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序章 一橋治済の計算と誤算 ~次期将軍・家基昇天までのカウントダウン~
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「左様か…、やはり意致めは、勝富共々、家治より斯かる内命を受けておったか…」
一橋館の大奥、それも「女の園」である御殿向の茶室にて、治済は茜の報せを受けるなり、そう感想を漏らした。
茜とはここ、一橋館に仕える侍女であるが、しかし、ただの侍女ではない。
茜はここ一橋館に仕える家臣全ての言動を監視し、治済に報告するのを職掌としており、さしずめ一橋家における「御庭番」の様な存在であった。
事実、茜は御庭番の血を引いていた。
即ち、茜はかつては御庭番を勤め、今は西之丸にて廣敷番之頭を勤める中村久兵衛信興の娘であるのだ。
また、兄にして嫡子の久左衛門信之は現役の御庭番であり、御庭番の中でも、「一橋派」として、同じく「一橋派」の御側御用取次の稲葉正明の指示により動くことが、つまりは「隠密御用」を務めることが多かった。
その様な訳で、茜は今しがたまで、意致と勝富とのやり取りをも、「盗聴」してはそれを治済に伝えたのだ。
「されば、お望み通り、尻尾を出してやろうではあるまいか…」
治済はそう呟くと、茜に雛を連れて来る様に命じた。
雛もまた、ここ一橋館に仕える侍女であった。
それから間もなくして、茜が雛を連れて治済の許へと戻って来た。
「雛よ、近う…」
茶室の出入口の傍で控えていた雛を治済は手招きした。
それで雛も治済の許へと近付くと同時に、茜も外側から茶室の障子を閉めた。
「雛よ…、新たに家老として、田沼市左衛門が着任せしことは存じておるな?」
治済が問うと、雛は「はい」と応じた。
「されば田沼市左衛門は、既に家老として着任せし水谷但馬共々、この治済を徹底的に監視する腹積もりの様なのだ…」
「徹底的に監視、でござりまするか?」
雛は怪訝な表情を浮かべてそう問返した。
「左様…、さればこの治済が西之丸の大納言様を害し奉り、我子、豊千代を大納言様に代わる次期将軍に据え様としているのではあるまいかと、左様に思召されてのことらしいのだ…」
「何と…」
雛は驚きの表情を作ると、両手を口に当てもした。
「そは…、公方様が左様に思召されているのは真でござりまするか?」
「真よ…、されば此度の人事に関わりし、御用取次の稲葉越中より齎されし情報にて…」
「御側御用取次の稲葉越中守殿…、ああ、上様とは親しくしておられる…」
その稲葉越中守こと正明より齎された情報であるならばと、雛は合点がいった様子であった。
「そしてそれは事実なのだ…」
治済は雛にそうも打明けるや、雛は愈愈もって驚いた様で目を大きく見開いた。
「事実とは、それは…」
雛は恐る恐る尋ねた。
「さればこの治済はの、如何にも大納言様を害し奉り、我子、豊千代を大納言様に代わる次期将軍に据えるつもりなのだ…、その為に西之丸にて大納言様に小納戸として仕え奉りし高島安三郎を使嗾して、大納言様のお命を頂く所存にて…」
雛は驚きの余り、最早何も反応出来ずにいた。
「いや、何故に雛に斯様なる秘事を打明けるのかと申すとな…、それは雛を信じてのことなのだ…」
「私めを、お信じあそばされて、と?」
「左様…、されば田沼市左衛門より聞出して貰いたいのだ…、上様は今後、如何に動かれるのかを…、上様は田沼市左衛門を殊の外…、それこそ水谷但馬以上に信頼あそばされている由にて、されば、水谷但馬には打明けなかったことも田沼市左衛門には打明けているやも知れず…」
「それをこの雛が聞出せば宜しいのでござりまするか?」
「左様…、やってくれるか?」
「無論のこと…、なれど如何にして聞出せば宜しいものやら…」
雛は悩んでいる様子を浮かべた。
「されば…、申し難いのだが…、湯女として聞出しては貰えまいか…」
「湯女…、されば田沼殿は好色漢にて?」
雛のその、あけすけな問いかけに治済も流石に苦笑を浮かべたものの、「左様」と首肯した。
「何しろ子福者であるからのう…」
子沢山イコール女好きとは随分と偏見ではあったが、雛は納得した様子であった。
「いや、雛に湯女などと…、汚れ役を命じるは大変、心苦しきことなれど…」
「いえ、それで上様の御役に立ち申すのであららば喜んで…」
雛が殊勝にもそう応えると、治済は実に満足気な表情を浮かべた。
「されば、市左衛門めが入浴の折にはそなたにもその旨、伝える故、それまでは心静かに待つが良い…」
治済は雛にそう命じて、雛を退出させた。
「雛は…、果たして本性を現しましょうや…」
雛が茶室より退出するなり、陪席していた家臣の岩本喜内が治済にそう問うた。
「現すともさ…、何しろ雛は清水家老の本多讃岐が娘なれば、の…」
治済が口にした通り、雛は実は本多讃岐こと本多讃岐守昌忠の実の娘であった。
これは一橋館に限った話ではなく、全ての大名家や、或いは旗本家、更に言えば大奥にも当て嵌まる話だが、奉公、就職しようと思えば必ず、宿元、身元保証人が必要であった。
雛の場合、ここ一橋館に奉公に上がる際、西之丸書院番士の朝倉甚十郎景保を宿元、身元保証人とした。
それが4年前の安永3(1774)年のことであった。
朝倉甚十郎は雛の養父との「触込み」であった。必ずや、宿元との続柄についても届けさせる。
だが大抵の大名家などでは、宿元との続柄が真正、間違いないものと確認が取れれば、それ以上、深く調べることはない。面倒だからだ。
しかしこと、ここ一橋家においては、治済はその手の面倒を厭わずに、実父についても家臣に調べさせた。
その結果、雛の実父が清水家老である本多昌忠の娘であることが判明したのだ。
それが朝倉甚十郎の養女となった経緯についても家臣に更に掘下げさせた。
その結果、雛は朝倉甚十郎の嫡子、兵次郎景房の許に嫁ぎ、しかし、安永元(1772)年に夫、兵次郎に先立たれ…、それは父、朝倉甚十郎にとっても同じことであり、ともあれ、雛は本来ならば実家である本多家へと帰るべきところ、雛の舅である、いや、舅であった甚十郎が今度は雛の養父として、育てることにしたそうな。
そして朝倉甚十郎の手元で育てられた、それも行儀作法を仕込まれた雛はここ一橋館に奉公に上がることを、就職を希望したということらしい。
だがそれなら、雛は一体、何の目的があって、ここ一橋館に奉公に上がることを望んだのか、治済はその点を穿った。それと言うのも、「面接」の際、雛は実の父については何も語らなかったからだ。
無論、特に理由はない、という可能性も考えられた。
これで雛の実の父が清水家老である本多昌忠でなかったならば、治済も恐らくは安易にそう考えたやも知れぬ。
だが実際には雛は清水家老の娘であり、しかも「面接」の際、それを黙っていたとなれば話は別である。
何か目的があるのか…、猜疑心の強い治済ならばそう穿つのが自然であった。
だが治済はその点には敢えて触れることなく、雛を採用することにしたのだ。
「雛の心底、この治済が自ら見定めてやろう…」
治済はそう考えたからだ。
そして今、正にその機会が訪れたという訳だ。
「雛が仮に、本多讃岐より差向けられし間諜なれば、必ずや、今の上様の御話…、高島安三郎を使嗾して、大納言様の御命を頂戴するとの、その御話を田沼市左衛門に伝え、その上で、大納言様の暗殺を阻止せんと、雛が田沼市左衛門に持掛けるやも知れませぬな…」
岩本喜内が治済の胸のうちを代弁してみせた。
正しくその通りであり、治済は頷いた。
いや、そればかりではない、意致を「ミスリード」させることにも繋がる。
即ち、治済が真、家基暗殺の手先として使おうとしているのは高島安三郎ではないからだ。
