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将軍・家治が奏者番ではあるが、未だ大名ですらない部屋住の身の田沼意知を若年寄へと進ませる真の理由 後篇 ~池原良明殺人事件~ 3

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 さて、4月1日から10日までの10日間、清水しみず門番もんばんつとめていた鈴木數馬すずきかずまとその家臣かしんため毎日まいにち食事しょくじとどけていたのは本多ほんだ六三郎ろくさぶろうであったが、六三郎ろくさぶろう歯痛はいた病臥びょうがしていたために、鈴木數馬すずきかずま家老かろう鈴木求馬すずきもとめため土産みやげ品々しなじなかかえてやることは無理むりであった。

 そこで、鈴木求馬すずきもとめために、徒頭かちがしら栗栖くりす木右衛門もくえもん賢帖かたやす土産みやげ品々しなじなかかえ、勘定かんじょう奉行ぶぎょう前田まえだ次右衛門じえもん提灯ちょうちんちを夫々それぞれつとめたそうな。

 三卿さんきょう家臣かしん序列じょれつで言えば、勘定かんじょう奉行ぶぎょうほう徒頭かちがしらよりも格上かくうえであり、本来ほんらいならば格下かくした徒頭かちがしらである栗栖くりす木右衛門もくえもん提灯ちょうちんちをつとめるべきところ、徒頭かちがしらかりにも番方ばんかた武官ぶかんであるので、そのよう栗栖くりす木右衛門もくえもんには提灯ちょうちんちはつとめさせられまいと、重好しげよしはそう判断はんだんして、そこで格上かくうえの、しかし役方やくかた文官ぶんかんである勘定かんじょう奉行ぶぎょう前田まえだ次右衛門じえもん提灯ちょうちんちをつとめさせ、栗栖くりす木右衛門もくえもんには土産みやげ品々しなじなたせたのであろう。

 ともあれこれで、こおり奉行ぶぎょう安井やすい甚左衛門じんざえもんのぞいた「八役はちやく」の「現場不在証明アリバイ」がほぼ裏付うらづけられ、さらには徒頭かちがしら一人ひとりである栗栖くりす木右衛門もくえもんのそれまで裏付うらづけられた。

 いや、この直後ちょくごのこ徒頭かちがしらとそれに小十人こじゅうにんがしらさら目附めつけ廣敷用人ひろしきようにんの「現場不在証明アリバイ」までもが裏付うらづけられることとなった。

「そうそう…」

 村瀬むらせ茂兵衛もへえ如何いかにもなにかをおもしたかのようこえげたかとおもうと、

「もてなしの途中とちゅう目附めつけ京極きょうごく殿どの目賀田めがた殿どの廣敷ひろしき用人ようにん伊丹いたみ殿どの上野うえの殿どの、それに徒頭かちがしら小栗おぐり殿どの牧野まきの殿どの小十人こじゅうにんがしら多賀たが殿どの長田おさだ殿どの挨拶あいさつもうした…」

 じつ重大じゅうだいなことをおもしたのであった。

 すなわち、彼等かれらみな、その―、池原いけはら良明よしあきらころされた4月9日、重好しげよし御簾中ごれんじゅう、つまりは妻女さいじょ貞子さだこをまずは本丸大奥ほんまるおおおくいで櫻田さくらだ用屋鋪ようやしきへと差向さしむけたのであった。

 その目的もくてきだが、まず本丸大奥ほんまるおおおくについて言えば、家基いえもと生母せいぼ千穂ちほかたなぐさめるためであった。

 愛息あいそく家基いえもとうしない、傷心しょうしん千穂ちほ重好しげよしなぐさめるべく、そこで妻女さいじょ貞子さだこ本丸大奥ほんまるおおおくへと差向さしむけ、そのさい千穂ちほために、貞子さだこにはやまよう土産みやげたせたのであった。

 事実じじつ比喩ひゆではなしに、反物たんものだけでもやまがった。

 無論むろん、これだけの土産みやげ品々しなじな貞子さだこ一人ひとりてるはずもなく、それ以前いぜん天下てんが三卿さんきょうの「簾中れんじゅうさま」に仮令たとえひとつであろうとも荷物にもつなどたせられるはずもなく、当然とうぜん、「男手おとこで」が必要ひつようとなる。

 そこでえらばれたのが廣敷用人ひろしきようにんと、それに目附めつけ徒頭かちがしら小十人こじゅうにんがしら面々メンバーであった。

 廣敷用人ひろしきようにんとは、簾中れんじゅう貞子さだこ附属ふぞくする男子だんし役人やくにんであるので、「男手おとこで」にえらばれるのは当然とうぜんとして、目附めつけ徒頭かちがしら小十人こじゅうにんがしらまでが狩出かりだされたのはひとえに、廣敷用人ひろしきようにん二人ふたりしかいないためである。

 すなわち、伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう勝平かつひらと、それに上野うえの郷右衛門ごうえもん猷景のりかげ二人ふたりであった。伊丹いたみ六三郎ろくさぶろうはかつて、栗原くりはら金四郎きんしろうとも目附めつけつとめていたものであり、栗原くりはら金四郎きんしろう先年せんねん病歿びょうぼつしたのにたいして、伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう廣敷用人ひろしきようにんへと異動いどうしていた。

 ともあれ、伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう上野うえの郷右衛門ごうえもん二人ふたり廣敷用人ひろしきようにんだけでは到底とうていれぬほど土産みやげりょうであった。

 いや、三卿さんきょう廣敷用人ひろしきようにんには配下はいか廣敷用達ひろしきようたし廣敷ひろしき吟味役ぎんみやくかれており、しかしそれも夫々それぞれ二人ふたりぎず、彼等かれらくわえてもまだ、りない。

 そこで目附めつけ徒頭かちがしら、それに小十人こじゅうにんがしらまでが「男手おとこで」として狩出かりだされた次第しだいであった。

 無論むろん、それだけの大量たいりょう土産みやげしなすべて、千穂ちほためというわけではない。

 すなわち、重好しげよし生母せいぼ貞子さだこにとってはしゅうとめたる安祥院あんしょういん千勢ちせへの土産みやげもそこにはふくまれていたのだ。

 千勢ちせいま日比谷御ひびやご門外もんそとにある櫻田さくらだ用屋鋪ようやしきにてらしていた。

 櫻田さくらだ用屋鋪ようやしきおよそ、3800坪もあり、千勢ちせはそこでらしていた。

 召使めしつかいもいるとは言え、それでも千勢ちせらすにはいささ広過ひろすぎ、そのひろさが千勢ちせさびしさをおぼえさせることも度々たびたびであった。

 ならば愛息あいそく重好しげよしともに、清水屋敷しみずやしきらせば、そのようさびしいおもいをせずにむであろうが、しかしそれは出来できない相談そうだんであった。

 それと言うのも、千勢ちせ先代せんだい家重いえしげ側室そくしつであり、この当時とうじ将軍しょうぐん側室そくしつ将軍しょうぐんこうじたのち御城えどじょう大奥おおおくて、櫻田さくらだ用屋鋪ようやしきにてらすのが仕来しきたりであったからだ。

 それゆえ千勢ちせ家重いえしげこうじたのちはここ、櫻田さくらだ用屋鋪ようやしきにてらさねばならなかったのだ。

 ちなみにこのとき―、安永8(1779)年の時点じてん櫻田さくらだ用屋鋪ようやしきにてらしている側室そくしつ、それももと側室そくしつ千勢ちせ一人ひとりであり、櫻田さくらだ用屋鋪ようやしき事実上じじつじょう千勢ちせ屋敷やしきしていた。

 ともあれ重好しげよしはそんなはは千勢ちせさびしさをすこしでもまぎらわせようと、そこで、

おりれ…」

 簾中れんじゅう妻女さいじょ貞子さだこ櫻田さくらだ用屋鋪ようやしきへとつかわして、土産みやげ品々しなじなおくるのをつねとしていた。

 池原いけはら良明よしあきら刺殺しさつされた4月9日もそうであり、簾中れんじゅう貞子さだこせた駕籠かご行列ぎょうれつは、土産みやげやまかかえた彼等かれら、「男手おとこで」をしたがえて、御城えどじょうへとかったそうな。

 貞子さだこはその土産みやげやまのうち、半分はんぶん千穂ちほにプレゼントしたそうな。

 そしてのこり、半分はんぶんしゅうとめ―、おっと重好しげよし実母じつぼである安祥院あんしょういん千勢ちせにプレゼントしたそうな。

 そうして、貞子さだこ一行いっこう帰宅きたくしたのはこれまた暮六つ(午後6時頃)をぎたころであったそうな。

 村瀬むらせ茂兵衛もへえより、

宮内くないきょうさまよりいたはなし

 としてかされた川副かわぞえ佐兵衛さへえは、「成程なるほど…」とおもったものである。

 それと言うのも、暮六つ(午後6時頃)ぎに、貞子さだこ一行いっこう清水しみずもんくぐって門内もんないはいった記録きろくのこされていたからだ。

 具体的ぐたいてきには貞子さだこと、それに貞子さだこ駕籠かごかついでいた六尺りくしゃく、そしてくだん目附めつけ徒頭かちがしら小十人こじゅうにんがしらに、廣敷用人ひろしきようにんとその配下はいか廣敷用達ひろしきようたし廣敷ひろしき吟味ぎんみやく、あとは幾人いくにんかの女中じょちゅうであり、彼等かれら名前なまえもまた、清水しみず門番もんばん備付そなえつけ台帳だいちょう記録きろくとしてのこっていたのだ。

簾中れんじゅうさま還御かんぎょあそばされましたのが、ちょうど饗応きょうおうはじまりましてもなくのことで、宮内くないきょうさまはそれなればと…、いえ、流石さすが簾中れんじゅうさま我等われら男衆おとこしれさせるわけにはまいらず、なれど簾中れんじゅうさま付随つきしたがいし男衆おとこし…、目附めつけ徒頭かちがしら小十人こじゅうにんがしら廣敷用人ひろしきようにんたちなれば、おな男衆おとこし同士どうしれても問題もんだいあるまいと…」

 成程なるほど武家ぶけ妻女さいじょはみだりに他人たにんの、それもおとこれさせぬものである。それが天下てんが三卿さんきょう夫人ふじんともなれば尚更なおさらであろう。

 だが、おとこ家臣かしんともなればはなしべつである。

 それどころか、あるじもよおしたうたげ最中さなか帰還きかんしたとあらば、むしろうたげまねかれたきゃくに、この場合ばあい村瀬むらせ茂兵衛もへえらに挨拶あいさつさせるのが自然しぜんであろう。

 ともあれ、村瀬むらせ茂兵衛もへえのこの証言しょうげんはやはり、清水しみずもん門番所もんばんしょ備付そなえつけ台帳だいちょうただしさを、またしても裏付うらづけるものであり、すなわち、目附めつけ栗栖くりす木右衛門もくえもんのぞいた徒頭かちがしら、それに黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんのぞいた小十人こじゅうにんがしら廣敷用人ひろしきようにんおよびその配下はいか廣敷用達ひろしきようたし廣敷ひろしき吟味ぎんみやくの「現場不在証明アリバイ」までが裏付うらづけられてしまった。

 ちなみに、徒頭かちがしら栗栖くりす木右衛門もくえもんについては鈴木求馬すずきもとめため土産みやげちをつとめたことですでに、「現場不在証明アリバイ」が成立せいりつしていた。

 一方いっぽう黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんは「第一だいいち容疑者ようぎしゃ」であり、小笠原おがさわら主水もんどはその「共謀共同正犯きょうぼうきょうどうせいはん」のうたがいがきわめて濃厚のうこうであった。

 この黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんのぞいて「現場不在証明アリバイ」が成立せいりつしていないのは、「偶々たまたま」、休暇きゅうかり、実家じっかへと「宿下やどさがり」をしていたこおり奉行ぶぎょう安井やすい甚左衛門じんざえもんだけであった。

 この3人をのぞけば、清水家しみずけにおいては当主とうしゅ重好しげよしをはじめとして、家老かろうなど幹部かんぶクラスの「八役はちやく」に、目附めつけ徒頭かちがしら小十人こじゅうにんがしら廣敷用人ひろしきようにんてはその配下はいか廣敷用達ひろしきようたし廣敷ひろしき吟味ぎんみやくいたるまで、その「現場不在証明アリバイ」が成立せいりつしたことになる。

 川副かわぞえ佐兵衛さへえ多古たこはん上屋敷かみやしき辞去じきょすると、いで愛宕下あたごしたにある伊勢崎藩いせざきはん上屋敷かみやしきへとあしばした。村瀬むらせ茂兵衛もへえおなじく、重好しげよしの「もてなし」をけた家老かろう速見はやみ九兵衛くへえよりはなしためであった。

