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将軍・家治が奏者番ではあるが、未だ大名ですらない部屋住の身の田沼意知を若年寄へと進ませる真の理由 後篇 ~池原良明殺人事件~ 3
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さて、4月1日から10日までの10日間、清水御門番を勤めていた鈴木數馬とその家臣の為に毎日、食事を届けていたのは本多六三郎であったが、六三郎は歯痛で病臥していた為に、鈴木數馬の家老の鈴木求馬の為に土産の品々を抱えてやることは無理であった。
そこで、鈴木求馬の為に、徒頭の栗栖木右衛門賢帖が土産の品々を抱え、勘定奉行の前田次右衛門が提灯持ちを夫々、勤めたそうな。
御三卿家臣の序列で言えば、勘定奉行の方が徒頭よりも格上であり、本来ならば格下の徒頭である栗栖木右衛門が提灯持ちを勤めるべきところ、徒頭は仮にも番方、武官であるので、その様な栗栖木右衛門には提灯持ちは勤めさせられまいと、重好はそう判断して、そこで格上の、しかし役方、文官である勘定奉行の前田次右衛門に提灯持ちを勤めさせ、栗栖木右衛門には土産の品々を持たせたのであろう。
ともあれこれで、郡奉行の安井甚左衛門を除いた「八役」の「現場不在証明」がほぼ裏付けられ、更には徒頭の一人である栗栖木右衛門のそれまで裏付けられた。
いや、この直後、残る徒頭とそれに小十人頭、更に目附と廣敷用人の「現場不在証明」までもが裏付けられることとなった。
「そうそう…」
村瀬茂兵衛は如何にも何かを思い出したかの様な声を上げたかと思うと、
「もてなしの途中、御目附の京極殿と目賀田殿、御廣敷御用人の伊丹殿と上野殿、それに徒頭の小栗殿と牧野殿、小十人頭の多賀殿と長田殿の挨拶を受け申した…」
実に重大なことを思い出したのであった。
即ち、彼等は皆、その日―、池原良明が殺された4月9日、重好は御簾中、つまりは妻女の貞子をまずは本丸大奥、次いで櫻田御用屋鋪へと差向けたのであった。
その目的だが、まず本丸大奥について言えば、家基の生母、於千穂の方を慰める為であった。
愛息・家基を喪い、傷心の千穂を重好は慰めるべく、そこで妻女の貞子を本丸大奥へと差向け、その際、千穂の為に、貞子には山の様な土産を持たせたのであった。
事実、比喩ではなしに、反物だけでも山と積み上がった。
無論、これだけの土産の品々を貞子が一人で持てる筈もなく、それ以前に天下の御三卿の「御簾中様」に仮令、一つであろうとも荷物など持たせられる筈もなく、当然、「男手」が必要となる。
そこで選ばれたのが廣敷用人と、それに目附や徒頭、小十人頭の面々であった。
廣敷用人とは、御簾中・貞子に附属する男子役人であるので、「男手」に選ばれるのは当然として、目附や徒頭、小十人頭までが狩出されたのは偏に、廣敷用人が二人しかいない為である。
即ち、伊丹六三郎勝平と、それに上野郷右衛門猷景の二人であった。伊丹六三郎はかつて、栗原金四郎と共に目附を勤めていた者であり、栗原金四郎が先年、病歿したのに対して、伊丹六三郎は廣敷用人へと異動していた。
ともあれ、伊丹六三郎と上野郷右衛門の二人の廣敷用人だけでは到底、持ち切れぬ程の土産の量であった。
いや、御三卿の廣敷用人には配下に廣敷用達と廣敷吟味役が置かれており、しかしそれも夫々二人に過ぎず、彼等を加えてもまだ、足りない。
そこで目附と徒頭、それに小十人頭までが「男手」として狩出された次第であった。
無論、それだけの大量の土産の品は全て、千穂の為という訳ではない。
即ち、重好の生母、貞子にとっては姑に当たる安祥院千勢への土産もそこには含まれていたのだ。
千勢は今は日比谷御門外にある櫻田御用屋鋪にて暮らしていた。
櫻田御用屋鋪は凡そ、3800坪もあり、千勢はそこで暮らしていた。
召使もいるとは言え、それでも千勢が暮らすには些か広過ぎ、その広さが千勢に寂しさを覚えさせることも度々であった。
ならば愛息の重好と共に、清水屋敷で暮らせば、その様な寂しい思いをせずに済むであろうが、しかしそれは出来ない相談であった。
それと言うのも、千勢は先代・家重の側室であり、この当時、将軍の側室は将軍が薨じた後は御城大奥を出て、櫻田御用屋鋪にて暮らすのが仕来りであったからだ。
それ故、千勢も家重が薨じた後はここ、櫻田御用屋鋪にて暮らさねばならなかったのだ。
ちなみにこの時―、安永8(1779)年の時点で櫻田御用屋鋪にて暮らしている側室、それも元・側室は千勢一人であり、櫻田御用屋鋪は事実上、千勢の屋敷と化していた。
ともあれ重好はそんな母・千勢の寂しさを少しでも紛らわせようと、そこで、
「折に触れ…」
簾中、妻女の貞子を櫻田御用屋鋪へと遣わして、土産の品々を贈るのを常としていた。
池原良明が刺殺された4月9日もそうであり、簾中・貞子を乗せた駕籠の行列は、土産の山を抱えた彼等、「男手」を随えて、御城へと向かったそうな。
貞子はその土産の山のうち、半分を千穂にプレゼントしたそうな。
そして残り、半分は姑―、夫・重好の実母である安祥院千勢にプレゼントしたそうな。
そうして、貞子一行が帰宅したのはこれまた暮六つ(午後6時頃)を過ぎた頃であったそうな。
村瀬茂兵衛より、
「宮内卿様より聞いた話」
として聞かされた川副佐兵衛は、「成程…」と思ったものである。
それと言うのも、暮六つ(午後6時頃)過ぎに、貞子一行が清水御門を潜って御門内に入った記録が残されていたからだ。
具体的には貞子と、それに貞子の駕籠を担いでいた六尺、そして件の目附と徒頭、小十人頭に、廣敷用人とその配下の廣敷用達と廣敷吟味役、あとは幾人かの女中であり、彼等の名前もまた、清水御門番に備付の台帳に記録として残っていたのだ。
「御簾中様が還御あそばされましたのが、ちょうど饗応が始まりまして間もなくのことで、宮内卿様はそれなればと…、いえ、流石に御簾中様を我等、男衆の目に触れさせる訳には参らず、なれど御簾中様に付随いし男衆…、目附や徒頭、小十人頭や廣敷用人たちなれば、同じ男衆同士、目に触れても問題あるまいと…」
成程、武家の妻女はみだりに他人の、それも男の目に触れさせぬものである。それが天下の御三卿夫人ともなれば尚更であろう。
だが、男の家臣ともなれば話は別である。
それどころか、主が催した宴の最中に帰還したとあらば、むしろ宴に招かれた客に、この場合は村瀬茂兵衛らに挨拶させるのが自然であろう。
ともあれ、村瀬茂兵衛のこの証言はやはり、清水御門の門番所備付の台帳の正しさを、またしても裏付けるものであり、即ち、目附と栗栖木右衛門を除いた徒頭、それに黒川久左衛門を除いた小十人頭と廣敷用人、及びその配下の廣敷用達と廣敷吟味役の「現場不在証明」までが裏付けられてしまった。
ちなみに、徒頭の栗栖木右衛門については鈴木求馬の為に土産持ちを勤めたことで既に、「現場不在証明」が成立していた。
一方、黒川久左衛門は「第一容疑者」であり、小笠原主水はその「共謀共同正犯」の疑いが極めて濃厚であった。
この黒川久左衛門を除いて「現場不在証明」が成立していないのは、「偶々」、休暇を取り、実家へと「宿下」をしていた郡奉行の安井甚左衛門だけであった。
この3人を除けば、清水家においては当主の重好をはじめとして、家老など幹部クラスの「八役」に、目附や徒頭、小十人頭や廣敷用人、果てはその配下の廣敷用達や廣敷吟味役に至るまで、その「現場不在証明」が成立したことになる。
川副佐兵衛は多古藩上屋敷を辞去すると、次いで愛宕下にある伊勢崎藩上屋敷へと足を伸ばした。村瀬茂兵衛と同じく、重好の「もてなし」を受けた家老の速見九兵衛より話を聴く為であった。
ここでもやはり、川副佐兵衛は己の「身分」の後押しがあってか、歓待されたものである。寺社奉行配下の寺社役は余程に、恐ろしい存在らしい、いや、恐ろしいとまでは言わずとも、粗略には扱えない存在の様だ。
ともあれ速見九兵衛もまた、川副佐兵衛の尋問にも嫌な顔を見せずに、その一つ一つに丁寧に応えてくれたものであった。
そして速見九兵衛の供述もまた、村瀬茂兵衛のそれと、
「寸分違わぬ…」
それであり、「一部」を除いた清水家中の「現場不在証明」を愈愈もって完璧にした。
それは最後に訪れた旗本・鈴木數馬に仕える家老の鈴木求馬への尋問にも同じことが言えた。
いや、鈴木求馬への尋問においては、ことに本多六三郎の「現場不在証明」が確実となった。
それと言うのも、六三郎を見舞った3人の家老の中でも、鈴木求馬は一番乗りしたこともあり、まだ、歯科医の安藤正朋による治療が始まる前であった。
いや、正確には、これから安藤正朋による治療が始まろうという時に鈴木求馬は清水屋敷を訪れたので、求馬は本多六三郎と簡単な挨拶を交わしたとのことであった。
その際、本多六三郎とは勿論、言葉も交わしたそうな。
無論、本多六三郎は歯痛―、親知らずで苦しんでいた為に、それ程、多くの言葉を交わした訳ではないものの、それでも鈴木求馬が挨拶を交わし、その上、言葉を交わした相手は間違いなく本多六三郎とのことであった。
これで本多六三郎の「現場不在証明」は兄で家老の本多昌忠共々、鉄壁なものとなった。
さて、川副佐兵衛は鈴木求馬への聴取を最後に、己の職場とも言うべき櫻田御門外、所謂、外櫻田の一等地にある掛川藩上屋敷へと戻った。
時刻は既に、夕の七つ半(午後5時頃)を回ろうとしていた。
既に、川副佐兵衛の主君にして寺社奉行の太田資愛は帰宅しており、資愛はどうやら、川副佐兵衛の探索の結果を心待ちにしていた様子であった。
川副佐兵衛はそんな主君・資愛に対してまずは帰りが遅くなってしまったことを詫びた後、これまでの探索の結果を報告した。
すると太田資愛は先程までの、川副佐兵衛の報告を心待ちにしていた様子が嘘であったかの様に、顔を青褪めさせた。
それも無理からぬことではあった。
何しろ、ことは次期将軍を巡る争いが絡んでいたからだ。
即ち、家基に代わる次期将軍の座を狙う御三卿の一橋治済が、最大の対抗相手である、同じく御三卿の清水重好を蹴落とすべく、そこで重好に家老として仕える本多昌忠に人殺しの罪を被くことを画策、そこで治済の愛妾の富の実妹・山尾の夫である黒川内匠の叔父にして、清水家にて小十人頭を勤める黒川久左衛門と、その黒川久左衛門と意を通ずる、やはり清水家にて用人として勤める小笠原主水を使嗾、将軍・家治の寵愛篤い奥医師・池原良誠の息・良明を刺殺、その罪を本多昌忠に被くべく、昌忠が注文しておいた印籠を良明の右手に握らせた…、川副佐兵衛のその探索通りだとしたら、大問題であった。
いや、大問題などと、そんな生易しい言葉で片付けられるものではない。
完全に資愛の手に余る問題であった。
そこで資愛は翌12日、老中首座・松平右近将監武元を頼る、と言うよりは武元に丸投げすることにした。
それに対して松平武元は外の老中とも諮った上で、この件については4月15日以降に将軍・家治の耳に入れることとし、太田資愛に対しては更に探索を進める様、命じたのであった。
将軍・家治の耳に入れるのを何故、4月15日以降まで引延ばしたのかと言うと、その間の13日は三縁山での法会が結願、最終日を迎え、14日には家基の遺品の形見分け、そして15日にはそれまで延期されていた恒例の月次御礼と、行事が正に、
「目白押し…」
であり、その様な時に将軍・家治の耳に斯かる大事を、池原良明刺殺事件に関する一件を打明けては、家治の負担を増すものとして、そこで家治への報告は15日以降へと延期することとしたのであった。
いや、この間、毎日登城している重好が家治に、この件を打明けないとも限らない。
何にしろ、池原良明刺殺事件について、それが一橋治済が仕組んだことではないかと、事件の探索に当たる寺社奉行・太田資愛配下の寺社役・川副佐兵衛にそう吹込んだのは外ならぬ重好であるからだ。
そこで松平武元が「御機嫌伺」の名目にて清水屋敷を訪れ、池原良明刺殺事件、それも川副佐兵衛の探索結果については15日以降に将軍・家治の耳に入れるので、それまでは家治には黙っていて貰いたい、つまりは重好が家治へと告口るのは控えて貰いたいと、そう願ったのだ。
それに対して重好も元よりそのつもりであったので、武元からの要請に応じた。
結果、家治には4月15日以降、それも一月以上も経過した5月17日になって漸くに伝えられた。
その間にも更に探索は進められ、その結果、新たな事実が判明した。
小検使による現場周辺の聞込みにより、事件発生時と思しき4月9日の暮六つ(午後6時頃)過ぎ、深編笠を被った侍が現場となった愛宕山総門へと通ずる橋より愛宕下廣小路へと、急いで出てくる姿が目撃されていたのだ。
目撃者によるとその侍は京橋築地方面へと駆けて行ったとのことである。
成程、現場より京橋築地方面へは三十六見附を潜らずに行ける。つまりは通行の記録が残らないということだ。
具体的には土橋を渡れば京橋築地方面であり、その方面にある向築地には一橋家の下屋敷があった。
その下屋敷までの間にも三十六見附はなく、通行の記録を残すことなく、一橋屋形へと駈込めるという訳だ。
しかもその侍だが背中の上部には三階菱の紋所があしらわれていたというのである。
三階菱と言えば小笠原の紋所であり、してみると用人の小笠原主水が「実行犯」である可能性が浮上した。
5月17日、この探索結果をも併せて、寺社奉行・太田資愛より将軍・家治へと伝えられた。
家治は外面では平静さを保ってみせたものの、内心では腸が煮え繰り返った。
池原良明の殺しについては探索に当たった寺社役はどうやら、
「一橋治済が次期将軍レースにおいて清水重好を追落とす為…」
そう看做している様だが、そして家治へとそれを報告した老中や、それに陪席していた寺社役の直属の上司に当たる寺社奉行にしてもそうだが、しかし、家治は唯一人、別の可能性に思いを致していた。
「口封じ…」
それであった。池原良明は戸田要人と共に家基の死の真相、それも家基が服ませられたに違いない遅効性の毒物の正体について調べており、そのことを知っているのは当人である池原良明と戸田要人を除いては、将軍・家治と西之丸目付の深谷式部の二人だけであった。
だがそこに一橋治済も加わったならばどうであろうか。
己の罪を池原良明と戸田要人の二人が暴かんとしている…、治済がそう勘付いたならば、必ずやその口を封じようと考える筈であり、そこで治済がまず目を付けたのが池原良明だった、ということやも知れぬ。
つまりは池原良明の口を封ずることで、「相棒」の戸田要人に対しては、
「己も池原良明と同じ運命を辿ることとなるやも知れぬ…」
そんな恐怖心を植付けさせることで、残された戸田要人の探索に制止をかけようとしたのやも知れぬ。
治済は同時に、池原良明の口を封じるに当たって、その罪を清水重好の家老、本多昌忠に着せることまでも考えたのやも知れぬ。
家治はそんな思いを巡らすと、とりあえず治済とそれに重好の二人を召出した。
そこで家治は寺社奉行・太田資愛より伝え聞いた件の池原良明刺殺事件の探索結果について、治済と重好に、実際には治済に語って聞かせたのであった。
それに対して、治済と重好は実に対照的な反応を示したそうな。
