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序章 一橋治済の計算と誤算 ~次期将軍・家基昇天までのカウントダウン~

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左様さようか…、やはり意致おきむねめは、勝富共々かつとみともども家治いえはるよりかる内命ないめいけておったか…」

 一橋ひとつばしやかた大奥おおおく、それも「おんなその」である殿向てんむき茶室ちゃしつにて、治済はるさだあかねしらせをけるなり、そう感想かんそうらした。

 あかねとはここ、一橋ひとつばしやかたつかえる侍女じじょであるが、しかし、ただの侍女じじょではない。

 あかねはここ一橋ひとつばしやかたつかえる家臣かしんすべての言動げんどう監視チェックし、治済はるさだ報告ほうこくするのを職掌しょくしょうとしており、さしずめ一橋ひとつばしにおける「庭番にわばん」のよう存在そんざいであった。

 事実じじつあかね庭番にわばんいていた。

 すなわち、あかねはかつては庭番にわばんつとめ、いま西之丸にしのまるにて廣敷番ひろしきばんがしらつとめる中村なかむら久兵衛きゅうべえ信興のぶおきむすめであるのだ。

 また、あににして嫡子ちゃくし久左衛門きゅうざえもん信之のぶゆき現役げんえき庭番にわばんであり、庭番にわばんなかでも、「一橋ひとつばし」として、おなじく「一橋ひとつばし」のそば用取次ようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきら指示しじによりうごくことが、つまりは「隠密おんみつ御用ごよう」をつとめることがおおかった。

 そのようわけで、あかねいましがたまで、意致おきむね勝富かつとみとのやり取りをも、「盗聴とうちょう」してはそれを治済はるさだつたえたのだ。

「されば、おのぞどおり、尻尾しっぽしてやろうではあるまいか…」

 治済はるさだはそうつぶやくと、あかねひなれてようめいじた。

 ひなもまた、ここ一橋ひとつばしやかたつかえる侍女じじょであった。

 それからもなくして、あかねひなれて治済はるさだもとへともどってた。

ひなよ、ちこう…」

 茶室ちゃしつ出入口でいりぐちそばひかえていたひな治済はるさだ手招てまねきした。

 それでひな治済はるさだもとへと近付ちかづくと同時どうじに、あかね外側そとがわから茶室ちゃしつ障子しょうじめた。

ひなよ…、あらたに家老かろうとして、田沼たぬま市左衛門いちざえもん着任ちゃくにんせしことはぞんじておるな?」

 治済はるさだうと、ひなは「はい」とおうじた。

「されば田沼たぬま市左衛門いちざえもんは、すで家老かろうとして着任ちゃくにんせし水谷みずのや但馬たじま共々ともども、この治済はるさだ徹底的てっていてき監視かんしする腹積はらづもりのようなのだ…」

徹底的てっていてき監視かんし、でござりまするか?」

 ひな怪訝けげん表情ひょうじょうかべてそう問返といかえした。

左様さよう…、さればこの治済はるさだ西之丸にしのまる大納言だいなごんさまがいたてまつり、我子わがこ豊千代とよちよ大納言だいなごんさまわる次期じき将軍しょうぐんようとしているのではあるまいかと、左様さよう思召おぼしめされてのことらしいのだ…」

なんと…」

 ひなおどろきの表情ひょうじょうつくると、両手りょうてくちてもした。

「そは…、公方くぼうさま左様さよう思召おぼしめされているのはまことでござりまするか?」

まことよ…、されば此度こたび人事じんじかかわりし、用取次ようとりつぎ稲葉いなば越中えっちゅうよりもたらされし情報じょうほうにて…」

そば用取次ようとりつぎ稲葉いなば越中守えっちゅうのかみ殿どの…、ああ、上様うえさまとはしたしくしておられる…」

 その稲葉いなば越中守えっちゅうのかみこと正明まさあきらよりもたらされた情報じょうほうであるならばと、ひな合点がてんがいった様子ようすであった。

「そしてそれは事実じじつなのだ…」

 治済はるさだひなにそうも打明うちあけるや、ひな愈愈いよいよもっておどろいたようおおきく見開みひらいた。

事実じじつとは、それは…」

 ひなおそおそたずねた。

「さればこの治済はるさだはの、如何いかにも大納言だいなごんさまがいたてまつり、我子わがこ豊千代とよちよ大納言だいなごんさまわる次期じき将軍しょうぐんえるつもりなのだ…、そのため西之丸にしのまるにて大納言だいなごんさま小納戸こなんどとしてつかたてまつりし高島たかしま安三郎やすざぶろう使嗾しそうして、大納言だいなごんさまのおいのちいただ所存しょぞんにて…」

 ひなおどろきのあまり、最早もはやなに反応はんのう出来できずにいた。

「いや、何故なにゆえひな斯様かようなる秘事ひじ打明うちあけるのかともうすとな…、それはひなしんじてのことなのだ…」

わたくしめを、おしんじあそばされて、と?」

左様さよう…、されば田沼たぬま市左衛門いちざえもんより聞出ききだしてもらいたいのだ…、上様うえさま今後こんご如何いかうごかれるのかを…、上様うえさま田沼たぬま市左衛門いちざえもんことほか…、それこそ水谷みずのや但馬たじま以上いじょう信頼しんらいあそばされているよしにて、されば、水谷みずのや但馬たじまには打明うちあけなかったことも田沼たぬま市左衛門いちざえもんには打明うちあけているやもれず…」

