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序章 大奥への工作
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「久方ぶりよのう…」
治済は忠可と向かい合うや、そう声をかけると、
「田安門番の就任、まずは祝着…」
続けてそう労った。
松平直紹が一橋御門番に着任した昨日、6月13日に本多忠可は田安御門番に着任した。
田安御門番もまた、一橋御門番と同じく禄高が1万石から2万石クラスの譜代より2名選ばれ、忠可と共に、内藤貞幹が選ばれた。忠可は御側御用取次の稲葉正明によって一橋御門番に推挙され、一方、貞幹もまた御側御用取次の横田準松によって推挙され、しかし共に一橋御門番の座を逃した二人であり、その二人は将軍・家治の親裁により田安御門番に回されたのであった。
そして13日よりまず門番を、それも10日間勤めるのは内藤貞幹であり、それ故、忠可はその翌日に当たる今日14日、こうして一橋邸を訪れることが出来た。
「畏れ入り奉りまする…」
治済の労いに忠可はまるで将軍に対するかの様に治済に接した。つまりは平伏したのであった。
「忠可にとっては初めてだのう…、田安御門番は…、いや、田安家は三卿の中でも上首故、一橋門番よりも晴れがましいやも知れぬな…」
治済が自嘲気味にそう持上げてみせると、「滅相も御座りませぬ」との忠可の声が割込んだ。
「この忠可と致しましては、出来得ることなれば、民部卿様の許にて門番を勤め度…」
民部卿様とは一橋治済のことを指しており、つまりは一橋門番を勤めたかったと、忠可は如何にも口惜しそうにして見せた。
「いや、何よりも有難い言葉だのう…」
治済も今の忠可の言葉に感謝を示すと、
「時に…、忠央と忠由は息災にしておるかの…」
治済は話題を転じて、忠可の許で暮らす二人の身を案じてみせた。
「ははっ、二人共に息災にて…」
忠可がそう応ずるや、「それは重畳…」と治済も応じ、
「されば…、忠由は13年、忠央は8年になるかのう…」
治済は思い出したかの様にそう告げた。
13年と8年、それは二人が夫々、忠可の許で寓居する様になってからの歳月であった。
即ち、13年前の明和2(1765)年に許された忠由が直ぐに忠可の許で暮らし始めたのに対して、養父の忠央はと言うと、許されたのがそれよりも3年、明和5(1768)年のことであり、しかも忠央は赦免後は直ぐには忠可の許では暮らさずに、分家筋に当たる菊多郡泉藩1万5千石を領する本多弾正少弼忠籌の許にて、それも浅草寺町の上屋敷にて暮らし始めた。これは幕命による。
確かに忠央は赦免され、その蟄居先である津山藩より放免されたとは言え、完全に自由の身となった訳ではなく、赦免後もその居住先について指定を受ける。それが養嗣子の忠由との違いであり、忠由の場合は養父・忠央に連坐しただけで、言うなればあおりを喰ったに過ぎず、それ故、赦免後はどこに暮らそうとも自由の身であった。
それに対して忠央は罪人であった故、赦免後も暫くの間は事細かな制約を受け、それは居住先についても当て嵌まり、赦免後は江戸に出て、泉藩上屋敷にて暮らす様にと、公儀より命じられてのことであった。
いや、忠央はその様な制約を受けられる分、裏を返せば制約に従う限りは生活には困らない訳で、その点、完全に自由の身となった忠由よりも恵まれているとも言えた。何しろ忠由は完全に自由の身となった謂わば代償として、生活が保障されることもないからだ。
ともあれ忠央は赦免後には江戸の浅草寺町にある泉藩の上屋敷にて暮らす様になった訳だが、それは2年に過ぎなかった。
元々は西之丸の若年寄として西之丸下という一等地に住んでいた忠央である、浅草寺町という御城から大分離れた地で暮らすのに耐えられなかったのだ。
いや、それならば蟄居先であった津山の地はそれ以上に、それも遥か遠くに離れていたと言えよう。
だがそれならば、そこまで御城から離れていれば諦めもつくと言うものだが、浅草寺町ともなるとそうもいかない。何しろ同じ江戸だからだ。もう少しで西之丸下に手の届きそうな場所であるが故に、かえって堪え難いものがあった。
忠央はそれ故、浅草寺町での暮らしに不平不満を並べ立て、忠籌を心底、辟易させた。
そして忠籌は幕命により忠央を引取ってから2年後の明和7(1770)年、今から8年前に遂に意を決して、公儀に対してこれ以上、忠央の面倒を見るのは御免だと泣付いたのであった。
忠籌自身は参勤交代により、1年毎に江戸と国許である泉藩とを往復するので、忠央の愚痴の被害にそれ程遭わなくて済むが、江戸詰の、上屋敷にて勤める家臣ともなるとそうはいかない。
忠籌としては大事な家臣を守る為、忠央を屋敷から追出す許しを公儀に求めたのであった。
それに対して公儀も今更、過去の忠央なぞ、どうでも良いという意識が働き、こうして「晴れて」忠央もまた、忠由同様、完全に自由の身となり、忠籌の屋敷から追出されたのであった。
