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通貨統一を志向する意知は勘定方の懐柔に余念がなく、それとは逆に通貨統一に反対する酒井忠休は元・勘定奉行の大目付である松平忠郷と意を通ずる
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昼の九つ半(午後1時頃)、若年寄はいったん、ロッカールームとも言うべき下部屋へと移動する。
この下部屋は老中や側用人、若年寄や寺社奉行、側衆などの幕府の重職者に与えられ、例えば登城した老中はそこで衣服を整え、或いは一服したり、相役と雑談に興じたりする。
それは若年寄にしてもそうであり、殊に若年寄は老中の通用口である納戸口、通称、老中を潜ったところに若年寄専用の下部屋があり、老中専用のそれと向かい合う格好で立並んでいた。
下部屋は独立した空間であり、若年寄の場合、老中と同じく5人分の下部屋が設えられていた。
これは老中と若年寄、両職の最大の定員が5人である為で、今の若年寄の定員が正に5人である。
尤も、それは昨日、意知が正式に若年寄に加わった為であり、それまでは若年寄は4人であり、それ故、一人分の下部屋が余っていた。
いや、老中に至っては、意知の岳父にして首座の松平康福と意知の実父の意次、それに久世大和守廣明の3人しかおらず、二人分の下部屋が余っていた。ちなみに老中格式の水野忠友には側用人としての下部屋が与えられており、老中の下部屋は使ってはいなかった。
ともあれ若年寄の場合、その下部屋にて昼食を摂り、それ故、昼の九つ半(午後1時頃)に昼食を摂るべく、執務室である次御用部屋から下部屋へと移動する。
さて、下部屋だが、各自割当てられているとは言っても、やはり老中の執務室である上御用部屋や若年寄のそれである次御用部屋と同じく、襖や障子で仕切られている訳ではなく、敷居にて仕切られているに過ぎない。
無論、その敷居に襖や障子でも設置すれば立派に仕切りとなるが、
「同僚としての一体感を醸成する為…」
要は友情、絆を育むべく、あえて襖や障子などの仕切りを取払っていたのだ。
仕切りがなければ各々の下部屋にて、外の相役、同僚と雑談にも興じられるからだ。
それは若年寄においては昼食においても当て嵌まる。
仕切りのない状態で昼食を摂れば、それは正しく、
「同じ釜の飯を喰う…」
それであり、友情、絆を深めることに資する。
さて、下部屋だが、殿中に近い場所程、格式が高く、若年寄の場合、筆頭である上席の酒井忠休がその場所にある下部屋を占領していた。
以下、殿中とは正反対の通用口である納戸口、通称、老中口に向かって、太田資愛、加納久堅、米倉昌晴の順で下が割当てられており、意知は一番の新人という訳で、一番、通用口に近い、さしずめ「末席」とも言うべき下部屋が割当てられた。
いや、年次に従うならば、酒井忠休の隣の下部屋には忠休に次ぐ古株の加納久堅が入るべきところ、忠休の「独断」により、己の隣の下部屋には己に忠実な、と言うよりは尻尾を振る太田資愛に割当てたのであった。
その為、久堅の下部屋は本来ならば米倉昌晴に割当てられる筈であった下部屋に入り、そして昌晴もその煽りを受けて本来ならば太田資愛に割当てられる筈であった下部屋に入らざるを得なかった。
いや、一番、割を喰ったのは昌晴と言えよう。忠休の無茶苦茶な差配により、意知の隣、さしずめ、
「ビリから二番目…」
それに位置する下部屋に入るざるを得なくなったからだ。
それでも昌晴は意知当人に対しては感謝していた。
いや、それは昌晴だけではない、久堅や、更には忠休の「コバンザメ」である筈の資愛さえも或いはそうかも知れぬ。
それと言うのも、昼食の質が格段に良くなったからだ。
幕府の表向役人に供される料理は表台所にて表台所役人、それも台所人や小間遣によって調理される訳だが、実際にはとても食えた代物ではなかった。
いや、それで言過ぎならば、とても粗末なものであった。
それと言うのも、台所人や小間遣が食材を着服し、結果、表向役人に供される料理は残った僅かな食材にて調理されたもの、ということになり、表向役人に供される料理が粗末なのは斯かる事情による。
尤も、食材を着服する台所人や小間遣にも「言分」があった。
即ち、台所人や小間遣は元々薄給の身であり、本給だけではとても家族は養えない。己独りの生活を維持するだけで精一杯であろう。
それ故、台所人や小間遣は着服した食材を使って自ら―、個人的に弁当を拵え、それを売り歩いては家計の足しにしていたのだ。
本来、台所人や小間遣のそうした不正に目を光らせる筈の、表台所における、さしずめ「監察役」の表台所改役も斯かる事情は承知していたので、不正を黙認していた。