「それをこのひな聞出ききだせばよろしいのでござりまするか?」

左様さよう…、やってくれるか?」

無論むろんのこと…、なれど如何いかにして聞出ききだせばよろしいものやら…」

 ひななやんでいる様子ようすかべた。

「されば…、もうにくいのだが…、湯女ゆなとして聞出ききだしてはもらえまいか…」

湯女ゆな…、されば田沼たぬま殿どの好色漢こうしょくかんにて?」

 ひなのその、あけすけないかけに治済はるさだ流石さすが苦笑くしょうかべたものの、「左様さよう」と首肯しゅこうした。

なにしろ子福者こぶくしゃであるからのう…」

 子沢山こだくさんイコール女好おんなずきとは随分ずいぶん偏見へんけんではあったが、ひな納得なっとくした様子ようすであった。

「いや、ひな湯女ゆななどと…、よごやくめいじるは大変たいへん心苦こころぐるしきことなれど…」

「いえ、それで上様うえさまやくもうすのであららばよろこんで…」

 ひな殊勝しゅしょうにもそうこたえると、治済はるさだじつ満足気まんぞくげ表情ひょうじょうかべた。

「されば、市左衛門いちざえもんめが入浴にゅうよくおりにはそなたにもそのむねつたえるゆえ、それまでは心静こころしずかにつがい…」

 治済はるさだひなにそうめいじて、ひな退出たいしゅつさせた。

ひなは…、たして本性ほんしょうあらわしましょうや…」

 ひな茶室ちゃしつより退出たいしゅつするなり、陪席ばいせきしていた家臣かしん岩本いわもと喜内きない治済はるさだにそううた。

あらわすともさ…、なにしろひな清水しみず家老かろう本多讃岐ほんださぬきむすめなれば、の…」

 治済はるさだくちにしたとおり、ひなじつ本多讃岐ほんださぬきこと本多ほんだ讃岐守さぬきのかみ昌忠まさただじつむすめであった。

 これは一橋ひとつばしやかたかぎったはなしではなく、すべての大名だいみょうや、あるいは旗本はたもとさらに言えば大奥おおおくにもまるはなしだが、奉公ほうこう就職しゅうしょくしようとおもえばかならず、宿元やどもと身元みもと保証人ほしょうにん必要ひつようであった。

 ひな場合ばあい、ここ一橋ひとつばしやかた奉公ほうこうがるさい西之丸にしのまる書院番しょいんばん朝倉あさくら甚十郎じんじゅうろう景保かげやす宿元やどもと身元みもと保証人ほしょうにんとした。

 それが4年前ねんまえの安永3(1774)年のことであった。

 朝倉あさくら甚十郎じんじゅうろうひな養父ようふとの「触込ふれこみ」であった。かならずや、宿元やどもととの続柄ぞくがらについてもとどけさせる。

 だが大抵たいてい大名だいみょうなどでは、宿元やどもととの続柄ぞくがら真正しんせい間違まちがいないものと確認かくにんれれば、それ以上いじょうふか調しらべることはない。面倒めんどうだからだ。

 しかしこと、ここ一橋ひとつばしにおいては、治済はるさだはその面倒めんどういとわずに、実父じっぷについても家臣かしん調しらべさせた。

 その結果けっかひな実父じっぷ清水しみず家老かろうである本多ほんだ昌忠まさただむすめであることが判明はんめいしたのだ。

 それが朝倉あさくら甚十郎じんじゅうろう養女ようじょとなった経緯いきさつについても家臣かしんさら掘下ほりさげさせた。

 その結果けっかひな朝倉あさくら甚十郎じんじゅうろう嫡子ちゃくし兵次郎へいじろう景房かげふさもととつぎ、しかし、安永元(1772)年におっと兵次郎へいじろう先立さきだたれ…、それはちち朝倉あさくら甚十郎じんじゅうろうにとってもおなじことであり、ともあれ、ひな本来ほんらいならば実家じっかである本多ほんだへとかえるべきところ、ひなしゅうとである、いや、しゅうとであった甚十郎じんじゅうろう今度こんどひな養父ようふとして、そだてることにしたそうな。

 そして朝倉あさくら甚十郎じんじゅうろう手元てもとそだてられた、それも行儀ぎょうぎ作法さほう仕込しこまれたひなはここ一橋ひとつばしやかた奉公ほうこうがることを、就職しゅうしょく希望きぼうしたということらしい。

 だがそれなら、ひな一体いったいなん目的もくてきがあって、ここ一橋ひとつばしやかた奉公ほうこうがることをのぞんだのか、治済はるさだはそのてん穿うがった。それと言うのも、「面接めんせつ」のさいひなじつちちについてはなにかたらなかったからだ。

 無論むろんとく理由りゆうはない、という可能性かのうせいかんがえられた。

 これでひなじつちち清水しみず家老かろうである本多ほんだ昌忠まさただでなかったならば、治済はるさだおそらくは安易あんいにそうかんがえたやもれぬ。

 だが実際じっさいにはひな清水しみず家老かろうむすめであり、しかも「面接めんせつ」のさい、それをだまっていたとなればはなしべつである。

 なに目的もくてきがあるのか…、猜疑心さいぎしんつよ治済はるさだならばそう穿うがつのが自然しぜんであった。

 だが治済はるさだはそのてんにはえてれることなく、ひな採用さいようすることにしたのだ。

ひな心底しんてい、この治済はるさだみずか見定みさだめてやろう…」

 治済はるさだはそうかんがえたからだ。

 そしていままさにその機会チャンスおとずれたというわけだ。

ひなかりに、本多讃岐ほんださぬきより差向さしむけられし間諜かんちょうなれば、かならずや、いま上様うえさまはなし…、高島たかしま安三郎やすざぶろう使嗾しそうして、大納言だいなごんさまいのち頂戴ちょうだいするとの、そのはなし田沼たぬま市左衛門いちざえもんつたえ、そのうえで、大納言だいなごんさま暗殺あんさつ阻止そしせんと、ひな田沼たぬま市左衛門いちざえもん持掛もちかけるやもれませぬな…」

 岩本いわもと喜内きない治済はるさだむねのうちを代弁だいべんしてみせた。

 まさしくそのとおりであり、治済はるさだうなずいた。

 いや、そればかりではない、意致おきむねを「ミスリード」させることにもつながる。

 すなわち、治済はるさだまこと家基暗殺いえもとあんさつ手先てさきとして使つかおうとしているのは高島たかしま安三郎やすざぶろうではないからだ。

 にもかかわらず、ひなから高島たかしま安三郎やすざぶろうかされれば、意致おきむね勝富共々かつとみともども安三郎やすざぶろう注意ちゅういけるにちがいなく、それは治済はるさだにとってはそれだけ、家基いえもと暗殺あんさつ容易よういとなる。

