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序章 殺意 ~山崎藩主・本多忠可は嫡子の身で二本道具が許されている意知に殺意を募らせる~

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 おのれみみにしたくない、おもわずみみふさぎたくなる、まさ耳障みみざわりな事柄ことがらかぎって、みみはいってくるものである。宍粟しそうぐん山崎藩やまさきはん一万石をりょうする本多ほんだ肥後守ひごのかみ忠可ただよしもそのれいれず、であった。

なんと…、あの盗賊とうぞくめがさらなる加増かぞうとな…」

 耳障みみざわりな事柄ことがら、もというわさせっした忠可ただよし第一声だいいっせいがそれであった。

 忠可ただよしくちにした、と言うよりは悪罵あくばした盗賊とうぞくとはいまときめく老中ろうじゅう田沼たぬま主殿頭とのものかみ意次おきつぐのことであった。

 今年ことし―、安永7(1778)年は戌年いぬどしであり、宍粟しそうぐん山崎藩主やまさきはんしゅ本多ほんだ忠可ただよしにとっては参府さんぷねん参勤交代さんきんこうたいによりこの江戸えどとしたり、それも今月こんげつ、6月が参府さんぷつきさだめられていた。

 それゆえ忠可ただよし今月こんげつ上旬じょうじゅん参府さんぷたし、この江戸えど濱町はまちょうにある山崎藩やまさきはん上屋敷かみやしきりをたし、それから一週間今日きょう、6月11日に将軍しょうぐん家治いえはる参府さんぷ挨拶あいさつをすべく御城えどじょう登城とじょうした次第しだいであった。

 そこで忠可ただよしくだん意次おきつぐ加増かぞううわさせっしたのであった。

 意次おきつぐ去年きょねん―、安永6(1777)年の4月に加増かぞうされたばかりであった。去年きょねん酉年とりどしであり、それゆえ忠可ただよしにとっては今年ことしとはぎゃくにその国許くにもとである山崎やまさきへと帰国きこくするとしたり、やはり6月がそうであった。

 意次おきつぐ加増かぞうされたのは忠可ただよし国許くにもとへと帰国きこくする2ヶ月ほどまえのことであり、それから1年以上いじょうったいまでも忠可ただよし昨日きのうのことのようおぼえていた。

 安永6(1777)年4月の時点じてん意次おきつぐすで榛原はいばらぐん相良さがらはん三万石をりょうする大名だいみょう、それも堂々どうどうたる城主じょうしゅ大名だいみょうであった。

 それが7千石も加増かぞうされたために、意次おきつぐは3万7千石もりょうすることと相成あいなった。

 そのうえ近々きんきん意次おきつぐには上様うえさまよりのさらなる加増かぞうがあるのではないかと、忠可ただよしはそのよう耳障みみざわりなことこのうえないうわさせっしたのであった。

「おのれ…、意次おきつぐめ…」

 忠可ただよしがここまで歯噛はがみするのには理由わけがあった。それと言うのも忠可ただよしにとって意次おきつぐかたき同然どうぜんであった。

 忠可ただよしいま濱町はまちょうにある上屋敷かみやしきにてさる大名だいみょう、いや、正確せいかくにはもと大名だいみょう本多ほんだ長門守ながとのかみ忠央ただなかとその嫡子ちゃくしである兵庫頭ひょうごのかみ忠由ただよし二人ふたりあずかっていた。

 本多ほんだ忠央ただなかはかつては大名だいみょう、それも西之丸にしのまる若年寄わかどしより重職じゅうしょくにあり、

「ゆくゆくは本丸ほんまる若年寄わかどしより、そのうえさら老中ろうじゅうに…」

 そう将来しょうらい嘱望しょくぼうされていた。

 それが意次おきつぐ事実上じじつじょう主導しゅどうした郡上ぐじょう一揆いっき再吟味さいぎんみ―、再審さいしんにより忠央ただなか若年寄わかどしよりしょくうばわれ、その挙句あげく改易かいえき憂目うきめたのであった。