尤も、そんな台所人や小間遣も、目付に供する料理については予算相当の食材を使っていた。
つまりは目付は質の良い食事が供されていた訳で、これは台所人や小間遣も旗本・御家人全体を監察する目付、それも本丸目付には恐れざるを得なかったからだ。
本丸目付は台所や小間遣にとっては身内とも言うべき表台所改役とは違い、台所人や小間遣に不正があれば、それこそ、
「仮借なく…」
如何なる事情があろうとも、これを取締まるからだ。
台所人や小間遣もそれは良く心得ており、そこで目付に対しては予算相当の食材にて調理をした料理を供することを心掛けていた。
また、今を時めく「顕職」に対しても同様に、予算相当の料理が供され、老中がそうであった。
いや、その老中にしても、意次が老中に加わるまでは、やはり粗末な料理が供されていた。
それが意次が老中に加わると、老中に供される料理の質が、
「格段に…」
向上した。これは意次が将軍・家治からの寵愛が篤いことに由来する。
つまりは意次から将軍・家治へと、台所人や小間遣によって調理される料理の質が悪いと、その様に「告口」されるのを台所人や小間遣が恐れた為である。
そして同じことは若年寄にもそのまま当て嵌まり、意知が若年寄に加わった昨日以前―、10月の晦日までは粗末な料理が供されていたのが、昨日、11月朔日に意知が若年寄に加わると、正に、
「掌を返す…」
格段に質の良い食事が供される様になったのだ。これもやはり、意知から家治へと、「告口」されるのを台所人や小間遣が恐れた為である。
先任の若年寄である米倉昌晴たちが意知に―、意知が若年寄の一人として加わったことに感謝、感激したのは斯かる事情による。
さて、意知たち若年寄が各自の下部屋に腰を落着けると、それを見計らったかの様に、表台所の椀方六尺が膳を運んで来た。
膳からは芳しい香りが湯気となって立上り、出来立ての料理であることが察せられた。
「いや、山城殿が我等の相役となられたことで、料理の質も格段に良くなり申した…」
椀方六尺によって各若年寄の前に膳が並べられると、意知の直ぐ隣の米倉昌晴がまずはそう口火を切った。
すると、加納久堅もそれに同調し、
「真、山城殿には感謝せねばならぬのう…」
久堅はそう「合いの手」を入れた。
久堅も粗末な料理には心底、辟易していたのだ。
それは太田資愛も同様であり、隣の下部屋には仏頂面の酒井忠休が鎮座している為に、忠休の「コバンザメ」、「腰巾着」を自認する資愛としてはあからさまに同調出来ないものの、それでも内心ではやはり料理の質が向上したことを喜んでおり、僅かながらも頷いた。
そんな中、唯一人、酒井忠休は不愉快でならなかった。
成程、確かに料理の質は格段に向上したが、それが、
「意知の御蔭である…」
という現実が忠休を不愉快にさせ、昌晴や久堅による意知への感謝、賛美がまた、
「愈愈もって…」
忠休を不愉快にさせた。
忠休は遂に我慢がならず、立上がると、乱暴な足音を響かせて下部屋をあとにした。
尤も、いつぞやの如く、流石に目の前の膳を蹴り飛ばすことはなく、まだ湯気が立上ぼる膳が如何にも、
「所在無げ…」
そのまま残された。
「石見守様は昼餉をお召上がりにはなられぬのか…」
意知は思わずそう呟いた。
意知の呟きに久堅らは困惑気な表情を浮かべつつも、その通りであるので皆、
「やれやれ…」
といった面持ちで頷いた。
「されば…」
意知はそう口にすると腰を上げ、手付かずの膳だけが残された忠休の下部屋へと足を伸ばし、その膳を両手で抱えると、下部屋を出て、今度は御殿に上がり、勘定所の内坐へと足を運んだ。
御殿勘定所の内坐は勝手方勘定奉行と勘定吟味役の詰所であり、勝手方勘定奉行と勘定吟味役はここ内坐にて昼食を摂る。
その内坐の直ぐ隣にあるのが勘定組頭の詰所である、組頭控所であり、勘定組頭もやはり、その詰所である組頭控所にて昼食を摂る。
意知が内坐に足を運ぶと、ちょうど、勝手方勘定奉行の松本伊豆守秀持と赤井越前守忠皛、それに勘定吟味役が今にも昼飯を食べようとしている頃であった。
そこへ意知が姿を見せたので、彼等は皆、箸を置くと威儀を正そうとしたので、いや、彼等だけではない、隣の組頭控所に詰めていた勘定組頭にしてもそうであったので、意知はそれを制した。
「いや、そのまま…」
意知は彼等にそう告げると、内坐の中心に腰を下ろし、同時に、両手で抱えていた膳を前に置いた。
「あの…、これは?」
松本秀持がその場を代表して意知に尋ねた。