にもかかわらず、雛から高島安三郎の名を聞かされれば、意致は勝富共々、安三郎に注意を向けるに違いなく、それは治済にとってはそれだけ、家基の暗殺が容易となる。
そして、これは先のことだろうが、晴れて大願成就、その手始めとして家基の暗殺に成功した暁には「裏切者」の雛の口を封じるつもりであった。
その日の夕方、意致はやはり、丸山豊五郎の案内により風呂場へと向かった。
そこは大浴場と言うに相応しく、如何に意致が御三卿の家臣、一橋家の家臣の中でも頂点に立つ家老であったとしても、過分であった。
尤も、治済の「厚意」を無碍には出来ず、意致は恐縮しながら風呂場に足を踏み入れた。
そして意致が身体を洗おうとするや、人の気配がした。
湯煙で直ぐには人別がつかなかったが、やがてそれが女性であると分かった。
それも湯文字を身に纏っていることから、湯女であると直ぐに分かった。
意致はいよいよ恐縮、いや、大慌てであった。
湯女とは端的に言えば身体を洗ってくれる女のことだが、それだけではない。
少なくとも、意致を取込もうとしている治済が当の意致に湯女を差向けたということは、その湯女は治済より意致の身体を洗う以上の「奉仕」に努めるよう、言含められているに相違なかった。
だとしても、意致は流石にそこまでの「厚意」を受けるつもりはなかった。
「いや…、その、結構でござる…、自分で…」
身体を洗えるからと、「奉仕」を拝辞しようとした。
するとその湯女もとい雛は意致に対して、「お静かに…」と告げたかと思うと、
「私めは、清水家に仕えし本多讃岐が一子、雛と申す者にて…」
そう自己紹介したのであった。
一方、意致は思わぬ展開に戸惑った。
「本多…、讃岐…、然らば御家老の本多讃岐守殿が娘御にて?」
意致が確かめる様に尋ねると、雛は頷いた。
「して、雛殿は一体…」
まさかに湯女として己の許へと足を運んだとも思えない、いや、治済よりは湯女を仰せ付かったのやも知れぬが、雛はそれとは別に何か思惑があるに違いなく、だからこそ、突然の湯女の登場に驚く己に、
「お静かに…」
などと制したに違いないと、意致はそう睨んだ。
果たして意致が睨んだ通りであり、雛は衝撃的な事実を打明けたのであった。
即ち、治済は我子、豊千代を家基に取って代わらせようとしている、つまりは家基に代わる次期将軍に据えるべく、家基の暗殺を目論んでいると、その事実であった。
意致はその事実を聞かされて、「やはりな…」と思った。
だがそれにしても分からないのは雛の意図である。
その様な衝撃的な事実を態々、己に伝えるということは、雛自身が治済より直に天下謀叛と言っても差支えないその事実を打明けられたものと見える。
だとしたら治済は雛に対して何事かを期待して、己の許へと、それも風呂に入った己の許へと雛には湯女の真似までさせて差向けたに相違あるまい。
「雛には…、この俺から何かを聞出させるべく?」
治済は雛を差向けたに相違あるまい。そうでなければ雛に湯女の真似事までさせた理由がつかない。
意致がそんなことを考えていると、雛にも伝わったらしく、
「されば、如何にも、お考えの如く、この雛は上様…、民部卿様より田沼殿のことを…、公方様より何か密命を…、民部卿様を徹底的に監視せし以上の密命を預かっているのではあるまいか、だとしたらそれを聞出せ、と…」
治済より命じられたことを意致に打明けたのであった。
「やはり、そうか…」
意致は合点したのも束の間、
「徹底的な監視、と今、申されたが、それは…」
治済が口にしたことなのか、意致は雛に恐る恐る尋ねた。
だとしたら治済は何故に己が一橋家老を拝命したのか、そのことを承知しているに違いないからだ。そうでなければ、
「徹底的な監視…」
その様な言葉は出ない筈だからだ。
それに対して雛は頷いたかと思うと、将軍・家治が治済の野望、いや、「天下謀叛」に気付いており、それを阻止すべく、水谷勝富と共に田沼意致まで一橋家老として治済の許へと送込み、治済の徹底的な監視に当たらせようとしている…、そのことを、治済は御側御用取次の稲葉正明より聞かされて知ったのだと、意致に打明けた。
それで意致もやはり合点がいった。いや、その密命は御座之間にて意致が将軍・家治と一対一、所謂、
「御人払御用…」
その状態で家治より意致へと直に命じられたことなので、当然、外にその密命を聞いた者はおらず、御側御用取次の稲葉正明とてその例外ではない。
だが稲葉正明は将軍の最側近とも言うべき御側御用取次の職にある。
そうであれば仮令、将軍・家治が口には出さずとも、以心伝心、家治の思いが正明にも通じたのであろう。
それにしても分からないのは雛の思惑である。ここまで意致に打明けるとは、治済を裏切ることに外ならないからだ。
すると雛はまたしても意致の胸のうちを読取ったらしく、意致に「共闘」を持掛けたのであった。
「されば…、この雛は民部卿様には最早、ついてはいけませぬ…。こともあろうに大納言様を害し奉ろうなどとは…、その上、私めに湯女の真似事までさせて…」
雛はそこで言葉を詰まらせた。
それから間を置いてから雛は先を続けた。
「さればこの雛は民部卿様が謀叛を打砕こうと…、そこで田沼様の御力に…」
「手前に力を貸してくれると申されるのか?」
「はい…、無論、打算もござりまするが…」
「打算、とな?」
「はい…、されば先に申しましたる通り、この雛が父、本多讃岐は清水家老にて…、それも、ただの家老ではなく、宮内卿様が附人と申すよりは抱入に近く…」
御三卿の家臣には附人、附切、そして抱入の3種類に分けられる。
このうち、附人と附切は幕臣であり、御三卿の所謂、「御目付役」的な側面があるのに対して、抱入は御三卿が個人的に雇入れた者であり、それ故、
「股肱の臣」
抱入にはその様な側面があった。
御三卿家老は当然、幕臣であり、附人に属する。つまりは御三卿の「御目付役」であった。
だが、こと本多讃岐こと、讃岐守昌忠はその例外であるらしい。
「されば叔父…、父、讃岐が実弟の六三郎長卿は宮内卿様がまだ、御幼名の萬次郎君と御名乗りあそばされし砌より、近習として仕え奉り、今では六三郎は清水家にて物頭を勤めておりまする…、それ故に父、讃岐も叔父…、弟の六三郎に感化され、今や、宮内卿様が股肱の臣も同然にて…」
雛は本多昌忠が重好の「股肱の臣」となった経緯についてそう絵解きをしてみせた。
それで意致も合点がいった。
「また、この私めも、今でこそ、ここ一橋館にて仕えておりまするが、なれど心は宮内卿様にあり…、されば御三卿の一橋民部卿様が沈めば、その分、同じく御三卿の清水宮内卿様が浮上すると申すものにて…」
雛は「打算」の正体について意致に打明けた。
「成程…、それ故に、手前に力を貸してくれる、と…」
「はい…、田沼様の御力になれれば、民部卿様を追落とすことに繋がります故…」
確かに、治済の「天下謀叛」が白日の下に曝されれば、治済は間違いなく失脚する。それどころか、その首さえも危ういやも知れぬ。
いや、命だけは助かったとしても、終生、どこぞの大名家にて御預の身となるであろう。つまりは逼塞、幽閉であり、それも富と豊千代母子も揃って、となるであろう。
そうなれば畢竟、一橋家は御取潰し、いや、取潰しは免れたとしても、当主不在の明屋形となるのは免れまい。
その時、重好に子でも出来れば、それも嫡子の外にも庶子をもうければ、その庶子に一橋家を継がせる、ということも可能であろう。つまり、一橋家に清水家の血を、重好の血を入れることが出来るという訳だ。
雛はそこまで見通して、意致に協力、「共闘」を持掛けたのであった。
「失望させたやも知れませぬな…」
雛は打算から意致に協力を申出たことを恥じている様子であった。
成程、理想としては何の打算も抜きに、つまりは純粋に家基の命を守りたいと、その思いから意致に協力してくれるのが何よりであろう。