 いや、これだけならば忠可ただよしとて意次おきつぐのことをかたきとまではおもわなかったであろう。成程なるほど忠央ただなか忠可ただよしとは同族どうぞくであり、忠央ただなか境遇きょうぐうにはおおいに同情どうじょうする。また、忠央ただなかをそのよう境遇きょうぐう零落とした意次おきつぐたいしてはおおいに憤慨ふんがいするのもやぶさかではない。

 だがかたきとまでは到底とうていおもえなかったであろう。

 にもかかわらず、そのよう忠可ただよし意次おきつぐかたきおもうのはひとえに忠由ただよし存在そんざいがあったからだ。

 じつ忠由ただよし忠可ただよし―、ともおな名前なまえ二人ふたり叔父おじおい関係かんけいにあった。

 忠由ただよし越前えちぜん坂井さかいぐん丸岡藩まるおかはん5万石をりょうする有馬ありま先々代せんせんだい日向守ひゅうがのかみ孝純たかずみ実弟じっていであり、忠可ただよしはその孝純たかずみ次男じなんであった。

 忠由ただよしにしろ忠可ただよしにしろ、嫡子ちゃくしではないためもとより御家おいえげぬであり、それゆえ忠由ただよし本多ほんだ忠央ただなか養嗣子ようししとしてむかえられ、忠可ただよし同族どうぞく本多ほんだ大和守やまとのかみ忠堯ただとう養嗣子ようししとしてむかえられたのであった。

 忠可ただよし忠由ただよしとはそのよう間柄あいだがらゆえ意次おきつぐかたきおもようになったのだ。

意次おきつぐさえいなければ叔父おじうえ今頃いまごろ老中ろうじゅう嫡子ちゃくしになられていたやもれぬ…」

 いや、それはからないが、しかし、それでも確実かくじつえることがひとつある。それは、

相良さがらはんげていただろうに…」

 というものであった。

 相良さがらはんいまでこそ、意次おきつぐ当主とうしゅつとめる田沼たぬまおさめているが、そのまえ忠央ただなか当主とうしゅつとめる、いや、つとめていた本多ほんだおさめていたのだ。

 それが忠央ただなか改易かいえきされるや、忠央ただなか改易かいえきした張本人ちょうほんにんとも言うべき田沼たぬま意次おきつぐ相良さがら入封にゅうぶあらたな藩主はんしゅとして意気揚々いきようようんでたのであった。

 それもまた、意次おきつぐへのにくしみを増幅ぞうふくさせた。

 忠可ただよしにしてそうなのだから、忠央ただなかとその養嗣子ようしし忠由ただよしにしてみれば意次おきつぐはそれ以上いじょうであろう。事実じじつ忠由ただよし意次おきつぐとうとしたほどであった。

 ちょうど20年前ねんまえの宝暦8(1758)年、改易かいえきされた忠央ただなか松平まつだいら越後守えちごのかみ長孝ながたかおさめていた美作みまさか西北條にしほうじょうぐん津山つやまはんにてあずけとなり、一方いっぽう養嗣子ようしし忠由ただよしおなじく津山つやまはんの、しかし国許くにもとではなく江戸えど鍛冶かじばし門内もんないにある上屋敷かみやしきあずけとなった。

 それから7年後―、今から13年前ねんまえの明和2(1765)年4月に忠由ただよし養父ようふ忠央ただなかよりも一足先ひとあしさき赦免しゃめんされた。もっとも、赦免しゃめんされたと言えばこえはいが、つまるところあずけさき津山つやまはん上屋敷かみやしきから、

け…」

 それにほかならず、しかしすっかり零落れいらくした忠由ただよしにはてもなく、そこで差伸さしのべたのがほかならぬ忠可ただよしであったのだ。

 こうして忠由ただよしおい忠可ただよし厚意こういにより山崎藩やまさきはん上屋敷かみやしきにて寓居ぐうきょするようになってから2年った明和4(1767)年の7月のちょうど朔日ついたちすで忠央ただなかわってああらたな相良さがら藩主はんしゅとなってひさしい意次おきつぐたいして、将軍しょうぐん家治いえはるより築城ちくじょうめいじられたのであった。

