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将軍・家治が奏者番ではあるが、未だ大名ですらない部屋住の身の田沼意知を若年寄へと進ませる真の理由 後篇 ~池原良明殺人事件~ 2
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清水屋敷もまた、その門前には門番所があり、門番が目を光らせていた。
清水御門橋を渡る時には御門橋を守る門番もとい旗本から誰何されることはなかった川副佐兵衛であったが、本丸とも言うべき清水屋敷へと足を踏み入れるに際しては、流石に門番の許しを得る必要があった。
川副佐兵衛は門番所に詰める門番に対して身分を明かした上で、家老の本多讃岐守昌忠への面会を希望、その旨、昌忠に取次いでくれる様、頼んだ。
この門番は清水番頭の杉浦頼母勝明組下の小長谷友三郎時殷なる者であり、小長谷友三郎はまずは直属の上司たる杉浦頼母にこの件を伝えた。
それ故、実際に本多昌忠に取次いだのは番頭の杉浦頼母であり、昌忠より川副佐兵衛に逢おうとの返事を得た杉浦頼母は門番所にて待つ川副佐兵衛の許へと足を運ぶと、そこで川副佐兵衛に対して、己が小長谷友三郎の直属の上司に当たる番頭であることを教えた上で、川副佐兵衛を昌忠が待つ奥座敷へと案内した。
こうして奥座敷にて川副佐兵衛は昌忠と対面を果たすや挨拶もそこそこ、早速、本題に入った。
本題とは外でもない、件の印籠の件であり、川副佐兵衛が印籠の件を切出すと、昌忠の方から西川伊兵衛に50両にて印籠とそれに根付の注文をしたことを打明けたのであった。
これでどうやら、昌忠が西川伊兵衛に印籠と根付を注文したことが完璧に裏付けられたと言えよう。
問題はここからであった。
「ときに…、その印籠と根付は?」
今、何処にあるのかと、川副佐兵衛はそれを問うた。
そのうち、印籠が池原良明が殺害された現場に遺留されていた事実はまだ外部には伏せられていたので、昌忠が下手人でもない限りは知らない筈であった。
ともあれ川副佐兵衛のその問いかけに昌忠は表情を曇らせると、
「それが受取ってはおらんのだ…」
そう応えた。
無論、それが小十人頭の黒川久左衛門盛宣より受取っていないことを言っているのだと、川副佐兵衛には即座に理解出来たものの、ここは慎重を期して、
「それは如何なる仕儀にて?」
敢えて素知らぬ風を装った。本多昌忠当人の口から聞く必要があったからだ。
すると昌忠も川副佐兵衛のその意図を察してか、詳しい事情を説明した。
即ち、印籠と根付が完成したのは4月3日のことであり、その日、西川伊兵衛が昌忠の許へと遣いを寄越してその旨、昌忠に伝えたそうな。
それに対して昌忠は本来ならばその翌日の4日に自ら、西川伊兵衛の許へと足を運んで印籠を受取りたいところであったが、しかし、4月4日はどうしても外せない用事があったのだ。
外せない用事とは外でもない、家基の法会であり、ことに4日は御三家、御三卿は元より群臣―、全ての幕臣が御城へと登城、正に総登城しなければならず、御三卿家老も勿論、その例外ではなかった。
それ故、その4日はどうしても印籠と根付を取りには行けず、そこで昌忠は代理として小十人頭の黒川久左衛門を立てたそうな。
「それは…、本多様が黒川殿に、お命じになられたことで?それとも…」
黒川久左衛門が自ら望んだことなのか…、川副佐兵衛がそう尋ねようとすると、
「されば久左衛門が自ら、申出たのだ…、いや、身共が印籠と根付の件で悩んでいると…、直ぐにでも取りに行きたいところ、それが出来ずに悩んでおると、久左衛門がそれなればと、気を利かせてくれたのだ…」
昌忠は先手を打つ格好でそう答えた。
昌忠はその上で、黒川久左衛門のその申出を有難く頂戴し、そこで引換伝票と共に半金の25両を久左衛門に携えさせたことをも打明けたのであった。
「それで…、にもかかわらず印籠と根付は黒川殿より受取ってはおられない、と?」
川副佐兵衛は改めて昌忠にその点を糺した。
「左様…」
「されば…、黒川殿は西川伊兵衛より半金の25両と引換えに印籠と根付を受取った後、この御屋敷には帰ってはおられない、と?つまりはその、出奔されたと?」
川副佐兵衛は先回りしてそう尋ねた。昌忠が黒川久左衛門より印籠と根付を受取ってはいないとすると、そう考えるより外になかったからだ。
すると昌忠は渋面となりつつ、「左様」と応えた。
「黒川殿の行き先に心当たりは…」
川副佐兵衛のその問いは探索における常道と言えた。
「うむ…、もしや実家かと思うて、そこで濱町へと…」
昌忠の説明によると、黒川久左衛門は新番組頭を勤めた旗本・黒川左門盛章の三男であった。つまりは旗本の次男、三男で構成される「附切」の身分で清水家に仕えていたのだ。
その黒川久左衛門の実家である旗本・黒川家の屋敷は濱町にあり、しかも寺社奉行・牧野惟成の「お隣」とのことである。
ともあれ清水家としては濱町にあるその黒川家へと人を、番頭の杉浦頼母とその相役、同僚の番頭である近藤助八郎義貫の2人を差向けたそうな。
その時の黒川家の当主は黒川内匠盛胤で、黒川久左衛門の甥に当たる。
即ち、久左衛門が実兄にして先代の黒川左太郎盛武の嫡子がこの、内匠盛胤であり、その時、黒川家の屋敷には家臣の外には隠居の身の左太郎とその妻女の筑、そして当主の内匠とその妻女の山尾の4人が暮らしていた。
そこへ、杉浦頼母と近藤助八郎の2人が訪れ、久左衛門の実兄にして隠居の身の左太郎と、その息にして当主である内匠の両名に、黒川久左衛門出奔の事実を伝えたのであった。
いや、一応は「行方知れず」とオブラートに包みはしたものの、その意味するところは出奔しかあり得ない。
しかも番頭という、御三卿の家臣の中でも家老、御側御用人に次ぐ幹部クラスが2人も直々に足を運んだからには、
「この黒川家にて久左衛門の身柄を匿っているのではあるまいか…」
2人を差向けた清水家の当主たる重好がそう疑っているのを如実に物語っていた。
それに対して左太郎にしろ、内匠にしろ、仰天したらしい。
出奔など初耳であり、ましてやその身柄を匿うなど、とんでもない…、左太郎・内匠父子は杉浦頼母と近藤助八郎の2人に対して、
「気が済むまで家捜しして貰って結構…」
そう口を揃えたそうな。
そんな2人の様子から、杉浦頼母にしろ近藤助八郎にしろ、ここ黒川家には久左衛門はいないだろうと、察せられはしたものの、それでも念の為、杉浦頼母と近藤助八郎の2人は無駄であるのは承知の上で、家捜しをさせて貰った。
その結果は案の定と言うべきもので、黒川久左衛門の姿はどこにも見当たらず、そこで杉浦頼母と近藤助八郎の2人は左太郎・内匠父子に家捜しさせて貰ったことへの謝意を述べると共に、もし黒川久左衛門から連絡がある様なら、或いは姿を見せたならば至急、その旨、伝えてくれる様、頼んで黒川家を辞去したそうな。
それが4月6日の話であった。重好としては直ぐにでも黒川家へと人を差向けるつもりの様であったが、それを昌忠が制して、とりあえず、出奔当日の4日と、その翌日の5日は猶予を与えたそうな。その間に黒川久左衛門が帰ってくるかも知れないからだ。
だが結局、4月6日になっても黒川久左衛門は帰っては来ず、そこで黒川家に人を差向けることとし、番頭の杉浦頼母と近藤助八郎の2人を差向けたという訳だ。
「ときに…、印籠と根付の件は黒川家の者には…」
「いや、まだ伏せてある…、それを打明ければ、久左衛門が印籠と根付を盗んだ下手人となるからの…、いや、まだ盗んだと決まった訳ではあるまいによって…」
それで黒川家の人間には印籠と根付の件は打明けなかったのだと、昌忠は川副佐兵衛に教えた。つまりは黒川家への配慮からであった。
「それでは印籠と根付の件を御存知なのは…」
「この身共を除いては主の宮内卿様と、それに相役の吉川殿と側用人の本目権右衛門、番頭の杉浦頼母と近藤助八郎だけで、用人も知らぬことぞ…」
「左様で…」
「して、その印籠と根付が如何致したと申すのだ?」
昌忠はこの段になって漸くに、印籠と根付の件をクドクドと訊く川副佐兵衛に疑念を抱いた様子であった。それが当然の反応と言えよう。
そこで川副佐兵衛もここで漸くに、池原良明の殺害現場に印籠が遺留されていた件を昌忠に打明けたのであった。
すると昌忠は流石に驚いた様子を見せた。
「何と…、それなる池原雲亮が、身共が受取る筈であった印籠を握り締めて果てていたと申すのか…」
昌忠はそう呻く様に確かめた。
「左様で…」
「いや…、それではまるで、身共がそれな池原雲亮を殺めたかの様であるが…」
昌忠は己が池原良明殺しの下手人だと疑われているのではないかと、そう思ったらしい。
被害者である池原良明が握り締めていた印籠が、己が注文したそれであると聞かされれば、成程、そう思うのがこれまた当然であった。
だが実際には印籠の握り方から、池原良明が自ら握り締めた者ではなく、誰かに握らされたことをも、川副佐兵衛は昌忠に打明けたのであった。無論、昌忠を安心させる為であった。
「それでは…、下手人は身共を下手人に仕立てるべく、斯かる真似を…、池原雲亮に、この身共が受取る筈であった印籠を握らせたと申すのか?」
昌忠は己への疑惑が晴れると思ったのか、身を乗出して確かめた。
「恐らくは…、いや、その為にも印籠の行方が大事にて…、本多様の御話を伺いましたるところによれば、どうやらその印籠、根付と共に黒川殿が所持している可能性がかなり高く…、いえ、無論、池原雲亮が殺される前まで、でござりまするが…」
それは、昌忠を池原良明殺しの下手人に仕立てようとしたのは、つまりは池原良明殺しの真の下手人は黒川久左衛門である…、そう示唆するものであった。
昌忠も川副佐兵衛のその示唆に気付いたらしく、再び表情を曇らせると、「あの久左衛門が…」と呻いた。
「これは念の為に伺うのですが…」
川副佐兵衛が口にしたその口上は、「現場不在証明」を尋ねる時の、お決まりの文句であった。
「一昨日…、4月9日の暮六つ(午後6時頃)から宵の五つ半(午後9時頃)までの間、本多様はどこで何をなされておりましたでござりましょうや…」
「さしずめ、それが池原雲亮が殺められた刻限と?」
昌忠がそう尋ねたので、川副佐兵衛も素直に「はい」と首肯した。
いや、実際には「死亡推定時刻」は暮六つ(午後6時頃)でほぼ間違いないが、それでも念の為、「死亡推定時刻」を広めに取ったのであった。
ともあれ昌忠もまた、川副佐兵衛のその問いに素直に答えた。
「その日なれば、暮六つ(午後6時頃)どころか、それ以前から夜更けまで、ずっと弟の看病をしておったわ…」
これは意外な回答であり、川副佐兵衛は思わず、「看病?」と聞返していた。
すると昌忠は、「暫し待て」と告げてから川副佐兵衛を一人、奥座敷に残して廊下に出ると、それから暫くして、一人の男を連れて奥座敷に戻って来た。
そしてその男こそ、昌忠の弟こと本多六三郎長卿であり、物頭を勤めているとのことであった。
「ああ、申し忘れておったが、この六三郎めも印籠と根付の件は存じておったわ…」
昌忠が思い出したかの様に川副佐兵衛にそう告げると、傍でそれを聞いていた本多六三郎は「印籠と根付の件?」と聞返した。
そこで昌忠は六三郎にも川副佐兵衛を紹介した上で、これまでの川副佐兵衛とのやり取りを語って聞かせた。
「されば一昨日の9日は、そなたは歯痛に襲われたのであったの…、親知らずであったが…」
昌忠は実弟・六三郎にそう水を向けると、六三郎も「恥ずかしながら…」と応じた。
「歯痛、でござりまするか?」
川副佐兵衛は昌忠と六三郎兄弟の間を割って入る様に尋ねた。
するとそれには兄・昌忠が答えた。
「左様…、9日の昼九つ(正午頃)より急に苦しみ始めての…、いや、一昨日の9日は今日、11日と同じく、身共はこの屋敷にて留守を預かっており…」
御三卿家老は平日は交代で登城する。
この清水家を例に取れば、家老の本多昌忠と吉川摂津守從弼が交代で御城に登城し、中奥にある御三卿家老の詰所に詰め、その間、もう一人の家老が留守を預かることになる。
本多昌忠は今日、11日はこうして屋敷におり、つまりは留守を預かっていたからこそ川副佐兵衛を出迎えられた訳で、してみると昨日、10日は登城日に当たり、留守を預かっていたのは吉川從弼ということになる。
そして更にその前日の9日は今日11日と同じく、昌忠が留守を預かっていたという訳だ。
「まぁ、昼九つ(正午頃)に歯痛を発症したとは申せ、まだそれ程の痛みではなかった様で…、なれど宮内卿様が御城よりお戻りあそばされてから…、昼八つ(午後2時頃)を過ぎてから急に痛みが酷くなってな…」
御三卿は溜間詰や雁間詰、菊間詰の諸侯と同様、平日登城が許されており、そこが御三家との違いであった。
「恐らくは宮内卿様の御帰邸を迎え申上げたことで気が緩み、それ故にそれまで抑えられていた痛みが酷くなったのやも知れぬな…」
その気持ちは川副佐兵衛にも理解出来た。主君が無事に帰って来ると、家臣ならば本能的にホッとするものである。
「それでもこの六三郎めは痩せ我慢を致しおってな…、放っておけば治るなどと申して…」
昌忠はその時の様子を思い出したのであろう、苦笑を浮かべた。
成程、六三郎が痩せ我慢をしたのも川副佐兵衛にはまた理解出来た。武士たる者、歯痛程度で一々、医師になどには頼れまい。それもまた本能的なものと言えよう。
「だが、夕七つ(午後4時頃)には高熱まで発して…、遂には呻き声まで上げる始末にて…、それを…、その見苦しき有様に、お気付きあそばされし宮内卿様が見かねて医師の往診を…、歯科医の往診を、お命じあそばされて…」
そこで出張って来たのが医官、それも将軍・家治の御側近くに仕える奥医師にして法眼の安藤安仙正朋とのことであった。
「この御屋敷にも奥御医師がおられましょうに…」
川副佐兵衛は当然の疑問を発した。
御三卿の屋敷にも御城中奥同様、奥医師が常駐しており、それ故、
「態々、安藤安仙を呼ばずとも、この屋敷に常駐する奥医師に本多六三郎を診させれば良かったのではあるまいか…」
それが川副佐兵衛の問いの趣旨であった。
「いや、確かに奥医師はいるが、なれど本道(内科)と金創(外科)の外には婦人科と眼科、そして鍼科のみにて、生憎と口科はおらなんだ…」
成程、口科―、歯科医が存しないのなら、往診を頼むより外にはないだろう。
それにしても将軍・家治の御側近くに仕える奥医師に往診を頼むとは、中々に良い度胸をしている。
見様によっては、将軍を侮る行為とも受取られかねないからだ。
すると昌忠もそうと察したのか、
「いや、安藤安仙に失礼があってはならぬと、そこで身共が側用人の本目権右衛門を伴い、小川丁の神保小路へと…」
そう「言訳」した。成程、将軍の御側近くに仕える奥医師を迎える者として、従五位下諸大夫役の御三卿家老と従六位の布衣役の同じく御三卿の側用人の2人が務めれば、
「将軍を侮る行為…」
その批判を少しくはかわせるであろう。
「小川丁の神保小路…、そこに安藤殿は屋敷を構えられているので?」
「左様…」
流石、将軍の御側近くに仕える奥医師ともなると一等地に住めるものだと、川副佐兵衛は内心、感嘆させられた。
「して、安藤安仙殿がこの御屋敷に着かれましたのは…」
「身共と側用人の本目が安藤安仙の屋敷に着いたが夕の七つ半(午後5時頃)を過ぎた頃にて、それから安仙が往診の為の支度をして…、それ故、安仙が身共らと共にこの屋敷に着いたは暮六つ(午後6時頃)を過ぎた頃であったかの…」
昌忠は「暮六つ(午後6時頃)」の部分にアクセントを置いた。
己には池原良明殺人事件において「現場不在証明」がある…、そう示唆する為であろう。
昌忠のその思惑は兎も角、今の証言があれば成程、確かに完璧な「現場不在証明」と言えた。
同時にそれは側用人の本目権右衛門某の「現場不在証明」でもあった。
無論、裏を取る必要はあるだろうが、川副佐兵衛の直感からして、昌忠が嘘を付いているとは思えなかった。
つまりは昌忠の「現場不在証明」は完璧という訳だ。
一方、昌忠も川副佐兵衛の様子からそうと察したのであろう、
「お疑いなれば、清水御門番所にて確かめられては如何かな?」
成程、清水御門橋を渡って、つまりは清水御門番所を通過して、ここ清水屋敷に辿り着いたのならば、昌忠が言う通り、清水御門番所にて裏を取るのが探索の常道と言えた。
所謂、三十六見附は暮六つ(午後6時頃)にその門が閉じられ、以後、翌朝の明六つ(午前6時頃)までの12時間、門は堅く閉じられた状態となり、それ故、その間に橋を渡ろうと思えば、門番所に詰める門番の許しを得なければならぬ。
昌忠の場合、側用人の本目権右衛門と共に、安藤正朋を伴い、ここ清水屋敷に辿り着いたのは暮六つ(午後6時頃)を過ぎた時分とのことで、だとするならば清水御門橋を渡ったのはぎりぎり暮六つ(午後6時頃)か、それよりも少し遅れたあたりであろう。
いや、昌忠は川副佐兵衛に、
「清水御門番所にて確かめられては…」
そう勧めたことから、御門が閉じられる暮六つ(午後6時頃)には間に合わなかったものと思われる。
そしてその場合―、門が閉じられている間に橋を渡ろうと思えば門番所の門番の許しを得なければならないのは前述した通りだが、その際、身許を、所謂、
「住所、氏名、年齢、職業」
それを門番所に備付けの台帳に記す必要があり、仮に暮六つ(午後6時頃)を過ぎてから清水御門橋を渡ろうと思えば、安藤正朋は元より、ここ清水屋敷にて仕える家老の本多昌忠や側用人の本目権右衛門でさえも、門番所の門番の許しを得た上で、件の台帳に記帳しないことには橋を通行することは許されなかった。
「して、安藤安仙殿が治療を終えられたのは…」
川副佐兵衛は重ねてそう問うた。
「されば…、宵五つ(午後8時頃)であったかの…、結局は親知らずとのことで、親知らずを抜くのに時間がかかり…、なれど親知らずを引抜いた後には熱も下がり、頬の腫れも引き…」
昌忠は弟・六三郎を横目で見つつ、そう答えた。
「それで…、安藤安仙殿は治療を終えられました後には直ぐに帰られましたので?」
池原良明の「死亡推定時刻」は暮六つ(午後6時頃)から宵の五つ半(午後9時頃)までの間であり、それも暮六つ(午後6時頃)直後と思われるが、宵の五つ半(午後9時頃)である可能性もあった。
そうであれば仮に安藤正朋が宵五つ(午後8時頃)に治療を終えた直後に清水屋敷を出たとして、その直後に昌忠にしろ、六三郎にしと、清水屋敷を出れば、「死亡推定時刻」の範囲内である宵の五つ半(午後9時頃)までには「犯行現場」である芝は愛宕山権現社總門の橋にギリギリ間に合う。
いや、「犯行現場」に間に合うというだけで、直ぐにそれと殺人とがイコールで結びつく訳ではない。
何しろ、池原良明が市谷土取場にある学友・戸田要人の屋敷を出たのは夕の七つ半(午後5時頃)であり、何事もなければ暮六つ(午後6時頃)には池原良明は「犯行現場」とは目と鼻の先の愛宕下廣小路の屋敷に着いた筈であり、しかし実際には屋敷に着くことはなく、「犯行現場」で無念の最期を遂げたとなれば、池原良明が屋敷の門を潜る前に下手人に声でもかけられ、そして「犯行現場」へと誘き寄せられたと考えるのが自然であり、それこそが、
「死亡推定時刻は暮六つ(午後6時頃)の直後に相違ない…」
その根拠であった。
だがそれでも、「もしかしたら…」、があり得た。即ち、
「いったん屋敷に着いた池原良明が外から下手人に呼出され、そしてそのまま犯行現場へと誘き寄せられた…」
その「もしかしたら」も完全には捨て切れない段階では、「死亡推定時刻」が宵の五つ半(午後9時頃)である可能性も視野に入れておくべきであろう。
だがその、「もしかしたら」も結局は昌忠によって完全に否定されることになる。
「いや、そのまま帰したのでは安仙に申訳ないでな…」
「申訳ない、とは?」
「夕餉も摂らせずに帰したのでは申訳ないということよ…」
ああ、と川副佐兵衛は合点がいった。
成程、安藤正朋は夕食を摂る前に昌忠と本目権右衛門によって自邸より連出され、ここ清水屋敷にて昌忠の弟・六三郎の治療に当たらせられた、となれば夕食を摂る時間もなかったであろう。
「それでは安藤安仙殿に夕餉を差上げたので?」
川副佐兵衛が先回りして尋ねると、昌忠は「左様」と答えた上で、
「されば簡単な茶漬を振舞い…、いや、本来なれば、もそっとましな馳走を振舞いたかったのだがな、それでは時間がかかり…、いや、既に門限は過ぎてはいたが…」
旗本の門限は宵五つ(午後8時頃)であり、安藤正朋が六三郎の治療を終えたのが正にその宵五つ(午後8時頃)であるので、成程、安藤正朋の帰宅は畢竟、門限を過ぎることになる。
いや、安藤正朋の場合、幕府の医官、それも将軍・家治の御側近くに仕える奥医師として旗本に准ずる家格を誇るが、その役目柄、厳格には門限の概念はない。つまりは門限に遅れたとしても、それ程、問題になることはない。
ましてや、天下の御三卿・清水重好に請われて往診に出向いたからこそ、門限に遅れたもあらば、元より、門限を破ったところで問題になり様筈もない。
だが、そうは言っても一応、門限がある上は、安藤正朋としては一刻も早く帰りたいところであっただろう。
仮令、今から急いで清水屋敷を出て、神保小路にある自邸へと帰ったところで、門限には最早、間に合わないとしてもだ。
そこで昌忠はそんな安藤正朋に対して、用意に時間のかからない簡単な茶漬だけを振舞ったとのことであった。
「それでは結局、安藤安仙殿がこの御屋敷を出られましたのは…」
「されば宵の五つ半(午後9時頃)であったかの…、その折には六三郎めもすっかり恢復致して、御門まで安仙を見送ったわ…」
昌忠は苦笑まじりにそう証言した。
昌忠のこの証言が本当だとすれば、これで少なくとも昌忠とその弟の六三郎の「現場不在証明」が完全に裏付けられたことになる。
無論、裏を取る必要はある。
そこで川副佐兵衛は早速、清水御門番所にて確かめてみよう、門番所に備付けの台帳を繰ってみようと、そう思ったところで、屋敷の主の重好が還御、帰宅したことを告げる声が屋敷中に響いた。
重好は家老の吉川從弼と共に帰宅したのであった。即ち、今日は重好は吉川從弼と共に御城へと登城した訳で、明日は昌忠が登城する番であった。
さて、昌忠は川副佐兵衛に、「暫し待たれよ」と告げてから再び、中座した。これで川副佐兵衛は席を立つ機を失ってしまった。勝手に席を立って門番所へと足を向けては無作法だからだ。
そしてそれから暫くしてから昌忠が川副佐兵衛の許へと戻って来るなり、主・重好が御座所にて川副佐兵衛に会う意向であることを告げたのであった。
これに対して川副佐兵衛は当然、驚いた。川副佐兵衛は寺社役とは言え、その身はあくまで大名家の陪臣に過ぎないからだ。
その様な己に天下の、御三家をも凌ぐ御三卿たる清水重好が会ってくれるともなれば、川副佐兵衛が驚くのも至極当然であった。
ともあれ川副佐兵衛としては断る理由もなければ、その術すらなかったので、重好からの申出を有難く拝受し、かくして川副佐兵衛は昌忠の案内により重好の待つ御座所へと足を向けた。
御座所にて川副佐兵衛は上段にて鎮座する重好と対面を果たすと、当然ながら重好に対して平伏しようとした。
すると重好はそれを制した上、何と上段から降りて来て、川副佐兵衛と近距離で向かい合った。
「大まかな話は昌忠より聞いた…」
重好はそう切出すと、
「さればこの重好が行動も…、池原良明が害されたと思しき暮六つ(午後6時頃)から宵の五つ半(午後9時頃)までの行動を明らかにせねばならぬの…」
何と、重好自らの「現場不在証明」を申告しようとしたのだ。
これには川副佐兵衛も大いに恐縮させられ、
「その儀ばかりは何卒、ご容赦…、ご無用を…」
そう答えるなり、重好から制されたにもかかわらず思わず平伏していた。