 そして、これはさきのことだろうが、れて大願成就たいがんじょうじゅ、その手始てはじめとして家基いえもと暗殺あんさつ成功せいこうしたあかつきには「裏切者うらぎりもの」のひなくちふうじるつもりであった。

 その夕方ゆうがた意致おきむねはやはり、丸山まるやま豊五郎とよごろう案内あんないにより風呂場ふろばへとかった。

 そこは大浴場だいよくじょうと言うに相応ふさわしく、如何いか意致おきむね三卿さんきょう家臣かしん一橋ひとつばし家臣かしんなかでも頂点ちょうてん家老かろうであったとしても、過分かぶんであった。

 もっとも、治済はるさだの「厚意こうい」を無碍むげには出来できず、意致おきむね恐縮きょうしゅくしながら風呂場ふろばあしれた。

 そして意致おきむね身体からだあらおうとするや、ひと気配けはいがした。

 湯煙ゆけむりぐには人別にんべつがつかなかったが、やがてそれが女性にょしょうであるとかった。

 それも湯文字ゆもじまとっていることから、湯女ゆなであるとぐにかった。

 意致おきむねはいよいよ恐縮きょうしゅく、いや、大慌おおあわてであった。

 湯女ゆなとは端的たんてきに言えば身体からだあらってくれるおんなのことだが、それだけではない。

 すくなくとも、意致おきむね取込とりこもうとしている治済はるさだとう意致おきむね湯女ゆな差向さしむけたということは、その湯女ゆな治済はるさだより意致おきむね身体からだあら以上いじょうの「奉仕サービス」につとめるよう、言含いいふくめられているに相違そういなかった。

 だとしても、意致おきむね流石さすがにそこまでの「厚意こうい」をけるつもりはなかった。

「いや…、その、結構けっこうでござる…、自分じぶんで…」

 身体からだあらえるからと、「奉仕サービス」を拝辞はいじしようとした。

 するとその湯女ゆなもといひな意致おきむねたいして、「おしずかに…」とげたかとおもうと、

わたくしめは、清水しみずつかえし本多讃岐ほんださぬき一子いっしひなもうものにて…」

 そう自己じこ紹介しょうかいしたのであった。

 一方いっぽう意致おきむねおもわぬ展開てんかい戸惑とまどった。

本多ほんだ…、讃岐さぬき…、しからば家老かろう本多ほんだ讃岐守さぬきのかみ殿どのむすめにて?」

 意致おきむねたしかめるようたずねると、ひなうなずいた。

「して、雛殿ひなどの一体いったい…」

 まさかに湯女ゆなとしておのれもとへとあしはこんだともおもえない、いや、治済はるさだよりは湯女ゆなおおかったのやもれぬが、ひなはそれとはべつなに思惑おもわくがあるにちがいなく、だからこそ、突然とつぜん湯女ゆな登場とうじょうおどろおのれに、

「おしずかに…」

 などとせいしたにちがいないと、意致おきむねはそうにらんだ。

 たして意致おきむねにらんだとおりであり、ひな衝撃的しょうげきてき事実じじつ打明うちあけたのであった。

 すなわち、治済はるさだ我子わがこ豊千代とよちよ家基いえもとってわらせようとしている、つまりは家基いえもとわる次期じき将軍しょうぐんえるべく、家基いえもと暗殺あんさつ目論もくろんでいると、その事実じじつであった。

 意致おきむねはその事実じじつかされて、「やはりな…」とおもった。

 だがそれにしてもからないのはひな意図いとである。

 そのよう衝撃的しょうげきてき事実じじつ態々わざわざおのれつたえるということは、ひな自身じしん治済はるさだよりじか天下てんが謀叛むほんと言っても差支さしつかえないその事実じじつ打明うちあけられたものとえる。

 だとしたら治済はるさだひなたいして何事なにごとかを期待きたいして、おのれもとへと、それも風呂ふろはいったおのれもとへとひなには湯女ゆな真似まねまでさせて差向さしむけたに相違そういあるまい。

ひなには…、このおれからなにかを聞出ききださせるべく?」

 治済はるさだひな差向さしむけたに相違そういあるまい。そうでなければひな湯女ゆな真似事まねごとまでさせた理由りゆうがつかない。

 意致おきむねがそんなことをかんがえていると、ひなにもつたわったらしく、

「されば、如何いかにも、おかんがえのごとく、このひな上様うえさま…、民部卿みんぶのきょうさまより田沼たぬま殿どののことを…、公方くぼうさまよりなに密命みつめいを…、民部卿みんぶのきょうさま徹底的てっていてき監視かんしせし以上いじょう密命みつめいあずかっているのではあるまいか、だとしたらそれを聞出ききだせ、と…」

 治済はるさだよりめいじられたことを意致おきむね打明うちあけたのであった。

「やはり、そうか…」

 意致おきむね合点がてんしたのもつか

徹底的てっていてき監視かんし、といまもうされたが、それは…」

 治済はるさだくちにしたことなのか、意致おきむねひなおそおそたずねた。

 だとしたら治済はるさだ何故なにゆえおのれ一橋ひとつばし家老かろう拝命はいめいしたのか、そのことを承知しょうちしているにちがいないからだ。そうでなければ、

徹底的てっていてき監視かんし…」

 そのよう言葉ことばないはずだからだ。

 それにたいしてひなうなずいたかとおもうと、将軍しょうぐん家治いえはる治済はるさだ野望やぼう、いや、「天下てんが謀叛むほん」に気付きづいており、それを阻止そしすべく、水谷勝富みずのやかつとみとも田沼たぬま意致おきむねまで一橋ひとつばし家老かろうとして治済はるさだもとへと送込おくりこみ、治済はるさだ徹底的てっていてき監視かんしたらせようとしている…、そのことを、治済はるさだそば用取次ようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきらよりかされてったのだと、意致おきむね打明うちあけた。