そしてその忠央が次に頼った先こそが、外でもない忠可の許であった。忠可が藩主として務める山崎藩の上屋敷は濱町にあり、御城からは西之丸下程の近さではないものの、浅草寺町に較べれば遥かに御城に近く、こうして忠央は養嗣子・忠由に合流する格好で濱町にある山崎藩上屋敷にて暮らす様になったのである。
それが今から8年前の明和7(1770)年のことであり、明和2(1765)年より忠可の許で暮らす様になった忠由との間に5年ものタイムラグがあるのはその為であった。
ともあれ治済は忠央と忠由が夫々、忠可の許で暮らす様になってから、忠可が二人を引取ってから今に至るまでの年月を正確に言当てることで、忠可の心を掴んだのであった。それだけ忠可のことを気にかけているのだと、治済はアピールしたからだ。
案の定、忠可は治済の言葉に感激した様子であった。
そこで治済は更に忠可の心を鷲掴みにしようとした。
「いや、そもそも忠央は果たして改易される必要があったのか未だに疑問ぞ…」
治済は忠可の胸の内を、いや、それは誰よりも当の忠央のそれでもあったが、それを代弁してみせると、
「それどころか西之丸若年寄の職を奪われる必要があったのか、それすら疑問ぞ…」
忠央が聞いたならば泣いて喜びそうな台詞をも吐いてみせた。そしてそれは忠央の養嗣子である忠由とは叔父と甥の関係にある忠可にしてもそうであった。
「この治済が上様の御立場であったならば、左様なことはしなかったであろうぞ…」
治済は更に不遜にもそう言放ったかと思うと、
「それもこれも…、全ては…、元凶は意次ぞ…、意次めが上様を…、先代の家重公を蕩かし、忠央を無実の罪にて罰し、そして今では家治公をも蕩かしては政事を壟断しておるによって…」
意次に批判の矛先を向けた。
「いや、門番が件にしてもそうぞ…、御城の諸門の中でも殊に三卿を守りし門番には由緒正しき…、それこそ忠可の様な者が選ばれるべきにて…、いや、さればこそ忠可は田安門番を拝命した訳だがの、許せぬのは柳間詰の…、外様に過ぎぬ土方某めが一橋門番を拝命せしことぞ…」
治済の言葉に、それも一言一句に忠可は一々頷いてみせた。
「されば土方某めは意次が養女を娶りし故に…」
意次が縁者である土方某こと雄年を一橋御門番にゴリ押ししたのだと、治済は忠可にそう示唆、いや、誤導したのであった。
すると忠可も治済の誤導に疑いもせずに乗せられ、「許せませぬなぁ…」と応じたのであった。
「左様、許せぬ…、到底、許せぬが、なれど今の上様は…、今し方も申した通り、すっかり意次めに蕩かされておる…、さればこの上は…、例えばだが、己が息、意知めを、まずは奏者番に取立て、次いでその筆頭たる寺社奉行、或いは若年寄へと進ませ、そして遂には老中へと…」
治済の見立てに忠可は目を剥いた。
「まさかに…、あのどこぞの馬の骨とも分からぬ盗賊同様の下賤なる成上がり者めが…、いや、それ以前に意知めは未だ部屋住の身…、大名ですらないではありませぬか…」
そうであれば譜代大名にとっての出世の登竜門とも言うべき奏者番に取立てられる筈がないではないか…、それが忠可の信じる常識であり、この時代の世間一般のそれでもあった。
「確かにのう…、なれど意知めは今、老中たる意次の息として雁間に詰めておれば、奏者番に取立てられる可能性も決して、無きにしも非ず、ぞ…」
これもまた常識ではあった。治済の言う通り、奏者番に取立てられるのは主に雁間に詰める大名、即ち、
「御取立譜代」
つまりは新興譜代大名で占められていた。
その新興譜代大名が詰める雁間に大名ではないとは言え、意知も詰めている上は、奏者番に取立てられる可能性も決してゼロとは言えなかった。
「忠可よ…、この治済はな、そなたの様な…、由緒正しき忠可の様な者こそ…、いや、忠可こそが若年寄や、或いは老中に相応しいと思うておるのだ…」
治済の「ヨイショ」を忠可は真に受け、如何にも感極まった様子を覗かせ、「民部卿様…」と声を詰まらせた。
そんな忠可の様子に治済は腹の中で嗤いつつ、しかし表面的にはそんな腹とは正に裏腹に、あくまで神妙な面持ちで、
「いや、この治済が上様の御立場なれば、意次などではのうて、必ずやそなたを、忠可を幕閣へと取立て様ぞ…、いや、そればかりか、意次めが姦計により無実の罪で改易されし忠央に御家再興を許そうぞ…、その上で旧領たる相良の地に忠央を…、忠央とその子、忠由を復させようぞ…」
治済がそう駄目押しをすると、忠可こそ今や治済にすっかり蕩かされてしまった。
「民部卿様…、民部卿様こそ上様であらせられましたならば、どれ程に良かったことか…」
忠可は今にも泣きそうな面持ちにてそう応じたものだから、治済は忠可のその馬鹿さ加減に今にも噴出したいのを必死に堪えつつ、
「いや、流石にそれは畏れ多いと申すものぞ…」
治済はこれもまた内心とは裏腹に、一応そう応じてみせると、
「兎も角もだ、この上の意次めが専横は何としてでも阻止せねばならん…、そこでだ忠可よ」
いよいよ本題に入るべく、その為にそこでいったん言葉を区切ると、向かい合う忠可の方へと身を乗り出した。
