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序章 最終回後篇 安永8年2月21日 ~次期将軍・家基昇天までのカウントダウン~

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【午前10時、西之丸にしのまるよう部屋べや
本日ほんじつ放鷹ほうよう中止ちゅうしせよ、とな?」

 部屋へやあるじとも言うべき西之丸にしのまる老中ろうじゅう阿部あべ豊後守ぶんごのかみ正允まさちかはそう問返といかえした。

 すると興正おきまさも「はい」とう首肯しゅこうした。

 興正おきまさはあれから―、信喜直筆のぶよしじきひつによる本日ほんじつ家基いえもと鷹狩たかがりに同行どうこうする「メンバーひょう」をてから、前例ぜんれいのない、書院番しょいんばん小姓こしょう組番ぐみばんを|はじめとする大量たいりょう欠席者けっせきしゃ存在そんざいがどうしてもにかかり、

てもってもられず…」

 そこで興正おきまさはここ、老中ろうじゅう執務室しつむしつであるよう部屋べやへと乗込のりこんだ次第しだいであった。部屋へやあるじたる老中ろうじゅう、それも唯一ゆいいつ西之丸にしのまる老中ろうじゅう阿部あべ正允まさちか本日ほんじつ鷹狩たかがりの中止ちゅうし進言アドバイスするためであり、実際じっさい興正おきまさはそのむね正允まさちか進言アドバイスをしたのであった。

 だが、阿部あべ正允まさちか反応はんのうにぶいものであった。

今更いまさら中止ちゅうしせよともうしてもな…、かる違和感いわかんなれど…、はなしかったが、あくまで、そなたのかんぎぬのであろう?」

 興正おきまさ鷹狩たかがりの中止ちゅうし正允まさちか進言アドバイスするにさいして、勿論もちろんおのれいた「違和感いわかん」、その正体しょうたいである大量たいりょう欠席者けっせきしゃ存在そんざいについても説明せつめいした。

 だが正允まさちかはそれを、興正おきまさの「かん」として一蹴いっしゅうしてしまったのだ。

 たしかにかん、それも根拠こんきょのないかんぎず、そう言われてしまえば興正おきまさとしてもかえ言葉ことばがなかった。

 すると、それをった若年寄わかどしより鳥居とりい丹波守たんばのかみ忠意ただおきが、

左様さよう阿部あべ殿どのもうされたとおりぞ」

 正允まさちか加勢かせいしたかとおもうと、

「そなたのそのような、なん根拠こんきょもないかん、それも下衆げす勘繰かんぐりにて大事だいじなる放鷹ほうよう中止ちゅうしになど出来できぬわ」

 一気いっきにそう畳掛たたみかけた。

 ここよう部屋べや老中ろうじゅうと、それに若年寄わかどしより執務室しつむしつであった。

 本丸ほんまるとはちがい、ここ西之丸にしのまるには老中ろうじゅう阿部あべ正允まさちかただ一人ひとりで、若年寄わかどしより鳥居とりい忠意ただおきとそれに酒井さかい飛騨守ひだのかみ忠香ただか二人ふたりだけで、老中ろうじゅう若年寄わかどしよりしてもわず三人さんにんぎず、それゆえ老中ろうじゅう執務室しつむしつ若年寄わかどしより執務室しつむしつかれている本丸ほんまるとはちがい、老中ろうじゅう執務室しつむしつ若年寄わかどしより執務室しつむしつ一緒いっしょであり、老中ろうじゅう阿部あべ正允まさちかほかにも鳥居とりい忠意ただおき姿すがたがあったのはそのためであった。

 その忠意ただおき興正おきまさの「中止ちゅうしろん」を下衆げす勘繰かんぐりとして片付かたづけるや、興正おきまさ反論はんろんゆるいとまあたえまいとするかのよう立上たちあがると、よう部屋べやより退出たいしゅつした。

 あとのこされたのは正允まさちか興正おきまさほかに、忠意ただおき相役あいやく同僚どうりょう若年寄わかどしよりである酒井さかい忠香ただかであった。

 その酒井忠香さかいただかも、「むをまい…」と正允まさちかや、さら忠意ただおき同調どうちょうした。

最早もはや放鷹ほうようまで…、大納言だいなごんさま出馬しゅつばまで四半刻しはんとき(約30分)をっておるわ…、その段階だんかいでそなたのかんだけで中止ちゅうしするわけにはゆくまいて…」