 それで意致おきむねもやはり合点がてんがいった。いや、その密命みつめい御座之間ござのまにて意致おきむね将軍しょうぐん家治いえはる一対一いったいいち所謂いわゆる

人払ひとばらいよう…」

 その状態じょうたい家治いえはるより意致おきむねへとじかめいじられたことなので、当然とうぜんほかにその密命みつめいいたものはおらず、そば用取次ようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきらとてその例外れいがいではない。

 だが稲葉いなば正明まさあきら将軍しょうぐん最側近さいそっきんとも言うべきそば用取次ようとりつぎしょくにある。

 そうであれば仮令たとえ将軍しょうぐん家治いえはるくちにはさずとも、以心伝心いしんでんしん家治いえはるおもいが正明まさあきらにもつうじたのであろう。

 それにしてもからないのはひな思惑おもわくである。ここまで意致おきむね打明うちあけるとは、治済はるさだ裏切うらぎることにほかならないからだ。

 するとひなはまたしても意致おきむねむねのうちを読取よみとったらしく、意致おきむねに「共闘きょうとう」を持掛もちかけたのであった。

「されば…、このひな民部卿みんぶのきょうさまには最早もはや、ついてはいけませぬ…。こともあろうに大納言だいなごんさまがいたてまつろうなどとは…、そのうえわたくしめに湯女ゆな真似事まねごとまでさせて…」

 ひなはそこで言葉ことばまらせた。

 それからいてからひなさきつづけた。

「さればこのひな民部卿みんぶのきょうさま謀叛むほん打砕うちくだこうと…、そこで田沼たぬまさまちからに…」

手前てまえちからしてくれるともうされるのか?」

「はい…、無論むろん打算ださんもござりまするが…」

打算ださん、とな?」

「はい…、さればさきもうしましたるとおり、このひなちち本多讃岐ほんださぬき清水しみず家老かろうにて…、それも、ただの家老かろうではなく、宮内卿くないきょうさま附人つけびともうすよりは抱入かかえいれちかく…」

 三卿さんきょう家臣かしんには附人つけびと附切つけきり、そして抱入かかえいれの3種類しゅるいけられる。

 このうち、附人つけびと附切つけきり幕臣ばくしんであり、三卿さんきょう所謂いわゆる、「御目付おめつけやくてき側面そくめんがあるのにたいして、抱入かかえいれ三卿さんきょう個人的こじんてき雇入やといいれたものであり、それゆえ

股肱ここうしん

 抱入かかえいれにはそのよう側面そくめんがあった。

 三卿さんきょう家老かろう当然とうぜん幕臣ばくしんであり、附人つけびとぞくする。つまりは三卿さんきょうの「御目付おめつけやく」であった。

 だが、こと本多讃岐ほんださぬきこと、讃岐守さぬきのかみ昌忠まさただはその例外れいがいであるらしい。

「されば叔父おじ…、ちち讃岐さぬき実弟じってい六三郎ろくさぶろう長卿ながのり宮内卿くないきょうさまがまだ、幼名ようみょう萬次郎まんじろうぎみ名乗なのりあそばされしみぎりより、近習きんじゅうとしてつかたてまつり、いまでは六三郎ろくさぶろう清水しみずにて物頭ものがしらつとめておりまする…、それゆえちち讃岐さぬき叔父おじ…、おとうと六三郎ろくさぶろう感化かんかされ、いまや、宮内卿くないきょうさま股肱ここうしん同然どうぜんにて…」

 ひな本多ほんだ昌忠まさただ重好しげよしの「股肱ここうしん」となった経緯いきさつについてそう絵解えときをしてみせた。

 それで意致おきむね合点がてんがいった。

「また、このわたくしめも、いまでこそ、ここ一橋ひとつばしやかたにてつかえておりまするが、なれどこころ宮内卿くないきょうさまにあり…、されば三卿さんきょう一橋ひとつばし民部卿みんぶのきょうさましずめば、そのぶんおなじく三卿さんきょう清水しみず宮内卿くないきょうさま浮上ふじょうするともうすものにて…」

 ひなは「打算ださん」の正体しょうたいについて意致おきむね打明うちあけた。

成程なるほど…、それゆえに、手前てまえちからしてくれる、と…」

「はい…、田沼たぬまさまちからになれれば、民部卿みんぶのきょうさま追落おいおとすことにつながりますゆえ…」

 たしかに、治済はるさだの「天下てんが謀叛むほん」が白日はくじつもとさらされれば、治済はるさだ間違まちがいなく失脚しっきゃくする。それどころか、そのくびさえもあやういやもれぬ。

 いや、いのちだけはたすかったとしても、終生しゅうせい、どこぞの大名だいみょうにてあずけとなるであろう。つまりは逼塞ひっそく幽閉ゆうへいであり、それもとみ豊千代とよちよ母子ぼしそろって、となるであろう。

 そうなれば畢竟ひっきょう一橋ひとつばし取潰とりつぶし、いや、取潰とりつぶしはまぬがれたとしても、当主とうしゅ不在ふざい明屋形あきやかたとなるのはまぬがれまい。

 そのとき重好しげよしでも出来できれば、それも嫡子ちゃくしほかにも庶子しょしをもうければ、その庶子しょし一橋ひとつばしがせる、ということも可能かのうであろう。つまり、一橋ひとつばし清水しみずを、重好しげよしれることが出来できるというわけだ。

 ひなはそこまで見通みとおして、意致おきむね協力きょうりょく、「共闘きょうとう」を持掛もちかけたのであった。

失望しつぼうさせたやもれませぬな…」

 ひな打算ださんから意致おきむね協力きょうりょく申出もうしでたことをじている様子ようすであった。

 成程なるほど理想りそうとしてはなん打算ださんきに、つまりは純粋じゅんすい家基いえもといのちまもりたいと、そのおもいから意致おきむね協力きょうりょくしてくれるのがなによりであろう。