 いや、めいじられたと言うのはあくまで建前たてまえであり、実際じっさいには家治いえはる寵愛ちょうあいする意次おきつぐ築城ちくじょうゆるした、と言うのがただしい。

 戦国乱世せんごくらんせならばいざらず、すで天下泰平てんがたいへい御代みよ象徴しょうちょう、それも最高さいこう象徴しょうちょうとも言うべきしろきずくことをゆるされる大名だいみょうなどまずいない。

 にもかかわらず、意次おきつぐにはそれがゆるされたのだ。大名だいみょうにとってはこのうえないほまれであった。

 だが相良さがら追出おいだされた格好かっこう本多ほんだ忠央ただなか忠由ただよし養親子おやこにしてみればたまったものではない。

 こと養父ようふ忠央ただなかよりも真先まっさきに、意次おきつぐ築城ちくじょうが、さしずめ相良さがらじょう築城ちくじょうゆるされた事実じじつった忠由ただよし意次おきつぐとうとし、呉服ごふくばし門内もんないにある田沼たぬま上屋敷かみやしき討入うちいろうとし、忠可ただよし家臣かしん制止せいしされる一幕ひとまくがあったそうだ。

 意次おきつぐいま神田かんだばし門内もんない上屋敷かみやしきかまえているが、その当時とうじ―、明和4(1767)年7月の時点じてんではまだ、呉服ごふくばし門内もんない上屋敷かみやしきかまえており、さかのぼれば、かの有名ゆうめい吉良きら上野介こうずけのすけ本所松坂ほんじょまつざかちょうへと屋敷やしきがえになるまでは呉服橋ごふくばし屋敷やしきかまえており、それゆえ、これで忠由ただよしに、討入うちいりゆるそうものなら仮名かな手本でほん忠臣蔵ちゅうしんぐら再来さいらいであったと、その翌年よくねん―、明和5(1768)年の6月に参府さんぷたした忠可ただよし家臣かしんがそうささやいたものである。

 いや、本来ほんらいならば忠可ただよし自身じしん叔父おじ忠由ただよしの「討入うちいり」もとい蛮勇ばんゆうめるべきところであったが、生憎あいにくと明和4(1767)年は忠可ただよしにとっては帰国きこくとしたる亥年いどしであり、それも恒例通こうれいどおり6月の中旬ちゅうじゅんには将軍しょうぐん家治いえはるには帰国きこく挨拶あいさつませて江戸えどったので、意次おきつぐ相良さがら築城ちくじょうゆるされ、つそのこと忠由ただよし意次おきつぐとうとした7月にはすで忠可ただよし国許くにもとである山崎やまさきであり、これでは忠由ただよし蛮勇ばんゆうめようにもめられなかった。

 これでかり忠由ただよし蛮勇ばんゆう、もとい「討入うちいり」をゆるそうものなら、忠由ただよしばっせられるのは当然とうぜんとして、その忠由ただよし上屋敷かみやしき寓居ぐうきょさせていた忠可ただよしまでが処罰しょばつされていたところであろう。

 もっとかり忠由ただよし単身たんしん、その当時とうじ呉服ごふくばし門内もんないにあった田沼たぬま上屋敷かみやしき討入うちいったところで、多勢たぜい無勢むぜい返討かえりうちうのがせきやまであろうが、それでも忠可ただよしにまでるいおよぶのはけられまい。

 それゆえ忠可ただよし叔父おじ忠由ただよし蛮勇ばんゆうめてくれた家臣かしん心底しんそこ感謝かんしゃすると同時どうじにホッとしたものである。下手へたをすれば、いや、確実かくじつ忠央ただなかまいえんじさせられるところであったからだ。

