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序章 大奥への工作

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久方ひさかたぶりよのう…」

 治済はるさだ忠可ただよしかいうや、そうこえをかけると、

田安たやす門番もんばん就任しゅうにん、まずは祝着しゅうちゃく…」

 つづけてそうねぎらった。

 松平まつだいら直紹なおつぐ一橋ひとつばし門番もんばん着任ちゃくにんした昨日きのう、6月13日に本多ほんだ忠可ただよし田安たやす門番もんばん着任ちゃくにんした。

 田安たやす門番もんばんもまた、一橋ひとつばし門番もんばんおなじく禄高ろくだかが1万石から2万石クラスの譜代ふだいより2名えらばれ、忠可ただよしともに、内藤ないとう貞幹さだよしえらばれた。忠可ただよしそば用取次ようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきらによって一橋ひとつばし門番もんばん推挙すいきょされ、一方いっぽう貞幹さだよしもまたそば用取次ようとりつぎ横田よこた準松のりとしによって推挙すいきょされ、しかしとも一橋ひとつばし門番もんばんのがした二人ふたりであり、その二人ふたり将軍しょうぐん家治いえはる親裁しんさいにより田安たやす門番もんばんまわされたのであった。

 そして13日よりまず門番もんばんを、それも10日間つとめるのは内藤ないとう貞幹さだよしであり、それゆえ忠可ただよしはその翌日よくじつたる今日きょう14日、こうして一橋ひとつばしていおとずれることが出来できた。

おそたてまつりまする…」

 治済はるさだねぎらいに忠可ただよしはまるで将軍しょうぐんたいするかのよう治済はるさだせっした。つまりは平伏へいふくしたのであった。

忠可ただよしにとってははじめてだのう…、田安たやす門番もんばんは…、いや、田安たやす三卿さんきょうなかでも上首じょうしゅゆえ一橋ひとつばし門番もんばんよりもれがましいやもれぬな…」

 治済はるさだ自嘲じちょう気味ぎみにそう持上もちあげてみせると、「滅相めっそう御座ござりませぬ」との忠可ただよしこえ割込わりこんだ。

「この忠可ただよしいたしましては、出来得できうることなれば、民部卿みんぶのきょうさまもとにて門番もんばんつとたく…」

 民部卿みんぶのきょうさまとは一橋ひとつばし治済はるさだのことをしており、つまりは一橋ひとつばし門番もんばんつとめたかったと、忠可ただよし如何いかにも口惜くちおしそうにしてせた。

「いや、なによりも有難ありがた言葉ことばだのう…」

 治済はるさだいま忠可ただよし言葉ことば感謝かんしゃしめすと、

ときに…、忠央ただなか忠由ただよし息災そくさいにしておるかの…」

 治済はるさだ話題わだいてんじて、忠可ただよしもとらす二人ふたりあんじてみせた。

「ははっ、二人ふたりとも息災そくさいにて…」

 忠可ただよしがそうおうずるや、「それは重畳ちょうじょう…」と治済はるさだおうじ、

「されば…、忠由ただよしは13年、忠央ただなかは8年になるかのう…」

 治済はるさだおもしたかのようにそうげた。

 13年と8年、それは二人ふたり夫々それぞれ忠可ただよしもと寓居ぐうきょするようになってからの歳月さいげつであった。

 すなわち、13年前の明和2(1765)年にゆるされた忠由ただよしぐに忠可ただよしもとらしはじめたのにたいして、養父ようふ忠央ただなかはと言うと、ゆるされたのがそれよりも3年、明和5(1768)年のことであり、しかも忠央ただなか赦免しゃめんぐには忠可ただよしもとではらさずに、分家ぶんけすじたる菊多きくたごおりいずみはん1万5千石をりょうする本多ほんだ弾正少弼だんじょうしょうひつ忠籌ただかずもとにて、それも浅草寺町せんそうじちょう上屋敷かみやしきにてらしはじめた。これは幕命ばくめいによる。