即ち、重好が勝誇った様子を覗かせたのに対して、治済はと言えば、顔を青褪めさせたのであった。
正に顔面蒼白というやつで、治済がこの様な姿を、それも無様な姿を覗かせるのは初めてのことではなかろうか。
それでも治済は潔白を主張した。
「天地神明に賭けましても…」
そんな「お定まり」の文句と共に治済は身の潔白を訴えたのであった。
仮に、「黒」だとしても、治済の立場としてはそう主張せざるを得ないであろう。
そこで家治は一つの提案をした。
即ち、一橋屋形の「家宅捜索」であった。
この時―、安永8(1779)年の時点で、一橋家は一橋御門内にある上屋敷の外に、向築地に下屋敷を構えており、この2ヶ所の「家宅捜索」を行うことを家治は提案したのであった。
治済が真、潔白であるならば「家宅捜索」には異論はない筈であった。
治済としても、それで身の証が立てられるのであればと、これに応じた。
その際、治済は一つの「注文」を付けることも忘れなかった。
「清水重好の屋敷にも当然、家宅捜索をかけるのであろう…」
ズバリそれであった。
確かに、一橋家の屋敷にだけ「家宅捜索」をかけておきながら、清水家の屋敷には「家宅捜索」をかけないのでは、
「片手落ち…」
その誹りは免れまい。
治済の真横にいた重好も、治済のこの主張、もとい「注文」は至当であると判断し。
「されば我、屋敷の探索につきましては、南北両町奉行所によって…」
重好はそう提案したのであった。
「我、屋敷…、清水家の屋敷は清水御門内の上屋敷の外に、蠣殻町や芝海手、下戸塚に下屋敷もありますれば…」
清水家の屋敷は一橋家の屋敷の倍以上あり、それ故、清水家の屋敷の「家宅捜索」には一橋家の屋敷の「家宅捜索」についても倍以上の労力を必要とするであろうから、そこで南北両町奉行所の手を借りてはと、重好はそう示唆したのであった。
そこには一橋御門内にある上屋敷の外には、向築地にある下屋敷しか与えられてはいない治済に対する厭味と優越感も混じっていた。少なくとも治済はそう判断した様子で、米神に青筋を走らせたそうな。
ともあれ、一橋家、清水家、両家の屋敷の「家宅捜索」が行われることになり、清水家の屋敷の「家宅捜索」は重好が望んだ通り、南北両町奉行所の與力・同心の手により担われたのに対して、一橋家の屋敷の「家宅捜索」は留守居年寄衆配下の與力・同心の手により担われることになった。
家宅捜索は同時に行うのが「大原則」と言えた。そうしないことには「証拠湮滅」の虞があり得たからだ。
だからこそ、上屋敷・下屋敷合わせて4箇所もの屋敷を構える清水家においては南北両町奉行所の與力・同心が同時に、その4箇所の屋敷に「家宅捜索」に入ったのであった。
それに対して一橋家の場合は上屋敷と下屋敷、合わせて2つしかない。
とは言え、町方は清水家の「家宅捜索」で出払っており、そこで留守居年寄衆配下の與力・同心に白羽の矢が立った次第である。
池原良明刺殺事件の探索は現場が寺社地ということもあり、寺社奉行・太田資愛配下の寺社役・川副佐兵衛の指揮により探索が担われたが、「家宅捜索」ともなると人手が必要である。
つまりは與力・同心の手が欠かせないが、寺社奉行には生憎と、幕臣である與力・同心は配されてはおらず、僅かに家臣、陪臣を寺社役や、或いは小検使などに任じて、例えば寺社地における事件の探索をさせるのが精一杯であり、御三卿の屋敷の「家宅捜索」などは到底、不可能であった。
その様な大掛かりな探索ともなると、どうしても幕臣の身分を持つ與力・同心の力が必要となる。
そこで、與力・同心が配されている役職の中でも最上位に位置する留守居年寄衆、その配下の與力・同心に御三卿である一橋家の「家宅捜索」を担わせることとしたのであった。
これは将軍・家治の親裁によるものであり、御三卿としての治済の「自尊心」、「体面」といったものを重んじてのものである。
この時―、安永8(1779)年の時点で留守居年寄衆は4人おり、家治はそのうち、最古参の依田豊前守政次と新人の石谷淡路守清昌の2人に任せることにした。
即ち、依田政次、石谷清昌、夫々配下の與力・同心に一橋家の「家宅捜索」を命じたのだが、これに治済が「待った」をかけた。
「依田政次は兎も角、石谷清昌は田沼意次に近く…」
治済が言う通り、石谷清昌はさしずめ、「親・田沼」とも呼んでも差支えない程、意次と親しく、それは周知の事実であった。
それと言うのも、石谷清昌は勘定奉行を勤めていた頃には意次のさしずめ「知恵袋」であったからだ。
それだけではない、意次と石谷清昌は縁戚でもあった。
その様な清昌が配下の與力・同心を指揮して「家宅捜索」に当たろうものなら、清昌が意次の意を受けて、配下の與力か同心にでも、「家宅捜索」の名を借りて、己に池原良明刺殺事件の罪を着せるべく、証拠となる様な品を置いて、それを発見する…、つまりは証拠の捏造を企てる危険性があると、治済は異を唱えたのであった。
家基を毒殺しておいて…、あまつさえ、その罪を弟・重好や、或いは意次に着せんと謀った分際で…、家治はその思いが口をついて出ようとし、すんでのところで呑込んだ。
家治は家基の形見分けの時にも見せた様に、平静さを保ちつつ、治済の懸念に応えてやることにした。
即ち、石谷清昌が配下の與力・同心を指揮しての「家宅捜索」には大目付を総動員、全ての大目付に「家宅捜索」が適正に行われているかどうか、監視させることとしたのだ。
治済も家治の提示したこの「解決案」に漸くに納得したらしく、「家宅捜索」を受容れた。
かくして、2つの一橋屋敷のうち、一橋御門内にある上屋敷は依田政次とその配下の與力と同心が、向築地にある下屋敷は石谷清昌とその配下の與力と同心が夫々、「家宅捜索」に入り、その際、石谷清昌指揮による向築地の下屋敷の「家宅捜索」の現場には全ての大目付、即ち、新庄能登守直宥、正木左近将監康恒、松平對馬守忠郷、大屋遠江守明薫、そして伊藤伊勢守忠勸の5人の大目付が「監視役」として派された。
5人の大目付の「監視下」での「家宅捜索」は難航を極めた。
それと言うのも、そのうちの一人、松平忠郷が「家宅捜索」に横から口を出すからであった。
いや、もっと言えば、石谷清昌の指揮に一々、文句をつけるからであった。
これには多分に個人的な感情も含まれていた。
個人的な感情、それは石谷清昌が勘定奉行であった時代に遡る。
石谷清昌が勘定奉行を勤めていた時分、松平忠郷もまた、勘定奉行を勤めていた。
但し、石谷清昌が勝手方であったのに対して、松平忠郷は公事方であった。
このうち、評定所への列席が許されているのは公事方であり、それ故、公事方の方が勝手方よりも格式では上であった。
だがそれはあくまで名目上であり、実質的には財政政策や金融政策を立案する勝手方の方が権力があった。
それは「余得」にも反映され、同じ勘定奉行でも勝手方の方が公事方よりも何かと進物が多かったのだ。
それ故、松平忠郷はどうしても公事方から勝手方へと異動したかった様で、そこで忠郷なりに種々の財政政策や金融政策を立案してはそれを相役、同僚の勘定奉行や、更には直属の上司に当たる老中や時の側用人であった意次にも披瀝してみせ、如何に己が勝手方勘定奉行に相応しいか、自己アピールに余念がなかった。
だが、そんな忠郷の思惑とは裏腹に、忠郷が立案する財政・金融政策はどれも的外れなものばかりであり、老中や勘定奉行から失笑を買う始末であった。
尤も、忠郷はそうとは気付かずに、的外れな財政・金融政策を立案し続けた。
いや、それだけならばまだしも、勝手方勘定奉行が立案する財政・金融政策に嘴を入れる、いや、文句をつけるに至って、勝手方勘定奉行の本来業務に支障が出始めたのだ。
こうなっては勝手方勘定奉行の蒙る被害、迷惑は甚大であり、堪りかねた石谷清昌と今一人、勝手方を勤めていた川井越前守久敬が老中、それも側用人より老中に就任したばかりの意次に泣付いた。
「松平忠郷には公事方勘定奉行としての職務に専念する様、老中から諭して欲しいと懇願したのであった。
そこで意次はとりあえず、外の老中にもこの件を諮ったところ皆、賛成であった。
外の老中にしても松平忠郷のその「自己アピール」もとい、的外れな財政・金融政策を聞かされることに内心ウンザリ、辟易し始めていたところであった。
かくして老中の中でも当時は新人であった意次が松平忠郷への、言うなれば「訓戒役」を務めることになった。
尤も、その場合の忠郷への「訓戒」、
「公事方勘定奉行としての職務に専念する様に…」
それは、忠郷当人にしてみれば、
「お前には勝手方勘定奉行としての能力はない…」
そう引導を渡されたも同然であり、忠郷は羞恥と屈辱に苛まれ、結果、それが昂じて忠郷はまず意次を怨み、次いで勝手方勘定奉行の石谷清昌と川井久敬を怨む様になった。
意次が己に引導を渡したのは偏に、
「石谷清昌と川井久敬が意次めに讒言したからに相違あるまい…」
そう信じて疑わなかったからだ。
松平忠郷の石谷清昌への個人的な感情、もとい怨みは斯様なものであり、忠郷は石谷清昌指揮による「家宅捜索」の「監視役」という立場、職権を利用、いや、濫用してその怨みを晴らさんと、石谷清昌の一挙手一投足に文句をつける始末であった。
尤も、これには相役、同僚の大目付として同じく「監視役」を務めていた大屋明薫が堪りかねたらしく、
「いい加減に致せっ」
明薫は忠郷をそう一喝したのであった。
明薫は忠郷よりも年上ということもあろうが、それ以上に、大目付の中でも道中奉行を兼務していた為に、つまりは筆頭である為に、さしもの忠郷もその様な明薫からの一喝に遭っては黙り込むより外になかった。
大目付筆頭の明薫の「一喝」により、石谷清昌も漸くにまともな指揮が執れる様になった。
その結果、「家宅捜索」が始まってから凡そ、一刻半(約3時間)程が経過した頃であろうか、
池から歓声が上がり、その声で「指揮官」の石谷清昌は元より、「監視役」の大目付も皆、池へと急いだ。
石谷清昌らが池の直ぐ傍まで着いた頃には既に、池から引揚げたものと思しき水浸しの着物と、そして大小二本が地面に置かれていた。
石谷清昌配下の同心の説明によれば、それらの品はやはり池の底に沈んでいたものらしく、重石として着物にも大小二本にも夫々、石が括り付けられていたそうな。
確かに、水浸しのそれらには石が括り付けられていた。
松平忠郷はその同心を懐疑的な目で睨んだ。
「お前が仕込んだものではないのか…」
もっと言えば、石谷清昌の命により、仕込んだものではないのかと、忠郷の目はそう物語っていた。
直ぐ傍にいた大屋明薫もそうと気付くや、咳払いをしてから、
「されば、石谷殿は元より、配下の與力、同心に至るまで、徹底的に、その身を検めたではござるまいか…」
石谷清昌とその配下の與力同心に対して、大目付が自ら、徹底的な身体検査をしたことを、忠郷に思い出させたのであった。
それは勿論、「家宅捜索」に入る前の話であり、それ故、與力や同心が外部から証拠品を持込み、それを池の中に沈めるなどと、その様な芸当は不可能、つまりは「家宅捜索」は正当に行われたという訳だ。
忠郷もそれは分かっていたが、どうしても石谷清昌への悪感情、要は「憎悪」が先に立ち、「家宅捜索」の正当性を素直には認められなかった。
だが、そうは言っても如何に忠郷とて、「家宅捜索」の正当性は認めざるを得ず、そうであれば同心が池の底より発見した着物と大小二本は「家宅捜索」に入る前に重石を括り付けて池の底に沈められたと考えるより外になかった。
ともあれ同心はそれら品と重石とを結んでいた紐を切ると、まずは着物から検めた。
着物は羽織袴であり、こちらも綺麗に畳まれて紐でしっかりと括り付けられていたので、同心はその紐も解いてみせた。
それから同心はまず、羽織から検メタ。するとその羽織には三階菱があしらわれており、続いて検めた着物と袴には茶色に変色した染みが所々に散らばっていた。どう見ても血痕であった。
その後で同心は「メイン」とも言うべき大小二本を検めた。
大小二本にしてもしっかりと紐で括り付けられており、同心はその紐を解くとまず、太刀を検めた。
太刀に異常はなく、同心は鞘に納めると、続いて脇差を検めた。
その結果、思った通りであった。
刃にはしっかりと血曇りがあった。池の水に浸かっていたとは言え、しっかりと鞘に納められており、その上、太刀と結ばれていた紐が脇差の鍔と鞘の部分に亘って頑丈に巻かれていた御蔭で、水の浸入を防いだものと思われる。
その為、幾分かは変色しているとは言え、刃には血曇りがしっかりと残されていた様だ。
ここ、向築地の下屋敷における「家宅捜索」には一橋家用人の齋藤齋宮忠明と守山八十郎房覺の二人が立会っていた。
「これは一体…」
どう説明するつもりか…、石谷清昌はやはり、池の傍に駈寄った「立会人」たる齋藤齋宮と守山八十郎の二人にそう水を向けた。
それに対して、齋藤齋宮にしろ、守山八十郎にしろ、まともな申開きも出来ない様子で、ただ頭を振るばかりであった。
だが、「犯行時」に下手人が身に付けていた着衣と兇器であることは疑いがない様に思われた。それは松平忠郷さえも認めざるを得なかった。
そこで石谷清昌は配下の與力・同心に命じて、更に邸内を正に、
「隈なく…」
捜索させた。無論、下手人の発見の為であり、松平忠郷にも異論を挟む余地はなかった。
だが下手人は、即ち、小笠原主水、若しくは黒川久左衛門の姿はどこにもなかった。
するともしや、小笠原主水、黒川久左衛門の何れか、或いはその両者は一橋御門内にある上屋敷にて匿われているのかと、石谷清昌はそう考え、配下の同心を一橋御門内にある上屋敷へと走らせた。
「池の底に沈められていた、犯行時の着衣と兇器が見つかった…」
それを上屋敷の「家宅捜索」の指揮を執る依田政次に伝える為であり、更に、
「しかし下手人と思しき小笠原主水、或いは黒川久左衛門の姿はなく、このうちの何れか、若しくは両人は上屋敷にて匿われているやも知れず、そこで上屋敷の捜索を更に徹底して欲しい…」
それも併せて伝えさせる為であった。
こうして石谷清昌よりの言伝が依田政次へと伝えられ、依田政次は仰天した。
依田政次も「家宅捜索」に入る前は、「半信半疑」であった。
「よもや、御三卿ともあろう御方が、同じ御三卿を追落とすべく、殺しに関与するものであろうか…」
依田政次にしろ、石谷清昌にしろ、将軍・家治より直々に、一橋屋形の「家宅捜索を命じられた折、その「趣旨」についても家治より打明けられていた。即ち、
「次期将軍の座を巡って、一橋治済がその最右翼に位置する余が弟である重好を追落とし、己が重好に代わって次期将軍となるべく、そこで重好配下の用人、小笠原主水と小十人頭の黒川久左衛門の両者と密かに通じ、余が重く用いる奥医の池原良誠が息、良明を殺め、その罪を家老の…、やはり重好配下の家老の本多昌忠に被くことで、重好には昌忠の主君として、その管理責任を問わせんとしている…、さすれば重好は次期将軍の座より滑り落ちるは必定と…」
一橋治済がその様な姦計を巡らして小笠原主水か、或いは黒川久左衛門に命じて池原良明を殺させたのだと、依田政次と石谷清昌の二人は家治よりそう聞かされた訳だが、それでも当初は政次は、清昌にしてもそうであったろうが、半信半疑であった。