「いや、相役…、いやいや、先輩と申すべきであろうな…、若年寄上席の酒井石見守様が召上がる筈であったこの昼餉、石見守様はどうにも御気分が勝れぬ御様子にて、この昼餉に手を付けられず…、なれどこのままでは昼餉が廃棄されてしまうによって、皆に…、勘定方の貴殿らに召上がって貰おうと思うて、こうして持参した次第…」
意知は一部の事実は改変してそう伝えた。
いや、勘定奉行に供される食事ともなると若年寄に供されるそれと較べると粗末であった。
従五位下諸大夫役の勘定奉行でさえそうなのだから、それより下位の従六位布衣役である勘定吟味役や、果ては無位無官の勘定組頭ともなると、その供される食事の量たるや、さしずめ鳥の餌であり、それ故、勘定吟味役や勘定組頭は別に弁当を持参し、勘定奉行もそうであった。
意知はそんな彼等の為に一人分の膳に過ぎないが、しかし、内容が充実しているその膳を持運んだという訳だ。
「さぁ、貴殿らも…」
意知は組頭控所に詰めていた勘定組頭を手招きして、内坐へと呼寄せ、こうして彼等に膳に箸を付けさせた。
松本秀持や赤井忠皛奉行を筆頭に、彼等勘定方役人は皆、意知の配慮に感謝したものである。
それに対して意知はと言うと、単なる厚意から彼等勘定方役人の為に膳を持運んだ訳ではない。
意知が実現せんと欲する銀本位制について、これを実際に政策として正式に実行に移そうと思えば彼等勘定方役人の協力が欠かせず、そこで意知は今のうちから彼等を手懐けておこうと考えて、こうして膳を持運んだ次第である。
一方、その頃、膳に手を付けなかった酒井忠休はと言うと、新番書前廊下にある前溜にて大目付の松平對馬守忠郷と密談に及んでいた。
いや、それは密談などと、その様な上等なものではなく、意知に対する、さしずめ悪口合戦に興じていたのだ。
折角の膳にも手を付けずに、荒々しい足取りで下部屋をあとにした忠休は執務室である次御用部屋へと戻るべく、その途次、桔梗之間に差掛かったところで、大目付の松平忠郷に出くわしたのだ。
いや、忠郷だけではない、外の大目付は勿論のこと、留守居や町奉行、公事方勘定奉行とも出くわしたのだ。
これは老中による、所謂、「廻り」を終えた為であった。
即ち、昼九つ(正午頃)になると、老中が表向にある各部屋を見廻る、「廻り」なる行事が行なわれ、その「廻り」のコース上には中之間があり、その中之間では留守居や大目付、町奉行や勘定奉行、それに下三奉行とも称される作事・普請・小普請の三奉行に、そして本丸目附が老中を待受け、そして姿を見せた老中に挨拶するのであった。
尤も、その「廻り」も中之間に関して言えば、早々と終わるので、それ故、激務である月番の町奉行や勝手方勘定奉行、それに下三奉行や目附は「廻り」を、中之間を見廻りに来た老中に挨拶を済ませたならば早々と中之間をあとにし、各々の持場へと戻る。
それとは逆に比較的暇な非番月の町奉行や公事方勘定奉行、それに全くの暇、閑職と断じても差支えない留守居や大目付は月番の町奉行らが中之間を退出した後も暫くの間、雑談に興じる。
そしてその雑談も一段落ついたので、そこでそろそろ中之間を退出しようと、留守居たちは中之間を出で、まずはその隣の部屋である桔梗之間へと足を踏み入れ、ちょうどそこに執務室へと戻る途中の酒井忠休が桔梗之間に足を踏み入れたという訳だ。
忠休が彼等と出くわしたのは斯かる事情による。
「これはこれは…、酒井様…」
まずは留守居の高井土佐守直熈が一座を代表して忠休に声をかけると、実に興味深げな視線を寄越してきた。
「何故、一人なのか…」
高井直熈の目はそう問いかけていた。
無論、忠休としてはその様な問に答えてやる、いや、好奇心を満たしてやる義理もなければ義務もなかったので、忠休は直熈に会釈してその場を立去り、次御用部屋へと急いだ。
するとその忠休の背中に声をかける者があり、それこそが外ならぬ大目付の松平忠郷であったのだ。
「僭越ながら…、御気分が優れぬのではござりますまいか?」
忠郷は既に留守居の高井直熈たちが立去ったことを、つまりは己以外には周囲に誰もいないことを忠休に示唆しつつ、控え目にそう尋ねた。
忠休もそこまで配慮を覗かせる忠郷に対しては、直熈に対する様に無視することは躊躇われたので、
「ああ…、ええ…、左様…」
そう応じた。
「されば…、御気分が優れませぬ原因はあの成上がり者…、何処ぞの馬の骨とも知れぬ、盗賊も同然の下賤なる成上がり者めが小倅にござろう?」
松平忠郷は意知を、いや、意知だけではない、意知の父・意次をも侮蔑的にそう表現した。
一方、忠休はと言うと、正しくその通りであり、すると急にこの松平忠郷と己の憤懣を…、意知に対する殺意を共有したいとの思惑に駆られ、そこで忠休は密談にはもってこいの場所である新番所前廊下の前溜へと忠郷を誘ったのである。
そうして忠休は忠郷と向かい合うなり、思いの丈を忠郷にぶつけたのであった。