 ここでもやはり、川副かわぞえ佐兵衛さへえおのれの「身分みぶん」の後押あとおしがあってか、歓待かんたいされたものである。寺社じしゃ奉行ぶぎょう配下はいか寺社じしゃやく余程よほどに、おそろしい存在そんざいらしい、いや、おそろしいとまでは言わずとも、粗略そりゃくにはあつかえない存在そんざいようだ。

 ともあれ速見はやみ九兵衛くへえもまた、川副かわぞえ佐兵衛さへえ尋問じんもんにもいやかおせずに、そのひとひとつに丁寧ていねいこたえてくれたものであった。

 そして速見はやみ九兵衛くへえ供述きょうじゅつもまた、村瀬むらせ茂兵衛もへえのそれと、

寸分違すんぶんたがわぬ…」

 それであり、「一部いちぶ」をのぞいた清水しみず家中かちゅうの「現場不在証明アリバイ」を愈愈いよいよもって完璧かんぺきにした。

 それは最後さいごおとずれた旗本はたもと鈴木數馬かずまつかえる家老かろう鈴木求馬すずきもとめへの尋問じんもんにもおなじことが言えた。

 いや、鈴木求馬すずきもとめへの尋問じんもんにおいては、ことに本多ほんだ六三郎ろくさぶろうの「現場不在証明アリバイ」が確実かくじつとなった。

 それと言うのも、六三郎ろくさぶろう見舞みまった3人の家老かろうなかでも、鈴木求馬すずきもとめ一番乗いちばんのりしたこともあり、まだ、歯科医しかい安藤正朋あんどうまさともによる治療ちりょうはじまるまえであった。

 いや、正確せいかくには、これから安藤正朋あんどうまさともによる治療ちりょうはじまろうというとき鈴木求馬すずきもとめ清水屋敷しみずやしきおとずれたので、求馬もとめ本多ほんだ六三郎ろくさぶろう簡単かんたん挨拶あいさつわしたとのことであった。

 そのさい本多ほんだ六三郎ろくさぶろうとは勿論もちろん言葉ことばわしたそうな。

 無論むろん本多ほんだ六三郎ろくさぶろう歯痛はいた―、親知おやしらずでくるしんでいたために、それほどおおくの言葉ことばわしたわけではないものの、それでも鈴木求馬すずきもとめ挨拶あいさつわし、そのうえ言葉ことばわした相手あいて間違まちがいなく本多ほんだ六三郎ろくさぶろうとのことであった。

 これで本多ほんだ六三郎ろくさぶろうの「現場不在証明アリバイ」はあに家老かろう本多ほんだ昌忠共々まさただともども鉄壁てっぺきなものとなった。

 さて、川副かわぞえ佐兵衛さへえ鈴木求馬もとめへの聴取ちょうしゅ最後さいごに、おのれ職場しょくばとも言うべき櫻田さくらだ門外もんそと所謂いわゆるそと櫻田さくらだ一等地いっとうちにある掛川藩かけがわはん上屋敷かみやしきへともどった。

 時刻じこくすでに、ゆうの七つ半(午後5時頃)をまわろうとしていた。

 すでに、川副かわぞえ佐兵衛さへえ主君しゅくんにして寺社じしゃ奉行ぶぎょう太田おおた資愛すけよし帰宅きたくしており、資愛すけよしはどうやら、川副かわぞえ佐兵衛さへえ探索たんさく結果けっか心待こころまちにしていた様子ようすであった。

 川副かわぞえ佐兵衛さへえはそんな主君しゅくん資愛すけよしたいしてまずはかえりがおそくなってしまったことをびたのち、これまでの探索たんさく結果けっか報告ほうこくした。

 すると太田おおた資愛すけよし先程さきほどまでの、川副かわぞえ佐兵衛さへえ報告ほうこく心待こころまちにしていた様子ようすうそであったかのように、かお青褪あおざめさせた。

 それも無理むりからぬことではあった。

 なにしろ、ことは次期じき将軍しょうぐんめぐあらそいがからんでいたからだ。

 すなわち、家基いえもとわる次期じき将軍しょうぐんねら三卿さんきょう一橋ひとつばし治済はるさだが、最大さいだい対抗相手ライバルである、おなじく三卿さんきょう清水しみず重好しげよし蹴落けおとすべく、そこで重好しげよし家老かろうとしてつかえる本多ほんだ昌忠まさただ人殺ひとごろしのつみかずくことを画策かくさく、そこで治済はるさだ愛妾あいしょうとみ実妹じつまい山尾やまおおっとである黒川くろかわ内匠たくみ叔父おじにして、清水家しみずけにて小十人こじゅうにんがしらつとめる黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんと、その黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんつうずる、やはり清水家しみずけにて用人ようにんとしてつとめる小笠原おがさわら主水もんど使嗾しそう将軍しょうぐん家治いえはる寵愛ちょうあいあつおく医師いし池原良誠いけはらよしのぶそく良明よしあきら刺殺しさつ、そのつみ本多ほんだ昌忠まさただかずくべく、昌忠まさただ注文ちゅうもんしておいた印籠いんろう良明よしあきら右手みぎてにぎらせた…、川副かわぞえ佐兵衛さへえのその探索通たんさくどおりだとしたら、大問題だいもんだいであった。

 いや、大問題だいもんだいなどと、そんな生易なまやさしい言葉ことば片付かたづけられるものではない。

 完全かんぜん資愛すけよしあま問題もんだいであった。

 そこで資愛すけよしよく12日、老中ろうじゅう首座しゅざ松平まつだいら右近将監うこんのしょうげん武元たけちかたよる、と言うよりは武元たけちか丸投まるなげすることにした。

 それにたいして松平まつだいら武元たけちかほか老中ろうじゅうともはかったうえで、このけんについては4月15日以降いこう将軍しょうぐん家治いえはるみみれることとし、太田おおた資愛すけよしたいしてはさら探索たんさくすすめるようめいじたのであった。

 将軍しょうぐん家治いえはるみみれるのを何故なにゆえ、4月15日以降いこうまで引延ひきのばしたのかと言うと、そのかんの13日は三縁山さんえんざんでの法会ほうえ結願けちがん最終日さいしゅうびむかえ、14日には家基いえもと遺品いひん形見分かたみわけ、そして15日にはそれまで延期えんきされていた恒例こうれい月次御礼つきなみおんれいと、行事イベントまさに、

目白押めじろおし…」

 であり、そのようとき将軍しょうぐん家治いえはるみみかる大事だいじを、池原いけはら良明よしあきら刺殺しさつ事件じけんかんする一件いっけん打明うちあけては、家治いえはる負担ふたんすものとして、そこで家治いえはるへの報告ほうこくは15日以降いこうへと延期えんきすることとしたのであった。

 いや、このかん毎日まいにち登城とじょうしている重好しげよし家治いえはるに、このけん打明うちあけないともかぎらない。

 なににしろ、池原いけはら良明よしあきら刺殺事件しさつじけんについて、それが一橋ひとつばし治済はるさだ仕組しくんだことではないかと、事件じけん探索たんさくたる寺社じしゃ奉行ぶぎょう太田おおた資愛すけよし配下はいか寺社じしゃやく川副かわぞえ佐兵衛さへえにそう吹込ふきこんだのはほかならぬ重好しげよしであるからだ。

 そこで松平まつだいら武元たけちかが「機嫌伺きげんうかがい」の名目めいもくにて清水屋敷しみずやしきおとずれ、池原いけはら良明よしあきら刺殺事件しさつじけん、それも川副かわぞえ佐兵衛さへえ探索たんさく結果けっかについては15日以降いこう将軍しょうぐん家治いえはるみみれるので、それまでは家治いえはるにはだまっていてもらいたい、つまりは重好しげよし家治いえはるへと告口チクるのはひかえてもらいたいと、そうねがったのだ。

 それにたいして重好しげよしもとよりそのつもりであったので、武元たけちかからの要請ようせいおうじた。

 結果けっか家治いえはるには4月15日以降いこう、それも一月ひとつき以上いじょう経過けいかした5月17日になってようやくにつたえられた。

 そのかんにもさら探索たんさくすすめられ、その結果けっかあらたな事実じじつ判明はんめいした。

 小検使しょうけんしによる現場げんば周辺しゅうへん聞込ききこみにより、事件じけん発生時はっせいじおぼしき4月9日の暮六つ(午後6時頃)ぎ、深編笠ふかあみがさかぶったさむらい現場げんばとなった愛宕山あたごやま総門そうもんへとつうずるはしより愛宕下あたごした廣小路ひろこうじへと、いそいでてくる姿すがた目撃もくげきされていたのだ。

 目撃者もくげきしゃによるとそのさむらい京橋きょうばし築地つきじ方面ほうめんへとけてったとのことである。

 成程なるほど現場げんばより京橋きょうばし築地つきじ方面ほうめんへは三十六さんじゅうろく見附みつけくぐらずにける。つまりは通行つうこう記録きろくのこらないということだ。

 具体的ぐたいてきには土橋つちばしわたれば京橋きょうばし築地つきじ方面ほうめんであり、その方面ほうめんにある向築地むこうつきじには一橋ひとつばし下屋敷しもやしきがあった。

 その下屋敷しもやしきまでのあいだにも三十六さんじゅうろく見附みつけはなく、通行つうこう記録きろくのこすことなく、一橋ひとつばし屋形やかたへと駈込かけこめるというわけだ。

 しかもそのさむらいだが背中せなか上部じょうぶには三階菱さんかいびし紋所もんどころがあしらわれていたというのである。

 三階菱さんかいびしと言えば小笠原おがさわら紋所もんどころであり、してみると用人ようにん小笠原おがさわら主水もんどが「実行犯じっこうはん」である可能性かのうせい浮上ふじょうした。

 5月17日、この探索たんさく結果けっかをもあわせて、寺社じしゃ奉行ぶぎょう太田おおた資愛すけよしより将軍しょうぐん家治いえはるへとつたえられた。

 家治いえはる外面げめんでは平静へいせいさをたもってみせたものの、内心ないしんでははらわたかえった。

 池原いけはら良明よしあきらころしについては探索たんさくたった寺社じしゃやくはどうやら、

一橋ひとつばし治済はるさだ次期じき将軍しょうぐんレースにおいて清水しみず重好しげよし追落おいおとすため…」

 そう看做みなしているようだが、そして家治いえはるへとそれを報告ほうこくした老中ろうじゅうや、それに陪席ばいせきしていた寺社じしゃやく直属ちょくぞく上司じょうしたる寺社じしゃ奉行ぶぎょうにしてもそうだが、しかし、家治いえはる唯一人ただひとりべつ可能性かのうせいおもいをいたしていた。

口封くちふうじ…」

 それであった。池原いけはら良明よしあきら戸田とだ要人かなめとも家基いえもと真相しんそう、それも家基いえもとふくませられたにちがいない遅効性ちこうせい毒物どくぶつ正体しょうたいについて調しらべており、そのことをっているのは当人とうにんである池原いけはら良明よしあきら戸田とだ要人かなめのぞいては、将軍しょうぐん家治いえはる西之丸にしのまる目付めつけ深谷式部ふかやしきぶ二人ふたりだけであった。

 だがそこに一橋ひとつばし治済はるさだくわわったならばどうであろうか。

 おのれつみ池原いけはら良明よしあきら戸田とだ要人かなめ二人ふたりあばかんとしている…、治済はるさだがそう勘付かんづいたならば、かならずやそのくちふうじようとかんがえるはずであり、そこで治済はるさだがまずけたのが池原いけはら良明よしあきらだった、ということやもれぬ。

 つまりは池原いけはら良明よしあきらくちふうずることで、「相棒あいぼう」の戸田とだ要人かなめたいしては、

おのれ池原いけはら良明よしあきらおな運命さだめ辿たどることとなるやもれぬ…」

 そんな恐怖心きょうふしん植付うえつけさせることで、のこされた戸田とだ要人かなめ探索たんさく制止ストップをかけようとしたのやもれぬ。

 治済はるさだ同時どうじに、池原いけはら良明よしあきらくちふうじるにたって、そのつみ清水しみず重好しげよし家老かろう本多ほんだ昌忠まさただせることまでもかんがえたのやもれぬ。

 家治いえはるはそんなおもいをめぐらすと、とりあえず治済はるさだとそれに重好しげよし二人ふたり召出めしだした。

 そこで家治いえはる寺社じしゃ奉行ぶぎょう太田おおた資愛すけよしよりつたいたくだん池原いけはら良明よしあきら刺殺しさつ事件じけん探索たんさく結果けっかについて、治済はるさだ重好しげよしに、実際じっさいには治済はるさだかたってかせたのであった。