 だがそれでもさらにその翌年よくねんの明和6(1769)年、やはり参勤交代さんきんこうたいにより忠可ただよし国許くにもとである山崎やまさきつちすでんでひさしい9月の朔日ついたち今度こんど意次おきつぐ嫡子ちゃくしである意知おきとも持鎗もちやり二本にほんゆるされたことで、

「いっそのこと、叔父おじうえにあの盗賊とうぞくめを…、いや、それにせがれ共々ともどもたせてやればかった…」

 忠可ただよしはそのようらちいことをおもったものである。

 忠可ただよしは明和7(1770)年の6月に参府さんぷするなり、先年せんねん意知おきとも持鎗もちやり二本にほんゆるされた事実じじつせっしてそうおもったのだ。

 この時代じだいやりもまた武士ぶしにとって、こと大名だいみょうにとっては象徴しょうちょうと言えた。

 大名だいみょう千代田ちよだ御城おしろ登城とじょうするさいには壮麗そうれい行列ぎょうれつ仕立したてて登城とじょうおよわけだが、わけてもやり大事だいじであった。ようは、

何本なんぼんやりてられるか…」

 それにきた。

 大名だいみょうが、それに旗本はたもともそうだが、御城えどじょう登城とじょうするさいには細々こまごまとした規則ルールがあり、やりもそのなかふくまれていた。

 たとえば御城えどじょう登城とじょうするさい二本にほんやりてられるのは3万石以上いじょうりょうする大名だいみょうか、10万石以上いじょうりょうする大名だいみょう嫡子ちゃくしそして老中ろうじゅう嫡子ちゃくしかぎられていた。

 無論むろん原則げんそくがあれば例外れいがいもあり、りょうする石高こくだかが3万石にたない大名だいみょうでも二本のやりてることが、所謂いわゆる、「二本にほん道具どうぐ」がゆるされているケースもあればそのぎゃくに、りょうする石高こくだかが3万石をえる大名だいみょうでも「一本いっぽん道具どうぐ」しかゆるされていないケースもある。

 ともあれ、その当時とうじ―、明和6(1769)年の8月に側用人そばようにんであった意次おきつぐ老中ろうじゅう格式かくしきあたえられると同時どうじに、官位かんい従四位じゅしいのげ諸大夫しょだいぶ所謂いわゆる四品しほん」から従四位下じゅしいのげ侍従じじゅうへと昇叙しょうじょたした。

 厳密げんみつに言えば正式せいしき老中ろうじゅうではないものの、それでも老中ろうじゅう格式かくしきあたえられたことにちがいはなく、それを裏付うらづけるように、官位かんい老中ろうじゅうのそれとおな従四位下じゅしいのげ侍従じじゅうあたえられたのであった。

 そうであるならば、その意次おきつぐ嫡子ちゃくしである意知おきともに「二本にほん道具どうぐ」がゆるされるのも当然とうぜんであり、そのことは忠可ただよしあたまでは理解りかいしていた。

 だが感情かんじょうが|、それも感情かんじょう理性りせいおおった。つまりは意知おきとも殺意さついおぼえたのであった。

 忠可ただよしがここまで感情かんじょうとらわれたのはほかでもない、忠可ただよしは「一本いっぽん道具どうぐ」しかゆるされていないからだ。

 忠可ただよし当主とうしゅつとめる山崎藩やまさきはん本多ほんだ所謂いわゆる

古来こらい譜代ふだいせき…」

 そうしょうされる帝鑑間ていかんのま殿中でんちゅうせきとしていた。殿中でんちゅうせきとは将軍しょうぐん拝謁はいえつするまでのあいだ場所ばしょであり、よう待合所まちあいじょようなものである。

 ともあれ忠可ただよし帝鑑間ていかんのまづめ大名だいみょうとしての自尊心プライドがあり、その自尊心プライドこうじて、

二本にほん道具どうぐ、いや、それどころか三本さんぼん道具どうぐさえもゆるされてもかろうに…」

 不遜ふそんにもそのようおもふしさえうかがわれ、意次おきつぐ意知おきとも父子ふしそろって「二本にほん道具どうぐ」がゆるされるようになってからそれはひどくなった。

 なににろ忠可ただよし帝鑑間ていかんのまづめ大名だいみょうではあったが、りょうする石高こくだかは一万石と少禄しょうろく、はっきり言ってしまえば大名だいみょう石高こくだかとしては最低さいていレベルであり、それゆえ忠可ただよしには「一本いっぽん道具どうぐ」しかゆるされていなかったからだ。