 たしかに忠央ただなか赦免しゃめんされ、その蟄居ちっきょさきである津山つやまはんより放免ほうめんされたとは言え、完全かんぜん自由じゆうとなったわけではなく、赦免しゃめんもその居住きょじゅうさきについて指定していける。それが養嗣子ようしし忠由ただよしとのちがいであり、忠由ただよし場合ばあい養父ようふ忠央ただなか連坐れんざしただけで、言うなればあおりをったにぎず、それゆえ赦免しゃめんはどこにらそうとも自由じゆうであった。

 それにたいして忠央ただなか罪人ざいにんであったゆえ赦免しゃめんしばらくのあいだ事細ことこまかな制約せいやくけ、それは居住きょじゅうさきについてもまり、赦免しゃめん江戸えどて、いずみはん上屋敷かみやしきにてらすようにと、公儀こうぎよりめいじられてのことであった。

 いや、忠央ただなかはそのよう制約せいやくけられるぶんうらかえせば制約せいやくしたがかぎりは生活せいかつにはこまらないわけで、そのてん完全かんぜん自由じゆうとなった忠由ただよしよりもめぐまれているとも言えた。なにしろ忠由ただよし完全かんぜん自由じゆうとなったわば代償だいしょうとして、生活せいかつ保障ほしょうされることもないからだ。

 ともあれ忠央ただなか赦免しゃめんには江戸えど浅草寺町せんそうじちょうにあるいずみはん上屋敷かみやしきにてらすようになったわけだが、それは2年にぎなかった。

 元々もともと西之丸にしのまる若年寄わかどしよりとして西之丸下にしのまるしたという一等地いっとうちんでいた忠央ただなかである、浅草寺町せんそうじちょうという御城えどじょうから大分だいぶはなれたらすのにえられなかったのだ。

 いや、それならば蟄居ちっきょさきであった津山つやまはそれ以上いじょうに、それもはるとおくにはなれていたと言えよう。

 だがそれならば、そこまで御城えどじょうからはなれていればあきらめもつくと言うものだが、浅草寺町せんそうじちょうともなるとそうもいかない。なにしろおな江戸えどだからだ。もうすこしで西之丸下にしのまるしたとどきそうな場所ばしょであるがゆえに、かえってがたいものがあった。

 忠央ただなかはそれゆえ浅草寺町せんそうじちょうでのらしに不平ふへい不満ふまんならて、忠籌ただかず心底しんそこ辟易へきえきさせた。

 そして忠籌ただかず幕命ばくめいにより忠央ただなか引取ひきとってから2年後の明和7(1770)年、いまから8年前についけっして、公儀こうぎたいしてこれ以上いじょう忠央ただなか面倒めんどうるのはめんだと泣付なきついたのであった。

 忠籌ただかず自身じしん参勤交代さんきんこうたいにより、1年ごと江戸えど国許くにもとであるいずみはんとを往復おうふくするので、忠央ただなか愚痴ぐち被害ひがいにそれほどわなくてむが、江戸詰えどづめの、上屋敷かみやしきにてつとめる家臣かしんともなるとそうはいかない。

 忠籌ただかずとしては大事だいじ家臣かしんまもため忠央ただなか屋敷やしきから追出おいだゆるしを公儀こうぎもとめたのであった。

 それにたいして公儀こうぎ今更いまさら過去かこ忠央ただなかなぞ、どうでもいという意識いしきはたらき、こうして「れて」忠央ただなかもまた、忠由ただよし同様どうよう完全かんぜん自由じゆうとなり、忠籌ただかず屋敷やしきから追出おいだされたのであった。

 そしてその忠央ただなかつぎたよったさきこそが、ほかでもない忠可ただよしもとであった。忠可ただよし藩主はんしゅとしてつとめる山崎藩やまさきはん上屋敷かみやしき濱町はまちょうにあり、御城えどじょうからは西之丸下にしのまるしたほどちかさではないものの、浅草寺町せんそうじちょうくらべればはるかに御城えどじょうちかく、こうして忠央ただなか養嗣子ようしし忠由ただよし合流ごうりゅうする格好かっこう濱町はまちょうにある山崎藩やまさきはん上屋敷かみやしきにてらすようになったのである。

