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溜間における銀本位制を巡っての田沼意知と酒井忠休の最後の攻防 ~溜間詰筆頭の井伊直幸は意知に味方する~
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平蔵が意知の命により家基の死の真相の探索に当たっていた頃、当の意知はと言うと、若年寄の表向きの仕事に追われていた。
その間、酒井忠休は意知が唱える「銀本位制」を何としてでも潰そうと、最後の巻返しに出た。
即ち、酒井忠休は溜間詰の諸侯を頼ることを思い付いたのであった。
溜間を殿中席とする諸侯は、
「幕府の政治顧問…」
としての資格が与えられており、それ故、平日登城が許され、平日も殿中席である溜間に詰めていた。
天明3(1783)年11月の今、溜間には彦根井伊家の当主である掃部頭直幸とその嫡子の玄蕃頭直富、高松松平家の当主の讃岐守頼起、会津松平家の嫡子の駿河守容詮、そして桑名松平家の嫡子の職之丞頼久の5人が詰めていた。
この内、最も官位が高いのは彦根藩主の井伊直幸であった。
直幸は、
「正四位上左近衛権中将」
という極官…、彦根井伊家の当主としては望み得る最高の官位にあり、それ故、直幸は溜間の中でも一人、床の間を背にしていた、つまりは上座に鎮座していたのだ。
その直幸を挟んで、直幸の嫡子の井伊直富と高松藩主の松平頼起が向かい合っていた。
高松藩は彦根藩と同じく、代々、この溜間を殿中席として与えられる、
「定溜…」
所謂、その家柄であり、頼起はその高松藩の藩主であった。
そうであれば同じく「定溜」の彦根藩の、しかし嫡子に過ぎない、つまりは当主ではない井伊直富と、藩主の頼起とでは、頼起の方が直富よりも格上であるやに思われる。
だが実際には二人は同格、いや、それどころか直富の方が格上であった。
それと言うのも井伊直富と松平頼起は共に、
「従四位下少将」
その官位にあったのだ。
つまり、高松藩主の松平頼起と彦根藩世子の井伊直富は同格という訳だ。
しかも官位先任―、
「どちらが先に従四位下少将に叙されたのか」
その観点からすると、井伊直富の方が早く、直富が従四位下少将に叙されたのが3年前の安永9(1780)年10月であるのに対して、頼起が従四位下少将に叙されたのはそれより遅れること2年―、去年の天明2(1782)年6月のことであった。
それ故、井伊直富と松平頼起は同格ではあるが、先に従四位下少将に叙された直富の方が少し格上という訳だ。
さて、井伊直幸を挟んで向かい合う直富と頼起両者から少し離れた所、それも頼起の隣には松平容詮が着座していた。
松平容詮は井伊直富とは立場が同じであり、即ち、会津松平家の嫡子の立場にあったが、その官位は、
「従四位下侍従」
直富は元より、頼起よりも低いものであったので、それ故、容詮は向かい合う直富と頼起両者から少し離れた所に、それも頼起の側に着座していたのだ。
従四位下侍従と言えば、老中と同格であり、決して低い官位ではない。
だがここ溜間においてはどうしても見劣りしてしまう。
そして溜間の一番末席―、出入口の側に着座していたのが桑名藩世子の松平職之丞であった。
松平職之丞は桑名藩世子とは申せ、無位無官の身であり、しかも将軍への初めての御目見得もまだ済ませてはいなかった。
そうであれば本来ならば登城の許されぬ身であった。
だがこと、松平職之丞に限って言えば格別であった。
それと言うのも職之丞は実は紀州徳川家の先々代、宗将の庶子であり、今の紀州徳川家の当主である治貞の甥に当たるのだ。
しかも実父・宗将の父、職之丞にとっては祖父である紀州徳川家の六代目・宗直は将軍・家治が尊崇して止まない八代将軍・吉宗の養子となっていた。
それ故、形の上では職之丞は吉宗の曾孫に当たり、家治の愛息・家基と血統、立場は同じと言えた。
齢も職之丞は家基と近く―、家基よりも6歳年上であり、それ故、家治は職之丞がまだ、宗将の庶子、と言うよりは紀州徳川家の部屋住であった頃より目をかけていたのだ。
心なし、職之丞は今は亡き、愛息・家基の面影を湛えているようにも思われ、それが家治をして職之丞に目をかけさせたのやも知れぬ。
それ故、職之丞は将軍・家治への初御目見得がまだとは言っても、既に、
「内々に…」
それも幾度も中奥に招かれては将軍・家治と談笑に及んでいたので、家治と職之丞とは全くの未見という訳ではないのだ。
職之丞が桑名松平家の当主・下総守忠啓の養嗣子に迎えられたのは今年の5月、忠啓が参勤交代により国許である桑名へと帰国に及んだその直後であり、職之丞はこの時、麹町にある紀州和歌山上屋敷から和田倉御門内にある桑名藩上屋敷へと引き移った。それが今年の5月であった。
爾来、職之丞は家治の命により、極めて異例ではあるが、溜間に詰める様、命じられたのであった。
これはゆくゆく、職之丞にも溜間詰を命じてやろう、その為に今から溜間に詰めさせることで、溜間詰の経験を積ませてやろう、との家治の謂わば「親心」からであった。