 忠香ただか忠意ただおきとはちがい、なぐさめるようにそうげたのだ。忠香ただかはそのうえで、

「されば鳥居とりい殿どの本日ほんじつ放鷹ほうようことほかたのしみにされており…」

 忠意ただおき興正おきまさの「中止ちゅうしろん」を下衆げす勘繰かんぐりとして一蹴いっしゅうした理由わけ打明うちあけたのであった。

 それで興正おきまさも「成程なるほど…」と合点がてんした。

 すなわち、本日ほんじつ鷹狩たかがりには若年寄わかどしよりしたがうのだが、今日きょう鳥居とりい忠意ただおきしたが予定よていであり、そしてこれもまた不自然ふしぜんであり、興正おきまさに「違和感いわかん」をかせた。

 それと言うのも、家基いえもと鷹狩たかがりにしたが若年寄わかどしよりと言えば、酒井忠香さかいただか鳥居とりい忠意ただおき二人ふたりだけであり、それゆえ交互こうご鷹狩たかがりにしたがい、片方かたほう留守るすあずかるというのが不文律ふぶんりつであった。

 前回ぜんかい、2月4日の目黒めぐろのほとりへの鷹狩たかがりのさいには鳥居とりい忠意ただおきしたがったので、本来ほんらいならば今回こんかいは、今日きょう新井宿あらいじゅくのほとりへの鷹狩たかがりには酒井忠香さかいただかしたがい、忠意ただおきは「お留守るすばん」のはずであった。

 それが実際じっさいには忠意ただおき前回ぜんかい引続ひきつづいて、今回こんかいもまた、鷹狩たかがりにしたがい、うらかえせば忠香ただかわば、

二週にしゅう連続れんぞくで…」

 お留守るすばんつとめることになり、あきらかに不自然ふしぜんと言えた。

酒井さかい殿どのはそれでまことよろしいので?」

 興正おきまさ二週にしゅう連続れんぞくで「お留守るすばん」をつとめさせられることになった忠香ただかにそのてんただした。

 もっと言えば、そのような「采配さいはい」をるった信喜のぶよしについて、その「采配さいはい」ぶりについてうていたのだ。

 忠香ただかには二週にしゅう連続れんぞくで「お留守るすばんつとめさせる…、それもまた、信喜のぶよしの「采配さいはい」によるからだ。

「いや…、身共みどもはこのとおり、とうのむかし還暦かんれきぎておるゆえに、放鷹ほうようへの扈従こしょうも…、あまおおきなるこえではもうせぬが億劫おっくうでの…」

 だから「留守るすばん」をしているほうらくなのだと、忠香ただか苦笑くしょうじりにそう示唆しさしたのだ。

 それにたいして興正おきまさはそれを額面通がくめんどおりには受取うけとらず、それどころか一種いっしゅの「韜晦とうかい姿勢ポーズ」にぎないと、そう受取うけとったのだ。

 成程なるほど、正徳5(1715)年生まれの忠香ただか今年ことし、安永8(1779)年でかぞえで65となり、還暦かんれきは、

「とうのむかしに…」

 ぎていた。

 だが忠香ただか矍鑠かくしゃくとしており、鷹狩たかがりにしたがうのが億劫おっくうであるとは、とてもおもえなかった。

 それに鳥居とりい忠意ただおきとて、忠香ただかとはふたつしかたがわず、つまりは忠意ただおき忠香ただかより2歳年下とししたであるにぎず、忠香ただか同様どうよう還暦かんれきであることにわりはない。

 まるところ、信喜のぶよし忠香ただかめてかかった…、それによう

 忠香ただか温厚おんこうじんであり、それで信喜のぶよしもそのよう忠香ただかならば、

二週にしゅうつづけて…」

 お留守るすばんをさせても問題もんだいあるまいと、そうタカをくくったに相違そういあるまい。

 興正おきまさがそうかんがえていると、忠香ただかにもそれがつうじたらしく、

「いや、小笠原おがさわら若狭わかさよりは事前じぜんはなしがあったがの…」

 忠香ただかおのれけっして、信喜のぶよしめられているわけではないと、興正おきまさにそう主張アピールしたのであった。

 それにたいして興正おきまさはと言うと、

じつ聞捨ききずてならぬ…」

 そうかんじたのであった。

事前じぜんはなしがあった…、と?」

 興正おきまさおもわずそう問返といかえしていた。

如何いかにも…」

「そは…、若狭わかさ酒井さかい殿どのたいして、前回ぜんかい放鷹ほうよう引続ひきつづき、今回こんかい放鷹ほうよう…、今日きょう放鷹ほうようについても、酒井さかい殿どの大納言だいなごんさましたがたてまつらせずに、御城えどじょうにて留守るすあずからせることについて、はなしが…、申開もうしひらきがあった、と?」