 それがいまから8年前の明和7(1770)年のことであり、明和2(1765)年より忠可ただよしもとらすようになった忠由ただよしとのあいだに5年ものタイムラグがあるのはそのためであった。

 ともあれ治済はるさだ忠央ただなか忠由ただよし夫々それぞれ忠可ただよしもとらすようになってから、忠可ただより二人ふたり引取ひきとってからいまいたるまでの年月ねんげつ正確せいかく言当いいあてることで、忠可ただよしこころつかんだのであった。それだけ忠可ただよしのことをにかけているのだと、治済はるさだはアピールしたからだ。

 あんじょう忠可ただよし治済はるさだ言葉ことば感激かんげきした様子ようすであった。

 そこで治済はるさださら忠可ただよしこころ鷲掴わしづかみにしようとした。

「いや、そもそも忠央ただなかたして改易かいえきされる必要ひつようがあったのかいまだに疑問ぎもんぞ…」

 治済はるさだ忠可ただよしむねうちを、いや、それはだれよりもとう忠央ただなかのそれでもあったが、それを代弁だいべんしてみせると、

「それどころか西之丸にしのまる若年寄わかどしよりしょくうばわれる必要ひつようがあったのか、それすら疑問ぎもんぞ…」

 忠央ただなかいたならばいてよろこびそうな台詞セリフをもいてみせた。そしてそれは忠央ただなか養嗣子ようししである忠由ただよしとは叔父おじおい関係かんけいにある忠可ただよしにしてもそうであった。

「この治済はるさだ上様うえさま立場たちばであったならば、左様さようなことはしなかったであろうぞ…」

 治済はるさださら不遜ふそんにもそう言放いいはなったかとおもうと、

「それもこれも…、すべては…、元凶げんきょう意次おきつぐぞ…、意次おきつぐめが上様うえさまを…、先代せんだい家重公いえしげこうとろかし、忠央ただなか無実むじつつみにてばっし、そしていまでは家治公いえはるこうをもとろかしては政事まつりごと壟断ろうだんしておるによって…」

 意次おきつぐ批判ひはん矛先ほこさきけた。

「いや、門番もんばんけんにしてもそうぞ…、御城えどじょう諸門しょもんなかでもこと三卿さんきょうまもりし門番もんばんには由緒正ゆいしょただしき…、それこそ忠可ただよしようものえらばれるべきにて…、いや、さればこそ忠可ただよし田安たやす門番もんばん拝命はいめいしたわけだがの、ゆるせぬのは柳間やなぎのまづめの…、外様とざまぎぬ土方ひじかたなにがしめが一橋ひとつばし門番もんばん拝命はいめいせしことぞ…」

 治済はるさだ言葉ことばに、それも一言いちごん一句いっく忠可ただよし一々いちいちうなずいてみせた。

「されば土方ひじかたなにがしめは意次おきつぐ養女ようじょめとりしゆえに…」

 意次おきつぐ縁者えんじゃである土方ひじかたなにがしこと雄年かつなが一橋ひとつばし門番もんばんにゴリししたのだと、治済はるさだ忠可ただよしにそう示唆しさ、いや、誤導ごどうしたのであった。

 すると忠可ただよし治済はるさだ誤導ごどううたがいもせずにせられ、「ゆるせませぬなぁ…」とおうじたのであった。

左様さようゆるせぬ…、到底とうていゆるせぬが、なれどいま上様うえさまは…、いまがたもうしたとおり、すっかり意次おきつぐめにとろかされておる…、さればこのうえは…、たとえばだが、おのれそく意知おきともめを、まずは奏者番そうじゃばん取立とりたて、いでその筆頭ひっとうたる寺社じしゃ奉行ぶぎょうあるいは若年寄わかどしよりへとすすませ、そしてついには老中ろうじゅうへと…」

 治済はるさだ見立みたてに忠可ただよしいた。

「まさかに…、あのどこぞのうまほねともからぬ盗賊同様とうぞくどうよう下賤げせんなる成上なりあがりものめが…、いや、それ以前いぜん意知おきともめはいま部屋へやずみ…、大名だいみょうですらないではありませぬか…」