また、今から職之丞に溜間詰を命じることで、
「ゆくゆく、松平職之丞が桑名松平家を相続した折には、養父・忠啓と同じく、職之丞にも溜間詰を命じる所存…」
それが将軍・家治の意思であると、周囲に思わせる効果も見込めるというものであった。
即ち、桑名松平家は彦根井伊家や高松松平家、或いは会津松平家の様な所謂、
「定溜」
その家柄ではなかった。
桑名松平家は元々は帝鑑間詰の家柄であり、帝鑑間が殿中席であった。
忠啓も安永5(1776)年までは帝鑑間が殿中席であった。
それが安永5(1776)年の12月に、「忠啓一代限り」という条件ではあるものの、忠啓は帝鑑間よりも格上の溜間に詰めることが許されたのであった。
つまりは、忠啓が桑名松平家の当主でいる間は桑名松平家の殿中席は溜間という訳で、謂わば臨時に家格が上昇した。
それ故、次代―、桑名松平家の次の当主が詰めるべき殿中席、即ち、桑名松平家の殿中席は再び、帝鑑間に戻る可能性が極めて高かった。
だが、まだ将軍・家治への正式な初御目見得を済ませてはいない忠啓の養嗣子の職之丞に今から養父・忠啓と同様、溜間を命ずることで、
「職之丞にも溜間に詰めることを許す所存…」
それが将軍たる家治の意思であると、周囲にそう主張する効果が見込めるという訳だ。
斯かる次第で職之丞もここ溜間に詰めていたのであり、しかしその席次は最末席であり、こればかりは将軍・家治としても、
「致し方あるまい…」
そう思っていた。
さて、この様な状況下に酒井忠休は溜間へと足を伸ばしては意知の「非道」、即ち、意知が唱える「銀本位制」が如何に道理に合わないかを訴えたのであった。
忠休はどうあっても意知の唱える「銀本位制」を潰すつもりの様であった。
その為に溜間詰の諸侯を頼るとは、忠休にしては目の付け所は良かった。
それと言うのも溜間詰の諸侯には幕府の政治顧問としての資格が与えられており、その資格を担保するかの如く、溜間詰の諸侯は皆、老中と同格か、それ以上の官位を与えられていた。
無論、職之丞の様な例外もあるが、それは今の話であり、職之丞もゆくゆくは溜間詰の諸侯として老中と同格か、それ以上の官位が与えられるのは間違いなかろう。
斯かる次第で、仮に忠休が溜間詰の諸侯を味方に付けられれば、即ち、溜間詰の諸侯が意知の唱える「銀本位制」を潰そうとする忠休に感化され、結果、
「若年寄の田沼意知が銀本位制への転換を研究しているそうだが、銀本位制など政策課題として挙げることなど罷りならん」
老中にそう命じれば、老中としてもこれに従わざるを得ず、そうなれば意知としてもこれ以上は「銀本位制」を追究出来ない。
目の付け所は良かった、とはそれ故であった。
だが、惜しむらくは今―、卯年である今年、天明3(1783)年のそれも11月の今時分、溜間に詰めている諸侯の殆どが、
「田沼与党」
という点であった。
まず溜間詰の諸侯の中でも筆頭である井伊直幸だが、嫡子の直富共々、「田沼与党」であった。
これは分家の与板井伊家を介してのものであり、井伊兵部少輔直朗が田沼意次の四女にして、意知の実妹である梅を娶っていることに由来する。
この井伊直朗と梅との間には生憎と嫡子に恵まれず、しかし娘には恵まれ、そこで直朗は本家の彦根井伊家より養嗣子を迎えることにしたのだ。
それが井伊直幸の八男である外也であり、直朗は外也を養嗣子として迎えると同時に、妻女の梅との間にもうけた娘の若と娶わせたのであった。正に入婿であった。
かくして田沼家は与板井伊家を介して、それも四女の梅を介して彦根井伊家とも、その当主である直幸と親しく交際する機会に恵まれたのであった。
爾来、意次も井伊家の為に何かと便宜を図ることが多かった。
例えば、直幸の嫡子、直富が安永9(1780)年にそれまでの従四位下侍従から従四位下左近衛権少将へと昇叙を果たせたのは偏に意次の口添えがあったればこそ、であった。
また、その直富と仙台藩主伊達陸奥守重村の三女の満姫詮子との縁談を取持ったのも、やはり意次であった。
かくして意次と直幸、いや、直幸・直富父子とは正に、
「紐帯で…」
結ばれていると言っても過言ではない。
また、元来、帝鑑間詰であった松平忠啓をその身一代限りとは申せ、ここ溜間に詰めることが許されたのも、その背景にはやはりと言うべきか、意次の姿があったのだ。
即ち、意次が将軍・家治に口添えしたからこそ、溜間詰が認められたのであった。
その忠啓も今―、卯年である今年、天明3(1783)年は参勤交代による帰国の年に当たるので、その国許である桑名の地へと下国に及んでおり、それ故、溜間に詰めることは出来なかった。いや、そもそも御城に登城することすら不可能であった。
だがその代わりに忠啓の嫡子、養嗣子の職之丞がこうして溜間に詰めていた。
職之丞は養父・忠啓より意次への「恩義」を語って聞かせ、それ故、職之丞も養父・忠啓に感化され、今ではすっかり意次贔屓であった。
いや、職之丞自身も意次には感謝していた。