 興正おきまささらにそう、ねんようたずねた。それが興正おきまさに「聞捨ききずてならぬ…」とおもわせた正体しょうたいである。

 一方いっぽう忠香ただかは「如何いかにも」と即答そくとうするや、

「されば此度こたび…、本日ほんじつ放鷹ほうよう鳥居とりい殿どのには格別かくべつのものとなるによって…、いや、若狭わかさ左様さようもうして、この飛騨ひだ此度こたびもまた留守るすをしてくれるよう、つまりは鳥居とりい殿どの扈従こしょうゆずってくれるようたのまれての…」

 そのような「裏事情うらじじょう」を打明うちあけた。

鳥居とりい殿どのにとって格別かくべつ、と?」

 興正おきまさわけからずにくびかしげた。

 すると忠香ただかはそんな興正おきまさためくわしい経緯いきさつをも打明うちあけた。

 すなわち、そばしゅう、それもひらそばなかからも一名いちめい鷹狩たかがりにしたがい、しかし今回こんかい今日きょう鷹狩たかがりにかぎって、人選じんせん担当たんとうする信喜のぶよしはここでもまた、

不自然ふしぜんきわまりない…」

 采配さいはいぶりを発揮はっきし、二人ふたりひらそばしたがわせることとし、大久保おおくぼ下野守しもつけのかみ忠恕ただみおなじく大久保おおくぼ志摩守しまのかみ忠翰ただなり二人ふたりえらび、そのうち大久保おおくぼ忠翰ただなりじつ鳥居とりい忠意ただおき実弟じっていたるのだ。

鳥居とりい殿どのにとっては、じつおとうと大納言だいなごんさま放鷹ほうよう扈従こしょう出来できるともうすものにて…」

 それこそが信喜のぶよしの言うところの「格別かくべつ」の正体しょうたいであるらしい。

「それに、大納言だいなごんさまにとっても扈従こしょうせしそばしゅう大久保おおくぼ兄弟きょうだいなればらくであろう…」

 忠香ただかの言うとおり、家基いえもとそばしゅうなかでもとりわけ、「大久保おおくぼ兄弟きょうだい」こと、大久保おおくぼ忠恕ただみ大久保おおくぼ忠翰ただなり二人ふたりが「おり」であった。

 忠恕ただみ忠翰ただなりただしくは兄弟きょうだいではないものの、大久保おおくぼ一族いちぞくとしてそろって、家基いえもと寵愛ちょうあいけているところから、

大久保おおくぼ兄弟きょうだい…」

 そんな愛称あいしょうたてまつられていた。

 そのうち忠翰ただなり実兄じっけい若年寄わかどしより鳥居とりい忠意ただおきであり、しかも忠意ただおき眉目びもく秀麗しゅうれいということも手伝てつだって、これまた家基いえもとの「おり」であった。

「また、扈従こしょうせし目付めつけ小野おの次郎右衛門じろうえもんともなれば尚更なおさらにのう…」

 目付めつけもまた、軍監ぐんかんとして鷹狩たかがりにしたがう。鷹狩たかがりは軍事ぐんじ訓練くんれんとしての側面そくめんもあるからだ。

 もっとも、それは建前たてまえであり、天下てんが泰平たいへい御代みよ鷹狩たかがりは最早もはや遊戯レクリエーションしており、にもかかわらず目付めつけしたがわせるのは、

鷹狩たかがりとは軍事ぐんじ訓練くんれんである…」

 その建前たてまえ維持いじするためであり、目付めつけにしてもそれがかっていたので、軍監ぐんかんとは言っても、実際じっさいには鷹狩たかがりを遊戯レクリエーションとしておおいにたのしんだ。

 いや、目付めつけなかにも、

鷹狩たかがりはあくまで、軍事ぐんじ訓練くんれんである…」

 その建前たてまえつらぬき、鷹狩たかがりを遊戯レクリエーションとしてたのしむではなく、軍監ぐんかんとしてのおのれ職分しょくぶんまっとうしようとする硬骨漢こうこつかんもおり、ここ西之丸にしのまるにて家基いえもとつかえる目付めつけなかでも、深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもん盛朝もりともがそうであった。

 一方いっぽう、それとは対極たいきょく位置いちするのが小野おの次郎右衛門じろうえもんこと次郎右衛門じろうえもん忠喜ただよしであった。

 小野おの次郎右衛門じろうえもん目付めつけなかでも一番いちばん新人ルーキーではあるが、としかぞえで47で、46の深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもんよりもひとつしかたがわず、にもかかわらず、小野おの次郎右衛門じろうえもん深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもんよりも柔軟じゅうなんで、こなれていた。

 それゆえ家基いえもと深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもんが「軍監ぐんかん」として鷹狩たかがりにしたがときには大分だいぶ緊張きんちょういられる。いや、家基いえもとのみならず、家基いえもとしたが家臣かしん一同いちどうにもまることであった。

