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序章 最終回前篇 安永8年2月21日 ~次期将軍・家基昇天までのカウントダウン~
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【午前8時30頃、西之丸奥之番衆詰所】
「御膳にござります…」
御膳番の小納戸の石谷次郎左衛門清定の声が響いた。
すると部屋の主とも言うべき奥之番の小納戸の中野虎之助清翰が顔を覗かせ、石谷次郎左衛門の前に立つと、
「確かに…」
虎之助は次郎左衛門にそう告げると、次郎左衛門が両手でもって恭しく掲げていた膳、次期将軍・家基が食する二の膳を受取った。
ちなみに一の膳は大奥にて用意される。それと言うのも一の膳はここ西之丸における大奥の女主とも言うべき、家基の婚約者、さしずめ次期御台所である種姫が食するそれと同じだからだ。
だが二の膳は違い、家基が食するそれが吸物と焼魚であるのに対して、種姫が食するそれは豆腐や卵の汁物に鯛の焼物であるからだ。
そこで家基と種姫が共に食する一の膳、即ち、飯と汁に刺身と酢の物の向付、煮物だけは大奥で用意して貰い、二の膳だけは御膳番の小納戸が奥之番の小納戸を介して大奥へと運ばれる。
奥之番の小納戸は日頃より大奥の奥女中、それも御錠口と打合わせをする為に、大奥との接触が多い。
尤も、その奥之番の小納戸にしても大奥の御殿向、所謂、「女の園」にまで足を踏み入れることは到底、許されず、その手前、それも遥か手前の、中奥と大奥とを繋ぐ上御鈴廊下、その廊下上にある御鈴番所までである。御鈴番所は御錠口の詰所であり、そこで奥之番の小納戸は御錠口と種々の打合わせを行う。
ちなみに今の様に家基が大奥にて食する御膳について、その移送は下御鈴廊下が使われることになる。
それと言うのも奥之番衆の詰所は下御鈴廊下に近い場所に設えられており、それ以上に、御膳を温め直したり、盛付け直したりする奥御膳所に近いから、という実際的な理由による。
「ふっ…、相変わらずですな…」
虎之助は次郎左衛門より受取った二の膳を両手で掲げながら、次郎左衛門の顔をまじまじと見つめるや、そう告げた。
次郎左衛門にとって虎之助のその言葉は予期せぬものであり、思わず「なに」と声を荒げた。
「その目ですよ」
「俺の目が如何致したと申すのだ?」
「まるでこの俺が大奥にて大納言様がお召上がりになられるこの二の膳に毒でも仕込むのではないか…、そんな猜疑に満ちた目と申すものにて…」
図星であった。如何にも次郎左衛門は「大納言様」こと家基が大奥にて食する二の膳に虎之助が、と言うよりは奥之番衆なら皆、一服盛るのではないかと、そう疑っていた。
それと言うのも中野虎之助を含めて奥之番の小納戸は皆、御三卿の一橋家とは何らかの所縁を持つ者ばかりであったからだ。
「どうやら図星の様ですな…、まぁ、それ程までにお疑いでしたら、俺の後をついて参られよ…」
「なに?」
「無論、下御鈴廊下までですが、そこまでついて参られよ…、この俺が大納言様がお召上がりになられる二の膳に果たして一服盛るのか否か、その目で確と見届けられたら宜しかろう…」
【午前8時45分頃、西之丸下御鈴廊下】
中野虎之助は石谷次郎左衛門を随えて下御鈴廊下をゆっくりと進んだ。その中程には次期将軍・家基に附属する年寄の初崎が待受けていた。
家基が大奥にて食事を摂る際、特に今日の様に鷹狩りの日の朝に限り、大奥にて朝餉を摂る際には、奥之番の小納戸が運んで来た朝餉、その二の膳を受取る大奥側の奥女中は初崎との仕来りが確立していた。
虎之助は初崎の手前で立止まると、両手で恭しく掲げていた二の膳を初崎へとこれまた恭しく差出した。
それに対して初崎もまた、「確かに…」と告げて虎之助より二の膳を受取ると、虎之助の背後に立つ次郎左衛門へと視線を転じて、「彼の者は?」と尋ねた。
無論、初崎もそれが御膳番の小納戸である石谷次郎左衛門であることは承知しており、初崎が尋ねているのは、