 それにたいして、治済はるさだ重好しげよしじつ対照的たいしょうてき反応はんのうしめしたそうな。

 すなわち、重好しげよし勝誇かちほこった様子ようすのぞかせたのにたいして、治済はるさだはと言えば、かお青褪あおざめさせたのであった。

 まさ顔面蒼白がんめんそうはくというやつで、治済はるさだがこのよう姿すがたを、それも無様ぶざま姿すがたのぞかせるのははじめてのことではなかろうか。

 それでも治済はるさだ潔白けっぱく主張しゅちょうした。

天地神明てんちしんめいけましても…」

 そんな「おさだまり」の文句フレーズとも治済はるさだ潔白けっぱくうったえたのであった。

 かりに、「くろ」だとしても、治済はるさだ立場たちばとしてはそう主張しゅちょうせざるをないであろう。

 そこで家治いえはるひとつの提案ていあんをした。

 すなわち、一橋ひとつばし屋形やかたの「家宅かたく捜索そうさく」であった。

 このとき―、安永8(1779)年の時点じてんで、一橋ひとつばし一橋ひとつばし門内もんないにある上屋敷かみやしきほかに、向築地むこうつきじ下屋敷しもやしきかまえており、この2ヶ所の「家宅かたく捜索そうさく」をおこなうことを家治いえはる提案ていあんしたのであった。

 治済はるさだまこと潔白けっぱくであるならば「家宅かたく捜索そうさく」には異論いろんはないはずであった。

 治済はるさだとしても、それであかしてられるのであればと、これにおうじた。

 そのさい治済はるさだひとつの「注文ちゅうもん」をけることもわすれなかった。

清水しみず重好しげよし屋敷やしきにも当然とうぜん家宅かたく捜索そうさくをかけるのであろう…」

 ズバリそれであった。

 たしかに、一橋ひとつばし屋敷やしきにだけ「家宅かたく捜索そうさく」をかけておきながら、清水家しみずけ屋敷やしきには「家宅かたく捜索そうさく」をかけないのでは、

片手かたてち…」

 そのそしりはまぬがれまい。

 治済はるさだ真横まよこにいた重好しげよしも、治済はるさだのこの主張しゅちょう、もとい「注文ちゅうもん」は至当しとうであると判断はんだんし。

「さればわが屋敷やしき探索たんさくにつきましては、南北なんぼくりょう町奉行まちぶぎょうしょによって…」

 重好しげよしはそう提案ていあんしたのであった。

わが屋敷やしき…、清水家しみずけ屋敷やしき清水しみず門内もんない上屋敷かみやしきほかに、蠣殻かきがらちょうしば海手うみて下戸塚しもとつか下屋敷しもやしきもありますれば…」

 清水家しみずけ屋敷やしき一橋ひとつばし屋敷やしき倍以上ばいいじょうあり、それゆえ清水家しみずけ屋敷やしきの「家宅かたく捜索そうさく」には一橋ひとつばし屋敷やしきの「家宅かたく捜索そうさく」についても倍以上ばいいじょう労力ろうりょく必要ひつようとするであろうから、そこで南北なんぼくりょう町奉行まちぶぎょうしょりてはと、重好しげよしはそう示唆しさしたのであった。

 そこには一橋ひとつばし門内もんないにある上屋敷かみやしきほかには、向築地むこうつきじにある下屋敷しもやしきしかあたえられてはいない治済はるさだたいする厭味いやみ優越感ゆうえつかんじっていた。すくなくとも治済はるさだはそう判断はんだんした様子ようすで、米神こめかみ青筋あおすじはしらせたそうな。

 ともあれ、一橋ひとつばし清水家しみずけ両家りょうけ屋敷やしきの「家宅かたく捜索そうさく」がおこなわれることになり、清水家しみずけ屋敷やしきの「家宅かたく捜索そうさく」は重好しげよしのぞんだとおり、南北なんぼくりょう町奉行まちぶぎょうしょ與力よりき同心どうしんによりになわれたのにたいして、一橋ひとつばし屋敷やしきの「家宅かたく捜索そうさく」は留守居るすい年寄としよりしゅう配下はいか與力よりき同心どうしんによりになわれることになった。

 家宅かたく捜索そうさく同時どうじおこなうのが「大原則だいげんそく」と言えた。そうしないことには「証拠湮滅しょうこいんめつ」のおそれがありたからだ。

 だからこそ、上屋敷かみやしき下屋敷しもやしきわせて4箇所もの屋敷やしきかまえる清水家しみずけにおいては南北なんぼくりょう町奉行まちぶぎょうしょ與力よりき同心どうしん同時どうじに、その4箇所の屋敷やしきに「家宅かたく捜索そうさく」にはいったのであった。

 それにたいして一橋ひとつばし場合ばあい上屋敷かみやしき下屋敷しもやしきわせて2つしかない。

 とは言え、町方まちかた清水家しみずけの「家宅かたく捜索そうさく」で出払ではらっており、そこで留守居るすい年寄としよりしゅう配下はいか與力よりき同心どうしん白羽しらはった次第しだいである。

 池原いけはら良明よしあきら刺殺事件しさつじけん探索たんさく現場げんば寺社じしゃということもあり、寺社じしゃ奉行ぶぎょう太田おおた資愛すけよし配下はいか寺社じしゃやく川副かわぞえ佐兵衛さへえ指揮しきにより探索たんさくになわれたが、「家宅かたく捜索そうさく」ともなると人手ひとで必要ひつようである。

 つまりは與力よりき同心どうしんかせないが、寺社じしゃ奉行ぶぎょうには生憎あいにくと、幕臣ばくしんである與力よりき同心どうしんはいされてはおらず、わずかに家臣かしん陪臣ばいしん寺社じしゃやくや、あるいは小検使しょうけんしなどににんじて、たとえば寺社じしゃにおける事件じけん探索たんさくをさせるのが精一杯せいいっぱいであり、三卿さんきょう屋敷やしきの「家宅かたく捜索そうさく」などは到底とうてい不可能ふかのうであった。

 そのよう大掛おおがかりな探索たんさくともなると、どうしても幕臣ばくしん身分みぶん與力よりき同心どうしんちから必要ひつようとなる。

 そこで、與力よりき同心どうしんはいされている役職ポストなかでも最上位トップ位置いちする留守居るすい年寄としよりしゅう、その配下はいか與力よりき同心どうしん三卿さんきょうである一橋ひとつばしの「家宅かたく捜索そうさく」をになわせることとしたのであった。

 これは将軍しょうぐん家治いえはる親裁しんさいによるものであり、三卿さんきょうとしての治済はるさだの「自尊心プライド」、「体面たいめん」といったものをおもんじてのものである。

 このとき―、安永8(1779)年の時点じてん留守居るすい年寄としよりしゅうは4人おり、家治いえはるはそのうち、最古参さいこさん依田よだ豊前守ぶぜんのかみ政次まさつぐ新人ルーキー石谷いしがや淡路守あわじのかみ清昌きよまさの2人にまかせることにした。

 すなわち、依田よだ政次まさつぎ石谷清昌いしがやきよまさ夫々それぞれ配下はいか與力よりき同心どうしん一橋ひとつばしの「家宅かたく捜索そうさく」をめいじたのだが、これに治済はるさだが「った」をかけた。

依田よだ政次まさつぐかく石谷清昌いしがやきよまさ田沼たぬま意次おきつぐちかく…」

 治済はるさだが言うとおり、石谷清昌いしがやきよまさはさしずめ、「しん田沼たぬま」ともんでも差支さしつかえないほど意次おきつぐしたしく、それは周知しゅうち事実じじつであった。

 それと言うのも、石谷清昌いしがやきよまさ勘定かんじょう奉行ぶぎょうつとめていたころには意次おきつぐのさしずめ「知恵ちえぶくろ」であったからだ。

 それだけではない、意次おきつぐ石谷清昌いしがやきよまさ縁戚えんせきでもあった。

 そのよう清昌きよまさ配下はいか與力よりき同心どうしん指揮しきして「家宅かたく捜索そうさく」にたろうものなら、清昌きよまさ意次おきつぐけて、配下はいか與力よりき同心どうしんにでも、「家宅かたく捜索そうさく」のりて、おのれ池原いけはら良明よしあきら刺殺事件しさつじけんつみせるべく、証拠しょうことなるようしないて、それを発見はっけんする…、つまりは証拠しょうこ捏造ねつぞうくわだてる危険性リスクがあると、治済はるさだとなえたのであった。

 家基いえもと毒殺どくさつしておいて…、あまつさえ、そのつみおとうと重好しげよしや、あるいは意次おきつぐせんとはかった分際ぶんざいで…、家治いえはるはそのおもいがくちをついてようとし、すんでのところで呑込のみこんだ。

 家治いえはる家基いえもと形見分かたみわけのときにもせたように、平静へいせいさをたもちつつ、治済はるさだ懸念けねんこたえてやることにした。

 すなわち、石谷清昌いしがやきよまさ配下はいか與力よりき同心どうしん指揮しきしての「家宅かたく捜索そうさく」には大目付おおめつけ総動員そうどういんすべての大目付おおめつけに「家宅かたく捜索そうさく」が適正てきせいおこなわれているかどうか、監視かんしさせることとしたのだ。

 治済はるさだ家治いえはる提示ていじしたこの「解決案かいけつあん」にようやくに納得なっとくしたらしく、「家宅かたく捜索そうさく」を受容うけいれた。

 かくして、2つの一橋ひとつばし屋敷やしきのうち、一橋ひとつばし門内もんないにある上屋敷かみやしき依田よだ政次まさつぐとその配下はいか與力よりき同心どうしんが、向築地むこうつきじにある下屋敷しもやしき石谷清昌いしがやきよまさとその配下はいか與力よりき同心どうしん夫々それぞれ、「家宅かたく捜索そうさく」にはいり、そのさい石谷清昌いしがやきよまさ指揮しきによる向築地むこうつきじ下屋敷しもやしきの「家宅かたく捜索そうさく」の現場げんばにはすべての大目付おおめつけすなわち、新庄しんじょう能登守のとのかみ直宥なおやす正木まさき左近将監さこんのしょうげん康恒やすつね松平まつだいら對馬守つしまのかみ忠郷たださと大屋おおや遠江守とおとうみのかみ明薫みつしげ、そして伊藤いとう伊勢守いせのかみ忠勸ただすけの5人の大目付おおめつけが「監視役かんしやく」としてされた。

 5人の大目付おおめつけの「監視下かんしか」での「家宅かたく捜索そうさく」は難航なんこうきわめた。

 それと言うのも、そのうちの一人ひとり松平まつだいら忠郷たださとが「家宅かたく捜索そうさく」によこからくちすからであった。

 いや、もっと言えば、石谷清昌いしがやきよまさ指揮しき一々いちいち文句イチャモンをつけるからであった。

 これには多分たぶん個人的こじんてき感情かんじょうふくまれていた。

 個人的こじんてき感情かんじょう、それは石谷清昌いしがやきよまさ勘定かんじょう奉行ぶぎょうであった時代じだいさかのぼる。

 石谷清昌いしがやきよまさ勘定かんじょう奉行ぶぎょうつとめていた時分じぶん松平まつだいら忠郷たださともまた、勘定かんじょう奉行ぶぎょうつとめていた。

 ただし、石谷清昌いしがやきよまさ勝手かってがたであったのにたいして、松平まつだいら忠郷たださと公事くじがたであった。

 このうち、評定所ひょうじょうしょへの列席れっせきゆるされているのは公事くじがたであり、それゆえ公事くじがたほう勝手かってがたよりも格式かくしきではうえであった。

 だがそれはあくまで名目めいもくじょうであり、実質的じっしつてきには財政政策ざいせいせいさく金融政策きんゆうせいさく立案りつあんする勝手かってがたほう権力けんりょくがあった。

 それは「余得よとく」にも反映はんえいされ、おな勘定かんじょう奉行ぶぎょうでも勝手かってがたほう公事くじがたよりもなにかと進物しんもつおおかったのだ。

 それゆえ松平まつだいら忠郷たださとはどうしても公事くじがたから勝手かってがたへと異動いどうしたかったようで、そこで忠郷たださとなりに種々しゅじゅ財政政策ざいせいせいさく金融政策きんゆうせいさく立案りつあんしてはそれを相役あいやく同僚どうりょう勘定かんじょう奉行ぶぎょうや、さらには直属ちょくぞく上司じょうしたる老中ろうじゅうとき側用人そばようにんであった意次おきつぐにも披瀝ひれきしてみせ、如何いかおのれ勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう相応ふさわしいか、自己じこアピールに余念よねんがなかった。

