくしてみせた。

 そのさまていた将軍しょうぐん家治いえはるも、「それがい」とおうずると、玉澤たまさわ向坂さきさか、それに向坂さきさかおなじく種姫附たねひめづき年寄としより清橋きよはしもとより、おのれ附属ふぞくする年寄としより、それも先程さきほどまで重好しげよし貞子夫妻ていしふさい給仕きゅうじになっていた武家ぶけけい年寄としよりである滝川たきがわ野村のむら砂野いさのにも宇治之間うじのまにて種姫たねひめたちへの給仕きゅうじになようめいじたのであった。

 いや、武家ぶけけい年寄としよりたいしてだけではない、やはり先程さきほどまで将軍しょうぐんたるおのれとそれに安祥院あんしょういん給仕きゅうじになっていた上臈じょうろう年寄どしより花園はなぞの飛鳥井あすかいたいしても家治いえはる同様どうようめいじた。

 こうして小座敷こざしき上段じょうだんには将軍しょうぐん家治いえはるほかには安祥院あんしょういんとそのそく重好しげよし、そして家治附いえはるづき上臈じょうろう年寄どしより高岳たかおかの4人だけとなった。

 いや、家治いえはるもそれを期待きたいして、えて今夕こんゆうの「夕食会ゆうしょくかい」には養女ようじょ種姫たねひめ側妾そくしょう千穂ちほをもまねき、重好しげよしたいしても、妻女さいじょ貞子ていしをも、いや、貞子ていしづき上臈じょうろう薗橋そのはしをも同道どうどうさせるようにとめいじたのだ。

 これで今夕こんゆうの「夕食会ゆうしょくかい」が家治いえはる安祥院あんしょういん重好しげよしの3人だけならば、このあと蔦之間つたのま予定よていしている「密談みつだん」に、高岳たかおかだけでなく、そのほか年寄としよりまでが様々さまざま名目めいもくにて「参戦さんせん」してくるおそれがあったからだ。

 そこで家治いえはるは「夕食会ゆうしょくかい」には種姫たねひめ千穂ちほ貞子ていし薗橋そのはしをもくわえることで、それも夕食後ゆうしょくごには種姫たねひめ部屋へやである宇治之間うじのまにて「お茶会ちゃかい」をひらかせることで、その「参戦さんせん」のおそれを除去じょきょしたわけだ。

 この場合ばあい年寄としよりもまた、給仕きゅうじとして駆出かりだされることになるからだ。

 さて、こうして余計よけいな「雑音ざつおん」がえたところで高岳たかおか家治いえはるたちを小座敷こざしき上段じょうだんよりもさらおく大奥おおおく最奥部さいおうぶとでもぶべき蔦之間つたのまへと案内あんないした。

 蔦之間つたのま将軍しょうぐん大奥おおおく奥泊おくどまりしたさいに、小座敷こざしき上段じょうだんにて台所だいどころ夕食ゆうしょくともにしたあと歓談かんだんする場所ばしょであった。

 小座敷こざしき上段じょうだん蒲団ふとんかれるまでのあいだ蔦之間つたのまにて歓談かんだんをするというわけだ。

 その蔦之間つたのまにて家治いえはる安祥院あんしょういんからも大奥おおおくの「なぞ」―、かつ西之丸にしのまる大奥おおおくにて家基いえもとつかえていた奥女中おくじょちゅうについて、ことに家基いえもとにとって最期さいご鷹狩たかがりとなったあさ、その大奥おおおくにてった朝食ちょうしょく毒見どくみかかわった初崎はつざきや、あるいはそのめいである、きゃく応答あしらい砂野いさのおなじくきゃく応答あしらい笹岡ささおかについて、それまで家治いえはるしんじていたように、彼女かのじょたちがまこと家基いえもと忠誠ちゅうせいくしてくれていたのか、それともそうではないのか、そのてん安祥院あんしょういんただした。

 その結果けっか安祥院あんしょういんはなしもまた、重好しげよしはなしをなぞるものであり、「証人しょうにん」として陪席ばいせきしていた高岳たかおか安祥院あんしょういんはなしうなずいてみせた。

 すなわち、初崎はつざき家基いえもと授乳じゅにゅうこばまれたことで家基いえもとうらんでおり、その初崎はつざきめい砂野いさのにしても伯母おばである初崎はつざき感化かんかされて家基いえもとうらんでおり、一方いっぽう家基いえもととは従姉弟いとこ間柄あいだがらにある笹岡ささおか家基いえもとうらんではいないものの、しかし、だからと言って積極的せっきょくてき忠誠ちゅうせいくそうとの特別とくべつ感慨かんがいがあるわけでもなく、従弟いとこ家基いえもとよりも一橋ひとつばし用人ようにんである祖父そふ杉山すぎやま嘉兵衛かへえ特別とくべつおもれがある、噛砕かみくだいて言えば、従弟いとこ家基いえもとよりも一橋ひとつばし用人ようにん祖父そふである杉山すぎやま嘉兵衛かへえほう大事だいじおもっていた、というものであった。