「何故に奥之番の小納戸しか通ることの許されてはいない、ここ下御鈴廊下に御膳番の小納戸である石谷次郎左衛門の姿があるのか…」
その点であった。
虎之助にしても初崎のその真意は読取れたので、
「さればこれなる石谷殿はどうやら、この虎之助めが畏れ多くもここ大奥にて大納言様がお召上がりになられしそれなる朝餉…、二の膳に一服盛るのではあるまいかと、斯様に疑われている由にて…、それなればと…」
この俺が家基の食事に毒でも盛らないようしっかり監視したら良いだろうと、ついて来る様、命じたのだと、虎之助は初崎に打明けたのであった。
「左様であったか…」
初崎は合点した。
「されば大奥法度に反して石谷殿がこの下御鈴廊下に立入りましたる罪は偏にこの虎之助にありますれば、何卒、石谷殿にはお咎めなき様に…、あくまで大納言様への忠義の心より出たことなれば…」
虎之助は殊勝にもそう言ってのけた。いや、勿論、厭味であり、次郎左衛門もそうと気付いて実に苦々しげな表情を浮かべた。
「いや、大奥法度に反しているとは申せ、たかだか下御鈴廊下に立入りし程度のこと、殊更、問題にするつもりはない…、ましてやそれが大納言様への忠義の心より出たことなれば尚更にのう…」
初崎もまた、虎之助に負けじと厭味を放つと、次郎左衛門へと目を転じ、「だが、のう…、石谷殿…」と切出し、
「この初崎は畏れ多くも大納言様の乳母を務め、今では大納言様に仕え奉りし年寄なれば誰よりも大納言様が上様に…、十一代様におなりあそばされしことを望んでおり、虎之助は…、これなる中野虎之助はその私めが甥ぞ…、されば虎之助もまた、大納言様が十一代様におなりあそばされることを誰よりも望んでいようぞ…」
初崎は次郎左衛門を諭す様にそう告げたのであった。
一方、次郎左衛門としてもそう言われれば正しくその通りであり、ぐうの音も出なかった。
初崎は次郎左衛門のその様子を見て取ると、
「まぁ…、その忠義の心で本日の大納言様が御放鷹に扈従されるが宜しかろう…」
実に勝誇った様子でそう言放った。
【午前8時50分頃、奥御膳所】
家基がこれより食することになる二の膳を掲げた初崎が現れると、砂野と笹岡の二人が叩頭してこれを出迎えた。
砂野と笹岡は家基に附属する御客応答であり、今朝の様に、或いは昼食や夕食を家基がここ大奥にて婚約者である種姫と共に摂る場合には、御客応答が毒見を務める。
ここ奥御膳所にて温め直された料理は中年寄が毒見を担う。
大奥にて御台所をはじめとする姫君が食する料理は廣敷御膳所台所にて調理され、出来上がった料理はまず、台所頭が大奥の警備部門のトップである廣敷番之頭の監視下で毒見をする訳だが、ここ奥御膳所において中年寄の手により、もう一度、その料理が温め直されることになるので、もう一度、毒見をすることになり、それを担うのもまた中年寄であった。
だが中年寄は姫君にのみ附属し、将軍や、或いは家基の様な次期将軍には存しない役職であった。
そこで将軍や、或いは次期将軍が大奥にて食事を摂る際には御客応答が毒見を担う。
御客応答は中年寄とは逆に、将軍や次期将軍にのみ附属し、また、職階という観点からも、御客応答は中年寄に相当する。
家基附の御客応答は現在、砂野と笹岡を含めて4人おり、残る2人は花川、山野であり、花川と山野の二人は今頃は大奥に渡っているであろう家基の接遇に当たっている筈であった。
御客応答の職掌としてまず挙げられるのは、将軍や次期将軍が大奥へと御成の際の接遇である。
この西之丸の大奥においては、それも食事を摂るべく大奥へと渡った次期将軍たる家基の接遇に当たるのは2人の御客応答であり、残る2人の御客応答が中奥より運ばれてきた家基の食事、二の膳を温め直し、毒見を務めることになっていた。
それが今日は砂野と笹岡が毒見を務めることになっており、それを監視するのが老女、家基附の年寄の初崎の仕事であった。
初崎は砂野に目配せすると、砂野も頷き、懐中より二つの小壜を取出した。それは昨日、薩摩藩松平こと島津家よりここ西之丸大奥へと差向けられた公儀奥女遣の平野より差入れられたものであった。