事実、重好の「現場不在証明」など無用であった。
天下の御三卿たる重好が一介の奥医師を殺めるなど、到底考えられず、百歩譲って、殺めてしまったところで、罪に問うことなど出来ない。
それでも重好は引かず、
「されば一昨日の9日は暮六つ(午後6時頃)前より、宵五つ(午後8時頃)までの間、この重好が自ら見舞いの遣いの相手をしておったわ…」
そう「現場不在証明」を申告したのであった。
それ故、川副佐兵衛も、まずは重好に「現場不在証明」があることにホッとさせられると同時に、しかしそれとは裏腹に、疑問も湧いた。
「見舞いの遣い、でござりまするか?」
それが川副佐兵衛の疑問であった。
すると重好も「左様…」と応ずるや、「見舞いの遣い」について川副佐兵衛に詳しく説明した。
即ち、ここ清水屋敷は清水御門番によって守られており、そこで重好は門番所に詰める門番に朝食や昼食、それに夕食や夜食まで差入れるのを常としていた。
無論、重好が自ら差入れるのではなく、重好の名代として本多六三郎が食事を差入れるのであった。
それが9日に限って、六三郎は歯痛の為…、親知らずの痛みから、朝食と昼食こそ自ら差入れたものの、夕食は差入れられず、そこで用人の本目平七親平が夕食と、それに夜食を差入れたのであった。
夕食は大抵、夕七つ(午後4時頃)に差入れられ、9日もそうであった。
いや、門番所に差入れる膳だが、門番所に詰める全員分を差入れることになるので、結構な量となり、当たり前だが、一人で持ち切れるものではない。
そこで六三郎が清水御門の門番所に食事を届けるとは言っても、実際に膳を持運ぶのは小者、中間であり、六三郎がその先頭に立って門番所を訪れるのであった。
それが9日に限って、それも夕七つ(午後4時頃)に限って、いつもの六三郎ではなく、見慣れない者が、即ち、用人の本目平七が訪れたことから、門番所に詰めていた旗本の鈴木數馬安節が首を傾げたそうな。
それに対して本目平七もそうと察して、六三郎が歯痛で夕食を届けられず、そこで代わりに己が届けに来たことを鈴木數馬に教えたそうな。
それで鈴木數馬も合点がいき、同時に、「それなれば…」と六三郎を見舞うことを思いつき、しかし、自らは門番としての仕事があるので、そこで配下の家臣に命じて六三郎を見舞わせたそうな。
その折、重好が自ら、見舞いに訪れた斯かる遣いの者の接遇に努めたそうな。
いや、重好が接遇に努めたのは鈴木數馬の遣いの者だけではない、田安御門番や竹橋御門番より差向けられた遣いの者の接遇にも努めたのであった。
ここ清水屋敷は清水御門番は元より、田安御門番やそれに竹橋御門番によっても守られていたと言える。
ここ清水屋敷は田安屋敷とは真向かいで、清水屋敷と田安屋敷に挟まれる格好で田安御門番があった。
それ故、清水屋敷は田安御門番によって守られていたとも言える。
いや、外にも、もう一つ、竹橋御門によっても守られており、清水屋敷は言うなれば、田安御門、清水御門、そして竹橋御門に囲まれており、各々の門番所によって守られていた。
そこで重好は清水御門の門番所だけではなく、田安御門や竹橋御門、この二つの門番所にも差入れを行うのを常としていたのだ。
ちなみに田安御門の門番所への差入れは蔭山新五郎久廣が、竹橋御門の門番所への差入れは小野四郎五郎言貞が夫々担った。
蔭山新五郎も小野四郎五郎も、本多六三郎とは相役、同僚の物頭であり、やはり小者、中間に膳を運ばせ、己はその先頭に立って門番所へと足を運ぶのを日課としていた。
そして夫々の門番所へと食事を運んで来た蔭山新五郎にしろ、小野四郎五郎にしろ、自然と門番所に詰めている門番とは顔馴染みとなり、雑談を交わす間柄ともなる。
それは本多六三郎にも当て嵌まることだが、ともあれ、9日の夕七つ(午後4時頃)に夫々の門番所へと夕食を運んで来た際にもそうであり、即ち、蔭山新五郎は田安御門の門番に、小野四郎五郎は竹橋御門の門番に、夫々、雑談において本多六三郎の歯痛の件を打明けたらしいのだ。
すると田安御門、竹橋御門、夫々の門番所もまた、清水御門の門番所と同様の反応を示した。
その当時、田安御門番を勤めていたのは下総多古藩主の松平豊前守勝全であり、一方、竹橋御門番を勤めていたのは伊勢崎藩主の酒井駿河守忠温であった。
本来ならば見舞いの品を持参するのが礼儀であったが、何分、家基の喪中ということもあり、松平勝全にしろ酒井忠温にしろ、余り派手なことも出来ず、そこで僅かばかりの見舞金を包んで、共に門番を勤める家老に持たせた。ちなみにそれは鈴木數馬にしても同様であった。
一方、重好は鈴木數馬の名代の見舞いの遣いの者に対してのみならず、松平勝全や酒井忠温、夫々の名代の家老に対しても自らその接遇に努めたのだ。
具体的には彼等名代をまずは安藤正朋の治療を受けている本多六三郎の許へと案内し、そこで寝かされている六三郎と対面を果たさせたそうな。
六三郎は起き上がることが出来ず、しかしそれでも安藤正朋には治療を中断して貰い、名代には寝たままの状態で対面する無作法を詫びたらしい。
こうして名代に六三郎との対面を果たさせた重好は次いで夕食を振舞ったそうな。
無論、やはり家基の喪中ということもあり、酒こそ振舞えなかったものの、山野河海の珍味を振舞ったそうな。
その宴席には主催者とも言うべき重好《しげよし》をはじめとし、家老の吉川從弼や側用人の本目権右衛門|、それに6人の用人も所謂、「ホスト役」として陪席していた。
ちなみにもう一人の家老、本多昌忠は弟・六三郎に付添い、つまりは安藤正朋の治療に立会ったそうな。
そして見舞客への接待を終えたのは安藤正朋が六三郎の治療を終えた宵五つ(午後8時頃)より少し前とのことであった。
ちなみに2人の番頭はその間―、邸内にて見舞客への接待が行われていた暮六つ(午後6時頃)から宵五つ(午後8時頃)までの間、清水屋敷の門番所にて警衛に当たっていたそうな。
「いや、外にも旗奉行や長柄奉行、それに物頭や郡奉行、勘定奉行らの動静についても、明らかにせねばならぬかの…」
重好は些か、難しげな表情でそう呟いた。
旗奉行と長柄奉行、郡奉行と勘定奉行もまた、物頭と同じく「八役」であった。
「いえ、それには及びませぬ…」
川副佐兵衛は即答した。
これまでの流れから、池原良明を刺殺したのは小十人頭の黒川久左衛門でほぼ間違いないだろう。
それも態々、家老の本多昌忠にその罪を被くべく、昌忠の代理として西川伊兵衛より受取った印籠と根付のうち、印籠を被害者である池原良明の右手に握らせたであろうことからもそれは明らかであった。
黒川久左衛門が昌忠の代理として、西川伊兵衛より印籠と根付を受取った4月4日を境に逐電、清水屋敷より失踪したこともその傍証となる。
無論、全ては本多昌忠が仕組んだ罠とも考えられ、それ故、昌忠と、或いはその実弟の六三郎の「現場不在証明」は必要かも知れないが、それでも、「現場不在証明」が必要な対象はそこまでである。
外の者についてまで「現場不在証明」は必要ない様に思われた。
仮に全ては本多昌忠の仕組んだ罠だとしても、それに弟の六三郎を除いては外に手を貸す者がこの清水屋敷にいるとは思えなかったからだ。
それでも重好は己の「現場不在証明」は元より、家老の吉川從弼や側用人の本目権右衛門、それに2人の番頭と6人の用人の「現場不在証明」まで申立てたのだ。
この上、旗奉行や長柄奉行、物頭や郡奉行、勘定奉行の「現場不在証明」までは必要ない。
川副佐兵衛がそう考えていると、「宮内卿様…」という從弼の声がその思考に割って入った。
「されば小笠原主水が件につきましても、川副殿が耳に入れました方が宜しいのでは?」
家老の從弼のその「進言」に対して、重好は前よりも一層、難しい顔付きとなった。
川副佐兵衛は当然の反応として、「小笠原主水が件とは?」と問返していた。
すると重好が答えあぐね、それを見て取った從弼が重好に代わり、
「されば用人の小笠原主水が逐電せし件ぞ…」
そう断定口調で答えた。
これには重好も、「まだそうと決まった訳ではあるまいによって…」と遮ろうとした。
だが從弼はそれで屈することはなく、
「なれど…、久左衛門めが逐電せし同じ日…、4日に小笠原主水めもまた、行方を眩ましたとなれば…、これは最早、逐電としか外には…」
そう反論したのであった。重好も從弼のこの反論にはぐうの音も出なかったらしく、口を噤んでしまった。
一方、重好と從弼とのやり取りを聞いていた川副佐兵衛は重好が口を噤んだところで、
「同じ日に?」
そう口を挟んだ。
すると從弼は川副佐兵衛の方を向いて、「左様…」と応えると、驚くべき註釈を付加えた。
即ち、小笠原主水守惟は黒川久左衛門と親しい間柄だと言うのである。
黒川久左衛門が逐電、失踪したと思われる4月4日にその、小笠原主水もまた、行方を眩ましたとなれば、成程、從弼の言う通り、逐電と考えるのが自然であろう。
いや、そればかりではない。
御三卿家老の本多昌忠に奥医師・池原良誠の息・良明殺害の濡れ衣を着せる…、小笠原主水がそれを黒川久左衛門に唆した可能性すらあり得た。
実を言えば、川副佐兵衛は今回の一件―、池原良明殺害事件について、これを黒川久左衛門一人の仕業と考えるには躊躇するものがあった。
何しろ、黒川久左衛門は御三卿家臣の中でも小十人頭に過ぎないのである。
御三卿の小十人頭と言えば、幹部クラスの「八役」の下、それも同じく下である代官や小普請支配、目付や徒頭のその下に位置付けられる。
そうであれば、その様な小十人頭風情、と言っては言葉が過ぎ様が、その程度の黒川久左衛門が一人、「八役」の頂点に位置する家老に殺人の濡れ衣を着せ様とするとは、どうしても考え難かった。
だが、背後に用人がいるとなれば話は別である。
用人は「八役」の中では家老、番頭に次ぐ重職であった。
その小笠原主水が黒川久左衛門を唆した…、それなら大いにあり得た。
いや、もしかしたら小笠原主水の背後にもまた、大物が控えている可能性が充分にあり得た。
御三卿家老を嵌める、それも殺人の濡れ衣を着せるとは、つまりはそういうことであった。
川副佐兵衛がそう考えを巡らしていると、從弼もそうと察したのか、更なる驚くべき事実を打明けた。
小笠原主水は何と、旗本ではないと言うのだ。
御三卿の用人と言えば、「八役」の中でも家老、番頭に次ぐ重職だけあって、番頭と同様、従六位布衣役であった。
また、役高は400石であり、その上、役料として200俵までが付く。
それ故、御三卿用人と言えば、旗本の当主か、或いはその嫡子が「附人」として、若しくは次男、三男が「附切」として、就くものであった。
この清水家を例に取るならば、福村理大夫正慰は旗本・福村家の当主であり、一方、本目平七は側用人・本目権右衛門の嫡子、つまりは旗本の嫡子であった。
ちなみに側用人は用人の筆頭、直属の上司であると同時に、番頭の上に位置する非常置の役職であった。
それ故、御三卿の中でも田安家、及び一橋家には側用人は置かれておらず、ここ清水家だけに置かれていた。
それだけに御三卿の側用人ともなると、従六位布衣役であるのは当然として、役高は千俵であった。
その側用人の職にある本目権右衛門の禄高は700俵であるので、役高と禄高の差額の300俵が権右衛門に支給される。
ともあれ、用人の中でも旗本の当主である福村理大夫、及び旗本の嫡子の本目平七が「附人」として、その職を勤めているのに対して、井戸茂十郎弘道、根来茂右衛門長方、近藤小八郎義端、そして大久保半之助忠基は皆、旗本の次男、三男以下であり、「附切」としてその職を勤めていた。
ちなみに以上の6人の用人には確固たる「現場不在証明」があった。
そんな中、小笠原主水だけは御家人だと言うのである。
御家人が従六位布衣役に取立てられるなど、
「絶対に…」
あり得ない、とまでは言わないにしても、極めて稀なケースと言えよう。
それが小笠原主水は一体、如何なる理由で、御家人の身でありながら、従六位布衣役の御三卿用人の地位におさまったのか、川副佐兵衛は首を傾げた。
すると、川副佐兵衛のこの疑問にはそれまで黙っていた側用人の本目権右衛門が「絵解き」をしてみせた。
「されば、小笠原主水は実は御三家の紀州侯に仕え奉りし小笠原庄左衛門至武が倅にて、それがこの江戸に出て宮内卿様に仕える様になったのだ…」
本目権右衛門はそう切出すと、小笠原主水について、更に詳しい履歴について川副佐兵衛に語って聞かせた。
即ち、小笠原主水には常なる実姉がおり、この実姉が旗本にして本丸小姓組番士の日根野一學高榮の許に嫁ぎ、五男五女をもうけたそうな。
そのうち、三男の一左衛門守吉が本郷を名乗り、重好に仕えていたのだが、この本郷一左衛門が宝暦3(1753)年に亡くなり、しかし、一左衛門には当時はまだ、妻子すらおらず、このままでは本郷の名跡が途絶えてしまということで、急遽、一左衛門の母の実弟、即ち、叔父の小笠原主水に白羽の矢が立てられた。
但し、小笠原主水は本郷一左衛門の叔父に当たるので、一左衛門の養嗣子となり、本郷の名跡を継ぐ、という手は使えない。
その為、小笠原主水は「抱入」、つまりは重好、当時は萬次郎が個人的に雇入れた上で、本郷を名乗らせたのであった。
それと同時に小笠原主水こと本郷主水は御家人の身分をも獲得したのであった。
そして小笠原こと本郷主水は清水家臣として御家人に取立てられてから3年後の宝暦6(1756)年の暮、当時は本丸にて九代将軍・家重に平御側として仕えていた小笠原若狭守信喜の実妹を娶ったそうな。
これは小笠原信喜が実は紀伊家家臣の大井武右衛門政周の倅であることに由来する。
即ち、信喜の実父、大井武右衛門と本郷主水の実父、小笠原庄左衛門は共に紀伊家の家臣であり、その上、竹馬の友であったからだ。
その大井武右衛門の末娘にして、小笠原信喜の実妹の惣がこの時まで…、宝暦6(1756)年まで婚家が見つからず、そこで大井武右衛門は実の倅の小笠原信喜を介して、本郷主水に惣との結婚を打診したそうな。
本郷主水にしても、この時までずっと独身であり、このままでは婚期を逃しかねず、信喜からの打診は正に「渡りに船」であった。
その上、惣と結婚出来れば、平御側として将軍・家重の御側近くに仕える小笠原信喜と義兄弟の間柄になれるというものであり、本郷主水はその様な打算も働いて、惣との結婚を快諾したのであった。
こうして宝暦6(1756)年の暮に本郷主水は小笠原信喜の実妹の惣と祝言を上げたのであった。
惣との結婚は本郷主水に多大な恩恵を齎すことになった。
その最大のものは何と言っても、御家人の身であり乍、従六位布衣役の用人に取立てられたことであろう。
本郷主水は「抱入」の身で、つまりは重好に個人的に雇われたとは言え、いきなり用人に取立てられた訳ではない。
まずは近習からのスタートであり、それが3年後の宝暦6(1756)年に平御側の小笠原信喜の実妹を娶ったことから、本郷主水は翌年には従六位布衣役の用人に取立てられたのであった。
そして結婚後、6年目にして待望の嫡子である楠五郎守玄が誕生したのを機に、主水は姓を本郷から旧姓の小笠原へと戻すことにした。
いや、それは旧姓に復すると言うよりは、妻女・惣の実家の姓である小笠原へと改名する、との意識であったやも知れぬ。
ともあれ主水は惣との間に嫡子・楠五郎守玄をもうけたその翌年の宝暦13(1763)年に小笠原へと姓を改めたのであった。
これには日根野家からも多少の、と言うよりは大変な苦情があったそうな。何しろ本郷の名跡を捨てるも同然であったからだ。
しかし、それも小笠原信喜の威光を以てして、日根野家の苦情を捩じ伏せたそうな。
この時―、宝暦13(1763)年の時点では信喜は現将軍である家治の平御側を勤めていたからだ。
「斯かる次第で、本郷、いや、小笠原主水は当家にて用人を勤める次第と相成ったのだ…」
本目権右衛門はそう締め括った。
御家人の身であり乍、従六位布衣役である御三卿用人を勤める…、本来ならば到底、考えられないことも、背後に小笠原信喜が控えているとなれば不思議ではなかった。
そしてその信喜はつい先頃までは「大納言様」こと次期将軍の家基に御側御用取次として仕えていた。
もしかしたら小笠原主水の背後にも、小笠原信喜が控えている可能性すらあり得た。つまりは、
「小笠原信喜こそが御三卿、それも清水徳川家の家老の本多昌忠を嵌めようと謀った真の黒幕…」
という訳である。
信喜ならば…、次期将軍・家基に御側御用取次として仕えていた小笠原信喜ならば、黒幕に相応しいだろう。
だが、問題は動機であった。
仮に信喜が黒幕だとして、その動機は何なのか、それが川副佐兵衛にも皆目見当もつかなかった。
「やはり…、小笠原主水は例の一件で、昌忠を怨んでいたのやも知れませぬな…」
從弼は思い出したかの様にそう告げた。それは、川副佐兵衛の疑問に応えるものでもあった。
「例の一件とは?」
川副佐兵衛は從弼を促した。
それに対して從弼はまずは重好、続いて昌忠へと視線を向けた。
「川副佐兵衛に聞かせても構わないな…」
從弼のその視線はそう物語っており、一方、重好にしろ昌忠にしろ、そうと気付いても何も応えなかった。つまりは黙認である。
從弼も重好と昌忠の二人の「黙認」を得られたと判断し、川副佐兵衛に「例の一件」を打明けることにした。
「されば小笠原主水は今の用人より、側用人への昇格を望んでいたのだ…」
從弼がそう切出すと、川副佐兵衛にはそれだけで、見当がついた。
「もしや…、それに本多様が反対された、と?」
川副佐兵衛が先回りしてそう尋ねると、從弼は頷いた上で、
「身共としては小笠原主水を側用人へと進ませてやっても良いと思っておったのだが…、いや、小笠原主水は己が側用人への昇格の一件につき、まずは家老たる身共と昌忠とに願出、その旨、宮内卿様に取次いでくれる様にと、頼んだのだ…」
そう当時の様子を回想した。
成程、用人から側用人への昇格ともなれば、御三卿より公儀、幕府へとその旨、頼む必要があった。つまりは御三卿の推挙、推薦が必要であった。
そこで小笠原主水としては、御三卿たる清水重好の推挙、推薦を得るべく、まずは家老に話を通したということだろう。
こういうことはいきなり、「お目当て」の御三卿たる重好に話を持掛けても、うまくいかない。
当人より話を持掛けられた重好としては、どう判断したら良いのか、困惑するばかりだからだ。
それよりは、御三卿の家臣の中でもその頂点に立つ家老より、重好へと、
「小笠原主水を側用人へと昇格させては…」
そう取次いで貰った方が確実にうまくいく。
「家老がそう申しておるのなら…」
重好は必ずや、そう判断してくれるに違いないからだ。
もっと言えば、公儀、幕府へと推挙、推薦してくれるに違いない。
それ故、まずは家老に己の昇格を「陳情」した小笠原主水の判断は間違ってはいなかった。
だがそこで、從弼の賛同こそ得られたものの、昌忠には反対されてしまったということらしい。
「されば、川副殿も存じておろうが、用人の役高は400石、役料は200俵、小笠原主水は250俵取である故に、今は足高分150俵に役料200俵を加えて350俵を得ておる…、それが側用人ともなると、用人の如く役料こそ付かぬものの、その役高は千俵である故に、仮に小笠原主水が側用人へと昇格を果たさば、足高分だけでも750俵にて…」
「小笠原主水殿が側用人へと昇格を果たさば、これまでの倍以上の手当が得られると…」
川副佐兵衛は頭の中で算盤を弾いてみせた。
「左様…、そしてそれこそが昌忠が反対した理由でもあるのだ…」
「と申されますと?」
「されば、小笠原主水への手当が増すということは、それだけ、御公儀の負担が増すことと相成れば…」
成程、と川副佐兵衛は合いの手を入れた。
如何にもその通りであった。
御三卿の家臣の中でも、「附人」と「附切」の身分にて仕えている者の「お手当」、給料は公儀、幕府より賄われる。
そこで側用人だが、御三卿の家臣の中でも家老に次ぐ重職であり、
「附人中の附人…」
そう呼んでも差支えなかろう。
それ故、側用人の給料もまた、幕府が負担する。
その側用人に小笠原主水を昇格させた為に、主水へ支払われる給料が増えるとなれば、それだけ幕府の財政負担を増すことになる。
「いや、身共はそこまで思いが至らずに、安易に主水の願出を諒としたのだが、翻って昌忠は流石に小納戸頭取を勤めただけあって…」
小納戸頭取は将軍の「御手許金」、つまりは小遣いを管理する役職であり、昌忠はその小納戸頭取を勤めただけあって、
「金勘定が得意である…」
從弼はそう示唆したのであった。いや、そこまで言ってしまっては、昌忠に対する侮辱となる。
「金勘定が得意…」
それはあくまで町人、それも最も賤しい商人にとっての誉め言葉であり、武士にとっては侮辱、それも最大の侮辱以外の何ものでもない。
それ故、從弼は、「小納戸頭取を勤めただけあって…」とそこで止めたのであった。
「いや、昌忠は渋る主水に対して、どうしても自が昇格を…、側用人への昇格を望むのであらば、先任の側用人の本目権右衛門の賛同を得るべきであろうぞ、その上で、本目権右衛門より宮内卿様へと、自が昇格を取次いで貰うのが筋と申すものであろうぞ…、左様に追撃ちをかけ、遂に主水に昇格を断念させたのであった…」
御三卿への取次ぎに関して言えば、家老よりも側用人が適任であろう。何しろ、御三卿への取次ぎこそが側用人の主たる職掌と言っても過言ではないからだ。
それ故、昌忠のその主張は正しく正論であると同時に、小笠原主水に己の昇格を断念させるには充分であった。
それと言うのも、本目権右衛門が小笠原主水の側用人への昇格を認めるとは到底、思われなかったからだ。
何しろそれは、先任の側用人の本目権右衛門にしてみれば、対抗相手を一人、増やすことに外ならないからだ。
「側用人として、宮内卿様の御寵愛を受けるのは己一人で充分…」
その上、新たにもう一人、側用人を誕生させる必要はどこにもない…、本目権右衛門ならば必ずや、そう考えるに違いなく、小笠原主水もそれが分かっていたからこそ、己の昇格を断念したのであろう。
だが、小笠原主水はその代わりに、側用人への昇格を断念させた昌忠を怨む様になったということらしい。
そしてそれが昂じて、昌忠に人殺しの濡れ衣を着せることを思いつき、そこでその手先として、小十人頭の黒川久左衛門を使嗾させたということか…。
だとしても、川副佐兵衛には小笠原主水と黒川久左衛門の関係が分からなかった。
仮に、小笠原主水が昌忠に人殺しの濡れ衣を着せることを思い着いたとして、その様な大それた姦計に黒川久左衛門に協力させるとなれば、小笠原主水と黒川久左衛門とは余程に強い紐帯で結ばれていなければならないだろう。
そうでなければ、黒川久左衛門へと姦計を打明けたが最期、昌忠へと密告される恐れがあり得たからだ。
川副佐兵衛はその点を糺そうとした。
するとそれまでは、川副佐兵衛の胸のうちをまるで忖度するかの様に、胸のうちの疑問に先回りして答えてくれていた從弼が、何故か今回に限って黙り込んでしまった。
從弼のことである。川副佐兵衛の胸に浮かんだ疑問に気付かぬ筈はない。
そこで川副佐兵衛は從弼から昌忠へと視線を向けた。
だが昌忠も川副佐兵衛のその視線に気付くと、俯いてしまい、從弼同様、川副佐兵衛の疑問に答えることはなかった。
そこで川副佐兵衛は今回は、はっきりと疑問を口にした。
「小笠原主水殿と黒川久左衛門殿とは如何な間柄にて?仮に、小笠原主水殿が御家老の本多讃岐守様を逆怨み…、それが昂じて人殺しの濡れ衣を着せることを思いついたとして、斯かる謀に黒川久左衛門殿が手を貸す程の親しき間柄にて?小笠原主水殿と黒川久左衛門殿とは…」
川副佐兵衛は、はっきりと問うた。
だが、それでも從弼にしろ昌忠にしろ、答えあぐねていた。
どうやら余程に答え難いものらしい。
いや、そんな二人の態度からして、小笠原主水と黒川久左衛門との間柄が、
