上 下
34 / 169

溜間における銀本位制を巡っての田沼意知と酒井忠休の最後の攻防 ~溜間詰筆頭の井伊直幸は意知に味方する~

しおりを挟む
 平蔵へいぞう意知おきともめいにより家基いえもと真相しんそう探索たんさくたっていたころとう意知おきともはと言うと、若年寄わかどしより表向おもてむきの仕事しごとわれていた。

 そのかん酒井さかい忠休ただよし意知おきともとなえる「銀本位制ぎんほんいせい」をなんとしてでもつぶそうと、最後さいご巻返まきかえしにた。

 すなわち、酒井さかい忠休ただよし溜間たまりのまづめ諸侯しょこうたよることをおもいたのであった。

 溜間たまりのま殿中でんちゅうせきとする諸侯しょこうは、

幕府ばくふ政治顧問せいじこもん…」

 としての資格しかくあたえられており、それゆえ平日へいじつ登城とじょうゆるされ、平日へいじつ殿中でんちゅうせきである溜間たまりのまめていた。

 天明3(1783)年11月のいま溜間たまりのまには彦根ひこね井伊家いいけ当主とうしゅである掃部頭かもんのかみ直幸なおひでとその嫡子ちゃくし玄蕃頭げんばのかみ直富なおとみ高松たかまつ松平まつだいら当主とうしゅ讃岐守さぬきのかみ頼起よりおき会津あいづ松平まつだいら嫡子ちゃくし駿河守するがのかみ容詮かたさだ、そして桑名くわな松平まつだいら嫡子ちゃくし職之丞もとのすけ頼久よりひさの5人がめていた。

 このうちもっと官位かんいたかいのは彦根ひこね藩主はんしゅ井伊いい直幸なおひでであった。

 直幸なおひでは、

正四位上しょうしいのじょう左近衛さこのえ権中将ごんのちゅうじょう

 という極官ごっかん…、彦根ひこね井伊家いいけ当主とうしゅとしてはのぞ最高さいこう官位かんいにあり、それゆえ直幸なおひで溜間たまりのまなかでも一人ひとりとこにしていた、つまりは上座かみざ鎮座ちんざしていたのだ。

 その直幸なおひではさんで、直幸なおひで嫡子ちゃくし井伊いい直富なおとみ高松藩主たかまつはんしゅ松平まつだいら頼起よりおきかいっていた。

 高松藩たかまつはん彦根藩ひこねはんおなじく、代々だいだい、この溜間たまりのま殿中でんちゅうせきとしてあたえられる、

定溜じょうだまり…」

 所謂いわゆる、その家柄いえがらであり、頼起よりおきはその高松藩たかまつはん藩主はんしゅであった。

 そうであればおなじく「定溜じょうだまり」の彦根藩ひこねはんの、しかし嫡子ちゃくしぎない、つまりは当主とうしゅではない井伊いい直富なおとみと、藩主はんしゅ頼起よりおきとでは、頼起よりおきほう直富なおとみよりも格上かくうえであるやにおもわれる。

 だが実際じっさいには二人ふたり同格どうかく、いや、それどころか直富なおとみほう格上かくうえであった。

 それと言うのも井伊いい直富なおとみ松平まつだいら頼起よりおきともに、

従四位下じゅしいのげ少将しょうしょう

 その官位かんいにあったのだ。

 つまり、高松藩主たかまつはんしゅ松平まつだいら頼起よりおき彦根ひこねはん世子せいし井伊いい直富なおとみ同格どうかくというわけだ。

 しかも官位かんい先任せんにん―、

「どちらがさき従四位下じゅしいのげ少将しょうしょうじょされたのか」

 その観点かんてんからすると、井伊いい直富なおとみほうはやく、直富なおとみ従四位下じゅしいのげ少将しょうしょうじょされたのが3年前ねんまえの安永9(1780)年10月であるのにたいして、頼起よりおき従四位下じゅしいのげ少将しょうしょうじょされたのはそれよりおくれること2年―、去年きょねんの天明2(1782)年6月のことであった。

 それゆえ井伊いい直富なおとみ松平まつだいら頼起よりおき同格どうかくではあるが、さき従四位下じゅしいのげ少将しょうしょうじょされた直富なおとみほうすこ格上かくうえというわけだ。

 さて、井伊いい直幸なおひではさんでかい直富なおとみ頼起よりおき両者りょうしゃからすこはなれたところ、それも頼起よりおきとなりには松平まつだいら容詮かたさだ着座ちゃくざしていた。