御三家や御三卿、或いは御家門に仕える女中が公儀奥女遣として大奥を訪れた場合、これを接遇するのもまた、御客応答の仕事であった。
薩摩藩島津家は御三家や御三卿でもなければ、御家門でもなく、本来ならば女中を大奥へと差向けることは許されない。
女中を公儀奥女遣として大奥に差向けられるのはあくまで、御三家と御三卿、それに御家門に限られていたからだ。
だが薩摩藩では五代目の繼豊が八代将軍・吉宗の養女である竹姫を正室に迎えたことから、御家門に准じた扱いを受け、島津家に仕える女中を公儀奥女遣として大奥に差向けることが許される様になった。
ちなみに薩摩藩島津家とは「対抗」関係にある仙台藩松平こと伊達家もまた、先代の宗村が同じく八代将軍吉宗の養女である利根姫を正室として迎えたことから、仙台藩に仕える女中を公儀奥女遣として大奥へと差向けられる様になった。
ともあれ昨日は薩摩藩島津家より平野が公儀奥女遣として西之丸大奥を訪れ、接遇に当たった山野に二つの小壜を託したのであった。
山野はそれを今朝まで大事に持ち続け、それを今朝、砂野に渡し、今に至る。
その二つの小壜だが、片方は粉末が詰込まれており、もう片方には液体が詰込まれていた。
砂野は初崎からの目配せを受け、囲炉裏で温め直した二の膳を毒見はせずに、その代わりに吸物に二つの小壜の中身を混入、それを笹岡も黙過した。
【午前9時15分頃、御休息之間】
種姫の前には既に一の膳と二の膳が用意されており、しかし、種姫の隣に座る家基の前には一の膳のみが用意されているだけで、二の膳はまだであった。
するとそこへ、初崎が二の膳を恭しく両手で掲げた砂野と笹岡の二人を随えて姿を見せた。
初崎は砂野と笹岡を促し、二の膳を家基の前に置かせた。
こうして家基の膳も調ったところで、飯櫃の蓋が開けられた。
湯気が立ち昇る中、その飯をよそうのは種姫に附属する中年寄の萩こと栲子である。
家基の婚約者である種姫はここ西之丸の大奥入りを果たす前までは生家である田安館にて暮らしており、その際、種姫に仕えていたのが栲子であり、栲子が種姫が次期将軍・家基の婚約者として西之丸大奥入りを果たしたのに伴い、栲子もこれに随い、大奥においては栲子は種姫附の中年寄に取立てられたことから、名を栲子から萩へと改めたのであった。
その萩こと栲子が中年寄として、種姫の食事の毒見の傍ら、給仕をも担う。
今日は家基もおり、そこで萩はまず、家基の飯から先によそった。
「ああ、山盛りにの…」
飯をよそう萩に種姫がそう声をかけた。
「鷹狩りは戦も同然にて、されば腹ごしらえを欠かしてはなりませぬ…」
種姫は実に男勝りな姫君であった。
「心得ておりまする…」
萩は山盛りに飯をよそうと、家基の一の膳にそれを置いた。
「種、お前も、たんと食わねばならぬぞ?」
家基は種姫にそう告げることで、萩に種姫の飯も山盛りにする様、促した。
すると陪席していた種姫附の年寄の向坂が、「それは無作法にて…」と制した。
向坂もまた、萩と同じく田安館にて、種姫に老女として仕えていた。
それが種姫が家基の婚約者として西之丸大奥入りを果たすことから、種姫の養母である寶蓮院は、
「信頼の置ける者を老女に…」
そう考え、そこで向坂をそのまま、種姫附の老女として大奥に上がらせることにしたのだ。
尚、この時―、種姫が次期将軍家基の婚約者として、西之丸大奥に上がる際、種姫に随った者は向坂やそれに萩に止まらない。
今、種姫に老女、年寄として仕えているのは向坂一人であった。
次期将軍の婚約者に仕える年寄が一人とは些か、少な過ぎる様にも思われ、一橋治済などからは、
「もし宜しければ当家より、年寄を派しても良いぞ?」
一橋館の大奥に仕える奥女中を種姫附の年寄として派遣してやっても良いぞと、涙が出る程、有難い申出が寶蓮院になされ、それに対して寶蓮院が即座にこれを拒絶したという経緯もあった。
寶蓮院がそうまでして、種姫附の年寄を、それも実権のある武家系の年寄を向坂一人に絞ったのかと言うと、
「少数精鋭…」
端的に言えばそれであった。
寶蓮院としては大事な養女、いや、我子も同然の種姫を大奥へと手放す以上は、大奥にて種姫に仕える者は、それも種姫の身の回りにて仕える者は己が最も信頼する者でなければならず、それ故、一橋館の大奥にて仕える奥女中など論外である。