 だが意致おきむねとしてはむしろ、打算ださんがあるほう信用しんよう出来できた。

 なん打算ださんもない人間にんげんなど、いないと断言だんげん出来できたからだ。かりにそのよう人間にんげんがいるとするならば、それは余程よほど大法螺吹おおほらふきか、さもなくば打算ださんがあるにもかかわらず、それを自覚じかくしていないかのどちらかであり、いずれにしろ人格破綻者サイコパスであろう。すくなくとも意致おきむねはそうかんがえていた。

 それゆえに、打算ださんがあり、そのことを正直しょうじき打明うちあけたひな意致おきむねにとっては信用しんよう出来でき人物じんぶつであると、そのひとみうつった。

「いや、くぞ、そこまで打明うちあけてくれもうした…」

 意致おきむねひなをそういたわると、

「されば…、民部卿みんぶのきょうさま大納言だいなごんさま側近そばちかくにつかたてまつりしもの使嗾しそうして、大納言だいなごんさまいのち頂戴ちょうだいたてまつるとのはなしでござったが、そのものは…」

 治済はるさだより、「実行犯じっこうはん」のいているのか…、そのてん問質といただした。

いておりまする。されば…」

 ひなさら小声こごえでそのものげた。

 風呂場ふろばそとからでは、常人じょうじんでは当然とうぜん聞取ききとれないその言葉ことばも、あかねであればべつであった。

 あかねはそれまで風呂場ふろばそとからひな意致おきむねとのやり取りをすべて「盗聴とうちょう」し、しかも一言いちごん一句いっくあたまたたむと、それを主君しゅくん治済はるさだまえ正確せいかく再現さいげん披露ひろうしてみせたのであった。

なんと…、そはまことか?」

 治済はるさだあかねからの報告ほうこくえると、開口一番かいこういちばんがそれであった。

 いや、治済はるさだとて、あかねうそをついているなどとはおもっていなかった。

 それはかっていたものの、それでもどうしてもそのようたずねずにはいられなかったのはひとえに、ひな意致おきむねささやいたものしんじられなかったからだ。

ひなまこと…、まことに、山川越前やまかわえちぜんげたのか…」

 治済はるさだにしてはめずらしく、うめようたずねた。

 ひなかならずや、おのれ裏切うらぎり、意致おきむねに「共闘きょうとう」を、家基暗殺いえもとあんさつ阻止そししようと持掛もちかけるに相違そういないと、治済はるさだはそうんでいた。

 事実じじつひな意致おきむねに「共闘きょうとう」をびかけ、ここまでは治済はるさだ計算通けいさんどおり、まさに、

計画通けいかくどおり」

 と言えた。だがそれにくるいがしょうじたのは、ひな意致おきむねげたであった。

 すなわち、治済はるさだ家基暗殺いえもとあんさつため使嗾しそうするものとして、ひなには西之丸にしのまる小納戸こなんど高島たかしま安三郎やすざぶろう廣儔ひろかずげたにもかかわらず、しかしひな意致おきむねたいして、それとはべつげたのだ。

 そのものとは、山川越前やまかわえちぜんこと越前守えちぜんのかみ貞榮さだよしであり、山川貞榮やまかわさだよし西之丸にしのまる小姓こしょうであり、小納戸こなんどですらない。

 ひな意致おきむねたいして、治済はるさだよりかされたもの…、治済はるさだ家基暗殺いえもとあんさつ使つかおうとしているものとして、高島たかしま安三郎やすさぶろうではなく山川貞榮やまかわさだよしげたのであった。

 これは一体いったい、どう解釈かいしゃくしたらいものか…、さしもの治済はるさだにも判断はんだんがつきかね、そこでとなりひかえていた岩本いわもと喜内きないへと目配めくばせした。

 どうしたらいか…、治済はるさだ喜内きないでそういかけた。

 すると喜内きないもそうとさっして、「おそれながら…」と切出きりだすや、

「このさいひな召出めしだし、田沼たぬま市左衛門いちざえもんとのやりりにつきまして、ひなより申述もうしのべさせましては如何いかがでござりましょうや…、すでひな田沼たぬま市左衛門いちざえもんとのやりりにつきましては、あかねよりのしらせにて把握はあくし、さればひなよりも田沼たぬま市左衛門いちざえもんとのやりりにつきまして、これを申述もうしのべさせ、かりに、そこにあかねよりのしらせと食違くいちがいがありますれば、それはひなうそをついたことになり…」

 ひいては、ひな裏切うらぎりの証拠しょうこともなる…、喜内きないはそう提案ていあんしたのであった。

 治済はるさだ喜内きないのその提案ていあん至当しとうみとめるや、やはりあかねひなれてさせると、

素知そしらぬかおで…」

 ひな風呂場ふろばでの田沼たぬま市左衛門いちざえもんとのやりりについて、その報告ほうこくもとめたのであった。

 その結果けっかひな治済はるさだ裏切うらぎってはいないことが判明はんめいした。いや、報告ほうこくだけならば、そう判断はんだんせざるをなかった。

 すなわち、ひな報告ほうこくあかねのそれと寸分違すんぶんたがわぬものであった。

左様さようか…、なれどこの治済はるさだ意致おきむねより、上様うえさまよりの内意ないい聞出ききだせともうしたはずだが…」

 治済はるさだひなより報告ほうこくえるなり、そのてんただした。

 それにたいしてひなはまず、「申訳もうしわけござりませぬ」とみずからのみとめてあやまったうえで、

「されど、それよりは田沼たぬま殿どのにはうそおしえて差上さしあげましたほうが、大納言だいなごんさま暗殺あんさつがしやすうなると…」

 じつおそろしいことをサラリと言ってのけた。

「ほう…、暗殺あんさつがしやすくなる、とな?」

 治済はるさだ乗出のりだしてたずねた。

御意ぎょい…、されば上様うえさま小納戸こなんど高島たかしま安三郎やすざぶろう殿どの使嗾しそうして大納言だいなごんさま暗殺あんさつはかろうと、左様さようおしえあそばされましたな?」