 松平まつだいら容詮かたさだ井伊いい直富なおとみとは立場たちばおなじであり、すなわち、会津あいづ松平まつだいら嫡子ちゃくし立場たちばにあったが、その官位かんいは、

従四位下じゅしいのげ侍従じじゅう

 直富なおとみもとより、頼起よりおきよりもひくいものであったので、それゆえ容詮かたさだかい直富なおとみ頼起よりおき両者りょうしゃからすこはなれたところに、それも頼起よりおきがわ着座ちゃくざしていたのだ。

 従四位下じゅしいのげ侍従じじゅうと言えば、老中ろうじゅう同格どうかくであり、けっしてひく官位かんいではない。

 だがここ溜間たまりのまにおいてはどうしても見劣みおとりしてしまう。

 そして溜間たまりのま一番末席いちばんまっせき―、出入口でいりぐちそば着座ちゃくざしていたのが桑名くわなはん世子せいし松平まつだいら職之丞もとのすけであった。

 松平まつだいら職之丞もとのすけ桑名くわなはん世子せいしとはもうせ、無位むい無官むかんであり、しかも将軍しょうぐんへのはじめての御目見得おめみえもまだませてはいなかった。

 そうであれば本来ほんらいならば登城とじょうゆるされぬであった。

 だがこと、松平まつだいら職之丞もとのすけかぎって言えば格別かくべつであった。

 それと言うのも職之丞もとのすけじつ紀州きしゅう徳川家とくがわけ先々代せんせんだい宗将むねまさ庶子しょしであり、いま紀州きしゅう徳川家とくがわけ当主とうしゅである治貞はるさだおいたるのだ。

 しかも実父じっぷ宗将むねまさちち職之丞もとのすけにとっては祖父そふである紀州きしゅう徳川家とくがわけ六代目ろくだいめ宗直むねなお将軍しょうぐん家治いえはる尊崇そんすうしてまない八代はちだい将軍しょうぐん吉宗よしむね養子ようしとなっていた。

 それゆえかたちうえでは職之丞もとのすけ吉宗よしむね曾孫ひまごたり、家治いえはる愛息あいそく家基いえもと血統けっとう立場たちばおなじと言えた。

 とし職之丞もとのすけ家基いえもとちかく―、家基いえもとよりも6歳年上としうえであり、それゆえ家治いえはる職之丞もとのすけがまだ、宗将むねまさ庶子しょし、と言うよりは紀州きしゅう徳川家とくがわけ部屋へやずみであったころよりをかけていたのだ。

 こころなし、職之丞もとのすけいまき、愛息あいそく家基いえもと面影おもかげたたえているようにもおもわれ、それが家治いえはるをして職之丞もとのすけをかけさせたのやもれぬ。

 それゆえ職之丞もとのすけ将軍しょうぐん家治いえはるへのはつ御目見得おめみえがまだとは言っても、すでに、

内々ないないに…」

 それも幾度いくど中奥なかおくまねかれては将軍しょうぐん家治いえはる談笑だんしょうおよんでいたので、家治いえはる職之丞もとのすけとはまったくの未見みけんというわけではないのだ。

 職之丞もとのすけ桑名くわな松平まつだいら当主とうしゅ下総守しもうさのかみ忠啓ただひら養嗣子ようししむかえられたのは今年ことしの5月、忠啓ただひら参勤交代さんきんこうたいにより国許くにもとである桑名くわなへと帰国きこくおよんだその直後ちょくごであり、職之丞もとのすけはこのとき麹町こうじまちにある紀州きしゅう和歌山わかやまはん上屋敷かみやしきから和田わだくら門内もんないにある桑名くわなはん上屋敷かみやしきへとうつった。それが今年ことしの5月であった。

 爾来じらい職之丞もとのすけ家治いえはるめいにより、きわめて異例いれいではあるが、溜間たまりのまめるようめいじられたのであった。

 これはゆくゆく、職之丞もとのすけにも溜間たまりのまづめめいじてやろう、そのためいまから溜間たまりのまめさせることで、溜間たまりのまづめ経験けいけんませてやろう、との家治いえはるわば「親心おやごころ」からであった。

 また、いまから職之丞もとのすけ溜間たまりのまづめめいじることで、

「ゆくゆく、松平まつだいら職之丞もとのすけ桑名くわな松平まつだいら相続そうぞくしたおりには、養父ようふ忠啓ただひらおなじく、職之丞もとのすけにも溜間たまりのまづめめいじる所存しょぞん…」