その為、寶蓮院は田安館の大奥にて種姫に仕えていた者たちを、御城西之丸の大奥へと移る種姫の奥女中としてそのまま仕えさせることとした。
謂わば、田安館の大奥生抜の奥女中で種姫の周囲を固めることとし、それに選ばれたのが向坂や萩であり、また、笹本や池原、それに峯野や勝野、和田や常見、堀尾や木本といった面々であった。
その向坂は種姫の行儀指南役として、その一挙手一投足に目を光らせていた。
その様な向坂であるので、種姫が山盛りの飯を喰らうなど、到底、容認出来ぬところであった。
姫君たる者、大食など以ての外…、それが向坂の「常識」であり、それは大奥の仕来りとも合致する。
だが家基はそんな大奥の仕来りが好きではなかった。いや、はっきり言って嫌いであった。
「いや、俺は種には元気でいてもらいたいのだ…、いずれは俺の子供を生んで貰わねばならぬでな…、それ故、種にはたんと、喰って貰いたいのだ…」
家基のその歳に似合わぬ随分と大人びた発言に種姫は顔を赤らめた。
いや、向坂や萩にしてもそれは同様であった。
向坂や萩も家基がよもやそんな大人びた発言をしようとは予期しておらず、不意打ちを喰らった格好であり、二人もまた思わず顔を赤らめた。
だからと言って、向坂としても種姫の行儀指南役として、引下がる訳にはゆかなかった。
「なれど、それは無作法と申すものにて…」
向坂は家基にそう繰返した。
正に頑なであり、家基は向坂のその様な頑なな態度を目の当たりにして、大奥で朝食を摂ることになった時のことを思い出した。
即ち、鷹狩りの日の朝に限って、家基が大奥にて種姫と朝食を摂ることについて、これに真向から異を唱えた、と言うよりは反対して見せたのは外ならぬ向坂であったからだ。この時も向坂は、
「大納言様が大奥にて朝餉をお摂りあそばされますなど、凡そ前例がありませぬゆえ…」
そう大奥における前例、仕来りといったものを盾に反対した経緯があり、この時は初崎が何とか向坂を説伏せた。
「向坂よ…、俺の前では種には腹一杯、食って欲しい。遠慮する種の姿は見たくはないのだ…、それ故、頼む。種には腹一杯、喰わせてやってくれ…」
家基は向坂に頭まで下げて頼んだのであった。
これにはさしもの向坂も慌てた。それはそうだろう。次期将軍に頭を下げさせるなど、それこそ行儀に反するというものである。
ともあれ家基にここまで言われては向坂としても、これ以上、反対することは出来なかった。
萩もそうと見て取ると、山盛りにした。
「それでは喰おうか…」
萩が種姫の前に飯が山盛りに盛られた茶碗を置くと、家基は種姫にそう告げた。
「はい…」
種姫は実に嬉しげに応ずると、本来ならばまずは汁物で舌を滑らせるべきところ、いきなり山盛りの飯に喰らいついた。
食べ方までもが男勝りな種姫に、家基は実に清清しいものを感じた。
「種と共にする食事は実に旨く感じられるものよ…」
家基は自然とそんな本音を口にしていた。
「私めも、貴方様との食事は美味に感じられます…」
種姫もきっぱりとした口調でそう断言した。種姫は正に明朗であり、家基はその様な種姫を己の婚約者と定めてくれた父・家治に大いに感謝した。
「そうか…、おお、そうだ。俺の膳も食うか?」
家基はおかずをも種姫に勧めようとしたが、するとそれは流石に大上臈の梅薗が制した。
「それは余りに無作法…」
家基もこの大上臈の梅薗には敵わない。
それと言うのも梅薗は家基が祖父、九代将軍・家重がまだ将軍世子としてこの西之丸にて暮らしていた頃より、家重の正室、増子附の上臈年寄としてここ、西之丸大奥にて仕え、その後、西之丸の主が大御所・吉宗に代わっても梅薗はやはり、西之丸大奥に上臈年寄として留まり続け、今に至る。
それ故、さしもの家基も、いや、家基だけではない、恐らくは家治にしてもそうであろう、梅薗は怖い存在であった。
その梅薗に、「無作法」と断じられては家基としても己のおかずを婚約者である種姫に分け与えるのは断念せざるを得なかった。