だが、こうして一橋家の下屋敷より、その池のそこから、「犯行時」に小笠原主水か、或いは黒川久左衛門が身につけていたと思しき着衣と、その上、兇器までが発見されたとなると、俄然、家治の話に信憑性が増してきた。
そこで依田政次も更に「家宅捜索」を徹底することにした。
依田政次もそれまでは、上屋敷の中でも「大奥」には手を付けてはいなかった。
だがこうなった以上は「大奥」にも手を付けざるを得ない。
尤も、これには「大奥」の男子役人、その中でも責任者である廣敷用人の平田重右衛門政好と平井逸平俊相の二人が依田政次の前に立塞がった。
「廣敷向は兎も角、御方様や若君様が、お暮らしあそばされている御殿向にまで足を踏み入れる所存かっ」
それが平田重右衛門と平井逸平の抗議の趣旨であった。
御方様こと、治済の愛妾の富と、その間にもうけた若君様こと一橋家の嫡子の豊千代の名を出せば、さしもの依田政次も引下がるとでも思ったのであろう。
だが生憎と、御城大奥からも、その秋霜烈日ぶりが恐れられている依田政次にはその様な「こけおどし」は通用しなかった。
平田重右衛門と平井逸平の抗議、もとい「こけおどし」に対しても依田政次は、
「顔色一つ変えず…」
如何にもと、平然と応えてみせたかと思うと、配下の與力・同心を随えて、自ら先頭を切って大奥へと、それも富や豊千代の暮らす御殿向へと踏み込んだ。
御殿向には富やその倅の豊千代の外にも、富と同じく治済の愛妾の喜志と、治済と喜志との間に生まれた三人の男児、力之助に雅之助、そして慶之丞が暮らしていた。
喜志が治済との間にもうけた、これら三人の男児はまだ幼児であり、ことに慶之丞は先月の4月に生まれたばかりであった。
ともあれ、御殿向には三人の幼児が寝かしつけられている為に、さしもの依田政次も幼児には配慮を見せた。
即ち、極力、音を立てずに、且つ迅速に「捜索」を行う様、小声でもって與力・同心にそう命じたのであった。
一方、富や喜志にしてみれば、依田政次とその配下の與力・同心は突然の闖入者も同然であったが、その「家宅捜索」を拒む様な真似はせず、夫々我子に寄添い、女中がまたそれを…、夫々の母子を取囲んで守っていた。
さて、御殿向の「捜索」だが、小笠原主水と黒川久左衛門の発見にこそ至らなかったものの、その代わり、二人のものと思しき着物が数着、押入から発見された。
そのうち一着の羽織には丸に揚羽蝶の紋所があしらわれており、黒川久左衛門の羽織だと推察された。
丸に揚羽蝶の紋所は黒川家の家紋であるからだ。
してみると、着物の束の中でも唯一の袴も黒川久左衛門のそれだと思われた。
外にも着物が数着、発見されたことから、どうやら小笠原主水と黒川久左衛門の二人はここ、御殿向にて暮らしていたものと思われる。
政次がそんなことを考えていると、直ぐ傍で「捜索」を見守っていた廣敷用人の平田重右衛門と平井逸平にも伝わったのであろう、一切、与り知らないことだと言わんばかりに、大仰に頭を振って見せた。
尤も、平田重右衛門や平井逸平の立場からすれば、そう応えるより外になく、それ故、説得力には欠けていた。
問題は小笠原主水と黒川久左衛門の二人が今、どこにいるかであった。
ここ御殿向に生活の痕跡は見受けられたが、その姿はどこにも見当たらない。
「捜索を予期して、何処かへ逃げた…」
依田政次はまず、その可能性を考えた。
だが、「家宅捜索」は将軍・家治の親裁により、しかもその日、今日のうちに始められたものである。
しかも家治は治済に「証拠湮滅」をさせない為にも、家老共々、御城に留まらせていた。
勿論、公平を期して、重好も家老共々、御城に留まらせた。
そうであれば、小笠原主水にしろ、黒川久左衛門にしろ、事前に「家宅捜索」を予期するのは不可能というものであろう。
将軍・家治が当屋敷の「家宅捜索」に踏切るつもりらしい…、それを小笠原主水や黒川久左衛門に伝える者が存しないからだ。
そこで依田政次はもう一つの可能性を思い浮かべた。
「既に…、手遅れか…」
二人とも既に、口を塞がれた…、可能性としては、こちらの方が高い様に思われた。
治済にとって小笠原主水と黒川久左衛門の存在は正に爆弾そのものであった。
黒川久左衛門が袋物問屋の西川伊兵衛方より、清水家老の本多昌忠の名代として、昌忠が注文しておいた印籠と根付を受取った4月4日、久左衛門はその印籠と根付を手にしたまま逐電、清水屋敷より出奔し、小笠原主水もまた、この日に逐電した。
その小笠原主水、或いは黒川久左衛門の何れかが4月9日に池原良明を刺殺したとすれば、4月4日から9日にかけての6日間、小笠原主水と黒川久左衛門の二人はここ、一橋家の上屋敷の、それも大奥の御殿向にて暮らしていた、いや、息を潜めていたと考えられる。
そして9日、暮六つ(午後6時頃)以降に池原良明を刺殺した小笠原主水、或いは黒川久左衛門が…、目撃者の証言、及び、下屋敷の池の底から引揚げられた羽織を考え合わせれば小笠原主水であろうか、その主水は着物に血が付いていることに気づいて、そこで向築地にある一橋家の下屋敷に駈込み、そこで羽織とそれに血の付いた着物や袴を脱捨て、真新しい着物に着替えると、今まで身に着けていた羽織袴一式を重石を括り付けて池の底に沈め、同様に大小二本も、とりわけ血曇りで汚れた脇差をも重石を括り付けて、やはり池の底に沈めた…。
それから小笠原主水は一橋御門内にある上屋敷へと立ち戻り、しかしそこで、治済によって…、治済の命を受けた一橋家臣によって口を塞がれた…。
無論、主水と共に一橋大奥にて息を潜めていた黒川久左衛門もまた、「用済み」としてやはり口を塞がれた…。
依田政次はそこまで考えると、即座に配下の與力を一橋御門の門番所へと走らせた。
仮に、小笠原主水が池原良明を刺殺した後、まずは向築地にある一橋家の下屋敷において血で汚れた着物を脱捨てて真新しい着物に着替え、その上、脱捨てた着物と更には大小二本を池に沈めた後、ここ一橋御門内にある一橋家の上屋敷に立ち戻ったとしたならば、当然、暮六つ(午後6時頃)は優に過ぎていたであろう。何しろ、池原良明を刺殺した時点で既に暮六つ(午後6時頃)は過ぎていたからだ。
だとするならば、暮六つ(午後6時頃)過ぎに、ここ一橋家の上屋敷に辿り着くには、一橋御門の門番所にて、
「住所、氏名、年齢、職業」
それを台帳に記入してからでないと、絶対に御門を潜って門内へと入ることは出来ない。
そこで依田政次は與力を一橋御門の門番所へと走らせたのであった。門番所に備付の台帳に、それも本年4月9日の暮六つ(午後6時頃)以降の条に、小笠原主水の名前が、いや、若しかしたら黒川久左衛門の名前があるかどうか、それを確かめさせる為であった。
だが結果は「収穫なし」であった。小笠原主水の名前は元より、黒川久左衛門の名前さえも見つけることは出来なかった。
依田政次は與力からその結果を聞かされて、「やはりな…」と思った。
それは外でもない、仮に池原良明を刺殺した小笠原主水が向築地にある一橋家の下屋敷に駈込んで来たならば、そこで一橋家臣の手によってその口を塞がれたと思われるからだ。
小笠原主水は「用済み」となれば、その時点で口を塞ぐ…、それが「既定路線」だったとするならば、みすみす小笠原主水を上屋敷へと立ち戻らせる筈はないからだ。
それよりも下屋敷にてその口を塞ぐのが「合理的」というものであろう。
若しかしたら、黒川久左衛門も小笠原主水が池原良明を刺殺した頃、時を同じくしてその口を塞がれたのやも知れぬ。
依田政次はそう思い至ったが、それでも念の為、全ての與力10人を総動員、御城の内郭御門の中でも、雉子橋、神田橋、常盤橋、呉服橋、鍛冶橋、数寄屋橋、日比谷、そして馬場先と和田倉、竹橋の各御門の門番所を潜って一橋上屋敷へと辿り着く方法もあるからだ。
ちなみに馬場先と和田倉に関しては、櫻田御門を潜って御門内へと、西之御丸下に出て、そこから更に馬場先、若しくは和田倉の何れかの御門を潜って御門外に出て一橋上屋敷へと辿り着く方法であり、一方、竹橋御門に関しては、田安、若しくは清水の何れかの御門を潜って御門内に入り、そこから竹橋御門を潜って御門外へと出て一橋上屋敷へと辿り着く方法であった。
だがその結果もまた、「収穫なし」であり、これで「仕事」を終えた小笠原主水が一橋御門内にある一橋上屋敷に辿り着いた可能性はほぼゼロと言えた。
「4月9日…、その日、向築地にある御当家の下屋敷に詰めていた者は?」
依田政次は誰とはなしに、そう尋ねた。
この問いの意味するところは明らかであり、傍にいた一橋家臣を青褪めさせた。
ともあれその問いには家老の田沼能登守意致が応えた。ちなみに相役、もう一人の家老の水谷但馬守勝富は今日は治済と共に登城した為に、そのまま御城にて足止を喰らっていた。
「されば…、その日なれば多くの者が下屋敷に…」
意致もまた顔を青褪めさせながらそう応えた。
「多くの者と申されるか?」
依田政次は意致の今の答の意味を量りかね、そう問返した。
すると意致もそうと察したのであろう、「左様…」と応えると、4月1日より19日までの間、下屋敷に家臣が、
「代わる代わる…」
出入りしていたことを打明けたのであった。
つまりはこういうことである。
4月19日、治済の愛妾の喜志が男児を出産した。
これが慶之丞であるが、一橋家の、それも上屋敷に詰めていた家臣は喜志が出産を間近に控えた4月1日より、
「産穢…」
それを避ける名目で下屋敷へと入浸っていたそうな。
いや、「産穢」とはそもそも生まれた子の父母、この場合には慶之丞の父母である治済と喜志に降りかかる「穢」のことであり、家臣は関係ない。
それに仮に、本当に「産穢」を恐れているならば、上屋敷に詰めている家臣一同、下屋敷へと引き移り、上屋敷にて喜志が「お産」を終えるのを待たなければならない。
それを「代わる代わる」とは要するに、「産穢云々」はただの名目…、主君・治済や何かと小うるさい存在の家老の目を盗んで、ことに小うるさい家老、それも水谷勝富の目を盗んで、勝富の目の届かない下屋敷で、
「ドンちゃん騒ぎ…」
それに興じたいだけであった。
だが、上屋敷に詰める家臣が皆、一斉に下屋敷へと引き移り、「ドンちゃん騒ぎ」を演じては、主君・治済に仕えるべき者がいなくなってしまい、流石に支障が出るということで、そこで上屋敷に詰める家臣は、
「代わる代わる…」
下屋敷へと移る、つまりは「ドンちゃん騒ぎ」を演じたということらしかった。
この事態、いや醜態を治済は黙認した様だが、家老の水谷勝富は見逃さず、下屋敷に行きたい者は、つまりは「ドンちゃん騒ぎ」を演じたければ、その旨、記録に留めることを提案したのだ。
こうして4月1日より3日までの3日間程度は家臣も勝富の「言付」を守り、記帳してから下屋敷へと出向いたそうだが、しかしそれも3日までの話であり、4日以降は誰も勝富のその「言付」を守らずに、勝手に下屋敷へと出向く様になったそうな。
それも暮六つ(午後6時頃)前に上屋敷を脱出して下屋敷へと足を伸ばしては、翌朝の明六つ(午後6時頃)過ぎに、まだ酒の匂を漂わせながら下屋敷を出て上屋敷へ戻るという醜態ぶりであったそうな。
この事態、醜態にはさしもの治済や、それに家老の意致も眉を顰めたそうで、それ以上に同じく家老の勝富は激怒した。
いや、これで以前の勝富であれば、一橋家の家臣たちも、その威厳に皆、自然と屈従していた。
だが、2月に次期将軍・家基が薨じてからというもの、勝富はめっきりと老け込んでしまった。所謂、
「老境の影…」
それが差込む様になってしまい、以前ならば決して見逃すことがなかった僅かな非違も、家基に先立たれてからというもの、激怒するのが精一杯であり、一橋家臣もそんな勝富を侮る様になった。
勝富が提唱した件の記帳についても「三日法度」で終わってしまったこともそれを如実に物語っていた。
ともあれ、斯かる次第で4月9日、向築地にある下屋敷に誰が詰めていたかなど、正確には分からないとのことであった。
「なれど…、御当家には目附もおられよう…」
御三卿の屋形には家中を取締まる者として、家老と共に目附も配されてはいた。
しかし、一橋家においては、その目附もまた、率先して「ドンちゃん騒ぎ」に興じていたそうな。
意致からそう聞かされた依田政次はその余りの醜態ぶり、乱脈ぶりに開いた口が塞がらなかった。
尤も、それで引下がる訳にもゆかない。
依田政次は意致も含めて、ここにいる一橋家臣の全員から聴取をすることにした。
池原良明が刺殺された4月9日、この上屋敷に詰めていた家臣のうち、誰が向築地の下屋敷へと足を伸ばしたのか、それを解明かす為である。ちなみに普段、下屋敷には用人の齋藤齋宮と守山八十郎の二人の用人と僅かばかりの小者が詰めているだけであった。
そして與力や同心による聴取の結果、女中までもが酌婦として下屋敷へと連出されていたことが判明した。
意致も当然、そんことは把握していた筈だが、余りの醜態さに、流石に先程の依田政次の聴取にも言い出しかねたものと見える。
その女中を酌婦として下屋敷へと連出すことを提案したのが、小十人頭の松平源左衛門康備であることも、一橋家臣一同への聴取の結果、判明した。
松平源左衛門は、どうせドンちゃん騒ぎに興じるならばと、女中を酌婦にすることを思い付いたそうで、そこで廣敷用人の平田重右衛門と平井逸平の二人を口説いたそうな。
女中は大奥にて仕える身であり、その女中を酌婦として連出そうと思えば、大奥の許可が必要であった。
だが、松平源左衛門は御三卿屋形においては、表向役人である小十人頭の役職にあり、それ故、男子禁制の大奥に足を踏み入れることは許されておらず、その様な松平源左衛門が大奥の許を得ようと思えば畢竟、廣敷用人を頼るしかない。
御三卿屋形における大奥を事実上、取仕切る男子役人は廣敷用人であり、この廣敷用人ならば松平源左衛門でも接触可能だからだ。
松平源左衛門が廣敷用人の平田重右衛門と平井逸平の二人を頼ったのは斯かる事情による。
一方、平田重右衛門にしろ、平井逸平にしろ、男である以上、松平源左衛門の気持ちは痛い程に理解出来たので、そこでこの旨、大奥の女主とも言うべき富に取次いだのであった。
治済の愛妾の喜志が出産を間近に控えているこの時期に、女中を酌婦として下屋敷に連出そうとは、
「何たる不謹慎…」
富からは、そう誹られても致し方なかったが、案に相違して富はこれを快諾した。
富と喜志は共に、治済の愛妾であり、謂わば「対抗関係」にあった。
いや、富が治済との間にもうけた豊千代が既に、一橋家の嫡子と定められていたので、富は治済の側室とは申せ、実質的には正室も同然の身であった。
そうであれば、一介の側室に過ぎない喜志など、富にしてみれば最早、
「物の数ではない…」
つまりは「対抗関係」ですらなかったと言えよう。
それでも富は喜志に好感情は抱いてはおらず、その喜志が「お産」で苦しんでいるこの時期に、
「女中を酌婦として下屋敷へと連出させるのも面白いかも…」
そんな意地悪、と言うよりは悪戯心から松平源左衛門の申出を許したのであろう。
いや、松平源左衛門にしても富ならば、喜志への意趣から許してくれるに違いないと、そんな打算があっやに相違ない。