 そうであれば譜代ふだい大名だいみょうにとっての出世しゅっせ登竜門とうりゅうもんとも言うべき奏者番そうじゃばん取立とりたてられるはずがないではないか…、それが忠可ただよししんじる常識じょうしきであり、この時代じだい世間せけん一般いっぱんのそれでもあった。

たしかにのう…、なれど意知おきともめはいま老中ろうじゅうたる意次おきつぐそくとして雁間がんのまめておれば、奏者番そうじゃばん取立とりたてられる可能性かのうせいけっして、きにしもあらず、ぞ…」

 これもまた常識じょうしきではあった。治済はるさだの言うとおり、奏者番そうじゃばん取立とりたてられるのはおも雁間がんのまめる大名だいみょうすなわち、

取立とりたて譜代ふだい

 つまりは新興しんこう譜代ふだい大名だいみょうめられていた。

 その新興しんこう譜代ふだい大名だいみょうめる雁間がんのま大名だいみょうではないとは言え、意知おきともめているうえは、奏者番そうじゃばん取立とりたてられる可能性かのうせいけっしてゼロとは言えなかった。

忠可ただよしよ…、この治済はるさだはな、そなたのような…、由緒正ゆいしょただしき忠可ただよしようものこそ…、いや、忠可ただよしこそが若年寄わかどしよりや、あるいは老中ろうじゅう相応ふさわしいとおもうておるのだ…」

 治済はるさだの「ヨイショ」を忠可ただよしけ、如何いかにも感極かんきわまった様子ようすのぞかせ、「民部卿様みんぶのきょうさま…」とこえまらせた。

 そんな忠可ただよし様子ようす治済はるさだはらなかわらいつつ、しかし表面的ひょうめんてきにはそんなはらとはまさ裏腹うらはらに、あくまで神妙しんみょう面持おももちで、

「いや、この治済はるさだ上様うえさま立場たちばなれば、意次おきつぐなどではのうて、かならずやそなたを、忠可ただよし幕閣ばっかくへと取立とりたようぞ…、いや、そればかりか、意次おきつぐめが姦計かんけいにより無実むじつつみ改易かいえきされし忠央ただなかいえ再興さいこうゆるそうぞ…、そのうえ旧領きゅうりょうたる相良さがら忠央ただなかを…、忠央ただなかとその忠由ただよしふくさせようぞ…」

 治済はるさだがそう駄目押だめおしをすると、忠可ただよしこそいま治済はるさだにすっかりとろかされてしまった。

民部卿様みんぶのきょうさま…、民部卿様みんぶのきょうさまこそ上様うえさまであらせられましたならば、どれほどかったことか…」

 忠可ただよしいまにもきそうな面持おももちにてそうおうじたものだから、治済はるさだ忠可ただよしのその馬鹿ばか加減かげんいまにも噴出ふきだしたいのを必死ひっしこらえつつ、