 そのてん小野おの次郎右衛門じろうえもん場合ばあい深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもんよう鷹狩たかがりを厳格げんかくに「軍事ぐんじ訓練くんれん」としてはとらえずに、それどころかみずか率先そっせんして、鷹狩たかがりを遊戯レクリエーションとしてたのしむので、家基いえもとをはじめ、だれもがらくであった。

「とりわけ、大久保おおくぼ兄弟きょうだいはそうであろうな…」

 忠香ただかはしみじみそうつぶやいたので、興正おきまさも、「あっ」とこえげた。あることをおもしたのだ。

 それにたいして、忠香ただかもそうとさっしたらしく、「左様さよう」とおうずると、

「されば大久保おおくぼ兄弟きょうだい…、ともうすよりは大久保おおくぼ一族いちぞく三卿さんきょうなかでも清水しみず宮内卿くないきょうさまとの所縁ゆかりふかく、一方いっぽう小野おの次郎右衛門じろうえもんもそのおとうと清水しみず家中かちゅう…、それも物頭ものがしらつとめているによって…」

 そこで小野おの次郎右衛門じろうえもんは、おなじく清水しみず家臣かしん縁者えんじゃつ、それも叔父おじ清水しみず家臣かしんである小姓こしょう大久保おおくぼ靱負ゆきえ忠俶ただあつけ、まずは大久保おおくぼ靱負ゆきえしたしくすることで、わば大久保おおくぼ靱負ゆきえ足掛あしがかりに、同族どうぞくの「大久保おおくぼ兄弟きょうだい」へと接近せっきん結果けっかいまでは小野おの次郎右衛門じろうえもん目論見もくろみどおり、次郎右衛門じろうえもんは「大久保おおくぼ兄弟きょうだい」としたしく付合つきあ間柄あいだがらとなっていた…、忠香ただか興正おきまさおもしたことを解説レクチャーしてみせた。

 たしかにそのとおりで、このことは西之丸にしのまるにおいてもられたはなしであり、興正おきまさ勿論もちろん把握はあくしていたものの、しかし信喜のぶよしあまりに滅茶苦茶めちゃくちゃ人選じんせん憤慨ふんがいしてつい、失念しつねんしていたのだ。

 だが興正おきまさはそのことをおもすと、信喜のぶよし人選じんせんいた違和感いわかん正体しょたい、それもまこと正体しょうたい気付きづいた。

清水しみず所縁ゆかりのあるもの多過おおすぎる…」

 それであった。

 いや、もっとにはやくに気付きづくべきであった。それと言うのも随行ずいこうする鷹匠たかじょうしゅうなかにはおどろくべきことに、清水しみず家臣かしん仙波せんば市左衛門いちざえもん永春ながはるまであったからだ。

 仙波せんば市左衛門いちざえもん永春ながはるもまた、「欠席者けっせきしゃ」の代替要員ピンチヒッターとして信喜のぶよしえらばれた一人ひとりであった。

 その仙波せんば市左衛門いちざえもん永春ながはるたかあやつ技量ぎりょうにかけては天下一てんがいちと言っても過言かごんではなく、その幕臣ばくしんあいだにまでとどろいていた。

 興正おきまさ勿論もちろん、その名声めいせいならば把握はあくしていたので、

仙波せんば市左衛門いちざえもんならば…」

 興正おきまさ仙波せんば市左衛門いちざえもん永春ながはる鷹匠たかじょうであるまえ清水しみず家臣かしんであることをすっかり失念しつねんして、代替要員ピンチヒッターとして適任てきにんと、すっかり、それもうっかり受流うけながしていたのだ。

 だが、忠香ただかより指摘してきけたことで、興正おきまさようやくに今日きょう鷹狩たかがりに清水しみず所縁ゆかりのあるものめられていることに気付きづいたのであった。

 だがそれは最早もはや遅過おそすぎた発見はっけんと言えよう。

 このだんになっては最早もはや興正おきまさってしても、如何いかんともしがたかったからだ。


【午前10時30分頃、西之丸にしのまる大手おおて門前もんまえ
大納言だいなごんさま、これを…」

 家基いえもとが「全軍ぜんぐん」をしたがえて、新井宿あらいじゅくへと出行しゅっこうする直前ちょくぜん軍監ぐんかんつとめる目付めつけ小野おの次郎右衛門じろうえもん滋養じよう強壮きょうそうため丸薬がんやくすすめた。

左様さようか…」

 家基いえもとがその丸薬がんやくろうとした瞬間しゅんかん膳番ぜんばん小納戸こなんど石谷いしがや次郎左衛門じろうざえもんってはいった。

「その丸薬がんやくは?」

 石谷いしがや次郎左衛門じろうざえもん家基いえもとまえ立塞たちふさがり、まるで家基いえもとにその丸薬がんやくませないかのよう姿勢しせいった。

 事実じじつ石谷いしがや次郎左衛門じろうざえもん小野おの次郎右衛門じろうえもんから納得なっとくのいくこたえがられなければ、家基いえもと丸薬がんやくませないつもりであった。