するとこの様子に初崎や砂野、笹岡、それに花川や山野は元より、家基附のもう一人の年寄である梅岡までもがホッとした様子を浮かべた。
「御膳にござります…」
御膳番の小納戸の石谷次郎左衛門清定の声が響いた。
すると部屋の主とも言うべき奥之番の小納戸の中野虎之助清翰が顔を覗かせ、石谷次郎左衛門の前に立つと、
「確かに…」
虎之助は次郎左衛門にそう告げると、次郎左衛門が両手でもって恭しく掲げていた膳、次期将軍・家基が食する二の膳を受取った。
ちなみに一の膳は大奥にて用意される。それと言うのも一の膳はここ西之丸における大奥の女主とも言うべき、家基の婚約者、さしずめ次期御台所である種姫が食するそれと同じだからだ。
だが二の膳は違い、家基が食するそれが吸物と焼魚であるのに対して、種姫が食するそれは豆腐や卵の汁物に鯛の焼物であるからだ。
そこで家基と種姫が共に食する一の膳、即ち、飯と汁に刺身と酢の物の向付、煮物だけは大奥で用意して貰い、二の膳だけは御膳番の小納戸が奥之番の小納戸を介して大奥へと運ばれる。
奥之番の小納戸は日頃より大奥の奥女中、それも御錠口と打合わせをする為に、大奥との接触が多い。
尤も、その奥之番の小納戸にしても大奥の御殿向、所謂、「女の園」にまで足を踏み入れることは到底、許されず、その手前、それも遥か手前の、中奥と大奥とを繋ぐ上御鈴廊下、その廊下上にある御鈴番所までである。御鈴番所は御錠口の詰所であり、そこで奥之番の小納戸は御錠口と種々の打合わせを行う。
ちなみに今の様に家基が大奥にて食する御膳について、その移送は下御鈴廊下が使われることになる。
それと言うのも奥之番衆の詰所は下御鈴廊下に近い場所に設えられており、それ以上に、御膳を温め直したり、盛付け直したりする奥御膳所に近いから、という実際的な理由による。
「ふっ…、相変わらずですな…」
虎之助は次郎左衛門より受取った二の膳を両手で掲げながら、次郎左衛門の顔をまじまじと見つめるや、そう告げた。
次郎左衛門にとって虎之助のその言葉は予期せぬものであり、思わず「なに」と声を荒げた。
「その目ですよ」
「俺の目が如何致したと申すのだ?」
「まるでこの俺が大奥にて大納言様がお召上がりになられるこの二の膳に毒でも仕込むのではないか…、そんな猜疑に満ちた目と申すものにて…」
図星であった。如何にも次郎左衛門は「大納言様」こと家基が大奥にて食する二の膳に虎之助が、と言うよりは奥之番衆なら皆、一服盛るのではないかと、そう疑っていた。
それと言うのも中野虎之助を含めて奥之番の小納戸は皆、御三卿の一橋家とは何らかの所縁を持つ者ばかりであったからだ。
「どうやら図星の様ですな…、まぁ、それ程までにお疑いでしたら、俺の後をついて参られよ…」
「なに?」
「無論、下御鈴廊下までですが、そこまでついて参られよ…、この俺が大納言様がお召上がりになられる二の膳に果たして一服盛るのか否か、その目で確と見届けられたら宜しかろう…」
【午前8時45分頃、西之丸下御鈴廊下】
中野虎之助は石谷次郎左衛門を随えて下御鈴廊下をゆっくりと進んだ。その中程には次期将軍・家基に附属する年寄の初崎が待受けていた。
家基が大奥にて食事を摂る際、特に今日の様に鷹狩りの日の朝に限り、大奥にて朝餉を摂る際には、奥之番の小納戸が運んで来た朝餉、その二の膳を受取る大奥側の奥女中は初崎との仕来りが確立していた。
虎之助は初崎の手前で立止まると、両手で恭しく掲げていた二の膳を初崎へとこれまた恭しく差出した。
それに対して初崎もまた、「確かに…」と告げて虎之助より二の膳を受取ると、虎之助の背後に立つ次郎左衛門へと視線を転じて、「彼の者は?」と尋ねた。
無論、初崎もそれが御膳番の小納戸である石谷次郎左衛門であることは承知しており、初崎が尋ねているのは、
「何故に奥之番の小納戸しか通ることの許されてはいない、ここ下御鈴廊下に御膳番の小納戸である石谷次郎左衛門の姿があるのか…」
その点であった。
虎之助にしても初崎のその真意は読取れたので、