「ははっ」
「さればその為にも大奥と誼を通じておくが肝要ぞ…」
治済が切出したその本題にも忠可はやはり頷かされた。
成程、大奥は中奥と並んで幕政に隠然たる影響力を保っている。
そうであれば、意次を牽制すべく大奥と共同戦線を組もうとする治済のその意見は尤もではあった。
だが忠可は「なれど…」と否定的反応を示した。それと言うのも今の大奥も意次にすっかり蕩かされていたからだ。
その様な今の大奥が果たして、「反・意次連合」を組んでくれるか、忠可には疑問であった。
忠可がその点を指摘するや、治済もまずは、「確かに…」と忠可の指摘を首肯した上で、
「なれど、大奥にも意次めに蕩かされてはおらぬ者もおるぞ…」
治済は思わせぶりにそう続けた。
「そは一体…」
誰なのかと、忠可は首を傾げさせた。
「されば上様に御客応答として仕えし大崎ぞ…」
「大崎…」
忠可はその名に聞覚えがなかったらしく、首を傾げた。いや、忠可に限らず、大名は大奥の奥女中の名なぞ、それこそ年寄でもない限りは一々、把握してはいないであろう。
そこで治済はそんな忠可の為に大崎の経歴について解説してみせた。
即ち、大崎はかつてはここ一橋屋敷にて、治済が実姉、それも腹を同じくする実姉の保姫に仕え、その保姫が宝暦9(1759)年に薩摩の太守、重豪との婚約が調い、それから3年後の宝暦12(1762)年に晴れて重豪の許へと嫁すと、大崎もそれに随った。
と言っても保姫はその国許である薩摩くんだりまで赴いた訳ではなく、芝新馬場にある上屋敷に入った。
そして保姫が明和6(1769)年10月に卒すると、大崎はいったん一橋屋敷に戻った後、既に一橋家の当主となっていた治済の命により大奥へと奉公に上がることにしたのだ。
その際―、大奥に勤めるには宿元、つまりは身元保証人を附けねばならず、大崎の場合は本多志摩守行貞がそうであった。
これは治済の口利きによるもので、大崎が実姉は本多田宮重丘に嫁いでおり、そこで治済は大崎の姉の婚家に目をつけ、その中でも本丸にて将軍・家治に小納戸頭取として仕える本多行貞にこれまた目をつけて、大崎の宿元になって貰った次第である。
こうして大崎は御三卿たる治済と本丸小納戸頭取の本多行貞の二人の威光を背景に、大奥に奉公に上がるや、本来ならば御目見得以下である御三之間に配属されるべきところ、いきなり御台所―、将軍・家治の正室である倫子附の中年寄に抜擢されたのであった。
そして明和8(1771)年8月に倫子が薨じるや、今度は倫子が生んだ姫君である萬壽姫附の中年寄へと横滑りし、その萬壽姫もまた、安永2(1773)年2月に薨じるや、将軍・家治附の御客応答へと異動を果たし、今に至る。
忠可は治済より斯かる大崎についての経歴について解説を受けるや、「左様で御座りましたか…」と如何にも感心した面持ちでそう応ずると、
「いや、左様なる大崎であれば…、いえ、大崎殿であれば、成程、意次めに蕩かされていないのも頷けまする…」
態態、「殿」という敬称まで附けて大崎を持上げてみせたものだから、これにはさしもの治済も苦笑させられた。
「大崎で構わぬわ…」
忠可は大崎がかつてこの一橋屋敷にて仕えていたことに遠慮して、「殿」という敬称を附けたのであろうが、流石に言過ぎというものであろう。
だが忠可は治済の言葉にも、「はぁ…」と応えるばかりであった。余程に治済に遠慮しているものと見える。
治済はそんな忠可に対して、内心、いよいよ苦笑しつつ、本題に入ることにした。
「さて、そこでだ、忠可よ、そなたの下屋敷を貸してはくれまいか」
忠可が当主を務める山崎藩では濱町にある上屋敷の外に、本所は林町5丁目に下屋敷を構えていた。
その下屋敷にて大崎と逢いたいのだと、治済は忠可に告げた。
「それは構いませぬが、何故に民部卿様の御屋形にて御逢いになられませぬので?」
「家老や門番の目が光っておるでな…、いや、これより大崎を外出させようと思えば短くとも一週間は見積もらねばならぬであろう…」
確かに治済の言う通りであった。
大崎の様な、大奥の奥女中の中でも御客応答の様な上級の奥女中ともなると、その外出の口実としては、
「代参…」
将軍に代わって寺社参詣するとの名目が使われる。
だが昨日、今日と直ぐに外出、代参が出来る訳ではなく、諸々の準備が必要となり、最低でも一週間は必要であろう。
その際―、大崎が代参名目にて漸くに外出出来る頃には一橋御門番が今の、治済が御し易い松平直紹から、意次の息のかかった、もっと言えば将軍・家治より治済の一挙手一投足を監視せよと言含められている土方雄年へと替わっているやも知れず、その上、家老の水谷勝富までが邸内にいるやも知れなかった。
それ故、何かと「こうるさい」、彼奴等の目の届かない山崎藩の下屋敷を大崎との会合の場所として借受けたいのだと、治済は忠可に告げたのであった。
「成程…、なれど民部卿様が外出あそばされますとなると、彼奴等めも御供仕りたいなぞと申しますのでは?」