すると忠郷もそれに理解を示したのであった。
「成程…、國用出納のことを掌りし酒井様を差置いて、國用出納の正に一丁目一番地とも申せる貨幣政策に口を挟むなどとは、僭越極まる話でござるな…」
忠郷はそう応じて、忠休を深く頷かせたのであった。
忠郷はそれから忠休に対して、意次への怨みをぶつけたのだ。
「いや、この對馬も嘗ては勘定奉行の職にあり、なれど田沼主殿が讒言により勘定奉行の職を追われ申した…」
忠郷のその言葉で、忠休も思い出した。
即ち、松平忠郷は安永2(1773)年12月まで公事方勘定奉行の職にあったのだが、それが南鐐二朱銀の鋳造発行に強硬に反対したのが祟って、大目付へと棚上げされた経緯があった。
南鐐二朱銀もまた、通貨の統一を志向する意次が、当時の勝手方勘定奉行であった川井越前守久敬に命じて考案させたものであり、これに松平忠郷が噛付いた次第であった。
「金銀の交換比価はその時々の相場に従うべき…」
それが松平忠郷が意次が志向する通貨の統一に反対した理由であり、それは正に両替商の言分そのものであった。
いや、実際、忠郷はその時点で両替商のさしずめ、「代弁者」と化していた。
忠郷は勘定奉行とは申せ、民政を掌る公事方であり、財政を掌る勝手方と較べると、どうしても勢威に劣り、それは「役得」の額として如実に現れる。
つまりは勝手方の方が公事方よりも多くの「役得」、つまりは「献金」が見込めるのだ。
忠郷はそれが我慢がならず、そこで勝手方の川井久敬が意次の意を受けて、通貨の統一に繋がる新貨幣を考案していると知るや、密かに両替商にこのことを「告口」し、その上で、
「通貨の統一が実現すれば、両替商も喰いっぱぐれ、おまんまの食上げであろう…、だがこの忠郷ならば、勘定奉行として通貨の統一に繋がる新貨幣の鋳造、発行を阻止出来るぞ…」
忠郷は両替商にその様にも囁き、その為の「経費」として両替商から多額の「献金」を巻上げしたのであった。
そして結果はと言うと、両替商にとっては、
「惨澹たる…」
ものであり、巻上げにあった両替商の間では忠郷を「詐欺」で訴えようとする動きもあった程で、このまま忠郷を勘定奉行という顕職に留まらせておく訳にはゆかないと、そこで意次は忠郷を大目付へと棚上げした次第であった。
本来ならば、「お咎小普請」でも良い案件であったが、忠郷のその血筋―、五井松平の流れを汲む、それも主筋である松平主計頭忠一の三男に生まれ、それが深溝松平の流れを汲む松平庄九郎忠全の養嗣子に迎えられたという経緯を持つ忠郷に対して意次は配慮をし、つまりは温情から大目付へと棚上げすることで、事態の収拾を図ったのである。
いや、それ以上に、幕府の最高司法機関たる、さしずめ最高裁判事の顔も併せ持つ公事方勘定奉行の職にある忠郷が訴えられる様なことにでもなれば、洒落では済まない。幕府の権威を大いに疵付けることと相成ろう。
無論、意次は忠郷から、両替商より巻上げした「献金」は吐出させ、足りない分―、既に忠郷が費消した分については意次が私費でこれを補填し、両替商への被害弁済とした。
松平忠郷が公事方勘定奉行から大目付へと「棚上げ」されたのは斯かる事情による。
それ故、本来ならば忠郷は意次に感謝せねばならぬところ、生憎と忠郷はその様な殊勝な御仁ではなくー、いや、だからこそ両替商から「献金」という形で金を巻上げすることも朝飯前であったのであろうが、ともあれ、忠郷は意次に感謝するどころか、大目付へと「棚上げ」した意次を逆恨みする始末であった。
そして両替商から「献金」という形で金を巻上げしているのは酒井忠休にしてもまた、同じであった。
「若年寄上席として、何より國用出納のことを掌る者として、これ以上、通貨の統一に繋がる様な新貨幣の鋳造、発行には踏み切らせない…」
忠休もまた、両替商にそう、「アナウンス」して、両替商からやはりその為の「必要経費」として金を巻上げしていたのだ。
いや、両替商としても、忠郷の一件から、忠休に対して献金することに最初は二の足を踏んだものだが、しかし、忠郷が一介の勘定奉行、それも本来は財政とは無関係の公事方勘定奉行に過ぎなかったのに対して、忠休はと言うと、若年寄の中でも筆頭の上席であると同時に、國用出納のことまで掌る、つまりは財政を担う勝手掛をも兼務しており、その様な忠休の「御機嫌」を損ねては一大事、最悪、
「通貨の統一に邁進するやも…」
両替商はそれを恐れて、そこで「保険」の意味で忠休に対して少なくない額を「掛金」宜しく献金していたのだ。
忠休が若年寄筆頭の上席であり乍、その次席の兼務ポストに当たる勝手掛をも決して手放そうとしないのはその為であり、そして、意知の唱えた通貨の統一、それも銀本位制への移行に反対した理由でもあった。