 だが、そんな忠郷たださと思惑おもわくとは裏腹うらはらに、忠郷たださと立案りつあんする財政ざいせい金融政策きんゆうせいさくはどれも的外まとはずれなものばかりであり、老中ろうじゅう勘定かんじょう奉行ぶぎょうから失笑しっしょう始末しまつであった。

 もっとも、忠郷たださとはそうとは気付きづかずに、的外まとはずれな財政ざいせい金融政策きんゆうせいさく立案りつあんつづけた。

 いや、それだけならばまだしも、勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう立案りつあんする財政ざいせい金融政策きんゆうせいさくくちばしれる、いや、文句イチャモンをつけるにいたって、勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう本来ほんらい業務ぎょうむ支障ししょう出始ではじめたのだ。

 こうなっては勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうこうむ被害ひがい迷惑めいわく甚大じんだいであり、たまりかねた石谷清昌いしがやきよまさ今一人いまひとり勝手かってがたつとめていた川井かわい越前守えちぜんのかみ久敬ひさたか老中ろうじゅう、それも側用人そばようにんより老中ろうじゅう就任しゅうにんしたばかりの意次おきつぐ泣付なきついた。

松平まつだいら忠郷たださとには公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうとしての職務しょくむ専念せんねんするよう老中ろうじゅうからさとしてしいと懇願こんがんしたのであった。

 そこで意次おきつぐはとりあえず、ほか老中ろうじゅうにもこのけんはかったところみな賛成さんせいであった。

 ほか老中ろうじゅうにしても松平まつだいら忠郷たださとのその「自己じこアピール」もとい、的外まとはずれな財政ざいせい金融政策きんゆうせいさくかされることに内心ないしんウンザリ、辟易へきえきはじめていたところであった。

 かくして老中ろうじゅうなかでも当時とうじ新人ルーキーであった意次おきつぐ松平まつだいら忠郷たださとへの、言うなれば「訓戒役くんかいやく」をつとめることになった。

 もっとも、その場合ばあい忠郷たださとへの「訓戒くんかい」、

公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうとしての職務しょくむ専念せんねんするように…」

 それは、忠郷当人たださととうにんにしてみれば、

「おまえには勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうとしての能力のうりょくはない…」

 そう引導いんどうわたされたも同然どうぜんであり、忠郷たださと羞恥しゅうち屈辱くつじょくさいなまれ、結果けっか、それがこうじて忠郷たださとはまず意次おきつぐうらみ、いで勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう石谷清昌いしがやきよまさ川井久敬かわいひさたかうらようになった。

 意次おきつぐおのれ引導いんどうわたしたのはひとえに、

石谷清昌いしがやきよまさ川井久敬かわいひさたか意次おきつぐめに讒言ざんげんしたからに相違そういあるまい…」

 そうしんじてうたがわなかったからだ。

 松平まつだいら忠郷たださと石谷清昌いしがやきよまさへの個人的こじんてき感情かんじょう、もというらみは斯様かようなものであり、忠郷たださと石谷清昌いしがやきよまさ指揮しきによる「家宅かたく捜索そうさく」の「監視役かんしやく」という立場たちば職権しょっけん利用りよう、いや、濫用らんようしてそのうらみをらさんと、石谷清昌いしがやきよまさ一挙手一投足いっきょしゅいっとうそく文句イチャモンをつける始末しまつであった。

 もっとも、これには相役あいやく同僚どうりょう大目付おおめつけとしておなじく「監視役かんしやく」をつとめていた大屋おおや明薫みつしげたまりかねたらしく、

「いい加減かげんいたせっ」

 明薫みつしげ忠郷たださとをそう一喝いっかつしたのであった。

 明薫みつしげ忠郷たださとよりも年上としうえということもあろうが、それ以上いじょうに、大目付おおめつけなかでも道中どうちゅう奉行ぶぎょう兼務けんむしていたために、つまりは筆頭ひっとうであるために、さしもの忠郷たださともそのよう明薫みつしげからの一喝いっかつってはだまむよりほかになかった。

 大目付おおめつけ筆頭ひっとう明薫みつしげの「一喝いっかつ」により、石谷清昌いしがやきよまさようやくにまともな指揮しきれるようになった。

 その結果けっか、「家宅かたく捜索そうさく」がはじまってからおよそ、一刻いっときはん(約3時間)ほど経過けいかしたころであろうか、

 いけから歓声かんせいがり、そのこえで「指揮官しきかん」の石谷清昌いしがやきよまさもとより、「監視役かんしやく」の大目付おおめつけみないけへといそいだ。

 石谷清昌いしがやきよまさらがいけそばまでいたころにはすでに、いけから引揚ひきあげたものとおぼしき水浸みずびたしの着物きものと、そして大小だいしょう二本にほん地面じめんかれていた。

 石谷清昌いしがやきよまさ配下はいか同心どうしん説明せつめいによれば、それらのしなはやはりいけそこしずんでいたものらしく、重石おもしとして着物きものにも大小だいしょう二本にほんにも夫々それぞれいしくくけられていたそうな。

 たしかに、水浸みずびたしのそれらにはいしくくけられていた。

 松平まつだいら忠郷たださとはその同心どうしん懐疑的かいぎてきにらんだ。

「おまえ仕込しこんだものではないのか…」

 もっと言えば、石谷清昌いしがやきよまさめいにより、仕込しこんだものではないのかと、忠郷たださとはそう物語ものがたっていた。

 そばにいた大屋おおや明薫みつしげもそうと気付きづくや、咳払せきばらいをしてから、

「されば、石谷殿いしがやどのもとより、配下はいか與力よりき同心どうしんいたるまで、徹底的てっていてきに、そのあらためたではござるまいか…」

 石谷清昌いしがやきよまさとその配下はいか與力よりき同心どうしんたいして、大目付おおめつけみずから、徹底的てっていてき身体しんたい検査けんさをしたことを、忠郷たださとおもさせたのであった。

 それは勿論もちろん、「家宅かたく捜索そうさく」にはいまえはなしであり、それゆえ與力よりき同心どうしん外部がいぶから証拠品しょうこひん持込もちこみ、それをいけなかしずめるなどと、そのよう芸当げいとう不可能ふかのう、つまりは「家宅かたく捜索そうさく」は正当せいとうおこなわれたというわけだ。

 忠郷たださともそれはかっていたが、どうしても石谷清昌いしがやきよまさへの悪感情あくかんじょうようは「憎悪ぞうお」がさきち、「家宅かたく捜索そうさく」の正当性せいとうせい素直すなおにはみとめられなかった。

 だが、そうは言っても如何いか忠郷たださととて、「家宅かたく捜索そうさく」の正当性せいとうせいみとめざるをず、そうであれば同心どうしんいけそこより発見はっけんした着物きもの大小だいしょう二本にほんは「家宅かたく捜索そうさく」にはいまえ重石おもしくくけていけそこしずめられたとかんがえるよりほかになかった。

 ともあれ同心どうしんはそれらしな重石おもしとをむすんでいたひもると、まずは着物きものからあらためた。

 着物きもの羽織はおりはかまであり、こちらも綺麗きれいたたまれてひもでしっかりとくくけられていたので、同心どうしんはそのひもいてみせた。

 それから同心どうしんはまず、羽織はおりからあらたメタ。するとその羽織はおりには三階菱さんかいびしがあしらわれており、つづいてあらためた着物きものはかまには茶色ちゃいろ変色へんしょくしたみが所々ところどころらばっていた。どうても血痕けっこんであった。

 そのあと同心どうしんは「メイン」とも言うべき大小だいしょう二本にほんあらためた。

 大小だいしょう二本にほんにしてもしっかりとひもくくけられており、同心どうしんはそのひもくとまず、太刀たちあらためた。

 太刀たち異常いじょうはなく、同心どうしんさやおさめると、つづいて脇差わきざしあらためた。

 その結果けっかおもったとおりであった。

 にはしっかりとくもりがあった。いけみずかっていたとは言え、しっかりとさやおさめられており、その太刀たちむすばれていたひも脇差わきざしつばさや部分ぶぶんわたって頑丈がんじょうかれていたかげで、みず浸入しんにゅうふせいだものとおもわれる。

 そのため幾分いくぶんかは変色へんしょくしているとは言え、にはくもりがしっかりとのこされていたようだ。

 ここ、向築地むこうつきじ下屋敷しもやしきにおける「家宅かたく捜索そうさく」には一橋ひとつばし用人ようにん齋藤齋宮さいとうさいぐう忠明ただあきら守山もりやま八十郎はちじゅうろう房覺ふさあき二人ふたり立会たちあっていた。

「これは一体いったい…」

 どう説明せつめいするつもりか…、石谷清昌いしがやきよまさはやはり、いけそば駈寄かけよった「立会人たちあいにん」たる齋藤齋宮さいとうさいぐう守山もりやま八十郎はちじゅうろう二人ふたりにそうみずけた。

 それにたいして、齋藤齋宮さいとうさいぐうにしろ、守山もりやま八十郎はちじゅうろうにしろ、まともな申開もうしひらきも出来できない様子ようすで、ただかぶりるばかりであった。

 だが、「犯行はんこう」に下手人げしゅにんけていた着衣ちゃくい兇器きょうきであることはうたがいがないようおもわれた。それは松平まつだいら忠郷たださとさえもみとめざるをなかった。

 そこで石谷清昌いしがやきよまさ配下はいか與力よりき同心どうしんめいじて、さら邸内ていないまさに、

くまなく…」

 捜索そうさくさせた。無論むろん下手人げしゅにん発見はっけんためであり、松平まつだいら忠郷たださとにも異論いろんさしはさ余地よちはなかった。

 だが下手人げしゅにんは、すなわち、小笠原おがさわら主水もんどしくは黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん姿すがたはどこにもなかった。

 するともしや、小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんいずれか、あるいはその両者りょうしゃ一橋ひとつばし門内もんないにある上屋敷かみやしきにてかくまわれているのかと、石谷清昌いしがやきよまさはそうかんがえ、配下はいか同心どうしん一橋ひとつばし門内もんないにある上屋敷かみやしきへとはしらせた。

いけそこしずめられていた、犯行はんこう着衣ちゃくい兇器きょうきつかった…」

 それを上屋敷かみやしきの「家宅かたく捜索そうさく」の指揮しき依田よだ政次まさつぐつたえるためであり、さらに、

「しかし下手人げしゅにんおぼしき小笠原おがさわら主水もんどあるいは黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん姿すがたはなく、このうちのいずれか、しくは両人りょうにん上屋敷かみやしきにてかくまわれているやもれず、そこで上屋敷かみやしき捜索そうさくさら徹底てっていしてしい…」

 それもあわせてつたえさせるためであった。

 こうして石谷清昌いしがやきよまさよりの言伝ことづて依田よだ政次まさつぐへとつたえられ、依田よだ政次まさつぐ仰天ぎょうてんした。

 依田よだ政次まさつぐも「家宅かたく捜索そうさく」にはいまえは、「半信半疑はんしんはんぎ」であった。

「よもや、三卿さんきょうともあろうかたが、おな三卿さんきょう追落おいおとすべく、ころしに関与かんよするものであろうか…」

 依田よだ政次まさつぐにしろ、石谷清昌いしがやきよまさにしろ、将軍しょうぐん家治いえはるより直々じきじきに、一橋ひとつばし屋形やかたの「家宅かたく捜索そうさくめいじられたおり、その「趣旨しゅし」についても家治いえはるより打明うちあけられていた。すなわち、

次期じき将軍しょうぐんめぐって、一橋ひとつばし治済はるさだがその最右翼さいうよく位置いちするおとうとである重好しげよし追落おいおとし、おのれ重好しげよしわって次期じき将軍しょうぐんとなるべく、そこで重好しげよし配下はいか用人ようにん小笠原おがさわら主水もんど小十人こじゅうにんがしら黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん両者りょうしゃひそかにつうじ、おももちいるおく池原良誠いけはらよしのぶそく良明よしあきらあやめ、そのつみ家老かろうの…、やはり重好しげよし配下はいか家老かろう本多ほんだ昌忠まさただかずくことで、重好しげよしには昌忠まさただ主君しゅくんとして、その管理かんり責任せきにんわせんとしている…、さすれば重好しげよし次期じき将軍しょうぐんよりすべちるは必定ひつじょうと…」

 一橋ひとつばし治済はるさだがそのよう姦計かんけいめぐらして小笠原おがさわら主水もんどか、あるいは黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんめいじて池原いけはら良明よしあきらころさせたのだと、依田よだ政次まさつぐ石谷清昌いしがやきよまさ二人ふたり家治いえはるよりそうかされたわけだが、それでも当初とうしょ政次まさつぐは、清昌きよまさにしてもそうであったろうが、半信半疑はんしんはんぎであった。