確かにその可能性もまたあり得た。いや、門番の土方雄年は兎も角、家老の水谷勝富であれば、治済が外出するとなれば、「御供」をしたいなぞと言出すに違いなかった。無論、「御供」というのは体の良い口実に過ぎず、あくまで監視の為であった。
だが治済は「対抗策」をも既に考えていた。
即ち、治済は甥―、福井藩主にして治済の実兄である重富が息・於義丸に逢うとの口実で外出する。
福井藩の世子である於義丸は現在、霊巌島にはる中屋敷にて暮らしており、それ故、治済は霊巌島にあるその中屋敷へと足を運ぶ訳だが、その折、仮令、水谷勝富がついて来ようとも、或いは土方雄年がついて来ようとも、一向に構わない。
それと言うのも、於義丸は数えで11であり、未だに元服前ということもあり、中屋敷の中でも奥向にて母・致姫と暮らしていた。
この奥向というのは大奥に相当する空間であり、基本的には男子禁制であった。
大名屋敷においては上屋敷、中屋敷、或いは下屋敷を問わず、大抵、この奥向があった。
福井藩の場合、霊巌島にある中屋敷の外にも藩主たる重富が住まう常盤橋御門内にある上屋敷や、或いは巣鴨にある下屋敷にも各々、奥向があった。
ちなみに今―、安永7(1778)年の6月現在、重富は参勤交代によりその国許である福井に帰国中であり、それ故、重富が室である致姫は息・於義丸を連れて上屋敷より中屋敷へと引き移り、奥向にて暮らしていたのだ。
それと言うのも、参勤交代により一年もの間、夫・重富と離れて暮らさねばならない致姫としては、何の変哲もない、それも主不在の上屋敷にて暮らすよりも三方を大川で囲まれている中屋敷にて暮らす方がその無聊を慰めるに適していたからだ。
具体的には致姫は女中や、或いは息・於義丸と共に舟遊びに興じるのだ。
それ故、霊巌島にあるその福井藩の中屋敷には舟が、それも立派な舟があり、それこそが治済の「付目」であった。
仮令、水谷勝富が、或いは土方雄年が治済のあとをつけて来たとしても、勝富にしろ雄年にしろ中屋敷の邸内までは入れるだろうが、それより奥、大奥に相当する奥向までは入れない。そこに入れるのは家族である治済唯一人である。
そしてその奥向より船着場に直結していたのだ。つまり、奥向にて暮らす於義丸に逢うとの名目にて治済がいったん奥向に入った上は、その後の治済の行動については、もっと言えば勝富や雄年の目を盗んで密かに奥向を出て船着場へと直行し、そして舟に乗ろうとも、勝富や雄年に知られることはないという訳だ。
一方、山崎藩の下屋敷がある本所林町は竪川に面しており、この竪川は大川の分流であった。
つまり、福井藩中屋敷の奥向より直結する船着場にて舟に乗り、そのまま大川、次いで竪川を辿って本所林町へと、それも5丁目で舟から降りれば、そこはもう山崎藩の下屋敷という訳で、この間、勝富や、或いは雄年に気づかれることはないという訳だ。
治済がその旨、忠可に告げるや、忠可も漸くに合点がいった様子であった。
「さればこの旨、大崎殿へは民部卿様より?」
「左様…」
実際には御側御用取次の稲葉正明を介して大崎へとこの旨、即ち、本所林町にある山崎藩下屋敷にて、意次への対抗策について、さしずめ「反・意次」について話合う件を伝えるつもりであった。
御三卿たる治済は将軍家の一員であるが故に大奥への出入りも許されており、治済もその御三卿である上は大奥に出入りすることが出来たので、治済自身の口から大崎へと伝えることも充分可能であり、忠可にしてもそのことは承知していたので、だからこそ治済自身の口から大崎へと伝えるものとばかり思っていた。
だが「今」の治済としては大奥へはあまり立入りたくはなかった。己の姿を大奥の奥女中共に印象付けたくはなかったのだ。
そこで治済は御側御用取次の稲葉正明を頼ることにした。
御側御用取次もまた、大奥に出入りすることが許されていたからだ。
御側御用取次は年寄と常に内談、諸々の打合わせを行うために大奥へ入ることも度々であった。
その際、御側御用取次の案内役を、年寄への案内役を務めるのが御客応答であった。
御客応答は御三家や御三卿、それに諸大名より大奥へと遣わされる女遣、所謂、
「公儀奥女遣」
その接待役を職掌としていたが、同時に老女、年寄と打合わせを行うべく大奥へと足を踏み入れた御側御用取次の案内役をも務め、ことにそれが正明の場合、決まって大崎が案内役を務める。
御客応答は大崎の外にも存し、それ故、何も大崎が決まって正明の案内役を務める必要はないのだが、今ではそれが不文律と化していた。
そこで治済は明日にでも登城に及び、正明にその旨、耳打ちするつもりであった。幸い、明日はこうるさい家老の水谷勝富は屋敷にて大人しく留守を預かる番であり、その替わりに件の一橋家家老を兼ねる大目付の新庄直宥が治済の監視役を、御城中奥における治済の一挙手一投足を監視する訳だが、実際には直宥は密かに治済と通じており、監視役を果たすどころか、治済の為に動くことを厭わない、正に股肱の臣も同然であった。
それ故、治済もその様な新庄直宥の「監視下」にあれば、
「心置きなく…」