だが意致としてはむしろ、打算がある方が信用出来た。
何の打算もない人間など、いないと断言出来たからだ。仮にその様な人間がいるとするならば、それは余程の大法螺吹か、さもなくば打算があるにもかかわらず、それを自覚していないかのどちらかであり、何れにしろ人格破綻者であろう。少なくとも意致はそう考えていた。
それ故に、打算があり、そのことを正直に打明けた雛は意致にとっては信用出来る人物であると、その瞳に映った。
「いや、良くぞ、そこまで打明けてくれ申した…」
意致は雛をそう労わると、
「されば…、民部卿様は大納言様の御側近くに仕え奉りし者を使嗾して、大納言様が御命を頂戴奉るとの話でござったが、その者の名は…」
治済より、「実行犯」の名を聞いているのか…、その点を問質した。
「聞いておりまする。されば…」
雛は更に小声でその者の名を告げた。
風呂場の外からでは、常人では当然、聞取れないその言葉も、茜であれば別であった。
茜はそれまで風呂場の外から雛と意致とのやり取りを全て「盗聴」し、しかも一言一句を頭に叩き込むと、それを主君・治済の前で正確に再現、披露してみせたのであった。
「何と…、そは真か?」
治済は茜からの報告を聞き終えると、開口一番がそれであった。
いや、治済とて、茜が嘘をついているなどとは思っていなかった。
それは分かっていたものの、それでもどうしてもその様に尋ねずにはいられなかったのは偏に、雛が意致に囁いた者の名が信じられなかったからだ。
「雛は真…、真に、山川越前が名を挙げたのか…」
治済にしては珍しく、呻く様に尋ねた。
雛は必ずや、己を裏切り、意致に「共闘」を、家基暗殺を阻止しようと持掛けるに相違ないと、治済はそう読んでいた。
事実、雛は意致に「共闘」を呼びかけ、ここまでは治済の計算通り、正に、
「計画通り」
と言えた。だがそれに狂いが生じたのは、雛が意致に挙げた名であった。
即ち、治済は家基暗殺の為に使嗾する者として、雛には西之丸小納戸の高島安三郎廣儔の名を挙げたにもかかわらず、しかし雛は意致に対して、それとは別の名を挙げたのだ。
その者とは、山川越前こと越前守貞榮であり、山川貞榮は西之丸の小姓であり、小納戸ですらない。
雛は意致に対して、治済より聞かされた者…、治済が家基暗殺に使おうとしている者として、高島安三郎ではなく山川貞榮の名を挙げたのであった。
これは一体、どう解釈したら良いものか…、さしもの治済にも判断がつきかね、そこで直ぐ隣に控えていた岩本喜内へと目配せした。
どうしたら良いか…、治済は喜内に目でそう問いかけた。
すると喜内もそうと察して、「畏れながら…」と切出すや、
「この際、雛を召出し、田沼市左衛門とのやり取りにつきまして、雛より申述べさせましては如何でござりましょうや…、既に雛と田沼市左衛門とのやり取りにつきましては、茜よりの報せにて把握し、されば雛よりも田沼市左衛門とのやり取りにつきまして、これを申述べさせ、仮に、そこに茜よりの報せと食違いがありますれば、それは雛が嘘をついたことになり…」
ひいては、雛の裏切りの証拠ともなる…、喜内はそう提案したのであった。
治済も喜内のその提案を至当と認めるや、やはり茜に雛を連れて来させると、
「素知らぬ顔で…」
雛に風呂場での田沼市左衛門とのやり取りについて、その報告を求めたのであった。
その結果、雛は治済を裏切ってはいないことが判明した。いや、報告だけならば、そう判断せざるを得なかった。
即ち、雛の報告は茜のそれと寸分違わぬものであった。
「左様か…、なれどこの治済は意致より、上様よりの内意を聞出せと申した筈だが…」
治済は雛より報告を聞き終えるなり、その点を糺した。
それに対して雛はまず、「申訳ござりませぬ」と自らの非を認めて謝った上で、
「されど、それよりは田沼殿には嘘の名を教えて差上げました方が、大納言様の暗殺がし易うなると…」
実に恐ろしいことをサラリと言ってのけた。
「ほう…、暗殺がし易くなる、とな?」
治済は身を乗出して尋ねた。
「御意…、されば上様は小納戸の高島安三郎殿を使嗾して大納言様の暗殺を謀ろうと、左様に教えあそばされましたな?」
雛は治済に確かめる様に尋ねた。
「左様…」
「さればその高島安三郎殿の名をそのまま馬鹿正直に、田沼殿に教えて差上げましては、田沼殿は水谷殿にもこの旨、伝えて、人を介して高島安三郎殿に注意を払い…、もそっと申さば徹底的な監視下に置くに相違なく…、その過程で高島殿が大納言様を害し奉らんとせし、その現場を取押えられるやも知れず、そうなれば最悪、高島殿の口より、上様の名が漏れるやも知れず…」
そこで敢えて高島安三郎とは…、治済が家基暗殺に使おうとしている高島安三郎とは別の名を、即ち、西之丸小姓の山川貞榮の名を挙げたのだと、雛は治済に打明けた。
「されば、田沼殿や水谷殿の注意は山川殿へと注がれ…」
その分、高島安三郎には注意が払われず、高島安三郎による家基暗殺がそれだけ容易になると、雛は意致に敢えて別の名を、山川貞榮の名を教えた理由をも打明けたのであった。所謂、「ミスリード」が目的であった。
「左様か…、いや、雛よ、疑うて悪かったの…」
治済は思わずそう謝罪の言葉を口にしたかと思うと、雛に湯女の真似事までさせて、意致の許へと差向けた真の目的を打明けたのであった。
これには隣で控える岩本喜内も流石に驚き、主君・治済を制そうとした。
雛が裏切ってはいなかったことは分かったが、しかし、今の段階でそこまで雛に打明けても良いものか、喜内はそれを躊躇したからだ。
だが治済は喜内の制止に頭を振ってみせた。
「喜内が案ずるのも無理はないが、なれど、雛の心底、確と見届けた…、この上は何もかも打明け申そう…」
治済はそう切出すと、己が真に家基の命を奪うべく、その手先となる者の名を告げようとした。
だがそれを雛が制した。
「それには及びませぬ…、されば知らぬが花、と申すものにて…」
「知らぬが花、とな?」
治済は首を傾げつつ、問返した。
「御意…、されば私めは既に、田沼殿に対しまして、山川殿の名を…、上様が大納言様を害し奉るべく、その手先となる者として西之丸小姓の山川殿の名を挙げ申し、更にこの上、上様より真の名を…、上様が真に手先と思召されし者の名を伺いましては、それこそふとした弾みで、田沼殿に漏らす恐れ、無きにしも非ず、にて…」
だから聞かない方が良いのだと、雛は示唆した。
雛のその主張に治済は大いに感じ入った。
いや、これで雛が真の名を…、治済が家基暗殺の手先として使う者の名を聞こうとしたならば、それも積極的に聞きたがったならば、治済も、「或いは…」と、喜内が懸念した通り、一抹の不安、即ち、
「雛にはまだ裏切りの可能性があるのではあるまいか…」
治済はそれを看取したやも知れぬ。
だが実際には雛はそれとは正反対に、治済が折角、真の名を打明けようとしているにもかかわらず、それを拝辞したのだ。
それ故、治済は愈愈もって、雛が信じられた。
「いや…、改めて雛が心底、確と見届けたぞ…、一時たりとも疑うて済まなんだな…」
治済は雛が裏切るのではないかと、一瞬でも疑ったことを詫びた。
すると雛は頭を振ってみせた。
「上様がこの雛をお疑いあそばされますのも至極、当然と申すものにて…」
雛は治済が己を疑ったことに理解を示したかと思うと、
「さればこの雛は清水館にて家老を勤めし本多讃岐が一子にて…」
「おお、そうであったの…、風呂場にて意致にも左様に打明けたそうだの…」
雛の先程の、風呂場における意致とのやり取りの報告の中でも、その「くだり」があり、それ故に治済もそのことを初めて知った、裏を返せば、雛の報告を受けるまでは、雛が清水家老の本多昌忠の娘であったなどとは知る由もない…、治済はそう装った。