 だが、こうして一橋ひとつばし下屋敷しもやしきより、そのいけのそこから、「犯行はんこう」に小笠原おがさわら主水もんどか、あるいは黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんにつけていたとおぼしき着衣ちゃくいと、そのうえ兇器きょうきまでが発見はっけんされたとなると、俄然がぜん家治いえはるはなし信憑性しんぴょうせいしてきた。

 そこで依田よだ政次まさつぐさらに「家宅かたく捜索そうさく」を徹底てっていすることにした。

 依田よだ政次まさつぐもそれまでは、上屋敷かみやしきなかでも「大奥おおおく」にはけてはいなかった。

 だがこうなった以上いじょうは「大奥おおおく」にもけざるをない。

 もっとも、これには「大奥おおおく」の男子だんし役人やくにん、そのなかでも責任者せきにんしゃである廣敷用人ひろしきようにん平田ひらた重右衛門じゅうえもん政好まさよし平井ひらい逸平俊相いっぺいとしすけ二人ふたり依田よだ政次まさつぐまえ立塞たちふさがった。

廣敷向ひろしきむきかく方様かたさま若君様わかぎみさまが、おらしあそばされている殿向てんむきにまであしれる所存しょぞんかっ」

 それが平田ひらた重右衛門じゅうえもん平井ひらい逸平いっぺい抗議こうぎ趣旨しゅしであった。

 方様かたさまこと、治済はるさだ愛妾あいしょうとみと、そのあいだにもうけた若君様わかぎみさまこと一橋ひとつばし嫡子ちゃくし豊千代とよちよせば、さしもの依田よだ政次まさつぐ引下ひきさがるとでもおもったのであろう。

 だが生憎あいにくと、御城えどじょう大奥おおおくからも、その秋霜烈日しゅうそうれつじつぶりがおそれられている依田よだ政次まさつぐにはそのような「こけおどし」は通用つうようしなかった。

 平田ひらた重右衛門じゅうえもん平井ひらい逸平いっぺい抗議こうぎ、もとい「こけおどし」にたいしても依田よだ政次まさつぐは、

顔色一かおいろひとえず…」

 如何いかにもと、平然へいぜんこたえてみせたかとおもうと、配下はいか與力よりき同心どうしんしたがえて、みずか先頭せんとうって大奥おおおくへと、それもとみ豊千代とよちよらす殿向てんむきへとんだ。

 殿向てんむきにはとみやそのせがれ豊千代とよちよほかにも、とみおなじく治済はるさだ愛妾あいしょう喜志きよしと、治済はるさだ喜志きよしとのあいだまれた三人さんにん男児だんじ力之助りきのすけ雅之助まさのすけ、そして慶之丞けいのすけらしていた。

 喜志きよし治済はるさだとのあいだにもうけた、これら三人さんにん男児だんじはまだ幼児おさなごであり、ことに慶之丞けいのすけ先月せんげつの4月にまれたばかりであった。

 ともあれ、殿向てんむきには三人さんにん幼児おさなごかしつけられているために、さしもの依田よだ政次まさつぐ幼児おさなごには配慮はいりょせた。

 すなわち、極力きょくりょくおとてずに、迅速じんそくに「捜索そうさく」をおこなよう小声こごえでもって與力よりき同心どうしんにそうめいじたのであった。

 一方いっぽうとみ喜志きよしにしてみれば、依田よだ政次まさつぐとその配下はいか與力よりき同心どうしん突然とつぜん闖入者ちんにゅうしゃ同然どうぜんであったが、その「家宅かたく捜索そうさく」をこばよう真似まねはせず、夫々それぞれ我子わがこ寄添よりそい、女中じょちゅうがまたそれを…、夫々それぞれ母子ぼし取囲とりかこんでまもっていた。

 さて、殿向てんむきの「捜索そうさく」だが、小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん発見はっけんにこそいたらなかったものの、そのわり、二人ふたりのものとおぼしき着物きもの数着すうちゃく押入おしいれから発見はっけんされた。

 そのうち一着いっちゃく羽織はおりにはまる揚羽蝶あげはちょう紋所もんどころがあしらわれており、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん羽織はおりだと推察すいさつされた。

 まる揚羽蝶あげはちょう紋所もんどころ黒川くろかわ家紋かもんであるからだ。

 してみると、着物きものたばなかでも唯一ゆいいつはかま黒川くろかわ久左衛門きゅざえもんのそれだとおもわれた。

 ほかにも着物きもの数着すうちゃく発見はっけんされたことから、どうやら小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん二人ふたりはここ、殿向てんむきにてらしていたものとおもわれる。

 政次まさつぐがそんなことをかんがえていると、そばで「捜索そうさく」を見守みまもっていた廣敷用人ひろしきようにん平田ひらた重右衛門じゅうえもん平井ひらい逸平いっぺいにもつたわったのであろう、一切いっさいあずからないことだと言わんばかりに、大仰おおぎょうかぶりってせた。

 もっとも、平田ひらた重右衛門じゅうえもん平井ひらい逸平いっぺい立場たちばからすれば、そうこたえるよりほかになく、それゆえ説得力せっとくりょくにはけていた。

 問題もんだい小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん二人ふたりいま、どこにいるかであった。

 ここ殿向てんむき生活せいかつ痕跡こんせき見受みうけられたが、その姿すがたはどこにも見当みあたらない。

捜索そうさく予期よきして、何処いずこかへげた…」

 依田よだ政次まさつぐはまず、その可能性かのうせいかんがえた。

 だが、「家宅かたく捜索そうさく」は将軍しょうぐん家治いえはる親裁しんさいにより、しかもその今日きょうのうちにはじめられたものである。

 しかも家治いえはる治済はるさだに「証拠しょうこ湮滅いんめつ」をさせないためにも、家老かろう共々ともども御城えどじょうとどまらせていた。

 勿論もちろん公平こうへいして、重好しげよし家老かろう共々ともども御城えどじょうとどまらせた。

 そうであれば、小笠原おがさわら主水もんどにしろ、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんにしろ、事前じぜんに「家宅かたく捜索そうさく」を予期よきするのは不可能ふかのうというものであろう。

 将軍しょうぐん家治いえはるとう屋敷やしきの「家宅かたく捜索そうさく」に踏切ふみきるつもりらしい…、それを小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんつたえるものそんしないからだ。

 そこで依田よだ政次まさつぐはもうひとつの可能性かのうせいおもかべた。

すでに…、手遅ておくれか…」

 二人ふたりともすでに、くちふさがれた…、可能性かのうせいとしては、こちらのほうたかようおもわれた。

 治済はるさだにとって小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん存在そんざいまさ爆弾ばくだんそのものであった。

 黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん袋物ふくろもの問屋どんや西川にしかわ伊兵衛いへえかたより、清水家老しみずがろう本多ほんだ昌忠まさただ名代みょうだいとして、昌忠まさただ注文ちゅうもんしておいた印籠いんろう根付ねつけ受取うけとった4月4日、久左衛門きゅうざえもんはその印籠いんろう根付ねつけにしたまま逐電ちくでん清水屋敷しみずやしきより出奔しゅっぽんし、小笠原おがさわら主水もんどもまた、この逐電ちくでんした。

 その小笠原おがさわら主水もんどあるいは黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんいずれかが4月9日に池原いけはら良明よしあきら刺殺しさつしたとすれば、4月4日から9日にかけての6日間、小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん二人ふたりはここ、一橋ひとつばし上屋敷かみやしきの、それも大奥おおおく殿向てんむきにてらしていた、いや、いきひそめていたとかんがえられる。

 そして9日、暮六つ(午後6時頃)以降いこう池原いけはら良明よしあきら刺殺しさつした小笠原おがさわら主水もんどあるいは黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんが…、目撃者もくげきしゃ証言しょうげんおよび、下屋敷しもやしきいけそこから引揚ひきあげられた羽織はおりかんがわせれば小笠原おがさわら主水もんどであろうか、その主水もんど着物きものいていることにづいて、そこで向築地むこうつきじにある一橋ひとつばし下屋敷しもやしき駈込かけこみ、そこで羽織はおりとそれにいた着物きものはかま脱捨ぬぎすて、真新まあたらしい着物きもの着替きがえると、いままでけていた羽織袴はおりはかま一式いっしき重石おもしくくけていけそこしずめ、同様どうよう大小だいしょう二本にほんも、とりわけ血曇ちくもりでよごれた脇差わきざしをも重石おもしくくけて、やはりいけそこしずめた…。

 それから小笠原おがさわら主水もんど一橋ひとつばし門内もんないにある上屋敷かみやしきへともどり、しかしそこで、治済はるさだによって…、治済はるさだめいけた一橋ひとつばし家臣かしんによってくちふさがれた…。

 無論むろん主水もんどとも一橋ひとつばし大奥おおおくにていきひそめていた黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんもまた、「用済ようずみ」としてやはりくちふさがれた…。

 依田よだ政次まさつぐはそこまでかんがえると、即座そくざ配下はいか與力よりき一橋ひとつばしもん門番所もんばんしょへとはしらせた。

 かりに、小笠原おがさわら主水もんど池原いけはら良明よしあきら刺殺しさつしたあと、まずは向築地むこうつきじにある一橋ひとつばし下屋敷しもやしきにおいてよごれた着物きもの脱捨ぬぎすてて真新まあたらしい着物きもの着替きがえ、そのうえ脱捨ぬぎすてた着物きものさらには大小だいしょう二本にほんいけしずめたのち、ここ一橋ひとつばし門内もんないにある一橋ひとつばし上屋敷かみやしきもどったとしたならば、当然とうぜん、暮六つ(午後6時頃)はゆうぎていたであろう。なにしろ、池原いけはら良明よしあきら刺殺しさつした時点じてんすでに暮六つ(午後6時頃)はぎていたからだ。

 だとするならば、暮六つ(午後6時頃)ぎに、ここ一橋ひとつばし上屋敷かみやしき辿たどくには、一橋ひとつばしもん門番所もんばんしょにて、

住所じゅうしょ氏名しめい年齢ねんれい職業しょくぎょう

 それを台帳だいちょう記入きにゅうしてからでないと、絶対ぜったいもんくぐって門内もんないへとはいることは出来できない。

 そこで依田よだ政次まさつぐ與力よりき一橋ひとつばしもん門番所もんばんしょへとはしらせたのであった。門番所もんばんしょ備付そなえつけ台帳だいちょうに、それも本年ほんねん4月9日の暮六つ(午後6時頃)以降いこうくだりに、小笠原おがさわら主水もんど名前なまえが、いや、しかしたら黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん名前なまえがあるかどうか、それをたしかめさせるためであった。

 だが結果けっかは「収穫しゅうかくなし」であった。小笠原おがさわら主水もんど名前なまえもとより、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん名前なまえさえもつけることは出来できなかった。

 依田よだ政次まさつぐ與力よりきからその結果けっかかされて、「やはりな…」とおもった。

 それはほかでもない、かり池原いけはら良明よしあきら刺殺しさつした小笠原おがさわら主水もんど向築地むこうつきじにある一橋ひとつばし下屋敷しもやしき駈込かけこんでたならば、そこで一橋ひとつばし家臣かしんによってそのくちふさがれたとおもわれるからだ。

 小笠原おがさわら主水もんどは「用済ようずみ」となれば、その時点じてんくちふさぐ…、それが「既定路線きていろせん」だったとするならば、みすみす小笠原おがさわら主水もんど上屋敷かみやしきへともどらせるはずはないからだ。

 それよりも下屋敷しもやしきにてそのくちふさぐのが「合理的ごうりてき」というものであろう。

 しかしたら、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん小笠原おがさわら主水もんど池原いけはら良明よしあきら刺殺しさつしたころときおなじくしてそのくちふさがれたのやもれぬ。

 依田よだ政次まさつぐはそうおもいたったが、それでもねんためすべての與力よりき10人を総動員そうどういん御城えどじょう内郭ないかくもんなかでも、雉子橋きじばし神田橋かんだばし常盤橋ときわばし呉服橋ごふくばし鍛冶橋かじばし数寄屋橋すきやばし日比谷ひびや、そして馬場先ばばさき和田倉わだくら竹橋たけばしかくもん門番所もんばんしょくぐって一橋ひとつばし上屋敷かみやしきへと辿たど方法ルートもあるからだ。

 ちなみに馬場先ばばさき和田倉わだくらかんしては、櫻田さくらだもんくぐって門内もんないへと、西之にしの丸下まるしたて、そこからさら馬場先ばばさきしくは和田倉わだくらいずれかのもんくぐって門外もんそと一橋ひとつばし上屋敷かみやしきへと辿たど方法ルートであり、一方いっぽう竹橋たけばしもんかんしては、田安たやすしくは清水しみずいずれかのもんくぐって門内もんないはいり、そこから竹橋たけばしもんくぐって門外もんそとへと一橋ひとつばし上屋敷かみやしきへと辿たど方法ルートであった。