それと言うのも職之丞が未だ、将軍・家治への正式な御目見得を済ませてはいないにもかかわらず、御城に登城し、こうして溜間に詰めることが許されたのも、これまた意次が将軍・家治に勧めたからこそであった。
職之丞に溜間に詰めることを許したのは外ならぬ将軍・家治であったが、それも意次がその旨―、
「職之丞に溜間に詰めるのを許しては…」
そう家治に進言したからこそ、であった。
それは中奥にて将軍・家治と職之丞との面会の場に意次も陪席が許されて折に意次が家治へと進言したことであった。
それ故、職之丞は意次に大いに感謝した訳で、また職之丞はこの儀、国許にいる養父・忠啓にも書状にて伝え、恐らくは、いや、間違いなく忠啓も意次のこの進言に大いに感謝したに違いない。
それと言うのも、意次の進言は桑名松平家の家格の向上に繋がるからだ。
大名の家格を示す一つの指標が殿中席であり、分けても溜間は、
「臣下最高の席…」
とも称されるだけあって、表向の内でも将軍の居所である中奥に一番近かった。
その溜間に忠啓だけでなく、その嫡子、養嗣子の職之丞も詰めることが許されれば、
「今後は桑名松平家も溜間詰を命ず…」
父子二代に亘って溜間に詰めたのだから、その子孫にも溜間詰を許しても良かろうと、桑名松平家も、彦根井伊家や高松松平家、会津松平家と共に、代々に亘って溜間に詰めることが認められる、
「定溜」
その一角に列なることが出来るやも知れなかった。
斯かる次第で松平忠啓・職之丞養親子もまた、意次の味方と言えた。
残るは高松松平家と会津松平家であり、この両家は意次とは、
「等距離外交」
つまりは中立であった。
いや、今一人、伊豫松山松平家の当主、隠岐守定國もまた、その身一代限りにて溜間に詰めることが許されている身であった。
だがその定國は今はやはり参勤交代により国許である伊豫松山に帰国中の身であり、しかも、同じく国許に帰国中の会津松平家の肥後守容頌や桑名松平家の忠啓の様に嫡子、養嗣子にも恵まれず、それ故、今の溜間には松山松平家の者は誰一人としていなかった。
その様な状況下で忠休が意次の息・意知の「非道」を訴えたところで、誰一人として、とまでは言わぬにしても、高松松平家の当主・頼起と会津松平家の養嗣子の容詮を除いては誰も忠休のその訴えをまともに取上げ様とはしなかった。
それでも意次・意知父子とは「等距離外交」を保つ頼起と容詮の意見により、意知からも「銀本位制」についての説明をさせるべきと、そこで意知が溜間に召還されることになった。
そこでも意知は、
「理路整然と…」
銀本位制の利点を溜間詰の諸侯にも説いたのであった。
「なれどそれでは御用金令に悪影響が出るのではあるまいか?」
意次・意知父子とは「等距離外交」を保つ高松松平家の当主、頼起がその懸念を口にした。
頼起が口にした「御用金令」とは先月の10月に大坂の主だった両替商11軒に対して出された御用金令のことであり、
「幕府に献金しろ」
要はそれであった。
尤も、それまでの御用金令とは少し違い、11軒の主だった両替商―、それも大名貸を営む本両替に対して、幕府が債務保証をするので、つまりは保証人となるので、大名への貸付を命じるものであり、しかもその代わりに―、幕府が保証人となる代わりに利息の一部を幕府に上納させるというものであった。
その11軒の両替商が「銀本位制」、つまりは通貨の統一に反撥して、御用金令に従わないのではあるまいかと、頼起はそれを懸念していたのだ。
成程、頼起は幕府の政治顧問だけあって至当な意見を述べた。
意知への憎しみだけが唯一の行動原理の酒井忠休とは流石に違う。
「讃岐守様の御懸念、御尤なれど、その為の米切手改印制度にて…」
江戸時代、大坂に年貢米を貯蔵する大名は大坂において米商人に年貢米を販売して金を得ていた。
具体的には蔵屋敷の前で競争入札が行われる。
つまりは最も高い金額を提示した米商人が年貢米を落札出来るという訳だ。
その際、年貢米を落札した米商人は落札金額と引換えに米を、年貢米を受取るべきところ、しかし実際には現物である米は受取らずに、大名が発行した米切手を受取る。
そして米商人はこの米切手を元手に、大坂における米の取引市場である堂島米会所にて、落札金額よりも高値で米切手を売捌こうと鎬を削る訳だが、ここで問題が発生する様になった。
何と大名が現物である年貢米を蔵屋敷に貯蔵していないにもかかわらず、米切手を発行するケースが散見される様になったのだ。
所謂、空米切手であり、堂島米会所にてその空米切手を掴まされるケースが多発していた。
空米切手を最後に掴まされた者は正に、
「ババを引く…」
それも同然であり、大坂町奉行所に駈込むことになる。金だけ毟り取られて米を受取れないのだから、それも当然である。
大坂は商都だけあって、江戸に較べて、手形が発達していた。
だがそれだけに、大坂商人は手形に対しては非常に厳しいものがあった。
つまりは空手形を許さぬ風潮があり、空米切手などはその空手形の極致であろう。
それ故、大坂商人はこの最も許し難き空米切手の対策を幕府に求めた。つまりは、
「大名には空米切手を発行させるな…」