 これで家基いえもと毒殺どくさつに、それまで家治いえはるしんじていた初崎はつざき砂野いさの、それに笹岡ささおかまでが関与かんよしていたうたがいがかなりつよまった。

 安祥院あんしょういんいまの「証言しょうげん」だけではかくたる物的ぶってき証拠しょうこにはたらないだろうが、しかし状況じょうきょう証拠しょうことしては充分じゅうぶんぎる。「証人しょうにん」である高岳たかおかも、安祥院あんしょういん」のその「証言しょうげん」の正確性せいかくせいみとめたからだ。

 それから安祥院あんしょういん重好しげよし気付きづかなかったおそろしい「可能性かのうせい」にれた。

大納言だいなごんさま…、いま家基公いえもとこうつかたてまつりし、それも毒殺どくさつ関与かんよせし奥女中おくじょちゅうほとんどが、家斉公いえなりこうや、あるいは縁女殿えんじょどの、それに家斉公いえなりこう母堂ぼどうとみかたにそれぞれ年寄としよりとしてもちいられましたのに、そんななか砂野いさのだけは上様うえさま附属ふぞくせし年寄としよりとしてもちいられましたのはまた、何故なにゆえでござりましょう…」

 安祥院あんしょういんのそのいかけにたいして、家治いえはるは「それは砂野いさの当人とうにん希望きぼうせしゆえに…」とこたえると、ぐに「まさか…」とうめいた。

 家治いえはるもまた、安祥院あんしょういん気付きづいたのとおなじく「可能性かのうせい」、あるおそろしい「可能性かのうせい」に気付きづいたからだ。

 安祥院あんしょういんもそうと気付きづくと、「その、まさかにて…」とおうじた。

「まさかに…、砂野いさのは…、今度こんどはこの家治いえはるいのちまでうばおうと?」

 家治いえはるこえひそませて、安祥院あんしょういんたしかめるようたずねた。

「されば砂野いさのが、ともうしますよりは初崎はつざきめいじられて…、いえ、さらにその背後はいごひかえし一橋ひとつばし民部卿みんぶのきょう殿どのめいじられてのことでござりましょうが…」

 安祥院あんしょういんはそう切出きりだすと、ここ本丸大奥ほんまるおおおくにても将軍しょうぐん食事しょくじらねばならないことにれた。

 すなわち、将軍しょうぐん昼食ちゅうしょく大奥おおおくにてらねばならず、その場合ばあいもやはり、将軍しょうぐんづききゃく応答あしらい毒見どくみを、それをこれまた将軍しょうぐんづき年寄としより監視かんしをすることになっていた。

「もしやすでに、きゃく応答あしらいなかにも一橋ひとつばし民部卿みんぶのきょう殿どのいきのかかりしものまぎんでおるやもれず、さればかるきゃく応答あしらい二人ふたりもおりますれば…」

 将軍しょうぐん家治いえはる毒殺どくさつもまた容易よういである…、安祥院あんしょういんはそう示唆しさしたのだ。

 家治いえはるおもわずてんあおいだ。

 そこで安祥院あんしょういん将軍しょうぐん家治いえはるわって、あるふたつの指示しじした。

 ひとつはいま将軍しょうぐんづききゃく応答あしらい身許みもと再調査さいちょうさであった。

「まずは宿元やどもと…、そこからさら縁者えんじゃにも一橋ひとつばし所縁ゆかりがあるかどうか、それを調しらべよ…」

 かり身許みもと保証人ほしょうにんである宿元やどもと当人とうにんか、あるいはその縁者えんじゃ一橋ひとつばし所縁ゆかりがあれば、そのもの要注意ようちゅういであった。場合ばあいによっては毒見どくみからはずすか、そもそもきゃく応答あしらいからべつやくへと配置換はいちがえすることもかんがえなくてはならないだろう。

 そしていまひとつだが、

今後こんご毒見どくみ監視かんし一人ひとり年寄としよりまかせるのではのうて、かならず、二人ひたり年寄としよりになわせるように…、ことに砂野いさの毒見どくみ監視役かんしやく場合ばあい極力きょくりょく、いや、かならずや高岳たかおか、そなたが砂野いさの相役あいやくとして、とも毒見どくみ監視役かんしやくつとめるように…」

 安祥院あんしょういんはそれをめいじたのであった。これで家治いえはる毒殺どくさつされる危険性リスクはかなりの程度ていどすくなくすることが出来できる。

 安祥院あんしょういん高岳たかおかにこの二つふたつてん指示しじすると、家治いえはるほうへと向直むきなおり、「それでよろしゅうござりまするな?」と同意どういもとめた。

 無論むろん家治いえはる異存いぞんなどあろうはずもなく、家治いえはるからもあらためて高岳たかおかにそのふたつのてんたのみ、高岳たかおか平伏へいふくさせた。

「いや、安祥院あんしょういんさま今宵こよい厚情こうじょう終生しゅうせいわすれませぬぞ…」

 家治いえはる心底しんそこ安祥院あんしょういん感謝かんしゃした。
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