かくして松平源左衛門の思惑通り、女中を酌婦として下屋敷へと連出すことに成功した次第であった。
その松平源左衛門だが、「ツメ」を怠らなかった。
それと言うのも、松平源左衛門は己の提案が許されたことを廣敷用人の平田重右衛門と平井逸平より伝えられるや、今度は主君・治済に対して、
「目附と徒頭を女中の護衛役として附けて欲しい…」
そう提案したのであった。
酒に呑まれた家臣が酌婦の女中に良からぬ「悪さ」をしないとも限らず、そこで酒の席において目附が正に、
「御目附役」
として目を光らせて貰えれば、女中に「悪さ」をする様な不心得者が出ることもあるまいと、松平源左衛門は治済にそう提案したのであった。
同時に、上屋敷と下屋敷を女中が往来することになるので、徒頭に女中を護って貰えれば、
「これ程、心強いものはない…」
ということで、そこで松平源左衛門は目附と共に徒頭にも、ドンちゃん騒ぎが興じられる間はずっと、それこそ、
「毎日…」
女中に付いて貰いたいと、治済にそう求めたそうな。
無論、それはあくまで「口実」に過ぎず、
「目附と徒頭には毎日、ドンちゃん騒ぎに興じさせてやろう…」
その思惑が見え隠れしていた。
そうすることで、目附と徒頭に恩を売ることが出来るからだ。
御三卿屋形における目附は家老と共に、家臣の行動、正に「一挙手一投足」に目を光らせるのを職掌としていた。
その目附を無視して、ドンちゃん騒ぎに興じようとすれば、必ずや目附から横槍が入るに違いなかった。
「俺たち目附を尻目に、手前らだけ楽しみやがって…」
要はそれであり、そこで目附にも、
「酒の席での御目附役…」
その名目で、毎日のドンちゃん騒ぎに興じさせてやれば、横槍を入れられるのを完全に防げるというものである。
一方、徒頭にも目附と同様、毎日のドンちゃん騒ぎに興じさせてやろうとしたのは、こちらは完全に、
「松平源左衛門の個人的事情によるものであろう…」
というのが聴取に応じた、源左衛門を除く家臣の一致した見方であった。
即ち、小十人頭である松平源左衛門は行く行く、一段階上の徒頭への昇進を狙っており、しかし、それには先任の徒頭の推薦が大いに「モノ」を言う。
事実、去年―、安永7(1778)年にそれまで徒頭であった松本藤七郎正兊が目附へと一段階、昇格を果たした折に、その後任として一介の小姓であった岩本喜内正信が抜擢されたのは偏に、松本藤七郎の推挙の「賜物」と言えた。
松本藤七郎は徒頭より目附へと昇進する際して、治済に対して、己の後任に小姓の岩本喜内を推挙したのであった。
無論、そこには松本藤七郎なりの「打算」も勿論あったに違いない。
打算、それは外でもない、岩本喜内は治済の愛妾、富の叔父に当たり、富が治済との間にもうけた、一橋家の嫡子・豊千代にとっては大叔父に当たる。
それ故、その岩本喜内を己の後任として徒頭に推挙してやれば、治済の覚えも目出度くなると、松本藤七郎はそんな「打算」を働かせたに相違あるまい。
だが、松本藤七郎の「打算」、思惑は兎も角として、藤七郎の推挙がなければ、岩本喜内が藤七郎の後任として徒頭に昇進を果たすことは叶わなかったであろう。
仮に松本藤七郎が己の後任として岩本喜内ではなく、誰か外の者を徒頭に推挙したならば、如何に治済とて岩本喜内を小十人頭へと昇進させることは無理であったろう。
斯かる次第で、小十人頭より徒頭へと一段階昇格を狙う松平源左衛門としては、今のうちから機会を見つけては徒頭に恩を売っておくことが必要…、それが衆目の一致するところであり、
「徒頭をも目附と共に、毎日のドンちゃん騒ぎに興じさせてやろう…」
それも、その延長線上にあったのであろう。
ともあれ、松平源左衛門のこの「提案」に対して、治済もそうと察すると即座にこれを許した。
何しろ、松平源左衛門のこの「提案」、ことに、
「目附を毎日のドンちゃん騒ぎに興じさせる…」
それは治済をも満足させるものであったからだ。
治済の様な御三卿にとって目障りな存在と言えば、一に家老ならば二に目附であった。
御三卿目附は家老と同様、御三卿家臣の「一挙手一投足に目を光らせると共に、当の御三卿のそれにも目を光らせていたからだ。
ことに熊谷五郎右衛門正武と遠山市郎左衛門則親がそうであった。
一橋屋形においては目附は4人おり、そのうち最古参は熊谷五郎右衛門であった。
熊谷五郎右衛門は何と、最下級の廣敷添番からの「叩上げ」であった。
熊谷五郎右衛門は先代、一橋家の始祖である宗尹によって取立てられ、最下級の廣敷添番より、「八役」に次ぐ幹部クラスの目附へと昇進を果たし、今に至る。
熊谷五郎右衛門が今の目附へと辿り着いたのは宝暦12(1762)年のことであり、先代・宗尹がまだ存命の折、つまりは宗尹によって取立てられた訳で、さしもの治済もこの熊谷五郎右衛門には遠慮勝ちであり、熊谷五郎右衛門もそうと察して治済には遠慮するところがなく、その「一挙手一投足」に目を光らせた。
治済としては、その様な不遜なる「前世紀の遺物」など、「馘首」にしたいのが本音であったが、
「熊谷五郎右衛門を重く用いる様に…」
それが宗尹の遺言であり、そうである以上、如何に治済と雖も、先代のこの遺言を無視する訳には参らず、治済としては大変不本意ではあるが、今でも熊谷五郎右衛門をそのまま、目附になしおいていた。
その様な次第で、治済は熊谷五郎右衛門が大変目障りであり、そのことはこれまた、
「周知の事実」
というやつであり、そこで松平源左衛門は一時の間ではあるが、熊谷五郎右衛門を治済より遠ざけるべく、下屋敷にて繰広げられる毎日の「ドンちゃん騒ぎ」に、
「御目附役として目附を…」
などと言出したに相違あるまい。そうすれば畢竟、目附の一人である熊谷五郎右衛門も下屋敷へと足を運ばなければならないからだ。
そして同じことは遠山市郎左衛門にも言えた。
市郎左衛門は父・遠山市郎右衛門則敏と共に、親子二代に亘って一橋屋形に仕えていた。
いや、父・市郎右衛門こそ先代・宗尹の引立てにより小姓頭へと昇進を果たしたが、その子・市郎左衛門は治済の引立てにより目附へと昇進を果たした。
にもかかわらず、遠山市郎左衛門は元来の生真面目な性分により、目附としての職務を全うしようとした。
つまりは家臣のみならず、御三卿たる治済の「一挙手一投足」にまで目を光らせていた。
治済としては遠山市郎左衛門には今少し、「柔軟性」を持って貰いたいところであったが、性分である以上は致し方ない。
それでも遠山市郎左衛門は熊谷五郎右衛門とは違い、流石に治済を侮る様なところはなく、「一挙手一投足」に目を光らせるとは言っても、どこか遠慮があり、その点、治済にとっては唯一の救いと言えようか。
それでも鬱陶しいのもまた、紛れもない事実であったので、やはり一時でも己から遠ざけてくれるのならば有難い。
それ故、治済としては目附の中でも熊谷五郎右衛門と遠山市郎左衛門の二人だけ、下屋敷へと遠ざけてくれれば、つまりは「ドンちゃん騒ぎ」に参加させてくれればそれで良かった。
だが、それでは外の目附、松本藤七郎とそれに村山藤九郎有成が黙ってはいないだろう。
「何故、俺達はドンちゃん騒ぎに参加出来ないのか」
目附の中でも松本藤七郎と村山藤九郎ならば必ずやそう考えるに違いない。
松本藤七郎と村山藤九郎は熊谷五郎右衛門と遠山市郎左衛門とは正に、正反対であり、目附としての職務を全うすることよりも、目附を「踏み台」に、更なるキャリアアップ、昇進を果たすことしか頭になく、それ故、治済に取入った。治済としては真に御し易く、それ故、松本藤七郎と村山藤九郎の二人ならば別段、遠ざける必要性はなかった。
だが、松本藤七郎と村山藤九郎の立場からすれば、ドンちゃん騒ぎに参加出来ないことになり、臍を曲げないとも限らない。
それならば目附全員を「ドンちゃん騒ぎ」に興じさせるのが無難であろう。
尤も、熊谷五郎右衛門と遠山市郎左衛門の二人は生真面目に、
「酒の席で酒に呑まれた家臣が酌婦を務める女中に悪さをしない様、目を光らせる…」
その「建前」を忠実に果たそうとするに違いなく、そこで治済は松本藤七郎と村山藤九郎の二人に対して、
「熊谷と遠山には建前を貫かせぬ様、よくよく言含めて貰いたい…」
そう「因果」を含ませたのであった。
つまりは熊谷五郎右衛門と遠山市郎左衛門の二人にも、ドンちゃん騒ぎに興じる様に言含めて貰いたいという訳だ。
それに対して松本藤七郎にしろ村山藤九郎にしろ、元よりそのつもりであったので、治済のこの「因果」を即座に呑込むや、それを裏付けるかの様に、
「女中の案内役」
その名目で、松平源左衛門にも毎日のドンちゃん騒ぎに参加させることを提案したのであった。
これは女中を酌婦として連出すことに成功したことに対する、その上、目附にもその「おこぼれ」に与らせたことに対する、
「ご褒美」
それも、松本藤七郎と村山藤九郎からの「ご褒美」であった。
治済としても元より、松平源左衛門には何らかの形で報いるつもりでいたらしく、松本藤七郎と村山藤九郎によるこの提案、もとい「ご褒美」を即座に諒承したそうな。
かくして4月1日から19日までの間、下屋敷へと毎日足を運んだのは、酌婦を務める女中を除いては、「酒席の御目附役」を務める熊谷五郎右衛門、遠山市郎左衛門、松本藤七郎、村山藤九郎の4人の目附に、「女中の護衛役」を務める徒頭である岩本喜内と、それに喜内と同じく徒頭の堀内半三郎氏昉と久野三郎兵衛芳矩の3人、都合8人であった。
ちなみに「女中の案内役」という余禄、役得を得た小十人頭の松平源左衛門だが、源左衛門の外にも、中津河武右衛門光和と守能平三郎正明という二人の小十人頭がおり、そこで松平源左衛門は、
「毎日交代で…」
案内役を務めることにした。つまりは3人が毎日交代でドンちゃん騒ぎに興じることにした訳だ。
いや、松平源左衛門は治済が鬱陶しく思う目附の熊谷五郎右衛門と遠山市郎左衛門の二人を一時とは言え、治済から遠ざけることにしたその「功」により、毎日、「案内役」を務めることも、つまりはドンちゃん騒ぎに興じることも可能であった。松平源左衛門がそれを望むのであれば、治済としてはそれを許すつもりでいた。
それどころか、治済としては、小十人頭の中でも松平源左衛門だけに「案内役」を務めることを命じても良いとさえ思っていたそうな。
それを松平源左衛門は拝辞し、
「相役の中津河武右衛門と守能平三郎と毎日交代にて、案内役を務め度…」
治済にそう願ったそうな。このことは中津河武右衛門と守能平三郎の聴取により判明した事実であった。
小十人頭より徒頭、更には徒頭より目附、或いは「八役」へと昇進を望む松平源左衛門の様な者にとっては上役からの支持は元より、相役、同僚からの支持もまた同じぐらい、いや、それ以上に重要と言えた。
それ故、松平源左衛門は、
「毎日、ドンちゃん騒ぎに興じられる…」
その余禄、役得を独り占めせずに、相役、同僚と分け合うことにしたのだろう、というのが源左衛門の相役たる小十人頭の中津河武右衛門と守能平三郎の一致した見立であった。
さて、その外にも「毎日交代」で、ドンちゃん騒ぎに興じた家臣がいた。
例えば用人ならば、下屋敷に常駐する齋藤齋宮と守山八十郎を除いては、永井與右衛門定之と横尾六右衛門昭平、大林與兵衛親用の3人が交代でドンちゃん騒ぎに興じた。
ちなみに今一人、用人の杉山嘉兵衛美成は、
「喜志たっての願により…」
大奥にて「足止め」を喰らい、ドンちゃん騒ぎに興じることは出来なかった。
杉山嘉兵衛は本来、大奥には立入れない身であったが、富と、それに喜志の両人からの寵愛が篤く、それ故、用人の中では唯一人、大奥に立入ることが許されていた。
喜志は出産を間近に控え、杉山嘉兵衛に傍にいてくれることを強く願ったそうで、杉山嘉兵衛もそんな喜志のたっての願いを無下には出来ず、喜志が出産までの間、ずっとその傍に付添っていたそうな。
それ故、杉山嘉兵衛はドンちゃん騒ぎに興じることは出来なかったのだ。
さてそこで4月9日だが、この日は用人の中では大林與兵衛がドンちゃん騒ぎに興じる番だったそうな。
一方、旗奉行と長柄奉行は共に一人しかおらず、そこで本来ならば旗奉行と長柄奉行が交代でドンちゃん騒ぎに興じるべきところ、旗奉行の平岡喜三郎茂高と長柄奉行の土山甚十郎紀時の二人は共に、年齢を理由にドンちゃん騒ぎに興じるのを辞退した。
この時―、安永8(1779)年の時点で土山甚十郎は数えで65、平岡喜三郎に至っては数えで82であった。成程、その齢ではドンちゃん騒ぎに興じるのも辛いものがあろう。
また、物頭については末吉三十郎利房、猪飼茂左衛門正義、飯田八左衛門補好、山本武右衛門正凭の4人が毎日交代でドンちゃん騒ぎに興じ、4月9日は末吉三十郎の「番」であった。
それから郡奉行と勘定奉行は共に定員が2人ということで、郡奉行については稲守三左衛門榮正と木村源助敬忠が、勘定奉行については小倉小兵衛雅周と寒河宇八郎常員が夫々、毎日交代でドンちゃん騒ぎに興じ、4月9日にドンちゃん騒ぎに興じた郡奉行は稲守三左衛門、勘定奉行は小倉小兵衛であった。
そして、4月9日に向築地にある下屋敷でドンちゃん騒ぎに興じた者であると、確と判明したのはここまでであった。
それ以外の、例えば小姓や近習番、或いは納戸頭や賄頭、台所頭といった者達については皆、
「記憶にございません…」
証人喚問ばりの台詞を揃えた。
また、酌婦を務めた女中にしてもそうであった。
これで水谷勝富の指図に随い、きちんと台帳に記録としてその名前を書留めさせていたならばと、依田政次はそう思わずにはいられなかった。
ともあれ、これで池原良明が刺殺された4月9日、向築地にある一橋家の下屋敷に一橋家臣が参集したことは明らかとなった。
そこで依田政次は先程、下屋敷の池の底から下手人もとい小笠原主水のものと思われる羽織袴一式と、更に兇器と思しき脇差までが見つかったことを己に伝えに来た石谷清昌からの使者に対して、小笠原主水と黒川久左衛門の二人がここ、一橋上屋敷の大奥にて匿われていた蓋然性が高いこと、更に4月9日には下屋敷に、
「ドンちゃん騒ぎに興じる…」
との名目にて向築地の下屋敷に一橋家臣が参集した事実と共に、
「下屋敷の捜索を更に徹底する様に…、ことに地面を掘返して…」
そう石谷清昌への言伝を託したのであった。
仮に、「一仕事」終えた小笠原主水が件の下屋敷に駈込んで来たならば、いや、逃込んで来たならば、そしてそこに一橋家の家臣が参集していたならば、小笠原主水をそのまま、一橋御門内にある上屋敷へと向かうのを、
「みすみす…」
見逃す筈がなかった。その場にて口を塞いで、埋めたに違いない。
一方、石谷清昌も同じことを考えてはいた。
だが、仮にも御三卿の下屋敷の地面を掘返すとなると、相当の覚悟を必要とする。
如何に将軍・家治の命により、「家宅捜索」を行ているとは申せ、地面まで掘返して何も出てこなければ、その時点で石谷清昌の「役人人生」は終わると言っても過言ではない。
それ故、さしもの石谷清昌も地面を掘返すことには躊躇していたのだが、そこへ上屋敷の「家宅捜索」に当たっていた依田政次からの言伝を聞いて、それで石谷清昌も腹を括った。
「地面を全て掘返すのだっ!」
石谷清昌は配下の與力・同心にそう命じたのであった。