 それが将軍しょうぐん家治いえはる意思いしであると、周囲しゅういおもわせる効果こうか見込みこめるというものであった。

 すなわち、桑名くわな松平まつだいら彦根ひこね井伊家いいけ高松たかまつ松平まつだいらあるいは会津あいづ松平まつだいらよう所謂いわゆる

定溜じょうだまり

 その家柄いえがらではなかった。

 桑名くわな松平まつだいら元々もともと帝鑑間ていかんのまづめ家柄いえがらであり、帝鑑間ていかんのま殿中でんちゅうせきであった。

 忠啓ただひらも安永5(1776)年までは帝鑑間ていかんのま殿中でんちゅうせきであった。

 それが安永5(1776)年の12月に、「忠啓一代限ただひらいちだいかぎり」という条件じょうけんではあるものの、忠啓ただひら帝鑑間ていかんのまよりも格上かくうえ溜間たまりのまめることがゆるされたのであった。

 つまりは、忠啓ただひら桑名くわな松平まつだいら当主とうしゅでいるあいだ桑名くわな松平まつだいら殿中でんちゅうせき溜間たまりのまというわけで、わば臨時りんじ家格かかく上昇じょうしょうした。

 それゆえ次代じだい―、桑名くわな松平まつだいらつぎ当主とうしゅめるべき殿中でんちゅうせきすなわち、桑名くわな松平まつだいら殿中でんちゅうせきふたたび、帝鑑間ていかんのまもど可能性かのうせいきわめてたかかった。

 だが、まだ将軍しょうぐん家治いえはるへの正式せいしきはつ御目見得おめみえませてはいない忠啓ただひら養嗣子ようしし職之丞もとのすけいまから養父ようふ忠啓ただひら同様どうよう溜間たまりのまめいずることで、

職之丞もとのすけにも溜間たまりのまめることをゆる所存しょぞん…」

 それが将軍しょうぐんたる家治いえはる意思いしであると、周囲しゅういにそう主張アピールする効果こうか見込みこめるというわけだ。

 かる次第しだい職之丞もとのすけもここ溜間たまりのまめていたのであり、しかしその席次せきじ最末席さいまっせきであり、こればかりは将軍しょうぐん家治いえはるとしても、

いたかたあるまい…」

 そうおもっていた。

 さて、このよう状況下じょうきょうか酒井さかい忠休ただよし溜間たまりのまへとあしばしては意知おきともの「非道ひどう」、すなわち、意知おきともとなえる「銀本位制ぎんほんいせい」が如何いか道理どうりわないかをうったえたのであった。

 忠休ただよしはどうあっても意知おきともとなえる「銀本位制ぎんほんいせい」をつぶすつもりのようであった。

 そのため溜間たまりのまづめ諸侯しょこうたよるとは、忠休ただよしにしてはどころかった。

 それと言うのも溜間たまりのまづめ諸侯しょこうには幕府ばくふ政治顧問せいじこもんとしての資格しかくあたえられており、その資格しかく担保たんぽするかのごとく、溜間たまりのまづめ諸侯しょこうみな老中ろうじゅう同格どうかくか、それ以上いじょう官位かんいあたえられていた。

 無論むろん職之丞もとのすけよう例外れいがいもあるが、それはいまはなしであり、職之丞もとのすけもゆくゆくは溜間たまりのまづめ諸侯しょこうとして老中ろうじゅう同格どうかくか、それ以上いじょう官位かんいあたえられるのは間違まちがいなかろう。

 かる次第しだいで、かり忠休ただよし溜間たまりのまづめ諸侯しょこう味方みかたけられれば、すなわち、溜間たまりのまづめ諸侯しょこう意知おきともとなえる「銀本位制ぎんほんいせい」をつぶそうとする忠休ただよし感化かんかされ、結果けっか

若年寄わかどしより田沼たぬま意知おきとも銀本位制ぎんほんいせいへの転換てんかん研究けんきゅうしているそうだが、銀本位制ぎんほんいせいなど政策せいさく課題かだいとしてげることなどまかりならん」

 老中ろうじゅうにそうめいじれば、老中ろうじゅうとしてもこれにしたがわざるをず、そうなれば意知おきともとしてもこれ以上いじょうは「銀本位制ぎんほんいせい」を追究ついきゅう出来できない。