「いや、流石さすがにそれはおそおおいともうすものぞ…」

 治済はるさだはこれもまた内心ないしんとは裏腹うらはらに、一応いちおうそうおうじてみせると、

かくもだ、このうえ意次おきつぐめが専横せんおうなんとしてでも阻止そしせねばならん…、そこでだ忠可ただよしよ」

 いよいよ本題ほんだいはいるべく、そのためにそこでいったん言葉ことば区切くぎると、かい忠可ただよしほうへとした。

「ははっ」

「さればそのためにも大奥おおおくよしみつうじておくが肝要かんようぞ…」

 治済はるさだ切出きりだしたその本題ほんだいにも忠可ただよしはやはりうなずかされた。

 成程なるほど大奥おおおく中奥なかおくならんで幕政ばくせい隠然いんぜんたる影響力えいきょうりょくたもっている。

 そうであれば、意次おきつぐ牽制けんせいすべく大奥おおおく共同きょうどう戦線せんせんもうとする治済はるさだのその意見いけんもっともではあった。

 だが忠可ただよしは「なれど…」と否定的ひていてき反応はんのうしめした。それと言うのもいま大奥おおおく意次おきつぐにすっかりとろかされていたからだ。

 そのよういま大奥おおおくたして、「はん意次おきつぐ連合れんごう」をんでくれるか、忠可ただよしには疑問ぎもんであった。

 忠可ただよしがそのてん指摘してきするや、治済はるさだもまずは、「たしかに…」と忠可ただよし指摘してき首肯しゅこうしたうえで、

「なれど、大奥おおおくにも意次おきつぐめにとろかされてはおらぬものもおるぞ…」

 治済はるさだおもわせぶりにそうつづけた。

「そは一体いったい…」

 だれなのかと、忠可ただよしくびかしげさせた。

「されば上様うえさまきゃく応答あしらいとしてつかえし大崎おおさきぞ…」

大崎おおさき…」

 忠可ただよしはその聞覚ききおぼえがなかったらしく、くびかしげた。いや、忠可ただよしかぎらず、大名だいみょう大奥おおおく奥女中おくじょちゅうなぞ、それこそ年寄としよりでもないかぎりは一々いちいち把握はあくしてはいないであろう。

 そこで治済はるさだはそんな忠可ただよしため大崎おおさき経歴キャリアについて解説レクチャーしてみせた。

 すなわち、大崎おおさきはかつてはここ一橋ひとつばし屋敷やしきにて、治済はるさだ実姉じっし、それもはらおなじくする実姉じっし保姫やすひめつかえ、その保姫やすひめが宝暦9(1759)年に薩摩さつま太守たいしゅ重豪しげひでとの婚約こんやく調ととのい、それから3年後の宝暦12(1762)年にれて重豪しげひでもとへとすと、大崎おおさきもそれにしたがった。

 と言っても保姫やすひめはその国許くにもとである薩摩さつまくんだりまでおもむいたわけではなく、芝新しばしん馬場ばばにある上屋敷かみやしきはいった。

 そして保姫やすひめが明和6(1769)年10月にしゅっすると、大崎おおさきはいったん一橋ひとつばし屋敷やしきもどったのちすで一橋ひとつばし当主とうしゅとなっていた治済はるさだめいにより大奥おおおくへと奉公ほうこうがることにしたのだ。

 そのさい―、大奥おおおくつとめるには宿元やどもと、つまりは身元みもと保証人ほしょうにんけねばならず、大崎おおさき場合ばあい本多ほんだ志摩守しまのかみ行貞ゆきさだがそうであった。

 これは治済はるさだ口利くちききによるもので、大崎おおさき実姉じっし本多ほんだ田宮たみや重丘しげおかとついでおり、そこで治済はるさだ大崎おおさきあね婚家こんかをつけ、そのなかでも本丸ほんまるにて将軍しょうぐん家治いえはる小納戸こなんど頭取とうどりとしてつかえる本多ほんだ行貞ゆきさだにこれまたをつけて、大崎おおさき宿元やどもとになってもらった次第しだいである。

 こうして大崎おおさき三卿さんきょうたる治済はるさだ本丸ほんまる小納戸こなんど頭取とうどり本多ほんだ行貞ゆきさだ二人ふたり威光いこう背景はいけいに、大奥おおおく奉公ほうこうがるや、本来ほんらいならば御目見得以下おめみえいかであるさん之間のま配属はいぞくされるべきところ、いきなり御台所みだいどころ―、将軍しょうぐん家治いえはる正室せいしつである倫子ともこづき中年寄ちゅうどしより抜擢ばってきされたのであった。

 そして明和8(1771)年8月に倫子ともここうじるや、今度こんど倫子ともこんだ姫君ひめぎみである萬壽ますひめづき中年寄ちゅうどしよりへと横滑よこすべりし、その萬壽ますひめもまた、安永2(1773)年2月にこうじるや、将軍しょうぐん家治いえはるづき御客おきゃく応答あしらいへと異動いどうたし、いまいたる。

 忠可ただよし治済はるさだよりかる大崎おおさきについての経歴キャリアについて解説レクチャーけるや、「左様さよう御座ござりましたか…」と如何いかにも感心かんしんした面持おももちでそうおうずると、