家宅捜索が適正に執行されているかどうか、それを見届けるべく派された大目付にしても、石谷清昌のこの命の意味するところは直ぐに分かった。
だがそれに異論を唱える大目付は誰一人としていなかった。今まで捜索の邪魔ばかりしてきた松平忠郷でさえもそうであった。
その結果、遺体が発見されたのだ。
そこで、鈴木求馬の為に、徒頭の栗栖木右衛門賢帖が土産の品々を抱え、勘定奉行の前田次右衛門が提灯持ちを夫々、勤めたそうな。
御三卿家臣の序列で言えば、勘定奉行の方が徒頭よりも格上であり、本来ならば格下の徒頭である栗栖木右衛門が提灯持ちを勤めるべきところ、徒頭は仮にも番方、武官であるので、その様な栗栖木右衛門には提灯持ちは勤めさせられまいと、重好はそう判断して、そこで格上の、しかし役方、文官である勘定奉行の前田次右衛門に提灯持ちを勤めさせ、栗栖木右衛門には土産の品々を持たせたのであろう。
ともあれこれで、郡奉行の安井甚左衛門を除いた「八役」の「現場不在証明」がほぼ裏付けられ、更には徒頭の一人である栗栖木右衛門のそれまで裏付けられた。
いや、この直後、残る徒頭とそれに小十人頭、更に目附と廣敷用人の「現場不在証明」までもが裏付けられることとなった。
「そうそう…」
村瀬茂兵衛は如何にも何かを思い出したかの様な声を上げたかと思うと、
「もてなしの途中、御目附の京極殿と目賀田殿、御廣敷御用人の伊丹殿と上野殿、それに徒頭の小栗殿と牧野殿、小十人頭の多賀殿と長田殿の挨拶を受け申した…」
実に重大なことを思い出したのであった。
即ち、彼等は皆、その日―、池原良明が殺された4月9日、重好は御簾中、つまりは妻女の貞子をまずは本丸大奥、次いで櫻田御用屋鋪へと差向けたのであった。
その目的だが、まず本丸大奥について言えば、家基の生母、於千穂の方を慰める為であった。
愛息・家基を喪い、傷心の千穂を重好は慰めるべく、そこで妻女の貞子を本丸大奥へと差向け、その際、千穂の為に、貞子には山の様な土産を持たせたのであった。
事実、比喩ではなしに、反物だけでも山と積み上がった。
無論、これだけの土産の品々を貞子が一人で持てる筈もなく、それ以前に天下の御三卿の「御簾中様」に仮令、一つであろうとも荷物など持たせられる筈もなく、当然、「男手」が必要となる。
そこで選ばれたのが廣敷用人と、それに目附や徒頭、小十人頭の面々であった。
廣敷用人とは、御簾中・貞子に附属する男子役人であるので、「男手」に選ばれるのは当然として、目附や徒頭、小十人頭までが狩出されたのは偏に、廣敷用人が二人しかいない為である。
即ち、伊丹六三郎勝平と、それに上野郷右衛門猷景の二人であった。伊丹六三郎はかつて、栗原金四郎と共に目附を勤めていた者であり、栗原金四郎が先年、病歿したのに対して、伊丹六三郎は廣敷用人へと異動していた。
ともあれ、伊丹六三郎と上野郷右衛門の二人の廣敷用人だけでは到底、持ち切れぬ程の土産の量であった。
いや、御三卿の廣敷用人には配下に廣敷用達と廣敷吟味役が置かれており、しかしそれも夫々二人に過ぎず、彼等を加えてもまだ、足りない。
そこで目附と徒頭、それに小十人頭までが「男手」として狩出された次第であった。
無論、それだけの大量の土産の品は全て、千穂の為という訳ではない。
即ち、重好の生母、貞子にとっては姑に当たる安祥院千勢への土産もそこには含まれていたのだ。
千勢は今は日比谷御門外にある櫻田御用屋鋪にて暮らしていた。
櫻田御用屋鋪は凡そ、3800坪もあり、千勢はそこで暮らしていた。
召使もいるとは言え、それでも千勢が暮らすには些か広過ぎ、その広さが千勢に寂しさを覚えさせることも度々であった。
ならば愛息の重好と共に、清水屋敷で暮らせば、その様な寂しい思いをせずに済むであろうが、しかしそれは出来ない相談であった。
それと言うのも、千勢は先代・家重の側室であり、この当時、将軍の側室は将軍が薨じた後は御城大奥を出て、櫻田御用屋鋪にて暮らすのが仕来りであったからだ。
それ故、千勢も家重が薨じた後はここ、櫻田御用屋鋪にて暮らさねばならなかったのだ。
ちなみにこの時―、安永8(1779)年の時点で櫻田御用屋鋪にて暮らしている側室、それも元・側室は千勢一人であり、櫻田御用屋鋪は事実上、千勢の屋敷と化していた。
ともあれ重好はそんな母・千勢の寂しさを少しでも紛らわせようと、そこで、
「折に触れ…」
簾中、妻女の貞子を櫻田御用屋鋪へと遣わして、土産の品々を贈るのを常としていた。
池原良明が刺殺された4月9日もそうであり、簾中・貞子を乗せた駕籠の行列は、土産の山を抱えた彼等、「男手」を随えて、御城へと向かったそうな。
貞子はその土産の山のうち、半分を千穂にプレゼントしたそうな。
そして残り、半分は姑―、夫・重好の実母である安祥院千勢にプレゼントしたそうな。
そうして、貞子一行が帰宅したのはこれまた暮六つ(午後6時頃)を過ぎた頃であったそうな。
村瀬茂兵衛より、
「宮内卿様より聞いた話」
として聞かされた川副佐兵衛は、「成程…」と思ったものである。
それと言うのも、暮六つ(午後6時頃)過ぎに、貞子一行が清水御門を潜って御門内に入った記録が残されていたからだ。
具体的には貞子と、それに貞子の駕籠を担いでいた六尺、そして件の目附と徒頭、小十人頭に、廣敷用人とその配下の廣敷用達と廣敷吟味役、あとは幾人かの女中であり、彼等の名前もまた、清水御門番に備付の台帳に記録として残っていたのだ。
「御簾中様が還御あそばされましたのが、ちょうど饗応が始まりまして間もなくのことで、宮内卿様はそれなればと…、いえ、流石に御簾中様を我等、男衆の目に触れさせる訳には参らず、なれど御簾中様に付随いし男衆…、目附や徒頭、小十人頭や廣敷用人たちなれば、同じ男衆同士、目に触れても問題あるまいと…」
成程、武家の妻女はみだりに他人の、それも男の目に触れさせぬものである。それが天下の御三卿夫人ともなれば尚更であろう。
だが、男の家臣ともなれば話は別である。
それどころか、主が催した宴の最中に帰還したとあらば、むしろ宴に招かれた客に、この場合は村瀬茂兵衛らに挨拶させるのが自然であろう。
ともあれ、村瀬茂兵衛のこの証言はやはり、清水御門の門番所備付の台帳の正しさを、またしても裏付けるものであり、即ち、目附と栗栖木右衛門を除いた徒頭、それに黒川久左衛門を除いた小十人頭と廣敷用人、及びその配下の廣敷用達と廣敷吟味役の「現場不在証明」までが裏付けられてしまった。
ちなみに、徒頭の栗栖木右衛門については鈴木求馬の為に土産持ちを勤めたことで既に、「現場不在証明」が成立していた。
一方、黒川久左衛門は「第一容疑者」であり、小笠原主水はその「共謀共同正犯」の疑いが極めて濃厚であった。
この黒川久左衛門を除いて「現場不在証明」が成立していないのは、「偶々」、休暇を取り、実家へと「宿下」をしていた郡奉行の安井甚左衛門だけであった。
この3人を除けば、清水家においては当主の重好をはじめとして、家老など幹部クラスの「八役」に、目附や徒頭、小十人頭や廣敷用人、果てはその配下の廣敷用達や廣敷吟味役に至るまで、その「現場不在証明」が成立したことになる。
川副佐兵衛は多古藩上屋敷を辞去すると、次いで愛宕下にある伊勢崎藩上屋敷へと足を伸ばした。村瀬茂兵衛と同じく、重好の「もてなし」を受けた家老の速見九兵衛より話を聴く為であった。
ここでもやはり、川副佐兵衛は己の「身分」の後押しがあってか、歓待されたものである。寺社奉行配下の寺社役は余程に、恐ろしい存在らしい、いや、恐ろしいとまでは言わずとも、粗略には扱えない存在の様だ。
ともあれ速見九兵衛もまた、川副佐兵衛の尋問にも嫌な顔を見せずに、その一つ一つに丁寧に応えてくれたものであった。
そして速見九兵衛の供述もまた、村瀬茂兵衛のそれと、
「寸分違わぬ…」
それであり、「一部」を除いた清水家中の「現場不在証明」を愈愈もって完璧にした。
それは最後に訪れた旗本・鈴木數馬に仕える家老の鈴木求馬への尋問にも同じことが言えた。
いや、鈴木求馬への尋問においては、ことに本多六三郎の「現場不在証明」が確実となった。
それと言うのも、六三郎を見舞った3人の家老の中でも、鈴木求馬は一番乗りしたこともあり、まだ、歯科医の安藤正朋による治療が始まる前であった。
いや、正確には、これから安藤正朋による治療が始まろうという時に鈴木求馬は清水屋敷を訪れたので、求馬は本多六三郎と簡単な挨拶を交わしたとのことであった。
その際、本多六三郎とは勿論、言葉も交わしたそうな。
無論、本多六三郎は歯痛―、親知らずで苦しんでいた為に、それ程、多くの言葉を交わした訳ではないものの、それでも鈴木求馬が挨拶を交わし、その上、言葉を交わした相手は間違いなく本多六三郎とのことであった。
これで本多六三郎の「現場不在証明」は兄で家老の本多昌忠共々、鉄壁なものとなった。
さて、川副佐兵衛は鈴木求馬への聴取を最後に、己の職場とも言うべき櫻田御門外、所謂、外櫻田の一等地にある掛川藩上屋敷へと戻った。
時刻は既に、夕の七つ半(午後5時頃)を回ろうとしていた。
既に、川副佐兵衛の主君にして寺社奉行の太田資愛は帰宅しており、資愛はどうやら、川副佐兵衛の探索の結果を心待ちにしていた様子であった。
川副佐兵衛はそんな主君・資愛に対してまずは帰りが遅くなってしまったことを詫びた後、これまでの探索の結果を報告した。
すると太田資愛は先程までの、川副佐兵衛の報告を心待ちにしていた様子が嘘であったかの様に、顔を青褪めさせた。
それも無理からぬことではあった。
何しろ、ことは次期将軍を巡る争いが絡んでいたからだ。
即ち、家基に代わる次期将軍の座を狙う御三卿の一橋治済が、最大の対抗相手である、同じく御三卿の清水重好を蹴落とすべく、そこで重好に家老として仕える本多昌忠に人殺しの罪を被くことを画策、そこで治済の愛妾の富の実妹・山尾の夫である黒川内匠の叔父にして、清水家にて小十人頭を勤める黒川久左衛門と、その黒川久左衛門と意を通ずる、やはり清水家にて用人として勤める小笠原主水を使嗾、将軍・家治の寵愛篤い奥医師・池原良誠の息・良明を刺殺、その罪を本多昌忠に被くべく、昌忠が注文しておいた印籠を良明の右手に握らせた…、川副佐兵衛のその探索通りだとしたら、大問題であった。
いや、大問題などと、そんな生易しい言葉で片付けられるものではない。
完全に資愛の手に余る問題であった。
そこで資愛は翌12日、老中首座・松平右近将監武元を頼る、と言うよりは武元に丸投げすることにした。
それに対して松平武元は外の老中とも諮った上で、この件については4月15日以降に将軍・家治の耳に入れることとし、太田資愛に対しては更に探索を進める様、命じたのであった。
将軍・家治の耳に入れるのを何故、4月15日以降まで引延ばしたのかと言うと、その間の13日は三縁山での法会が結願、最終日を迎え、14日には家基の遺品の形見分け、そして15日にはそれまで延期されていた恒例の月次御礼と、行事が正に、
「目白押し…」
であり、その様な時に将軍・家治の耳に斯かる大事を、池原良明刺殺事件に関する一件を打明けては、家治の負担を増すものとして、そこで家治への報告は15日以降へと延期することとしたのであった。
いや、この間、毎日登城している重好が家治に、この件を打明けないとも限らない。
何にしろ、池原良明刺殺事件について、それが一橋治済が仕組んだことではないかと、事件の探索に当たる寺社奉行・太田資愛配下の寺社役・川副佐兵衛にそう吹込んだのは外ならぬ重好であるからだ。
そこで松平武元が「御機嫌伺」の名目にて清水屋敷を訪れ、池原良明刺殺事件、それも川副佐兵衛の探索結果については15日以降に将軍・家治の耳に入れるので、それまでは家治には黙っていて貰いたい、つまりは重好が家治へと告口るのは控えて貰いたいと、そう願ったのだ。
それに対して重好も元よりそのつもりであったので、武元からの要請に応じた。
結果、家治には4月15日以降、それも一月以上も経過した5月17日になって漸くに伝えられた。
その間にも更に探索は進められ、その結果、新たな事実が判明した。
小検使による現場周辺の聞込みにより、事件発生時と思しき4月9日の暮六つ(午後6時頃)過ぎ、深編笠を被った侍が現場となった愛宕山総門へと通ずる橋より愛宕下廣小路へと、急いで出てくる姿が目撃されていたのだ。
目撃者によるとその侍は京橋築地方面へと駆けて行ったとのことである。
成程、現場より京橋築地方面へは三十六見附を潜らずに行ける。つまりは通行の記録が残らないということだ。
具体的には土橋を渡れば京橋築地方面であり、その方面にある向築地には一橋家の下屋敷があった。
その下屋敷までの間にも三十六見附はなく、通行の記録を残すことなく、一橋屋形へと駈込めるという訳だ。
しかもその侍だが背中の上部には三階菱の紋所があしらわれていたというのである。
三階菱と言えば小笠原の紋所であり、してみると用人の小笠原主水が「実行犯」である可能性が浮上した。
5月17日、この探索結果をも併せて、寺社奉行・太田資愛より将軍・家治へと伝えられた。
家治は外面では平静さを保ってみせたものの、内心では腸が煮え繰り返った。
池原良明の殺しについては探索に当たった寺社役はどうやら、
「一橋治済が次期将軍レースにおいて清水重好を追落とす為…」
そう看做している様だが、そして家治へとそれを報告した老中や、それに陪席していた寺社役の直属の上司に当たる寺社奉行にしてもそうだが、しかし、家治は唯一人、別の可能性に思いを致していた。
「口封じ…」
それであった。池原良明は戸田要人と共に家基の死の真相、それも家基が服ませられたに違いない遅効性の毒物の正体について調べており、そのことを知っているのは当人である池原良明と戸田要人を除いては、将軍・家治と西之丸目付の深谷式部の二人だけであった。
だがそこに一橋治済も加わったならばどうであろうか。
己の罪を池原良明と戸田要人の二人が暴かんとしている…、治済がそう勘付いたならば、必ずやその口を封じようと考える筈であり、そこで治済がまず目を付けたのが池原良明だった、ということやも知れぬ。
つまりは池原良明の口を封ずることで、「相棒」の戸田要人に対しては、
「己も池原良明と同じ運命を辿ることとなるやも知れぬ…」
そんな恐怖心を植付けさせることで、残された戸田要人の探索に制止をかけようとしたのやも知れぬ。
治済は同時に、池原良明の口を封じるに当たって、その罪を清水重好の家老、本多昌忠に着せることまでも考えたのやも知れぬ。
家治はそんな思いを巡らすと、とりあえず治済とそれに重好の二人を召出した。
そこで家治は寺社奉行・太田資愛より伝え聞いた件の池原良明刺殺事件の探索結果について、治済と重好に、実際には治済に語って聞かせたのであった。
それに対して、治済と重好は実に対照的な反応を示したそうな。
即ち、重好が勝誇った様子を覗かせたのに対して、治済はと言えば、顔を青褪めさせたのであった。
正に顔面蒼白というやつで、治済がこの様な姿を、それも無様な姿を覗かせるのは初めてのことではなかろうか。
それでも治済は潔白を主張した。
「天地神明に賭けましても…」
そんな「お定まり」の文句と共に治済は身の潔白を訴えたのであった。