「さればこれなる石谷殿はどうやら、この虎之助めが畏れ多くもここ大奥にて大納言様がお召上がりになられしそれなる朝餉…、二の膳に一服盛るのではあるまいかと、斯様に疑われている由にて…、それなればと…」
この俺が家基の食事に毒でも盛らないようしっかり監視したら良いだろうと、ついて来る様、命じたのだと、虎之助は初崎に打明けたのであった。
「左様であったか…」
初崎は合点した。
「されば大奥法度に反して石谷殿がこの下御鈴廊下に立入りましたる罪は偏にこの虎之助にありますれば、何卒、石谷殿にはお咎めなき様に…、あくまで大納言様への忠義の心より出たことなれば…」
虎之助は殊勝にもそう言ってのけた。いや、勿論、厭味であり、次郎左衛門もそうと気付いて実に苦々しげな表情を浮かべた。
「いや、大奥法度に反しているとは申せ、たかだか下御鈴廊下に立入りし程度のこと、殊更、問題にするつもりはない…、ましてやそれが大納言様への忠義の心より出たことなれば尚更にのう…」
初崎もまた、虎之助に負けじと厭味を放つと、次郎左衛門へと目を転じ、「だが、のう…、石谷殿…」と切出し、
「この初崎は畏れ多くも大納言様の乳母を務め、今では大納言様に仕え奉りし年寄なれば誰よりも大納言様が上様に…、十一代様におなりあそばされしことを望んでおり、虎之助は…、これなる中野虎之助はその私めが甥ぞ…、されば虎之助もまた、大納言様が十一代様におなりあそばされることを誰よりも望んでいようぞ…」
初崎は次郎左衛門を諭す様にそう告げたのであった。
一方、次郎左衛門としてもそう言われれば正しくその通りであり、ぐうの音も出なかった。
初崎は次郎左衛門のその様子を見て取ると、
「まぁ…、その忠義の心で本日の大納言様が御放鷹に扈従されるが宜しかろう…」
実に勝誇った様子でそう言放った。
【午前8時50分頃、奥御膳所】
家基がこれより食することになる二の膳を掲げた初崎が現れると、砂野と笹岡の二人が叩頭してこれを出迎えた。
砂野と笹岡は家基に附属する御客応答であり、今朝の様に、或いは昼食や夕食を家基がここ大奥にて婚約者である種姫と共に摂る場合には、御客応答が毒見を務める。
ここ奥御膳所にて温め直された料理は中年寄が毒見を担う。
大奥にて御台所をはじめとする姫君が食する料理は廣敷御膳所台所にて調理され、出来上がった料理はまず、台所頭が大奥の警備部門のトップである廣敷番之頭の監視下で毒見をする訳だが、ここ奥御膳所において中年寄の手により、もう一度、その料理が温め直されることになるので、もう一度、毒見をすることになり、それを担うのもまた中年寄であった。
だが中年寄は姫君にのみ附属し、将軍や、或いは家基の様な次期将軍には存しない役職であった。
そこで将軍や、或いは次期将軍が大奥にて食事を摂る際には御客応答が毒見を担う。
御客応答は中年寄とは逆に、将軍や次期将軍にのみ附属し、また、職階という観点からも、御客応答は中年寄に相当する。
家基附の御客応答は現在、砂野と笹岡を含めて4人おり、残る2人は花川、山野であり、花川と山野の二人は今頃は大奥に渡っているであろう家基の接遇に当たっている筈であった。
御客応答の職掌としてまず挙げられるのは、将軍や次期将軍が大奥へと御成の際の接遇である。
この西之丸の大奥においては、それも食事を摂るべく大奥へと渡った次期将軍たる家基の接遇に当たるのは2人の御客応答であり、残る2人の御客応答が中奥より運ばれてきた家基の食事、二の膳を温め直し、毒見を務めることになっていた。
それが今日は砂野と笹岡が毒見を務めることになっており、それを監視するのが老女、家基附の年寄の初崎の仕事であった。
初崎は砂野に目配せすると、砂野も頷き、懐中より二つの小壜を取出した。それは昨日、薩摩藩松平こと島津家よりここ西之丸大奥へと差向けられた公儀奥女遣の平野より差入れられたものであった。
御三家や御三卿、或いは御家門に仕える女中が公儀奥女遣として大奥を訪れた場合、これを接遇するのもまた、御客応答の仕事であった。
薩摩藩島津家は御三家や御三卿でもなければ、御家門でもなく、本来ならば女中を大奥へと差向けることは許されない。