治済としては己の「芝居」に自信があったものの、しかし、雛にはそれが「芝居」に過ぎないと「お見通し」であった。
それでも雛は治済の「芝居」、それも「三文芝居」に付合うことにし、「御意」と応じた。
「なれど、それでは…、清水宮内殿が天下を望むものではないか?されば、例えばだ、この治済が大納言様を害し奉り、我子、豊千代を大納言様に代わる次期将軍に据え様と欲している…、そのことを上様にでも言上仕れば、この治済は間違いなく失脚し、さればその分、この治済と同じ三卿の清水宮内殿が地位が相対的に浮上すると申すものにて…」
「成程…、上様が仰せも一理あれども、父はあくまで附人にて…」
昌忠はあくまで清水重好の監視役である家老に過ぎず、つまりは監視対象にしか過ぎず、それ故、監視対象である重好の天下をそこまで望んではいない…、雛は治済にそう示唆した。
「確かにそうかも知れぬが、なれど、そなたの父御には附切の弟御もおられるではないか…、しかも宮内卿がまだ、萬次郎と幼名を名乗りし頃より、近習として仕えし…」
治済は、今は清水家の物頭を務める六三郎長卿のことを指摘した。
「されば弟御は附切と申すよりは、抱入に近いと…、確か、意致に左様に申したではあるまいか…、それ故にそなたの父御も、左様な弟御に感化され、今では家老であるにもかかわらず、弟御と同様、抱入の様だと…」
治済はやはり、ここでも意致とのやり取りを聞かされて初めて知った風を装った。
いや、昌忠に本多六三郎長卿なる弟がおり、しかもその六三郎が重好が幼少の砌より近習を務め、その上、今では清水家にて物頭を勤めていることは治済もそれ以前から把握していたものの、しかし、昌忠がそんな弟、六三郎に感化され、今ではすっかり、気分は「抱入」、つまりは重好の股肱の臣と化していたなどとは、その点に関しては治済も初耳であり、芝居ではなかった。
「確かに、田沼殿には左様に申しました…」
「と申すと、偽りだと?」
「いえ、偽りではなく…、なれど宮内卿様が天下を望んでおられしは、あくまで父と叔父にて…」
「そなたは違う、と?」
「御意…、されば私めは本多讃岐が一子と申しましても、実際には養父、朝倉甚十郎に育てられ、今ではここ、民部卿様がお屋形にて仕え奉りし身なれば…」
「宮内殿よりも、この治済が天下を望んでくれると申すのか?」
治済は身を乗出して尋ねた。
「御意…、それに私めは本多讃岐が一子とは申しましても、同時に、私めが姉、螢は島崎一郎右衛門忠儔が妻にて…」
雛がその名を出した途端、治済は「あっ」と声を上げた。
即ち、本丸小姓組番士でもある島崎一郎右衛門が実弟の源左衛門康備はここ、一橋館にて治済の近習として仕える松平佐左衛門康誠の養嗣子として迎えられ、今では源左衛門も養父、松平佐左衛門に倣い、治済に近習として仕えており、その上、一郎右衛門の実妹、源左衛門にとっては姉に当たる珠もまた、かつてはここ一橋館の大奥にて侍女として仕え、今は西之丸書院番士の久世三之丞廣和の妻であった。
治済は雛が口にした「島崎一郎右衛門」の名からそれらを連想し、それ故の、「あっ」であった。
「されば…、雛は姉に感化されて、さしずめ一橋贔屓になってくれたと?」
「御意…、されば朝倉甚十郎の養女として育てられし、この私めを気にかけてくれましたのが姉の螢にて…、私めが民部卿様に仕え奉ることに相成りましたのも、姉の螢の勧めにより…」
「成程のう…、そうであったか…」
やはり治済には初耳であり、何度も頷いた。
「いや、良く分かったぞ…」
治済は雛が己の味方であると、心底、合点した。
「それにしても…、意致を欺くべく、山川越前の名を出すとはのう…、これは一体、何故ぞ?」
雛が意致を欺くべく、治済が家基暗殺の手先として、山川越前こと西之丸小姓の山川越前守貞榮の名を出したことが、治済には分からなかった。
「されば山川殿はかつては、大納言様の御伽を務められ…」
確かにその通りであり、貞榮は明和4(1767)年11月より安永2(1773)年12月までの6年間、家基の伽を務めていた。
だが、同時代に伽を務めていた溝口相模守直舊や津田能登守信久に較べると、どうしても埋没しがちであった。
早い話、家基は溝口直舊や津田信久を贔屓にし、山川貞榮を遠ざけていた。
無論、貞榮一人を露骨に遠ざける様な、そんな愚かな真似は家基もしなかった。
だが家基も人間である。どうしても好悪の感情からは逃れられず、直舊や信久とは馬が合うものの、貞榮とはそれとは正反対に、どうにも馬が合わない様子であった。
尤も、そのことは西之丸にて家基に仕えていた者だけに、それも中奥にて家基の側近くに仕えていた小姓や小納戸だけがに知られた話であり、余人には知られぬそれであった。
だとするならば、雛が知っているとは思えず、にもかかわらず、雛はまるでそれを知っていたかの如く、山川貞榮の名を挙げた様に、治済には思われ、その点が謎であった。
すると雛がその「絵解き」をしてみせた。
「されば…、山川殿が母は…、即ち、越前殿が父、下總殿…、本丸御目付の山川下總守貞幹殿が妻女は駿府町奉行を務めし朝倉仁左衛門景増が長女の暉にて…」
「朝倉…、と申すと、さればそなたが養父の朝倉甚十郎の?」
「遠縁にて…、されば我子、佐兵衛…、越前殿が通称でござりまするが、佐兵衛がどうやら大納言様より疎まれているらしい、と…、暉を介しまして我が養父の朝倉甚十郎の許にまでその愚痴が届き…」
「成程…、それでそなたの耳にも届いたと申すのだな?」
「御意…」
「左様であったか…、斯かる事情があったとはのう…、いや、それにしても田沼意致に山川貞榮が名を挙げたことは良かったぞ…、されば意致もかつては西之丸の小納戸として、大納言様の御側近くにて仕え奉っていた故にの…、それも貞幹が大納言様の御伽を務めし頃にの…」
その為、意致もまた、貞榮が家基の伽であったにもかかわらず、家基から遠ざけられ、疎まれていたことは当然、知っていたであろう。
その貞榮に治済が目を付けて、家基暗殺の手先にしようとしている…、意致が雛よりそう聞かされたならば、成程、意致も容易に信じるであろう。
治済は雛のその判断を褒めそやした。
「畏れ入りまするが…、なれども真、山川越前殿が名を挙げまして、宜しかったのでござりましょうや…」
「と申すと?」
「されば上様が大納言様暗殺の手先として真に使嗾させようと思召されております者が山川越前殿であったならばと、それを案じておりまして…」
成程、治済が家基暗殺の手先として使おうとしている者が貞榮であったならば、意致にその名を告げてしまっては、意致を「ミスリード」させることはならないであろう。
雛はそれを案じているらしく、しかしそれを治済は一笑に伏した。
「安心せい、この治済が大納言様暗殺の手先として使嗾せし者は高島安三郎でもなくば、無論、山川貞榮でもない故にの…」
実を言えば、治済も貞榮の件なれば知っていた。それと言うのも当時より今に至るまで、小姓頭取として家基に仕えている市岡但馬守房仲より教えられたからだ。
それ故、治済も一時はその山川貞榮を家基暗殺の手先に使おうかとも考えたこともあったが、しかし、生憎と一橋家との所縁がなく、その様な者に家基暗殺という、天下謀叛にも相当する重大事を打明け様ものなら、公儀、と言うよりは家基の父である将軍・家治へと密告、告口される危険性があり、そこで治済は貞榮を家基暗殺の手先として使うのを断念したのであった。
治済がそのことを雛に打明けると、雛は心底、ホッとした様子を覗かせた。
「それを伺いまして安堵致しました…、これで大納言様の御命を奪い奉るに何の差支えもないと申すものにて…」
雛は実に恐ろしいことをサラリと、それも笑顔で言ってのけた。
「全く、恐ろしい女よ…」