 ひな治済はるさだたしかめるようたずねた。

左様さよう…」

「さればその高島たかしま安三郎やすざぶろう殿どのをそのまま馬鹿ばか正直しょうじきに、田沼たぬま殿どのおしえて差上さしあげましては、田沼たぬま殿どの水谷みずのや殿どのにもこのむねつたえて、ひとかいして高島たかしま安三郎やすざぶろう殿どの注意ちゅういはらい…、もそっともうさば徹底的てっていてき監視下かんしかくに相違そういなく…、その過程かてい高島殿たかしまどの大納言だいなごんさまがいたてまつらんとせし、その現場げんば取押とりおさえられるやもれず、そうなれば最悪さいあく高島殿たかしまどのくちより、上様うえさまれるやもれず…」

 そこでえて高島たかしま安三郎やすざぶろうとは…、治済はるさだ家基暗殺いえもとあんさつ使つかおうとしている高島たかしま安三郎やすざぶろうとはべつを、すなわち、西之丸にしのまる小姓こしょう山川貞榮やまかわさだよしげたのだと、ひな治済はるさだ打明うちあけた。

「されば、田沼たぬま殿どの水谷みずのや殿どの注意ちゅうい山川殿やまかわどのへとそそがれ…」

 そのぶん高島たかしま安三郎やすざぶろうには注意ちゅいはらわれず、高島たかしま安三郎やすざぶろうによる家基暗殺いえもとあんさつがそれだけ容易よういになると、ひな意致おきむねえてべつを、山川貞榮やまかわさだよしおしえた理由わけをも打明うちあけたのであった。所謂いわゆる、「ミスリード」が目的もくてきであった。

左様さようか…、いや、ひなよ、うたごうてわるかったの…」

 治済はるさだおもわずそう謝罪しゃざい言葉ことばくちにしたかとおもうと、ひな湯女ゆな真似事まねごとまでさせて、意致おきむねもとへと差向さしむけたまこと目的もくてき打明うちあけたのであった。

 これにはとなりひかえる岩本いわもと喜内きない流石さすがおどろき、主君しゅくん治済はるさだせいそうとした。

 ひな裏切うらぎってはいなかったことはかったが、しかし、いま段階だんかいでそこまでひな打明うちあけてもいものか、喜内きないはそれを躊躇ちゅうちょしたからだ。

 だが治済はるさだ喜内きない制止せいしかぶりってみせた。

喜内きないあんずるのも無理むりはないが、なれど、ひな心底しんていしか見届みとどけた…、このうえなにもかも打明うちあもうそう…」

 治済はるさだはそう切出きりだすと、おのれまこと家基いえもといのちうばうべく、その手先てさきとなるものげようとした。

 だがそれをひなせいした。

「それにはおよびませぬ…、さればらぬがはな、ともうすものにて…」

らぬがはな、とな?」

 治済はるさだくびかしげつつ、問返といかえした。

御意ぎょい…、さればわたくしめはすでに、田沼たぬま殿どのたいしまして、山川殿やまかわどのを…、上様うえさま大納言だいなごんさまがいたてまつるべく、その手先てさきとなるものとして西之丸にしのまる小姓こしょう山川殿やまかわどのもうし、さらにこのうえ上様うえさまよりまことを…、上様うえさままこと手先てさき思召おぼしめされしものうかがいましては、それこそふとしたはずみで、田沼たぬま殿どのらすおそれ、きにしもあらず、にて…」

 だからかないほういのだと、ひな示唆しさした。

 ひなのその主張しゅちょう治済はるさだおおいにかんった。

 いや、これでひなまことを…、治済はるさだ家基暗殺いえもとあんさつ手先てさきとして使つかものこうとしたならば、それも積極的せっきょくてききたがったならば、治済はるさだも、「あるいは…」と、喜内きない懸念けねんしたとおり、一抹いちまつ不安ふあんすなわち、

ひなにはまだ裏切うらぎりの可能性かのうせいがあるのではあるまいか…」

 治済はるさだはそれを看取かんしゅしたやもれぬ。

 だが実際じっさいにはひなはそれとは正反対せいはんたいに、治済はるさだ折角せっかくまこと打明うちあけようとしているにもかかわらず、それを拝辞はいじしたのだ。

 それゆえ治済はるさだ愈愈いよいよもって、ひなしんじられた。

「いや…、あらためてひな心底しんていしか見届みとどけたぞ…、一時ひとときたりともうたごうてまなんだな…」

 治済はるさだひな裏切うらぎるのではないかと、一瞬いっしゅんでもうたがったことをびた。

 するとひなかぶりってみせた。

上様うえさまがこのひなをおうたがいあそばされますのも至極しごく当然とうぜんもうすものにて…」

 ひな治済はるさだおのれうたがったことに理解りかいしめしたかとおもうと、

「さればこのひな清水しみずやかたにて家老かろうつとめし本多讃岐ほんださぬき一子いっしにて…」

「おお、そうであったの…、風呂場ふろばにて意致おきむねにも左様さよう打明うちあけたそうだの…」

 ひな先程さきほどの、風呂場ふろばにおける意致おきむねとのやりりの報告ほうこくなかでも、その「くだり」があり、それゆえ治済はるさだもそのことをはじめてった、うらかえせば、ひな報告ほうこくけるまでは、ひな清水家老しみずかろう本多ほんだ昌忠まさただむすめであったなどとはよしもない…、治済はるさだはそうよそおった。

 治済はるさだとしてはおのれの「芝居しばい」に自信じしんがあったものの、しかし、ひなにはそれが「芝居しばい」にぎないと「お見通みとおし」であった。

 それでもひな治済はるさだの「芝居しばい」、それも「三文さんもん芝居しばい」に付合つきあうことにし、「御意ぎょい」とおうじた。

「なれど、それでは…、清水宮内しみずくない殿どの天下てんがのぞむものではないか?されば、たとえばだ、この治済はるさだ大納言だいなごんさまがいたてまつり、我子わがこ豊千代とよちよ大納言だいなごんさまわる次期じき将軍しょうぐんようほっしている…、そのことを上様うえさまにでも言上ごんじょうつかまつれば、この治済はるさだ間違まちがいなく失脚しっきゃくし、さればそのぶん、この治済はるさだおな三卿さんきょう清水宮内しみずくない殿どの地位ちい相対的そうたいてき浮上ふじょうするともうすものにて…」