「いや、左様さようなる大崎おおさきであれば…、いえ、大崎殿おおさきどのであれば、成程なるほど意次おきつぐめにとろかされていないのもうなずけまする…」

 態態わざわざ、「殿との」という敬称けいしょうまでけて大崎おおさき持上もちあげてみせたものだから、これにはさしもの治済はるさだ苦笑くしょうさせられた。

大崎おおさきかまわぬわ…」

 忠可ただよし大崎おおさきがかつてこの一橋ひとつばし屋敷やしきにてつかえていたことに遠慮えんりょして、「殿との」という敬称けいしょうけたのであろうが、流石さすが言過いいすぎというものであろう。

 だが忠可ただよし治済はるさだ言葉ことばにも、「はぁ…」とこたえるばかりであった。余程よほど治済はるさだ遠慮えんりょしているものとえる。

 治済はるさだはそんな忠可ただよしたいして、内心ないしん、いよいよ苦笑くしょうしつつ、本題ほんだいはいることにした。

「さて、そこでだ、忠可ただよしよ、そなたの下屋敷しもやしきしてはくれまいか」

 忠可ただよし当主とうしゅつとめる山崎藩やまさきはんでは濱町はまちょうにある上屋敷かみやしきほかに、本所ほんじょ林町はやしちょう5丁目に下屋敷しもやしきかまえていた。

 その下屋敷しもやしきにて大崎おおさきいたいのだと、治済はるさだ忠可ただよしげた。

「それはかまいませぬが、何故なにゆえ民部卿みんぶのきょうさま屋形やかたにて御逢おあいになられませぬので?」

家老かろう門番もんばんひかっておるでな…、いや、これより大崎おおさき外出がいしゅつさせようとおもえばみじかくとも一週間は見積みつもらねばならぬであろう…」

 たしかに治済はるさだの言うとおりであった。

 大崎おおさきような、大奥おおおく奥女中おくじょちゅうなかでもきゃく応答あしらいよう上級じょうきゅう奥女中おくじょちゅうともなると、その外出がいしゅつ口実こうじつとしては、

代参だいさん…」

 将軍しょうぐんわって寺社じしゃ参詣さんけいするとの名目めいもく使つかわれる。

 だが昨日きのう今日きょうぐに外出がいしゅつ代参だいさん出来できわけではなく、諸々もろもろ準備じゅんび必要ひつようとなり、最低さいていでも一週間は必要ひつようであろう。

 そのさい―、大崎おおさき代参名目だいさんめいもくにてようやくに外出がいしゅつ出来できころには一橋ひとつばし門番もんばんいまの、治済はるさだぎょやす松平まつだいら直紹なおつぐから、意次おきつぐいきのかかった、もっと言えば将軍しょうぐん家治いえはるより治済はるさだ一挙手一投足いっきょしゅいっとうそく監視かんしせよと言含いいふくめられている土方ひじかた雄年かつながへとわっているやもれず、そのうえ家老かろう水谷みずのや勝富かつとみまでが邸内ていないにいるやもれなかった。

 それゆえなにかと「こうるさい」、彼奴等きゃつらとどかない山崎藩やまさきはん下屋敷しもやしき大崎おおさきとの会合かいごう場所ばしょとして借受かりうけたいのだと、治済はるさだ忠可ただよしげたのであった。

成程なるほど…、なれど民部卿みんぶのきょうさま外出がいしゅつあそばされますとなると、彼奴等きゃつらめもともつかまつりたいなぞともうしますのでは?」

 たしかにその可能性かのうせいもまたありた。いや、門番もんばん土方ひじかた雄年かつながかく家老かろう水谷みずのや勝富かつとみであれば、治済はるさだ外出がいしゅつするとなれば、「とも」をしたいなぞと言出いいだすにちがいなかった。無論むろん、「とも」というのはてい口実こうじつぎず、あくまで監視かんしためであった。