「さればこれはおく法印ほういん吉田よしだ桃源院とうげんいんめいじて調ちょうぜさせし丸薬がんやくにて…」

 小野おの次郎右衛門じろうえもんは「法印ほういん」にアクセントをいた。法印ほういん医師いしなかでも最高さいこうランクに位置いちする。

 それゆえ、その法印ほういん地位ちいにある吉田よしだ桃源院とうげんいんこと吉田よしだ善正よしまさ調合ちょうごうしたくすりならば、

まんひとつ…」

 間違まちがいはあるまいと、小野おの次郎右衛門じろうえもん示唆しさしたのだ。法印ほういん称号ブランド持出もちだせば、さしもの石谷いしがや次郎左衛門じろうざえもん引下ひきさがるに相違そういあるまいと、次郎右衛門じろうえもんがそう判断はんだんしてのことであった。

 いや、それだけではない。おなじく西之丸にしのまるおく医師いしもり養春院ようしゅんいん當定まささだの「援護えんご射撃しゃげき」も期待きたい出来できると見込みこんでのことである。

 事実じじつ小野おの次郎右衛門じろうえもん吉田よしだ善正よしまさすや、真先まっさき反応はんのうしたのは森當定もりまささだであり、

吉田よしだ桃源院殿とうげんいんどの調進ちょうしんせし丸薬がんやくなれば問題もんだいはござるまい…」

 當定まささだ次郎右衛門じろうえもん期待きたいしたとおりの「はたらきぶり」をしめしてくれた。

 森當定もりまささだ愛娘まなむすめてつ田安たやす家臣かしん石寺いしでら伊織いおり章貞あきさだもとへととつがせており、しかもそのあいだまれた桃菴とうあんいたる吉田よしだ善正よしまさ養嗣子ようししむかえられているのだ。

 つまり、當定まささだ大事だいじ外孫そとまご善正よしまさ養嗣子ようししとしているゆえに、その外孫そとまご岳父がくふたる吉田よしだ善正よしまさ調合ちょうごうした丸薬がんやくともなれば、

問題もんだいない…」

 當定まささだがそう太鼓判たいこばんすのはえていた。

 小野おの次郎右衛門じろうえもんかる「閨閥けいばつ」を把握はあくしていればこそ、吉田よしだ善正よしまさ丸薬がんやく調合ちょうごうさせ、そしていま、この場面ばめんでその持出もちだしたのであった。

 だが、森當定もりまささだの「援護えんご射撃しゃげき」にもかかわらず、石谷いしがや次郎左衛門じろうざえもん引下ひきさがらなかった。

「その丸薬がんやく毒見どくみもうさぬうちは、大納言だいなごんさま差上さしあげることあたわず…」

 次郎左衛門じろうざえもんはあくまで、膳番ぜんばんとしてのおのれ職務しょくむまっとうしようとした。

「それに…、その丸薬がんやくとてまこと吉田よしだ桃源院とうげんいん調進ちょうしんせし丸薬がんやくかどうか、かりもうさず…」

 次郎左衛門じろうざえもん丸薬がんやくそのものにまで、うたがいのけたのだ。

 これには小野おの次郎右衛門じろうえもんだまってはいなかった。

しからばこの次郎右衛門じろうえもんおそおおくも大納言だいなごんさま毒薬どくやく差上さしあげようとしているとでももうされるのかっ!」

 如何いかにも次郎左衛門じろうざえもんうたがいはそれを示唆しさするものであり、当然とうぜん次郎右衛門じろうえもん激昂げっこうした。いや、正確せいかくには激昂げっこうしてみせたと言うべきであろう。実際じっさいには丸薬がんやくにばかり焦点しょてんてられていたからだ。

 ともあれ次郎左衛門じろうざえもん次郎右衛門じろうえもん激昂げっこうひる様子ようすなど微塵みじんもなく、

出所でどころからぬものについては、すべての可能性かのうせいうたがう…、それが膳番ぜんばんとしての…、大納言だいなごんさまいのちあずかりたてまつりしものたる責務せきむにて…」

 次郎左衛門じろうざえもん平然へいぜんとそう繰返くりかえした。

 家基いえもとまえで、それも家基いえもとあいだはさんで、次郎左衛門じろうざえもん次郎右衛門じろうえもんが「バトル」を繰広くりひろげるものだから、家基いえもと困惑こんわくした。どちらの味方みかたをするわけにもゆかないからだ。

 するとそんな家基いえもとすくったのが、やはり医師いし、それも本丸奥ほんまるおく医師いし池原良誠いけはらよしのぶであり、良誠よしのぶは「おそれながら…」とってはいったかとおもうと、