仮に、「黒」だとしても、治済の立場としてはそう主張せざるを得ないであろう。
そこで家治は一つの提案をした。
即ち、一橋屋形の「家宅捜索」であった。
この時―、安永8(1779)年の時点で、一橋家は一橋御門内にある上屋敷の外に、向築地に下屋敷を構えており、この2ヶ所の「家宅捜索」を行うことを家治は提案したのであった。
治済が真、潔白であるならば「家宅捜索」には異論はない筈であった。
治済としても、それで身の証が立てられるのであればと、これに応じた。
その際、治済は一つの「注文」を付けることも忘れなかった。
「清水重好の屋敷にも当然、家宅捜索をかけるのであろう…」
ズバリそれであった。
確かに、一橋家の屋敷にだけ「家宅捜索」をかけておきながら、清水家の屋敷には「家宅捜索」をかけないのでは、
「片手落ち…」
その誹りは免れまい。
治済の真横にいた重好も、治済のこの主張、もとい「注文」は至当であると判断し。
「されば我、屋敷の探索につきましては、南北両町奉行所によって…」
重好はそう提案したのであった。
「我、屋敷…、清水家の屋敷は清水御門内の上屋敷の外に、蠣殻町や芝海手、下戸塚に下屋敷もありますれば…」
清水家の屋敷は一橋家の屋敷の倍以上あり、それ故、清水家の屋敷の「家宅捜索」には一橋家の屋敷の「家宅捜索」についても倍以上の労力を必要とするであろうから、そこで南北両町奉行所の手を借りてはと、重好はそう示唆したのであった。
そこには一橋御門内にある上屋敷の外には、向築地にある下屋敷しか与えられてはいない治済に対する厭味と優越感も混じっていた。少なくとも治済はそう判断した様子で、米神に青筋を走らせたそうな。
ともあれ、一橋家、清水家、両家の屋敷の「家宅捜索」が行われることになり、清水家の屋敷の「家宅捜索」は重好が望んだ通り、南北両町奉行所の與力・同心の手により担われたのに対して、一橋家の屋敷の「家宅捜索」は留守居年寄衆配下の與力・同心の手により担われることになった。
家宅捜索は同時に行うのが「大原則」と言えた。そうしないことには「証拠湮滅」の虞があり得たからだ。
だからこそ、上屋敷・下屋敷合わせて4箇所もの屋敷を構える清水家においては南北両町奉行所の與力・同心が同時に、その4箇所の屋敷に「家宅捜索」に入ったのであった。
それに対して一橋家の場合は上屋敷と下屋敷、合わせて2つしかない。
とは言え、町方は清水家の「家宅捜索」で出払っており、そこで留守居年寄衆配下の與力・同心に白羽の矢が立った次第である。
池原良明刺殺事件の探索は現場が寺社地ということもあり、寺社奉行・太田資愛配下の寺社役・川副佐兵衛の指揮により探索が担われたが、「家宅捜索」ともなると人手が必要である。
つまりは與力・同心の手が欠かせないが、寺社奉行には生憎と、幕臣である與力・同心は配されてはおらず、僅かに家臣、陪臣を寺社役や、或いは小検使などに任じて、例えば寺社地における事件の探索をさせるのが精一杯であり、御三卿の屋敷の「家宅捜索」などは到底、不可能であった。
その様な大掛かりな探索ともなると、どうしても幕臣の身分を持つ與力・同心の力が必要となる。
そこで、與力・同心が配されている役職の中でも最上位に位置する留守居年寄衆、その配下の與力・同心に御三卿である一橋家の「家宅捜索」を担わせることとしたのであった。
これは将軍・家治の親裁によるものであり、御三卿としての治済の「自尊心」、「体面」といったものを重んじてのものである。
この時―、安永8(1779)年の時点で留守居年寄衆は4人おり、家治はそのうち、最古参の依田豊前守政次と新人の石谷淡路守清昌の2人に任せることにした。
即ち、依田政次、石谷清昌、夫々配下の與力・同心に一橋家の「家宅捜索」を命じたのだが、これに治済が「待った」をかけた。
「依田政次は兎も角、石谷清昌は田沼意次に近く…」
治済が言う通り、石谷清昌はさしずめ、「親・田沼」とも呼んでも差支えない程、意次と親しく、それは周知の事実であった。
それと言うのも、石谷清昌は勘定奉行を勤めていた頃には意次のさしずめ「知恵袋」であったからだ。
それだけではない、意次と石谷清昌は縁戚でもあった。
その様な清昌が配下の與力・同心を指揮して「家宅捜索」に当たろうものなら、清昌が意次の意を受けて、配下の與力か同心にでも、「家宅捜索」の名を借りて、己に池原良明刺殺事件の罪を着せるべく、証拠となる様な品を置いて、それを発見する…、つまりは証拠の捏造を企てる危険性があると、治済は異を唱えたのであった。
家基を毒殺しておいて…、あまつさえ、その罪を弟・重好や、或いは意次に着せんと謀った分際で…、家治はその思いが口をついて出ようとし、すんでのところで呑込んだ。
家治は家基の形見分けの時にも見せた様に、平静さを保ちつつ、治済の懸念に応えてやることにした。
即ち、石谷清昌が配下の與力・同心を指揮しての「家宅捜索」には大目付を総動員、全ての大目付に「家宅捜索」が適正に行われているかどうか、監視させることとしたのだ。
治済も家治の提示したこの「解決案」に漸くに納得したらしく、「家宅捜索」を受容れた。
かくして、2つの一橋屋敷のうち、一橋御門内にある上屋敷は依田政次とその配下の與力と同心が、向築地にある下屋敷は石谷清昌とその配下の與力と同心が夫々、「家宅捜索」に入り、その際、石谷清昌指揮による向築地の下屋敷の「家宅捜索」の現場には全ての大目付、即ち、新庄能登守直宥、正木左近将監康恒、松平對馬守忠郷、大屋遠江守明薫、そして伊藤伊勢守忠勸の5人の大目付が「監視役」として派された。
5人の大目付の「監視下」での「家宅捜索」は難航を極めた。
それと言うのも、そのうちの一人、松平忠郷が「家宅捜索」に横から口を出すからであった。
いや、もっと言えば、石谷清昌の指揮に一々、文句をつけるからであった。
これには多分に個人的な感情も含まれていた。
個人的な感情、それは石谷清昌が勘定奉行であった時代に遡る。
石谷清昌が勘定奉行を勤めていた時分、松平忠郷もまた、勘定奉行を勤めていた。
但し、石谷清昌が勝手方であったのに対して、松平忠郷は公事方であった。
このうち、評定所への列席が許されているのは公事方であり、それ故、公事方の方が勝手方よりも格式では上であった。
だがそれはあくまで名目上であり、実質的には財政政策や金融政策を立案する勝手方の方が権力があった。
それは「余得」にも反映され、同じ勘定奉行でも勝手方の方が公事方よりも何かと進物が多かったのだ。
それ故、松平忠郷はどうしても公事方から勝手方へと異動したかった様で、そこで忠郷なりに種々の財政政策や金融政策を立案してはそれを相役、同僚の勘定奉行や、更には直属の上司に当たる老中や時の側用人であった意次にも披瀝してみせ、如何に己が勝手方勘定奉行に相応しいか、自己アピールに余念がなかった。
だが、そんな忠郷の思惑とは裏腹に、忠郷が立案する財政・金融政策はどれも的外れなものばかりであり、老中や勘定奉行から失笑を買う始末であった。
尤も、忠郷はそうとは気付かずに、的外れな財政・金融政策を立案し続けた。
いや、それだけならばまだしも、勝手方勘定奉行が立案する財政・金融政策に嘴を入れる、いや、文句をつけるに至って、勝手方勘定奉行の本来業務に支障が出始めたのだ。
こうなっては勝手方勘定奉行の蒙る被害、迷惑は甚大であり、堪りかねた石谷清昌と今一人、勝手方を勤めていた川井越前守久敬が老中、それも側用人より老中に就任したばかりの意次に泣付いた。
「松平忠郷には公事方勘定奉行としての職務に専念する様、老中から諭して欲しいと懇願したのであった。
そこで意次はとりあえず、外の老中にもこの件を諮ったところ皆、賛成であった。
外の老中にしても松平忠郷のその「自己アピール」もとい、的外れな財政・金融政策を聞かされることに内心ウンザリ、辟易し始めていたところであった。
かくして老中の中でも当時は新人であった意次が松平忠郷への、言うなれば「訓戒役」を務めることになった。
尤も、その場合の忠郷への「訓戒」、
「公事方勘定奉行としての職務に専念する様に…」
それは、忠郷当人にしてみれば、
「お前には勝手方勘定奉行としての能力はない…」
そう引導を渡されたも同然であり、忠郷は羞恥と屈辱に苛まれ、結果、それが昂じて忠郷はまず意次を怨み、次いで勝手方勘定奉行の石谷清昌と川井久敬を怨む様になった。
意次が己に引導を渡したのは偏に、
「石谷清昌と川井久敬が意次めに讒言したからに相違あるまい…」
そう信じて疑わなかったからだ。
松平忠郷の石谷清昌への個人的な感情、もとい怨みは斯様なものであり、忠郷は石谷清昌指揮による「家宅捜索」の「監視役」という立場、職権を利用、いや、濫用してその怨みを晴らさんと、石谷清昌の一挙手一投足に文句をつける始末であった。
尤も、これには相役、同僚の大目付として同じく「監視役」を務めていた大屋明薫が堪りかねたらしく、
「いい加減に致せっ」
明薫は忠郷をそう一喝したのであった。
明薫は忠郷よりも年上ということもあろうが、それ以上に、大目付の中でも道中奉行を兼務していた為に、つまりは筆頭である為に、さしもの忠郷もその様な明薫からの一喝に遭っては黙り込むより外になかった。
大目付筆頭の明薫の「一喝」により、石谷清昌も漸くにまともな指揮が執れる様になった。
その結果、「家宅捜索」が始まってから凡そ、一刻半(約3時間)程が経過した頃であろうか、
池から歓声が上がり、その声で「指揮官」の石谷清昌は元より、「監視役」の大目付も皆、池へと急いだ。
石谷清昌らが池の直ぐ傍まで着いた頃には既に、池から引揚げたものと思しき水浸しの着物と、そして大小二本が地面に置かれていた。
石谷清昌配下の同心の説明によれば、それらの品はやはり池の底に沈んでいたものらしく、重石として着物にも大小二本にも夫々、石が括り付けられていたそうな。
確かに、水浸しのそれらには石が括り付けられていた。
松平忠郷はその同心を懐疑的な目で睨んだ。
「お前が仕込んだものではないのか…」
もっと言えば、石谷清昌の命により、仕込んだものではないのかと、忠郷の目はそう物語っていた。
直ぐ傍にいた大屋明薫もそうと気付くや、咳払いをしてから、
「されば、石谷殿は元より、配下の與力、同心に至るまで、徹底的に、その身を検めたではござるまいか…」
石谷清昌とその配下の與力同心に対して、大目付が自ら、徹底的な身体検査をしたことを、忠郷に思い出させたのであった。
それは勿論、「家宅捜索」に入る前の話であり、それ故、與力や同心が外部から証拠品を持込み、それを池の中に沈めるなどと、その様な芸当は不可能、つまりは「家宅捜索」は正当に行われたという訳だ。
忠郷もそれは分かっていたが、どうしても石谷清昌への悪感情、要は「憎悪」が先に立ち、「家宅捜索」の正当性を素直には認められなかった。
だが、そうは言っても如何に忠郷とて、「家宅捜索」の正当性は認めざるを得ず、そうであれば同心が池の底より発見した着物と大小二本は「家宅捜索」に入る前に重石を括り付けて池の底に沈められたと考えるより外になかった。
ともあれ同心はそれら品と重石とを結んでいた紐を切ると、まずは着物から検めた。
着物は羽織袴であり、こちらも綺麗に畳まれて紐でしっかりと括り付けられていたので、同心はその紐も解いてみせた。
それから同心はまず、羽織から検メタ。するとその羽織には三階菱があしらわれており、続いて検めた着物と袴には茶色に変色した染みが所々に散らばっていた。どう見ても血痕であった。
その後で同心は「メイン」とも言うべき大小二本を検めた。
大小二本にしてもしっかりと紐で括り付けられており、同心はその紐を解くとまず、太刀を検めた。
太刀に異常はなく、同心は鞘に納めると、続いて脇差を検めた。
その結果、思った通りであった。
刃にはしっかりと血曇りがあった。池の水に浸かっていたとは言え、しっかりと鞘に納められており、その上、太刀と結ばれていた紐が脇差の鍔と鞘の部分に亘って頑丈に巻かれていた御蔭で、水の浸入を防いだものと思われる。
その為、幾分かは変色しているとは言え、刃には血曇りがしっかりと残されていた様だ。
ここ、向築地の下屋敷における「家宅捜索」には一橋家用人の齋藤齋宮忠明と守山八十郎房覺の二人が立会っていた。
「これは一体…」
どう説明するつもりか…、石谷清昌はやはり、池の傍に駈寄った「立会人」たる齋藤齋宮と守山八十郎の二人にそう水を向けた。
それに対して、齋藤齋宮にしろ、守山八十郎にしろ、まともな申開きも出来ない様子で、ただ頭を振るばかりであった。
だが、「犯行時」に下手人が身に付けていた着衣と兇器であることは疑いがない様に思われた。それは松平忠郷さえも認めざるを得なかった。
そこで石谷清昌は配下の與力・同心に命じて、更に邸内を正に、
「隈なく…」
捜索させた。無論、下手人の発見の為であり、松平忠郷にも異論を挟む余地はなかった。
だが下手人は、即ち、小笠原主水、若しくは黒川久左衛門の姿はどこにもなかった。
するともしや、小笠原主水、黒川久左衛門の何れか、或いはその両者は一橋御門内にある上屋敷にて匿われているのかと、石谷清昌はそう考え、配下の同心を一橋御門内にある上屋敷へと走らせた。
「池の底に沈められていた、犯行時の着衣と兇器が見つかった…」
それを上屋敷の「家宅捜索」の指揮を執る依田政次に伝える為であり、更に、
「しかし下手人と思しき小笠原主水、或いは黒川久左衛門の姿はなく、このうちの何れか、若しくは両人は上屋敷にて匿われているやも知れず、そこで上屋敷の捜索を更に徹底して欲しい…」
それも併せて伝えさせる為であった。
こうして石谷清昌よりの言伝が依田政次へと伝えられ、依田政次は仰天した。
依田政次も「家宅捜索」に入る前は、「半信半疑」であった。
「よもや、御三卿ともあろう御方が、同じ御三卿を追落とすべく、殺しに関与するものであろうか…」
依田政次にしろ、石谷清昌にしろ、将軍・家治より直々に、一橋屋形の「家宅捜索を命じられた折、その「趣旨」についても家治より打明けられていた。即ち、
「次期将軍の座を巡って、一橋治済がその最右翼に位置する余が弟である重好を追落とし、己が重好に代わって次期将軍となるべく、そこで重好配下の用人、小笠原主水と小十人頭の黒川久左衛門の両者と密かに通じ、余が重く用いる奥医の池原良誠が息、良明を殺め、その罪を家老の…、やはり重好配下の家老の本多昌忠に被くことで、重好には昌忠の主君として、その管理責任を問わせんとしている…、さすれば重好は次期将軍の座より滑り落ちるは必定と…」
一橋治済がその様な姦計を巡らして小笠原主水か、或いは黒川久左衛門に命じて池原良明を殺させたのだと、依田政次と石谷清昌の二人は家治よりそう聞かされた訳だが、それでも当初は政次は、清昌にしてもそうであったろうが、半信半疑であった。
だが、こうして一橋家の下屋敷より、その池のそこから、「犯行時」に小笠原主水か、或いは黒川久左衛門が身につけていたと思しき着衣と、その上、兇器までが発見されたとなると、俄然、家治の話に信憑性が増してきた。
そこで依田政次も更に「家宅捜索」を徹底することにした。
依田政次もそれまでは、上屋敷の中でも「大奥」には手を付けてはいなかった。