「ただならぬもの…」
川副佐兵衛にはそう察せられたが、だとしたら尚のこと、果たしてどの様な間柄なのか、糺さない訳にはゆかなかった。
やがて、重好が從弼と昌忠の二人の家老に代わって、川副佐兵衛のその問いに応えた。
家老に任すことなく、御三卿が自ら、寺社役風情の役人の問いに応えようとは、それだけでも事の重大性がこれまた察せられた。
「されば…、黒川久左衛門もまた、小笠原主水と共に、昌忠を怨んでいたのだ…」
「黒川殿までが御家老の本多様を?」
川副佐兵衛は思わずそう問返し、重好を頷かせた。
「そは…、また一体何故に?」
「されば黒川久左衛門は、己が降格は昌忠の所為に違いあるまいと、左様に逆怨みをしおっておったのだ…」
つまりはこういうことであった。
本多昌忠が明和8(1771)年12月に新番頭より清水家老へと異動、栄転を果たした直後、それとは裏腹に、清水家にて目附を勤めていた黒川久左衛門は小十人頭へと異動させられたのだ。
御三卿目附から小十人頭への異動、それは左遷と言えた。
御三卿屋形における目附と小十人頭とでは、目附の方が小十人頭よりも格上であったからだ。
元来、上昇志向の強い黒川久左衛門は目附を皮切りに、幹部である「八役」入りを目指していた。
それが蓋を開けてみれば、「八役」入りどころか、小十人頭への左遷であり、黒川久左衛門が大いに落胆したことは想像に難くない。
だが、それだけならば黒川久左衛門も本多昌忠を逆怨みすることもなかったやも知れぬ。
問題は当時…、本多昌忠が清水家老に着任した直後まで、黒川久左衛門の相役、同僚の目附であった本多六三郎長卿が「八役」である勘定奉行へと栄転を果たしたことであった。
本多六三郎は昌忠の実弟であるのだ。それ故、
「同じ目附であり乍、己は小十人頭へと左遷させられたのとは対照的に、本多六三郎めが八役の末席とは申せ、勘定奉行へと栄転を果たしたは、偏に兄貴の威光の賜物に相違あるまい…」
黒川久左衛門がそう考えたのもまた、想像に難くない。
いや、事実、黒川久左衛門は周囲にそう吹聴していたらしいのだ。
尤も、事実は違う。
黒川久左衛門の「左遷」、及び、本多六三郎の「栄転」は昌忠が清水家老に着任する前、それも一月程前の11月の末に既に決まっていたことであった。
即ち、昌忠の前任の清水家老であった永井主膳正武氏が言出したことであった。
永井武氏は二人の目附―、黒川久左衛門と本多六三郎の働きぶりを具に観察するうちに、
「黒川久左衛門は到底、目附の任に非ず…」
そう断を下したのとは対照的に、本多六三郎に対しては、
「八役に相応しい器…」
そう好意的な評価を下したのであった。
そこで永井武氏は相役であった―、既に明和8(1771)年の時点で清水家老であった吉川從弼とこの件を相談の上、重好に上申したのであった。
重好も実は武氏と全く同意見であり、かねてより黒川久左衛門の働きぶりについては眉を顰めるものがあり、翻って本多六三郎のそれには大いに感心させられていた。
この時点で永井武氏は体調を崩しており、死期が迫っていることを悟っていたのであろう、そこで置土産とばかり、黒川久左衛門と本多六三郎、両名の人事について、相役の吉川從弼と諮った上で、重好に上申したのであった。
ともあれ重好がその上申、こと人事案を容れ、公儀、幕府に相談したのであった。
御三卿の家臣の中でも幹部クラスの「八役」ともなると、御三卿が勝手に発令する訳にはゆかず、公儀、幕府より発令して貰う必要があったからだ。
そこで重好は具体的には腹違いの兄である将軍・家治に相談し、それに対して家治も「そういうことなれば…」と、これを受容れ、御側御用取次であった松平因幡守康郷に命じて、康郷よりその人事案を発令させたのであった。
御三卿家臣、所謂、「邸臣団」は御側御用取次の支配下にあったからだ。
その当時―、明和8(1771)年の時点で御側御用取次は松平康郷の外に、稲葉正明と白須甲斐守政賢がおり、家治はその中でも松平康郷を選んで件の人事案を発令させたのであった。
それはこの時、松平康郷もまた、隠退を考えており、その旨、家治に伝えていたので、そこで家治は康郷に最後の一仕事をして貰おうと考えて、人事案の発令を命じたのであった。
それが11月の晦日のことであり、ちょうど永井武氏が病歿した日であった。
そこで家治は永井武氏の後任として、本多昌忠を充てることにもした。
既に、永井武氏は歿する前に内々にだが、御側御用取次の松平康郷に対して己の後任を決めてくれる様に頼んでいたのだ。
御三卿家老は一応、老中支配の役職ではあったが、実際にはやはり御側御用取次の支配下にあった。
その為、永井武氏は己の後任の人選を御側御用取次に頼むことにした訳だが、その中でも松平康郷を選んだのは外でもない、79と同い年であったからだ。
この時、武氏は己の後任には六三郎の実兄の本多昌忠が良いのではないか、とも康郷に伝えていたのだ。
そこで康郷は家治に対して、この武氏の言葉、今となっては遺言をそのまま伝えたのであった。
それは家治が弟・重好より、黒川久左衛門と本多六三郎両名の人事案の「お願い」をされる前の話であり、そこで家治は康郷に件の人事案を命じたその日、武氏が亡くなり、そのことが翌日の12月朔日に家治に伝えられるや、家治は、
「これも何かの縁…」
そう考えて、康郷より伝えられていた永井武氏の「遺言」に従い、武氏の後任の清水家老には本多昌忠を充てる人事案を家治の一存にて決めたのであった。
それ故、まず初めに本多昌忠の人事案が、即ち、12月8日に本多昌忠を清水家老とする人事案が発令され、その翌日の12月9日―、昌忠が家老に着任、家老として清水屋敷に足を踏み入れたその翌日に、黒川久左衛門の「左遷」と本多六三郎の「栄転」、この好対照をなす人事が発令されたのであった。
それ故、黒川久左衛門の「左遷」は断じて、本多昌忠の責任ではなく、偏に、黒川久左衛門自身の責に帰する。
だがこの場合、事実はどうでも良かった。
「己の左遷は本多昌忠の所為…」
黒川久左衛門が堅くそう信じ込み、昌忠を逆怨みした事実が大事、いや、問題であった。
側用人の件でやはり本多昌忠に怨みを抱いていた小笠原主水が黒川久左衛門に急接近したのであった。
「いや、ただ急接近しただけなれば、それ程、害はなかったやも知れぬな…」
重好は思わせぶりにそう告げた。
「と仰せられますると?」
川副佐兵衛は身を乗出して、その先を促した。
「されば黒川久左衛門だがの、この重好が目附より小十人頭へと格下げする前の話だが…、それも三月程前の9月頃…、9月の下旬であったか…、久左衛門めが甥の黒川内匠が岩本内膳の娘を娶ったのだ…」
川副佐兵衛はそれを聞いて思わず目を丸くしたものである。
するとその様子を見て取った重好が、
「岩本内膳なれば、そなたも存じておろう?」
川副佐兵衛にそう水を向けたことから、佐兵衛も勿論、頷いて見せた。
岩本内膳こと内膳正正利は一橋治済の愛妾、於富の方の実父である。
それだけではない、一橋家の嫡子・豊千代の外祖父にも当たる。富が治済との間に豊千代を生したからだ。
川副佐兵衛がそれに思いを致すと、重好もそうと察したのであろう、
「いや…、この時はまだ、於富殿は民部殿が側妾となられたばかりにて、豊千代君を生してはおらなんだ…」
重好はそう補足した。
確かにそうであったと、川副佐兵衛はそうと気付いた。
豊千代が生まれたのは安永2(1773)年10月のことであり、してみると、富が家斉の愛妾となってから2年後であった。
「いや…、小笠原主水めは昌忠に怨みを抱く、さしずめ同士とも申すべき黒川久左衛門と更に親交を深めようとでも思うたのであろうな…、主水めは久左衛門めと共に度々、当屋形を抜出しては自が屋敷に…、牛込御門外の逢坂の屋敷に招いては、恐らくは盃でも交わしていたのであろうぞ…」
「そは真でござりまするか?」
川副佐兵衛は決して天下の御三卿の清水重好の言葉を疑う訳ではなかったが、しかしそれでも余りに詳細な証言であったので、どうして二人の行動をそこまで知っているのか、その点を糺さずにはおれなかった。
一方、重好にしても川副佐兵衛のこの反応は予期していたのであろう、
「されば目附に小笠原主水めと黒川久左衛門めの動静を探索らせていたのだ…、いや、以前より主水めが久左衛門めを伴い、度々、当屋形を抜出していることは目附の間で問題になっていた故に…」
その訳を解説してみせた。
「目附…、と仰せられますると、黒川久左衛門殿、及び本多六三郎殿の後任の御目附にて?」
川副佐兵衛はやはり、確かめる様に尋ねた。
すると重好は満足気に、「如何にもその通りぞ」と首肯するや、それまで番頭の下で組頭を勤めていた伊丹六三郎勝平と栗原金四郎利直の二人を後任の目附に抜擢したことを川副佐兵衛に教えた。
御三卿の屋形に仕える「八役」の中でも番頭は番方、武官の|最上位《トップに位置し、定員は家老と同じく二人であった。
明和8(1771)年までは、ここ清水屋敷にて番頭を勤めていたのは今は側用人の本目権右衛門と今でも番頭の近藤助八郎の二人であり、その番頭の下には二人の組頭が配され、伊丹六三郎と栗原金四郎の二人はこのうち、本目権右衛門配下の組頭であった。
それ故、明和8(1771)年に本目権右衛門が側用人へと栄転を果たしたのと前後して、その配下の組頭である伊丹六三郎と栗原金四郎の二人もまた、目附へと栄転を、それも大栄転を果たしたという訳だ。
重好は伊丹六三郎と栗原金四郎、両名の才能を評価して目附に取立手他のであり、それに対して伊丹六三郎にしろ、栗原金四郎にしろ、そんな重好の期待に応えるべく、目附としての職務、即ち、屋形に仕える者の監察や綱紀の取締りに邁進し、その過程で二人は小笠原主水が黒川久左衛門に急接近し、のみならず、清水屋敷を度々、抜出してはどこぞへと繰出している事実を二人は突止め、そこでこれからどうすべきか、まずは重好の判断を仰いだ次第であった。
御三卿目附は御三卿屋形に仕える家臣の監察を職掌としているとは言え、徹底的な監察下に置こうとすれば、その前に御三卿の諒承を得る必要があったからだ。
そこで伊丹六三郎と栗原金四郎の二人もまた、小笠原主水と黒川久左衛門の両名を徹底的な監察下に置くに際して、御三卿たる重好の諒解を求めたのであった。
ことに小笠原主水は「八役」の中でも家老、番頭に次ぐ、従六位布衣役である用人という要職にあり、慎重な対応が求められた。
それに対して重好も勿論、小笠原主水と黒川久左衛門の両名を徹底的な監察下に置くことに異存はなく、
「仮令、用人であろうとも遠慮はいらぬ。仮借なく監察せよ…」
重好は伊丹六三郎と栗原金四郎の両名にそう告げて、その背中を押したそうな。
こうして伊丹六三郎と栗原金四郎は小笠原主水と黒川久左衛門の両名を徹底的な監察下に置き、その結果、小笠原主水は許しもなく黒川久左衛門と伴い、清水屋敷を抜出しては牛込御門外の逢坂にある自邸に招いては御門が閉まる夕方まで酒盛りに興じていたらしいのだ。
牛込御門外は逢坂にある小笠原邸は町屋である船河原町の正に目と鼻の先にあり、そこで町屋の一角、蕎麦屋の二階を借切り、そこを「見張所」とした。そこからだと小笠原邸が良く見渡せたからだ。
伊丹六三郎と栗原金四郎の二人はその「見張所」から、小笠原邸の様子を窺い、結果、夕方頃、千鳥足で出てくる小笠原主水と黒川久左衛門の姿を捉えたのだ。それも一度や二度ではない、度々に亘って、であった。
これで最早、二人が日中から酒盛に興じていたのは疑い様がなかった。
日中、本来ならば御三卿の屋形に詰めて仕事をしなければならない用人と小十人頭が勝手に屋形を抜出しては酒盛に興じる…、これだけでも厳罰に値すると言えるであろう。
尤も、それだけなら重好も大目に見ることにした。と言うよりは、
「最早、どうでも良い…」
小笠原主水と黒川久左衛門の二人を見限ることにしたのだ。
だが、それが安永2(1773)年を境に、小笠原主水と黒川久左衛門との関係に変化の兆しが見えて来たと言うのである。
それまでは小笠原主水が黒川久左衛門を連れ回すことが多かったのだが、それが安永2(1773)年を境に、それも10月を境に、黒川久左衛門が小笠原主水を連れ回すことが多くなったのだ。
具体的には牛込御門外の逢坂にある小笠原主水の屋敷に招かれるばかりであった黒川久左衛門が、安永2(1773)年10月を境に、今度は逆に濱町にある久左衛門の実家へと小笠原主水を招く様になったのだ。
その頃…、安永2(1773)年10月に入っても、目附の伊丹六三郎と栗原金四郎の二人は流石に頻度は減らしたものの、それでも相変わらず小笠原主水と黒川久左衛門の動静には注意を払っていた。
そこで今度は黒川久左衛門が小笠原主水を濱町にある実家へと招く様になったことが判明した。
この変化に伊丹六三郎にしろ、栗原金四郎にしろ、何か引っ掛かるものを覚えた。
いや、その様な生易しいものではない、重大な危機感を覚えた。それは目附としての本能から来るものであった。
そこで伊丹六三郎と栗原金四郎の二人は重好に対して再び、小笠原主水と黒川久左衛門の両名を徹底的な監視下に置くことを進言したのであった。
伊丹六三郎と栗原金四郎が小笠原主水と黒川久左衛門への監視を緩めたのは偏に、重好の命によるものであった。
「最早、どうでも良い…」
重好は小笠原主水と黒川久左衛門の二人をそう見限ると、伊丹六三郎と栗原金四郎の二人に対しても、
「この上の監察は最早、不要…」
そう申渡したのであった。
それ故、伊丹六三郎と栗原金四郎の二人は小笠原主水と黒川久左衛門両名への徹底的な監視こそ解除したものの、それでも完全に監視を解除した訳ではなく、
「折に触れ…」
その動静に注意を払い続け、どうやらそれが功を奏した様である。
重好は伊丹六三郎と栗原金四郎の先見の明を誉めると同時に、改めて小笠原主水と黒川久左衛門両名の徹底的な監視を命じたのであった。
だが、今回は難しいものであった。それと言うのも、黒川久左衛門の実家がある濱町は辺り一面、武家屋敷であり、それ故、「見張所」を設けるのは難しかったからだ。
そして「見張所」を設けられないことには、徹底的な監視は不可能であった。
そうである以上、これまで通り、二人の後をつけるのが精一杯であった。
伊丹六三郎と栗原金四郎はその点を重好に上申し、それに対して重好も、そうである以上は伊丹六三郎と栗原金四郎の二人に無理をさせられずに、それで良しとした。
こうして、徹底的な監視には程遠い、つまりは今まで通りの緩い監視が続けられた訳だが、それでもこれもまた、功を奏した。
即ち、年が明けた安永3(1774)年、小笠原主水と黒川久左衛門は別行動を取る様になったのだ。
小笠原主水にしろ、黒川久左衛門にしろ相変わらず勝手に屋形を抜出すことに変わりはないものの、それでも小笠原主水は黒川久左衛門に伴われて、濱町にある黒川家の屋敷へと足を運ぶのではなく、単身、表六番町へと向かった。
一方、黒川久左衛門もまた、単身、実家がある濱町へと足を伸ばしたかと思うと、虎ノ御門内へと足を向けることもあった。
小笠原主水と黒川久左衛門とが別行動を取ることから、そこで伊丹六三郎は主水の、栗原金四郎は久左衛門の、夫々、その後をつけて判明した事実であった。
いや、判明したのはそこまでであった。
例えば伊丹六三郎の場合、小笠原主水が表六番町にある屋敷に入るところまでは見届けたものの、その屋敷が誰の屋敷であるかまでは分からなかった。
これで屋敷の門前に表札でも掛かっていれば、誰の屋敷か、少なくとも苗字ぐらいは把握出来たところだが、生憎と武家の屋敷は表札は掛かっていなかった。
同じことは栗原金四郎にも当て嵌まり、黒川久左衛門が虎ノ御門内にある屋敷に入るところまでは見届けたものの、そこまでであった。
これで周囲に町屋でもあれば、町人に誰の御屋敷かと、聞込みをかけることも可能であったが、やはりこちらも生憎と、表六番町にしろ、虎ノ御門内にしろ、周囲に町屋はなく、辺り一面、武家地であった。これでは町人に聞込みをかけるという手は使えない。
そこで伊丹六三郎と栗原金四郎はとりあえず、夫々の屋敷の位置を地図として認めたのだ。
そして伊丹六三郎と栗原金四郎は夫々、その地図を重好に捧呈したそうな。
結果、それが功を奏した。
即ち、伊丹六三郎の認めた地図だが、表六番町通りでも、更に禿小路の突当たりであり、それで重好にはピンと来るものがあった。
「これは…、小笠原若狭が屋敷ではあるまいか…」
小笠原若狭こと若狭守信喜はこの時…、安永3(1774)年には小笠原信喜は本丸中奥にて、平御側として将軍・家治に仕えていたのだ。
御三卿である清水重好は将軍家の一員として、平日も毎日、登城が許されている身であり、しかも中奥に詰所がある為に、中奥の事情に嫌でも通ずる。
中奥を「職場」とする役人の「住所」についてもその延長線上にあり、しかも平御側と言えば、中奥役人の筆頭である。
その平御側の「住所」とあらば、重好とて把握していた。
しかも小笠原信喜は小笠原主水の義兄に当たるのだ。
これで最早、小笠原主水が足を運んだ屋敷が小笠原信喜のそれであるのは間違いない。
一方、黒川久左衛門が足を運んだ屋敷だが、虎ノ御門内の中でも潮見坂と裏霞ヶ関の中間地点にあるとのことで、
「これは…、岩本主膳が屋敷ではあるまいか…」
重好はそう当たりをつけた。
この時―、安永3(1774)年の時点では岩本内膳こと内膳正利は本丸中奥役人などではなく、西之丸目附であった。
それ故、本来ならば、その様な岩本正利の「住所」など知る由もない筈であった。
だが、正利の父・岩本帯刀正房が重好の、と言うよりは家治・重好兄弟の祖父にして八代将軍・吉宗の「お気に入り」であり、
「それ故に、虎ノ御門内という一等地に屋敷を与えられたのであろう…」
というのが専らの評判であった。
虎ノ御門内と言えば、主に大名屋敷が立並ぶ空間であり、それが一介の旗本、それも紀州より吉宗に付随って江戸に出て来ては旗本に取立てられた、謂わば新参の旗本に過ぎない岩本正房に、その一等地とも呼ぶべき虎ノ御門内に屋敷を与えられたのは成程、噂通り、偏に時の将軍・吉宗の寵愛によるものであろう。
岩本正房が虎ノ御門内に屋敷を与えられたのは享保9(1724)年のことであり、まだその時分には重好は生まれてはいない。
だが、斯かる噂は代々、本丸中奥にて語継がれており、それ故、重好も耳にしたことがあり、そこで重好には地図を見てピンと来るものがあった。
虎ノ御門内に立並ぶ屋敷の中でも、潮見坂と裏霞ヶ関の中間地点と言うだけでは、手掛に欠けていた。
だが、栗原金四郎はその地図に、
「大名屋敷にしては些か狭く、旗本屋敷か…」
との手掛をも書込んでくれていたので、それで重好は、岩本家の屋敷に相違あるまいと、ピンと来た次第である。
岩本正房に虎ノ御門内に与えられた屋敷の広さは凡そ、950坪程度であり、成程、大名屋敷としては手狭と言えよう。それよりは旗本屋敷と考えるのが自然であった。
そして、黒川久左衛門の甥の黒川内匠が岩本正利の三女の山尾を娶っていることも、その傍証となる。
ともあれ、こうして小笠原主水が義兄の小笠原信喜の許へと、一方、黒川久左衛門は甥・内匠の舅に当たる岩本正利の許へと、それぞれ足を運んでいることが判明した訳だが、問題はその目的であった。
小笠原主水や黒川久左衛門は一体、何の目的があって、夫々、義兄や、或いは甥の舅の許へと足を運んでいるのか、それが重好には分からず、伊丹六三郎や栗原金四郎にしてもそれは同様であった。
ともあれ重好は引続き、小笠原主水、及び黒川久左衛門両名の「動向監視」を伊丹六三郎と栗原金四郎に命じたのであった。
するとそれから一週間後、動きがあったそうな。
何と、小笠原主水と小笠原信喜、黒川久左衛門と岩本正利が一堂に会したのであった。
その日もいつもの様に、伊丹六三郎が小笠原主水の、栗原金四郎が黒川久左衛門の、夫々その後をつけていたのだが、小笠原主水は小笠原信喜を、黒川久左衛門は岩本正利を、夫々伴い、深川の船宿にて落合ったのだ。
畢竟、伊丹六三郎と栗原金四郎も落合うことになった訳で、まさか落合うことになろうとはと、伊丹六三郎にしろ、栗原金四郎にしろ、互いにそう思ったそうだ。
さて、小笠原主水ら4人は船宿で屋形船を仕立てて、川面へと消えた。
こうなっては伊丹六三郎も栗原金四郎も打つべき手当てが見つからない。
やはり屋形船を仕立てて、小笠原主水らを乗せた屋形船に近付くという手もあったが、それで屋形船の中の様子が分かる訳ではない。
最も一般的な手法として、船頭に金を握らせるという手があった。
船頭ならば、屋形の中でどの様な会話が交わされたのか、完全にではないにしても、断片的には耳にしているものと思われるからだ。
だがこれも、現実的ではなかった。それと言うのも船頭は概して自尊心が高く、金では転ばない。下手に金を握らせ様とすれば、そのことを船宿の主に、或いは己が乗せた客にそのことをぶちまけるとも限らない。
そこで伊丹六三郎と栗原金四郎の二人はとりあえず、小笠原信喜、及び岩本正利の人相を描写した。
伊丹六三郎にしろ、栗原金四郎にしろ、小笠原信喜、及び岩本正利の両者とは会ったことがないのでその顔を知らず、それ故、可能性としては限りなく低いだろうが、それでも念の為、船宿まで小笠原主水が伴った者を伊丹六三郎が、黒川久左衛門が伴った者を栗原金四郎が、夫々その人相を描写し、重好にその描写画を見て貰うことにしたのだ。重好ならば、信喜の顔も、正利の顔も知っている筈であったからだ。
果たして伊丹六三郎と栗原金四郎の二人は重好に対して、船宿の一件を伝えた上で、描写画を見て貰った。
すると重好はそれが小笠原信喜と岩本正利であると確かめられ、これで完全に、信喜と正利であることが裏付けられた。
だが屋形船で如何なる会話が交わされたのか、そこまでは分からず、その点について伊丹六三郎と栗原金四郎の二人は力が及ばなかったことを重好に詫びたのであった。
それに対して重好は勿論、二人の力不足を責める様な真似はせず、それどころかその「健闘ぶり」を讃えたものであった。
それに、屋形船で如何なる会話が交わされたのか、それは間もなく見当が付くことになった。
それから暫くして、重好はいつもの様に登城し、中奥にある御三卿の詰所、所謂、御控座敷に詰めると直ぐに将軍・家治に呼ばれ、そして家治より家臣の小笠原主水と黒川久左衛門両名の「転職」について打診を受けた。
即ち、小笠原主水と黒川久左衛門の二人が清水家より一橋家へと、「転職《とらばーゆ》」したいと言うのである。
重好は家治よりそう聞かされて、屋形船の中で交わされた会話の中身について見当がついたそうな。
御三卿家臣の人事は御側御用取次の専管であり、しかし、小笠原主水にしろ、黒川久左衛門にしろ、御側御用取次との「パイプ」がある訳もなく、そこで小笠原主水は義兄の小笠原信喜を頼ることにしたのであろう。
信喜は平御側であり、その平御側の筆頭こそが御側御用取次であるので、信喜より御側御用取次へと「転職」の件を取次いで貰おうという訳である。
一方、清水家より一橋家へと実際に「転職」を果たすに際しては、御側御用取次と共に、御三卿の意向もかなり反映される。
つまり、小笠原主水と黒川久左衛門の二人がどんなに、清水家より一橋家へと「転職」を望んでいたとしても、その上、御側御用取次もその要望を聞届けてくれたとしても、受容れ先の一橋家が、この場合は当主の治済が小笠原主水と黒川久左衛門の二人を受容れるつもりがなければ、御側御用取次としても、「転職」を実現してやることは難しい。
そこで一橋家の「工作」を黒川久左衛門が担うことになったのであろる。
黒川久左衛門は甥の内匠、その妻女の山尾、そして山尾の実父の岩本正利を介せば、一橋家とパイプを築くことが可能であったからだ。