 だがその結果けっかもまた、「収穫しゅうかくなし」であり、これで「仕事しごと」をえた小笠原おがさわら主水もんど一橋ひとつばし門内もんないにある一橋ひとつばし上屋敷かみやしき辿たどいた可能性かのうせいはほぼゼロと言えた。

「4月9日…、その向築地むこうつきじにある当家とうけ下屋敷しもやしきめていたものは?」

 依田よだ政次まさつぐだれとはなしに、そうたずねた。

 このいの意味いみするところはあきらかであり、そばにいた一橋ひとつばし家臣かしん青褪あおざめさせた。

 ともあれそのいには家老かろう田沼たぬま能登守のとのかみ意致おきむねこたえた。ちなみに相役あいやく、もう一人ひとり家老かろう水谷みずのや但馬守たじまのかみ勝富かつとみ今日きょう治済はるさだとも登城とじょうしたために、そのまま御城えどじょうにて足止あしどめらっていた。

「されば…、そのなればおおくのもの下屋敷しもやしきに…」

 意致おきむねもまたかお青褪あおざめさせながらそうこたえた。

おおくのものもうされるか?」

 依田よだ政次まさつぐ意致おきむねいまこたえ意味いみはかりかね、そう問返といかえした。

 すると意致おきむねもそうとさっしたのであろう、「左様さよう…」とこたえると、4月1日より19日までのあいだ下屋敷しもやしき家臣かしんが、

わるわる…」

 出入ではいりしていたことを打明うちあけたのであった。

 つまりはこういうことである。

 4月19日、治済はるさだ愛妾あいしょう喜志きよし男児だんじ出産しゅっさんした。

 これが慶之丞けいのすけであるが、一橋ひとつばしの、それも上屋敷かみやしきめていた家臣かしん喜志きよし出産しゅっさん間近まぢかひかえた4月1日より、

産穢さんえ…」

 それをける名目めいもく下屋敷しもやしきへと入浸いりびたっていたそうな。

 いや、「産穢さんえ」とはそもそもまれた父母ふぼ、この場合ばあいには慶之丞けいのすけ父母ふぼである治済はるさだ喜志きよしりかかる「けがれ」のことであり、家臣かしん関係かんけいない。

 それにかりに、本当ほんとうに「産穢さんえ」をおそれているならば、上屋敷かみやしきめている家臣かしん一同いちどう下屋敷しもやしきへとうつり、上屋敷かみやしきにて喜志きよしが「おさん」をえるのをたなければならない。

 それを「わるわる」とはようするに、「産穢さんえ云々うんぬん」はただの名目めいもく…、主君しゅくん治済はるさだなにかとうるさい存在そんざい家老かろうぬすんで、ことにうるさい家老かろう、それも水谷勝富みずのやかつとみぬすんで、勝富かつとみとどかない下屋敷しもやしきで、

「ドンちゃんさわぎ…」

 それにきょうじたいだけであった。

 だが、上屋敷かみやしきめる家臣かしんみな一斉いっせい下屋敷しもやしきへとうつり、「ドンちゃんさわぎ」をえんじては、主君しゅくん治済はるさだつかえるべきものがいなくなってしまい、流石さすが支障ししょうるということで、そこで上屋敷かみやしきめる家臣かしんは、

わるわる…」

 下屋敷しもやしきへとうつる、つまりは「ドンちゃんさわぎ」をえんじたということらしかった。

 この事態じたい、いや醜態しゅうたい治済はるさだ黙認もくにんしたようだが、家老かろう水谷勝富みずのやかつとみ見逃みのがさず、下屋敷しもやしききたいものは、つまりは「ドンちゃんさわぎ」をえんじたければ、そのむね記録きろくとどめることを提案ていあんしたのだ。

 こうして4月1日より3日までの3日間程度ていど家臣かしん勝富かつとみの「言付いいつけ」をまもり、記帳きちょうしてから下屋敷しもやしきへと出向でむいたそうだが、しかしそれも3日までのはなしであり、4日以降いこうだれ勝富かつとみのその「言付いいつけ」をまもらずに、勝手かって下屋敷しもやしきへと出向でむようになったそうな。

 それも暮六つ(午後6時頃)まえ上屋敷かみやしき脱出ぬけだして下屋敷しもやしきへとあしばしては、翌朝よくちょうの明六つ(午後6時頃)ぎに、まださけにおいただよわせながら下屋敷しもやしき上屋敷かみやしきもどるという醜態しゅうたいぶりであったそうな。

 この事態じたい醜態しゅうたいにはさしもの治済はるさだや、それに家老かろう意致おきむねまゆひそめたそうで、それ以上いじょうおなじく家老かろう勝富かつとみ激怒げきどした。

 いや、これで以前いぜん勝富かつとみであれば、一橋ひとつばし家臣かしんたちも、その威厳いげんみな自然しぜん屈従くつじゅうしていた。

 だが、2月に次期じき将軍しょうぐん家基いえもとこうじてからというもの、勝富かつとみはめっきりとんでしまった。所謂いわゆる

老境ろうきょうかげ…」

 それが差込さしこようになってしまい、以前いぜんならばけっして見逃みのがすことがなかったわずかな非違ひいも、家基いえもと先立さきだたれてからというもの、激怒げきどするのが精一杯せいいっぱいであり、一橋ひとつばし家臣かしんもそんな勝富かつとみあなどようになった。

 勝富かつとみ提唱ていしょうしたくだん記帳きちょうについても「三日法度みっかはっと」でわってしまったこともそれを如実にょじつ物語ものがたっていた。

 ともあれ、かる次第しだいで4月9日、向築地むこうつきじにある下屋敷しもやしきだれめていたかなど、正確せいかくにはからないとのことであった。

「なれど…、当家とうけには目附めつけもおられよう…」

 三卿さんきょう屋形やかたには家中かちゅう取締とりしまるものとして、家老かろうとも目附めつけはいされてはいた。

 しかし、一橋ひとつばしにおいては、その目附めつけもまた、率先そっせんして「ドンちゃんさわぎ」にきょうじていたそうな。

 意致おきむねからそうかされた依田よだ政次まさつぐはそのあまりの醜態しゅうたいぶり、乱脈らんみゃくぶりにいたくちふさがらなかった。

 もっとも、それで引下ひきさがるわけにもゆかない。

 依田よだ政次まさつぐ意致おきむねふくめて、ここにいる一橋ひとつばし家臣かしん全員ぜんいんから聴取ちょうしゅをすることにした。

 池原いけはら良明よしあきら刺殺しさつされた4月9日、この上屋敷かみやしきめていた家臣かしんのうち、だれ向築地むこうつきじ下屋敷しもやしきへとあしばしたのか、それを解明ときあかすためである。ちなみに普段ふだん下屋敷しもやしきには用人ようにん齋藤齋宮さいとうさいぐう守山もりやま八十郎はちじゅうろう二人ふたり用人ようにんわずかばかりの小者こものめているだけであった。

 そして與力よりき同心どうしんによる聴取ちょうしゅ結果けっか女中じょちゅうまでもが酌婦しゃくふとして下屋敷しもやしきへと連出つれだされていたことが判明はんめいした。

 意致おきむね当然とうぜん、そんことは把握はあくしていたはずだが、あまりの醜態しゅうたいさに、流石さすが先程さきほど依田よだ政次まさつぐ聴取ちょうしゅにも言い出しかねたものと見える。

 その女中じょちゅう酌婦しゃくふとして下屋敷しもやしきへと連出つれだすことを提案ていあんしたのが、小十人こじゅうにんがしら松平まつだいら源左衛門げんざえもん康備やすなりであることも、一橋ひとつばし家臣かしん一同いちどうへの聴取ちょうしゅ結果けっか判明はんめいした。

 松平まつだいら源左衛門げんざえもんは、どうせドンちゃんさわぎにきょうじるならばと、女中じょちゅう酌婦しゃくふにすることをおもいたそうで、そこで廣敷用人ひろしきようにん平田ひらた重右衛門じゅうえもん平井ひらい逸平いっぺい二人ふたり口説くどいたそうな。

 女中じょちゅう大奥おおおくにてつかえるであり、その女中じょちゅう酌婦しゃくふとして連出つれだそうとおもえば、大奥おおおく許可きょか必要ひつようであった。

 だが、松平まつだいら源左衛門げんざえもん三卿さんきょう屋形やかたにおいては、表向おもてむき役人やくにんである小十人こじゅうにんがしら役職ポストにあり、それゆえ男子だんし禁制きんせい大奥おおおくあしれることはゆるされておらず、そのよう松平まつだいら源左衛門げんざえもん大奥おおおくゆるしようとおもえば畢竟ひっきょう廣敷用人ひろしきようにんたよるしかない。

 三卿さんきょう屋形やかたにおける大奥おおおく事実上じじつじょう取仕切とりしき男子だんし役人やくにん廣敷用人ひろしきようにんであり、この廣敷用人ひろしきようにんならば松平まつだいら源左衛門げんざえもんでも接触せっしょく可能かのうだからだ。

 松平まつだいら源左衛門げんざえもん廣敷用人ひろしきようにん平田ひらた重右衛門じゅうえもん平井ひらい逸平いっぺい二人ふたりたよったのはかる事情じじょうによる。

 一方いっぽう平田ひらた重右衛門じゅうえもんにしろ、平井ひらい逸平いっぺいにしろ、おとこである以上いじょう松平まつだいら源左衛門げんざえもん気持きもちはいたほど理解りかい出来できたので、そこでこのむね大奥おおおく女主おんなあるじとも言うべきとみ取次とりついだのであった。

 治済はるさだ愛妾あいしょう喜志きよし出産しゅっさん間近まぢかひかえているこの時期じきに、女中じょちゅう酌婦しゃくふとして下屋敷しもやしき連出つれだそうとは、

なんたる不謹慎ふきんしん…」

 とみからは、そうそしられてもいたかたなかったが、あん相違そういしてとみはこれを快諾かいだくした。

 とみ喜志きよしともに、治済はるさだ愛妾あいしょうであり、わば「対抗関係ライバル」にあった。

 いや、とみ治済はるさだとのあいだにもうけた豊千代とよちよすでに、一橋ひとつばし嫡子ちゃくしさだめられていたので、とみ治済はるさだ側室そくしつとはもうせ、実質的じっしつてきには正室せいしつ同然どうぜんであった。

 そうであれば、一介いっかい側室そくしつぎない喜志きよしなど、とみにしてみれば最早もはや

ものかずではない…」

 つまりは「対抗関係ライバル」ですらなかったと言えよう。

 それでもとみ喜志きよし好感情こうかんじょういてはおらず、その喜志きよしが「おさん」でくるしんでいるこの時期じきに、

女中じょちゅう酌婦しゃくふとして下屋敷しもやしきへと連出つれださせるのも面白おもしろいかも…」

 そんな意地悪いじわる、と言うよりは悪戯心いたずらごころから松平まつだいら源左衛門げんざえもん申出もうしでゆるしたのであろう。

 いや、松平まつだいら源左衛門げんざえもんにしてもとみならば、喜志きよしへの意趣いしゅからゆるしてくれるにちがいないと、そんな打算ださんがあっやに相違そういない。

 かくして松平まつだいら源左衛門げんざえもん思惑通おもわくどおり、女中じょちゅう酌婦しゃくふとして下屋敷しもやしきへと連出つれだすことに成功せいこうした次第しだいであった。

 その松平まつだいら源左衛門げんざえもんだが、「ツメ」をおこたらなかった。

 それと言うのも、松平まつだいら源左衛門げんざえもんおのれ提案ていあんゆるされたことを廣敷用人ひろしきようにん平田ひらた重右衛門じゅうえもん平井ひらい逸平いっぺいよりつたえられるや、今度こんど主君しゅくん治済はるさだたいして、

目附めつけ徒頭かちがしら女中じょちゅう護衛ごえいやくとしてけてしい…」

 そう提案ていあんしたのであった。

 さけまれた家臣かしん酌婦しゃくふ女中じょちゅうからぬ「わるさ」をしないともかぎらず、そこでさけせきにおいて目附めつけまさに、

目附めつけやく

 としてひからせてもらえれば、女中じょちゅうに「わるさ」をするよう不心得ふこころえものることもあるまいと、松平まつだいら源左衛門げんざえもん治済はるさだにそう提案ていあんしたのであった。