「いや、今後は情報交換しようではござるまいか…」
忠休は忠郷にそう持掛けたのであった。
それに対して忠郷としても異論はなく、頷いたのであった。
この下部屋は老中や側用人、若年寄や寺社奉行、側衆などの幕府の重職者に与えられ、例えば登城した老中はそこで衣服を整え、或いは一服したり、相役と雑談に興じたりする。
それは若年寄にしてもそうであり、殊に若年寄は老中の通用口である納戸口、通称、老中を潜ったところに若年寄専用の下部屋があり、老中専用のそれと向かい合う格好で立並んでいた。
下部屋は独立した空間であり、若年寄の場合、老中と同じく5人分の下部屋が設えられていた。
これは老中と若年寄、両職の最大の定員が5人である為で、今の若年寄の定員が正に5人である。
尤も、それは昨日、意知が正式に若年寄に加わった為であり、それまでは若年寄は4人であり、それ故、一人分の下部屋が余っていた。
いや、老中に至っては、意知の岳父にして首座の松平康福と意知の実父の意次、それに久世大和守廣明の3人しかおらず、二人分の下部屋が余っていた。ちなみに老中格式の水野忠友には側用人としての下部屋が与えられており、老中の下部屋は使ってはいなかった。
ともあれ若年寄の場合、その下部屋にて昼食を摂り、それ故、昼の九つ半(午後1時頃)に昼食を摂るべく、執務室である次御用部屋から下部屋へと移動する。
さて、下部屋だが、各自割当てられているとは言っても、やはり老中の執務室である上御用部屋や若年寄のそれである次御用部屋と同じく、襖や障子で仕切られている訳ではなく、敷居にて仕切られているに過ぎない。
無論、その敷居に襖や障子でも設置すれば立派に仕切りとなるが、
「同僚としての一体感を醸成する為…」
要は友情、絆を育むべく、あえて襖や障子などの仕切りを取払っていたのだ。
仕切りがなければ各々の下部屋にて、外の相役、同僚と雑談にも興じられるからだ。
それは若年寄においては昼食においても当て嵌まる。
仕切りのない状態で昼食を摂れば、それは正しく、
「同じ釜の飯を喰う…」
それであり、友情、絆を深めることに資する。
さて、下部屋だが、殿中に近い場所程、格式が高く、若年寄の場合、筆頭である上席の酒井忠休がその場所にある下部屋を占領していた。
以下、殿中とは正反対の通用口である納戸口、通称、老中口に向かって、太田資愛、加納久堅、米倉昌晴の順で下が割当てられており、意知は一番の新人という訳で、一番、通用口に近い、さしずめ「末席」とも言うべき下部屋が割当てられた。
いや、年次に従うならば、酒井忠休の隣の下部屋には忠休に次ぐ古株の加納久堅が入るべきところ、忠休の「独断」により、己の隣の下部屋には己に忠実な、と言うよりは尻尾を振る太田資愛に割当てたのであった。
その為、久堅の下部屋は本来ならば米倉昌晴に割当てられる筈であった下部屋に入り、そして昌晴もその煽りを受けて本来ならば太田資愛に割当てられる筈であった下部屋に入らざるを得なかった。
いや、一番、割を喰ったのは昌晴と言えよう。忠休の無茶苦茶な差配により、意知の隣、さしずめ、
「ビリから二番目…」
それに位置する下部屋に入るざるを得なくなったからだ。
それでも昌晴は意知当人に対しては感謝していた。
いや、それは昌晴だけではない、久堅や、更には忠休の「コバンザメ」である筈の資愛さえも或いはそうかも知れぬ。
それと言うのも、昼食の質が格段に良くなったからだ。
幕府の表向役人に供される料理は表台所にて表台所役人、それも台所人や小間遣によって調理される訳だが、実際にはとても食えた代物ではなかった。
いや、それで言過ぎならば、とても粗末なものであった。
それと言うのも、台所人や小間遣が食材を着服し、結果、表向役人に供される料理は残った僅かな食材にて調理されたもの、ということになり、表向役人に供される料理が粗末なのは斯かる事情による。
尤も、食材を着服する台所人や小間遣にも「言分」があった。
即ち、台所人や小間遣は元々薄給の身であり、本給だけではとても家族は養えない。己独りの生活を維持するだけで精一杯であろう。
それ故、台所人や小間遣は着服した食材を使って自ら―、個人的に弁当を拵え、それを売り歩いては家計の足しにしていたのだ。
本来、台所人や小間遣のそうした不正に目を光らせる筈の、表台所における、さしずめ「監察役」の表台所改役も斯かる事情は承知していたので、不正を黙認していた。
尤も、そんな台所人や小間遣も、目付に供する料理については予算相当の食材を使っていた。
つまりは目付は質の良い食事が供されていた訳で、これは台所人や小間遣も旗本・御家人全体を監察する目付、それも本丸目付には恐れざるを得なかったからだ。