それを幕府に求めたのであった。
そこで幕府もこの空米切手の規制に乗出し、何度も法度を出すのだが、その度に各大名は、
「網の目を掻い潜って…」
空米切手を発行するのを止め様とはしなかった。それもこれも大名が財政難の所為であった。
その為、幕府はまず、「米切手改印制度」に乗出した。
即ち、今後は大名に米切手発行の際には幕府の呉服師・後藤縫殿助の検査を受けさせることとしたのだ。
具体的には大名の蔵屋敷に米切手に見合うだけの年貢米が貯蔵されているかどうか、それを後藤縫殿助に検査させ、つまりは蔵屋敷の中を調べさせ、仮に米切手に見合うだけの年貢米が貯蔵されていない場合、或いはそもそも、後藤縫殿助の検査を受入れない場合、その大名には米切手の発行を禁止することとした。
これが米切手改印制度であり、それも強化であった。
米切手改印制度そのものは去年の天明2(1782)年より導入されたものだが、しかしそれも当初は空米切手による紛争が発生した場合は後藤縫殿助にこれを調停させる、といった程度のものであり、空米切手を厳格に制限、禁止するものではなかった。
大名もそれを見越して、以後も財政難打開の為もあって空米切手を発行し続けた。
これでは大坂の商人が求める空米切手の制限、禁止には到底覚束ないということで、そこで幕府は今年天明3(1783)年のそれも10月に斯かる制度強化に乗出したのだ。
だが幕府は同時に―、大名にこれ以上の空米切手を発行させない代わりに、大坂の商人、それも大名貸をも営む11軒の本両替に対して件の御用金令を、即ち、財政難に悩む大名への貸出拡充を命じたのであった。
つまり、「米切手改印制度の|強化」と「御用金令」はセット、バーターの関係であったのだ。
だがそこで頼起がまた、疑問を呈した。
「米切手改印制度…、その強化は御用金令と対を為すものにて、その米切手改印制度の強化を以て、その上、銀本位制まで…、通貨の統一まで商人に…、大坂の本両替に呑ませるのは、ちと、難しいのではあるまいか?」
これもまた至当な疑問であった。
大坂の商人が求める空米切手禁止への対策としての「米切手改印制度の強化」と、幕府が求める大名の財政難打開への対策としての「御用金令」はセット、バーターの関係であり、そうである以上、「米切手改印制度」のみで、「御用金令」に加えて、銀本位制、通貨の統一まで大名への貸付拡充を命じられた大坂の本両替に呑ませるのは成程、一見、難しい様に思える。
あと一つ、大坂の本両替に「お土産」でも持たせない限りは「御用金令」に、つまりは大名への貸出拡充に応じないのではあるまいかと、頼起はその点を懸念していたのだ。
「されば大坂の本両替にとりまして、空米切手の禁止は御用金令を拝受した上で、銀本位制、通貨の統一を受容れましてもまだ、お釣りが来ると申すものにて…」
意知はそう断言した。
御用金を命じられた件の11軒の大坂の本両替は堂島米会所からも収入を得ており、つまりは米相場も収入源の一としており、そうである以上、彼等11軒の本両替もまた空米切手の濫発の禁止を渇望していたのだ。
それ故、空米切手の濫発を禁止してやれば、御用金令の上に銀本位制、通貨の統一を命じられたところで、
「必ずや通貨の統一をも受容れるに違いない…」
その勝算が意知にはあったのだ。
さて、頼起も意知の説明に合点がいった様で、「成程のう…」と応ずると、それ以上の疑問を口にすることはなかった。
頼起はあくまで、政策論争が目的であり、忠休の様に個人攻撃が目的ではなかった。
それ故、意知の説明、政策に納得出来ればそれで良かった。
だが、それで納得出来ないのは忠休であり、あっさりと頼起が引下がったことで忠休は拍子抜けすると同時に、もっと外に意知に異論、反論はないのかと、頼起は元より、外の溜間詰の諸侯をも見渡した。
意知はそんな忠休を横目に、
「外に何か、御意見がありますれば、承りまするが…」
忠休に成代わって、溜間詰の諸侯を見渡した。
だがそれに反応する者は誰一人としていなかった。
頼起とは同じく、意次・意知父子と「等距離外交」を保つ、会津松平家の嫡子の容詮さえもそうであった。
いや、忠休にしても容詮なれば意知の唱える「銀本位制」に反対してくれるのではあるまいかと、そんな期待を込めた視線を送ったものの、しかし、容詮が忠休の期待に応えることはなかった。
容詮は今の様に養父・容頌が溜間に不在の折には頼起を頼ることが多かった。
その頼起が意知の唱える銀本位制に納得した上は、容詮としても異論などあろう筈がなかったのだ。
無論、それ以外の所謂、「田沼与党」の溜間詰諸侯から異論など聞こえよう筈もない。
こうして意知の唱える銀本位制、通貨の統一に対して、これ以上の意見は出尽くした感があり、そうと見て取った溜間詰筆頭の井伊直幸が、
「されば溜間としては山城が、いや、意知が唱えし銀本位制を可とする…」
そう裁断を下したのであった。
忠休としては溜間詰の諸侯を味方につけ、意知の唱える銀本位制を潰そうと画策するつもりであったが、それがとんだ裏目に出た格好である。