成程なるほど…、上様うえさまおおせも一理いちりあれども、ちちはあくまで附人つけびとにて…」

 昌忠まさただはあくまで清水しみず重好しげよし監視役かんしやくである家老かろうぎず、つまりは監視かんし対象たいしょうにしかぎず、それゆえ監視かんし対象たいしょうである重好しげよし天下てんがをそこまでのぞんではいない…、ひな治済はるさだにそう示唆しさした。

たしかにそうかもれぬが、なれど、そなたのててには附切つけきりおとうともおられるではないか…、しかも宮内くないきょうがまだ、萬次郎まんじろう幼名ようみょう名乗なのりしころより、近習きんじゅうとしてつかえし…」

 治済はるさだは、いま清水しみず物頭ものがしらつとめる六三郎ろくさぶろう長卿ながのりのことを指摘してきした。

「さればおとうと附切つけきりもうすよりは、抱入かかえいれちかいと…、たしか、意致おきむね左様さようもうしたではあるまいか…、それゆえにそなたのてても、左様さようおとうと感化かんかされ、いまでは家老かろうであるにもかかわらず、おとうと同様どうよう抱入かかえいれようだと…」

 治済はるさだはやはり、ここでも意致おきむねとのやりりをかされてはじめてったふうよそおった。

 いや、昌忠まさただ本多ほんだ六三郎ろくさぶろう長卿ながのりなるおとうとがおり、しかもその六三郎ろくさぶろう重好しげよし幼少ようしょうみぎりより近習きんじゅうつとめ、そのうえいまでは清水しみずにて物頭ものがしらつとめていることは治済はるさだもそれ以前いぜんから把握はあくしていたものの、しかし、昌忠まさただがそんなおとうと六三郎ろくさぶろう感化かんかされ、いまではすっかり、気分きぶんは「抱入かかえいれ」、つまりは重好しげよし股肱ここうしんしていたなどとは、そのてんかんしては治済はるさだ初耳はつみみであり、芝居しばいではなかった。

たしかに、田沼たぬま殿どのには左様さようもうしました…」

「ともうすと、いつわりだと?」

「いえ、いつわりではなく…、なれど宮内くないきょうさま天下てんがのぞんでおられしは、あくまでちち叔父おじにて…」

「そなたはちがう、と?」

御意ぎょい…、さればわたくしめは本多讃岐ほんださぬき一子いっしもうしましても、実際じっさいには養父ようふ朝倉あさくら甚十郎じんじゅうろうそだてられ、いまではここ、民部卿みんぶのきょうさまがお屋形やかたにてつかたてまつりしなれば…」

宮内くない殿どのよりも、この治済はるさだ天下てんがのぞんでくれるともうすのか?」

 治済はるさだ乗出のりだしてたずねた。

御意ぎょい…、それにわたくしめは本多讃岐ほんださぬき一子いっしとはもうしましても、同時どうじに、わたくしめがあねほたる島崎しまざき一郎右衛門いちろうえもん忠儔ただともつまにて…」

 ひながそのした途端とたん治済はるさだは「あっ」とこえげた。

 すなわち、本丸ほんまる小姓こしょう組番ぐみばんでもある島崎しまざき一郎右衛門いちろうえもん実弟じってい源左衛門げんざえもん康備やすなりはここ、一橋ひとつばしやかたにて治済はるさだ近習きんじゅうとしてつかえる松平まつだいら佐左衛門すけざえもん康誠やすなり養嗣子ようししとしてむかえられ、いまでは源左衛門げんざえもん養父ようふ松平まつだいら佐左衛門すけざえもんならい、治済はるさだ近習きんじゅうとしてつかえており、そのうえ一郎右衛門いちろうえもん実妹じつまい源左衛門げんざえもんにとってはあねたるたまもまた、かつてはここ一橋ひとつばしやかた大奥おおおくにて侍女じじょとしてつかえ、いま西之丸にしのまる書院番しょいんばん久世くぜ三之丞さんのじょう廣和ひろかずつまであった。

 治済はるさだひなくちにした「島崎しまざき一郎右衛門いちろうえもん」のからそれらを連想れんそうし、それゆえの、「あっ」であった。

「されば…、ひなあね感化かんかされて、さしずめ一橋ひとつばし贔屓びいきになってくれたと?」

御意ぎょい…、されば朝倉あさくら甚十郎じんじゅうろう養女ようじょとしてそだてられし、このわたくしめをにかけてくれましたのがあねほたるにて…、わたくしめが民部卿みんぶのきょうさまつかたてまつることに相成あいなりましたのも、あねほたるすすめにより…」

成程なるほどのう…、そうであったか…」

 やはり治済はるさだには初耳はつみみであり、何度なんどうなずいた。

「いや、かったぞ…」

 治済はるさだひなおのれ味方みかたであると、心底しんそこ合点がてんした。

「それにしても…、意致おきむねあざむくべく、山川越前やまかわえちぜんすとはのう…、これは一体いったい何故なにゆえぞ?」

 ひな意致おきむねあざむくべく、治済はるさだ家基暗殺いえもとあんさつ手先てさきとして、山川越前やまかわえちぜんこと西之丸にしのまる小姓こしょう山川やまかわ越前守えちぜんのかみ貞榮さだよししたことが、治済はるさだにはからなかった。

「されば山川殿やまかわどのはかつては、大納言だいなごんさまとぎつとめられ…」

 たしかにそのとおりであり、貞榮さだよしは明和4(1767)年11月より安永2(1773)年12月までの6年間ねんかん家基いえもととぎつとめていた。

 だが、同時代どうじだいとぎつとめていた溝口みぞぐち相模守さがみのかみ直舊なおもと津田つだ能登守のとのかみ信久のぶひさくらべると、どうしても埋没まいぼつしがちであった。