本丸目付は台所や小間遣にとっては身内とも言うべき表台所改役とは違い、台所人や小間遣に不正があれば、それこそ、
「仮借なく…」
如何なる事情があろうとも、これを取締まるからだ。
台所人や小間遣もそれは良く心得ており、そこで目付に対しては予算相当の食材にて調理をした料理を供することを心掛けていた。
また、今を時めく「顕職」に対しても同様に、予算相当の料理が供され、老中がそうであった。
いや、その老中にしても、意次が老中に加わるまでは、やはり粗末な料理が供されていた。
それが意次が老中に加わると、老中に供される料理の質が、
「格段に…」
向上した。これは意次が将軍・家治からの寵愛が篤いことに由来する。
つまりは意次から将軍・家治へと、台所人や小間遣によって調理される料理の質が悪いと、その様に「告口」されるのを台所人や小間遣が恐れた為である。
そして同じことは若年寄にもそのまま当て嵌まり、意知が若年寄に加わった昨日以前―、10月の晦日までは粗末な料理が供されていたのが、昨日、11月朔日に意知が若年寄に加わると、正に、
「掌を返す…」
格段に質の良い食事が供される様になったのだ。これもやはり、意知から家治へと、「告口」されるのを台所人や小間遣が恐れた為である。
先任の若年寄である米倉昌晴たちが意知に―、意知が若年寄の一人として加わったことに感謝、感激したのは斯かる事情による。
さて、意知たち若年寄が各自の下部屋に腰を落着けると、それを見計らったかの様に、表台所の椀方六尺が膳を運んで来た。
膳からは芳しい香りが湯気となって立上り、出来立ての料理であることが察せられた。
「いや、山城殿が我等の相役となられたことで、料理の質も格段に良くなり申した…」
椀方六尺によって各若年寄の前に膳が並べられると、意知の直ぐ隣の米倉昌晴がまずはそう口火を切った。
すると、加納久堅もそれに同調し、
「真、山城殿には感謝せねばならぬのう…」
久堅はそう「合いの手」を入れた。
久堅も粗末な料理には心底、辟易していたのだ。
それは太田資愛も同様であり、隣の下部屋には仏頂面の酒井忠休が鎮座している為に、忠休の「コバンザメ」、「腰巾着」を自認する資愛としてはあからさまに同調出来ないものの、それでも内心ではやはり料理の質が向上したことを喜んでおり、僅かながらも頷いた。
そんな中、唯一人、酒井忠休は不愉快でならなかった。
成程、確かに料理の質は格段に向上したが、それが、
「意知の御蔭である…」
という現実が忠休を不愉快にさせ、昌晴や久堅による意知への感謝、賛美がまた、
「愈愈もって…」
忠休を不愉快にさせた。
忠休は遂に我慢がならず、立上がると、乱暴な足音を響かせて下部屋をあとにした。
尤も、いつぞやの如く、流石に目の前の膳を蹴り飛ばすことはなく、まだ湯気が立上ぼる膳が如何にも、
「所在無げ…」
そのまま残された。
「石見守様は昼餉をお召上がりにはなられぬのか…」
意知は思わずそう呟いた。
意知の呟きに久堅らは困惑気な表情を浮かべつつも、その通りであるので皆、
「やれやれ…」
といった面持ちで頷いた。
「されば…」
意知はそう口にすると腰を上げ、手付かずの膳だけが残された忠休の下部屋へと足を伸ばし、その膳を両手で抱えると、下部屋を出て、今度は御殿に上がり、勘定所の内坐へと足を運んだ。
御殿勘定所の内坐は勝手方勘定奉行と勘定吟味役の詰所であり、勝手方勘定奉行と勘定吟味役はここ内坐にて昼食を摂る。
その内坐の直ぐ隣にあるのが勘定組頭の詰所である、組頭控所であり、勘定組頭もやはり、その詰所である組頭控所にて昼食を摂る。
意知が内坐に足を運ぶと、ちょうど、勝手方勘定奉行の松本伊豆守秀持と赤井越前守忠皛、それに勘定吟味役が今にも昼飯を食べようとしている頃であった。
そこへ意知が姿を見せたので、彼等は皆、箸を置くと威儀を正そうとしたので、いや、彼等だけではない、隣の組頭控所に詰めていた勘定組頭にしてもそうであったので、意知はそれを制した。
「いや、そのまま…」
意知は彼等にそう告げると、内坐の中心に腰を下ろし、同時に、両手で抱えていた膳を前に置いた。
「あの…、これは?」
松本秀持がその場を代表して意知に尋ねた。
「いや、相役…、いやいや、先輩と申すべきであろうな…、若年寄上席の酒井石見守様が召上がる筈であったこの昼餉、石見守様はどうにも御気分が勝れぬ御様子にて、この昼餉に手を付けられず…、なれどこのままでは昼餉が廃棄されてしまうによって、皆に…、勘定方の貴殿らに召上がって貰おうと思うて、こうして持参した次第…」
意知は一部の事実は改変してそう伝えた。
いや、勘定奉行に供される食事ともなると若年寄に供されるそれと較べると粗末であった。