意知が直幸の裁断に対して平伏してこれに応じているというに、忠休は茫然自失、平伏するのも忘れて立上がったかと思うと、フラフラとした足取りにて一人、溜間を後にした。
その間、酒井忠休は意知が唱える「銀本位制」を何としてでも潰そうと、最後の巻返しに出た。
即ち、酒井忠休は溜間詰の諸侯を頼ることを思い付いたのであった。
溜間を殿中席とする諸侯は、
「幕府の政治顧問…」
としての資格が与えられており、それ故、平日登城が許され、平日も殿中席である溜間に詰めていた。
天明3(1783)年11月の今、溜間には彦根井伊家の当主である掃部頭直幸とその嫡子の玄蕃頭直富、高松松平家の当主の讃岐守頼起、会津松平家の嫡子の駿河守容詮、そして桑名松平家の嫡子の職之丞頼久の5人が詰めていた。
この内、最も官位が高いのは彦根藩主の井伊直幸であった。
直幸は、
「正四位上左近衛権中将」
という極官…、彦根井伊家の当主としては望み得る最高の官位にあり、それ故、直幸は溜間の中でも一人、床の間を背にしていた、つまりは上座に鎮座していたのだ。
その直幸を挟んで、直幸の嫡子の井伊直富と高松藩主の松平頼起が向かい合っていた。
高松藩は彦根藩と同じく、代々、この溜間を殿中席として与えられる、
「定溜…」
所謂、その家柄であり、頼起はその高松藩の藩主であった。
そうであれば同じく「定溜」の彦根藩の、しかし嫡子に過ぎない、つまりは当主ではない井伊直富と、藩主の頼起とでは、頼起の方が直富よりも格上であるやに思われる。
だが実際には二人は同格、いや、それどころか直富の方が格上であった。
それと言うのも井伊直富と松平頼起は共に、
「従四位下少将」
その官位にあったのだ。
つまり、高松藩主の松平頼起と彦根藩世子の井伊直富は同格という訳だ。
しかも官位先任―、
「どちらが先に従四位下少将に叙されたのか」
その観点からすると、井伊直富の方が早く、直富が従四位下少将に叙されたのが3年前の安永9(1780)年10月であるのに対して、頼起が従四位下少将に叙されたのはそれより遅れること2年―、去年の天明2(1782)年6月のことであった。
それ故、井伊直富と松平頼起は同格ではあるが、先に従四位下少将に叙された直富の方が少し格上という訳だ。
さて、井伊直幸を挟んで向かい合う直富と頼起両者から少し離れた所、それも頼起の隣には松平容詮が着座していた。
松平容詮は井伊直富とは立場が同じであり、即ち、会津松平家の嫡子の立場にあったが、その官位は、
「従四位下侍従」
直富は元より、頼起よりも低いものであったので、それ故、容詮は向かい合う直富と頼起両者から少し離れた所に、それも頼起の側に着座していたのだ。
従四位下侍従と言えば、老中と同格であり、決して低い官位ではない。
だがここ溜間においてはどうしても見劣りしてしまう。
そして溜間の一番末席―、出入口の側に着座していたのが桑名藩世子の松平職之丞であった。
松平職之丞は桑名藩世子とは申せ、無位無官の身であり、しかも将軍への初めての御目見得もまだ済ませてはいなかった。
そうであれば本来ならば登城の許されぬ身であった。
だがこと、松平職之丞に限って言えば格別であった。
それと言うのも職之丞は実は紀州徳川家の先々代、宗将の庶子であり、今の紀州徳川家の当主である治貞の甥に当たるのだ。
しかも実父・宗将の父、職之丞にとっては祖父である紀州徳川家の六代目・宗直は将軍・家治が尊崇して止まない八代将軍・吉宗の養子となっていた。
それ故、形の上では職之丞は吉宗の曾孫に当たり、家治の愛息・家基と血統、立場は同じと言えた。
齢も職之丞は家基と近く―、家基よりも6歳年上であり、それ故、家治は職之丞がまだ、宗将の庶子、と言うよりは紀州徳川家の部屋住であった頃より目をかけていたのだ。
心なし、職之丞は今は亡き、愛息・家基の面影を湛えているようにも思われ、それが家治をして職之丞に目をかけさせたのやも知れぬ。
それ故、職之丞は将軍・家治への初御目見得がまだとは言っても、既に、
「内々に…」
それも幾度も中奥に招かれては将軍・家治と談笑に及んでいたので、家治と職之丞とは全くの未見という訳ではないのだ。
職之丞が桑名松平家の当主・下総守忠啓の養嗣子に迎えられたのは今年の5月、忠啓が参勤交代により国許である桑名へと帰国に及んだその直後であり、職之丞はこの時、麹町にある紀州和歌山上屋敷から和田倉御門内にある桑名藩上屋敷へと引き移った。それが今年の5月であった。
爾来、職之丞は家治の命により、極めて異例ではあるが、溜間に詰める様、命じられたのであった。
これはゆくゆく、職之丞にも溜間詰を命じてやろう、その為に今から溜間に詰めさせることで、溜間詰の経験を積ませてやろう、との家治の謂わば「親心」からであった。
また、今から職之丞に溜間詰を命じることで、
「ゆくゆく、松平職之丞が桑名松平家を相続した折には、養父・忠啓と同じく、職之丞にも溜間詰を命じる所存…」
それが将軍・家治の意思であると、周囲に思わせる効果も見込めるというものであった。