 どころかった、とはそれゆえであった。

 だが、しむらくはいま―、卯年うどしである今年ことし、天明3(1783)年のそれも11月の今時分いまじぶん溜間たまりのまめている諸侯しょこうほとんどが、

田沼与党たぬまよとう

 というてんであった。

 まず溜間たまりのまづめ諸侯しょこうなかでも筆頭ひっとうである井伊いい直幸なおひでだが、嫡子ちゃくし直富共々なおとみともども、「田沼与党たぬまよとう」であった。

 これは分家ぶんけ与板よいた井伊家いいけかいしてのものであり、井伊いい兵部少輔ひょうぶしょうゆう直朗なおあきら田沼たぬま意次おきつぐ四女よんじょにして、意知おきとも実妹じつまいであるうめめとっていることに由来ゆらいする。

 この井伊いい直朗なおあきらうめとのあいだには生憎あいにく嫡子ちゃくしめぐまれず、しかしむすめにはめぐまれ、そこで直朗なおあきら本家ほんけ彦根ひこね井伊家いいけより養嗣子ようししむかえることにしたのだ。

 それが井伊いい直幸なおひで八男はちなんである外也そとやであり、直朗なおあきら外也そとや養嗣子ようししとしてむかえると同時どうじに、妻女さいじょうめとのあいだにもうけたむすめわかめあわせたのであった。まさ入婿いりむこであった。

 かくして田沼たぬま与板よいた井伊家いいけかいして、それも四女よんじょうめかいして彦根ひこね井伊家いいけとも、その当主とうしゅである直幸なおひでしたしく交際こうさいする機会きかいめぐまれたのであった。

 爾来じらい意次おきつぐ井伊家いいけためなにかと便宜べんぎはかることがおおかった。

 たとえば、直幸なおひで嫡子ちゃくし直富なおとみが安永9(1780)年にそれまでの従四位下じゅしいのげ侍従じじゅうから従四位下じゅしいのげ左近衛さこのえ権少将ごんのしょうしょうへと昇叙しょうじょたせたのはひとえ意次おきつぐ口添くちぞえがあったればこそ、であった。

 また、その直富なおとみ仙台藩主せんだいはんしゅ伊達だて陸奥守むつのかみ重村しげむら三女さんじょ満姫みつひめ詮子あきことの縁談えんだん取持とりもったのも、やはり意次おきつぐであった。

 かくして意次おきつぐ直幸なおひで、いや、直幸なおひで直富なおとみ父子ひしとはまさに、

紐帯ちゅうたいで…」

 むすばれていると言っても過言かごんではない。

 また、元来がんらい帝鑑間ていかんのまづめであった松平まつだいら忠啓ただひらをその一代限いちだいかぎりとはもうせ、ここ溜間たまりのまめることがゆるされたのも、その背景はいけいにはやはりと言うべきか、意次おきつぐ姿すがたがあったのだ。

 すなわち、意次おきつぐ将軍しょうぐん家治いえはる口添くちぞえしたからこそ、溜間たまりのまづめみとめられたのであった。

 その忠啓ただひらいま―、卯年うどしである今年ことし、天明3(1783)年は参勤交代さんきんこうたいによる帰国きこくとしたるので、その国許くにもとである桑名くわなへと下国げこくおよんでおり、それゆえ溜間たまりのまめることは出来できなかった。いや、そもそも御城えどじょう登城とじょうすることすら不可能ふかのうであった。

 だがそのわりに忠啓ただひら嫡子ちゃくし養嗣子ようしし職之丞もとのすけがこうして溜間たまりのまめていた。

 職之丞もとのすけ養父ようふ忠啓ただひらより意次おきつぐへの「恩義おんぎ」をかたってかせ、それゆえ職之丞もとのすけ養父ようふ忠啓ただひら感化かんかされ、いまではすっかり意次おきつぐ贔屓びいきであった。

 いや、職之丞もとのすけ自身じしん意次おきつぐには感謝かんしゃしていた。

 それと言うのも職之丞もとのすけいまだ、将軍しょうぐん家治いえはるへの正式せいしき御目見得おめみえませてはいないにもかかわらず、御城えどじょう登城とじょうし、こうして溜間たまりのまめることがゆるされたのも、これまた意次おきつぐ将軍しょうぐん家治いえはるすすめたからこそであった。

 職之丞もとのすけ溜間たまりのまめることをゆるしたのはほかならぬ将軍しょうぐん家治いえはるであったが、それも意次おきつぐがそのむね―、

職之丞もとのすけ溜間たまりのまめるのをゆるしては…」

 そう家治いえはる進言アドバイスしたからこそ、であった。

 それは中奥なかおくにて将軍しょうぐん家治いえはる職之丞もとのすけとの面会めんかい意次おきつぐ陪席ばいせきゆるされており意次おきつぐ家治いえはるへと進言アドバイスしたことであった。