何しろ正利の次女にして、山尾の直ぐ上の姉の富こそは、治済の愛妾であり、その上、治済との間に嫡子の豊千代までもうけていたからだ。それも安永2(1773)年の10月に、である。
斯かる次第で、安永2(1773)年10月を境に小笠原主水と黒川久左衛門の二人が急に別行動を取る様になったのは転職の為の地均しであり、屋形船の中でもそれについて具体的な話合いが持たれたのであろうと、重好はこの時になって漸くに合点がいったそうな。
と同時に、重好は家治に対して、
「小笠原主水と黒川久左衛門の二人が一橋家に鞍替えしたいのなら、どうぞ御随意に…」
要は好きにしてくれと、そんな投げやりな態度を示したのだ。
重好としては、既に小笠原主水と黒川久左衛門の二人を完全に見限っており、そんな二人が一橋家へと「転職」を望んでいるとあらば、重好にしても好都合であったからだ。
だが聡い家治は重好のその投げやりな態度に引っ掛かりを覚えたのであろう、
「小笠原主水と黒川久左衛門、この両名との間に何かあったのではあるまいか?」
家治は重好にそう糺したそうな。
聡い家治である。誤魔化しはきかないだろうと、元よりそう観念した重好は正直に打明けた。
即ち、小笠原主水については用人から側用人への昇進を望んでいたにもかかわらず、それを阻まれ、現状維持、用人に留まらざるを得なかったことで、一方、黒川久左衛門は目附より「八役」入りを望んでいたものの、それが蓋を開ければ小十人頭への左遷であり、斯かる次第で小笠原主水と黒川久左衛門の二人は清水家での奉公に嫌気が差し、「新天地」である一橋家でやり直そうとしているつもりではと、重好は兄・家治にそう打明けたのであった。
すると家治も小笠原主水と黒川久左衛門の両名が己の人事に関して不満を持っているであろうことは薄々だが察してはおり、こうして改めて重好よりはっきりと聞かされたことで、
「斯かる次第で他家に奉公しようなどとは怪しからん…」
家治は小笠原主水と黒川久左衛門両名の「転職」を認めなかったのである。
だがそれで問題が解決した訳ではない。いや、それどころか問題は却って拗れたと言うべきか。
何しろ小笠原主水にしろ、黒川久左衛門にしろ、この清水家にて仕えようとの意欲には欠けていたからだ。はっきり言って、やる気がゼロであった。
その様な二人を無理にこの清水家に留まらせても良いことは何一つない。
それどころか悪心を起こす危険性すらあり得た。
「いや、その危惧が的中したのやも知れぬな…」
重好は遠い目付きをしてポツリとそう漏らした。
「それこそが、御家老の本多様に人殺しの濡れ衣を着せることだと?」
川副佐兵衛が確かめる様に尋ねると、重好は頷いた。
確かにそう考えれば辻褄は合う。
だが問題は動機である。
小笠原主水にしろ、黒川久左衛門にしろ、己の境遇に不満を抱き、しかもそれが、
「家老の本多昌忠の所為…」
そう堅く信じて疑わず、そこで昌忠に一矢報いようと、いや、実際にはその様な、「お上品」なものではなく、嫌がらせをしようとしたのは理解出来る。
しかし、その「嫌がらせ」にも程度がある。
人殺しの濡れ衣を着せるともなると、完全に、「嫌がらせ」の程度を超えていた。
確かに、狙い通り、昌忠に人殺しの濡れ衣を着せることが出来れば、昌忠に決定的な打撃を与えることが出来るであろう。
それこそ比喩ではなしに、その命脈を断切ることが出来る。
何しろ、被害者の池原良明は将軍・家治の寵愛篤い奥医師の池原良誠の倅なのである。
その様な良明を殺したとなれば、仮令、御三卿家老と雖も無事では済むまい。
厳密には刑罰ではない切腹が許されれば良い方で、下手人、いや、埋葬さえも許されぬ死罪や獄門に処される危険性さえあり得た。
だが、危険性と言えば、
「昌忠に人殺しの濡れ衣を着せる…」
その姦計そのものが失敗する危険性もあり得、今、正にその危険性に瀕していた。
そしてその場合には小笠原主水にしろ、黒川久左衛門にしろ、間違いなく切腹も許されず、それどころか埋葬すらも許されない死罪や獄門、或いは磔や最悪、鋸挽に処される危険性さえあり得た。
小笠原主水にしろ、黒川久左衛門にしろ、
「昌忠に人殺しの濡れ衣を着せる…」
その姦計には、その様な危険性があることぐらいは充分に承知していよう。
にもかかわらず、斯かる姦計を実行に移したとなれば、
「昌忠への嫌がらせ…」
それだけでは動機としては不十分であろう。
それに時間の問題もある。
即ち、小笠原主水と黒川久左衛門が昌忠に怨みを確固たるものにさせたのは、一橋家への「転職」の希望が砕かれた安永3(1774)年のことと思われる。
だとしたら、遅くとも安永4(1775)年には斯かる姦計に手を染めていなければおかしいだろう。
仮に、種々の仕掛に時間がかかるとしてもだ。
にもかかわらず、何故に今―、安永8(1779)年まで時間を置いたのか、それもまた、川副佐兵衛には疑問であった。
川副佐兵衛がそんなことを考えていると、その思いが当の昌忠に通じたのであろうか、
「もしや…、民部卿様に唆されたのやも知れぬ…」
昌忠はサラリとした口調で実に重大なことを口にした。
民部卿様…、それが御三卿の一橋治済を指しているのは明らかであったが、しかし、川副佐兵衛は理解が追付かず、
「えっ?」
思わずそう聞返していた。
すると昌忠は、
「小笠原主水にしろ、黒川久左衛門にしろ、一橋民部卿様に唆されたのやも知れぬ…、身共に人殺しの濡れ衣を着せよ…、とでも」
丁寧に言直した。
するとこれには重好も、「これ、控えよ」と制したものの、しかしその口調は強いものではなかった。
昌忠もそうと察して、主君・重好の言葉に一応、叩頭して恐縮の態度を取っては見せたものの、それはあくまで態度に過ぎず、止めることなく先を続けた。
「先頃、畏れ多くも大納言様が御薨去あそばされた…」
昌忠はそう切出した。
確かに、これより2ヶ月程前の2月に大納言様こと次期将軍であった家基が歿した。
「されば大納言様に代わる次期将軍を決めねばならぬが…」
昌忠はそこで言葉を区切ると、重好の方へと視線を向けた。
川副佐兵衛もその視線の意味するところは容易に察せられた。
「されば次期将軍の最右翼は宮内卿様でござりまするな…」
川副佐兵衛は昌忠のその視線を的確に代弁してみせた。
すると昌忠は、如何にも「その通りだ」と言わんばかりに深く頷いた。
いや、昌忠ばかりではない、川副佐兵衛を除いて、その場にいた全ての者が、それも同時に頷いた。重好でさえもそうであった。
それは決して追従ではない。
何しろ、重好は将軍・家治の腹違いとは申せ弟であり、先頃、亡くなった次期将軍・家基の叔父に当たるのだ。
それ故、血筋から考えれば、家基に代わる次期将軍と言えば、重好を措いて外には考えられなかった。
「だが、一橋民部卿様もやはり次期将軍の座を狙うておる由にて…」
それなら川副佐兵衛も噂としてだが、耳にはしていた。
一橋治済もまた、重好と同じく御三卿であり、しかも家治・重好兄弟と同じく、八代将軍・吉宗の孫である。
それ故、これで重好がいなければ治済に次期将軍の「お鉢」が回って来たことであろう。
「その様な一橋民部卿様にとって宮内卿様は正に目の上の何とやら…、さりとてまさかに宮内卿様を闇討する訳にも参らず…、なれど宮内卿様が例えばだが、大きな不祥事でも起こさば話は別だがの…」
昌忠にそこまで言われ、川副佐兵衛も、ハタと気付いた。
「まさかに…、一橋民部卿様が清水宮内卿様を追落とすべく、此度の事件を画策したと?」
川副佐兵衛は声を震わせつつ、そう尋ねた。
御三卿たる己に家老として仕える昌忠が、
「こともあろうに…」
将軍の寵愛篤い奥医師の倅を斬殺に及んだとなれば、下手人たる昌忠は元より、昌忠の主人に当たる重好もその「管理責任」が問われる事態と相成ろう。
いや、厳密には御三卿と家老とは主従の関係にはない。家老はあくまで公儀、幕府より御三卿の屋形へと派遣された身であり、そうであれば御三卿家老は公儀、幕府と主従関係にあり、してみると家老の不始末、不祥事への「管理責任」はあくまで公儀、幕府が負うべきものであろう。
だが、それはあくまで理屈の話であり、一般的には御三卿家老は御三卿の家臣と見られがちであった。
ましてや、最終的に次期将軍を決める権を持つ将軍・家治にしてみれば、清水家老の昌忠が己が寵愛する奥医師の倅を斬ったとあらば、理屈を忘れて一般的な見方をするであろう。即ち、
「重好の管理不行届き…」
そう看做し、そうなれば次期将軍選考にも重大な影響を及ぼすのは間違いない。
はっきり言えば、
「次期将軍には重好ではなく、一橋治済を据え様…」
家治がそう考えても不思議ではない。
川副佐兵衛のその見立てに対して、昌忠も「左様」と首肯した。
成程、それならば全ての説明がつくというものである。
一橋治済の「後ろ盾」があれば、成程小笠原主水にしろ、黒川久左衛門にしろ、「危険」を冒すのも吝かではないだろう。
また、安永8(1779)年まで時間を置いたことにも説明が付く。
「されば今…、小笠原主水殿と黒川久左衛門殿の二人はもしや、一橋民部卿様の許にて匿われているやも?」
川副佐兵衛はその可能性にも触れた。
仮に、小笠原主水と黒川久左衛門の二人の「雇主」が一橋治済だとして、そんな二人が頼る先と言えば、「雇主」たる治済を措いて外にはいないだろう。
小笠原主水と黒川久左衛門が前後して…、4月4日に逐電、この清水屋敷より出奔した事実からもそれは窺われよう。
4月4日に黒川久左衛門が本多正忠の代理として、西川伊兵衛より印籠を受取ってから、4月9日に池原良明が斬殺されるまで、6日間もの空白がある。
その間、黒川久左衛門は元より、小笠原主水も自宅に帰った形跡がないとすると、一橋屋敷にて過ごしていたと考えるより外にはないだろう。そして、目的を遂げた後も…。
「恐らくはのう…、いや、今でも生かされておるのか、そこまでは分からぬが…」
昌忠は実に恐ろしいことを口にした。
既に、小笠原主水と黒川久左衛門の二人は治済にとっては用済みであり、口を封じられたのではあるまいか…、昌忠はそう示唆したのであった。
確かに治済にしてみれば、小笠原主水と黒川久左衛門の二人は「爆弾」の様な存在であり、そうであれば爆発する前に「処理」しようと考えるのが普通であろう。
ともあれ川副佐兵衛はこれまでの「裏」を取るべく清水屋敷を辞去すると、まずは清水御門の門番所へと向かった。
その時、門番所にて門番を勤めていたのは6000石の大身、中根日向守正均とその家来たちであり、今日4月11日より10日間、勤める。
川副佐兵衛は中根正均に己の身許を明かした上で来意を告げた。
すると中根正均も快く、備付の台帳を川副佐兵衛に差出した。
川副佐兵衛は中根正均の協力に感謝すると、早速、台帳を繰った。
お目当てのページである一昨日、4月9日の条には確かに、暮六つ(午後6時頃)を少し過ぎた頃に、清水家老の本多昌忠と側用人の本目権右衛門の二人が奥医師にして、歯科医の安藤正朋を連れて清水御門を潜り、御門内に入ったとの記録があった。
それから宵の五つ半(午後9時頃)までの間、清水御門を潜って御門外に出た清水家臣は誰一人としていなかった。
いや、清水御門を潜らずとも、門外へと出る方法はある。
即ち、田安御門、及び竹橋御門を潜って門外へと出る方法であった。
そこで川副佐兵衛はそれも確かめることにしたが、その前に、小笠原主水と黒川久左衛門の二人が逐電、失踪した4月4日より、今日4月11日までの条を改めてページを繰ってみた。
その間、小笠原主水の名前も、黒川久左衛門の名前も見つけることは出来なかった。
無論、|明六つ(午前6時頃)から暮六つ(午後6時頃)までの間は御門は開かれており、その間に御門を通行する者に関しては記録として台帳にその通行が書込まれることはないので、4月4日から今日4月11日までの間の条に小笠原主水及び黒川久左衛門、この両者の名前が見つからなかったとしても、この清水御門を潜らなかった証明にはならないだろう。
つまりは今しがたまでの清水家サイドの証言を裏付けるものは何もなく、逐電《ちくでん》、失踪が嘘である可能性もあり得た。
だが少なくとも、4月4日に黒川久左衛門が家老の本多昌忠の代理として西川伊兵衛より印籠と根付を受取ったのは事実である。それは第三者とも言うべき西川伊兵衛の証言により裏付けられていた。
だとするならば今のところは清水家サイドの証言に軍配を挙げざるを得ない。
それから川副佐兵衛は田安御門と竹橋御門にも足を運び、夫々の門番所に備付の台帳を繰ってみたものの、結果は同じであった。
即ち、池原良明が斬殺されたと思しき、|暮六つ(午後6時頃)より宵の五つ半(午後9時頃)にかけて、田安御門、及び竹橋御門を潜って門外へと出た清水家臣の名前を見つけることは出来なかった。
ちなみに、門外へと出る方法としては更にもう一つ、別の道があり、それは、
「角の御番所を潜って、代官町通りを抜けて半蔵御門より門外へと出る」
というものであった。
だがこれも、暮六つ(午後6時頃)を過ぎれば不可能であった。暮六つ(午後6時頃)を過ぎると、角の御番所は完全に閉切られ、三十六見附の様に、門番所に備付の台帳に、
「住所、氏名、年齢、職業…」
それらを書込んで通行を許して貰う訳にはいかなかった。
つまり、暮六つ(午後6時頃)より明六つ(午前6時頃)までの間は、清水屋敷に出入りするには清水御門、田安御門、そして竹橋御門を潜るより外に手はなく、その間、清水屋敷は、或いは真向かいの「お隣さん」である田安屋敷にも当て嵌まることだが、さしずめ密室状態となる。
その間に御門を潜ろうと思えば、必ず門番所備付の台帳に記録として残されるからだ。
だが清水御門の門番所に備付の台帳は元より、田安御門、及び竹橋御門、夫々の門番所備付の台帳にも清水家臣の通行の記録はなかった。
いや、4月9日の暮六つ(午後6時頃)前に清水、田安、竹橋の何れかの御門より門外に出て、犯行後、どこぞにて一泊してその翌朝、つまりは4月10日の明六つ(午前6時頃)以降に再び、何れかの御門より門内へと|入《はいり、そして清水屋敷へと帰れば、台帳に記録として残ることはない。
そこで川副佐兵衛は無駄足を踏むことは承知の上で、清水家サイド、それも重好が証言、申告した「現場不在証明」の裏を取ることにした。
その為、川副佐兵衛が向かった先はまずは小石川富坂上であった。そこに、多古藩の上屋敷がある。
4月1日より10日までの10日間、田安御門の門番所にて門番を勤めていたのは多古藩主の松平豊前守勝全であり、その勝全は4月9日の暮六つ(午後6時頃)以降、歯痛に苦しんでいた本多六三郎を見舞うべく、己の名代として家老を遣わしたとの話であり、そこで川副佐兵衛としてはその家老に直に会って、重好の「証言」の裏を取るつもりであった。
多古藩の上屋敷でも川副佐兵衛は寺社役という肩書の御蔭であろう、藩主の勝全に歓待されると、川副佐兵衛が望む通り、家老を、それも村瀬茂兵衛なる家老を川副佐兵衛の許へと連れて来させた。
そこで川副佐兵衛は家老の村瀬茂兵衛に4月9日の件を尋ねた。
すると村瀬茂兵衛から返って来た返答たるや、重好の「証言」の正しさを裏付けるものであった。
いや、それどころか補強するものであった。
「暮六つ(午後6時頃)過ぎに清水宮内卿様の御邸へと参りますと、丁度、物頭の本多六三郎殿が安藤安仙殿の治療を受けられていた最中にて、それ故、手前は本多殿に…、六三郎殿に挨拶するのは控え様と思うた次第にて…、なれどそれでは申訳ないと、御家老の本多様が…、そこで本多様は弟の六三郎殿に…、治療中の六三郎殿に声をかけられ、手前が見舞いに参りましたことを伝えられ…、安藤安仙殿も気を利かせられて治療の手を止め…、すると六三郎殿は起上がろうとなされ、流石に手前もそれには及びませぬと…、すると六三郎殿も、斯様なる見苦しき体にて申訳ござらぬと、詫びられまして…」
これで本多昌忠・六三郎兄弟の「現場不在証明」が裏付けられた格好であった。
いや、昌忠に関して言えば、側用人の本目権右衛門共々、安藤正朋を伴い、暮六つ(午後6時頃)過ぎに清水御門を潜って門内へと入ったことが件の台帳に記録として留められていることからも、「現場不在証明」は完璧であった。
池原良明の死亡推定時刻である暮六つ(午後6時頃)から宵の五つ半(午後9時頃)までの間、昌忠と本目権右衛門が清水御門は元より、田安御門、竹橋御門の何れの門からも出た記録はないからだ。
あるのは宵の五つ半(午後9時頃)を過ぎた頃に安藤正朋が清水御門を出た記録だけである。
いや、安藤正朋だけではない、もう一人の家老、吉川從弼と、それに二人の番頭、杉浦頼母勝明と近藤助八郎義種の名もあった。
どうやら、安藤正朋が屋敷へと帰るに際して、家老と番頭が屋敷まで見送りに立ったものと思われる。
それ故、家老の從弼と、番頭の杉浦頼母と近藤助八郎の「現場不在証明」も裏付けられた。
仮に從弼たちの何れかが池原良明を刺殺した下手人だとして、その場合、宵の五つ半(午後9時頃)過ぎに清水御門を潜って門外へと出るには、その前、それも三十六見附が閉じられる暮六つ(午後6時)から宵の五つ半(午後9時頃)前に清水御門、或いは田安御門、若しくは竹橋御門の何れかの門を潜って門内へと入り、清水屋敷へと立ち戻らねばならない。
だが、その場合、必ず台帳に記録として残り、しかしその間、清水御門は元より、田安御門、竹橋御門を潜って門内へと入った清水家臣は誰一人としておらず、その為、從弼たちもまた、池原良明が刺殺されたと思しき死亡推定時刻には清水屋敷にいたと考えざるを得ない。
「その後、手前は旗奉行の倉橋武右衛門殿と長柄奉行の戸田可十郎殿の案内にて座敷へと誘われ、そこで畏れ多いことに清水宮内卿様に拝謁し…」
これで重好と旗奉行の倉橋武右衛門景平と長柄奉行の戸田可十郎格誠の「現場不在証明」も裏付けられた。
「それから手前は…、外の、酒井様や鈴木様が御家中と共に、盛大なるもてなしを受けまして…」
酒井様とは竹橋御門番を勤めていた伊勢崎藩主の酒井忠温であり、鈴木様とは清水御門番を勤めていた鈴木數馬のことであった。両者とも、松平勝全同様、己の名代として家中、家老を清水屋敷へと差向けたとの重好の話であり、今の村瀬茂兵衛の証言にて、それもまた裏付けられた。
「されば手前は用人の福村理太夫殿と本目平七殿の御両人の給仕を受けましてな…」
村瀬茂兵衛は如何にも恐縮の体を覗かせた。
それはそうだろう。何しろ御三卿用人と言えば、従六位布衣役である。
一方、村瀬茂兵衛と言えば、名門、久松松平の流を汲む多古藩主、松平勝全の許で家老を勤める者である。
とは申せ、その身はあくまで大名家の陪臣に過ぎず、身分で言えば、従六位布衣役である御三卿用人の方が圧倒的に上であった。
その用人から、それも二人の用人から給仕を受けたのだから、村瀬茂兵衛が恐縮するのも当然であった。
ともあれこれで、用人の福村理大夫正敏と本目平七親平の「現場不在証明」も確かめられた。
ちなみに、村瀬茂兵衛の証言により、伊勢崎藩主・酒井忠温の家老、速見九兵衛には大久保半之助忠基と近藤小八郎義端が、鈴木數馬の家老の鈴木求馬には根来茂右衛門長方と井戸茂十郎弘道が夫々、給仕を担ったとのことである。
無論、川副佐兵衛としては後で当人より裏を取るつもりではあるが、村瀬茂兵衛が嘘をついているとも思えず、これでほぼ、小笠原主水を除いた6人の用人の「現場不在証明」も裏付けられたと言えるだろう。
「そうそう…、帰りにはまた、過分な土産を頂戴致しましてな…」
村瀬茂兵衛が思い出したかの様にそう告げたので、川副佐兵衛も思わず、「土産?」と聞返した。
「左様…、されば料理切手や反物を頂戴致しましてな…」
確かに土産としては些か、過分であろう。
それらの土産だが、村瀬茂兵衛の証言によると、小姓らが手分して、配っていたとのことであった。
流石にその小姓の名までは村瀬茂兵衛にも分かりかねるとのことであり、それ故、その小姓らの「現場不在証明」を確かめる術はなく、しかし、川副佐兵衛としては最早、それも不要な様に思えた。
何しろ「八役」のうち、家老と番頭、用人と旗奉行、そして長柄奉行の「現場不在証明」がほぼ確かめられたのである。この上の「現場不在証明」は不要であろう。
仮に家老の本多昌忠が、いや、御三卿の清水重好が全て仕組んだことだとしても、その場合、平の小姓や、或いは近習などに殺しを命じるとも思えない。
その場合には幹部クラスである「八役」を措いて外にはあり得ないだろう。
いや、「八役」ではなくとも、目附や徒頭、小十人頭ならば、あり得るやも知れぬ。
御三卿の目附や徒頭、小十人頭ならば、「八役」に次ぐ幹部であり、殺しを命ずる相手として不足はないであろう。
それに「八役」のうちでもまだ、物頭と郡奉行、勘定奉行の「現場不在証明」は裏付けられてはいなかった。
だが、これも間もなく、
「いとも容易く…」
その「現場不在証明」が裏付けられることとなる。
まず物頭だが、既に「現場不在証明」が成立している本多六三郎を除いて、蔭山新五郎と小野四郎五郎がいた。例の、毎日、門番所へと食事を差入れる面子である。
そのうち、田安御門の門番所へと食事を差入れていた蔭山新五郎が村瀬茂兵衛を門番所まで見送ったというのである。
「宮内卿様より頂戴仕りましたる土産の品々、とても一人では持切れず…」
そこで蔭山新五郎が村瀬茂兵衛の為に土産の品々を門番所まで持ってやったというのである。
そればかりではない。村瀬茂兵衛が清水屋敷を出た時は既に宵五つ(午後8時頃)を回っており、辺り一面、暗闇ということで、足許を照らす提灯が不可欠であり、重好は何と、村瀬茂兵衛の為に提灯持ちまでつけてくれたと言うのである。
「されば郡奉行の杉本理右衛門殿を提灯持ちに…」
杉本理右衛門愷利と安井甚左衛門保狡の二人が郡奉行を勤めていた。
ちなみに、村瀬茂兵衛の証言によれば、伊勢崎藩主・酒井忠温の家老、速見九兵衛の為に土産の品々を抱えたのは小野四郎五郎であり、提灯持ちを勤めたのは勘定奉行の酒井外記であったそうな。
いや、それまで―、4月1日から10日までの10日間、竹橋御門の門番を勤めていた酒井忠温とその家臣の為に食事を届けていたのは小野四郎五郎であるので、その小野四郎五郎が酒井忠温の家老の速見九兵衛の為に土産の品々を抱えてやるのは当然としても、それならば提灯持ちにしても、郡奉行の安井甚左衛門が勤めるのが自然ではあるまいか…、川副佐兵衛はそう疑問に思った。
するとその疑問に村瀬茂兵衛が応えてくれた。
「いや、本来なれば今一人の郡奉行、安井甚左に提灯持ちを勤めさせるべきところ、生憎と安井甚左は久方ぶりに休みを取り、宿下をしているによって…、と宮内卿様は斯様に仰せられて、そこで安井殿の代わりに、勘定奉行の酒井殿を…、酒井外記殿を提灯持ちにつけられた由…」
成程、そういうことかと、川副佐兵衛は合点がいった。
そういうことなら郡奉行の安井甚左衛門ではなく勘定奉行の酒井外記が提灯持ちを勤めたことにも合点がゆく。
だがそうなると、酒井外記に「現場不在証明」がないことになる。
御三卿の家臣は基本的には「住込」が原則であり、清水家を例に取れば、清水邸内にある長屋、さしずめ組屋敷にて家族と共に起居するのが原則であった。
それでも偶に、休を取り、実家へと戻る、つまりは「宿下」をすることも可能であった。
安井甚左衛門の場合はそれがどうやら、池原良明が殺された4月の9日であった様だ。
そしてその為に、安井甚左衛門には「現場不在証明」の存在が確かめられなくなってしまった。
いや、「現場不在証明」がないからと言って、下手人と決まった訳ではない。「現場不在証明」がないから即ち、下手人だと考えるのは短絡的に過ぎ様。
それに殺しともなれば、郡奉行の様な役方、文官にやらせるとも思えない。
やはり武官、番方にやらせようと考えるのが自然であった。