正明に秘事を耳打ち出来るというものである。いや、治済はそこまでは忠可にも打明けなかった。
治済は忠可と向かい合うや、そう声をかけると、
「田安門番の就任、まずは祝着…」
続けてそう労った。
松平直紹が一橋御門番に着任した昨日、6月13日に本多忠可は田安御門番に着任した。
田安御門番もまた、一橋御門番と同じく禄高が1万石から2万石クラスの譜代より2名選ばれ、忠可と共に、内藤貞幹が選ばれた。忠可は御側御用取次の稲葉正明によって一橋御門番に推挙され、一方、貞幹もまた御側御用取次の横田準松によって推挙され、しかし共に一橋御門番の座を逃した二人であり、その二人は将軍・家治の親裁により田安御門番に回されたのであった。
そして13日よりまず門番を、それも10日間勤めるのは内藤貞幹であり、それ故、忠可はその翌日に当たる今日14日、こうして一橋邸を訪れることが出来た。
「畏れ入り奉りまする…」
治済の労いに忠可はまるで将軍に対するかの様に治済に接した。つまりは平伏したのであった。
「忠可にとっては初めてだのう…、田安御門番は…、いや、田安家は三卿の中でも上首故、一橋門番よりも晴れがましいやも知れぬな…」
治済が自嘲気味にそう持上げてみせると、「滅相も御座りませぬ」との忠可の声が割込んだ。
「この忠可と致しましては、出来得ることなれば、民部卿様の許にて門番を勤め度…」
民部卿様とは一橋治済のことを指しており、つまりは一橋門番を勤めたかったと、忠可は如何にも口惜しそうにして見せた。
「いや、何よりも有難い言葉だのう…」
治済も今の忠可の言葉に感謝を示すと、
「時に…、忠央と忠由は息災にしておるかの…」
治済は話題を転じて、忠可の許で暮らす二人の身を案じてみせた。
「ははっ、二人共に息災にて…」
忠可がそう応ずるや、「それは重畳…」と治済も応じ、
「されば…、忠由は13年、忠央は8年になるかのう…」
治済は思い出したかの様にそう告げた。
13年と8年、それは二人が夫々、忠可の許で寓居する様になってからの歳月であった。
即ち、13年前の明和2(1765)年に許された忠由が直ぐに忠可の許で暮らし始めたのに対して、養父の忠央はと言うと、許されたのがそれよりも3年、明和5(1768)年のことであり、しかも忠央は赦免後は直ぐには忠可の許では暮らさずに、分家筋に当たる菊多郡泉藩1万5千石を領する本多弾正少弼忠籌の許にて、それも浅草寺町の上屋敷にて暮らし始めた。これは幕命による。
確かに忠央は赦免され、その蟄居先である津山藩より放免されたとは言え、完全に自由の身となった訳ではなく、赦免後もその居住先について指定を受ける。それが養嗣子の忠由との違いであり、忠由の場合は養父・忠央に連坐しただけで、言うなればあおりを喰ったに過ぎず、それ故、赦免後はどこに暮らそうとも自由の身であった。
それに対して忠央は罪人であった故、赦免後も暫くの間は事細かな制約を受け、それは居住先についても当て嵌まり、赦免後は江戸に出て、泉藩上屋敷にて暮らす様にと、公儀より命じられてのことであった。
いや、忠央はその様な制約を受けられる分、裏を返せば制約に従う限りは生活には困らない訳で、その点、完全に自由の身となった忠由よりも恵まれているとも言えた。何しろ忠由は完全に自由の身となった謂わば代償として、生活が保障されることもないからだ。
ともあれ忠央は赦免後には江戸の浅草寺町にある泉藩の上屋敷にて暮らす様になった訳だが、それは2年に過ぎなかった。
元々は西之丸の若年寄として西之丸下という一等地に住んでいた忠央である、浅草寺町という御城から大分離れた地で暮らすのに耐えられなかったのだ。
いや、それならば蟄居先であった津山の地はそれ以上に、それも遥か遠くに離れていたと言えよう。
だがそれならば、そこまで御城から離れていれば諦めもつくと言うものだが、浅草寺町ともなるとそうもいかない。何しろ同じ江戸だからだ。もう少しで西之丸下に手の届きそうな場所であるが故に、かえって堪え難いものがあった。
忠央はそれ故、浅草寺町での暮らしに不平不満を並べ立て、忠籌を心底、辟易させた。
そして忠籌は幕命により忠央を引取ってから2年後の明和7(1770)年、今から8年前に遂に意を決して、公儀に対してこれ以上、忠央の面倒を見るのは御免だと泣付いたのであった。
忠籌自身は参勤交代により、1年毎に江戸と国許である泉藩とを往復するので、忠央の愚痴の被害にそれ程遭わなくて済むが、江戸詰の、上屋敷にて勤める家臣ともなるとそうはいかない。
忠籌としては大事な家臣を守る為、忠央を屋敷から追出す許しを公儀に求めたのであった。
それに対して公儀も今更、過去の忠央なぞ、どうでも良いという意識が働き、こうして「晴れて」忠央もまた、忠由同様、完全に自由の身となり、忠籌の屋敷から追出されたのであった。
そしてその忠央が次に頼った先こそが、外でもない忠可の許であった。忠可が藩主として務める山崎藩の上屋敷は濱町にあり、御城からは西之丸下程の近さではないものの、浅草寺町に較べれば遥かに御城に近く、こうして忠央は養嗣子・忠由に合流する格好で濱町にある山崎藩上屋敷にて暮らす様になったのである。