 同時どうじに、上屋敷かみやしき下屋敷しもやしき女中じょちゅう往来ゆききすることになるので、徒頭かちがしら女中じょちゅうまもってもらえれば、

「これほど心強こころづよいものはない…」

 ということで、そこで松平まつだいら源左衛門げんざえもん目附めつけとも徒頭かちがしらにも、ドンちゃんさわぎがきょうじられるあいだはずっと、それこそ、

毎日まいにち…」

 女中じょちゅういてもらいたいと、治済はるさだにそうもとめたそうな。

 無論むろん、それはあくまで「口実こうじつ」にぎず、

目附めつけ徒頭かちがしらには毎日まいにち、ドンちゃんさわぎにきょうじさせてやろう…」

 その思惑おもわくかくれしていた。

 そうすることで、目附めつけ徒頭かちがしらおんることが出来できるからだ。

 三卿さんきょう屋形やかたにおける目附めつけ家老かろうともに、家臣かしん行動こうどうまさに「一挙手一投足いっきょしゅいっとうそく」にひからせるのを職掌しょくしょうとしていた。

 その目附めつけ無視むしして、ドンちゃんさわぎにきょうじようとすれば、かならずや目附めつけから横槍クレームはいるにちがいなかった。

おれたち目附めつけ尻目しりめに、手前テメェらだけたのしみやがって…」

 ようはそれであり、そこで目附めつけにも、

さけせきでの目附めつけやく…」

 その名目めいもくで、毎日まいにちのドンちゃんさわぎにきょうじさせてやれば、横槍クレームれられるのを完全かんぜんふせげるというものである。

 一方いっぽう徒頭かちがしらにも目附めつけ同様どうよう毎日まいにちのドンちゃんさわぎにきょうじさせてやろうとしたのは、こちらは完全かんぜんに、

松平まつだいら源左衛門げんざえもん個人的こじんてき事情じじょうによるものであろう…」

 というのが聴取ちょうしゅおうじた、源左衛門げんざえもんのぞ家臣かしん一致いっちした見方みかたであった。

 すなわち、小十人こじゅうにんがしらである松平まつだいら源左衛門げんざえもんく、一段階ワンランクうえ徒頭かちがしらへの昇進しょうしんねらっており、しかし、それには先任せんにん徒頭かちがしら推薦すいせんおおいに「モノ」を言う。

 事実じじつ去年きょねん―、安永7(1778)年にそれまで徒頭かちがしらであった松本まつもと藤七郎とうしちろう正兊まさみち目附めつけへと一段階ワンランク昇格しょうかくたしたおりに、その後任こうにんとして一介いっかい小姓こしょうであった岩本いわもと喜内きない正信まさのぶ抜擢ばってきされたのはひとえに、松本まつもと藤七郎とうしちろう推挙すいきょの「賜物たまもの」と言えた。

 松本まつもと藤七郎とうしちろう徒頭かちがしらより目附めつけへと昇進しょうしんするさいして、治済はるさだたいして、おのれ後任こうにん小姓こしょう岩本いわもと喜内きない推挙すいきょしたのであった。

 無論むろん、そこには松本まつもと藤七郎とうしちろうなりの「打算ださん」も勿論もちろんあったにちがいない。

 打算ださん、それはほかでもない、岩本いわもと喜内きない治済はるさだ愛妾あいしょうとみ叔父おじたり、とみ治済はるさだとのあいだにもうけた、一橋ひとつばし嫡子ちゃくし豊千代とよちよにとっては大叔父おおおじたる。

 それゆえ、その岩本いわもと喜内きないおのれ後任こうにんとして徒頭かちがしら推挙すいきょしてやれば、治済はるさだおぼえも目出度めでたくなると、松本まつもと藤七郎とうしちろうはそんな「打算ださん」をはたらかせたに相違そういあるまい。

 だが、松本まつもと藤七郎とうしちろうの「打算ださん」、思惑おもわくかくとして、藤七郎とうしちろう推挙すいきょがなければ、岩本いわもと喜内きない藤七郎とうしちろう後任こうにんとして徒頭かちがしら昇進しょうしんたすことはかなわなかったであろう。

 かり松本まつもと藤七郎とうしちろうおのれ後任こうにんとして岩本いわもと喜内きないではなく、だれほかもの徒頭かちがしら推挙すいきょしたならば、如何いか治済はるさだとて岩本いわもと喜内きない小十人こじゅうにんがしらへと昇進しょうしんさせることは無理むりであったろう。

 かる次第しだいで、小十人こじゅうにんがしらより徒頭かちがしらへと一段階ワンランク昇格しょうかくねら松平まつだいら源左衛門げんざえもんとしては、いまのうちから機会きかいつけては徒頭かちがしらおんっておくことが必要ひつよう…、それが衆目しゅうもく一致いっちするところであり、

徒頭かちがしらをも目附めつけともに、毎日まいにちのドンちゃんさわぎにきょうじさせてやろう…」

 それも、その延長線上えんちょうせんじょうにあったのであろう。

 ともあれ、松平まつだいら源左衛門げんざえもんのこの「提案ていあん」にたいして、治済はるさだもそうとさっすると即座そくざにこれをゆるした。

 なにしろ、松平まつだいら源左衛門げんざえもんのこの「提案ていあん」、ことに、

目附めつけ毎日まいにちのドンちゃんさわぎにきょうじさせる…」

 それは治済はるさだをも満足まんぞくさせるものであったからだ。

 治済はるさだよう三卿さんきょうにとって目障めざわりな存在そんざいと言えば、いち家老かろうならば目附めつけであった。

 御三卿さんきょう目附めつけ家老かろう同様どうよう三卿さんきょう家臣かしんの「一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくひからせるとともに、とう三卿さんきょうのそれにもひからせていたからだ。

 ことに熊谷くまがい五郎右衛門ごろうえもん正武まさたけ遠山とおやま市郎左衛門いちろうざえもん則親のりちかがそうであった。

 一橋ひとつばし屋形やかたにおいては目附めつけは4人おり、そのうち最古参さいこさん熊谷くまがい五郎右衛門ごろうえもんであった。

 熊谷くまがい五郎右衛門ごろうえもんなんと、最下級さいかきゅう廣敷添番ひろしきそえばんからの「叩上たたきあげ」であった。

 熊谷くまがい五郎右衛門ごろうえもん先代せんだい一橋ひとつばし始祖しそである宗尹むねただによって取立とりたてられ、最下級さいかきゅう廣敷添番ひろしきそえばんより、「八役はちやく」に幹部かんぶクラスの目附めつけへと昇進しょうしんたし、いまいたる。

 熊谷くまがい五郎右衛門ごろうえもんいま目附めつけへと辿たどいたのは宝暦12(1762)年のことであり、先代せんだい宗尹むねただがまだ存命ぞんめいおり、つまりは宗尹むねただによって取立とりたてられたわけで、さしもの治済はるさだもこの熊谷くまがい五郎右衛門ごろうえもんには遠慮えんりょちであり、熊谷くまがい五郎右衛門ごろうえもんもそうとさっして治済はるさだには遠慮えんりょするところがなく、その「一挙手一投足いっきょしゅいっとうそく」にひからせた。

 治済はるさだとしては、そのよう不遜ふそんなる「前世紀ぜんせいき遺物いぶつ」など、「馘首クビ」にしたいのが本音ほんねであったが、

熊谷くまがい五郎右衛門ごろうえもんおももちいるように…」

 それが宗尹むねただ遺言いごんであり、そうである以上いじょう如何いか治済はるさだいえども、先代せんだいのこの遺言いごん無視むしするわけにはまいらず、治済はるさだとしては大変たいへん不本意ふほんいではあるが、いまでも熊谷くまがい五郎右衛門ごろうえもんをそのまま、目附めつけになしおいていた。

 そのよう次第しだいで、治済はるさだ熊谷くまがい五郎右衛門ごろうえもん大変たいへん目障めざわりであり、そのことはこれまた、

周知しゅうち事実じじつ

 というやつであり、そこで松平まつだいら源左衛門げんざえもん一時いっときあいだではあるが、熊谷くまがい五郎右衛門ごろうえもん治済はるさだよりとおざけるべく、下屋敷しもやしきにて繰広くりひろげられる毎日まいにちの「ドンちゃんさわぎ」に、

目附めつけやくとして目附めつけを…」

 などと言出いいだしたに相違そういあるまい。そうすれば畢竟ひっきょう目附めつけ一人ひとりである熊谷くまがい五郎右衛門ごろうえもん下屋敷しもやしきへとあしはこばなければならないからだ。

 そしておなじことは遠山とおやま市郎左衛門いちろうざえもんにも言えた。

 市郎左衛門いちろうざえもんちち遠山とおやま市郎右衛門いちろうえもん則敏のりとしともに、親子二代おやこにだいわたって一橋ひとつばし屋形やかたつかえていた。

 いや、ちち市郎右衛門いちろうえもんこそ先代せんだい宗尹むねただ引立ひきたてにより小姓こしょうがしらへと昇進しょうしんたしたが、その市郎左衛門いちろうざえもん治済はるさだ引立ひきたてにより目附めつけへと昇進しょうしんたした。

 にもかかわらず、遠山とおやま市郎左衛門いちろうざえもん元来がんらい生真面目きまじめ性分しょうぶんにより、目附めつけとしての職務しょくむまっとうしようとした。

 つまりは家臣かしんのみならず、三卿さんきょうたる治済はるさだの「一挙手一投足いっきょしゅいっとうそく」にまでひからせていた。

 治済はるさだとしては遠山とおやま市郎左衛門いちろうざえもんには今少いますこし、「柔軟性じゅうなんせい」をってもらいたいところであったが、性分しょうぶんである以上いじょういたかたない。

 それでも遠山とおやま市郎左衛門いちろうざえもん熊谷くまがい五郎右衛門ごろうえもんとはちがい、流石さすが治済はるさだあなどようなところはなく、「一挙手一投足いっきょしゅいっとうそく」にひからせるとは言っても、どこか遠慮えんりょがあり、そのてん治済はるさだにとっては唯一ゆいいつすくいと言えようか。

 それでも鬱陶うっとうしいのもまた、まぎれもない事実じじつであったので、やはり一時いっときでもおのれからとおざけてくれるのならば有難ありがたい。

 それゆえ治済はるさだとしては目附めつけなかでも熊谷くまがい五郎右衛門ごろうえもん遠山とおやま市郎左衛門いちろうざえもん二人ふたりだけ、下屋敷しもやしきへととおざけてくれれば、つまりは「ドンちゃんさわぎ」に参加さんかさせてくれればそれでかった。

 だが、それではほか目附めつけ松本まつもと藤七郎とうしちろうとそれに村山むらやま藤九郎とうくろう有成ありしげだまってはいないだろう。

何故なにゆえ俺達おれたちはドンちゃんさわぎに参加さんか出来できないのか」

 目附めつけなかでも松本まつもと藤七郎とうしちろう村山むらやま藤九郎とうくろうならばかならずやそうかんがえるにちがいない。

 松本まつもと藤七郎とうしちろう村山むらやま藤九郎とうくろう熊谷くまがい五郎右衛門ごろうえもん遠山とおやま市郎左衛門いちろうざえもんとはまさに、正反対せいはんたいであり、目附めつけとしての職務しょくむまっとうすることよりも、目附めつけを「だい」に、さらなるキャリアアップ、昇進しょうしんたすことしかあたまになく、それゆえ治済はるさだ取入とりいった。治済はるさだとしてはまことぎょやすく、それゆえ松本まつもと藤七郎とうしちろう村山むらやま藤九郎とうくろう二人ふたりならば別段べつだんとおざける必要性ひつようせいはなかった。

 だが、松本まつもと藤七郎とうしちろう村山むらやま藤九郎とうくろう立場たちばからすれば、ドンちゃんさわぎに参加さんか出来できないことになり、ヘソげないともかぎらない。

 それならば目附めつけ全員ぜんいんを「ドンちゃんさわぎ」にきょうじさせるのが無難ぶなんであろう。

 もっとも、熊谷くまがい五郎右衛門ごろうえもん遠山とおやま市郎左衛門いちろうざえもん二人ふたり生真面目きまじめに、

さけせきさけまれた家臣かしん酌婦しゃくふつとめる女中じょちゅうわるさをしないようひからせる…」

 その「建前たてまえ」を忠実ちゅうじつたそうとするにちがいなく、そこで治済はるさだ松本まつもと藤七郎とうしちろう村山むらやま藤九郎とうくろう二人ふたりたいして、

熊谷くまがい遠山とおやまには建前たてまえつらぬかせぬよう、よくよく言含いいふくめてもらいたい…」

 そう「因果いんが」をふくませたのであった。

 つまりは熊谷くまがい五郎右衛門ごろうえもん遠山とおやま市郎左衛門いちろうざえもん二人ふたりにも、ドンちゃんさわぎにきょうじるよう言含いいふくめてもらいたいというわけだ。