「このさい吉田よしだ桃源院とうげんいんたしかめましては如何いかがでござりましょうや…」

 そう提案ていあんしたのであった。

 良誠よしのぶ提案ていあんに、次郎左衛門じろうざえもん次郎右衛門じろうえもんは「一時いちじ休戦きゅうせん」したことから、家基いえもと心底しんそこ、ホッとした表情ひょうじょうかべた。

「それがい…」

 家基いえもと良誠よしのぶ提案ていあんりょうとするや、それをけて次郎右衛門じろうえもんがこの吉田よしだ善正よしまされてることを提案ていあんしたのだ。

 家基いえもとまえじか吉田よしだ善正よしまさたいして、まこと善正よしまさ調合ちょうごうした丸薬がんやくかどうか、たしかめさせようとの腹積はらづもりであり、すると森當定もりまささだが「使者ししゃ」の役目やくめ引受ひきうけ、當定まささだによって善正よしまされてられた。

 石谷いしがや次郎左衛門じろうざえもん早速さっそく吉田よしだ善正よしまさたいして、おのれ調合ちょうごうした丸薬がんやくかどうか、そのてんただした。

「はい、如何いかにもこの丸薬がんやく手前てまえ調進ちょうしんせし丸薬がんやく相違そういなく…、されば小野おの次郎右衛門じろうえもん殿どのめいにより…」

 善正よしまさがそうみとめたので、次郎右衛門じろうえもんは、

「さぁ、どうだ。まいったか…」

 如何いかにもそう言いたげな様子ようすむねってみせた。

 だが次郎左衛門じろうざえもんはそれを黙殺もくさつすると、

「されば毒見どくみ申上もうしあげる…」

 何事なにごともなかったかのようにそうげたのだ。

 だがそれに次郎右衛門じろうえもんったをかけた。

「いや、そなたにばかりかおをされては、この次郎右衛門じろうえもん立場たちばがない。されば毒見どくみ手前てまえつかまつろうぞ…」

 次郎右衛門じろうえもん丸薬がんやく毒見どくみすると言うので、次郎左衛門じろうざえもん当然とうぜん反撥はんぱつした。

「いや、毒見どくみなれば膳番ぜんばんたる手前てまえ職掌しょくしょうにて…」

 次郎左衛門じろうざえもん膳番ぜんばんねていることをたてにしてゆずろうとはしなかった。

おのれにありもせぬうたがいを…、おそおおくも大納言だいなごんさま毒薬どくやくにて毒殺どくさつせんとしようとしているなどと、かるうたがいをかけておきながら、そのうえ毒見どくみまでになおうとは、ムシすぎるぞっ!ひと虚仮こけにするのも大概たいがいにせいよっ!」

 次郎右衛門じろうえもんふたた激昂げっこうしてみせると、今度こんどなん脇差わきざしをかけたのだ。これにはさしもの次郎左衛門じろうざえもんもギョッとさせられた。

 かり次郎右衛門じろうえもん脇差わきざしいたならば、次郎左衛門じろうざえもん脇差わきざしいて応戦おうせんせねばならぬ。

 だがそれでは「喧嘩けんか両成敗りょうせいばい」の原則げんそく適用てきようされ、次郎右衛門じろうえもんもとより、応戦おうせんした次郎左衛門じろうざえもんばっせられることになる。

 勿論もちろん脇差わきざしかずに、つまりは、

かたなわさず…」

 ただ逃惑にげまどうという選択肢せんたくしもあろうが、百姓ひゃくしょう町人ちょうにんならばいざらず、次郎左衛門じろうざえもん武士ぶしであり、武士ぶしたるでありながら、「喧嘩けんか両成敗りょうせいばい」をおそれてかたなわすこともなく、ただうろうろと逃惑にげまどったとなれば、仮令たとえ、それでばっせられずとも、嘲笑ちょうしょうまととなるのはけられまい。いや、それ以上いじょうに、家基いえもとからおおいに不興ふきょううのはけられまい。

 そこで第三だいさんみちとして、脇差わきざしさや応戦おうせんするという選択肢せんたくしがあった。脇差わきざしかずに、さや応戦おうせんすれば、「喧嘩けんか両成敗りょうせいばい」の原則げんそく適用てきようされず、つ、逃惑にげまどわけではないので、家基いえもとから不興ふきょううこともなければ、嘲笑ちょうしょうまととなることもない…、次郎左衛門じろうざえもんがそのよう想像シミュレーションあたまなかめぐらしていると、