それが今から8年前の明和7(1770)年のことであり、明和2(1765)年より忠可の許で暮らす様になった忠由との間に5年ものタイムラグがあるのはその為であった。
ともあれ治済は忠央と忠由が夫々、忠可の許で暮らす様になってから、忠可が二人を引取ってから今に至るまでの年月を正確に言当てることで、忠可の心を掴んだのであった。それだけ忠可のことを気にかけているのだと、治済はアピールしたからだ。
案の定、忠可は治済の言葉に感激した様子であった。
そこで治済は更に忠可の心を鷲掴みにしようとした。
「いや、そもそも忠央は果たして改易される必要があったのか未だに疑問ぞ…」
治済は忠可の胸の内を、いや、それは誰よりも当の忠央のそれでもあったが、それを代弁してみせると、
「それどころか西之丸若年寄の職を奪われる必要があったのか、それすら疑問ぞ…」
忠央が聞いたならば泣いて喜びそうな台詞をも吐いてみせた。そしてそれは忠央の養嗣子である忠由とは叔父と甥の関係にある忠可にしてもそうであった。
「この治済が上様の御立場であったならば、左様なことはしなかったであろうぞ…」
治済は更に不遜にもそう言放ったかと思うと、
「それもこれも…、全ては…、元凶は意次ぞ…、意次めが上様を…、先代の家重公を蕩かし、忠央を無実の罪にて罰し、そして今では家治公をも蕩かしては政事を壟断しておるによって…」
意次に批判の矛先を向けた。
「いや、門番が件にしてもそうぞ…、御城の諸門の中でも殊に三卿を守りし門番には由緒正しき…、それこそ忠可の様な者が選ばれるべきにて…、いや、さればこそ忠可は田安門番を拝命した訳だがの、許せぬのは柳間詰の…、外様に過ぎぬ土方某めが一橋門番を拝命せしことぞ…」
治済の言葉に、それも一言一句に忠可は一々頷いてみせた。
「されば土方某めは意次が養女を娶りし故に…」
意次が縁者である土方某こと雄年を一橋御門番にゴリ押ししたのだと、治済は忠可にそう示唆、いや、誤導したのであった。
すると忠可も治済の誤導に疑いもせずに乗せられ、「許せませぬなぁ…」と応じたのであった。
「左様、許せぬ…、到底、許せぬが、なれど今の上様は…、今し方も申した通り、すっかり意次めに蕩かされておる…、さればこの上は…、例えばだが、己が息、意知めを、まずは奏者番に取立て、次いでその筆頭たる寺社奉行、或いは若年寄へと進ませ、そして遂には老中へと…」
治済の見立てに忠可は目を剥いた。
「まさかに…、あのどこぞの馬の骨とも分からぬ盗賊同様の下賤なる成上がり者めが…、いや、それ以前に意知めは未だ部屋住の身…、大名ですらないではありませぬか…」
そうであれば譜代大名にとっての出世の登竜門とも言うべき奏者番に取立てられる筈がないではないか…、それが忠可の信じる常識であり、この時代の世間一般のそれでもあった。
「確かにのう…、なれど意知めは今、老中たる意次の息として雁間に詰めておれば、奏者番に取立てられる可能性も決して、無きにしも非ず、ぞ…」
これもまた常識ではあった。治済の言う通り、奏者番に取立てられるのは主に雁間に詰める大名、即ち、
「御取立譜代」
つまりは新興譜代大名で占められていた。
その新興譜代大名が詰める雁間に大名ではないとは言え、意知も詰めている上は、奏者番に取立てられる可能性も決してゼロとは言えなかった。
「忠可よ…、この治済はな、そなたの様な…、由緒正しき忠可の様な者こそ…、いや、忠可こそが若年寄や、或いは老中に相応しいと思うておるのだ…」
治済の「ヨイショ」を忠可は真に受け、如何にも感極まった様子を覗かせ、「民部卿様…」と声を詰まらせた。
そんな忠可の様子に治済は腹の中で嗤いつつ、しかし表面的にはそんな腹とは正に裏腹に、あくまで神妙な面持ちで、
「いや、この治済が上様の御立場なれば、意次などではのうて、必ずやそなたを、忠可を幕閣へと取立て様ぞ…、いや、そればかりか、意次めが姦計により無実の罪で改易されし忠央に御家再興を許そうぞ…、その上で旧領たる相良の地に忠央を…、忠央とその子、忠由を復させようぞ…」
治済がそう駄目押しをすると、忠可こそ今や治済にすっかり蕩かされてしまった。
「民部卿様…、民部卿様こそ上様であらせられましたならば、どれ程に良かったことか…」
忠可は今にも泣きそうな面持ちにてそう応じたものだから、治済は忠可のその馬鹿さ加減に今にも噴出したいのを必死に堪えつつ、
「いや、流石にそれは畏れ多いと申すものぞ…」
治済はこれもまた内心とは裏腹に、一応そう応じてみせると、
「兎も角もだ、この上の意次めが専横は何としてでも阻止せねばならん…、そこでだ忠可よ」
いよいよ本題に入るべく、その為にそこでいったん言葉を区切ると、向かい合う忠可の方へと身を乗り出した。
「ははっ」
「さればその為にも大奥と誼を通じておくが肝要ぞ…」
治済が切出したその本題にも忠可はやはり頷かされた。
成程、大奥は中奥と並んで幕政に隠然たる影響力を保っている。