治済はそう思わずにはいられなかったが、それでも、それだけ家基の死を願っているのだと、改めてそのことが分かった。
「いや、雛にも何か褒美をやらんとな…」
治済は思わずそう呟いていた。
一橋館の大奥、それも「女の園」である御殿向の茶室にて、治済は茜の報せを受けるなり、そう感想を漏らした。
茜とはここ、一橋館に仕える侍女であるが、しかし、ただの侍女ではない。
茜はここ一橋館に仕える家臣全ての言動を監視し、治済に報告するのを職掌としており、さしずめ一橋家における「御庭番」の様な存在であった。
事実、茜は御庭番の血を引いていた。
即ち、茜はかつては御庭番を勤め、今は西之丸にて廣敷番之頭を勤める中村久兵衛信興の娘であるのだ。
また、兄にして嫡子の久左衛門信之は現役の御庭番であり、御庭番の中でも、「一橋派」として、同じく「一橋派」の御側御用取次の稲葉正明の指示により動くことが、つまりは「隠密御用」を務めることが多かった。
その様な訳で、茜は今しがたまで、意致と勝富とのやり取りをも、「盗聴」してはそれを治済に伝えたのだ。
「されば、お望み通り、尻尾を出してやろうではあるまいか…」
治済はそう呟くと、茜に雛を連れて来る様に命じた。
雛もまた、ここ一橋館に仕える侍女であった。
それから間もなくして、茜が雛を連れて治済の許へと戻って来た。
「雛よ、近う…」
茶室の出入口の傍で控えていた雛を治済は手招きした。
それで雛も治済の許へと近付くと同時に、茜も外側から茶室の障子を閉めた。
「雛よ…、新たに家老として、田沼市左衛門が着任せしことは存じておるな?」
治済が問うと、雛は「はい」と応じた。
「されば田沼市左衛門は、既に家老として着任せし水谷但馬共々、この治済を徹底的に監視する腹積もりの様なのだ…」
「徹底的に監視、でござりまするか?」
雛は怪訝な表情を浮かべてそう問返した。
「左様…、さればこの治済が西之丸の大納言様を害し奉り、我子、豊千代を大納言様に代わる次期将軍に据え様としているのではあるまいかと、左様に思召されてのことらしいのだ…」
「何と…」
雛は驚きの表情を作ると、両手を口に当てもした。
「そは…、公方様が左様に思召されているのは真でござりまするか?」
「真よ…、されば此度の人事に関わりし、御用取次の稲葉越中より齎されし情報にて…」
「御側御用取次の稲葉越中守殿…、ああ、上様とは親しくしておられる…」
その稲葉越中守こと正明より齎された情報であるならばと、雛は合点がいった様子であった。
「そしてそれは事実なのだ…」
治済は雛にそうも打明けるや、雛は愈愈もって驚いた様で目を大きく見開いた。
「事実とは、それは…」
雛は恐る恐る尋ねた。
「さればこの治済はの、如何にも大納言様を害し奉り、我子、豊千代を大納言様に代わる次期将軍に据えるつもりなのだ…、その為に西之丸にて大納言様に小納戸として仕え奉りし高島安三郎を使嗾して、大納言様のお命を頂く所存にて…」
雛は驚きの余り、最早何も反応出来ずにいた。
「いや、何故に雛に斯様なる秘事を打明けるのかと申すとな…、それは雛を信じてのことなのだ…」
「私めを、お信じあそばされて、と?」
「左様…、されば田沼市左衛門より聞出して貰いたいのだ…、上様は今後、如何に動かれるのかを…、上様は田沼市左衛門を殊の外…、それこそ水谷但馬以上に信頼あそばされている由にて、されば、水谷但馬には打明けなかったことも田沼市左衛門には打明けているやも知れず…」
「それをこの雛が聞出せば宜しいのでござりまするか?」
「左様…、やってくれるか?」
「無論のこと…、なれど如何にして聞出せば宜しいものやら…」
雛は悩んでいる様子を浮かべた。
「されば…、申し難いのだが…、湯女として聞出しては貰えまいか…」
「湯女…、されば田沼殿は好色漢にて?」
雛のその、あけすけな問いかけに治済も流石に苦笑を浮かべたものの、「左様」と首肯した。
「何しろ子福者であるからのう…」
子沢山イコール女好きとは随分と偏見ではあったが、雛は納得した様子であった。
「いや、雛に湯女などと…、汚れ役を命じるは大変、心苦しきことなれど…」
「いえ、それで上様の御役に立ち申すのであららば喜んで…」
雛が殊勝にもそう応えると、治済は実に満足気な表情を浮かべた。
「されば、市左衛門めが入浴の折にはそなたにもその旨、伝える故、それまでは心静かに待つが良い…」
治済は雛にそう命じて、雛を退出させた。
「雛は…、果たして本性を現しましょうや…」
雛が茶室より退出するなり、陪席していた家臣の岩本喜内が治済にそう問うた。
「現すともさ…、何しろ雛は清水家老の本多讃岐が娘なれば、の…」
治済が口にした通り、雛は実は本多讃岐こと本多讃岐守昌忠の実の娘であった。
これは一橋館に限った話ではなく、全ての大名家や、或いは旗本家、更に言えば大奥にも当て嵌まる話だが、奉公、就職しようと思えば必ず、宿元、身元保証人が必要であった。
雛の場合、ここ一橋館に奉公に上がる際、西之丸書院番士の朝倉甚十郎景保を宿元、身元保証人とした。
それが4年前の安永3(1774)年のことであった。
朝倉甚十郎は雛の養父との「触込み」であった。必ずや、宿元との続柄についても届けさせる。
だが大抵の大名家などでは、宿元との続柄が真正、間違いないものと確認が取れれば、それ以上、深く調べることはない。面倒だからだ。
しかしこと、ここ一橋家においては、治済はその手の面倒を厭わずに、実父についても家臣に調べさせた。
その結果、雛の実父が清水家老である本多昌忠の娘であることが判明したのだ。
それが朝倉甚十郎の養女となった経緯についても家臣に更に掘下げさせた。
その結果、雛は朝倉甚十郎の嫡子、兵次郎景房の許に嫁ぎ、しかし、安永元(1772)年に夫、兵次郎に先立たれ…、それは父、朝倉甚十郎にとっても同じことであり、ともあれ、雛は本来ならば実家である本多家へと帰るべきところ、雛の舅である、いや、舅であった甚十郎が今度は雛の養父として、育てることにしたそうな。
そして朝倉甚十郎の手元で育てられた、それも行儀作法を仕込まれた雛はここ一橋館に奉公に上がることを、就職を希望したということらしい。
だがそれなら、雛は一体、何の目的があって、ここ一橋館に奉公に上がることを望んだのか、治済はその点を穿った。それと言うのも、「面接」の際、雛は実の父については何も語らなかったからだ。
無論、特に理由はない、という可能性も考えられた。
これで雛の実の父が清水家老である本多昌忠でなかったならば、治済も恐らくは安易にそう考えたやも知れぬ。
だが実際には雛は清水家老の娘であり、しかも「面接」の際、それを黙っていたとなれば話は別である。
何か目的があるのか…、猜疑心の強い治済ならばそう穿つのが自然であった。
だが治済はその点には敢えて触れることなく、雛を採用することにしたのだ。
「雛の心底、この治済が自ら見定めてやろう…」
治済はそう考えたからだ。
そして今、正にその機会が訪れたという訳だ。
「雛が仮に、本多讃岐より差向けられし間諜なれば、必ずや、今の上様の御話…、高島安三郎を使嗾して、大納言様の御命を頂戴するとの、その御話を田沼市左衛門に伝え、その上で、大納言様の暗殺を阻止せんと、雛が田沼市左衛門に持掛けるやも知れませぬな…」
岩本喜内が治済の胸のうちを代弁してみせた。
正しくその通りであり、治済は頷いた。
いや、そればかりではない、意致を「ミスリード」させることにも繋がる。
即ち、治済が真、家基暗殺の手先として使おうとしているのは高島安三郎ではないからだ。
にもかかわらず、雛から高島安三郎の名を聞かされれば、意致は勝富共々、安三郎に注意を向けるに違いなく、それは治済にとってはそれだけ、家基の暗殺が容易となる。
そして、これは先のことだろうが、晴れて大願成就、その手始めとして家基の暗殺に成功した暁には「裏切者」の雛の口を封じるつもりであった。