即ち、桑名松平家は彦根井伊家や高松松平家、或いは会津松平家の様な所謂、
「定溜」
その家柄ではなかった。
桑名松平家は元々は帝鑑間詰の家柄であり、帝鑑間が殿中席であった。
忠啓も安永5(1776)年までは帝鑑間が殿中席であった。
それが安永5(1776)年の12月に、「忠啓一代限り」という条件ではあるものの、忠啓は帝鑑間よりも格上の溜間に詰めることが許されたのであった。
つまりは、忠啓が桑名松平家の当主でいる間は桑名松平家の殿中席は溜間という訳で、謂わば臨時に家格が上昇した。
それ故、次代―、桑名松平家の次の当主が詰めるべき殿中席、即ち、桑名松平家の殿中席は再び、帝鑑間に戻る可能性が極めて高かった。
だが、まだ将軍・家治への正式な初御目見得を済ませてはいない忠啓の養嗣子の職之丞に今から養父・忠啓と同様、溜間を命ずることで、
「職之丞にも溜間に詰めることを許す所存…」
それが将軍たる家治の意思であると、周囲にそう主張する効果が見込めるという訳だ。
斯かる次第で職之丞もここ溜間に詰めていたのであり、しかしその席次は最末席であり、こればかりは将軍・家治としても、
「致し方あるまい…」
そう思っていた。
さて、この様な状況下に酒井忠休は溜間へと足を伸ばしては意知の「非道」、即ち、意知が唱える「銀本位制」が如何に道理に合わないかを訴えたのであった。
忠休はどうあっても意知の唱える「銀本位制」を潰すつもりの様であった。
その為に溜間詰の諸侯を頼るとは、忠休にしては目の付け所は良かった。
それと言うのも溜間詰の諸侯には幕府の政治顧問としての資格が与えられており、その資格を担保するかの如く、溜間詰の諸侯は皆、老中と同格か、それ以上の官位を与えられていた。
無論、職之丞の様な例外もあるが、それは今の話であり、職之丞もゆくゆくは溜間詰の諸侯として老中と同格か、それ以上の官位が与えられるのは間違いなかろう。
斯かる次第で、仮に忠休が溜間詰の諸侯を味方に付けられれば、即ち、溜間詰の諸侯が意知の唱える「銀本位制」を潰そうとする忠休に感化され、結果、
「若年寄の田沼意知が銀本位制への転換を研究しているそうだが、銀本位制など政策課題として挙げることなど罷りならん」
老中にそう命じれば、老中としてもこれに従わざるを得ず、そうなれば意知としてもこれ以上は「銀本位制」を追究出来ない。
目の付け所は良かった、とはそれ故であった。
だが、惜しむらくは今―、卯年である今年、天明3(1783)年のそれも11月の今時分、溜間に詰めている諸侯の殆どが、
「田沼与党」
という点であった。
まず溜間詰の諸侯の中でも筆頭である井伊直幸だが、嫡子の直富共々、「田沼与党」であった。
これは分家の与板井伊家を介してのものであり、井伊兵部少輔直朗が田沼意次の四女にして、意知の実妹である梅を娶っていることに由来する。
この井伊直朗と梅との間には生憎と嫡子に恵まれず、しかし娘には恵まれ、そこで直朗は本家の彦根井伊家より養嗣子を迎えることにしたのだ。
それが井伊直幸の八男である外也であり、直朗は外也を養嗣子として迎えると同時に、妻女の梅との間にもうけた娘の若と娶わせたのであった。正に入婿であった。
かくして田沼家は与板井伊家を介して、それも四女の梅を介して彦根井伊家とも、その当主である直幸と親しく交際する機会に恵まれたのであった。
爾来、意次も井伊家の為に何かと便宜を図ることが多かった。
例えば、直幸の嫡子、直富が安永9(1780)年にそれまでの従四位下侍従から従四位下左近衛権少将へと昇叙を果たせたのは偏に意次の口添えがあったればこそ、であった。
また、その直富と仙台藩主伊達陸奥守重村の三女の満姫詮子との縁談を取持ったのも、やはり意次であった。
かくして意次と直幸、いや、直幸・直富父子とは正に、
「紐帯で…」
結ばれていると言っても過言ではない。
また、元来、帝鑑間詰であった松平忠啓をその身一代限りとは申せ、ここ溜間に詰めることが許されたのも、その背景にはやはりと言うべきか、意次の姿があったのだ。
即ち、意次が将軍・家治に口添えしたからこそ、溜間詰が認められたのであった。
その忠啓も今―、卯年である今年、天明3(1783)年は参勤交代による帰国の年に当たるので、その国許である桑名の地へと下国に及んでおり、それ故、溜間に詰めることは出来なかった。いや、そもそも御城に登城することすら不可能であった。
だがその代わりに忠啓の嫡子、養嗣子の職之丞がこうして溜間に詰めていた。
職之丞は養父・忠啓より意次への「恩義」を語って聞かせ、それ故、職之丞も養父・忠啓に感化され、今ではすっかり意次贔屓であった。
いや、職之丞自身も意次には感謝していた。
それと言うのも職之丞が未だ、将軍・家治への正式な御目見得を済ませてはいないにもかかわらず、御城に登城し、こうして溜間に詰めることが許されたのも、これまた意次が将軍・家治に勧めたからこそであった。
職之丞に溜間に詰めることを許したのは外ならぬ将軍・家治であったが、それも意次がその旨―、
「職之丞に溜間に詰めるのを許しては…」