従五位下諸大夫役の勘定奉行でさえそうなのだから、それより下位の従六位布衣役である勘定吟味役や、果ては無位無官の勘定組頭ともなると、その供される食事の量たるや、さしずめ鳥の餌であり、それ故、勘定吟味役や勘定組頭は別に弁当を持参し、勘定奉行もそうであった。
意知はそんな彼等の為に一人分の膳に過ぎないが、しかし、内容が充実しているその膳を持運んだという訳だ。
「さぁ、貴殿らも…」
意知は組頭控所に詰めていた勘定組頭を手招きして、内坐へと呼寄せ、こうして彼等に膳に箸を付けさせた。
松本秀持や赤井忠皛奉行を筆頭に、彼等勘定方役人は皆、意知の配慮に感謝したものである。
それに対して意知はと言うと、単なる厚意から彼等勘定方役人の為に膳を持運んだ訳ではない。
意知が実現せんと欲する銀本位制について、これを実際に政策として正式に実行に移そうと思えば彼等勘定方役人の協力が欠かせず、そこで意知は今のうちから彼等を手懐けておこうと考えて、こうして膳を持運んだ次第である。
一方、その頃、膳に手を付けなかった酒井忠休はと言うと、新番書前廊下にある前溜にて大目付の松平對馬守忠郷と密談に及んでいた。
いや、それは密談などと、その様な上等なものではなく、意知に対する、さしずめ悪口合戦に興じていたのだ。
折角の膳にも手を付けずに、荒々しい足取りで下部屋をあとにした忠休は執務室である次御用部屋へと戻るべく、その途次、桔梗之間に差掛かったところで、大目付の松平忠郷に出くわしたのだ。
いや、忠郷だけではない、外の大目付は勿論のこと、留守居や町奉行、公事方勘定奉行とも出くわしたのだ。
これは老中による、所謂、「廻り」を終えた為であった。
即ち、昼九つ(正午頃)になると、老中が表向にある各部屋を見廻る、「廻り」なる行事が行なわれ、その「廻り」のコース上には中之間があり、その中之間では留守居や大目付、町奉行や勘定奉行、それに下三奉行とも称される作事・普請・小普請の三奉行に、そして本丸目附が老中を待受け、そして姿を見せた老中に挨拶するのであった。
尤も、その「廻り」も中之間に関して言えば、早々と終わるので、それ故、激務である月番の町奉行や勝手方勘定奉行、それに下三奉行や目附は「廻り」を、中之間を見廻りに来た老中に挨拶を済ませたならば早々と中之間をあとにし、各々の持場へと戻る。
それとは逆に比較的暇な非番月の町奉行や公事方勘定奉行、それに全くの暇、閑職と断じても差支えない留守居や大目付は月番の町奉行らが中之間を退出した後も暫くの間、雑談に興じる。
そしてその雑談も一段落ついたので、そこでそろそろ中之間を退出しようと、留守居たちは中之間を出で、まずはその隣の部屋である桔梗之間へと足を踏み入れ、ちょうどそこに執務室へと戻る途中の酒井忠休が桔梗之間に足を踏み入れたという訳だ。
忠休が彼等と出くわしたのは斯かる事情による。
「これはこれは…、酒井様…」
まずは留守居の高井土佐守直熈が一座を代表して忠休に声をかけると、実に興味深げな視線を寄越してきた。
「何故、一人なのか…」
高井直熈の目はそう問いかけていた。
無論、忠休としてはその様な問に答えてやる、いや、好奇心を満たしてやる義理もなければ義務もなかったので、忠休は直熈に会釈してその場を立去り、次御用部屋へと急いだ。
するとその忠休の背中に声をかける者があり、それこそが外ならぬ大目付の松平忠郷であったのだ。
「僭越ながら…、御気分が優れぬのではござりますまいか?」
忠郷は既に留守居の高井直熈たちが立去ったことを、つまりは己以外には周囲に誰もいないことを忠休に示唆しつつ、控え目にそう尋ねた。
忠休もそこまで配慮を覗かせる忠郷に対しては、直熈に対する様に無視することは躊躇われたので、
「ああ…、ええ…、左様…」
そう応じた。
「されば…、御気分が優れませぬ原因はあの成上がり者…、何処ぞの馬の骨とも知れぬ、盗賊も同然の下賤なる成上がり者めが小倅にござろう?」
松平忠郷は意知を、いや、意知だけではない、意知の父・意次をも侮蔑的にそう表現した。
一方、忠休はと言うと、正しくその通りであり、すると急にこの松平忠郷と己の憤懣を…、意知に対する殺意を共有したいとの思惑に駆られ、そこで忠休は密談にはもってこいの場所である新番所前廊下の前溜へと忠郷を誘ったのである。
そうして忠休は忠郷と向かい合うなり、思いの丈を忠郷にぶつけたのであった。
すると忠郷もそれに理解を示したのであった。
「成程…、國用出納のことを掌りし酒井様を差置いて、國用出納の正に一丁目一番地とも申せる貨幣政策に口を挟むなどとは、僭越極まる話でござるな…」
忠郷はそう応じて、忠休を深く頷かせたのであった。
忠郷はそれから忠休に対して、意次への怨みをぶつけたのだ。