その日の夕方、意致はやはり、丸山豊五郎の案内により風呂場へと向かった。
そこは大浴場と言うに相応しく、如何に意致が御三卿の家臣、一橋家の家臣の中でも頂点に立つ家老であったとしても、過分であった。
尤も、治済の「厚意」を無碍には出来ず、意致は恐縮しながら風呂場に足を踏み入れた。
そして意致が身体を洗おうとするや、人の気配がした。
湯煙で直ぐには人別がつかなかったが、やがてそれが女性であると分かった。
それも湯文字を身に纏っていることから、湯女であると直ぐに分かった。
意致はいよいよ恐縮、いや、大慌てであった。
湯女とは端的に言えば身体を洗ってくれる女のことだが、それだけではない。
少なくとも、意致を取込もうとしている治済が当の意致に湯女を差向けたということは、その湯女は治済より意致の身体を洗う以上の「奉仕」に努めるよう、言含められているに相違なかった。
だとしても、意致は流石にそこまでの「厚意」を受けるつもりはなかった。
「いや…、その、結構でござる…、自分で…」
身体を洗えるからと、「奉仕」を拝辞しようとした。
するとその湯女もとい雛は意致に対して、「お静かに…」と告げたかと思うと、
「私めは、清水家に仕えし本多讃岐が一子、雛と申す者にて…」
そう自己紹介したのであった。
一方、意致は思わぬ展開に戸惑った。
「本多…、讃岐…、然らば御家老の本多讃岐守殿が娘御にて?」
意致が確かめる様に尋ねると、雛は頷いた。
「して、雛殿は一体…」
まさかに湯女として己の許へと足を運んだとも思えない、いや、治済よりは湯女を仰せ付かったのやも知れぬが、雛はそれとは別に何か思惑があるに違いなく、だからこそ、突然の湯女の登場に驚く己に、
「お静かに…」
などと制したに違いないと、意致はそう睨んだ。
果たして意致が睨んだ通りであり、雛は衝撃的な事実を打明けたのであった。
即ち、治済は我子、豊千代を家基に取って代わらせようとしている、つまりは家基に代わる次期将軍に据えるべく、家基の暗殺を目論んでいると、その事実であった。
意致はその事実を聞かされて、「やはりな…」と思った。
だがそれにしても分からないのは雛の意図である。
その様な衝撃的な事実を態々、己に伝えるということは、雛自身が治済より直に天下謀叛と言っても差支えないその事実を打明けられたものと見える。
だとしたら治済は雛に対して何事かを期待して、己の許へと、それも風呂に入った己の許へと雛には湯女の真似までさせて差向けたに相違あるまい。
「雛には…、この俺から何かを聞出させるべく?」
治済は雛を差向けたに相違あるまい。そうでなければ雛に湯女の真似事までさせた理由がつかない。
意致がそんなことを考えていると、雛にも伝わったらしく、
「されば、如何にも、お考えの如く、この雛は上様…、民部卿様より田沼殿のことを…、公方様より何か密命を…、民部卿様を徹底的に監視せし以上の密命を預かっているのではあるまいか、だとしたらそれを聞出せ、と…」
治済より命じられたことを意致に打明けたのであった。
「やはり、そうか…」
意致は合点したのも束の間、
「徹底的な監視、と今、申されたが、それは…」
治済が口にしたことなのか、意致は雛に恐る恐る尋ねた。
だとしたら治済は何故に己が一橋家老を拝命したのか、そのことを承知しているに違いないからだ。そうでなければ、
「徹底的な監視…」
その様な言葉は出ない筈だからだ。
それに対して雛は頷いたかと思うと、将軍・家治が治済の野望、いや、「天下謀叛」に気付いており、それを阻止すべく、水谷勝富と共に田沼意致まで一橋家老として治済の許へと送込み、治済の徹底的な監視に当たらせようとしている…、そのことを、治済は御側御用取次の稲葉正明より聞かされて知ったのだと、意致に打明けた。
それで意致もやはり合点がいった。いや、その密命は御座之間にて意致が将軍・家治と一対一、所謂、
「御人払御用…」
その状態で家治より意致へと直に命じられたことなので、当然、外にその密命を聞いた者はおらず、御側御用取次の稲葉正明とてその例外ではない。
だが稲葉正明は将軍の最側近とも言うべき御側御用取次の職にある。
そうであれば仮令、将軍・家治が口には出さずとも、以心伝心、家治の思いが正明にも通じたのであろう。
それにしても分からないのは雛の思惑である。ここまで意致に打明けるとは、治済を裏切ることに外ならないからだ。
すると雛はまたしても意致の胸のうちを読取ったらしく、意致に「共闘」を持掛けたのであった。
「されば…、この雛は民部卿様には最早、ついてはいけませぬ…。こともあろうに大納言様を害し奉ろうなどとは…、その上、私めに湯女の真似事までさせて…」
雛はそこで言葉を詰まらせた。
それから間を置いてから雛は先を続けた。
「さればこの雛は民部卿様が謀叛を打砕こうと…、そこで田沼様の御力に…」
「手前に力を貸してくれると申されるのか?」
「はい…、無論、打算もござりまするが…」
「打算、とな?」
「はい…、されば先に申しましたる通り、この雛が父、本多讃岐は清水家老にて…、それも、ただの家老ではなく、宮内卿様が附人と申すよりは抱入に近く…」
御三卿の家臣には附人、附切、そして抱入の3種類に分けられる。
このうち、附人と附切は幕臣であり、御三卿の所謂、「御目付役」的な側面があるのに対して、抱入は御三卿が個人的に雇入れた者であり、それ故、
「股肱の臣」
抱入にはその様な側面があった。
御三卿家老は当然、幕臣であり、附人に属する。つまりは御三卿の「御目付役」であった。
だが、こと本多讃岐こと、讃岐守昌忠はその例外であるらしい。
「されば叔父…、父、讃岐が実弟の六三郎長卿は宮内卿様がまだ、御幼名の萬次郎君と御名乗りあそばされし砌より、近習として仕え奉り、今では六三郎は清水家にて物頭を勤めておりまする…、それ故に父、讃岐も叔父…、弟の六三郎に感化され、今や、宮内卿様が股肱の臣も同然にて…」
雛は本多昌忠が重好の「股肱の臣」となった経緯についてそう絵解きをしてみせた。
それで意致も合点がいった。
「また、この私めも、今でこそ、ここ一橋館にて仕えておりまするが、なれど心は宮内卿様にあり…、されば御三卿の一橋民部卿様が沈めば、その分、同じく御三卿の清水宮内卿様が浮上すると申すものにて…」
雛は「打算」の正体について意致に打明けた。
「成程…、それ故に、手前に力を貸してくれる、と…」
「はい…、田沼様の御力になれれば、民部卿様を追落とすことに繋がります故…」
確かに、治済の「天下謀叛」が白日の下に曝されれば、治済は間違いなく失脚する。それどころか、その首さえも危ういやも知れぬ。
いや、命だけは助かったとしても、終生、どこぞの大名家にて御預の身となるであろう。つまりは逼塞、幽閉であり、それも富と豊千代母子も揃って、となるであろう。
そうなれば畢竟、一橋家は御取潰し、いや、取潰しは免れたとしても、当主不在の明屋形となるのは免れまい。
その時、重好に子でも出来れば、それも嫡子の外にも庶子をもうければ、その庶子に一橋家を継がせる、ということも可能であろう。つまり、一橋家に清水家の血を、重好の血を入れることが出来るという訳だ。
雛はそこまで見通して、意致に協力、「共闘」を持掛けたのであった。
「失望させたやも知れませぬな…」
雛は打算から意致に協力を申出たことを恥じている様子であった。
成程、理想としては何の打算も抜きに、つまりは純粋に家基の命を守りたいと、その思いから意致に協力してくれるのが何よりであろう。
だが意致としてはむしろ、打算がある方が信用出来た。
何の打算もない人間など、いないと断言出来たからだ。仮にその様な人間がいるとするならば、それは余程の大法螺吹か、さもなくば打算があるにもかかわらず、それを自覚していないかのどちらかであり、何れにしろ人格破綻者であろう。少なくとも意致はそう考えていた。