 それゆえ職之丞もとのすけ意次おきつぐおおいに感謝かんしゃしたわけで、また職之丞もとのすけはこの国許くにもとにいる養父ようふ忠啓ただひらにも書状しょじょうにてつたえ、おそらくは、いや、間違まちがいなく忠啓ただひら意次おきつぐのこの進言アドバイスおおいに感謝かんしゃしたにちがいない。

 それと言うのも、意次おきつぐ進言アドバイス桑名くわな松平まつだいら家格かかく向上こうじょうつながるからだ。

 大名だいみょう家格かかくしめひとつの指標バロメーター殿中でんちゅうせきであり、けても溜間たまりのまは、

臣下しんか最高さいこうせき…」

 ともしょうされるだけあって、表向おもてむきうちでも将軍しょうぐん居所きょしょである中奥なかおく一番近いちばんちかかった。

 その溜間たまりのま忠啓ただひらだけでなく、その嫡子ちゃくし養嗣子ようしし職之丞もとのすけめることがゆるされれば、

今後こんご桑名くわな松平まつだいら溜間たまりのまづめめいず…」

 父子ふし二代にだいわたって溜間たまりのまめたのだから、その子孫しそんにも溜間たまりのまづめゆるしてもかろうと、桑名くわな松平まつだいらも、彦根ひこね井伊家いいけ高松たかまつ松平まつだいら会津あいづ松平まつだいらともに、代々だいだいわたって溜間たまりのまめることがみとめられる、

定溜じょうだまり

 その一角いっかくつらなることが出来できるやもれなかった。

 かる次第しだい松平まつだいら忠啓ただひら職之丞もとのすけ養親子おやこもまた、意次おきつぐ味方シンパと言えた。

 のこるは高松たかまつ松平まつだいら会津あいづ松平まつだいらであり、この両家りょうけ意次おきつぐとは、

等距離とうきょり外交がいこう

 つまりは中立ちゅうりつであった。

 いや、今一人いまひとり伊豫いよ松山まつやま松平まつだいら当主とうしゅ隠岐守おきのかみ定國さだくにもまた、その一代限いちだいかぎりにて溜間たまりのまめることがゆるされているであった。

 だがその定國さだくにいまはやはり参勤交代さんきんこうたいにより国許くにもとである伊豫いよ松山まつやま帰国きこくちゅうであり、しかも、おなじく国許くにもと帰国きこくちゅう会津あいづ松平まつだいら肥後守ひごのかみ容頌かたのぶ桑名くわな松平まつだいら忠啓ただひらよう嫡子ちゃくし養嗣子ようししにもめぐまれず、それゆえいま溜間たまりのまには松山まつやま松平まつだいらもの誰一人だれひとりとしていなかった。

 そのよう状況下じょうきょうか忠休ただよし意次おきつぐそく意知おきともの「非道ひどう」をうったえたところで、誰一人だれひとりとして、とまでは言わぬにしても、高松たかまつ松平まつだいら当主とうしゅ頼起よりおき会津あいづ松平まつだいら養嗣子ようしし容詮かたさだのぞいてはだれ忠休ただよしのそのうったえをまともに取上とりあようとはしなかった。

 それでも意次おきつぐ意知おきとも父子ふしとは「等距離とうきょり外交がいこう」をたも頼起よりおき容詮かたさだ意見いけんにより、意知おきともからも「銀本位制ぎんほんいせい」についての説明せつめいをさせるべきと、そこで意知おきとも溜間たまりのま召還しょうかんされることになった。

 そこでも意知おきともは、

理路整然りろせいぜんと…」

 銀本位制ぎんほんいせい利点メリット溜間たまりのまづめ諸侯しょこうにもいたのであった。

「なれどそれでは用金令ようきんれい悪影響あくえいきょうるのではあるまいか?」

 意次おきつぐ意知おきとも父子ふしとは「等距離とうきょり外交がいこう」をたも高松たかまつ松平まつだいら当主とうしゅ頼起よりおきがその懸念けねんくちにした。

 頼起よりおきくちにした「用金令ようきんれい」とは先月せんげつの10月に大坂おおざかおもだった両替商りょうがえしょう11軒にたいしてされた用金令ようきんれいのことであり、