そうであれば、意次を牽制すべく大奥と共同戦線を組もうとする治済のその意見は尤もではあった。
だが忠可は「なれど…」と否定的反応を示した。それと言うのも今の大奥も意次にすっかり蕩かされていたからだ。
その様な今の大奥が果たして、「反・意次連合」を組んでくれるか、忠可には疑問であった。
忠可がその点を指摘するや、治済もまずは、「確かに…」と忠可の指摘を首肯した上で、
「なれど、大奥にも意次めに蕩かされてはおらぬ者もおるぞ…」
治済は思わせぶりにそう続けた。
「そは一体…」
誰なのかと、忠可は首を傾げさせた。
「されば上様に御客応答として仕えし大崎ぞ…」
「大崎…」
忠可はその名に聞覚えがなかったらしく、首を傾げた。いや、忠可に限らず、大名は大奥の奥女中の名なぞ、それこそ年寄でもない限りは一々、把握してはいないであろう。
そこで治済はそんな忠可の為に大崎の経歴について解説してみせた。
即ち、大崎はかつてはここ一橋屋敷にて、治済が実姉、それも腹を同じくする実姉の保姫に仕え、その保姫が宝暦9(1759)年に薩摩の太守、重豪との婚約が調い、それから3年後の宝暦12(1762)年に晴れて重豪の許へと嫁すと、大崎もそれに随った。
と言っても保姫はその国許である薩摩くんだりまで赴いた訳ではなく、芝新馬場にある上屋敷に入った。
そして保姫が明和6(1769)年10月に卒すると、大崎はいったん一橋屋敷に戻った後、既に一橋家の当主となっていた治済の命により大奥へと奉公に上がることにしたのだ。
その際―、大奥に勤めるには宿元、つまりは身元保証人を附けねばならず、大崎の場合は本多志摩守行貞がそうであった。
これは治済の口利きによるもので、大崎が実姉は本多田宮重丘に嫁いでおり、そこで治済は大崎の姉の婚家に目をつけ、その中でも本丸にて将軍・家治に小納戸頭取として仕える本多行貞にこれまた目をつけて、大崎の宿元になって貰った次第である。
こうして大崎は御三卿たる治済と本丸小納戸頭取の本多行貞の二人の威光を背景に、大奥に奉公に上がるや、本来ならば御目見得以下である御三之間に配属されるべきところ、いきなり御台所―、将軍・家治の正室である倫子附の中年寄に抜擢されたのであった。
そして明和8(1771)年8月に倫子が薨じるや、今度は倫子が生んだ姫君である萬壽姫附の中年寄へと横滑りし、その萬壽姫もまた、安永2(1773)年2月に薨じるや、将軍・家治附の御客応答へと異動を果たし、今に至る。
忠可は治済より斯かる大崎についての経歴について解説を受けるや、「左様で御座りましたか…」と如何にも感心した面持ちでそう応ずると、
「いや、左様なる大崎であれば…、いえ、大崎殿であれば、成程、意次めに蕩かされていないのも頷けまする…」
態態、「殿」という敬称まで附けて大崎を持上げてみせたものだから、これにはさしもの治済も苦笑させられた。
「大崎で構わぬわ…」
忠可は大崎がかつてこの一橋屋敷にて仕えていたことに遠慮して、「殿」という敬称を附けたのであろうが、流石に言過ぎというものであろう。
だが忠可は治済の言葉にも、「はぁ…」と応えるばかりであった。余程に治済に遠慮しているものと見える。
治済はそんな忠可に対して、内心、いよいよ苦笑しつつ、本題に入ることにした。
「さて、そこでだ、忠可よ、そなたの下屋敷を貸してはくれまいか」
忠可が当主を務める山崎藩では濱町にある上屋敷の外に、本所は林町5丁目に下屋敷を構えていた。
その下屋敷にて大崎と逢いたいのだと、治済は忠可に告げた。
「それは構いませぬが、何故に民部卿様の御屋形にて御逢いになられませぬので?」
「家老や門番の目が光っておるでな…、いや、これより大崎を外出させようと思えば短くとも一週間は見積もらねばならぬであろう…」
確かに治済の言う通りであった。
大崎の様な、大奥の奥女中の中でも御客応答の様な上級の奥女中ともなると、その外出の口実としては、
「代参…」
将軍に代わって寺社参詣するとの名目が使われる。
だが昨日、今日と直ぐに外出、代参が出来る訳ではなく、諸々の準備が必要となり、最低でも一週間は必要であろう。
その際―、大崎が代参名目にて漸くに外出出来る頃には一橋御門番が今の、治済が御し易い松平直紹から、意次の息のかかった、もっと言えば将軍・家治より治済の一挙手一投足を監視せよと言含められている土方雄年へと替わっているやも知れず、その上、家老の水谷勝富までが邸内にいるやも知れなかった。
それ故、何かと「こうるさい」、彼奴等の目の届かない山崎藩の下屋敷を大崎との会合の場所として借受けたいのだと、治済は忠可に告げたのであった。
「成程…、なれど民部卿様が外出あそばされますとなると、彼奴等めも御供仕りたいなぞと申しますのでは?」
確かにその可能性もまたあり得た。いや、門番の土方雄年は兎も角、家老の水谷勝富であれば、治済が外出するとなれば、「御供」をしたいなぞと言出すに違いなかった。無論、「御供」というのは体の良い口実に過ぎず、あくまで監視の為であった。