 にもかかわらず、

盗賊とうぞくめが…」

 忠可ただよしがそのよう悪罵あくば侮蔑ぶべつ投付なげつける対象たいしょうである意次おきつぐとその嫡子ちゃくし意知おきとも二人ふたりたいして「二本にほん道具どうぐ」がゆるされたのだから、くだん不遜ふそんなるおもいがひどくなるのも当然とうぜんと言えば当然とうぜんではあった。

 もっとも、忠可ただよしには「一本いっぽん道具どうぐ」のほかにも、もうひとつ、爪折立傘つまおりだてがさてることがゆるされていたので、忠可ただよしはそれでなんとか、

古来こらい譜代ふだい…」

 おのれのその自尊心じそんしんたもつことにつとめた。いや、忠可ただよしとて馬鹿馬鹿ばかばかしいとはかっていたが、そうおもわないことにはとても平静へいせいさをたもてなかったからだ。

 将軍しょうぐん家治いえはるへの拝謁はいえつませた忠可ただよし下城げじょうすべく、大手おおて門外もんそとると、供待ともまち忠可ただよし視界しかい飛込とびこんできた。

 旗本はたもともとより、数多あまた大名だいみょう家門かもん所謂いわゆる親藩しんぱんふくめて御城えどじょう登城とじょうするさい従者じゅうしゃをここ大手おおて門外もんそと下馬げばしょにてたせねばならず、彼等かれら従者じゅうしゃ青空あおぞらもとにてあるじである大名だいみょうかえりをたねばならなかった。

 いや、今日きょうようまさしく晴天せいてんであればそれでもいが、あめともなると大変たいへんである。主君しゅくん駕籠かごれぬよう、駕籠かごおおきな合羽かっぱかぶせ、のみならずさらにそのうえから従者じゅうしゃかさ差掛さしかけねばならないからだ。

 それゆえ従者じゅうしゃ自身じしんかさすことなどゆるされず、ずぶれであるじかえりをたねばならなかった。無論むろん雨合羽あまがっぱにつけることはゆるされているが、焼石やけいしみずぎなかった。

 だが親藩しんぱんなかでも、「ちょう親藩しんぱん」とも言うべき存在そんざいである御三家ごさんけと、それに老中ろうじゅう若年寄わかどしより従者じゅうしゃかぎってはこの供待ともまちなる長屋ながやにて主君しゅくんかえりをつことがゆるされていたのだ。

 かつて西之丸にしのまる若年寄わかどしよりつとめていた本多ほんだ忠央ただなか忠可ただよしにとっては大事だいじ叔父おじである忠由ただよし養父ようふたる忠央ただなか従者じゅうしゃもその供待ともまちにて主君しゅくん忠央ただなかかえりを待受まちうけていたわけだが、それがいま忠央ただなかわって、忠央ただなか追落おいおとした意次おきつぐ老中ろうじゅうとしておのれ従者じゅうしゃをこの供待ともまちにてたせているのかとおもうと、忠可ただよし益益ますますもって意次おきつぐのことがにくおもえてならなかった。

 さて、意次おきつぐをはじめとする老中ろうじゅうおよ若年寄わかどしより従者じゅうしゃなかでも鎗持やりもちのみは供待ともまちそとにて茣蓙ございて、そのうえすわりながらやりかかげていた。

 鎗持やりもち供待ともまちなかにて主君しゅくんかえりをてばさそうなものだが、しかしそうなると畢竟ひっきょうやり供待ともまちなかで、それもかせてしまうことになるとおもわれるであろう。だがそれはゆるされないことであった。なにしろやり象徴しょうちょう所謂いわゆる、シンボルマークであるからだ。