「いや、この對馬も嘗ては勘定奉行の職にあり、なれど田沼主殿が讒言により勘定奉行の職を追われ申した…」
忠郷のその言葉で、忠休も思い出した。
即ち、松平忠郷は安永2(1773)年12月まで公事方勘定奉行の職にあったのだが、それが南鐐二朱銀の鋳造発行に強硬に反対したのが祟って、大目付へと棚上げされた経緯があった。
南鐐二朱銀もまた、通貨の統一を志向する意次が、当時の勝手方勘定奉行であった川井越前守久敬に命じて考案させたものであり、これに松平忠郷が噛付いた次第であった。
「金銀の交換比価はその時々の相場に従うべき…」
それが松平忠郷が意次が志向する通貨の統一に反対した理由であり、それは正に両替商の言分そのものであった。
いや、実際、忠郷はその時点で両替商のさしずめ、「代弁者」と化していた。
忠郷は勘定奉行とは申せ、民政を掌る公事方であり、財政を掌る勝手方と較べると、どうしても勢威に劣り、それは「役得」の額として如実に現れる。
つまりは勝手方の方が公事方よりも多くの「役得」、つまりは「献金」が見込めるのだ。
忠郷はそれが我慢がならず、そこで勝手方の川井久敬が意次の意を受けて、通貨の統一に繋がる新貨幣を考案していると知るや、密かに両替商にこのことを「告口」し、その上で、
「通貨の統一が実現すれば、両替商も喰いっぱぐれ、おまんまの食上げであろう…、だがこの忠郷ならば、勘定奉行として通貨の統一に繋がる新貨幣の鋳造、発行を阻止出来るぞ…」
忠郷は両替商にその様にも囁き、その為の「経費」として両替商から多額の「献金」を巻上げしたのであった。
そして結果はと言うと、両替商にとっては、
「惨澹たる…」
ものであり、巻上げにあった両替商の間では忠郷を「詐欺」で訴えようとする動きもあった程で、このまま忠郷を勘定奉行という顕職に留まらせておく訳にはゆかないと、そこで意次は忠郷を大目付へと棚上げした次第であった。
本来ならば、「お咎小普請」でも良い案件であったが、忠郷のその血筋―、五井松平の流れを汲む、それも主筋である松平主計頭忠一の三男に生まれ、それが深溝松平の流れを汲む松平庄九郎忠全の養嗣子に迎えられたという経緯を持つ忠郷に対して意次は配慮をし、つまりは温情から大目付へと棚上げすることで、事態の収拾を図ったのである。
いや、それ以上に、幕府の最高司法機関たる、さしずめ最高裁判事の顔も併せ持つ公事方勘定奉行の職にある忠郷が訴えられる様なことにでもなれば、洒落では済まない。幕府の権威を大いに疵付けることと相成ろう。
無論、意次は忠郷から、両替商より巻上げした「献金」は吐出させ、足りない分―、既に忠郷が費消した分については意次が私費でこれを補填し、両替商への被害弁済とした。
松平忠郷が公事方勘定奉行から大目付へと「棚上げ」されたのは斯かる事情による。
それ故、本来ならば忠郷は意次に感謝せねばならぬところ、生憎と忠郷はその様な殊勝な御仁ではなくー、いや、だからこそ両替商から「献金」という形で金を巻上げすることも朝飯前であったのであろうが、ともあれ、忠郷は意次に感謝するどころか、大目付へと「棚上げ」した意次を逆恨みする始末であった。
そして両替商から「献金」という形で金を巻上げしているのは酒井忠休にしてもまた、同じであった。
「若年寄上席として、何より國用出納のことを掌る者として、これ以上、通貨の統一に繋がる様な新貨幣の鋳造、発行には踏み切らせない…」
忠休もまた、両替商にそう、「アナウンス」して、両替商からやはりその為の「必要経費」として金を巻上げしていたのだ。
いや、両替商としても、忠郷の一件から、忠休に対して献金することに最初は二の足を踏んだものだが、しかし、忠郷が一介の勘定奉行、それも本来は財政とは無関係の公事方勘定奉行に過ぎなかったのに対して、忠休はと言うと、若年寄の中でも筆頭の上席であると同時に、國用出納のことまで掌る、つまりは財政を担う勝手掛をも兼務しており、その様な忠休の「御機嫌」を損ねては一大事、最悪、
「通貨の統一に邁進するやも…」
両替商はそれを恐れて、そこで「保険」の意味で忠休に対して少なくない額を「掛金」宜しく献金していたのだ。
忠休が若年寄筆頭の上席であり乍、その次席の兼務ポストに当たる勝手掛をも決して手放そうとしないのはその為であり、そして、意知の唱えた通貨の統一、それも銀本位制への移行に反対した理由でもあった。
「いや、今後は情報交換しようではござるまいか…」
忠休は忠郷にそう持掛けたのであった。
それに対して忠郷としても異論はなく、頷いたのであった。
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