だが治済は「対抗策」をも既に考えていた。
即ち、治済は甥―、福井藩主にして治済の実兄である重富が息・於義丸に逢うとの口実で外出する。
福井藩の世子である於義丸は現在、霊巌島にはる中屋敷にて暮らしており、それ故、治済は霊巌島にあるその中屋敷へと足を運ぶ訳だが、その折、仮令、水谷勝富がついて来ようとも、或いは土方雄年がついて来ようとも、一向に構わない。
それと言うのも、於義丸は数えで11であり、未だに元服前ということもあり、中屋敷の中でも奥向にて母・致姫と暮らしていた。
この奥向というのは大奥に相当する空間であり、基本的には男子禁制であった。
大名屋敷においては上屋敷、中屋敷、或いは下屋敷を問わず、大抵、この奥向があった。
福井藩の場合、霊巌島にある中屋敷の外にも藩主たる重富が住まう常盤橋御門内にある上屋敷や、或いは巣鴨にある下屋敷にも各々、奥向があった。
ちなみに今―、安永7(1778)年の6月現在、重富は参勤交代によりその国許である福井に帰国中であり、それ故、重富が室である致姫は息・於義丸を連れて上屋敷より中屋敷へと引き移り、奥向にて暮らしていたのだ。
それと言うのも、参勤交代により一年もの間、夫・重富と離れて暮らさねばならない致姫としては、何の変哲もない、それも主不在の上屋敷にて暮らすよりも三方を大川で囲まれている中屋敷にて暮らす方がその無聊を慰めるに適していたからだ。
具体的には致姫は女中や、或いは息・於義丸と共に舟遊びに興じるのだ。
それ故、霊巌島にあるその福井藩の中屋敷には舟が、それも立派な舟があり、それこそが治済の「付目」であった。
仮令、水谷勝富が、或いは土方雄年が治済のあとをつけて来たとしても、勝富にしろ雄年にしろ中屋敷の邸内までは入れるだろうが、それより奥、大奥に相当する奥向までは入れない。そこに入れるのは家族である治済唯一人である。
そしてその奥向より船着場に直結していたのだ。つまり、奥向にて暮らす於義丸に逢うとの名目にて治済がいったん奥向に入った上は、その後の治済の行動については、もっと言えば勝富や雄年の目を盗んで密かに奥向を出て船着場へと直行し、そして舟に乗ろうとも、勝富や雄年に知られることはないという訳だ。
一方、山崎藩の下屋敷がある本所林町は竪川に面しており、この竪川は大川の分流であった。
つまり、福井藩中屋敷の奥向より直結する船着場にて舟に乗り、そのまま大川、次いで竪川を辿って本所林町へと、それも5丁目で舟から降りれば、そこはもう山崎藩の下屋敷という訳で、この間、勝富や、或いは雄年に気づかれることはないという訳だ。
治済がその旨、忠可に告げるや、忠可も漸くに合点がいった様子であった。
「さればこの旨、大崎殿へは民部卿様より?」
「左様…」
実際には御側御用取次の稲葉正明を介して大崎へとこの旨、即ち、本所林町にある山崎藩下屋敷にて、意次への対抗策について、さしずめ「反・意次」について話合う件を伝えるつもりであった。
御三卿たる治済は将軍家の一員であるが故に大奥への出入りも許されており、治済もその御三卿である上は大奥に出入りすることが出来たので、治済自身の口から大崎へと伝えることも充分可能であり、忠可にしてもそのことは承知していたので、だからこそ治済自身の口から大崎へと伝えるものとばかり思っていた。
だが「今」の治済としては大奥へはあまり立入りたくはなかった。己の姿を大奥の奥女中共に印象付けたくはなかったのだ。
そこで治済は御側御用取次の稲葉正明を頼ることにした。
御側御用取次もまた、大奥に出入りすることが許されていたからだ。
御側御用取次は年寄と常に内談、諸々の打合わせを行うために大奥へ入ることも度々であった。
その際、御側御用取次の案内役を、年寄への案内役を務めるのが御客応答であった。
御客応答は御三家や御三卿、それに諸大名より大奥へと遣わされる女遣、所謂、
「公儀奥女遣」
その接待役を職掌としていたが、同時に老女、年寄と打合わせを行うべく大奥へと足を踏み入れた御側御用取次の案内役をも務め、ことにそれが正明の場合、決まって大崎が案内役を務める。
御客応答は大崎の外にも存し、それ故、何も大崎が決まって正明の案内役を務める必要はないのだが、今ではそれが不文律と化していた。
そこで治済は明日にでも登城に及び、正明にその旨、耳打ちするつもりであった。幸い、明日はこうるさい家老の水谷勝富は屋敷にて大人しく留守を預かる番であり、その替わりに件の一橋家家老を兼ねる大目付の新庄直宥が治済の監視役を、御城中奥における治済の一挙手一投足を監視する訳だが、実際には直宥は密かに治済と通じており、監視役を果たすどころか、治済の為に動くことを厭わない、正に股肱の臣も同然であった。
それ故、治済もその様な新庄直宥の「監視下」にあれば、
「心置きなく…」
正明に秘事を耳打ち出来るというものである。いや、治済はそこまでは忠可にも打明けなかった。
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