幕府ばくふ献金けんきんしろ」

 ようはそれであった。

 もっとも、それまでの用金令ようきんれいとはすこちがい、11軒のおもだった両替商りょうがえしょう―、それも大名貸だいみょうがしいとな本両替ほんりょうがえたいして、幕府ばくふ債務さいむ保証ほしょうをするので、つまりは保証人ほしょうにんとなるので、大名だいみょうへの貸付かしつけめいじるものであり、しかもそのわりに―、幕府ばくふ保証人ほしょうにんとなるわりに利息りそく一部いちぶ幕府ばくふ上納じょうのうさせるというものであった。

 その11軒の両替商りょうがえしょうが「銀本位制ぎんほんいせい」、つまりは通貨つうか統一とういつ反撥はんぱつして、用金令ようきんれいしたがわないのではあるまいかと、頼起よりおきはそれを懸念けねんしていたのだ。

 成程なるほど頼起よりおき幕府ばくふ政治顧問せいじこもんだけあって至当しとう意見いけんべた。

 意知おきともへのにくしみだけが唯一ゆいいつ行動こうどう原理げんり酒井さかい忠休ただよしとは流石さすがちがう。

讃岐守さぬきのかみさま懸念けねんもっともなれど、そのため米切手こめきってあらためいん制度せいどにて…」

 江戸えど時代じだい大坂おおざか年貢米ねんぐまい貯蔵ちょぞうする大名だいみょう大坂おおざかにおいて米商人こめしょうにん年貢米ねんぐまい販売はんばいしてかねていた。

 具体的ぐたいてきには蔵屋敷くらやしきまえ競争きょうそう入札にゅうさつおこなわれる。

 つまりはもっとたか金額きんがく提示ていじした米商人こめしょうにん年貢米ねんぐまい落札らくさつ出来できるというわけだ。

 そのさい年貢米ねんぐまい落札らくさつした米商人こめしょうにん落札金額らくさつきんがく引換ひきかえにこめを、年貢米ねんぐまい受取うけとるべきところ、しかし実際じっさいには現物げんぶつであるこめ受取うけとらずに、大名だいみょう発行はっこうした米切手こめきって受取うけとる。

 そして米商人こめしょうにんはこの米切手こめきって元手もとでに、大坂おおざかにおけるこめ取引とりひき市場しじょうである堂島米会所どうじまこめかいしょにて、落札金額らくさつきんがくよりも高値たかね米切手こめきって売捌うりさばこうとしのぎけずわけだが、ここで問題もんだい発生はっせいするようになった。

 なん大名だいみょう現物げんぶつである年貢米ねんぐまい蔵屋敷くらやしき貯蔵ちょぞうしていないにもかかわらず、米切手こめきって発行はっこうするケースが散見さんけんされるようになったのだ。

 所謂いわゆる空米くうまい切手きってであり、堂島米会所どうじまこめかいしょにてその空米くうまい切手きってつかまされるケースが多発たはつしていた。

 空米くうまい切手きって最後さいごつかまされたものまさに、

「ババをく…」

 それも同然どうぜんであり、大坂おおざか町奉行まちぶぎょうしょ駈込かけこむことになる。かねだけむしられてこめ受取うけとれないのだから、それも当然とうぜんである。

 大坂おおざか商都しょうとだけあって、江戸えどくらべて、手形てがた発達はったつしていた。

 だがそれだけに、大坂おおざか商人しょうにん手形てがたたいしては非常ひじょうきびしいものがあった。

 つまりは空手形からてがたゆるさぬ風潮ふうちょうがあり、空米くうまい切手きってなどはその空手形からてがた極致きょくちであろう。

 それゆえ大坂おおざか商人しょうにんはこのもっとゆるがた空米くうまい切手きって対策たいさく幕府ばくふもとめた。つまりは、

大名だいみょうには空米くうまい切手きって発行はっこうさせるな…」

 それを幕府ばくふもとめたのであった。

 そこで幕府ばくふもこの空米くうまい切手きって規制きせい乗出のりだし、何度なんど法度はっとすのだが、そのたびかく大名だいみょうは、

あみくぐって…」

 空米くうまい切手きって発行はっこうするのをようとはしなかった。それもこれも大名だいみょう財政難ざいせいなん所為せいであった。

 そのため幕府ばくふはまず、「米切手こめきってあらためいん制度せいど」に乗出のりだした。

 すなわち、今後こんご大名だいみょう米切手こめきって発行はっこうさいには幕府ばくふ呉服ごふく後藤ごとう縫殿助ぬいのすけ検査けんさけさせることとしたのだ。

 具体的ぐたいてきには大名だいみょう蔵屋敷くらやしき米切手こめきって見合みあうだけの年貢米ねんぐまい貯蔵ちょぞうされているかどうか、それを後藤ごとう縫殿助ぬいのすけ検査けんささせ、つまりは蔵屋敷くらやしきなか調しらべさせ、かり米切手こめきって見合みあうだけの年貢米ねんぐまい貯蔵ちょぞうされていない場合ばあいあるいはそもそも、後藤ごとう縫殿助ぬいのすけ検査けんさ受入うけいれない場合ばあい、その大名だいみょうには米切手こめきって発行はっこう禁止きんしすることとした。