毒見どくみ次郎右衛門じろうえもんたのもう…」

 家基いえもとがそう裁断さいだんくだしたので、次郎左衛門じろうざえもんきゅう現実げんじつに、それも不愉快ふゆかい現実げんじつ引戻ひきもどされた。

 次郎左衛門じろうざえもん家基いえもと裁断さいだん抗議こうぎしようとしたものの、家基いえもとがそれを右手みぎてかかげてせいした。

次郎右衛門じろうえもんかおすこしくはててやろうぞ…」

 家基いえもとがそうげたので、次郎左衛門じろうざえもんとしてもこのうえ抗議こうぎ出来できなかった。

 一方いっぽう次郎右衛門じろうえもんはそれとは正反対せいはんたい如何いかにも勝誇かちほこったかのよう表情ひょうじょうのぞかせたかとおもうと、先程さきほど家基いえもとためふくろから取出とりだしたその丸薬がんやくふたたび、ふくろなか仕舞しまい、そのふくろをそのまま、次郎左衛門じろうざえもんへと押付おしつけたのであった。

毒見どくみすべき丸薬がんやくはそなたがえらいぞ?それなれば、膳番ぜんばんとやらの大層たいそうなる役目やくめたしたことになるであろうぞ?」

 次郎右衛門じろうえもん厭味いやみめてそうぶちまけたのだ。

 これには次郎左衛門じろうざえもん心底しんそこ憎悪ぞうお感情かんじょう湧上わきあがったものの、それを噴出ふんしゅつさせるようおろかな真似まねはせずに、そのわりに家基いえもとかおた。

 すると家基いえもと次郎左衛門じろうざえもん視線しせん気付きづき、うなずいてせたので、次郎左衛門じろうざえもんはそれでようやくに次郎右衛門じろうえもんからふくろ受取うけとると、数粒すうつぶ丸薬がんやくはいったそのふくろ右手みぎて差込さしこみ、なかから一粒ひとつぶ丸薬がんやく取出とりだし、それをそのまま次郎右衛門じろうえもん突付つきつけた。

 次郎右衛門じろうえもん次郎左衛門じろうざえもんのその所作しょさから、次郎右衛門じろうえもんはらなかではかえっていることがさっせられたので、いまにもわらしたい衝動しょうどうられたほどである。

 無論むろん次郎右衛門ちゅうえもん実際じっさいわらすことはなく、いや、必死ひっしこらえたからだが、ともあれ、次郎右衛門じろうえもんわらわりに次郎左衛門じろうざえもんより受取うけとったその丸薬がんやくくちふくむと、これもまたやはり家基いえもとませるべく用意よういしておいた竹筒たけづつみずでもって、丸薬がんやくながんだ。

 いや、次郎左衛門じろうざえもん実際じっさいながんだのは丸薬がんやくのみであり、みずかんしてはむフリをしただけであった。

 これでいつもの、冷静れいせい沈着ちんちゃくなる次郎左衛門じろうざえもんであれば、次郎右衛門じろうえもんのそのような「三文さんもん芝居しばい」などぐに見破みやぶったであろう。

 だがいまの、すっかり憎悪ぞうお感情かんじょうかれてしまった次郎左衛門じろうざえもんはそれゆえに、その「三文さんもん芝居しばい」を見破みやぶれなかった。

 次郎右衛門じろうえもん次郎左衛門じろうざえもん家基いえもと交互こうごしたしてせた。それは丸薬がんやくともに、みずんだことを主張アピールするものだった。

 次郎右衛門じろうえもんのその主張アピールたいして、次郎左衛門じろうざえもん納得なっとくしてしまい、家基いえもと叩頭こうとうすると、丸薬がんやくはいったふくろ家基いえもとへと差出さしだした。

 家基いえもと次郎左衛門じろうざえもんよりそのふくろ受取うけとると、ふくろなかからやはり一粒ひとつぶ丸薬がんやく取出とりだし、次郎右衛門じろうえもんがそうしたようにその丸薬がんやくくちふくんだ。

 すると今度こんど次郎右衛門じろうえもん家基いえもとへと竹筒たけづつ差出さしだし、家基いえもと左手ひだりてつかんでいたふくろとその竹筒たけづつ交換こうかんした。

 そして家基いえもと次郎右衛門じろうえもんより受取うけとった竹筒たけづつみずとも丸薬がんやくながんだのであった。ただし、そのてんだけは、

次郎右衛門じろうえもんがそうしたように…」

 というわけではなかった。


【午後4時頃、薩摩藩さつまはん品川しながわ下屋敷しもやしき
すこしは落着おちつかれては如何いかが御座ござろう…」

 遊佐ゆさ卜庵信庭ぼくあんのぶにわまえにてウロウロとあるまわ市田いちだ勘解由かげゆ教国のりくにたしなめるようこえをかけた。

 遊佐ゆさ信庭のわ公儀こうぎ幕府ばくふつかえる医官いかん、それもおもてばん医師いしであり、一方いっぽう市田いちだ勘解由かげゆはこの屋敷やしき住人じゅうにんすなわち、薩摩さつま藩士はんしであった。ちなみに遊佐ゆさ信庭のぶにわ今日きょう非番ひばんである。