それ故、川副佐兵衛としては、安井甚左衛門には今のところ、「現場不在証明」が確かめられないからと言って、下手人であるとは思えなかった。
清水御門橋を渡る時には御門橋を守る門番もとい旗本から誰何されることはなかった川副佐兵衛であったが、本丸とも言うべき清水屋敷へと足を踏み入れるに際しては、流石に門番の許しを得る必要があった。
川副佐兵衛は門番所に詰める門番に対して身分を明かした上で、家老の本多讃岐守昌忠への面会を希望、その旨、昌忠に取次いでくれる様、頼んだ。
この門番は清水番頭の杉浦頼母勝明組下の小長谷友三郎時殷なる者であり、小長谷友三郎はまずは直属の上司たる杉浦頼母にこの件を伝えた。
それ故、実際に本多昌忠に取次いだのは番頭の杉浦頼母であり、昌忠より川副佐兵衛に逢おうとの返事を得た杉浦頼母は門番所にて待つ川副佐兵衛の許へと足を運ぶと、そこで川副佐兵衛に対して、己が小長谷友三郎の直属の上司に当たる番頭であることを教えた上で、川副佐兵衛を昌忠が待つ奥座敷へと案内した。
こうして奥座敷にて川副佐兵衛は昌忠と対面を果たすや挨拶もそこそこ、早速、本題に入った。
本題とは外でもない、件の印籠の件であり、川副佐兵衛が印籠の件を切出すと、昌忠の方から西川伊兵衛に50両にて印籠とそれに根付の注文をしたことを打明けたのであった。
これでどうやら、昌忠が西川伊兵衛に印籠と根付を注文したことが完璧に裏付けられたと言えよう。
問題はここからであった。
「ときに…、その印籠と根付は?」
今、何処にあるのかと、川副佐兵衛はそれを問うた。
そのうち、印籠が池原良明が殺害された現場に遺留されていた事実はまだ外部には伏せられていたので、昌忠が下手人でもない限りは知らない筈であった。
ともあれ川副佐兵衛のその問いかけに昌忠は表情を曇らせると、
「それが受取ってはおらんのだ…」
そう応えた。
無論、それが小十人頭の黒川久左衛門盛宣より受取っていないことを言っているのだと、川副佐兵衛には即座に理解出来たものの、ここは慎重を期して、
「それは如何なる仕儀にて?」
敢えて素知らぬ風を装った。本多昌忠当人の口から聞く必要があったからだ。
すると昌忠も川副佐兵衛のその意図を察してか、詳しい事情を説明した。
即ち、印籠と根付が完成したのは4月3日のことであり、その日、西川伊兵衛が昌忠の許へと遣いを寄越してその旨、昌忠に伝えたそうな。
それに対して昌忠は本来ならばその翌日の4日に自ら、西川伊兵衛の許へと足を運んで印籠を受取りたいところであったが、しかし、4月4日はどうしても外せない用事があったのだ。
外せない用事とは外でもない、家基の法会であり、ことに4日は御三家、御三卿は元より群臣―、全ての幕臣が御城へと登城、正に総登城しなければならず、御三卿家老も勿論、その例外ではなかった。
それ故、その4日はどうしても印籠と根付を取りには行けず、そこで昌忠は代理として小十人頭の黒川久左衛門を立てたそうな。
「それは…、本多様が黒川殿に、お命じになられたことで?それとも…」
黒川久左衛門が自ら望んだことなのか…、川副佐兵衛がそう尋ねようとすると、
「されば久左衛門が自ら、申出たのだ…、いや、身共が印籠と根付の件で悩んでいると…、直ぐにでも取りに行きたいところ、それが出来ずに悩んでおると、久左衛門がそれなればと、気を利かせてくれたのだ…」
昌忠は先手を打つ格好でそう答えた。
昌忠はその上で、黒川久左衛門のその申出を有難く頂戴し、そこで引換伝票と共に半金の25両を久左衛門に携えさせたことをも打明けたのであった。
「それで…、にもかかわらず印籠と根付は黒川殿より受取ってはおられない、と?」
川副佐兵衛は改めて昌忠にその点を糺した。
「左様…」
「されば…、黒川殿は西川伊兵衛より半金の25両と引換えに印籠と根付を受取った後、この御屋敷には帰ってはおられない、と?つまりはその、出奔されたと?」
川副佐兵衛は先回りしてそう尋ねた。昌忠が黒川久左衛門より印籠と根付を受取ってはいないとすると、そう考えるより外になかったからだ。
すると昌忠は渋面となりつつ、「左様」と応えた。
「黒川殿の行き先に心当たりは…」
川副佐兵衛のその問いは探索における常道と言えた。
「うむ…、もしや実家かと思うて、そこで濱町へと…」
昌忠の説明によると、黒川久左衛門は新番組頭を勤めた旗本・黒川左門盛章の三男であった。つまりは旗本の次男、三男で構成される「附切」の身分で清水家に仕えていたのだ。
その黒川久左衛門の実家である旗本・黒川家の屋敷は濱町にあり、しかも寺社奉行・牧野惟成の「お隣」とのことである。
ともあれ清水家としては濱町にあるその黒川家へと人を、番頭の杉浦頼母とその相役、同僚の番頭である近藤助八郎義貫の2人を差向けたそうな。
その時の黒川家の当主は黒川内匠盛胤で、黒川久左衛門の甥に当たる。
即ち、久左衛門が実兄にして先代の黒川左太郎盛武の嫡子がこの、内匠盛胤であり、その時、黒川家の屋敷には家臣の外には隠居の身の左太郎とその妻女の筑、そして当主の内匠とその妻女の山尾の4人が暮らしていた。
そこへ、杉浦頼母と近藤助八郎の2人が訪れ、久左衛門の実兄にして隠居の身の左太郎と、その息にして当主である内匠の両名に、黒川久左衛門出奔の事実を伝えたのであった。
いや、一応は「行方知れず」とオブラートに包みはしたものの、その意味するところは出奔しかあり得ない。
しかも番頭という、御三卿の家臣の中でも家老、御側御用人に次ぐ幹部クラスが2人も直々に足を運んだからには、
「この黒川家にて久左衛門の身柄を匿っているのではあるまいか…」
2人を差向けた清水家の当主たる重好がそう疑っているのを如実に物語っていた。
それに対して左太郎にしろ、内匠にしろ、仰天したらしい。
出奔など初耳であり、ましてやその身柄を匿うなど、とんでもない…、左太郎・内匠父子は杉浦頼母と近藤助八郎の2人に対して、
「気が済むまで家捜しして貰って結構…」
そう口を揃えたそうな。
そんな2人の様子から、杉浦頼母にしろ近藤助八郎にしろ、ここ黒川家には久左衛門はいないだろうと、察せられはしたものの、それでも念の為、杉浦頼母と近藤助八郎の2人は無駄であるのは承知の上で、家捜しをさせて貰った。
その結果は案の定と言うべきもので、黒川久左衛門の姿はどこにも見当たらず、そこで杉浦頼母と近藤助八郎の2人は左太郎・内匠父子に家捜しさせて貰ったことへの謝意を述べると共に、もし黒川久左衛門から連絡がある様なら、或いは姿を見せたならば至急、その旨、伝えてくれる様、頼んで黒川家を辞去したそうな。
それが4月6日の話であった。重好としては直ぐにでも黒川家へと人を差向けるつもりの様であったが、それを昌忠が制して、とりあえず、出奔当日の4日と、その翌日の5日は猶予を与えたそうな。その間に黒川久左衛門が帰ってくるかも知れないからだ。
だが結局、4月6日になっても黒川久左衛門は帰っては来ず、そこで黒川家に人を差向けることとし、番頭の杉浦頼母と近藤助八郎の2人を差向けたという訳だ。
「ときに…、印籠と根付の件は黒川家の者には…」
「いや、まだ伏せてある…、それを打明ければ、久左衛門が印籠と根付を盗んだ下手人となるからの…、いや、まだ盗んだと決まった訳ではあるまいによって…」
それで黒川家の人間には印籠と根付の件は打明けなかったのだと、昌忠は川副佐兵衛に教えた。つまりは黒川家への配慮からであった。
「それでは印籠と根付の件を御存知なのは…」
「この身共を除いては主の宮内卿様と、それに相役の吉川殿と側用人の本目権右衛門、番頭の杉浦頼母と近藤助八郎だけで、用人も知らぬことぞ…」
「左様で…」
「して、その印籠と根付が如何致したと申すのだ?」
昌忠はこの段になって漸くに、印籠と根付の件をクドクドと訊く川副佐兵衛に疑念を抱いた様子であった。それが当然の反応と言えよう。
そこで川副佐兵衛もここで漸くに、池原良明の殺害現場に印籠が遺留されていた件を昌忠に打明けたのであった。
すると昌忠は流石に驚いた様子を見せた。
「何と…、それなる池原雲亮が、身共が受取る筈であった印籠を握り締めて果てていたと申すのか…」
昌忠はそう呻く様に確かめた。
「左様で…」
「いや…、それではまるで、身共がそれな池原雲亮を殺めたかの様であるが…」
昌忠は己が池原良明殺しの下手人だと疑われているのではないかと、そう思ったらしい。
被害者である池原良明が握り締めていた印籠が、己が注文したそれであると聞かされれば、成程、そう思うのがこれまた当然であった。
だが実際には印籠の握り方から、池原良明が自ら握り締めた者ではなく、誰かに握らされたことをも、川副佐兵衛は昌忠に打明けたのであった。無論、昌忠を安心させる為であった。
「それでは…、下手人は身共を下手人に仕立てるべく、斯かる真似を…、池原雲亮に、この身共が受取る筈であった印籠を握らせたと申すのか?」
昌忠は己への疑惑が晴れると思ったのか、身を乗出して確かめた。
「恐らくは…、いや、その為にも印籠の行方が大事にて…、本多様の御話を伺いましたるところによれば、どうやらその印籠、根付と共に黒川殿が所持している可能性がかなり高く…、いえ、無論、池原雲亮が殺される前まで、でござりまするが…」
それは、昌忠を池原良明殺しの下手人に仕立てようとしたのは、つまりは池原良明殺しの真の下手人は黒川久左衛門である…、そう示唆するものであった。
昌忠も川副佐兵衛のその示唆に気付いたらしく、再び表情を曇らせると、「あの久左衛門が…」と呻いた。
「これは念の為に伺うのですが…」
川副佐兵衛が口にしたその口上は、「現場不在証明」を尋ねる時の、お決まりの文句であった。
「一昨日…、4月9日の暮六つ(午後6時頃)から宵の五つ半(午後9時頃)までの間、本多様はどこで何をなされておりましたでござりましょうや…」
「さしずめ、それが池原雲亮が殺められた刻限と?」
昌忠がそう尋ねたので、川副佐兵衛も素直に「はい」と首肯した。
いや、実際には「死亡推定時刻」は暮六つ(午後6時頃)でほぼ間違いないが、それでも念の為、「死亡推定時刻」を広めに取ったのであった。
ともあれ昌忠もまた、川副佐兵衛のその問いに素直に答えた。
「その日なれば、暮六つ(午後6時頃)どころか、それ以前から夜更けまで、ずっと弟の看病をしておったわ…」
これは意外な回答であり、川副佐兵衛は思わず、「看病?」と聞返していた。
すると昌忠は、「暫し待て」と告げてから川副佐兵衛を一人、奥座敷に残して廊下に出ると、それから暫くして、一人の男を連れて奥座敷に戻って来た。
そしてその男こそ、昌忠の弟こと本多六三郎長卿であり、物頭を勤めているとのことであった。
「ああ、申し忘れておったが、この六三郎めも印籠と根付の件は存じておったわ…」
昌忠が思い出したかの様に川副佐兵衛にそう告げると、傍でそれを聞いていた本多六三郎は「印籠と根付の件?」と聞返した。
そこで昌忠は六三郎にも川副佐兵衛を紹介した上で、これまでの川副佐兵衛とのやり取りを語って聞かせた。
「されば一昨日の9日は、そなたは歯痛に襲われたのであったの…、親知らずであったが…」
昌忠は実弟・六三郎にそう水を向けると、六三郎も「恥ずかしながら…」と応じた。
「歯痛、でござりまするか?」
川副佐兵衛は昌忠と六三郎兄弟の間を割って入る様に尋ねた。
するとそれには兄・昌忠が答えた。
「左様…、9日の昼九つ(正午頃)より急に苦しみ始めての…、いや、一昨日の9日は今日、11日と同じく、身共はこの屋敷にて留守を預かっており…」
御三卿家老は平日は交代で登城する。
この清水家を例に取れば、家老の本多昌忠と吉川摂津守從弼が交代で御城に登城し、中奥にある御三卿家老の詰所に詰め、その間、もう一人の家老が留守を預かることになる。
本多昌忠は今日、11日はこうして屋敷におり、つまりは留守を預かっていたからこそ川副佐兵衛を出迎えられた訳で、してみると昨日、10日は登城日に当たり、留守を預かっていたのは吉川從弼ということになる。
そして更にその前日の9日は今日11日と同じく、昌忠が留守を預かっていたという訳だ。
「まぁ、昼九つ(正午頃)に歯痛を発症したとは申せ、まだそれ程の痛みではなかった様で…、なれど宮内卿様が御城よりお戻りあそばされてから…、昼八つ(午後2時頃)を過ぎてから急に痛みが酷くなってな…」
御三卿は溜間詰や雁間詰、菊間詰の諸侯と同様、平日登城が許されており、そこが御三家との違いであった。
「恐らくは宮内卿様の御帰邸を迎え申上げたことで気が緩み、それ故にそれまで抑えられていた痛みが酷くなったのやも知れぬな…」
その気持ちは川副佐兵衛にも理解出来た。主君が無事に帰って来ると、家臣ならば本能的にホッとするものである。
「それでもこの六三郎めは痩せ我慢を致しおってな…、放っておけば治るなどと申して…」
昌忠はその時の様子を思い出したのであろう、苦笑を浮かべた。
成程、六三郎が痩せ我慢をしたのも川副佐兵衛にはまた理解出来た。武士たる者、歯痛程度で一々、医師になどには頼れまい。それもまた本能的なものと言えよう。
「だが、夕七つ(午後4時頃)には高熱まで発して…、遂には呻き声まで上げる始末にて…、それを…、その見苦しき有様に、お気付きあそばされし宮内卿様が見かねて医師の往診を…、歯科医の往診を、お命じあそばされて…」
そこで出張って来たのが医官、それも将軍・家治の御側近くに仕える奥医師にして法眼の安藤安仙正朋とのことであった。
「この御屋敷にも奥御医師がおられましょうに…」
川副佐兵衛は当然の疑問を発した。
御三卿の屋敷にも御城中奥同様、奥医師が常駐しており、それ故、
「態々、安藤安仙を呼ばずとも、この屋敷に常駐する奥医師に本多六三郎を診させれば良かったのではあるまいか…」
それが川副佐兵衛の問いの趣旨であった。
「いや、確かに奥医師はいるが、なれど本道(内科)と金創(外科)の外には婦人科と眼科、そして鍼科のみにて、生憎と口科はおらなんだ…」
成程、口科―、歯科医が存しないのなら、往診を頼むより外にはないだろう。
それにしても将軍・家治の御側近くに仕える奥医師に往診を頼むとは、中々に良い度胸をしている。
見様によっては、将軍を侮る行為とも受取られかねないからだ。
すると昌忠もそうと察したのか、
「いや、安藤安仙に失礼があってはならぬと、そこで身共が側用人の本目権右衛門を伴い、小川丁の神保小路へと…」
そう「言訳」した。成程、将軍の御側近くに仕える奥医師を迎える者として、従五位下諸大夫役の御三卿家老と従六位の布衣役の同じく御三卿の側用人の2人が務めれば、
「将軍を侮る行為…」
その批判を少しくはかわせるであろう。
「小川丁の神保小路…、そこに安藤殿は屋敷を構えられているので?」
「左様…」
流石、将軍の御側近くに仕える奥医師ともなると一等地に住めるものだと、川副佐兵衛は内心、感嘆させられた。
「して、安藤安仙殿がこの御屋敷に着かれましたのは…」
「身共と側用人の本目が安藤安仙の屋敷に着いたが夕の七つ半(午後5時頃)を過ぎた頃にて、それから安仙が往診の為の支度をして…、それ故、安仙が身共らと共にこの屋敷に着いたは暮六つ(午後6時頃)を過ぎた頃であったかの…」
昌忠は「暮六つ(午後6時頃)」の部分にアクセントを置いた。
己には池原良明殺人事件において「現場不在証明」がある…、そう示唆する為であろう。
昌忠のその思惑は兎も角、今の証言があれば成程、確かに完璧な「現場不在証明」と言えた。
同時にそれは側用人の本目権右衛門某の「現場不在証明」でもあった。
無論、裏を取る必要はあるだろうが、川副佐兵衛の直感からして、昌忠が嘘を付いているとは思えなかった。
つまりは昌忠の「現場不在証明」は完璧という訳だ。
一方、昌忠も川副佐兵衛の様子からそうと察したのであろう、
「お疑いなれば、清水御門番所にて確かめられては如何かな?」
成程、清水御門橋を渡って、つまりは清水御門番所を通過して、ここ清水屋敷に辿り着いたのならば、昌忠が言う通り、清水御門番所にて裏を取るのが探索の常道と言えた。
所謂、三十六見附は暮六つ(午後6時頃)にその門が閉じられ、以後、翌朝の明六つ(午前6時頃)までの12時間、門は堅く閉じられた状態となり、それ故、その間に橋を渡ろうと思えば、門番所に詰める門番の許しを得なければならぬ。
昌忠の場合、側用人の本目権右衛門と共に、安藤正朋を伴い、ここ清水屋敷に辿り着いたのは暮六つ(午後6時頃)を過ぎた時分とのことで、だとするならば清水御門橋を渡ったのはぎりぎり暮六つ(午後6時頃)か、それよりも少し遅れたあたりであろう。
いや、昌忠は川副佐兵衛に、
「清水御門番所にて確かめられては…」
そう勧めたことから、御門が閉じられる暮六つ(午後6時頃)には間に合わなかったものと思われる。
そしてその場合―、門が閉じられている間に橋を渡ろうと思えば門番所の門番の許しを得なければならないのは前述した通りだが、その際、身許を、所謂、
「住所、氏名、年齢、職業」
それを門番所に備付けの台帳に記す必要があり、仮に暮六つ(午後6時頃)を過ぎてから清水御門橋を渡ろうと思えば、安藤正朋は元より、ここ清水屋敷にて仕える家老の本多昌忠や側用人の本目権右衛門でさえも、門番所の門番の許しを得た上で、件の台帳に記帳しないことには橋を通行することは許されなかった。
「して、安藤安仙殿が治療を終えられたのは…」
川副佐兵衛は重ねてそう問うた。
「されば…、宵五つ(午後8時頃)であったかの…、結局は親知らずとのことで、親知らずを抜くのに時間がかかり…、なれど親知らずを引抜いた後には熱も下がり、頬の腫れも引き…」
昌忠は弟・六三郎を横目で見つつ、そう答えた。
「それで…、安藤安仙殿は治療を終えられました後には直ぐに帰られましたので?」
池原良明の「死亡推定時刻」は暮六つ(午後6時頃)から宵の五つ半(午後9時頃)までの間であり、それも暮六つ(午後6時頃)直後と思われるが、宵の五つ半(午後9時頃)である可能性もあった。
そうであれば仮に安藤正朋が宵五つ(午後8時頃)に治療を終えた直後に清水屋敷を出たとして、その直後に昌忠にしろ、六三郎にしと、清水屋敷を出れば、「死亡推定時刻」の範囲内である宵の五つ半(午後9時頃)までには「犯行現場」である芝は愛宕山権現社總門の橋にギリギリ間に合う。
いや、「犯行現場」に間に合うというだけで、直ぐにそれと殺人とがイコールで結びつく訳ではない。
何しろ、池原良明が市谷土取場にある学友・戸田要人の屋敷を出たのは夕の七つ半(午後5時頃)であり、何事もなければ暮六つ(午後6時頃)には池原良明は「犯行現場」とは目と鼻の先の愛宕下廣小路の屋敷に着いた筈であり、しかし実際には屋敷に着くことはなく、「犯行現場」で無念の最期を遂げたとなれば、池原良明が屋敷の門を潜る前に下手人に声でもかけられ、そして「犯行現場」へと誘き寄せられたと考えるのが自然であり、それこそが、
「死亡推定時刻は暮六つ(午後6時頃)の直後に相違ない…」
その根拠であった。
だがそれでも、「もしかしたら…」、があり得た。即ち、
「いったん屋敷に着いた池原良明が外から下手人に呼出され、そしてそのまま犯行現場へと誘き寄せられた…」
その「もしかしたら」も完全には捨て切れない段階では、「死亡推定時刻」が宵の五つ半(午後9時頃)である可能性も視野に入れておくべきであろう。
だがその、「もしかしたら」も結局は昌忠によって完全に否定されることになる。
「いや、そのまま帰したのでは安仙に申訳ないでな…」
「申訳ない、とは?」
「夕餉も摂らせずに帰したのでは申訳ないということよ…」
ああ、と川副佐兵衛は合点がいった。
成程、安藤正朋は夕食を摂る前に昌忠と本目権右衛門によって自邸より連出され、ここ清水屋敷にて昌忠の弟・六三郎の治療に当たらせられた、となれば夕食を摂る時間もなかったであろう。
「それでは安藤安仙殿に夕餉を差上げたので?」
川副佐兵衛が先回りして尋ねると、昌忠は「左様」と答えた上で、
「されば簡単な茶漬を振舞い…、いや、本来なれば、もそっとましな馳走を振舞いたかったのだがな、それでは時間がかかり…、いや、既に門限は過ぎてはいたが…」
旗本の門限は宵五つ(午後8時頃)であり、安藤正朋が六三郎の治療を終えたのが正にその宵五つ(午後8時頃)であるので、成程、安藤正朋の帰宅は畢竟、門限を過ぎることになる。
いや、安藤正朋の場合、幕府の医官、それも将軍・家治の御側近くに仕える奥医師として旗本に准ずる家格を誇るが、その役目柄、厳格には門限の概念はない。つまりは門限に遅れたとしても、それ程、問題になることはない。
ましてや、天下の御三卿・清水重好に請われて往診に出向いたからこそ、門限に遅れたもあらば、元より、門限を破ったところで問題になり様筈もない。
だが、そうは言っても一応、門限がある上は、安藤正朋としては一刻も早く帰りたいところであっただろう。
仮令、今から急いで清水屋敷を出て、神保小路にある自邸へと帰ったところで、門限には最早、間に合わないとしてもだ。
そこで昌忠はそんな安藤正朋に対して、用意に時間のかからない簡単な茶漬だけを振舞ったとのことであった。
「それでは結局、安藤安仙殿がこの御屋敷を出られましたのは…」
「されば宵の五つ半(午後9時頃)であったかの…、その折には六三郎めもすっかり恢復致して、御門まで安仙を見送ったわ…」
昌忠は苦笑まじりにそう証言した。
昌忠のこの証言が本当だとすれば、これで少なくとも昌忠とその弟の六三郎の「現場不在証明」が完全に裏付けられたことになる。
無論、裏を取る必要はある。
そこで川副佐兵衛は早速、清水御門番所にて確かめてみよう、門番所に備付けの台帳を繰ってみようと、そう思ったところで、屋敷の主の重好が還御、帰宅したことを告げる声が屋敷中に響いた。
重好は家老の吉川從弼と共に帰宅したのであった。即ち、今日は重好は吉川從弼と共に御城へと登城した訳で、明日は昌忠が登城する番であった。
さて、昌忠は川副佐兵衛に、「暫し待たれよ」と告げてから再び、中座した。これで川副佐兵衛は席を立つ機を失ってしまった。勝手に席を立って門番所へと足を向けては無作法だからだ。
そしてそれから暫くしてから昌忠が川副佐兵衛の許へと戻って来るなり、主・重好が御座所にて川副佐兵衛に会う意向であることを告げたのであった。
これに対して川副佐兵衛は当然、驚いた。川副佐兵衛は寺社役とは言え、その身はあくまで大名家の陪臣に過ぎないからだ。
その様な己に天下の、御三家をも凌ぐ御三卿たる清水重好が会ってくれるともなれば、川副佐兵衛が驚くのも至極当然であった。
ともあれ川副佐兵衛としては断る理由もなければ、その術すらなかったので、重好からの申出を有難く拝受し、かくして川副佐兵衛は昌忠の案内により重好の待つ御座所へと足を向けた。
御座所にて川副佐兵衛は上段にて鎮座する重好と対面を果たすと、当然ながら重好に対して平伏しようとした。
すると重好はそれを制した上、何と上段から降りて来て、川副佐兵衛と近距離で向かい合った。
「大まかな話は昌忠より聞いた…」
重好はそう切出すと、
「さればこの重好が行動も…、池原良明が害されたと思しき暮六つ(午後6時頃)から宵の五つ半(午後9時頃)までの行動を明らかにせねばならぬの…」
何と、重好自らの「現場不在証明」を申告しようとしたのだ。
これには川副佐兵衛も大いに恐縮させられ、
「その儀ばかりは何卒、ご容赦…、ご無用を…」
そう答えるなり、重好から制されたにもかかわらず思わず平伏していた。
事実、重好の「現場不在証明」など無用であった。
天下の御三卿たる重好が一介の奥医師を殺めるなど、到底考えられず、百歩譲って、殺めてしまったところで、罪に問うことなど出来ない。
それでも重好は引かず、