 これが米切手こめきってあらためいん制度せいどであり、それも強化きょうかであった。

 米切手こめきってあらためいん制度せいどそのものは去年きょねんの天明2(1782)年より導入どうにゅうされたものだが、しかしそれも当初とうしょ空米くうまい切手きってによる紛争トラブル発生はっせいした場合ばあい後藤ごとう縫殿助ぬいのすけにこれを調停ちょうていさせる、といった程度ていどのものであり、空米くうまい切手きって厳格げんかく制限せいげん禁止きんしするものではなかった。

 大名だいみょうもそれを見越みこして、以後いご財政難ざいせいなん打開だかいためもあって空米くうまい切手きって発行はっこうつづけた。

 これでは大坂おおざか商人あきんどもとめる空米くうまい切手きって制限せいげん禁止きんしには到底とうてい覚束おぼつかないということで、そこで幕府ばくふ今年ことし天明3(1783)年のそれも10月にかる制度せいど強化きょうか乗出のりだしたのだ。

 だが幕府ばくふ同時どうじに―、大名だいみょうにこれ以上いじょう空米くうまい切手きって発行はっこうさせないわりに、大坂おおざか商人あきんど、それも大名貸だいみょうがしをもいとなむ11軒の本両替ほんりょうがえたいしてくだん用金令ようきんれいを、すなわち、財政難ざいせいなんなや大名だいみょうへの貸出かしだし拡充かくじゅうめいじたのであった。

 つまり、「米切手こめきってあらためいん制度せいどの|強化」と「用金令ようきんれい」はセット、バーターの関係かんけいであったのだ。

 だがそこで頼起よりおきがまた、疑問ぎもんていした。

米切手こめきってあらためいん制度せいど…、その強化きょうか用金令ようきんれいついすものにて、その米切手こめきってあらためいん制度せいど強化きょうかもって、そのうえ銀本位制ぎんほんいせいまで…、通貨つうか統一とういつまで商人あきんどに…、大坂おおざか本両替ほんりょうがえませるのは、ちと、むずかしいのではあるまいか?」

 これもまた至当しとう疑問ぎもんであった。

 大坂おおざか商人あきんどもとめる空米くうまい切手きって禁止きんしへの対策たいさくとしての「米切手こめきってあらためいん制度せいど強化きょうか」と、幕府ばくふもとめる大名だいみょう財政難ざいせいなん打開だかいへの対策たいさくとしての「用金令ようきんれい」はセット、バーターの関係かんけいであり、そうである以上いじょう、「米切手こめきってあらためいん制度せいど」のみで、「用金令ようきんれい」にくわえて、銀本位制ぎんほんいせい通貨つうか統一とういつまで大名だいみょうへの貸付かしつけ拡充かくじゅうめいじられた大坂おおざか本両替ほんりょうがえませるのは成程なるほど一見いっけんむずかしいようおもえる。

 あとひとつ、大坂おおざか本両替ほんりょうがえに「お土産みげや」でもたせないかぎりは「用金令ようんきんれい」に、つまりは大名だいみょうへの貸出かしだし拡充かくじゅうおうじないのではあるまいかと、頼起よりおきはそのてん懸念けねんしていたのだ。

「されば大坂おおざか本両替りょうがえにとりまして、空米くうまい切手きって禁止きんし用金令ようきんれい拝受はいじゅしたうえで、銀本位制ぎんほんいせい通貨つうか統一とういつ受容うけいれましてもまだ、おりがるともうすものにて…」

 意知おきともはそう断言だんげんした。

 用金ようきんめいじられたくだんの11軒の大坂おおざか本両替ほんりょうがえ堂島米会所どうじまこめかいしょからも収入しゅうにゅうており、つまりは米相場こめそうば収入源しゅうにゅうげんひととしており、そうである以上いじょう彼等かれら11軒の本両替ほんりょうがえもまた空米くうまい切手きって濫発らんぱつ禁止きんし渇望かつぼうしていたのだ。