だがこうなった以上は「大奥」にも手を付けざるを得ない。
尤も、これには「大奥」の男子役人、その中でも責任者である廣敷用人の平田重右衛門政好と平井逸平俊相の二人が依田政次の前に立塞がった。
「廣敷向は兎も角、御方様や若君様が、お暮らしあそばされている御殿向にまで足を踏み入れる所存かっ」
それが平田重右衛門と平井逸平の抗議の趣旨であった。
御方様こと、治済の愛妾の富と、その間にもうけた若君様こと一橋家の嫡子の豊千代の名を出せば、さしもの依田政次も引下がるとでも思ったのであろう。
だが生憎と、御城大奥からも、その秋霜烈日ぶりが恐れられている依田政次にはその様な「こけおどし」は通用しなかった。
平田重右衛門と平井逸平の抗議、もとい「こけおどし」に対しても依田政次は、
「顔色一つ変えず…」
如何にもと、平然と応えてみせたかと思うと、配下の與力・同心を随えて、自ら先頭を切って大奥へと、それも富や豊千代の暮らす御殿向へと踏み込んだ。
御殿向には富やその倅の豊千代の外にも、富と同じく治済の愛妾の喜志と、治済と喜志との間に生まれた三人の男児、力之助に雅之助、そして慶之丞が暮らしていた。
喜志が治済との間にもうけた、これら三人の男児はまだ幼児であり、ことに慶之丞は先月の4月に生まれたばかりであった。
ともあれ、御殿向には三人の幼児が寝かしつけられている為に、さしもの依田政次も幼児には配慮を見せた。
即ち、極力、音を立てずに、且つ迅速に「捜索」を行う様、小声でもって與力・同心にそう命じたのであった。
一方、富や喜志にしてみれば、依田政次とその配下の與力・同心は突然の闖入者も同然であったが、その「家宅捜索」を拒む様な真似はせず、夫々我子に寄添い、女中がまたそれを…、夫々の母子を取囲んで守っていた。
さて、御殿向の「捜索」だが、小笠原主水と黒川久左衛門の発見にこそ至らなかったものの、その代わり、二人のものと思しき着物が数着、押入から発見された。
そのうち一着の羽織には丸に揚羽蝶の紋所があしらわれており、黒川久左衛門の羽織だと推察された。
丸に揚羽蝶の紋所は黒川家の家紋であるからだ。
してみると、着物の束の中でも唯一の袴も黒川久左衛門のそれだと思われた。
外にも着物が数着、発見されたことから、どうやら小笠原主水と黒川久左衛門の二人はここ、御殿向にて暮らしていたものと思われる。
政次がそんなことを考えていると、直ぐ傍で「捜索」を見守っていた廣敷用人の平田重右衛門と平井逸平にも伝わったのであろう、一切、与り知らないことだと言わんばかりに、大仰に頭を振って見せた。
尤も、平田重右衛門や平井逸平の立場からすれば、そう応えるより外になく、それ故、説得力には欠けていた。
問題は小笠原主水と黒川久左衛門の二人が今、どこにいるかであった。
ここ御殿向に生活の痕跡は見受けられたが、その姿はどこにも見当たらない。
「捜索を予期して、何処かへ逃げた…」
依田政次はまず、その可能性を考えた。
だが、「家宅捜索」は将軍・家治の親裁により、しかもその日、今日のうちに始められたものである。
しかも家治は治済に「証拠湮滅」をさせない為にも、家老共々、御城に留まらせていた。
勿論、公平を期して、重好も家老共々、御城に留まらせた。
そうであれば、小笠原主水にしろ、黒川久左衛門にしろ、事前に「家宅捜索」を予期するのは不可能というものであろう。
将軍・家治が当屋敷の「家宅捜索」に踏切るつもりらしい…、それを小笠原主水や黒川久左衛門に伝える者が存しないからだ。
そこで依田政次はもう一つの可能性を思い浮かべた。
「既に…、手遅れか…」
二人とも既に、口を塞がれた…、可能性としては、こちらの方が高い様に思われた。
治済にとって小笠原主水と黒川久左衛門の存在は正に爆弾そのものであった。
黒川久左衛門が袋物問屋の西川伊兵衛方より、清水家老の本多昌忠の名代として、昌忠が注文しておいた印籠と根付を受取った4月4日、久左衛門はその印籠と根付を手にしたまま逐電、清水屋敷より出奔し、小笠原主水もまた、この日に逐電した。
その小笠原主水、或いは黒川久左衛門の何れかが4月9日に池原良明を刺殺したとすれば、4月4日から9日にかけての6日間、小笠原主水と黒川久左衛門の二人はここ、一橋家の上屋敷の、それも大奥の御殿向にて暮らしていた、いや、息を潜めていたと考えられる。
そして9日、暮六つ(午後6時頃)以降に池原良明を刺殺した小笠原主水、或いは黒川久左衛門が…、目撃者の証言、及び、下屋敷の池の底から引揚げられた羽織を考え合わせれば小笠原主水であろうか、その主水は着物に血が付いていることに気づいて、そこで向築地にある一橋家の下屋敷に駈込み、そこで羽織とそれに血の付いた着物や袴を脱捨て、真新しい着物に着替えると、今まで身に着けていた羽織袴一式を重石を括り付けて池の底に沈め、同様に大小二本も、とりわけ血曇りで汚れた脇差をも重石を括り付けて、やはり池の底に沈めた…。
それから小笠原主水は一橋御門内にある上屋敷へと立ち戻り、しかしそこで、治済によって…、治済の命を受けた一橋家臣によって口を塞がれた…。
無論、主水と共に一橋大奥にて息を潜めていた黒川久左衛門もまた、「用済み」としてやはり口を塞がれた…。
依田政次はそこまで考えると、即座に配下の與力を一橋御門の門番所へと走らせた。
仮に、小笠原主水が池原良明を刺殺した後、まずは向築地にある一橋家の下屋敷において血で汚れた着物を脱捨てて真新しい着物に着替え、その上、脱捨てた着物と更には大小二本を池に沈めた後、ここ一橋御門内にある一橋家の上屋敷に立ち戻ったとしたならば、当然、暮六つ(午後6時頃)は優に過ぎていたであろう。何しろ、池原良明を刺殺した時点で既に暮六つ(午後6時頃)は過ぎていたからだ。
だとするならば、暮六つ(午後6時頃)過ぎに、ここ一橋家の上屋敷に辿り着くには、一橋御門の門番所にて、
「住所、氏名、年齢、職業」
それを台帳に記入してからでないと、絶対に御門を潜って門内へと入ることは出来ない。
そこで依田政次は與力を一橋御門の門番所へと走らせたのであった。門番所に備付の台帳に、それも本年4月9日の暮六つ(午後6時頃)以降の条に、小笠原主水の名前が、いや、若しかしたら黒川久左衛門の名前があるかどうか、それを確かめさせる為であった。
だが結果は「収穫なし」であった。小笠原主水の名前は元より、黒川久左衛門の名前さえも見つけることは出来なかった。
依田政次は與力からその結果を聞かされて、「やはりな…」と思った。
それは外でもない、仮に池原良明を刺殺した小笠原主水が向築地にある一橋家の下屋敷に駈込んで来たならば、そこで一橋家臣の手によってその口を塞がれたと思われるからだ。
小笠原主水は「用済み」となれば、その時点で口を塞ぐ…、それが「既定路線」だったとするならば、みすみす小笠原主水を上屋敷へと立ち戻らせる筈はないからだ。
それよりも下屋敷にてその口を塞ぐのが「合理的」というものであろう。
若しかしたら、黒川久左衛門も小笠原主水が池原良明を刺殺した頃、時を同じくしてその口を塞がれたのやも知れぬ。
依田政次はそう思い至ったが、それでも念の為、全ての與力10人を総動員、御城の内郭御門の中でも、雉子橋、神田橋、常盤橋、呉服橋、鍛冶橋、数寄屋橋、日比谷、そして馬場先と和田倉、竹橋の各御門の門番所を潜って一橋上屋敷へと辿り着く方法もあるからだ。
ちなみに馬場先と和田倉に関しては、櫻田御門を潜って御門内へと、西之御丸下に出て、そこから更に馬場先、若しくは和田倉の何れかの御門を潜って御門外に出て一橋上屋敷へと辿り着く方法であり、一方、竹橋御門に関しては、田安、若しくは清水の何れかの御門を潜って御門内に入り、そこから竹橋御門を潜って御門外へと出て一橋上屋敷へと辿り着く方法であった。
だがその結果もまた、「収穫なし」であり、これで「仕事」を終えた小笠原主水が一橋御門内にある一橋上屋敷に辿り着いた可能性はほぼゼロと言えた。
「4月9日…、その日、向築地にある御当家の下屋敷に詰めていた者は?」
依田政次は誰とはなしに、そう尋ねた。
この問いの意味するところは明らかであり、傍にいた一橋家臣を青褪めさせた。
ともあれその問いには家老の田沼能登守意致が応えた。ちなみに相役、もう一人の家老の水谷但馬守勝富は今日は治済と共に登城した為に、そのまま御城にて足止を喰らっていた。
「されば…、その日なれば多くの者が下屋敷に…」
意致もまた顔を青褪めさせながらそう応えた。
「多くの者と申されるか?」
依田政次は意致の今の答の意味を量りかね、そう問返した。
すると意致もそうと察したのであろう、「左様…」と応えると、4月1日より19日までの間、下屋敷に家臣が、
「代わる代わる…」
出入りしていたことを打明けたのであった。
つまりはこういうことである。
4月19日、治済の愛妾の喜志が男児を出産した。
これが慶之丞であるが、一橋家の、それも上屋敷に詰めていた家臣は喜志が出産を間近に控えた4月1日より、
「産穢…」
それを避ける名目で下屋敷へと入浸っていたそうな。
いや、「産穢」とはそもそも生まれた子の父母、この場合には慶之丞の父母である治済と喜志に降りかかる「穢」のことであり、家臣は関係ない。
それに仮に、本当に「産穢」を恐れているならば、上屋敷に詰めている家臣一同、下屋敷へと引き移り、上屋敷にて喜志が「お産」を終えるのを待たなければならない。
それを「代わる代わる」とは要するに、「産穢云々」はただの名目…、主君・治済や何かと小うるさい存在の家老の目を盗んで、ことに小うるさい家老、それも水谷勝富の目を盗んで、勝富の目の届かない下屋敷で、
「ドンちゃん騒ぎ…」
それに興じたいだけであった。
だが、上屋敷に詰める家臣が皆、一斉に下屋敷へと引き移り、「ドンちゃん騒ぎ」を演じては、主君・治済に仕えるべき者がいなくなってしまい、流石に支障が出るということで、そこで上屋敷に詰める家臣は、
「代わる代わる…」
下屋敷へと移る、つまりは「ドンちゃん騒ぎ」を演じたということらしかった。
この事態、いや醜態を治済は黙認した様だが、家老の水谷勝富は見逃さず、下屋敷に行きたい者は、つまりは「ドンちゃん騒ぎ」を演じたければ、その旨、記録に留めることを提案したのだ。
こうして4月1日より3日までの3日間程度は家臣も勝富の「言付」を守り、記帳してから下屋敷へと出向いたそうだが、しかしそれも3日までの話であり、4日以降は誰も勝富のその「言付」を守らずに、勝手に下屋敷へと出向く様になったそうな。
それも暮六つ(午後6時頃)前に上屋敷を脱出して下屋敷へと足を伸ばしては、翌朝の明六つ(午後6時頃)過ぎに、まだ酒の匂を漂わせながら下屋敷を出て上屋敷へ戻るという醜態ぶりであったそうな。
この事態、醜態にはさしもの治済や、それに家老の意致も眉を顰めたそうで、それ以上に同じく家老の勝富は激怒した。
いや、これで以前の勝富であれば、一橋家の家臣たちも、その威厳に皆、自然と屈従していた。
だが、2月に次期将軍・家基が薨じてからというもの、勝富はめっきりと老け込んでしまった。所謂、
「老境の影…」
それが差込む様になってしまい、以前ならば決して見逃すことがなかった僅かな非違も、家基に先立たれてからというもの、激怒するのが精一杯であり、一橋家臣もそんな勝富を侮る様になった。
勝富が提唱した件の記帳についても「三日法度」で終わってしまったこともそれを如実に物語っていた。
ともあれ、斯かる次第で4月9日、向築地にある下屋敷に誰が詰めていたかなど、正確には分からないとのことであった。
「なれど…、御当家には目附もおられよう…」
御三卿の屋形には家中を取締まる者として、家老と共に目附も配されてはいた。
しかし、一橋家においては、その目附もまた、率先して「ドンちゃん騒ぎ」に興じていたそうな。
意致からそう聞かされた依田政次はその余りの醜態ぶり、乱脈ぶりに開いた口が塞がらなかった。
尤も、それで引下がる訳にもゆかない。
依田政次は意致も含めて、ここにいる一橋家臣の全員から聴取をすることにした。
池原良明が刺殺された4月9日、この上屋敷に詰めていた家臣のうち、誰が向築地の下屋敷へと足を伸ばしたのか、それを解明かす為である。ちなみに普段、下屋敷には用人の齋藤齋宮と守山八十郎の二人の用人と僅かばかりの小者が詰めているだけであった。
そして與力や同心による聴取の結果、女中までもが酌婦として下屋敷へと連出されていたことが判明した。
意致も当然、そんことは把握していた筈だが、余りの醜態さに、流石に先程の依田政次の聴取にも言い出しかねたものと見える。
その女中を酌婦として下屋敷へと連出すことを提案したのが、小十人頭の松平源左衛門康備であることも、一橋家臣一同への聴取の結果、判明した。
松平源左衛門は、どうせドンちゃん騒ぎに興じるならばと、女中を酌婦にすることを思い付いたそうで、そこで廣敷用人の平田重右衛門と平井逸平の二人を口説いたそうな。
女中は大奥にて仕える身であり、その女中を酌婦として連出そうと思えば、大奥の許可が必要であった。
だが、松平源左衛門は御三卿屋形においては、表向役人である小十人頭の役職にあり、それ故、男子禁制の大奥に足を踏み入れることは許されておらず、その様な松平源左衛門が大奥の許を得ようと思えば畢竟、廣敷用人を頼るしかない。
御三卿屋形における大奥を事実上、取仕切る男子役人は廣敷用人であり、この廣敷用人ならば松平源左衛門でも接触可能だからだ。
松平源左衛門が廣敷用人の平田重右衛門と平井逸平の二人を頼ったのは斯かる事情による。
一方、平田重右衛門にしろ、平井逸平にしろ、男である以上、松平源左衛門の気持ちは痛い程に理解出来たので、そこでこの旨、大奥の女主とも言うべき富に取次いだのであった。
治済の愛妾の喜志が出産を間近に控えているこの時期に、女中を酌婦として下屋敷に連出そうとは、
「何たる不謹慎…」
富からは、そう誹られても致し方なかったが、案に相違して富はこれを快諾した。
富と喜志は共に、治済の愛妾であり、謂わば「対抗関係」にあった。
いや、富が治済との間にもうけた豊千代が既に、一橋家の嫡子と定められていたので、富は治済の側室とは申せ、実質的には正室も同然の身であった。
そうであれば、一介の側室に過ぎない喜志など、富にしてみれば最早、
「物の数ではない…」
つまりは「対抗関係」ですらなかったと言えよう。
それでも富は喜志に好感情は抱いてはおらず、その喜志が「お産」で苦しんでいるこの時期に、
「女中を酌婦として下屋敷へと連出させるのも面白いかも…」
そんな意地悪、と言うよりは悪戯心から松平源左衛門の申出を許したのであろう。
いや、松平源左衛門にしても富ならば、喜志への意趣から許してくれるに違いないと、そんな打算があっやに相違ない。
かくして松平源左衛門の思惑通り、女中を酌婦として下屋敷へと連出すことに成功した次第であった。
その松平源左衛門だが、「ツメ」を怠らなかった。
それと言うのも、松平源左衛門は己の提案が許されたことを廣敷用人の平田重右衛門と平井逸平より伝えられるや、今度は主君・治済に対して、
「目附と徒頭を女中の護衛役として附けて欲しい…」
そう提案したのであった。