「されば一昨日の9日は暮六つ(午後6時頃)前より、宵五つ(午後8時頃)までの間、この重好が自ら見舞いの遣いの相手をしておったわ…」
そう「現場不在証明」を申告したのであった。
それ故、川副佐兵衛も、まずは重好に「現場不在証明」があることにホッとさせられると同時に、しかしそれとは裏腹に、疑問も湧いた。
「見舞いの遣い、でござりまするか?」
それが川副佐兵衛の疑問であった。
すると重好も「左様…」と応ずるや、「見舞いの遣い」について川副佐兵衛に詳しく説明した。
即ち、ここ清水屋敷は清水御門番によって守られており、そこで重好は門番所に詰める門番に朝食や昼食、それに夕食や夜食まで差入れるのを常としていた。
無論、重好が自ら差入れるのではなく、重好の名代として本多六三郎が食事を差入れるのであった。
それが9日に限って、六三郎は歯痛の為…、親知らずの痛みから、朝食と昼食こそ自ら差入れたものの、夕食は差入れられず、そこで用人の本目平七親平が夕食と、それに夜食を差入れたのであった。
夕食は大抵、夕七つ(午後4時頃)に差入れられ、9日もそうであった。
いや、門番所に差入れる膳だが、門番所に詰める全員分を差入れることになるので、結構な量となり、当たり前だが、一人で持ち切れるものではない。
そこで六三郎が清水御門の門番所に食事を届けるとは言っても、実際に膳を持運ぶのは小者、中間であり、六三郎がその先頭に立って門番所を訪れるのであった。
それが9日に限って、それも夕七つ(午後4時頃)に限って、いつもの六三郎ではなく、見慣れない者が、即ち、用人の本目平七が訪れたことから、門番所に詰めていた旗本の鈴木數馬安節が首を傾げたそうな。
それに対して本目平七もそうと察して、六三郎が歯痛で夕食を届けられず、そこで代わりに己が届けに来たことを鈴木數馬に教えたそうな。
それで鈴木數馬も合点がいき、同時に、「それなれば…」と六三郎を見舞うことを思いつき、しかし、自らは門番としての仕事があるので、そこで配下の家臣に命じて六三郎を見舞わせたそうな。
その折、重好が自ら、見舞いに訪れた斯かる遣いの者の接遇に努めたそうな。
いや、重好が接遇に努めたのは鈴木數馬の遣いの者だけではない、田安御門番や竹橋御門番より差向けられた遣いの者の接遇にも努めたのであった。
ここ清水屋敷は清水御門番は元より、田安御門番やそれに竹橋御門番によっても守られていたと言える。
ここ清水屋敷は田安屋敷とは真向かいで、清水屋敷と田安屋敷に挟まれる格好で田安御門番があった。
それ故、清水屋敷は田安御門番によって守られていたとも言える。
いや、外にも、もう一つ、竹橋御門によっても守られており、清水屋敷は言うなれば、田安御門、清水御門、そして竹橋御門に囲まれており、各々の門番所によって守られていた。
そこで重好は清水御門の門番所だけではなく、田安御門や竹橋御門、この二つの門番所にも差入れを行うのを常としていたのだ。
ちなみに田安御門の門番所への差入れは蔭山新五郎久廣が、竹橋御門の門番所への差入れは小野四郎五郎言貞が夫々担った。
蔭山新五郎も小野四郎五郎も、本多六三郎とは相役、同僚の物頭であり、やはり小者、中間に膳を運ばせ、己はその先頭に立って門番所へと足を運ぶのを日課としていた。
そして夫々の門番所へと食事を運んで来た蔭山新五郎にしろ、小野四郎五郎にしろ、自然と門番所に詰めている門番とは顔馴染みとなり、雑談を交わす間柄ともなる。
それは本多六三郎にも当て嵌まることだが、ともあれ、9日の夕七つ(午後4時頃)に夫々の門番所へと夕食を運んで来た際にもそうであり、即ち、蔭山新五郎は田安御門の門番に、小野四郎五郎は竹橋御門の門番に、夫々、雑談において本多六三郎の歯痛の件を打明けたらしいのだ。
すると田安御門、竹橋御門、夫々の門番所もまた、清水御門の門番所と同様の反応を示した。
その当時、田安御門番を勤めていたのは下総多古藩主の松平豊前守勝全であり、一方、竹橋御門番を勤めていたのは伊勢崎藩主の酒井駿河守忠温であった。
本来ならば見舞いの品を持参するのが礼儀であったが、何分、家基の喪中ということもあり、松平勝全にしろ酒井忠温にしろ、余り派手なことも出来ず、そこで僅かばかりの見舞金を包んで、共に門番を勤める家老に持たせた。ちなみにそれは鈴木數馬にしても同様であった。
一方、重好は鈴木數馬の名代の見舞いの遣いの者に対してのみならず、松平勝全や酒井忠温、夫々の名代の家老に対しても自らその接遇に努めたのだ。
具体的には彼等名代をまずは安藤正朋の治療を受けている本多六三郎の許へと案内し、そこで寝かされている六三郎と対面を果たさせたそうな。
六三郎は起き上がることが出来ず、しかしそれでも安藤正朋には治療を中断して貰い、名代には寝たままの状態で対面する無作法を詫びたらしい。
こうして名代に六三郎との対面を果たさせた重好は次いで夕食を振舞ったそうな。
無論、やはり家基の喪中ということもあり、酒こそ振舞えなかったものの、山野河海の珍味を振舞ったそうな。
その宴席には主催者とも言うべき重好《しげよし》をはじめとし、家老の吉川從弼や側用人の本目権右衛門|、それに6人の用人も所謂、「ホスト役」として陪席していた。
ちなみにもう一人の家老、本多昌忠は弟・六三郎に付添い、つまりは安藤正朋の治療に立会ったそうな。
そして見舞客への接待を終えたのは安藤正朋が六三郎の治療を終えた宵五つ(午後8時頃)より少し前とのことであった。
ちなみに2人の番頭はその間―、邸内にて見舞客への接待が行われていた暮六つ(午後6時頃)から宵五つ(午後8時頃)までの間、清水屋敷の門番所にて警衛に当たっていたそうな。
「いや、外にも旗奉行や長柄奉行、それに物頭や郡奉行、勘定奉行らの動静についても、明らかにせねばならぬかの…」
重好は些か、難しげな表情でそう呟いた。
旗奉行と長柄奉行、郡奉行と勘定奉行もまた、物頭と同じく「八役」であった。
「いえ、それには及びませぬ…」
川副佐兵衛は即答した。
これまでの流れから、池原良明を刺殺したのは小十人頭の黒川久左衛門でほぼ間違いないだろう。
それも態々、家老の本多昌忠にその罪を被くべく、昌忠の代理として西川伊兵衛より受取った印籠と根付のうち、印籠を被害者である池原良明の右手に握らせたであろうことからもそれは明らかであった。
黒川久左衛門が昌忠の代理として、西川伊兵衛より印籠と根付を受取った4月4日を境に逐電、清水屋敷より失踪したこともその傍証となる。
無論、全ては本多昌忠が仕組んだ罠とも考えられ、それ故、昌忠と、或いはその実弟の六三郎の「現場不在証明」は必要かも知れないが、それでも、「現場不在証明」が必要な対象はそこまでである。
外の者についてまで「現場不在証明」は必要ない様に思われた。
仮に全ては本多昌忠の仕組んだ罠だとしても、それに弟の六三郎を除いては外に手を貸す者がこの清水屋敷にいるとは思えなかったからだ。
それでも重好は己の「現場不在証明」は元より、家老の吉川從弼や側用人の本目権右衛門、それに2人の番頭と6人の用人の「現場不在証明」まで申立てたのだ。
この上、旗奉行や長柄奉行、物頭や郡奉行、勘定奉行の「現場不在証明」までは必要ない。
川副佐兵衛がそう考えていると、「宮内卿様…」という從弼の声がその思考に割って入った。
「されば小笠原主水が件につきましても、川副殿が耳に入れました方が宜しいのでは?」
家老の從弼のその「進言」に対して、重好は前よりも一層、難しい顔付きとなった。
川副佐兵衛は当然の反応として、「小笠原主水が件とは?」と問返していた。
すると重好が答えあぐね、それを見て取った從弼が重好に代わり、
「されば用人の小笠原主水が逐電せし件ぞ…」
そう断定口調で答えた。
これには重好も、「まだそうと決まった訳ではあるまいによって…」と遮ろうとした。
だが從弼はそれで屈することはなく、
「なれど…、久左衛門めが逐電せし同じ日…、4日に小笠原主水めもまた、行方を眩ましたとなれば…、これは最早、逐電としか外には…」
そう反論したのであった。重好も從弼のこの反論にはぐうの音も出なかったらしく、口を噤んでしまった。
一方、重好と從弼とのやり取りを聞いていた川副佐兵衛は重好が口を噤んだところで、
「同じ日に?」
そう口を挟んだ。
すると從弼は川副佐兵衛の方を向いて、「左様…」と応えると、驚くべき註釈を付加えた。
即ち、小笠原主水守惟は黒川久左衛門と親しい間柄だと言うのである。
黒川久左衛門が逐電、失踪したと思われる4月4日にその、小笠原主水もまた、行方を眩ましたとなれば、成程、從弼の言う通り、逐電と考えるのが自然であろう。
いや、そればかりではない。
御三卿家老の本多昌忠に奥医師・池原良誠の息・良明殺害の濡れ衣を着せる…、小笠原主水がそれを黒川久左衛門に唆した可能性すらあり得た。
実を言えば、川副佐兵衛は今回の一件―、池原良明殺害事件について、これを黒川久左衛門一人の仕業と考えるには躊躇するものがあった。
何しろ、黒川久左衛門は御三卿家臣の中でも小十人頭に過ぎないのである。
御三卿の小十人頭と言えば、幹部クラスの「八役」の下、それも同じく下である代官や小普請支配、目付や徒頭のその下に位置付けられる。
そうであれば、その様な小十人頭風情、と言っては言葉が過ぎ様が、その程度の黒川久左衛門が一人、「八役」の頂点に位置する家老に殺人の濡れ衣を着せ様とするとは、どうしても考え難かった。
だが、背後に用人がいるとなれば話は別である。
用人は「八役」の中では家老、番頭に次ぐ重職であった。
その小笠原主水が黒川久左衛門を唆した…、それなら大いにあり得た。
いや、もしかしたら小笠原主水の背後にもまた、大物が控えている可能性が充分にあり得た。
御三卿家老を嵌める、それも殺人の濡れ衣を着せるとは、つまりはそういうことであった。
川副佐兵衛がそう考えを巡らしていると、從弼もそうと察したのか、更なる驚くべき事実を打明けた。
小笠原主水は何と、旗本ではないと言うのだ。
御三卿の用人と言えば、「八役」の中でも家老、番頭に次ぐ重職だけあって、番頭と同様、従六位布衣役であった。
また、役高は400石であり、その上、役料として200俵までが付く。
それ故、御三卿用人と言えば、旗本の当主か、或いはその嫡子が「附人」として、若しくは次男、三男が「附切」として、就くものであった。
この清水家を例に取るならば、福村理大夫正慰は旗本・福村家の当主であり、一方、本目平七は側用人・本目権右衛門の嫡子、つまりは旗本の嫡子であった。
ちなみに側用人は用人の筆頭、直属の上司であると同時に、番頭の上に位置する非常置の役職であった。
それ故、御三卿の中でも田安家、及び一橋家には側用人は置かれておらず、ここ清水家だけに置かれていた。
それだけに御三卿の側用人ともなると、従六位布衣役であるのは当然として、役高は千俵であった。
その側用人の職にある本目権右衛門の禄高は700俵であるので、役高と禄高の差額の300俵が権右衛門に支給される。
ともあれ、用人の中でも旗本の当主である福村理大夫、及び旗本の嫡子の本目平七が「附人」として、その職を勤めているのに対して、井戸茂十郎弘道、根来茂右衛門長方、近藤小八郎義端、そして大久保半之助忠基は皆、旗本の次男、三男以下であり、「附切」としてその職を勤めていた。
ちなみに以上の6人の用人には確固たる「現場不在証明」があった。
そんな中、小笠原主水だけは御家人だと言うのである。
御家人が従六位布衣役に取立てられるなど、
「絶対に…」
あり得ない、とまでは言わないにしても、極めて稀なケースと言えよう。
それが小笠原主水は一体、如何なる理由で、御家人の身でありながら、従六位布衣役の御三卿用人の地位におさまったのか、川副佐兵衛は首を傾げた。
すると、川副佐兵衛のこの疑問にはそれまで黙っていた側用人の本目権右衛門が「絵解き」をしてみせた。
「されば、小笠原主水は実は御三家の紀州侯に仕え奉りし小笠原庄左衛門至武が倅にて、それがこの江戸に出て宮内卿様に仕える様になったのだ…」
本目権右衛門はそう切出すと、小笠原主水について、更に詳しい履歴について川副佐兵衛に語って聞かせた。
即ち、小笠原主水には常なる実姉がおり、この実姉が旗本にして本丸小姓組番士の日根野一學高榮の許に嫁ぎ、五男五女をもうけたそうな。
そのうち、三男の一左衛門守吉が本郷を名乗り、重好に仕えていたのだが、この本郷一左衛門が宝暦3(1753)年に亡くなり、しかし、一左衛門には当時はまだ、妻子すらおらず、このままでは本郷の名跡が途絶えてしまということで、急遽、一左衛門の母の実弟、即ち、叔父の小笠原主水に白羽の矢が立てられた。
但し、小笠原主水は本郷一左衛門の叔父に当たるので、一左衛門の養嗣子となり、本郷の名跡を継ぐ、という手は使えない。
その為、小笠原主水は「抱入」、つまりは重好、当時は萬次郎が個人的に雇入れた上で、本郷を名乗らせたのであった。
それと同時に小笠原主水こと本郷主水は御家人の身分をも獲得したのであった。
そして小笠原こと本郷主水は清水家臣として御家人に取立てられてから3年後の宝暦6(1756)年の暮、当時は本丸にて九代将軍・家重に平御側として仕えていた小笠原若狭守信喜の実妹を娶ったそうな。
これは小笠原信喜が実は紀伊家家臣の大井武右衛門政周の倅であることに由来する。
即ち、信喜の実父、大井武右衛門と本郷主水の実父、小笠原庄左衛門は共に紀伊家の家臣であり、その上、竹馬の友であったからだ。
その大井武右衛門の末娘にして、小笠原信喜の実妹の惣がこの時まで…、宝暦6(1756)年まで婚家が見つからず、そこで大井武右衛門は実の倅の小笠原信喜を介して、本郷主水に惣との結婚を打診したそうな。
本郷主水にしても、この時までずっと独身であり、このままでは婚期を逃しかねず、信喜からの打診は正に「渡りに船」であった。
その上、惣と結婚出来れば、平御側として将軍・家重の御側近くに仕える小笠原信喜と義兄弟の間柄になれるというものであり、本郷主水はその様な打算も働いて、惣との結婚を快諾したのであった。
こうして宝暦6(1756)年の暮に本郷主水は小笠原信喜の実妹の惣と祝言を上げたのであった。
惣との結婚は本郷主水に多大な恩恵を齎すことになった。
その最大のものは何と言っても、御家人の身であり乍、従六位布衣役の用人に取立てられたことであろう。
本郷主水は「抱入」の身で、つまりは重好に個人的に雇われたとは言え、いきなり用人に取立てられた訳ではない。
まずは近習からのスタートであり、それが3年後の宝暦6(1756)年に平御側の小笠原信喜の実妹を娶ったことから、本郷主水は翌年には従六位布衣役の用人に取立てられたのであった。
そして結婚後、6年目にして待望の嫡子である楠五郎守玄が誕生したのを機に、主水は姓を本郷から旧姓の小笠原へと戻すことにした。
いや、それは旧姓に復すると言うよりは、妻女・惣の実家の姓である小笠原へと改名する、との意識であったやも知れぬ。
ともあれ主水は惣との間に嫡子・楠五郎守玄をもうけたその翌年の宝暦13(1763)年に小笠原へと姓を改めたのであった。
これには日根野家からも多少の、と言うよりは大変な苦情があったそうな。何しろ本郷の名跡を捨てるも同然であったからだ。
しかし、それも小笠原信喜の威光を以てして、日根野家の苦情を捩じ伏せたそうな。
この時―、宝暦13(1763)年の時点では信喜は現将軍である家治の平御側を勤めていたからだ。
「斯かる次第で、本郷、いや、小笠原主水は当家にて用人を勤める次第と相成ったのだ…」
本目権右衛門はそう締め括った。
御家人の身であり乍、従六位布衣役である御三卿用人を勤める…、本来ならば到底、考えられないことも、背後に小笠原信喜が控えているとなれば不思議ではなかった。
そしてその信喜はつい先頃までは「大納言様」こと次期将軍の家基に御側御用取次として仕えていた。
もしかしたら小笠原主水の背後にも、小笠原信喜が控えている可能性すらあり得た。つまりは、
「小笠原信喜こそが御三卿、それも清水徳川家の家老の本多昌忠を嵌めようと謀った真の黒幕…」
という訳である。
信喜ならば…、次期将軍・家基に御側御用取次として仕えていた小笠原信喜ならば、黒幕に相応しいだろう。
だが、問題は動機であった。
仮に信喜が黒幕だとして、その動機は何なのか、それが川副佐兵衛にも皆目見当もつかなかった。
「やはり…、小笠原主水は例の一件で、昌忠を怨んでいたのやも知れませぬな…」
從弼は思い出したかの様にそう告げた。それは、川副佐兵衛の疑問に応えるものでもあった。
「例の一件とは?」
川副佐兵衛は從弼を促した。
それに対して從弼はまずは重好、続いて昌忠へと視線を向けた。
「川副佐兵衛に聞かせても構わないな…」
從弼のその視線はそう物語っており、一方、重好にしろ昌忠にしろ、そうと気付いても何も応えなかった。つまりは黙認である。
從弼も重好と昌忠の二人の「黙認」を得られたと判断し、川副佐兵衛に「例の一件」を打明けることにした。
「されば小笠原主水は今の用人より、側用人への昇格を望んでいたのだ…」
從弼がそう切出すと、川副佐兵衛にはそれだけで、見当がついた。
「もしや…、それに本多様が反対された、と?」
川副佐兵衛が先回りしてそう尋ねると、從弼は頷いた上で、
「身共としては小笠原主水を側用人へと進ませてやっても良いと思っておったのだが…、いや、小笠原主水は己が側用人への昇格の一件につき、まずは家老たる身共と昌忠とに願出、その旨、宮内卿様に取次いでくれる様にと、頼んだのだ…」
そう当時の様子を回想した。
成程、用人から側用人への昇格ともなれば、御三卿より公儀、幕府へとその旨、頼む必要があった。つまりは御三卿の推挙、推薦が必要であった。
そこで小笠原主水としては、御三卿たる清水重好の推挙、推薦を得るべく、まずは家老に話を通したということだろう。
こういうことはいきなり、「お目当て」の御三卿たる重好に話を持掛けても、うまくいかない。
当人より話を持掛けられた重好としては、どう判断したら良いのか、困惑するばかりだからだ。
それよりは、御三卿の家臣の中でもその頂点に立つ家老より、重好へと、
「小笠原主水を側用人へと昇格させては…」
そう取次いで貰った方が確実にうまくいく。
「家老がそう申しておるのなら…」
重好は必ずや、そう判断してくれるに違いないからだ。
もっと言えば、公儀、幕府へと推挙、推薦してくれるに違いない。
それ故、まずは家老に己の昇格を「陳情」した小笠原主水の判断は間違ってはいなかった。
だがそこで、從弼の賛同こそ得られたものの、昌忠には反対されてしまったということらしい。
「されば、川副殿も存じておろうが、用人の役高は400石、役料は200俵、小笠原主水は250俵取である故に、今は足高分150俵に役料200俵を加えて350俵を得ておる…、それが側用人ともなると、用人の如く役料こそ付かぬものの、その役高は千俵である故に、仮に小笠原主水が側用人へと昇格を果たさば、足高分だけでも750俵にて…」
「小笠原主水殿が側用人へと昇格を果たさば、これまでの倍以上の手当が得られると…」
川副佐兵衛は頭の中で算盤を弾いてみせた。
「左様…、そしてそれこそが昌忠が反対した理由でもあるのだ…」
「と申されますと?」
「されば、小笠原主水への手当が増すということは、それだけ、御公儀の負担が増すことと相成れば…」
成程、と川副佐兵衛は合いの手を入れた。
如何にもその通りであった。
御三卿の家臣の中でも、「附人」と「附切」の身分にて仕えている者の「お手当」、給料は公儀、幕府より賄われる。
そこで側用人だが、御三卿の家臣の中でも家老に次ぐ重職であり、
「附人中の附人…」
そう呼んでも差支えなかろう。
それ故、側用人の給料もまた、幕府が負担する。
その側用人に小笠原主水を昇格させた為に、主水へ支払われる給料が増えるとなれば、それだけ幕府の財政負担を増すことになる。
「いや、身共はそこまで思いが至らずに、安易に主水の願出を諒としたのだが、翻って昌忠は流石に小納戸頭取を勤めただけあって…」
小納戸頭取は将軍の「御手許金」、つまりは小遣いを管理する役職であり、昌忠はその小納戸頭取を勤めただけあって、
「金勘定が得意である…」
從弼はそう示唆したのであった。いや、そこまで言ってしまっては、昌忠に対する侮辱となる。
「金勘定が得意…」
それはあくまで町人、それも最も賤しい商人にとっての誉め言葉であり、武士にとっては侮辱、それも最大の侮辱以外の何ものでもない。
それ故、從弼は、「小納戸頭取を勤めただけあって…」とそこで止めたのであった。
「いや、昌忠は渋る主水に対して、どうしても自が昇格を…、側用人への昇格を望むのであらば、先任の側用人の本目権右衛門の賛同を得るべきであろうぞ、その上で、本目権右衛門より宮内卿様へと、自が昇格を取次いで貰うのが筋と申すものであろうぞ…、左様に追撃ちをかけ、遂に主水に昇格を断念させたのであった…」
御三卿への取次ぎに関して言えば、家老よりも側用人が適任であろう。何しろ、御三卿への取次ぎこそが側用人の主たる職掌と言っても過言ではないからだ。
それ故、昌忠のその主張は正しく正論であると同時に、小笠原主水に己の昇格を断念させるには充分であった。
それと言うのも、本目権右衛門が小笠原主水の側用人への昇格を認めるとは到底、思われなかったからだ。
何しろそれは、先任の側用人の本目権右衛門にしてみれば、対抗相手を一人、増やすことに外ならないからだ。
「側用人として、宮内卿様の御寵愛を受けるのは己一人で充分…」
その上、新たにもう一人、側用人を誕生させる必要はどこにもない…、本目権右衛門ならば必ずや、そう考えるに違いなく、小笠原主水もそれが分かっていたからこそ、己の昇格を断念したのであろう。
だが、小笠原主水はその代わりに、側用人への昇格を断念させた昌忠を怨む様になったということらしい。
そしてそれが昂じて、昌忠に人殺しの濡れ衣を着せることを思いつき、そこでその手先として、小十人頭の黒川久左衛門を使嗾させたということか…。
だとしても、川副佐兵衛には小笠原主水と黒川久左衛門の関係が分からなかった。
仮に、小笠原主水が昌忠に人殺しの濡れ衣を着せることを思い着いたとして、その様な大それた姦計に黒川久左衛門に協力させるとなれば、小笠原主水と黒川久左衛門とは余程に強い紐帯で結ばれていなければならないだろう。
そうでなければ、黒川久左衛門へと姦計を打明けたが最期、昌忠へと密告される恐れがあり得たからだ。
川副佐兵衛はその点を糺そうとした。
するとそれまでは、川副佐兵衛の胸のうちをまるで忖度するかの様に、胸のうちの疑問に先回りして答えてくれていた從弼が、何故か今回に限って黙り込んでしまった。
從弼のことである。川副佐兵衛の胸に浮かんだ疑問に気付かぬ筈はない。
そこで川副佐兵衛は從弼から昌忠へと視線を向けた。
だが昌忠も川副佐兵衛のその視線に気付くと、俯いてしまい、從弼同様、川副佐兵衛の疑問に答えることはなかった。
そこで川副佐兵衛は今回は、はっきりと疑問を口にした。
「小笠原主水殿と黒川久左衛門殿とは如何な間柄にて?仮に、小笠原主水殿が御家老の本多讃岐守様を逆怨み…、それが昂じて人殺しの濡れ衣を着せることを思いついたとして、斯かる謀に黒川久左衛門殿が手を貸す程の親しき間柄にて?小笠原主水殿と黒川久左衛門殿とは…」
川副佐兵衛は、はっきりと問うた。
だが、それでも從弼にしろ昌忠にしろ、答えあぐねていた。
どうやら余程に答え難いものらしい。
いや、そんな二人の態度からして、小笠原主水と黒川久左衛門との間柄が、
「ただならぬもの…」
川副佐兵衛にはそう察せられたが、だとしたら尚のこと、果たしてどの様な間柄なのか、糺さない訳にはゆかなかった。
やがて、重好が從弼と昌忠の二人の家老に代わって、川副佐兵衛のその問いに応えた。