 それゆえ空米くうまい切手きって濫発らんぱつ禁止きんししてやれば、用金ようきんれいうえ銀本位制ぎんほんいせい通貨つうか統一とういつめいじられたところで、

かならずや通貨つうか統一とういつをも受容うけいれるにちがいない…」

 その勝算しょうさん意知おきともにはあったのだ。

 さて、頼起よりおき意知おきとも説明せつめい合点がてんがいったようで、「成程なるほどのう…」とおうずると、それ以上いじょう疑問ぎもんくちにすることはなかった。

 頼起よりおきはあくまで、政策論争せいさくろんそう目的もくてきであり、忠休ただよしよう個人こじん攻撃こうげき目的もくてきではなかった。

 それゆえ意知おきとも説明せつめい政策さいさく納得なっとく出来できればそれでかった。

 だが、それで納得なっとく出来できないのは忠休ただよしであり、あっさりと頼起よりおき引下ひきさがったことで忠休ただよし拍子抜ひょうしぬけすると同時どうじに、もっとほか意知おきとも異論いろん反論はんろんはないのかと、頼起よりおきもとより、ほか溜間たまりのまづめ諸侯しょこうをも見渡みわたした。

 意知おきともはそんな忠休ただよし横目よこめに、

ほかなにか、意見いけんがありますれば、うけたまわりまするが…」

 忠休ただよし成代なりかわって、溜間たまりのまづめ諸侯しょこう見渡みわたした。

 だがそれに反応はんのうするものだれ一人ひとりとしていなかった。

 頼起よりおきとはおなじく、意次おきつぐ意知おきとも父子ふしと「等距離とうきょり外交がいこう」をたもつ、会津あいづ松平まつだいら嫡子ちゃくし容詮かたさださえもそうであった。

 いや、忠休ただよしにしても容詮かたさだなれば意知おきともとなえる「銀本位制ぎんほんいせい」に反対はんたいしてくれるのではあるまいかと、そんな期待きたいめた視線しせんおくったものの、しかし、容詮かたさだ忠休ただよし期待きたいこたえることはなかった。

 容詮かたさだいまよう養父ようふ容頌かたのぶ溜間たまりのま不在ふざいおりには頼起よりおきたよることがおおかった。

 その頼起よりおき意知おきともとなえる銀本位制ぎんほんいせい納得なっとくしたうえは、容詮かたさだとしても異論いろんなどあろうはずがなかったのだ。

 無論むろん、それ以外いがい所謂いわゆる、「田沼与党たぬまよとう」の溜間たまりのまづめ諸侯しょこうから異論いろんなどこえようはずもない。

 こうして意知おきともとなえる銀本位制ぎんほんいせい通貨つうか統一とういつたいして、これ以上いじょう意見いけん出尽でつくしたかんがあり、そうとった溜間たまりのまづめ筆頭ひっとう井伊いい直幸なおひでが、

「されば溜間たまりのまとしては山城やましろが、いや、意知おきともとなえし銀本位制ぎんほんいせいとする…」

 そう裁断さいだんくだしたのであった。

 忠休ただよしとしては溜間たまりのまづめ諸侯しょこう味方みかたにつけ、意知おきともとなえる銀本位制ぎんほんいせいつぶそうと画策かくさくするつもりであったが、それがとんだ裏目うらめ格好かっこうである。

 意知おきとも直幸なおひで裁断さいだんたいして平伏へいふくしてこれにおうじているというに、忠休ただよし茫然ぼうぜん自失じしつ平伏へいふくするのもわすれて立上たちあがったかとおもうと、フラフラとした足取あしどりにて一人ひとり溜間たまりのまあとにした。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

徳川家基、不本意!

克全
歴史・時代
幻の11代将軍、徳川家基が生き残っていたらどのような世の中になっていたのか?田沼意次に取立てられて、徳川家基の住む西之丸御納戸役となっていた長谷川平蔵が、田沼意次ではなく徳川家基に取り入って出世しようとしていたらどうなっていたのか?徳川家治が、次々と死んでいく自分の子供の死因に疑念を持っていたらどうなっていたのか、そのような事を考えて創作してみました。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

♡ちょっとエッチなアンソロジー〜舐める編〜♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショートの詰め合わせ♡

♡ちょっとエッチなアンソロジー〜おぽこち編〜♡

x頭金x
現代文学
♡ちょっとHなショートショートの詰め合わせ♡

♡ちょっとエッチなアンソロジー〜アソコ編〜♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとエッチなショートショートつめあわせ♡

♡ちょっとエッチなアンソロジー〜おしっこ編〜♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショートの詰め合わせ♡

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

処理中です...