女中を公儀奥女遣として大奥に差向けられるのはあくまで、御三家と御三卿、それに御家門に限られていたからだ。
だが薩摩藩では五代目の繼豊が八代将軍・吉宗の養女である竹姫を正室に迎えたことから、御家門に准じた扱いを受け、島津家に仕える女中を公儀奥女遣として大奥に差向けることが許される様になった。
ちなみに薩摩藩島津家とは「対抗」関係にある仙台藩松平こと伊達家もまた、先代の宗村が同じく八代将軍吉宗の養女である利根姫を正室として迎えたことから、仙台藩に仕える女中を公儀奥女遣として大奥へと差向けられる様になった。
ともあれ昨日は薩摩藩島津家より平野が公儀奥女遣として西之丸大奥を訪れ、接遇に当たった山野に二つの小壜を託したのであった。
山野はそれを今朝まで大事に持ち続け、それを今朝、砂野に渡し、今に至る。
その二つの小壜だが、片方は粉末が詰込まれており、もう片方には液体が詰込まれていた。
砂野は初崎からの目配せを受け、囲炉裏で温め直した二の膳を毒見はせずに、その代わりに吸物に二つの小壜の中身を混入、それを笹岡も黙過した。
【午前9時15分頃、御休息之間】
種姫の前には既に一の膳と二の膳が用意されており、しかし、種姫の隣に座る家基の前には一の膳のみが用意されているだけで、二の膳はまだであった。
するとそこへ、初崎が二の膳を恭しく両手で掲げた砂野と笹岡の二人を随えて姿を見せた。
初崎は砂野と笹岡を促し、二の膳を家基の前に置かせた。
こうして家基の膳も調ったところで、飯櫃の蓋が開けられた。
湯気が立ち昇る中、その飯をよそうのは種姫に附属する中年寄の萩こと栲子である。
家基の婚約者である種姫はここ西之丸の大奥入りを果たす前までは生家である田安館にて暮らしており、その際、種姫に仕えていたのが栲子であり、栲子が種姫が次期将軍・家基の婚約者として西之丸大奥入りを果たしたのに伴い、栲子もこれに随い、大奥においては栲子は種姫附の中年寄に取立てられたことから、名を栲子から萩へと改めたのであった。
その萩こと栲子が中年寄として、種姫の食事の毒見の傍ら、給仕をも担う。
今日は家基もおり、そこで萩はまず、家基の飯から先によそった。
「ああ、山盛りにの…」
飯をよそう萩に種姫がそう声をかけた。
「鷹狩りは戦も同然にて、されば腹ごしらえを欠かしてはなりませぬ…」
種姫は実に男勝りな姫君であった。
「心得ておりまする…」
萩は山盛りに飯をよそうと、家基の一の膳にそれを置いた。
「種、お前も、たんと食わねばならぬぞ?」
家基は種姫にそう告げることで、萩に種姫の飯も山盛りにする様、促した。
すると陪席していた種姫附の年寄の向坂が、「それは無作法にて…」と制した。
向坂もまた、萩と同じく田安館にて、種姫に老女として仕えていた。
それが種姫が家基の婚約者として西之丸大奥入りを果たすことから、種姫の養母である寶蓮院は、
「信頼の置ける者を老女に…」
そう考え、そこで向坂をそのまま、種姫附の老女として大奥に上がらせることにしたのだ。
尚、この時―、種姫が次期将軍家基の婚約者として、西之丸大奥に上がる際、種姫に随った者は向坂やそれに萩に止まらない。
今、種姫に老女、年寄として仕えているのは向坂一人であった。
次期将軍の婚約者に仕える年寄が一人とは些か、少な過ぎる様にも思われ、一橋治済などからは、
「もし宜しければ当家より、年寄を派しても良いぞ?」
一橋館の大奥に仕える奥女中を種姫附の年寄として派遣してやっても良いぞと、涙が出る程、有難い申出が寶蓮院になされ、それに対して寶蓮院が即座にこれを拒絶したという経緯もあった。
寶蓮院がそうまでして、種姫附の年寄を、それも実権のある武家系の年寄を向坂一人に絞ったのかと言うと、
「少数精鋭…」
端的に言えばそれであった。
寶蓮院としては大事な養女、いや、我子も同然の種姫を大奥へと手放す以上は、大奥にて種姫に仕える者は、それも種姫の身の回りにて仕える者は己が最も信頼する者でなければならず、それ故、一橋館の大奥にて仕える奥女中など論外である。
その為、寶蓮院は田安館の大奥にて種姫に仕えていた者たちを、御城西之丸の大奥へと移る種姫の奥女中としてそのまま仕えさせることとした。