そう家治に進言したからこそ、であった。
それは中奥にて将軍・家治と職之丞との面会の場に意次も陪席が許されて折に意次が家治へと進言したことであった。
それ故、職之丞は意次に大いに感謝した訳で、また職之丞はこの儀、国許にいる養父・忠啓にも書状にて伝え、恐らくは、いや、間違いなく忠啓も意次のこの進言に大いに感謝したに違いない。
それと言うのも、意次の進言は桑名松平家の家格の向上に繋がるからだ。
大名の家格を示す一つの指標が殿中席であり、分けても溜間は、
「臣下最高の席…」
とも称されるだけあって、表向の内でも将軍の居所である中奥に一番近かった。
その溜間に忠啓だけでなく、その嫡子、養嗣子の職之丞も詰めることが許されれば、
「今後は桑名松平家も溜間詰を命ず…」
父子二代に亘って溜間に詰めたのだから、その子孫にも溜間詰を許しても良かろうと、桑名松平家も、彦根井伊家や高松松平家、会津松平家と共に、代々に亘って溜間に詰めることが認められる、
「定溜」
その一角に列なることが出来るやも知れなかった。
斯かる次第で松平忠啓・職之丞養親子もまた、意次の味方と言えた。
残るは高松松平家と会津松平家であり、この両家は意次とは、
「等距離外交」
つまりは中立であった。
いや、今一人、伊豫松山松平家の当主、隠岐守定國もまた、その身一代限りにて溜間に詰めることが許されている身であった。
だがその定國は今はやはり参勤交代により国許である伊豫松山に帰国中の身であり、しかも、同じく国許に帰国中の会津松平家の肥後守容頌や桑名松平家の忠啓の様に嫡子、養嗣子にも恵まれず、それ故、今の溜間には松山松平家の者は誰一人としていなかった。
その様な状況下で忠休が意次の息・意知の「非道」を訴えたところで、誰一人として、とまでは言わぬにしても、高松松平家の当主・頼起と会津松平家の養嗣子の容詮を除いては誰も忠休のその訴えをまともに取上げ様とはしなかった。
それでも意次・意知父子とは「等距離外交」を保つ頼起と容詮の意見により、意知からも「銀本位制」についての説明をさせるべきと、そこで意知が溜間に召還されることになった。
そこでも意知は、
「理路整然と…」
銀本位制の利点を溜間詰の諸侯にも説いたのであった。
「なれどそれでは御用金令に悪影響が出るのではあるまいか?」
意次・意知父子とは「等距離外交」を保つ高松松平家の当主、頼起がその懸念を口にした。
頼起が口にした「御用金令」とは先月の10月に大坂の主だった両替商11軒に対して出された御用金令のことであり、
「幕府に献金しろ」
要はそれであった。
尤も、それまでの御用金令とは少し違い、11軒の主だった両替商―、それも大名貸を営む本両替に対して、幕府が債務保証をするので、つまりは保証人となるので、大名への貸付を命じるものであり、しかもその代わりに―、幕府が保証人となる代わりに利息の一部を幕府に上納させるというものであった。
その11軒の両替商が「銀本位制」、つまりは通貨の統一に反撥して、御用金令に従わないのではあるまいかと、頼起はそれを懸念していたのだ。
成程、頼起は幕府の政治顧問だけあって至当な意見を述べた。
意知への憎しみだけが唯一の行動原理の酒井忠休とは流石に違う。
「讃岐守様の御懸念、御尤なれど、その為の米切手改印制度にて…」
江戸時代、大坂に年貢米を貯蔵する大名は大坂において米商人に年貢米を販売して金を得ていた。
具体的には蔵屋敷の前で競争入札が行われる。
つまりは最も高い金額を提示した米商人が年貢米を落札出来るという訳だ。
その際、年貢米を落札した米商人は落札金額と引換えに米を、年貢米を受取るべきところ、しかし実際には現物である米は受取らずに、大名が発行した米切手を受取る。
そして米商人はこの米切手を元手に、大坂における米の取引市場である堂島米会所にて、落札金額よりも高値で米切手を売捌こうと鎬を削る訳だが、ここで問題が発生する様になった。
何と大名が現物である年貢米を蔵屋敷に貯蔵していないにもかかわらず、米切手を発行するケースが散見される様になったのだ。
所謂、空米切手であり、堂島米会所にてその空米切手を掴まされるケースが多発していた。
空米切手を最後に掴まされた者は正に、
「ババを引く…」
それも同然であり、大坂町奉行所に駈込むことになる。金だけ毟り取られて米を受取れないのだから、それも当然である。
大坂は商都だけあって、江戸に較べて、手形が発達していた。
だがそれだけに、大坂商人は手形に対しては非常に厳しいものがあった。
つまりは空手形を許さぬ風潮があり、空米切手などはその空手形の極致であろう。
それ故、大坂商人はこの最も許し難き空米切手の対策を幕府に求めた。つまりは、
「大名には空米切手を発行させるな…」
それを幕府に求めたのであった。
そこで幕府もこの空米切手の規制に乗出し、何度も法度を出すのだが、その度に各大名は、
「網の目を掻い潜って…」
空米切手を発行するのを止め様とはしなかった。それもこれも大名が財政難の所為であった。
その為、幕府はまず、「米切手改印制度」に乗出した。