 それにしても幕府ばくふおもてばん医師いし薩摩さつま藩士はんしなんともみょう取合とりあわせであったが、そこには理由わけがあった。

「これが落着おちついていられるかっ」

 市田いちだ勘解由かげゆ立止たちどまると、そう反論はんろんした。

 たしかに市田いちだ勘解由かげゆ気持きもちもからないではなかった。

 なにしろ、ここ品川しながわにある薩摩藩さつまはん下屋敷しもやしき東海とうかいはなさきにあり、もなくその東海とうかい鷹狩たかがりをえた家基一行いえもといっこうが、それも家基いえもと立寄たちよることをおおえば成程なるほど市田いちだ勘解由かげゆがウロウロとあるまわりたくなるのもいたかたない。

まことに、上手うまくいくのであろうな?」

 市田いちだ勘解由かげゆすで幾度いくどとなくびせかけたいをここでもまた、くちにした。

 するとこれにはおなじく医者いしゃ、とは言っても幕府ばくふ医官いかんではなく、まち医者いしゃ小野おの玄養章以げんようあきしげこたえた。

 みょう取合とりあわせは市田いちだ勘解由かげゆ遊佐ゆさ信庭のぶにわだけではなかったのだ。もう一人ひとり、その小野おの章以あきしげがおり、

かならずや大願成就たいがんじょうじゅ相成あいなりましょうぞ…」

 小野おの章以あきしげはそう太鼓判たいこばんしたのであった。

 すると遊佐ゆさ信庭のぶにわ小野おの章以あきしげ加勢かせいするかのように、「左様さよう」と言葉ことばかさねるや、

「されば幾度いくたび実験じっけんかさねましたるゆえに、まんひとつも失敗しくじようなことはありませぬ」

 遊佐ゆさ信庭のぶにわもこれまた、大見得おおみえってみせたのであった。

 それで市田いちだ勘解由かげゆようやくに落着おちつきを取戻とりもどす…、これもまた幾度いくど繰返くりかえされたパターンと言えた。

 するとそこへ、「申上もうしあげますっ」という若々わかわかしいこえかれた。こえぬし仙波せんば市左衛門いちざえもん永昌ながまさであった。

 市田いちだ勘解由かげゆ仙波せんば永昌ながまさこえいた途端とたんかがやかせた。

ついまいったかっ!」

 市田いちだ勘解由かげゆ仙波せんば永昌ながまさにそうこえをかけると、永昌ながまさも「ははっ」と首肯しゅこうして、にしていた書付かきつけ勘解由かげゆうやうやしく手渡てわたした。

 このやりりだけで判断はんだんするならば、まるで主従しゅじゅうよう間柄あいだがらえるであろう。あるいは上役うわやくとその部下ぶかようなそれにもえるやもれず、いずれにしろ、仙波せんば永昌ながまさもまた、市田いちだ勘解由かげゆおなじく、薩摩さつま藩士はんしには間違まちがいないとおもわれるやもれぬが、しかし実際じっさいには永昌ながまさ薩摩さつま藩士はんしではなく、それどころか三卿さんきょう清水家しみずけ鷹匠たかじょうとしてつかえる家臣かしんであり、ちち仙波せんば市左衛門いちざえもん永春ながはるもまた清水しみず家臣かしんで、それも鷹匠たかじょうがしらとしてつかえていた。

 そして永昌ながまさいま市田いちだ勘解由かげゆ手渡てわたした書付かきつけちち永春ながはるよりとどけられたそれであった。いや、正確せいかくにはたかとどけた書付かきつけと言うべきであろう。

 その書付かきつけには市田いちだ勘解由かげゆがそれこそ、

ちにった…」

 そのよう文面ぶんめんしたためられており、その意味いみまさしく吉報きっぽうと言えた。

 小野おの章以あきしげ遊佐ゆさ信庭のぶにわも、じつうれしげにその書付かきつけとす市田いちだ勘解由かげゆ姿すがたたりにして、「大願成就たいがんじょうじゅ」をたしたことを確信かくしんしたものだが、それでも遊佐ゆさ信庭のぶにわねんために、「如何いかがで?」とたずねた。

 すると市田いちだ勘解由かげゆ愈愈いよいよを、それも爛爛らんらんかがやかせて、章以あきしげ信庭のぶにわ予期よきしたとおりのこたえをかえした。

「されば大納言だいなごんさま東海とうかいにてにわかに発病はつびょう、それも腹痛ふくつうたおれられたそうだっ!」
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