謂わば、田安館の大奥生抜の奥女中で種姫の周囲を固めることとし、それに選ばれたのが向坂や萩であり、また、笹本や池原、それに峯野や勝野、和田や常見、堀尾や木本といった面々であった。
その向坂は種姫の行儀指南役として、その一挙手一投足に目を光らせていた。
その様な向坂であるので、種姫が山盛りの飯を喰らうなど、到底、容認出来ぬところであった。
姫君たる者、大食など以ての外…、それが向坂の「常識」であり、それは大奥の仕来りとも合致する。
だが家基はそんな大奥の仕来りが好きではなかった。いや、はっきり言って嫌いであった。
「いや、俺は種には元気でいてもらいたいのだ…、いずれは俺の子供を生んで貰わねばならぬでな…、それ故、種にはたんと、喰って貰いたいのだ…」
家基のその歳に似合わぬ随分と大人びた発言に種姫は顔を赤らめた。
いや、向坂や萩にしてもそれは同様であった。
向坂や萩も家基がよもやそんな大人びた発言をしようとは予期しておらず、不意打ちを喰らった格好であり、二人もまた思わず顔を赤らめた。
だからと言って、向坂としても種姫の行儀指南役として、引下がる訳にはゆかなかった。
「なれど、それは無作法と申すものにて…」
向坂は家基にそう繰返した。
正に頑なであり、家基は向坂のその様な頑なな態度を目の当たりにして、大奥で朝食を摂ることになった時のことを思い出した。
即ち、鷹狩りの日の朝に限って、家基が大奥にて種姫と朝食を摂ることについて、これに真向から異を唱えた、と言うよりは反対して見せたのは外ならぬ向坂であったからだ。この時も向坂は、
「大納言様が大奥にて朝餉をお摂りあそばされますなど、凡そ前例がありませぬゆえ…」
そう大奥における前例、仕来りといったものを盾に反対した経緯があり、この時は初崎が何とか向坂を説伏せた。
「向坂よ…、俺の前では種には腹一杯、食って欲しい。遠慮する種の姿は見たくはないのだ…、それ故、頼む。種には腹一杯、喰わせてやってくれ…」
家基は向坂に頭まで下げて頼んだのであった。
これにはさしもの向坂も慌てた。それはそうだろう。次期将軍に頭を下げさせるなど、それこそ行儀に反するというものである。
ともあれ家基にここまで言われては向坂としても、これ以上、反対することは出来なかった。
萩もそうと見て取ると、山盛りにした。
「それでは喰おうか…」
萩が種姫の前に飯が山盛りに盛られた茶碗を置くと、家基は種姫にそう告げた。
「はい…」
種姫は実に嬉しげに応ずると、本来ならばまずは汁物で舌を滑らせるべきところ、いきなり山盛りの飯に喰らいついた。
食べ方までもが男勝りな種姫に、家基は実に清清しいものを感じた。
「種と共にする食事は実に旨く感じられるものよ…」
家基は自然とそんな本音を口にしていた。
「私めも、貴方様との食事は美味に感じられます…」
種姫もきっぱりとした口調でそう断言した。種姫は正に明朗であり、家基はその様な種姫を己の婚約者と定めてくれた父・家治に大いに感謝した。
「そうか…、おお、そうだ。俺の膳も食うか?」
家基はおかずをも種姫に勧めようとしたが、するとそれは流石に大上臈の梅薗が制した。
「それは余りに無作法…」
家基もこの大上臈の梅薗には敵わない。
それと言うのも梅薗は家基が祖父、九代将軍・家重がまだ将軍世子としてこの西之丸にて暮らしていた頃より、家重の正室、増子附の上臈年寄としてここ、西之丸大奥にて仕え、その後、西之丸の主が大御所・吉宗に代わっても梅薗はやはり、西之丸大奥に上臈年寄として留まり続け、今に至る。
それ故、さしもの家基も、いや、家基だけではない、恐らくは家治にしてもそうであろう、梅薗は怖い存在であった。
その梅薗に、「無作法」と断じられては家基としても己のおかずを婚約者である種姫に分け与えるのは断念せざるを得なかった。
するとこの様子に初崎や砂野、笹岡、それに花川や山野は元より、家基附のもう一人の年寄である梅岡までもがホッとした様子を浮かべた。
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