家老に任すことなく、御三卿が自ら、寺社役風情の役人の問いに応えようとは、それだけでも事の重大性がこれまた察せられた。
「されば…、黒川久左衛門もまた、小笠原主水と共に、昌忠を怨んでいたのだ…」
「黒川殿までが御家老の本多様を?」
川副佐兵衛は思わずそう問返し、重好を頷かせた。
「そは…、また一体何故に?」
「されば黒川久左衛門は、己が降格は昌忠の所為に違いあるまいと、左様に逆怨みをしおっておったのだ…」
つまりはこういうことであった。
本多昌忠が明和8(1771)年12月に新番頭より清水家老へと異動、栄転を果たした直後、それとは裏腹に、清水家にて目附を勤めていた黒川久左衛門は小十人頭へと異動させられたのだ。
御三卿目附から小十人頭への異動、それは左遷と言えた。
御三卿屋形における目附と小十人頭とでは、目附の方が小十人頭よりも格上であったからだ。
元来、上昇志向の強い黒川久左衛門は目附を皮切りに、幹部である「八役」入りを目指していた。
それが蓋を開けてみれば、「八役」入りどころか、小十人頭への左遷であり、黒川久左衛門が大いに落胆したことは想像に難くない。
だが、それだけならば黒川久左衛門も本多昌忠を逆怨みすることもなかったやも知れぬ。
問題は当時…、本多昌忠が清水家老に着任した直後まで、黒川久左衛門の相役、同僚の目附であった本多六三郎長卿が「八役」である勘定奉行へと栄転を果たしたことであった。
本多六三郎は昌忠の実弟であるのだ。それ故、
「同じ目附であり乍、己は小十人頭へと左遷させられたのとは対照的に、本多六三郎めが八役の末席とは申せ、勘定奉行へと栄転を果たしたは、偏に兄貴の威光の賜物に相違あるまい…」
黒川久左衛門がそう考えたのもまた、想像に難くない。
いや、事実、黒川久左衛門は周囲にそう吹聴していたらしいのだ。
尤も、事実は違う。
黒川久左衛門の「左遷」、及び、本多六三郎の「栄転」は昌忠が清水家老に着任する前、それも一月程前の11月の末に既に決まっていたことであった。
即ち、昌忠の前任の清水家老であった永井主膳正武氏が言出したことであった。
永井武氏は二人の目附―、黒川久左衛門と本多六三郎の働きぶりを具に観察するうちに、
「黒川久左衛門は到底、目附の任に非ず…」
そう断を下したのとは対照的に、本多六三郎に対しては、
「八役に相応しい器…」
そう好意的な評価を下したのであった。
そこで永井武氏は相役であった―、既に明和8(1771)年の時点で清水家老であった吉川從弼とこの件を相談の上、重好に上申したのであった。
重好も実は武氏と全く同意見であり、かねてより黒川久左衛門の働きぶりについては眉を顰めるものがあり、翻って本多六三郎のそれには大いに感心させられていた。
この時点で永井武氏は体調を崩しており、死期が迫っていることを悟っていたのであろう、そこで置土産とばかり、黒川久左衛門と本多六三郎、両名の人事について、相役の吉川從弼と諮った上で、重好に上申したのであった。
ともあれ重好がその上申、こと人事案を容れ、公儀、幕府に相談したのであった。
御三卿の家臣の中でも幹部クラスの「八役」ともなると、御三卿が勝手に発令する訳にはゆかず、公儀、幕府より発令して貰う必要があったからだ。
そこで重好は具体的には腹違いの兄である将軍・家治に相談し、それに対して家治も「そういうことなれば…」と、これを受容れ、御側御用取次であった松平因幡守康郷に命じて、康郷よりその人事案を発令させたのであった。
御三卿家臣、所謂、「邸臣団」は御側御用取次の支配下にあったからだ。
その当時―、明和8(1771)年の時点で御側御用取次は松平康郷の外に、稲葉正明と白須甲斐守政賢がおり、家治はその中でも松平康郷を選んで件の人事案を発令させたのであった。
それはこの時、松平康郷もまた、隠退を考えており、その旨、家治に伝えていたので、そこで家治は康郷に最後の一仕事をして貰おうと考えて、人事案の発令を命じたのであった。
それが11月の晦日のことであり、ちょうど永井武氏が病歿した日であった。
そこで家治は永井武氏の後任として、本多昌忠を充てることにもした。
既に、永井武氏は歿する前に内々にだが、御側御用取次の松平康郷に対して己の後任を決めてくれる様に頼んでいたのだ。
御三卿家老は一応、老中支配の役職ではあったが、実際にはやはり御側御用取次の支配下にあった。
その為、永井武氏は己の後任の人選を御側御用取次に頼むことにした訳だが、その中でも松平康郷を選んだのは外でもない、79と同い年であったからだ。
この時、武氏は己の後任には六三郎の実兄の本多昌忠が良いのではないか、とも康郷に伝えていたのだ。
そこで康郷は家治に対して、この武氏の言葉、今となっては遺言をそのまま伝えたのであった。
それは家治が弟・重好より、黒川久左衛門と本多六三郎両名の人事案の「お願い」をされる前の話であり、そこで家治は康郷に件の人事案を命じたその日、武氏が亡くなり、そのことが翌日の12月朔日に家治に伝えられるや、家治は、
「これも何かの縁…」
そう考えて、康郷より伝えられていた永井武氏の「遺言」に従い、武氏の後任の清水家老には本多昌忠を充てる人事案を家治の一存にて決めたのであった。
それ故、まず初めに本多昌忠の人事案が、即ち、12月8日に本多昌忠を清水家老とする人事案が発令され、その翌日の12月9日―、昌忠が家老に着任、家老として清水屋敷に足を踏み入れたその翌日に、黒川久左衛門の「左遷」と本多六三郎の「栄転」、この好対照をなす人事が発令されたのであった。
それ故、黒川久左衛門の「左遷」は断じて、本多昌忠の責任ではなく、偏に、黒川久左衛門自身の責に帰する。
だがこの場合、事実はどうでも良かった。
「己の左遷は本多昌忠の所為…」
黒川久左衛門が堅くそう信じ込み、昌忠を逆怨みした事実が大事、いや、問題であった。
側用人の件でやはり本多昌忠に怨みを抱いていた小笠原主水が黒川久左衛門に急接近したのであった。
「いや、ただ急接近しただけなれば、それ程、害はなかったやも知れぬな…」
重好は思わせぶりにそう告げた。
「と仰せられますると?」
川副佐兵衛は身を乗出して、その先を促した。
「されば黒川久左衛門だがの、この重好が目附より小十人頭へと格下げする前の話だが…、それも三月程前の9月頃…、9月の下旬であったか…、久左衛門めが甥の黒川内匠が岩本内膳の娘を娶ったのだ…」
川副佐兵衛はそれを聞いて思わず目を丸くしたものである。
するとその様子を見て取った重好が、
「岩本内膳なれば、そなたも存じておろう?」
川副佐兵衛にそう水を向けたことから、佐兵衛も勿論、頷いて見せた。
岩本内膳こと内膳正正利は一橋治済の愛妾、於富の方の実父である。
それだけではない、一橋家の嫡子・豊千代の外祖父にも当たる。富が治済との間に豊千代を生したからだ。
川副佐兵衛がそれに思いを致すと、重好もそうと察したのであろう、
「いや…、この時はまだ、於富殿は民部殿が側妾となられたばかりにて、豊千代君を生してはおらなんだ…」
重好はそう補足した。
確かにそうであったと、川副佐兵衛はそうと気付いた。
豊千代が生まれたのは安永2(1773)年10月のことであり、してみると、富が家斉の愛妾となってから2年後であった。
「いや…、小笠原主水めは昌忠に怨みを抱く、さしずめ同士とも申すべき黒川久左衛門と更に親交を深めようとでも思うたのであろうな…、主水めは久左衛門めと共に度々、当屋形を抜出しては自が屋敷に…、牛込御門外の逢坂の屋敷に招いては、恐らくは盃でも交わしていたのであろうぞ…」
「そは真でござりまするか?」
川副佐兵衛は決して天下の御三卿の清水重好の言葉を疑う訳ではなかったが、しかしそれでも余りに詳細な証言であったので、どうして二人の行動をそこまで知っているのか、その点を糺さずにはおれなかった。
一方、重好にしても川副佐兵衛のこの反応は予期していたのであろう、
「されば目附に小笠原主水めと黒川久左衛門めの動静を探索らせていたのだ…、いや、以前より主水めが久左衛門めを伴い、度々、当屋形を抜出していることは目附の間で問題になっていた故に…」
その訳を解説してみせた。
「目附…、と仰せられますると、黒川久左衛門殿、及び本多六三郎殿の後任の御目附にて?」
川副佐兵衛はやはり、確かめる様に尋ねた。
すると重好は満足気に、「如何にもその通りぞ」と首肯するや、それまで番頭の下で組頭を勤めていた伊丹六三郎勝平と栗原金四郎利直の二人を後任の目附に抜擢したことを川副佐兵衛に教えた。
御三卿の屋形に仕える「八役」の中でも番頭は番方、武官の|最上位《トップに位置し、定員は家老と同じく二人であった。
明和8(1771)年までは、ここ清水屋敷にて番頭を勤めていたのは今は側用人の本目権右衛門と今でも番頭の近藤助八郎の二人であり、その番頭の下には二人の組頭が配され、伊丹六三郎と栗原金四郎の二人はこのうち、本目権右衛門配下の組頭であった。
それ故、明和8(1771)年に本目権右衛門が側用人へと栄転を果たしたのと前後して、その配下の組頭である伊丹六三郎と栗原金四郎の二人もまた、目附へと栄転を、それも大栄転を果たしたという訳だ。
重好は伊丹六三郎と栗原金四郎、両名の才能を評価して目附に取立手他のであり、それに対して伊丹六三郎にしろ、栗原金四郎にしろ、そんな重好の期待に応えるべく、目附としての職務、即ち、屋形に仕える者の監察や綱紀の取締りに邁進し、その過程で二人は小笠原主水が黒川久左衛門に急接近し、のみならず、清水屋敷を度々、抜出してはどこぞへと繰出している事実を二人は突止め、そこでこれからどうすべきか、まずは重好の判断を仰いだ次第であった。
御三卿目附は御三卿屋形に仕える家臣の監察を職掌としているとは言え、徹底的な監察下に置こうとすれば、その前に御三卿の諒承を得る必要があったからだ。
そこで伊丹六三郎と栗原金四郎の二人もまた、小笠原主水と黒川久左衛門の両名を徹底的な監察下に置くに際して、御三卿たる重好の諒解を求めたのであった。
ことに小笠原主水は「八役」の中でも家老、番頭に次ぐ、従六位布衣役である用人という要職にあり、慎重な対応が求められた。
それに対して重好も勿論、小笠原主水と黒川久左衛門の両名を徹底的な監察下に置くことに異存はなく、
「仮令、用人であろうとも遠慮はいらぬ。仮借なく監察せよ…」
重好は伊丹六三郎と栗原金四郎の両名にそう告げて、その背中を押したそうな。
こうして伊丹六三郎と栗原金四郎は小笠原主水と黒川久左衛門の両名を徹底的な監察下に置き、その結果、小笠原主水は許しもなく黒川久左衛門と伴い、清水屋敷を抜出しては牛込御門外の逢坂にある自邸に招いては御門が閉まる夕方まで酒盛りに興じていたらしいのだ。
牛込御門外は逢坂にある小笠原邸は町屋である船河原町の正に目と鼻の先にあり、そこで町屋の一角、蕎麦屋の二階を借切り、そこを「見張所」とした。そこからだと小笠原邸が良く見渡せたからだ。
伊丹六三郎と栗原金四郎の二人はその「見張所」から、小笠原邸の様子を窺い、結果、夕方頃、千鳥足で出てくる小笠原主水と黒川久左衛門の姿を捉えたのだ。それも一度や二度ではない、度々に亘って、であった。
これで最早、二人が日中から酒盛に興じていたのは疑い様がなかった。
日中、本来ならば御三卿の屋形に詰めて仕事をしなければならない用人と小十人頭が勝手に屋形を抜出しては酒盛に興じる…、これだけでも厳罰に値すると言えるであろう。
尤も、それだけなら重好も大目に見ることにした。と言うよりは、
「最早、どうでも良い…」
小笠原主水と黒川久左衛門の二人を見限ることにしたのだ。
だが、それが安永2(1773)年を境に、小笠原主水と黒川久左衛門との関係に変化の兆しが見えて来たと言うのである。
それまでは小笠原主水が黒川久左衛門を連れ回すことが多かったのだが、それが安永2(1773)年を境に、それも10月を境に、黒川久左衛門が小笠原主水を連れ回すことが多くなったのだ。
具体的には牛込御門外の逢坂にある小笠原主水の屋敷に招かれるばかりであった黒川久左衛門が、安永2(1773)年10月を境に、今度は逆に濱町にある久左衛門の実家へと小笠原主水を招く様になったのだ。
その頃…、安永2(1773)年10月に入っても、目附の伊丹六三郎と栗原金四郎の二人は流石に頻度は減らしたものの、それでも相変わらず小笠原主水と黒川久左衛門の動静には注意を払っていた。
そこで今度は黒川久左衛門が小笠原主水を濱町にある実家へと招く様になったことが判明した。
この変化に伊丹六三郎にしろ、栗原金四郎にしろ、何か引っ掛かるものを覚えた。
いや、その様な生易しいものではない、重大な危機感を覚えた。それは目附としての本能から来るものであった。
そこで伊丹六三郎と栗原金四郎の二人は重好に対して再び、小笠原主水と黒川久左衛門の両名を徹底的な監視下に置くことを進言したのであった。
伊丹六三郎と栗原金四郎が小笠原主水と黒川久左衛門への監視を緩めたのは偏に、重好の命によるものであった。
「最早、どうでも良い…」
重好は小笠原主水と黒川久左衛門の二人をそう見限ると、伊丹六三郎と栗原金四郎の二人に対しても、
「この上の監察は最早、不要…」
そう申渡したのであった。
それ故、伊丹六三郎と栗原金四郎の二人は小笠原主水と黒川久左衛門両名への徹底的な監視こそ解除したものの、それでも完全に監視を解除した訳ではなく、
「折に触れ…」
その動静に注意を払い続け、どうやらそれが功を奏した様である。
重好は伊丹六三郎と栗原金四郎の先見の明を誉めると同時に、改めて小笠原主水と黒川久左衛門両名の徹底的な監視を命じたのであった。
だが、今回は難しいものであった。それと言うのも、黒川久左衛門の実家がある濱町は辺り一面、武家屋敷であり、それ故、「見張所」を設けるのは難しかったからだ。
そして「見張所」を設けられないことには、徹底的な監視は不可能であった。
そうである以上、これまで通り、二人の後をつけるのが精一杯であった。
伊丹六三郎と栗原金四郎はその点を重好に上申し、それに対して重好も、そうである以上は伊丹六三郎と栗原金四郎の二人に無理をさせられずに、それで良しとした。
こうして、徹底的な監視には程遠い、つまりは今まで通りの緩い監視が続けられた訳だが、それでもこれもまた、功を奏した。
即ち、年が明けた安永3(1774)年、小笠原主水と黒川久左衛門は別行動を取る様になったのだ。
小笠原主水にしろ、黒川久左衛門にしろ相変わらず勝手に屋形を抜出すことに変わりはないものの、それでも小笠原主水は黒川久左衛門に伴われて、濱町にある黒川家の屋敷へと足を運ぶのではなく、単身、表六番町へと向かった。
一方、黒川久左衛門もまた、単身、実家がある濱町へと足を伸ばしたかと思うと、虎ノ御門内へと足を向けることもあった。
小笠原主水と黒川久左衛門とが別行動を取ることから、そこで伊丹六三郎は主水の、栗原金四郎は久左衛門の、夫々、その後をつけて判明した事実であった。
いや、判明したのはそこまでであった。
例えば伊丹六三郎の場合、小笠原主水が表六番町にある屋敷に入るところまでは見届けたものの、その屋敷が誰の屋敷であるかまでは分からなかった。
これで屋敷の門前に表札でも掛かっていれば、誰の屋敷か、少なくとも苗字ぐらいは把握出来たところだが、生憎と武家の屋敷は表札は掛かっていなかった。
同じことは栗原金四郎にも当て嵌まり、黒川久左衛門が虎ノ御門内にある屋敷に入るところまでは見届けたものの、そこまでであった。
これで周囲に町屋でもあれば、町人に誰の御屋敷かと、聞込みをかけることも可能であったが、やはりこちらも生憎と、表六番町にしろ、虎ノ御門内にしろ、周囲に町屋はなく、辺り一面、武家地であった。これでは町人に聞込みをかけるという手は使えない。
そこで伊丹六三郎と栗原金四郎はとりあえず、夫々の屋敷の位置を地図として認めたのだ。
そして伊丹六三郎と栗原金四郎は夫々、その地図を重好に捧呈したそうな。
結果、それが功を奏した。
即ち、伊丹六三郎の認めた地図だが、表六番町通りでも、更に禿小路の突当たりであり、それで重好にはピンと来るものがあった。
「これは…、小笠原若狭が屋敷ではあるまいか…」
小笠原若狭こと若狭守信喜はこの時…、安永3(1774)年には小笠原信喜は本丸中奥にて、平御側として将軍・家治に仕えていたのだ。
御三卿である清水重好は将軍家の一員として、平日も毎日、登城が許されている身であり、しかも中奥に詰所がある為に、中奥の事情に嫌でも通ずる。
中奥を「職場」とする役人の「住所」についてもその延長線上にあり、しかも平御側と言えば、中奥役人の筆頭である。
その平御側の「住所」とあらば、重好とて把握していた。
しかも小笠原信喜は小笠原主水の義兄に当たるのだ。
これで最早、小笠原主水が足を運んだ屋敷が小笠原信喜のそれであるのは間違いない。
一方、黒川久左衛門が足を運んだ屋敷だが、虎ノ御門内の中でも潮見坂と裏霞ヶ関の中間地点にあるとのことで、
「これは…、岩本主膳が屋敷ではあるまいか…」
重好はそう当たりをつけた。
この時―、安永3(1774)年の時点では岩本内膳こと内膳正利は本丸中奥役人などではなく、西之丸目附であった。
それ故、本来ならば、その様な岩本正利の「住所」など知る由もない筈であった。
だが、正利の父・岩本帯刀正房が重好の、と言うよりは家治・重好兄弟の祖父にして八代将軍・吉宗の「お気に入り」であり、
「それ故に、虎ノ御門内という一等地に屋敷を与えられたのであろう…」
というのが専らの評判であった。
虎ノ御門内と言えば、主に大名屋敷が立並ぶ空間であり、それが一介の旗本、それも紀州より吉宗に付随って江戸に出て来ては旗本に取立てられた、謂わば新参の旗本に過ぎない岩本正房に、その一等地とも呼ぶべき虎ノ御門内に屋敷を与えられたのは成程、噂通り、偏に時の将軍・吉宗の寵愛によるものであろう。
岩本正房が虎ノ御門内に屋敷を与えられたのは享保9(1724)年のことであり、まだその時分には重好は生まれてはいない。
だが、斯かる噂は代々、本丸中奥にて語継がれており、それ故、重好も耳にしたことがあり、そこで重好には地図を見てピンと来るものがあった。
虎ノ御門内に立並ぶ屋敷の中でも、潮見坂と裏霞ヶ関の中間地点と言うだけでは、手掛に欠けていた。
だが、栗原金四郎はその地図に、
「大名屋敷にしては些か狭く、旗本屋敷か…」
との手掛をも書込んでくれていたので、それで重好は、岩本家の屋敷に相違あるまいと、ピンと来た次第である。
岩本正房に虎ノ御門内に与えられた屋敷の広さは凡そ、950坪程度であり、成程、大名屋敷としては手狭と言えよう。それよりは旗本屋敷と考えるのが自然であった。
そして、黒川久左衛門の甥の黒川内匠が岩本正利の三女の山尾を娶っていることも、その傍証となる。
ともあれ、こうして小笠原主水が義兄の小笠原信喜の許へと、一方、黒川久左衛門は甥・内匠の舅に当たる岩本正利の許へと、それぞれ足を運んでいることが判明した訳だが、問題はその目的であった。
小笠原主水や黒川久左衛門は一体、何の目的があって、夫々、義兄や、或いは甥の舅の許へと足を運んでいるのか、それが重好には分からず、伊丹六三郎や栗原金四郎にしてもそれは同様であった。
ともあれ重好は引続き、小笠原主水、及び黒川久左衛門両名の「動向監視」を伊丹六三郎と栗原金四郎に命じたのであった。
するとそれから一週間後、動きがあったそうな。
何と、小笠原主水と小笠原信喜、黒川久左衛門と岩本正利が一堂に会したのであった。
その日もいつもの様に、伊丹六三郎が小笠原主水の、栗原金四郎が黒川久左衛門の、夫々その後をつけていたのだが、小笠原主水は小笠原信喜を、黒川久左衛門は岩本正利を、夫々伴い、深川の船宿にて落合ったのだ。
畢竟、伊丹六三郎と栗原金四郎も落合うことになった訳で、まさか落合うことになろうとはと、伊丹六三郎にしろ、栗原金四郎にしろ、互いにそう思ったそうだ。
さて、小笠原主水ら4人は船宿で屋形船を仕立てて、川面へと消えた。
こうなっては伊丹六三郎も栗原金四郎も打つべき手当てが見つからない。
やはり屋形船を仕立てて、小笠原主水らを乗せた屋形船に近付くという手もあったが、それで屋形船の中の様子が分かる訳ではない。
最も一般的な手法として、船頭に金を握らせるという手があった。
船頭ならば、屋形の中でどの様な会話が交わされたのか、完全にではないにしても、断片的には耳にしているものと思われるからだ。
だがこれも、現実的ではなかった。それと言うのも船頭は概して自尊心が高く、金では転ばない。下手に金を握らせ様とすれば、そのことを船宿の主に、或いは己が乗せた客にそのことをぶちまけるとも限らない。
そこで伊丹六三郎と栗原金四郎の二人はとりあえず、小笠原信喜、及び岩本正利の人相を描写した。
伊丹六三郎にしろ、栗原金四郎にしろ、小笠原信喜、及び岩本正利の両者とは会ったことがないのでその顔を知らず、それ故、可能性としては限りなく低いだろうが、それでも念の為、船宿まで小笠原主水が伴った者を伊丹六三郎が、黒川久左衛門が伴った者を栗原金四郎が、夫々その人相を描写し、重好にその描写画を見て貰うことにしたのだ。重好ならば、信喜の顔も、正利の顔も知っている筈であったからだ。
果たして伊丹六三郎と栗原金四郎の二人は重好に対して、船宿の一件を伝えた上で、描写画を見て貰った。
すると重好はそれが小笠原信喜と岩本正利であると確かめられ、これで完全に、信喜と正利であることが裏付けられた。
だが屋形船で如何なる会話が交わされたのか、そこまでは分からず、その点について伊丹六三郎と栗原金四郎の二人は力が及ばなかったことを重好に詫びたのであった。
それに対して重好は勿論、二人の力不足を責める様な真似はせず、それどころかその「健闘ぶり」を讃えたものであった。
それに、屋形船で如何なる会話が交わされたのか、それは間もなく見当が付くことになった。
それから暫くして、重好はいつもの様に登城し、中奥にある御三卿の詰所、所謂、御控座敷に詰めると直ぐに将軍・家治に呼ばれ、そして家治より家臣の小笠原主水と黒川久左衛門両名の「転職」について打診を受けた。
即ち、小笠原主水と黒川久左衛門の二人が清水家より一橋家へと、「転職《とらばーゆ》」したいと言うのである。
重好は家治よりそう聞かされて、屋形船の中で交わされた会話の中身について見当がついたそうな。
御三卿家臣の人事は御側御用取次の専管であり、しかし、小笠原主水にしろ、黒川久左衛門にしろ、御側御用取次との「パイプ」がある訳もなく、そこで小笠原主水は義兄の小笠原信喜を頼ることにしたのであろう。
信喜は平御側であり、その平御側の筆頭こそが御側御用取次であるので、信喜より御側御用取次へと「転職」の件を取次いで貰おうという訳である。
一方、清水家より一橋家へと実際に「転職」を果たすに際しては、御側御用取次と共に、御三卿の意向もかなり反映される。
つまり、小笠原主水と黒川久左衛門の二人がどんなに、清水家より一橋家へと「転職」を望んでいたとしても、その上、御側御用取次もその要望を聞届けてくれたとしても、受容れ先の一橋家が、この場合は当主の治済が小笠原主水と黒川久左衛門の二人を受容れるつもりがなければ、御側御用取次としても、「転職」を実現してやることは難しい。
そこで一橋家の「工作」を黒川久左衛門が担うことになったのであろる。
黒川久左衛門は甥の内匠、その妻女の山尾、そして山尾の実父の岩本正利を介せば、一橋家とパイプを築くことが可能であったからだ。
何しろ正利の次女にして、山尾の直ぐ上の姉の富こそは、治済の愛妾であり、その上、治済との間に嫡子の豊千代までもうけていたからだ。それも安永2(1773)年の10月に、である。