 だが治済はるさだは「対抗策たいこうさく」をもすでかんがえていた。

 すなわち、治済はるさだおい―、福井ふくい藩主はんしゅにして治済はるさだ実兄じっけいである重富しげとみそく於義丸おぎまるうとの口実こうじつ外出がいしゅつする。

 福井藩ふくいはん世子せいしである於義丸おぎまる現在げんざい霊巌島れいがんじまにはる中屋敷なかやしきにてらしており、それゆえ治済はるさだ霊巌島れいがんじまにあるその中屋敷なかやしきへとあしはこわけだが、そのおり仮令たとえ水谷みずのや勝富かつとみがついてようとも、あるいは土方ひじかた雄年かつなががついてようとも、一向いっこうかまわない。

 それと言うのも、於義丸おぎまるかぞえで11であり、いまだに元服前げんぷくまえということもあり、中屋敷なかやしきなかでも奥向おくむきにてはは致姫むねひめらしていた。

 この奥向おくむきというのは大奥おおおく相当そうとうする空間エリアであり、基本的きほんてきには男子だんし禁制きんせいであった。

 大名だいみょう屋敷やしきにおいては上屋敷かみやしき中屋敷なかやしきあるいは下屋敷しもやしきわず、大抵たいてい、この奥向おくむきがあった。

 福井藩ふくいはん場合ばあい霊巌島れいがんじまにある中屋敷なかやしきほかにも藩主はんしゅたる重富しげとみまう常盤橋ときわばし門内もんないにある上屋敷かみやしきや、あるいは巣鴨すがもにある下屋敷しもやしきにも各々おのおの奥向おくむきがあった。

 ちなみにいま―、安永7(1778)年の6月現在、重富しげとみ参勤交代さんきんこうたいによりその国許くにもとである福井ふくい帰国きこくちゅうであり、それゆえ重富しげとみしつである致姫むねひめそく於義丸おぎまるれて上屋敷かみやしきより中屋敷なかやしきへとうつり、奥向おくむきにてらしていたのだ。

 それと言うのも、参勤交代さんきんこうたいにより一年ものあいだおっと重富しげとみはなれてらさねばならない致姫むねひめとしては、なん変哲へんてつもない、それもあるじ不在ふざい上屋敷かみやしきにてらすよりも三方さんぽう大川おおかわかこまれている中屋敷なかやしきにてらすほうがその無聊ぶりょうなぐさめるにてきしていたからだ。

 具体的ぐたいてきには致姫むねひめ女中じょちゅうや、あるいはそく於義丸おぎまるとも舟遊ふなあそびにきょうじるのだ。

 それゆえ霊巌島れいがんじまにあるその福井ふくいはん中屋敷なかやしきにはふねが、それも立派りっぱふねがあり、それこそが治済はるさだの「付目つけめ」であった。

 仮令たとえ水谷みずのや勝富かつとみが、あるいは土方ひじかた雄年かつなが治済はるさだのあとをつけてたとしても、勝富かつとみにしろ雄年かつながにしろ中屋敷なかやしき邸内ていないまでははいれるだろうが、それよりおく大奥おおおく相当そうとうする奥向おくむきまでははいれない。そこにはいれるのは家族ファミリーである治済はるさだただ一人ひとりである。

 そしてその奥向おくむきより船着場ふなつきば直結ちょっけつしていたのだ。つまり、奥向おくむきにてらす於義丸おぎまるうとの名目めいもくにて治済はるさだがいったん奥向おくむきはいったうえは、そのあと治済はるさだ行動こうどうについては、もっと言えば勝富かつとみ雄年かつながぬすんでひそかに奥向おくむき船着場ふなつきばへと直行ちょっこうし、そしてふねろうとも、勝富かつとみ雄年かつながられることはないというわけだ。

 一方いっぽう山崎藩やまさきはん下屋敷しもやしきがある本所ほんじょ林町はやしちょう竪川たてかわめんしており、この竪川たてかわ大川おおかわ分流ぶんりゅうであった。

 つまり、福井ふくいはん中屋敷なかやしき奥向おくむきより直結ちょっけつする船着場ふなつきばにてふねり、そのまま大川おおかわいで竪川たてかわ辿たどって本所ほんじょ林町はやしちょうへと、それも5丁目でふねからりれば、そこはもう山崎藩やまさきはん下屋敷しもやしきというわけで、このかん勝富かつとみや、あるいは雄年かつながづかれることはないというわけだ。