 はやはなし家基いえもと溝口直舊みぞぐちなおもと津田つだ信久のぶひさ贔屓ひいきにし、山川貞榮やまかわさだよしとおざけていた。

 無論むろん貞榮さだよし一人ひとり露骨ろこつとおざけるような、そんなおろかな真似まね家基いえもともしなかった。

 だが家基いえもと人間にんげんである。どうしても好悪こうお感情かんじょうからはのがれられず、直舊なおもと信久のぶひさとはうまうものの、貞榮さだよしとはそれとは正反対せいはんたいに、どうにもうまわない様子ようすであった。

 もっとも、そのことは西之丸にしのまるにて家基いえもとつかえていたものだけに、それも中奥なかおくにて家基いえもと側近そばちかくにつかえていた小姓こしょう小納戸こなんどだけがにられたはなしであり、余人よじんにはられぬそれであった。

 だとするならば、ひなっているとはおもえず、にもかかわらず、ひなはまるでそれをっていたかのごとく、山川貞榮やまかわさだよしげたように、治済はるさだにはおもわれ、そのてんなぞであった。

 するとひながその「絵解えとき」をしてみせた。

「されば…、山川殿やまかわどのははは…、すなわち、越前殿えちぜんどのちち下總しもうさ殿どの…、本丸ほんまる目付めつけ山川やまかわ下總守しもうさのかみ貞幹殿さだもとどの妻女さいじょ駿府すんぷ町奉行まちぶぎょうつとめし朝倉あさくら仁左衛門じんざえもん景増かげます長女ちょうじょてるにて…」

朝倉あさくら…、ともうすと、さればそなたが養父ようふ朝倉あさくら甚十郎じんじゅうろうの?」

遠縁とおえんにて…、されば我子わがこ佐兵衛さへえ…、越前殿えちぜんどの通称つうしょうでござりまするが、佐兵衛さへえがどうやら大納言だいなごんさまよりうとまれているらしい、と…、てるかいしまして養父ようふ朝倉あさくら甚十郎じんじゅうろうもとにまでその愚痴ぐちとどき…」

成程なるほど…、それでそなたのみみにもとどいたともうすのだな?」

御意ぎょい…」

左様さようであったか…、かる事情じじょうがあったとはのう…、いや、それにしても田沼たぬま意致おきむね山川貞榮やまかわさだよしげたことはかったぞ…、されば意致おきむねもかつては西之丸にしのまる小納戸こなんどとして、大納言だいなごんさま側近そばちかくにてつかたてまつっていたゆえにの…、それも貞幹さだもと大納言だいなごんさまとぎつとめしころにの…」

 そのため意致おきむねもまた、貞榮さだよし家基いえもととぎであったにもかかわらず、家基いえもとからとおざけられ、うとまれていたことは当然とうぜんっていたであろう。

 その貞榮さだよし治済はるさだけて、家基暗殺いえもとあんさつ手先てさきにしようとしている…、意致おきむねひなよりそうかされたならば、成程なるほど意致おきむね容易よういしんじるであろう。

 治済はるさだひなのその判断はんだんめそやした。

おそりまするが…、なれどもまこと山川越前殿やまかわえちぜんどのげまして、よろしかったのでござりましょうや…」

「ともうすと?」

「されば上様うえさま大納言だいなごんさま暗殺あんさつ手先てさきとしてまこと使嗾しそうさせようと思召おぼしめされておりますもの山川越前殿やまかわえちぜんどのであったならばと、それをあんじておりまして…」

 成程なるほど治済はるさだ家基暗殺いえもとあんさつ手先てさきとして使つかおうとしているもの貞榮さだよしであったならば、意致おきむねにそのげてしまっては、意致おきむねを「ミスリード」させることはならないであろう。

 ひなはそれをあんじているらしく、しかしそれを治済はるさだ一笑いっしょうした。

安心あんしんせい、この治済はるさだ大納言だいなごんさま暗殺あんさつ手先てさきとして使嗾しそうせしもの高島たかしま安三郎やすざぶろうでもなくば、無論むろん山川貞榮やまかわさだよしでもないゆえにの…」

 じつを言えば、治済はるさだ貞榮さだよしけんなればっていた。それと言うのも当時とうじよりいまいたるまで、小姓こしょう頭取とうどりとして家基いえもとつかえている市岡いちおか但馬守たじまのかみ房仲ふさなかよりおしえられたからだ。

 それゆえ治済はるさだ一時いっときはその山川貞榮やまかわさだよし家基暗殺いえもとあんさつ手先てさき使つかおうかともかんがえたこともあったが、しかし、生憎あいにく一橋ひとつばしとの所縁ゆかりがなく、そのようもの家基暗殺いえもとあんさつという、天下謀叛てんがむほんにも相当そうとうする重大事じゅうだいじ打明うちあようものなら、公儀こうぎ、と言うよりは家基いえもとちちである将軍しょうぐん家治いえはるへと密告みっこく告口つげぐちされる危険性リスクがあり、そこで治済はるさだ貞榮さだよし家基暗殺いえもとあんさつ手先てさきとして使つかうのを断念だんねんしたのであった。

 治済はるさだがそのことをひな打明うちあけると、ひな心底しんそこ、ホッとした様子ようすのぞかせた。

「それをうかがいまして安堵あんどいたしました…、これで大納言だいなごんさまいのちうばたてまつるになん差支さしつかえもないともうすものにて…」

 ひなじつおそろしいことをサラリと、それも笑顔えがおで言ってのけた。

まったく、おそろしいおなごよ…」

 治済はるさだはそうおもわずにはいられなかったが、それでも、それだけ家基いえもとねがっているのだと、あらためてそのことがかった。

「いや、ひなにもなに褒美ほうびをやらんとな…」

 治済はるさだおもわずそうつぶやいていた。
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