即ち、今後は大名に米切手発行の際には幕府の呉服師・後藤縫殿助の検査を受けさせることとしたのだ。
具体的には大名の蔵屋敷に米切手に見合うだけの年貢米が貯蔵されているかどうか、それを後藤縫殿助に検査させ、つまりは蔵屋敷の中を調べさせ、仮に米切手に見合うだけの年貢米が貯蔵されていない場合、或いはそもそも、後藤縫殿助の検査を受入れない場合、その大名には米切手の発行を禁止することとした。
これが米切手改印制度であり、それも強化であった。
米切手改印制度そのものは去年の天明2(1782)年より導入されたものだが、しかしそれも当初は空米切手による紛争が発生した場合は後藤縫殿助にこれを調停させる、といった程度のものであり、空米切手を厳格に制限、禁止するものではなかった。
大名もそれを見越して、以後も財政難打開の為もあって空米切手を発行し続けた。
これでは大坂の商人が求める空米切手の制限、禁止には到底覚束ないということで、そこで幕府は今年天明3(1783)年のそれも10月に斯かる制度強化に乗出したのだ。
だが幕府は同時に―、大名にこれ以上の空米切手を発行させない代わりに、大坂の商人、それも大名貸をも営む11軒の本両替に対して件の御用金令を、即ち、財政難に悩む大名への貸出拡充を命じたのであった。
つまり、「米切手改印制度の|強化」と「御用金令」はセット、バーターの関係であったのだ。
だがそこで頼起がまた、疑問を呈した。
「米切手改印制度…、その強化は御用金令と対を為すものにて、その米切手改印制度の強化を以て、その上、銀本位制まで…、通貨の統一まで商人に…、大坂の本両替に呑ませるのは、ちと、難しいのではあるまいか?」
これもまた至当な疑問であった。
大坂の商人が求める空米切手禁止への対策としての「米切手改印制度の強化」と、幕府が求める大名の財政難打開への対策としての「御用金令」はセット、バーターの関係であり、そうである以上、「米切手改印制度」のみで、「御用金令」に加えて、銀本位制、通貨の統一まで大名への貸付拡充を命じられた大坂の本両替に呑ませるのは成程、一見、難しい様に思える。
あと一つ、大坂の本両替に「お土産」でも持たせない限りは「御用金令」に、つまりは大名への貸出拡充に応じないのではあるまいかと、頼起はその点を懸念していたのだ。
「されば大坂の本両替にとりまして、空米切手の禁止は御用金令を拝受した上で、銀本位制、通貨の統一を受容れましてもまだ、お釣りが来ると申すものにて…」
意知はそう断言した。
御用金を命じられた件の11軒の大坂の本両替は堂島米会所からも収入を得ており、つまりは米相場も収入源の一としており、そうである以上、彼等11軒の本両替もまた空米切手の濫発の禁止を渇望していたのだ。
それ故、空米切手の濫発を禁止してやれば、御用金令の上に銀本位制、通貨の統一を命じられたところで、
「必ずや通貨の統一をも受容れるに違いない…」
その勝算が意知にはあったのだ。
さて、頼起も意知の説明に合点がいった様で、「成程のう…」と応ずると、それ以上の疑問を口にすることはなかった。
頼起はあくまで、政策論争が目的であり、忠休の様に個人攻撃が目的ではなかった。
それ故、意知の説明、政策に納得出来ればそれで良かった。
だが、それで納得出来ないのは忠休であり、あっさりと頼起が引下がったことで忠休は拍子抜けすると同時に、もっと外に意知に異論、反論はないのかと、頼起は元より、外の溜間詰の諸侯をも見渡した。
意知はそんな忠休を横目に、
「外に何か、御意見がありますれば、承りまするが…」
忠休に成代わって、溜間詰の諸侯を見渡した。
だがそれに反応する者は誰一人としていなかった。
頼起とは同じく、意次・意知父子と「等距離外交」を保つ、会津松平家の嫡子の容詮さえもそうであった。
いや、忠休にしても容詮なれば意知の唱える「銀本位制」に反対してくれるのではあるまいかと、そんな期待を込めた視線を送ったものの、しかし、容詮が忠休の期待に応えることはなかった。
容詮は今の様に養父・容頌が溜間に不在の折には頼起を頼ることが多かった。
その頼起が意知の唱える銀本位制に納得した上は、容詮としても異論などあろう筈がなかったのだ。
無論、それ以外の所謂、「田沼与党」の溜間詰諸侯から異論など聞こえよう筈もない。
こうして意知の唱える銀本位制、通貨の統一に対して、これ以上の意見は出尽くした感があり、そうと見て取った溜間詰筆頭の井伊直幸が、
「されば溜間としては山城が、いや、意知が唱えし銀本位制を可とする…」
そう裁断を下したのであった。
忠休としては溜間詰の諸侯を味方につけ、意知の唱える銀本位制を潰そうと画策するつもりであったが、それがとんだ裏目に出た格好である。
意知が直幸の裁断に対して平伏してこれに応じているというに、忠休は茫然自失、平伏するのも忘れて立上がったかと思うと、フラフラとした足取りにて一人、溜間を後にした。
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