 治済はるさだがそのむね忠可ただよしげるや、忠可ただよしようやくに合点がてんがいった様子ようすであった。

「さればこのむね大崎殿おおさきどのへは民部卿みんぶのきょうさまより?」

左様さよう…」

 実際じっさいにはそば用取次ようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきらかいして大崎おおさきへとこのむねすなわち、本所ほんじょ林町はやしちょうにある山崎藩やまさきはん下屋敷しもやしきにて、意次おきつぐへの対抗策たいこうさくについて、さしずめ「はん意次おきつぐ」について話合はなしあけんつたえるつもりであった。

 三卿さんきょうたる治済はるさだ将軍家ファミリー一員いちいんであるがゆえ大奥おおおくへの出入でいりもゆるされており、治済はるさだもその三卿さんきょうであるうえ大奥おおおく出入でいりすることが出来できたので、治済はるさだ自身じしんくちから大崎おおさきへとつたえることも充分じゅうぶん可能かのうであり、忠可ただよしにしてもそのことは承知しょうちしていたので、だからこそ治済はるさだ自身じしんくちから大崎おおさきへとつたえるものとばかりおもっていた。

 だが「いま」の治済はるさだとしては大奥おおおくへはあまり立入たちいりたくはなかった。おのれ姿すがた大奥おおおく奥女中おくじょちゅうども印象付いんしょうづけたくはなかったのだ。

 そこで治済はるさだそば用取次ようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきらたよることにした。

 そば用取次ようとりつぎもまた、大奥おおおく出入でいりすることがゆるされていたからだ。

 そば用取次ようとりつぎ年寄としよりつね内談ないだん諸々もろもろ打合うちあわせをおこなうために大奥おおおくはいることも度々たびたびであった。

 そのさいそば用取次ようとりつぎ案内役あんないやくを、年寄としよりへの案内役あんないやくつとめるのがきゃく応答あしらいであった。

 きゃく応答あしらい御三家ごさんけ三卿さんきょう、それに諸大名しょだいみょうより大奥おおおくへとつかわされる女遣おんなづかい所謂いわゆる

公儀こうぎおく女遣おんなづかい

 その接待役せったいやく職掌しょくしょうとしていたが、同時どうじ老女ろうじょ年寄としより打合うちあわせをおこなうべく大奥おおおくへとあしれたそば用取次ようとりつぎ案内役あんないやくをもつとめ、ことにそれが正明まさあきら場合ばあいまって大崎おおさき案内役あんないやくつとめる。

 きゃく応答あしらい大崎おおさきほかにもそんし、それゆえなに大崎おおさきまって正明まさあきら案内役あんないやくつとめる必要ひつようはないのだが、いまではそれが不文律ふぶんりつしていた。

 そこで治済はるさだ明日あすにでも登城とじょうおよび、正明まさあきらにそのむね耳打みみうちするつもりであった。さいわい、明日あすはこうるさい家老かろう水谷みずのや勝富かつとみ屋敷やしきにて大人おとなしく留守るすあずかるばんであり、そのわりにくだん一橋ひとつばし家老かろうねる大目付おおめつけ新庄しんじょう直宥なおやす治済はるさだ監視役かんしやくを、御城えどじょう中奥なかおくにおける治済はるさだ一挙手一投足いっきょしゅいっとうそく監視かんしするわけだが、実際じっさいには直宥なおやすひそかに治済はるさだつうじており、監視役かんしやくたすどころか、治済はるさだためうごくことをいとわない、まさ股肱ここうしん同然どうぜんであった。

 それゆえ治済はるさだもそのよう新庄しんじょう直宥なおやすの「監視下かんしか」にあれば、

心置こころおきなく…」

 正明まさあきら秘事ひじ耳打みみう出来できるというものである。いや、治済はるさだはそこまでは忠可ただよしにも打明うちあけなかった。
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