それ故に、打算があり、そのことを正直に打明けた雛は意致にとっては信用出来る人物であると、その瞳に映った。
「いや、良くぞ、そこまで打明けてくれ申した…」
意致は雛をそう労わると、
「されば…、民部卿様は大納言様の御側近くに仕え奉りし者を使嗾して、大納言様が御命を頂戴奉るとの話でござったが、その者の名は…」
治済より、「実行犯」の名を聞いているのか…、その点を問質した。
「聞いておりまする。されば…」
雛は更に小声でその者の名を告げた。
風呂場の外からでは、常人では当然、聞取れないその言葉も、茜であれば別であった。
茜はそれまで風呂場の外から雛と意致とのやり取りを全て「盗聴」し、しかも一言一句を頭に叩き込むと、それを主君・治済の前で正確に再現、披露してみせたのであった。
「何と…、そは真か?」
治済は茜からの報告を聞き終えると、開口一番がそれであった。
いや、治済とて、茜が嘘をついているなどとは思っていなかった。
それは分かっていたものの、それでもどうしてもその様に尋ねずにはいられなかったのは偏に、雛が意致に囁いた者の名が信じられなかったからだ。
「雛は真…、真に、山川越前が名を挙げたのか…」
治済にしては珍しく、呻く様に尋ねた。
雛は必ずや、己を裏切り、意致に「共闘」を、家基暗殺を阻止しようと持掛けるに相違ないと、治済はそう読んでいた。
事実、雛は意致に「共闘」を呼びかけ、ここまでは治済の計算通り、正に、
「計画通り」
と言えた。だがそれに狂いが生じたのは、雛が意致に挙げた名であった。
即ち、治済は家基暗殺の為に使嗾する者として、雛には西之丸小納戸の高島安三郎廣儔の名を挙げたにもかかわらず、しかし雛は意致に対して、それとは別の名を挙げたのだ。
その者とは、山川越前こと越前守貞榮であり、山川貞榮は西之丸の小姓であり、小納戸ですらない。
雛は意致に対して、治済より聞かされた者…、治済が家基暗殺に使おうとしている者として、高島安三郎ではなく山川貞榮の名を挙げたのであった。
これは一体、どう解釈したら良いものか…、さしもの治済にも判断がつきかね、そこで直ぐ隣に控えていた岩本喜内へと目配せした。
どうしたら良いか…、治済は喜内に目でそう問いかけた。
すると喜内もそうと察して、「畏れながら…」と切出すや、
「この際、雛を召出し、田沼市左衛門とのやり取りにつきまして、雛より申述べさせましては如何でござりましょうや…、既に雛と田沼市左衛門とのやり取りにつきましては、茜よりの報せにて把握し、されば雛よりも田沼市左衛門とのやり取りにつきまして、これを申述べさせ、仮に、そこに茜よりの報せと食違いがありますれば、それは雛が嘘をついたことになり…」
ひいては、雛の裏切りの証拠ともなる…、喜内はそう提案したのであった。
治済も喜内のその提案を至当と認めるや、やはり茜に雛を連れて来させると、
「素知らぬ顔で…」
雛に風呂場での田沼市左衛門とのやり取りについて、その報告を求めたのであった。
その結果、雛は治済を裏切ってはいないことが判明した。いや、報告だけならば、そう判断せざるを得なかった。
即ち、雛の報告は茜のそれと寸分違わぬものであった。
「左様か…、なれどこの治済は意致より、上様よりの内意を聞出せと申した筈だが…」
治済は雛より報告を聞き終えるなり、その点を糺した。
それに対して雛はまず、「申訳ござりませぬ」と自らの非を認めて謝った上で、
「されど、それよりは田沼殿には嘘の名を教えて差上げました方が、大納言様の暗殺がし易うなると…」
実に恐ろしいことをサラリと言ってのけた。
「ほう…、暗殺がし易くなる、とな?」
治済は身を乗出して尋ねた。
「御意…、されば上様は小納戸の高島安三郎殿を使嗾して大納言様の暗殺を謀ろうと、左様に教えあそばされましたな?」
雛は治済に確かめる様に尋ねた。
「左様…」
「さればその高島安三郎殿の名をそのまま馬鹿正直に、田沼殿に教えて差上げましては、田沼殿は水谷殿にもこの旨、伝えて、人を介して高島安三郎殿に注意を払い…、もそっと申さば徹底的な監視下に置くに相違なく…、その過程で高島殿が大納言様を害し奉らんとせし、その現場を取押えられるやも知れず、そうなれば最悪、高島殿の口より、上様の名が漏れるやも知れず…」
そこで敢えて高島安三郎とは…、治済が家基暗殺に使おうとしている高島安三郎とは別の名を、即ち、西之丸小姓の山川貞榮の名を挙げたのだと、雛は治済に打明けた。
「されば、田沼殿や水谷殿の注意は山川殿へと注がれ…」
その分、高島安三郎には注意が払われず、高島安三郎による家基暗殺がそれだけ容易になると、雛は意致に敢えて別の名を、山川貞榮の名を教えた理由をも打明けたのであった。所謂、「ミスリード」が目的であった。
「左様か…、いや、雛よ、疑うて悪かったの…」
治済は思わずそう謝罪の言葉を口にしたかと思うと、雛に湯女の真似事までさせて、意致の許へと差向けた真の目的を打明けたのであった。
これには隣で控える岩本喜内も流石に驚き、主君・治済を制そうとした。
雛が裏切ってはいなかったことは分かったが、しかし、今の段階でそこまで雛に打明けても良いものか、喜内はそれを躊躇したからだ。
だが治済は喜内の制止に頭を振ってみせた。
「喜内が案ずるのも無理はないが、なれど、雛の心底、確と見届けた…、この上は何もかも打明け申そう…」
治済はそう切出すと、己が真に家基の命を奪うべく、その手先となる者の名を告げようとした。
だがそれを雛が制した。
「それには及びませぬ…、されば知らぬが花、と申すものにて…」
「知らぬが花、とな?」
治済は首を傾げつつ、問返した。
「御意…、されば私めは既に、田沼殿に対しまして、山川殿の名を…、上様が大納言様を害し奉るべく、その手先となる者として西之丸小姓の山川殿の名を挙げ申し、更にこの上、上様より真の名を…、上様が真に手先と思召されし者の名を伺いましては、それこそふとした弾みで、田沼殿に漏らす恐れ、無きにしも非ず、にて…」
だから聞かない方が良いのだと、雛は示唆した。
雛のその主張に治済は大いに感じ入った。
いや、これで雛が真の名を…、治済が家基暗殺の手先として使う者の名を聞こうとしたならば、それも積極的に聞きたがったならば、治済も、「或いは…」と、喜内が懸念した通り、一抹の不安、即ち、
「雛にはまだ裏切りの可能性があるのではあるまいか…」
治済はそれを看取したやも知れぬ。
だが実際には雛はそれとは正反対に、治済が折角、真の名を打明けようとしているにもかかわらず、それを拝辞したのだ。
それ故、治済は愈愈もって、雛が信じられた。
「いや…、改めて雛が心底、確と見届けたぞ…、一時たりとも疑うて済まなんだな…」
治済は雛が裏切るのではないかと、一瞬でも疑ったことを詫びた。
すると雛は頭を振ってみせた。
「上様がこの雛をお疑いあそばされますのも至極、当然と申すものにて…」
雛は治済が己を疑ったことに理解を示したかと思うと、
「さればこの雛は清水館にて家老を勤めし本多讃岐が一子にて…」
「おお、そうであったの…、風呂場にて意致にも左様に打明けたそうだの…」
雛の先程の、風呂場における意致とのやり取りの報告の中でも、その「くだり」があり、それ故に治済もそのことを初めて知った、裏を返せば、雛の報告を受けるまでは、雛が清水家老の本多昌忠の娘であったなどとは知る由もない…、治済はそう装った。
治済としては己の「芝居」に自信があったものの、しかし、雛にはそれが「芝居」に過ぎないと「お見通し」であった。
それでも雛は治済の「芝居」、それも「三文芝居」に付合うことにし、「御意」と応じた。