斯かる次第で、安永2(1773)年10月を境に小笠原主水と黒川久左衛門の二人が急に別行動を取る様になったのは転職の為の地均しであり、屋形船の中でもそれについて具体的な話合いが持たれたのであろうと、重好はこの時になって漸くに合点がいったそうな。
と同時に、重好は家治に対して、
「小笠原主水と黒川久左衛門の二人が一橋家に鞍替えしたいのなら、どうぞ御随意に…」
要は好きにしてくれと、そんな投げやりな態度を示したのだ。
重好としては、既に小笠原主水と黒川久左衛門の二人を完全に見限っており、そんな二人が一橋家へと「転職」を望んでいるとあらば、重好にしても好都合であったからだ。
だが聡い家治は重好のその投げやりな態度に引っ掛かりを覚えたのであろう、
「小笠原主水と黒川久左衛門、この両名との間に何かあったのではあるまいか?」
家治は重好にそう糺したそうな。
聡い家治である。誤魔化しはきかないだろうと、元よりそう観念した重好は正直に打明けた。
即ち、小笠原主水については用人から側用人への昇進を望んでいたにもかかわらず、それを阻まれ、現状維持、用人に留まらざるを得なかったことで、一方、黒川久左衛門は目附より「八役」入りを望んでいたものの、それが蓋を開ければ小十人頭への左遷であり、斯かる次第で小笠原主水と黒川久左衛門の二人は清水家での奉公に嫌気が差し、「新天地」である一橋家でやり直そうとしているつもりではと、重好は兄・家治にそう打明けたのであった。
すると家治も小笠原主水と黒川久左衛門の両名が己の人事に関して不満を持っているであろうことは薄々だが察してはおり、こうして改めて重好よりはっきりと聞かされたことで、
「斯かる次第で他家に奉公しようなどとは怪しからん…」
家治は小笠原主水と黒川久左衛門両名の「転職」を認めなかったのである。
だがそれで問題が解決した訳ではない。いや、それどころか問題は却って拗れたと言うべきか。
何しろ小笠原主水にしろ、黒川久左衛門にしろ、この清水家にて仕えようとの意欲には欠けていたからだ。はっきり言って、やる気がゼロであった。
その様な二人を無理にこの清水家に留まらせても良いことは何一つない。
それどころか悪心を起こす危険性すらあり得た。
「いや、その危惧が的中したのやも知れぬな…」
重好は遠い目付きをしてポツリとそう漏らした。
「それこそが、御家老の本多様に人殺しの濡れ衣を着せることだと?」
川副佐兵衛が確かめる様に尋ねると、重好は頷いた。
確かにそう考えれば辻褄は合う。
だが問題は動機である。
小笠原主水にしろ、黒川久左衛門にしろ、己の境遇に不満を抱き、しかもそれが、
「家老の本多昌忠の所為…」
そう堅く信じて疑わず、そこで昌忠に一矢報いようと、いや、実際にはその様な、「お上品」なものではなく、嫌がらせをしようとしたのは理解出来る。
しかし、その「嫌がらせ」にも程度がある。
人殺しの濡れ衣を着せるともなると、完全に、「嫌がらせ」の程度を超えていた。
確かに、狙い通り、昌忠に人殺しの濡れ衣を着せることが出来れば、昌忠に決定的な打撃を与えることが出来るであろう。
それこそ比喩ではなしに、その命脈を断切ることが出来る。
何しろ、被害者の池原良明は将軍・家治の寵愛篤い奥医師の池原良誠の倅なのである。
その様な良明を殺したとなれば、仮令、御三卿家老と雖も無事では済むまい。
厳密には刑罰ではない切腹が許されれば良い方で、下手人、いや、埋葬さえも許されぬ死罪や獄門に処される危険性さえあり得た。
だが、危険性と言えば、
「昌忠に人殺しの濡れ衣を着せる…」
その姦計そのものが失敗する危険性もあり得、今、正にその危険性に瀕していた。
そしてその場合には小笠原主水にしろ、黒川久左衛門にしろ、間違いなく切腹も許されず、それどころか埋葬すらも許されない死罪や獄門、或いは磔や最悪、鋸挽に処される危険性さえあり得た。
小笠原主水にしろ、黒川久左衛門にしろ、
「昌忠に人殺しの濡れ衣を着せる…」
その姦計には、その様な危険性があることぐらいは充分に承知していよう。
にもかかわらず、斯かる姦計を実行に移したとなれば、
「昌忠への嫌がらせ…」
それだけでは動機としては不十分であろう。
それに時間の問題もある。
即ち、小笠原主水と黒川久左衛門が昌忠に怨みを確固たるものにさせたのは、一橋家への「転職」の希望が砕かれた安永3(1774)年のことと思われる。
だとしたら、遅くとも安永4(1775)年には斯かる姦計に手を染めていなければおかしいだろう。
仮に、種々の仕掛に時間がかかるとしてもだ。
にもかかわらず、何故に今―、安永8(1779)年まで時間を置いたのか、それもまた、川副佐兵衛には疑問であった。
川副佐兵衛がそんなことを考えていると、その思いが当の昌忠に通じたのであろうか、
「もしや…、民部卿様に唆されたのやも知れぬ…」
昌忠はサラリとした口調で実に重大なことを口にした。
民部卿様…、それが御三卿の一橋治済を指しているのは明らかであったが、しかし、川副佐兵衛は理解が追付かず、
「えっ?」
思わずそう聞返していた。
すると昌忠は、
「小笠原主水にしろ、黒川久左衛門にしろ、一橋民部卿様に唆されたのやも知れぬ…、身共に人殺しの濡れ衣を着せよ…、とでも」
丁寧に言直した。
するとこれには重好も、「これ、控えよ」と制したものの、しかしその口調は強いものではなかった。
昌忠もそうと察して、主君・重好の言葉に一応、叩頭して恐縮の態度を取っては見せたものの、それはあくまで態度に過ぎず、止めることなく先を続けた。
「先頃、畏れ多くも大納言様が御薨去あそばされた…」
昌忠はそう切出した。
確かに、これより2ヶ月程前の2月に大納言様こと次期将軍であった家基が歿した。
「されば大納言様に代わる次期将軍を決めねばならぬが…」
昌忠はそこで言葉を区切ると、重好の方へと視線を向けた。
川副佐兵衛もその視線の意味するところは容易に察せられた。
「されば次期将軍の最右翼は宮内卿様でござりまするな…」
川副佐兵衛は昌忠のその視線を的確に代弁してみせた。
すると昌忠は、如何にも「その通りだ」と言わんばかりに深く頷いた。
いや、昌忠ばかりではない、川副佐兵衛を除いて、その場にいた全ての者が、それも同時に頷いた。重好でさえもそうであった。
それは決して追従ではない。
何しろ、重好は将軍・家治の腹違いとは申せ弟であり、先頃、亡くなった次期将軍・家基の叔父に当たるのだ。
それ故、血筋から考えれば、家基に代わる次期将軍と言えば、重好を措いて外には考えられなかった。
「だが、一橋民部卿様もやはり次期将軍の座を狙うておる由にて…」
それなら川副佐兵衛も噂としてだが、耳にはしていた。
一橋治済もまた、重好と同じく御三卿であり、しかも家治・重好兄弟と同じく、八代将軍・吉宗の孫である。
それ故、これで重好がいなければ治済に次期将軍の「お鉢」が回って来たことであろう。
「その様な一橋民部卿様にとって宮内卿様は正に目の上の何とやら…、さりとてまさかに宮内卿様を闇討する訳にも参らず…、なれど宮内卿様が例えばだが、大きな不祥事でも起こさば話は別だがの…」
昌忠にそこまで言われ、川副佐兵衛も、ハタと気付いた。
「まさかに…、一橋民部卿様が清水宮内卿様を追落とすべく、此度の事件を画策したと?」
川副佐兵衛は声を震わせつつ、そう尋ねた。
御三卿たる己に家老として仕える昌忠が、
「こともあろうに…」
将軍の寵愛篤い奥医師の倅を斬殺に及んだとなれば、下手人たる昌忠は元より、昌忠の主人に当たる重好もその「管理責任」が問われる事態と相成ろう。
いや、厳密には御三卿と家老とは主従の関係にはない。家老はあくまで公儀、幕府より御三卿の屋形へと派遣された身であり、そうであれば御三卿家老は公儀、幕府と主従関係にあり、してみると家老の不始末、不祥事への「管理責任」はあくまで公儀、幕府が負うべきものであろう。
だが、それはあくまで理屈の話であり、一般的には御三卿家老は御三卿の家臣と見られがちであった。
ましてや、最終的に次期将軍を決める権を持つ将軍・家治にしてみれば、清水家老の昌忠が己が寵愛する奥医師の倅を斬ったとあらば、理屈を忘れて一般的な見方をするであろう。即ち、
「重好の管理不行届き…」
そう看做し、そうなれば次期将軍選考にも重大な影響を及ぼすのは間違いない。
はっきり言えば、
「次期将軍には重好ではなく、一橋治済を据え様…」
家治がそう考えても不思議ではない。
川副佐兵衛のその見立てに対して、昌忠も「左様」と首肯した。
成程、それならば全ての説明がつくというものである。
一橋治済の「後ろ盾」があれば、成程小笠原主水にしろ、黒川久左衛門にしろ、「危険」を冒すのも吝かではないだろう。
また、安永8(1779)年まで時間を置いたことにも説明が付く。
「されば今…、小笠原主水殿と黒川久左衛門殿の二人はもしや、一橋民部卿様の許にて匿われているやも?」
川副佐兵衛はその可能性にも触れた。
仮に、小笠原主水と黒川久左衛門の二人の「雇主」が一橋治済だとして、そんな二人が頼る先と言えば、「雇主」たる治済を措いて外にはいないだろう。
小笠原主水と黒川久左衛門が前後して…、4月4日に逐電、この清水屋敷より出奔した事実からもそれは窺われよう。
4月4日に黒川久左衛門が本多正忠の代理として、西川伊兵衛より印籠を受取ってから、4月9日に池原良明が斬殺されるまで、6日間もの空白がある。
その間、黒川久左衛門は元より、小笠原主水も自宅に帰った形跡がないとすると、一橋屋敷にて過ごしていたと考えるより外にはないだろう。そして、目的を遂げた後も…。
「恐らくはのう…、いや、今でも生かされておるのか、そこまでは分からぬが…」
昌忠は実に恐ろしいことを口にした。
既に、小笠原主水と黒川久左衛門の二人は治済にとっては用済みであり、口を封じられたのではあるまいか…、昌忠はそう示唆したのであった。
確かに治済にしてみれば、小笠原主水と黒川久左衛門の二人は「爆弾」の様な存在であり、そうであれば爆発する前に「処理」しようと考えるのが普通であろう。
ともあれ川副佐兵衛はこれまでの「裏」を取るべく清水屋敷を辞去すると、まずは清水御門の門番所へと向かった。
その時、門番所にて門番を勤めていたのは6000石の大身、中根日向守正均とその家来たちであり、今日4月11日より10日間、勤める。
川副佐兵衛は中根正均に己の身許を明かした上で来意を告げた。
すると中根正均も快く、備付の台帳を川副佐兵衛に差出した。
川副佐兵衛は中根正均の協力に感謝すると、早速、台帳を繰った。
お目当てのページである一昨日、4月9日の条には確かに、暮六つ(午後6時頃)を少し過ぎた頃に、清水家老の本多昌忠と側用人の本目権右衛門の二人が奥医師にして、歯科医の安藤正朋を連れて清水御門を潜り、御門内に入ったとの記録があった。
それから宵の五つ半(午後9時頃)までの間、清水御門を潜って御門外に出た清水家臣は誰一人としていなかった。
いや、清水御門を潜らずとも、門外へと出る方法はある。
即ち、田安御門、及び竹橋御門を潜って門外へと出る方法であった。
そこで川副佐兵衛はそれも確かめることにしたが、その前に、小笠原主水と黒川久左衛門の二人が逐電、失踪した4月4日より、今日4月11日までの条を改めてページを繰ってみた。
その間、小笠原主水の名前も、黒川久左衛門の名前も見つけることは出来なかった。
無論、|明六つ(午前6時頃)から暮六つ(午後6時頃)までの間は御門は開かれており、その間に御門を通行する者に関しては記録として台帳にその通行が書込まれることはないので、4月4日から今日4月11日までの間の条に小笠原主水及び黒川久左衛門、この両者の名前が見つからなかったとしても、この清水御門を潜らなかった証明にはならないだろう。
つまりは今しがたまでの清水家サイドの証言を裏付けるものは何もなく、逐電《ちくでん》、失踪が嘘である可能性もあり得た。
だが少なくとも、4月4日に黒川久左衛門が家老の本多昌忠の代理として西川伊兵衛より印籠と根付を受取ったのは事実である。それは第三者とも言うべき西川伊兵衛の証言により裏付けられていた。
だとするならば今のところは清水家サイドの証言に軍配を挙げざるを得ない。
それから川副佐兵衛は田安御門と竹橋御門にも足を運び、夫々の門番所に備付の台帳を繰ってみたものの、結果は同じであった。
即ち、池原良明が斬殺されたと思しき、|暮六つ(午後6時頃)より宵の五つ半(午後9時頃)にかけて、田安御門、及び竹橋御門を潜って門外へと出た清水家臣の名前を見つけることは出来なかった。
ちなみに、門外へと出る方法としては更にもう一つ、別の道があり、それは、
「角の御番所を潜って、代官町通りを抜けて半蔵御門より門外へと出る」
というものであった。
だがこれも、暮六つ(午後6時頃)を過ぎれば不可能であった。暮六つ(午後6時頃)を過ぎると、角の御番所は完全に閉切られ、三十六見附の様に、門番所に備付の台帳に、
「住所、氏名、年齢、職業…」
それらを書込んで通行を許して貰う訳にはいかなかった。
つまり、暮六つ(午後6時頃)より明六つ(午前6時頃)までの間は、清水屋敷に出入りするには清水御門、田安御門、そして竹橋御門を潜るより外に手はなく、その間、清水屋敷は、或いは真向かいの「お隣さん」である田安屋敷にも当て嵌まることだが、さしずめ密室状態となる。
その間に御門を潜ろうと思えば、必ず門番所備付の台帳に記録として残されるからだ。
だが清水御門の門番所に備付の台帳は元より、田安御門、及び竹橋御門、夫々の門番所備付の台帳にも清水家臣の通行の記録はなかった。
いや、4月9日の暮六つ(午後6時頃)前に清水、田安、竹橋の何れかの御門より門外に出て、犯行後、どこぞにて一泊してその翌朝、つまりは4月10日の明六つ(午前6時頃)以降に再び、何れかの御門より門内へと|入《はいり、そして清水屋敷へと帰れば、台帳に記録として残ることはない。
そこで川副佐兵衛は無駄足を踏むことは承知の上で、清水家サイド、それも重好が証言、申告した「現場不在証明」の裏を取ることにした。
その為、川副佐兵衛が向かった先はまずは小石川富坂上であった。そこに、多古藩の上屋敷がある。
4月1日より10日までの10日間、田安御門の門番所にて門番を勤めていたのは多古藩主の松平豊前守勝全であり、その勝全は4月9日の暮六つ(午後6時頃)以降、歯痛に苦しんでいた本多六三郎を見舞うべく、己の名代として家老を遣わしたとの話であり、そこで川副佐兵衛としてはその家老に直に会って、重好の「証言」の裏を取るつもりであった。
多古藩の上屋敷でも川副佐兵衛は寺社役という肩書の御蔭であろう、藩主の勝全に歓待されると、川副佐兵衛が望む通り、家老を、それも村瀬茂兵衛なる家老を川副佐兵衛の許へと連れて来させた。
そこで川副佐兵衛は家老の村瀬茂兵衛に4月9日の件を尋ねた。
すると村瀬茂兵衛から返って来た返答たるや、重好の「証言」の正しさを裏付けるものであった。
いや、それどころか補強するものであった。
「暮六つ(午後6時頃)過ぎに清水宮内卿様の御邸へと参りますと、丁度、物頭の本多六三郎殿が安藤安仙殿の治療を受けられていた最中にて、それ故、手前は本多殿に…、六三郎殿に挨拶するのは控え様と思うた次第にて…、なれどそれでは申訳ないと、御家老の本多様が…、そこで本多様は弟の六三郎殿に…、治療中の六三郎殿に声をかけられ、手前が見舞いに参りましたことを伝えられ…、安藤安仙殿も気を利かせられて治療の手を止め…、すると六三郎殿は起上がろうとなされ、流石に手前もそれには及びませぬと…、すると六三郎殿も、斯様なる見苦しき体にて申訳ござらぬと、詫びられまして…」
これで本多昌忠・六三郎兄弟の「現場不在証明」が裏付けられた格好であった。
いや、昌忠に関して言えば、側用人の本目権右衛門共々、安藤正朋を伴い、暮六つ(午後6時頃)過ぎに清水御門を潜って門内へと入ったことが件の台帳に記録として留められていることからも、「現場不在証明」は完璧であった。
池原良明の死亡推定時刻である暮六つ(午後6時頃)から宵の五つ半(午後9時頃)までの間、昌忠と本目権右衛門が清水御門は元より、田安御門、竹橋御門の何れの門からも出た記録はないからだ。
あるのは宵の五つ半(午後9時頃)を過ぎた頃に安藤正朋が清水御門を出た記録だけである。
いや、安藤正朋だけではない、もう一人の家老、吉川從弼と、それに二人の番頭、杉浦頼母勝明と近藤助八郎義種の名もあった。
どうやら、安藤正朋が屋敷へと帰るに際して、家老と番頭が屋敷まで見送りに立ったものと思われる。
それ故、家老の從弼と、番頭の杉浦頼母と近藤助八郎の「現場不在証明」も裏付けられた。
仮に從弼たちの何れかが池原良明を刺殺した下手人だとして、その場合、宵の五つ半(午後9時頃)過ぎに清水御門を潜って門外へと出るには、その前、それも三十六見附が閉じられる暮六つ(午後6時)から宵の五つ半(午後9時頃)前に清水御門、或いは田安御門、若しくは竹橋御門の何れかの門を潜って門内へと入り、清水屋敷へと立ち戻らねばならない。
だが、その場合、必ず台帳に記録として残り、しかしその間、清水御門は元より、田安御門、竹橋御門を潜って門内へと入った清水家臣は誰一人としておらず、その為、從弼たちもまた、池原良明が刺殺されたと思しき死亡推定時刻には清水屋敷にいたと考えざるを得ない。
「その後、手前は旗奉行の倉橋武右衛門殿と長柄奉行の戸田可十郎殿の案内にて座敷へと誘われ、そこで畏れ多いことに清水宮内卿様に拝謁し…」
これで重好と旗奉行の倉橋武右衛門景平と長柄奉行の戸田可十郎格誠の「現場不在証明」も裏付けられた。
「それから手前は…、外の、酒井様や鈴木様が御家中と共に、盛大なるもてなしを受けまして…」
酒井様とは竹橋御門番を勤めていた伊勢崎藩主の酒井忠温であり、鈴木様とは清水御門番を勤めていた鈴木數馬のことであった。両者とも、松平勝全同様、己の名代として家中、家老を清水屋敷へと差向けたとの重好の話であり、今の村瀬茂兵衛の証言にて、それもまた裏付けられた。
「されば手前は用人の福村理太夫殿と本目平七殿の御両人の給仕を受けましてな…」
村瀬茂兵衛は如何にも恐縮の体を覗かせた。
それはそうだろう。何しろ御三卿用人と言えば、従六位布衣役である。
一方、村瀬茂兵衛と言えば、名門、久松松平の流を汲む多古藩主、松平勝全の許で家老を勤める者である。
とは申せ、その身はあくまで大名家の陪臣に過ぎず、身分で言えば、従六位布衣役である御三卿用人の方が圧倒的に上であった。
その用人から、それも二人の用人から給仕を受けたのだから、村瀬茂兵衛が恐縮するのも当然であった。
ともあれこれで、用人の福村理大夫正敏と本目平七親平の「現場不在証明」も確かめられた。
ちなみに、村瀬茂兵衛の証言により、伊勢崎藩主・酒井忠温の家老、速見九兵衛には大久保半之助忠基と近藤小八郎義端が、鈴木數馬の家老の鈴木求馬には根来茂右衛門長方と井戸茂十郎弘道が夫々、給仕を担ったとのことである。
無論、川副佐兵衛としては後で当人より裏を取るつもりではあるが、村瀬茂兵衛が嘘をついているとも思えず、これでほぼ、小笠原主水を除いた6人の用人の「現場不在証明」も裏付けられたと言えるだろう。
「そうそう…、帰りにはまた、過分な土産を頂戴致しましてな…」
村瀬茂兵衛が思い出したかの様にそう告げたので、川副佐兵衛も思わず、「土産?」と聞返した。
「左様…、されば料理切手や反物を頂戴致しましてな…」
確かに土産としては些か、過分であろう。
それらの土産だが、村瀬茂兵衛の証言によると、小姓らが手分して、配っていたとのことであった。
流石にその小姓の名までは村瀬茂兵衛にも分かりかねるとのことであり、それ故、その小姓らの「現場不在証明」を確かめる術はなく、しかし、川副佐兵衛としては最早、それも不要な様に思えた。
何しろ「八役」のうち、家老と番頭、用人と旗奉行、そして長柄奉行の「現場不在証明」がほぼ確かめられたのである。この上の「現場不在証明」は不要であろう。
仮に家老の本多昌忠が、いや、御三卿の清水重好が全て仕組んだことだとしても、その場合、平の小姓や、或いは近習などに殺しを命じるとも思えない。
その場合には幹部クラスである「八役」を措いて外にはあり得ないだろう。
いや、「八役」ではなくとも、目附や徒頭、小十人頭ならば、あり得るやも知れぬ。
御三卿の目附や徒頭、小十人頭ならば、「八役」に次ぐ幹部であり、殺しを命ずる相手として不足はないであろう。
それに「八役」のうちでもまだ、物頭と郡奉行、勘定奉行の「現場不在証明」は裏付けられてはいなかった。
だが、これも間もなく、
「いとも容易く…」
その「現場不在証明」が裏付けられることとなる。
まず物頭だが、既に「現場不在証明」が成立している本多六三郎を除いて、蔭山新五郎と小野四郎五郎がいた。例の、毎日、門番所へと食事を差入れる面子である。
そのうち、田安御門の門番所へと食事を差入れていた蔭山新五郎が村瀬茂兵衛を門番所まで見送ったというのである。
「宮内卿様より頂戴仕りましたる土産の品々、とても一人では持切れず…」
そこで蔭山新五郎が村瀬茂兵衛の為に土産の品々を門番所まで持ってやったというのである。
そればかりではない。村瀬茂兵衛が清水屋敷を出た時は既に宵五つ(午後8時頃)を回っており、辺り一面、暗闇ということで、足許を照らす提灯が不可欠であり、重好は何と、村瀬茂兵衛の為に提灯持ちまでつけてくれたと言うのである。
「されば郡奉行の杉本理右衛門殿を提灯持ちに…」
杉本理右衛門愷利と安井甚左衛門保狡の二人が郡奉行を勤めていた。
ちなみに、村瀬茂兵衛の証言によれば、伊勢崎藩主・酒井忠温の家老、速見九兵衛の為に土産の品々を抱えたのは小野四郎五郎であり、提灯持ちを勤めたのは勘定奉行の酒井外記であったそうな。
いや、それまで―、4月1日から10日までの10日間、竹橋御門の門番を勤めていた酒井忠温とその家臣の為に食事を届けていたのは小野四郎五郎であるので、その小野四郎五郎が酒井忠温の家老の速見九兵衛の為に土産の品々を抱えてやるのは当然としても、それならば提灯持ちにしても、郡奉行の安井甚左衛門が勤めるのが自然ではあるまいか…、川副佐兵衛はそう疑問に思った。
するとその疑問に村瀬茂兵衛が応えてくれた。
「いや、本来なれば今一人の郡奉行、安井甚左に提灯持ちを勤めさせるべきところ、生憎と安井甚左は久方ぶりに休みを取り、宿下をしているによって…、と宮内卿様は斯様に仰せられて、そこで安井殿の代わりに、勘定奉行の酒井殿を…、酒井外記殿を提灯持ちにつけられた由…」
成程、そういうことかと、川副佐兵衛は合点がいった。
そういうことなら郡奉行の安井甚左衛門ではなく勘定奉行の酒井外記が提灯持ちを勤めたことにも合点がゆく。
だがそうなると、酒井外記に「現場不在証明」がないことになる。
御三卿の家臣は基本的には「住込」が原則であり、清水家を例に取れば、清水邸内にある長屋、さしずめ組屋敷にて家族と共に起居するのが原則であった。
それでも偶に、休を取り、実家へと戻る、つまりは「宿下」をすることも可能であった。
安井甚左衛門の場合はそれがどうやら、池原良明が殺された4月の9日であった様だ。
そしてその為に、安井甚左衛門には「現場不在証明」の存在が確かめられなくなってしまった。
いや、「現場不在証明」がないからと言って、下手人と決まった訳ではない。「現場不在証明」がないから即ち、下手人だと考えるのは短絡的に過ぎ様。
それに殺しともなれば、郡奉行の様な役方、文官にやらせるとも思えない。
やはり武官、番方にやらせようと考えるのが自然であった。
それ故、川副佐兵衛としては、安井甚左衛門には今のところ、「現場不在証明」が確かめられないからと言って、下手人であるとは思えなかった。
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