 それにたいして松本まつもと藤七郎とうしちろうにしろ村山むらやま藤九郎とうくろうにしろ、もとよりそのつもりであったので、治済はるさだのこの「因果いんが」を即座そくざ呑込のみこむや、それを裏付うらづけるかのように、

女中じょちゅう案内役あんないやく

 その名目めいもくで、松平まつだいら源左衛門げんざえもんにも毎日まいにちのドンちゃんさわぎに参加さんかさせることを提案ていあんしたのであった。

 これは女中じょちゅう酌婦しゃくふとして連出つれだすことに成功せいこうしたことにたいする、そのうえ目附めつけにもその「おこぼれ」にあずからせたことにたいする、

「ご褒美ほうび

 それも、松本まつもと藤七郎とうしちろう村山むらやま藤九郎とうくろうからの「ご褒美ほうび」であった。

 治済はるさだとしてももとより、松平まつだいら源左衛門げんざえもんにはなんらかのかたちむくいるつもりでいたらしく、松本まつもと藤七郎とうしちろう村山むらやま藤九郎とうくろうによるこの提案ていあん、もとい「ご褒美ほうび」を即座そくざ諒承りょうしょうしたそうな。

 かくして4月1日から19日までのあいだ下屋敷しもやしきへと毎日足まいにちあしはこんだのは、酌婦しゃくふつとめる女中じょちゅうのぞいては、「酒席しゅせき目附めつけやく」をつとめる熊谷くまがい五郎右衛門ごろうえもん遠山とおやま市郎左衛門いちろうざえもん松本まつもと藤七郎とうしちろう村山むらやま藤九郎ろうくろうの4人の目附めつけに、「女中じょちゅう護衛ごえいやく」をつとめる徒頭かちがしらである岩本いわもと喜内きないと、それに喜内きないおなじく徒頭かちがしら堀内ほりうち半三郎はんざぶろう氏昉うじあきら久野くの三郎兵衛さぶろうべえ芳矩よしのりの3人、都合つごう8人であった。

 ちなみに「女中じょちゅう案内役あんないやく」という余禄よろく役得やくとく小十人こじゅうにんがしら松平まつだいら源左衛門げんざえもんだが、源左衛門げんざえもんほかにも、中津河なかつがわ武右衛門ぶえもん光和てるやす守能もりのり平三郎へいざぶろう正明まさあきらという二人ふたり小十人こじゅうにんがしらがおり、そこで松平まつだいら源左衛門げんざえもんは、

毎日交代まいにちこうたいで…」

 案内役あんないやくつとめることにした。つまりは3人が毎日交代まいにちこうたいでドンちゃんさわぎにきょうじることにしたわけだ。

 いや、松平まつだいら源左衛門げんざえもん治済はるさだ鬱陶うっとうしくおも目附めつけ熊谷くまがい五郎右衛門ごろうえもん遠山とおやま市郎左衛門いちろうざえもん二人ふたり一時いっときとは言え、治済はるさだからとおざけることにしたその「こう」により、毎日まいにち、「案内役あんないやく」をつとめることも、つまりはドンちゃんさわぎにきょうじることも可能かのうであった。松平まつだいら源左衛門げんざえもんがそれをのぞむのであれば、治済はるさだとしてはそれをゆるすつもりでいた。

 それどころか、治済はるさだとしては、小十人こじゅうにんがしらなかでも松平まつだいら源左衛門げんざえもんだけに「案内役あんないやく」をつとめることをめいじてもいとさえおもっていたそうな。

 それを松平まつだいら源左衛門げんざえもん拝辞はいじし、

相役あいやく中津河なかつがわ武右衛門ぶえもん守能もりのり平三郎へいざぶろう毎日交代まいにちこうたいにて、案内役あんないやくつとたく…」

 治済はるさだにそうねがったそうな。このことは中津河なかつがわ武右衛門ぶえもん守能もりのり平三郎へいざぶろう聴取ちょうしゅにより判明はんめいした事実じじつであった。

 小十人こじゅうにんがしらより徒頭かちがしらさらには徒頭かちがしらより目附めつけあるいは「八役はちやく」へと昇進しょうしんのぞ松平まつだいら源左衛門げんざえもんようものにとっては上役うわやくからの支持しじもとより、相役あいやく同僚どうりょうからの支持しじもまたおなじぐらい、いや、それ以上いじょう重要じゅうようと言えた。

 それゆえ松平まつだいら源左衛門げんざえもんは、

毎日まいにち、ドンちゃんさわぎにきょうじられる…」

 その余禄よろく役得やくとくひとめせずに、相役あいやく同僚どうりょううことにしたのだろう、というのが源左衛門げんざえもん相役あいやくたる小十人こじゅうにんがしら中津河なかつがわ武右衛門ぶえもん守能もりのり平三郎へいざぶろう一致いっちした見立みたてであった。

 さて、そのほかにも「毎日交代まいにちこうたい」で、ドンちゃんさわぎにきょうじた家臣かしんがいた。

 たとえば用人ようにんならば、下屋敷しもやしき常駐じょうちゅうする齋藤齋宮さいとうさいぐう守山もりやま八十郎はちじゅうろうのぞいては、永井ながい與右衛門よえもん定之さだゆき横尾よこお六右衛門ろくえもん昭平てるひら大林おおばやし與兵衛よへえ親用ちかもちの3人が交代こうたいでドンちゃんさわぎにきょうじた。

 ちなみに今一人いまひとり用人ようにん杉山すぎやま嘉兵衛かへえ美成よししげは、

喜志きよしたってのねがいにより…」

 大奥おおおくにて「足止あしどめ」をらい、ドンちゃんさわぎにきょうじることは出来できなかった。

 杉山すぎやま嘉兵衛かへえ本来ほんらい大奥おおおくには立入たちいれないであったが、とみと、それに喜志きよし両人りょうにんからの寵愛ちょうあいあつく、それゆえ用人ようにんなかでは唯一人ただひとり大奥おおおく立入たちいることがゆるされていた。

 喜志きよし出産しゅっさん間近まぢかひかえ、杉山すぎやま嘉兵衛かへえそばにいてくれることをつよねがったそうで、杉山すぎやま嘉兵衛かへえもそんな喜志きよしのたってのねがいを無下むげには出来できず、喜志きよし出産しゅっさんまでのあいだ、ずっとそのそば付添つきそっていたそうな。

 それゆえ杉山すぎやま嘉兵衛かへえはドンちゃんさわぎにきょうじることは出来できなかったのだ。

 さてそこで4月9日だが、この用人ようにんなかでは大林おおばやし與兵衛よへえがドンちゃんさわぎにきょうじるばんだったそうな。

 一方いっぽうはた奉行ぶぎょう長柄ながえ奉行ぶぎょうとも一人ひとりしかおらず、そこで本来ほんらいならばはた奉行ぶぎょう長柄ながえ奉行ぶぎょう交代こうたいでドンちゃんさわぎにきょうじるべきところ、はた奉行ぶぎょう平岡ひらおか喜三郎きさぶろう茂高しげたか長柄ながえ奉行ぶぎょう土山つちやま甚十郎じんじゅうろう紀時のりとき二人ふたりともに、年齢とし理由りゆうにドンちゃんさわぎにきょうじるのを辞退じたいした。

 このとき―、安永8(1779)年の時点じてん土山つちやま甚十郎じんじゅうろうかぞえで65、平岡ひらおか喜三郎きさぶろういたってはかぞえで82であった。成程なるほど、そのとしではドンちゃんさわぎにきょうじるのもつらいものがあろう。

 また、物頭ものがしらについては末吉すえよし三十郎さんじゅうろう利房としふさ猪飼いかい茂左衛門もざえもん正義まさよし飯田いいだ八左衛門はちざえもん補好すけよし山本やまもと武右衛門ぶえもん正凭まさよりの4人が毎日交代まいにちこうたいでドンちゃんさわぎにきょうじ、4月9日は末吉すえよし三十郎さんじゅうろうの「ばん」であった。

 それからこおり奉行ぶぎょう勘定かんじょう奉行ぶぎょうとも定員ていいんが2人ということで、こおり奉行ぶぎょうについては稲守いなもり三左衛門さんざえもん榮正よしまさ木村きむら源助敬忠げんすけゆきただが、勘定かんじょう奉行ぶぎょうについては小倉小兵衛おぐらこへえ雅周まさちか寒河かんこう宇八郎うはちろう常員つねかず夫々それぞれ毎日交代まいにちこうたいでドンちゃんさわぎにきょうじ、4月9日にドンちゃんさわぎにきょうじたこおり奉行ぶぎょう稲守いなもり三左衛門さんざえもん勘定かんじょう奉行ぶぎょう小倉おぐら小兵衛こへえであった。

 そして、4月9日に向築地むこうつきじにある下屋敷しもやしきでドンちゃんさわぎにきょうじたものであると、しか判明はんめいしたのはここまでであった。

 それ以外いがいの、たとえば小姓こしょう近習番きんじゅうばんあるいは納戸頭なんどがしら賄頭まかないがしら台所頭だいどころがしらといった者達ものたちについてはみな

記憶きおくにございません…」

 証人喚問しょうにんかんもんばりの台詞セリフそろえた。

 また、酌婦しゃくふつとめた女中じょちゅうにしてもそうであった。

 これで水谷勝富みずのやかつとみ指図さしずしたがい、きちんと台帳だいちょう記録きろくとしてその名前なまえ書留かきとめさせていたならばと、依田よだ政次まさつぐはそうおもわずにはいられなかった。

 ともあれ、これで池原いけはら良明よしあきら刺殺しさつされた4月9日、向築地むこうつきじにある一橋ひとつばし下屋敷しもやしき一橋ひとつばし家臣かしん参集さんしゅうしたことはあきらかとなった。

 そこで依田よだ政次まさつぐ先程さきほど下屋敷しもやしきいけそこから下手人げしゅにんもとい小笠原おがさわら主水もんどのものとおもわれる羽織袴はおりはかま一式いっしきと、さら兇器きょうきおぼしき脇差わきざしまでがつかったことをおのれつたえに石谷清昌いしがやきよまさからの使者ししゃたいして、小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん二人ふたりがここ、一橋ひとつばし上屋敷かみやしき大奥おおおくにてかくまわれていた蓋然性がいぜんせいたかいこと、さらに4月9日には下屋敷しもやしきに、

「ドンちゃんさわぎにきょうじる…」

 との名目めいもくにて向築地むこうつきじ下屋敷しもやしき一橋ひとつばし家臣かしん参集さんしゅうした事実じじつともに、

下屋敷しもやしき捜索そうさくさら徹底てっていするように…、ことに地面じめん掘返ほりかえして…」

 そう石谷清昌いしがやきよまさへの言伝ことづてたくしたのであった。

 かりに、「一仕事ひとしごとえた小笠原おがさわら主水もんどくだん下屋敷しもやしき駈込かけこんでたならば、いや、逃込にげこんでたならば、そしてそこに一橋ひとつばし家臣かしん参集さんしゅうしていたならば、小笠原おがさわら主水もんどをそのまま、一橋ひとつばし門内もんないにある上屋敷かみやしきへとかうのを、

「みすみす…」

 見逃みのがはずがなかった。そのにてくちふさいで、うずめたにちがいない。

 一方いっぽう石谷清昌いしがやきよまさおなじことをかんがえてはいた。

 だが、かりにも三卿さんきょう下屋敷しもやしき地面じめん掘返ほりかえすとなると、相当そうとう覚悟かくご必要ひつようとする。

 如何いか将軍しょうぐん家治いえはるめいにより、「家宅かたく捜索そうさく」をおこなているとはもうせ、地面じめんまで掘返ほりかえしてなにてこなければ、その時点じてん石谷清昌いしがやきよまさの「役人人生やくにんじんせい」はわると言っても過言かごんではない。

 それゆえ、さしもの石谷清昌いしがやきよまさ地面じめん掘返ほりかえすことには躊躇ちゅうちょしていたのだが、そこへ上屋敷かみやしきの「家宅かたく捜索そうさく」にたっていた依田よだ政次まさつぐからの言伝ことつでいて、それで石谷清昌いしがやきよまさはらくくった。

地面じめんすべ掘返ほりかえすのだっ!」

 石谷清昌いしがやきよまさ配下はいか與力よりき同心どうしんにそうめいじたのであった。

 家宅かたく捜索そうさく適正てきせい執行しっこうされているかどうか、それを見届みとどけるべくされた大目付おおめつけにしても、石谷清昌いしがやきよまさのこのめい意味いみするところはぐにかった。

 だがそれに異論いろんとなえる大目付おおめつけ誰一人だれひとりとしていなかった。いままで捜索そうさく邪魔じゃまばかりしてきた松平まつだいら忠郷たださとでさえもそうであった。

 その結果けっか遺体いたい発見はっけんされたのだ。
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