酒に呑まれた家臣が酌婦の女中に良からぬ「悪さ」をしないとも限らず、そこで酒の席において目附が正に、
「御目附役」
として目を光らせて貰えれば、女中に「悪さ」をする様な不心得者が出ることもあるまいと、松平源左衛門は治済にそう提案したのであった。
同時に、上屋敷と下屋敷を女中が往来することになるので、徒頭に女中を護って貰えれば、
「これ程、心強いものはない…」
ということで、そこで松平源左衛門は目附と共に徒頭にも、ドンちゃん騒ぎが興じられる間はずっと、それこそ、
「毎日…」
女中に付いて貰いたいと、治済にそう求めたそうな。
無論、それはあくまで「口実」に過ぎず、
「目附と徒頭には毎日、ドンちゃん騒ぎに興じさせてやろう…」
その思惑が見え隠れしていた。
そうすることで、目附と徒頭に恩を売ることが出来るからだ。
御三卿屋形における目附は家老と共に、家臣の行動、正に「一挙手一投足」に目を光らせるのを職掌としていた。
その目附を無視して、ドンちゃん騒ぎに興じようとすれば、必ずや目附から横槍が入るに違いなかった。
「俺たち目附を尻目に、手前らだけ楽しみやがって…」
要はそれであり、そこで目附にも、
「酒の席での御目附役…」
その名目で、毎日のドンちゃん騒ぎに興じさせてやれば、横槍を入れられるのを完全に防げるというものである。
一方、徒頭にも目附と同様、毎日のドンちゃん騒ぎに興じさせてやろうとしたのは、こちらは完全に、
「松平源左衛門の個人的事情によるものであろう…」
というのが聴取に応じた、源左衛門を除く家臣の一致した見方であった。
即ち、小十人頭である松平源左衛門は行く行く、一段階上の徒頭への昇進を狙っており、しかし、それには先任の徒頭の推薦が大いに「モノ」を言う。
事実、去年―、安永7(1778)年にそれまで徒頭であった松本藤七郎正兊が目附へと一段階、昇格を果たした折に、その後任として一介の小姓であった岩本喜内正信が抜擢されたのは偏に、松本藤七郎の推挙の「賜物」と言えた。
松本藤七郎は徒頭より目附へと昇進する際して、治済に対して、己の後任に小姓の岩本喜内を推挙したのであった。
無論、そこには松本藤七郎なりの「打算」も勿論あったに違いない。
打算、それは外でもない、岩本喜内は治済の愛妾、富の叔父に当たり、富が治済との間にもうけた、一橋家の嫡子・豊千代にとっては大叔父に当たる。
それ故、その岩本喜内を己の後任として徒頭に推挙してやれば、治済の覚えも目出度くなると、松本藤七郎はそんな「打算」を働かせたに相違あるまい。
だが、松本藤七郎の「打算」、思惑は兎も角として、藤七郎の推挙がなければ、岩本喜内が藤七郎の後任として徒頭に昇進を果たすことは叶わなかったであろう。
仮に松本藤七郎が己の後任として岩本喜内ではなく、誰か外の者を徒頭に推挙したならば、如何に治済とて岩本喜内を小十人頭へと昇進させることは無理であったろう。
斯かる次第で、小十人頭より徒頭へと一段階昇格を狙う松平源左衛門としては、今のうちから機会を見つけては徒頭に恩を売っておくことが必要…、それが衆目の一致するところであり、
「徒頭をも目附と共に、毎日のドンちゃん騒ぎに興じさせてやろう…」
それも、その延長線上にあったのであろう。
ともあれ、松平源左衛門のこの「提案」に対して、治済もそうと察すると即座にこれを許した。
何しろ、松平源左衛門のこの「提案」、ことに、
「目附を毎日のドンちゃん騒ぎに興じさせる…」
それは治済をも満足させるものであったからだ。
治済の様な御三卿にとって目障りな存在と言えば、一に家老ならば二に目附であった。
御三卿目附は家老と同様、御三卿家臣の「一挙手一投足に目を光らせると共に、当の御三卿のそれにも目を光らせていたからだ。
ことに熊谷五郎右衛門正武と遠山市郎左衛門則親がそうであった。
一橋屋形においては目附は4人おり、そのうち最古参は熊谷五郎右衛門であった。
熊谷五郎右衛門は何と、最下級の廣敷添番からの「叩上げ」であった。
熊谷五郎右衛門は先代、一橋家の始祖である宗尹によって取立てられ、最下級の廣敷添番より、「八役」に次ぐ幹部クラスの目附へと昇進を果たし、今に至る。
熊谷五郎右衛門が今の目附へと辿り着いたのは宝暦12(1762)年のことであり、先代・宗尹がまだ存命の折、つまりは宗尹によって取立てられた訳で、さしもの治済もこの熊谷五郎右衛門には遠慮勝ちであり、熊谷五郎右衛門もそうと察して治済には遠慮するところがなく、その「一挙手一投足」に目を光らせた。
治済としては、その様な不遜なる「前世紀の遺物」など、「馘首」にしたいのが本音であったが、
「熊谷五郎右衛門を重く用いる様に…」
それが宗尹の遺言であり、そうである以上、如何に治済と雖も、先代のこの遺言を無視する訳には参らず、治済としては大変不本意ではあるが、今でも熊谷五郎右衛門をそのまま、目附になしおいていた。
その様な次第で、治済は熊谷五郎右衛門が大変目障りであり、そのことはこれまた、
「周知の事実」
というやつであり、そこで松平源左衛門は一時の間ではあるが、熊谷五郎右衛門を治済より遠ざけるべく、下屋敷にて繰広げられる毎日の「ドンちゃん騒ぎ」に、
「御目附役として目附を…」
などと言出したに相違あるまい。そうすれば畢竟、目附の一人である熊谷五郎右衛門も下屋敷へと足を運ばなければならないからだ。
そして同じことは遠山市郎左衛門にも言えた。
市郎左衛門は父・遠山市郎右衛門則敏と共に、親子二代に亘って一橋屋形に仕えていた。
いや、父・市郎右衛門こそ先代・宗尹の引立てにより小姓頭へと昇進を果たしたが、その子・市郎左衛門は治済の引立てにより目附へと昇進を果たした。
にもかかわらず、遠山市郎左衛門は元来の生真面目な性分により、目附としての職務を全うしようとした。
つまりは家臣のみならず、御三卿たる治済の「一挙手一投足」にまで目を光らせていた。
治済としては遠山市郎左衛門には今少し、「柔軟性」を持って貰いたいところであったが、性分である以上は致し方ない。
それでも遠山市郎左衛門は熊谷五郎右衛門とは違い、流石に治済を侮る様なところはなく、「一挙手一投足」に目を光らせるとは言っても、どこか遠慮があり、その点、治済にとっては唯一の救いと言えようか。
それでも鬱陶しいのもまた、紛れもない事実であったので、やはり一時でも己から遠ざけてくれるのならば有難い。
それ故、治済としては目附の中でも熊谷五郎右衛門と遠山市郎左衛門の二人だけ、下屋敷へと遠ざけてくれれば、つまりは「ドンちゃん騒ぎ」に参加させてくれればそれで良かった。
だが、それでは外の目附、松本藤七郎とそれに村山藤九郎有成が黙ってはいないだろう。
「何故、俺達はドンちゃん騒ぎに参加出来ないのか」
目附の中でも松本藤七郎と村山藤九郎ならば必ずやそう考えるに違いない。
松本藤七郎と村山藤九郎は熊谷五郎右衛門と遠山市郎左衛門とは正に、正反対であり、目附としての職務を全うすることよりも、目附を「踏み台」に、更なるキャリアアップ、昇進を果たすことしか頭になく、それ故、治済に取入った。治済としては真に御し易く、それ故、松本藤七郎と村山藤九郎の二人ならば別段、遠ざける必要性はなかった。
だが、松本藤七郎と村山藤九郎の立場からすれば、ドンちゃん騒ぎに参加出来ないことになり、臍を曲げないとも限らない。
それならば目附全員を「ドンちゃん騒ぎ」に興じさせるのが無難であろう。
尤も、熊谷五郎右衛門と遠山市郎左衛門の二人は生真面目に、
「酒の席で酒に呑まれた家臣が酌婦を務める女中に悪さをしない様、目を光らせる…」
その「建前」を忠実に果たそうとするに違いなく、そこで治済は松本藤七郎と村山藤九郎の二人に対して、
「熊谷と遠山には建前を貫かせぬ様、よくよく言含めて貰いたい…」
そう「因果」を含ませたのであった。
つまりは熊谷五郎右衛門と遠山市郎左衛門の二人にも、ドンちゃん騒ぎに興じる様に言含めて貰いたいという訳だ。
それに対して松本藤七郎にしろ村山藤九郎にしろ、元よりそのつもりであったので、治済のこの「因果」を即座に呑込むや、それを裏付けるかの様に、
「女中の案内役」
その名目で、松平源左衛門にも毎日のドンちゃん騒ぎに参加させることを提案したのであった。
これは女中を酌婦として連出すことに成功したことに対する、その上、目附にもその「おこぼれ」に与らせたことに対する、
「ご褒美」
それも、松本藤七郎と村山藤九郎からの「ご褒美」であった。
治済としても元より、松平源左衛門には何らかの形で報いるつもりでいたらしく、松本藤七郎と村山藤九郎によるこの提案、もとい「ご褒美」を即座に諒承したそうな。
かくして4月1日から19日までの間、下屋敷へと毎日足を運んだのは、酌婦を務める女中を除いては、「酒席の御目附役」を務める熊谷五郎右衛門、遠山市郎左衛門、松本藤七郎、村山藤九郎の4人の目附に、「女中の護衛役」を務める徒頭である岩本喜内と、それに喜内と同じく徒頭の堀内半三郎氏昉と久野三郎兵衛芳矩の3人、都合8人であった。
ちなみに「女中の案内役」という余禄、役得を得た小十人頭の松平源左衛門だが、源左衛門の外にも、中津河武右衛門光和と守能平三郎正明という二人の小十人頭がおり、そこで松平源左衛門は、
「毎日交代で…」
案内役を務めることにした。つまりは3人が毎日交代でドンちゃん騒ぎに興じることにした訳だ。
いや、松平源左衛門は治済が鬱陶しく思う目附の熊谷五郎右衛門と遠山市郎左衛門の二人を一時とは言え、治済から遠ざけることにしたその「功」により、毎日、「案内役」を務めることも、つまりはドンちゃん騒ぎに興じることも可能であった。松平源左衛門がそれを望むのであれば、治済としてはそれを許すつもりでいた。
それどころか、治済としては、小十人頭の中でも松平源左衛門だけに「案内役」を務めることを命じても良いとさえ思っていたそうな。
それを松平源左衛門は拝辞し、
「相役の中津河武右衛門と守能平三郎と毎日交代にて、案内役を務め度…」
治済にそう願ったそうな。このことは中津河武右衛門と守能平三郎の聴取により判明した事実であった。
小十人頭より徒頭、更には徒頭より目附、或いは「八役」へと昇進を望む松平源左衛門の様な者にとっては上役からの支持は元より、相役、同僚からの支持もまた同じぐらい、いや、それ以上に重要と言えた。
それ故、松平源左衛門は、
「毎日、ドンちゃん騒ぎに興じられる…」
その余禄、役得を独り占めせずに、相役、同僚と分け合うことにしたのだろう、というのが源左衛門の相役たる小十人頭の中津河武右衛門と守能平三郎の一致した見立であった。
さて、その外にも「毎日交代」で、ドンちゃん騒ぎに興じた家臣がいた。
例えば用人ならば、下屋敷に常駐する齋藤齋宮と守山八十郎を除いては、永井與右衛門定之と横尾六右衛門昭平、大林與兵衛親用の3人が交代でドンちゃん騒ぎに興じた。
ちなみに今一人、用人の杉山嘉兵衛美成は、
「喜志たっての願により…」
大奥にて「足止め」を喰らい、ドンちゃん騒ぎに興じることは出来なかった。
杉山嘉兵衛は本来、大奥には立入れない身であったが、富と、それに喜志の両人からの寵愛が篤く、それ故、用人の中では唯一人、大奥に立入ることが許されていた。
喜志は出産を間近に控え、杉山嘉兵衛に傍にいてくれることを強く願ったそうで、杉山嘉兵衛もそんな喜志のたっての願いを無下には出来ず、喜志が出産までの間、ずっとその傍に付添っていたそうな。
それ故、杉山嘉兵衛はドンちゃん騒ぎに興じることは出来なかったのだ。
さてそこで4月9日だが、この日は用人の中では大林與兵衛がドンちゃん騒ぎに興じる番だったそうな。
一方、旗奉行と長柄奉行は共に一人しかおらず、そこで本来ならば旗奉行と長柄奉行が交代でドンちゃん騒ぎに興じるべきところ、旗奉行の平岡喜三郎茂高と長柄奉行の土山甚十郎紀時の二人は共に、年齢を理由にドンちゃん騒ぎに興じるのを辞退した。
この時―、安永8(1779)年の時点で土山甚十郎は数えで65、平岡喜三郎に至っては数えで82であった。成程、その齢ではドンちゃん騒ぎに興じるのも辛いものがあろう。
また、物頭については末吉三十郎利房、猪飼茂左衛門正義、飯田八左衛門補好、山本武右衛門正凭の4人が毎日交代でドンちゃん騒ぎに興じ、4月9日は末吉三十郎の「番」であった。
それから郡奉行と勘定奉行は共に定員が2人ということで、郡奉行については稲守三左衛門榮正と木村源助敬忠が、勘定奉行については小倉小兵衛雅周と寒河宇八郎常員が夫々、毎日交代でドンちゃん騒ぎに興じ、4月9日にドンちゃん騒ぎに興じた郡奉行は稲守三左衛門、勘定奉行は小倉小兵衛であった。
そして、4月9日に向築地にある下屋敷でドンちゃん騒ぎに興じた者であると、確と判明したのはここまでであった。
それ以外の、例えば小姓や近習番、或いは納戸頭や賄頭、台所頭といった者達については皆、
「記憶にございません…」
証人喚問ばりの台詞を揃えた。
また、酌婦を務めた女中にしてもそうであった。
これで水谷勝富の指図に随い、きちんと台帳に記録としてその名前を書留めさせていたならばと、依田政次はそう思わずにはいられなかった。
ともあれ、これで池原良明が刺殺された4月9日、向築地にある一橋家の下屋敷に一橋家臣が参集したことは明らかとなった。
そこで依田政次は先程、下屋敷の池の底から下手人もとい小笠原主水のものと思われる羽織袴一式と、更に兇器と思しき脇差までが見つかったことを己に伝えに来た石谷清昌からの使者に対して、小笠原主水と黒川久左衛門の二人がここ、一橋上屋敷の大奥にて匿われていた蓋然性が高いこと、更に4月9日には下屋敷に、
「ドンちゃん騒ぎに興じる…」
との名目にて向築地の下屋敷に一橋家臣が参集した事実と共に、
「下屋敷の捜索を更に徹底する様に…、ことに地面を掘返して…」
そう石谷清昌への言伝を託したのであった。
仮に、「一仕事」終えた小笠原主水が件の下屋敷に駈込んで来たならば、いや、逃込んで来たならば、そしてそこに一橋家の家臣が参集していたならば、小笠原主水をそのまま、一橋御門内にある上屋敷へと向かうのを、
「みすみす…」
見逃す筈がなかった。その場にて口を塞いで、埋めたに違いない。
一方、石谷清昌も同じことを考えてはいた。
だが、仮にも御三卿の下屋敷の地面を掘返すとなると、相当の覚悟を必要とする。
如何に将軍・家治の命により、「家宅捜索」を行ているとは申せ、地面まで掘返して何も出てこなければ、その時点で石谷清昌の「役人人生」は終わると言っても過言ではない。
それ故、さしもの石谷清昌も地面を掘返すことには躊躇していたのだが、そこへ上屋敷の「家宅捜索」に当たっていた依田政次からの言伝を聞いて、それで石谷清昌も腹を括った。
「地面を全て掘返すのだっ!」
石谷清昌は配下の與力・同心にそう命じたのであった。
家宅捜索が適正に執行されているかどうか、それを見届けるべく派された大目付にしても、石谷清昌のこの命の意味するところは直ぐに分かった。
だがそれに異論を唱える大目付は誰一人としていなかった。今まで捜索の邪魔ばかりしてきた松平忠郷でさえもそうであった。
その結果、遺体が発見されたのだ。
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