「なれど、それでは…、清水宮内殿が天下を望むものではないか?されば、例えばだ、この治済が大納言様を害し奉り、我子、豊千代を大納言様に代わる次期将軍に据え様と欲している…、そのことを上様にでも言上仕れば、この治済は間違いなく失脚し、さればその分、この治済と同じ三卿の清水宮内殿が地位が相対的に浮上すると申すものにて…」
「成程…、上様が仰せも一理あれども、父はあくまで附人にて…」
昌忠はあくまで清水重好の監視役である家老に過ぎず、つまりは監視対象にしか過ぎず、それ故、監視対象である重好の天下をそこまで望んではいない…、雛は治済にそう示唆した。
「確かにそうかも知れぬが、なれど、そなたの父御には附切の弟御もおられるではないか…、しかも宮内卿がまだ、萬次郎と幼名を名乗りし頃より、近習として仕えし…」
治済は、今は清水家の物頭を務める六三郎長卿のことを指摘した。
「されば弟御は附切と申すよりは、抱入に近いと…、確か、意致に左様に申したではあるまいか…、それ故にそなたの父御も、左様な弟御に感化され、今では家老であるにもかかわらず、弟御と同様、抱入の様だと…」
治済はやはり、ここでも意致とのやり取りを聞かされて初めて知った風を装った。
いや、昌忠に本多六三郎長卿なる弟がおり、しかもその六三郎が重好が幼少の砌より近習を務め、その上、今では清水家にて物頭を勤めていることは治済もそれ以前から把握していたものの、しかし、昌忠がそんな弟、六三郎に感化され、今ではすっかり、気分は「抱入」、つまりは重好の股肱の臣と化していたなどとは、その点に関しては治済も初耳であり、芝居ではなかった。
「確かに、田沼殿には左様に申しました…」
「と申すと、偽りだと?」
「いえ、偽りではなく…、なれど宮内卿様が天下を望んでおられしは、あくまで父と叔父にて…」
「そなたは違う、と?」
「御意…、されば私めは本多讃岐が一子と申しましても、実際には養父、朝倉甚十郎に育てられ、今ではここ、民部卿様がお屋形にて仕え奉りし身なれば…」
「宮内殿よりも、この治済が天下を望んでくれると申すのか?」
治済は身を乗出して尋ねた。
「御意…、それに私めは本多讃岐が一子とは申しましても、同時に、私めが姉、螢は島崎一郎右衛門忠儔が妻にて…」
雛がその名を出した途端、治済は「あっ」と声を上げた。
即ち、本丸小姓組番士でもある島崎一郎右衛門が実弟の源左衛門康備はここ、一橋館にて治済の近習として仕える松平佐左衛門康誠の養嗣子として迎えられ、今では源左衛門も養父、松平佐左衛門に倣い、治済に近習として仕えており、その上、一郎右衛門の実妹、源左衛門にとっては姉に当たる珠もまた、かつてはここ一橋館の大奥にて侍女として仕え、今は西之丸書院番士の久世三之丞廣和の妻であった。
治済は雛が口にした「島崎一郎右衛門」の名からそれらを連想し、それ故の、「あっ」であった。
「されば…、雛は姉に感化されて、さしずめ一橋贔屓になってくれたと?」
「御意…、されば朝倉甚十郎の養女として育てられし、この私めを気にかけてくれましたのが姉の螢にて…、私めが民部卿様に仕え奉ることに相成りましたのも、姉の螢の勧めにより…」
「成程のう…、そうであったか…」
やはり治済には初耳であり、何度も頷いた。
「いや、良く分かったぞ…」
治済は雛が己の味方であると、心底、合点した。
「それにしても…、意致を欺くべく、山川越前の名を出すとはのう…、これは一体、何故ぞ?」
雛が意致を欺くべく、治済が家基暗殺の手先として、山川越前こと西之丸小姓の山川越前守貞榮の名を出したことが、治済には分からなかった。
「されば山川殿はかつては、大納言様の御伽を務められ…」
確かにその通りであり、貞榮は明和4(1767)年11月より安永2(1773)年12月までの6年間、家基の伽を務めていた。
だが、同時代に伽を務めていた溝口相模守直舊や津田能登守信久に較べると、どうしても埋没しがちであった。
早い話、家基は溝口直舊や津田信久を贔屓にし、山川貞榮を遠ざけていた。
無論、貞榮一人を露骨に遠ざける様な、そんな愚かな真似は家基もしなかった。
だが家基も人間である。どうしても好悪の感情からは逃れられず、直舊や信久とは馬が合うものの、貞榮とはそれとは正反対に、どうにも馬が合わない様子であった。
尤も、そのことは西之丸にて家基に仕えていた者だけに、それも中奥にて家基の側近くに仕えていた小姓や小納戸だけがに知られた話であり、余人には知られぬそれであった。
だとするならば、雛が知っているとは思えず、にもかかわらず、雛はまるでそれを知っていたかの如く、山川貞榮の名を挙げた様に、治済には思われ、その点が謎であった。
すると雛がその「絵解き」をしてみせた。
「されば…、山川殿が母は…、即ち、越前殿が父、下總殿…、本丸御目付の山川下總守貞幹殿が妻女は駿府町奉行を務めし朝倉仁左衛門景増が長女の暉にて…」
「朝倉…、と申すと、さればそなたが養父の朝倉甚十郎の?」
「遠縁にて…、されば我子、佐兵衛…、越前殿が通称でござりまするが、佐兵衛がどうやら大納言様より疎まれているらしい、と…、暉を介しまして我が養父の朝倉甚十郎の許にまでその愚痴が届き…」
「成程…、それでそなたの耳にも届いたと申すのだな?」
「御意…」
「左様であったか…、斯かる事情があったとはのう…、いや、それにしても田沼意致に山川貞榮が名を挙げたことは良かったぞ…、されば意致もかつては西之丸の小納戸として、大納言様の御側近くにて仕え奉っていた故にの…、それも貞幹が大納言様の御伽を務めし頃にの…」
その為、意致もまた、貞榮が家基の伽であったにもかかわらず、家基から遠ざけられ、疎まれていたことは当然、知っていたであろう。
その貞榮に治済が目を付けて、家基暗殺の手先にしようとしている…、意致が雛よりそう聞かされたならば、成程、意致も容易に信じるであろう。
治済は雛のその判断を褒めそやした。
「畏れ入りまするが…、なれども真、山川越前殿が名を挙げまして、宜しかったのでござりましょうや…」
「と申すと?」
「されば上様が大納言様暗殺の手先として真に使嗾させようと思召されております者が山川越前殿であったならばと、それを案じておりまして…」
成程、治済が家基暗殺の手先として使おうとしている者が貞榮であったならば、意致にその名を告げてしまっては、意致を「ミスリード」させることはならないであろう。
雛はそれを案じているらしく、しかしそれを治済は一笑に伏した。
「安心せい、この治済が大納言様暗殺の手先として使嗾せし者は高島安三郎でもなくば、無論、山川貞榮でもない故にの…」
実を言えば、治済も貞榮の件なれば知っていた。それと言うのも当時より今に至るまで、小姓頭取として家基に仕えている市岡但馬守房仲より教えられたからだ。
それ故、治済も一時はその山川貞榮を家基暗殺の手先に使おうかとも考えたこともあったが、しかし、生憎と一橋家との所縁がなく、その様な者に家基暗殺という、天下謀叛にも相当する重大事を打明け様ものなら、公儀、と言うよりは家基の父である将軍・家治へと密告、告口される危険性があり、そこで治済は貞榮を家基暗殺の手先として使うのを断念したのであった。
治済がそのことを雛に打明けると、雛は心底、ホッとした様子を覗かせた。
「それを伺いまして安堵致しました…、これで大納言様の御命を奪い奉るに何の差支えもないと申すものにて…」
雛は実に恐ろしいことをサラリと、それも笑顔で言ってのけた。
「全く、恐ろしい女よ…」
治済はそう思わずにはいられなかったが、それでも、それだけ家基の死を願っているのだと、改めてそのことが分かった。
「いや、雛にも何か褒美をやらんとな…」
治済は思わずそう呟いていた。
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