 そこで従者じゅうしゃなかでも鎗持やりもちだけは供待ともまちなかではなく、そのそとにて主君しゅくんかえりをわけだ。

 それなら老中ろうじゅうらにつかえる鎗持やりもちほか数多あまた大名だいみょうつかえる鎗持やりもち同様どうようあめでもろうものなら、すぶれになってしまうのではないかとおもわれるやもれぬが、供待ともまち長屋ながやとは言え、その天井てんじょうまでのたかさが一般いっぱん長屋ながやのそれよりもたかく、それもばい以上いじょうたかさをほこり、これはやりたかさをかんがえて設定せっていされたたかさであった。

 すなわち、そとけてはひさしがついているので、老中ろうじゅうらにつかえる鎗持やりもちそとやりかかげながら主君しゅくんかえりを待受まちうけるとは言っても、ひさしもとにて待受まちうけるので、あめられようとも、ずぶれになる心配しんぱいはないと言うわけだ。

 それなら供待ともまちなかでもやり立掛たてかけられるわけで、鎗持やりもち供待ともまちなか主君しゅくんかえりをたせてもなん差支さしつかえないようおもわれるが、そうせぬのはやりという象徴シンボルマークを、

せびらかしたい…」

 その動機どうき多分たぶんふくまれていた。

 ともあれその供待ともまちそとひさしもとにては老中ろうじゅう若年寄わかどしよりつかえる鎗持やりもち各々おのおのやりかかげてあるじかえりを待受まちうけており、そのなかには意次おきつぐつかえる二人ふたり鎗持やりもち勿論もちろんふくまれていた。

 意次おきつぐ相良さがらはん3万7千石もりょうする大名だいみょうであり、それゆえ勿論もちろん、「二本にほん道具どうぐ」がゆるされていた。いや、これで仮令たとえりょうする石高こくだかが3万石にたずとも、老中ろうじゅうしょくにあれば当然とうぜん、「二本にほん道具どうぐ」がゆるされていたにちがいない。

 その意次おきつぐゆるされた「二本にほん道具どうぐ」だが、二本にほんとも金物かなもの赤銅しゃくどうづくりであり、太刀打たちうち萌黄もえぎ羅紗らしゃ装飾そうしょくほどこされており、意次おきつぐ鎗持やりもちおぼしき二人ふたりまさにそのやりかかげていた。

 忠可ただよしおもわず、彼等かれら二人ふたり凝視ぎょうし、いや、めつけたものである。

 だがいつまでもめつけるわけにもゆかず、おのれかえりを待受まちうける従者じゅうしゃもとへともどるべく、視線しせんはずすと、今度こんどはやはり二本にほんとも金物かなもの赤銅しゃくどうづくりで、しかし太刀打たちうち煤竹すすたけ羅紗らしゃやりかかげてあるじかえりを待受まちうける二人ふたり鎗持やりもち忠可ただよし視界しかい飛込とびこんできたものだから、忠可ただよしおもわず舌打したうちしたものである。それと言うのも、この二人ふたり鎗持やりもちあるじはと言うと、田沼たぬま意知おきともそのひとだからだ。

 今日、6月11日は平日へいじつであり、それゆえ御城えどじょう登城とじょう可能かのう大名だいみょうと言えば、老中ろうじゅう若年寄わかどしよりあるいは奏者番そうじゃばんやその筆頭ひっとうである寺社じしゃ奉行ぶぎょうといった幕臣ばくしんのぞいては、幕府ばくふ政治せいじ顧問こもん格式かくしきあたえられている溜詰たまりづめとそれに雁間がんのまづめ菊間きくのまづめ諸侯しょこうかぎられており、忠可ただよしよう帝鑑間ていかんのまづめ諸侯しょこうもとより、御三家ごさんけさえも登城とじょうすることはゆるされていなかったのだ。

 ただ忠可ただよし場合ばあい参勤交代さんきんこうたいにより参府さんぷしたので、将軍しょうぐん家治いえはるにその挨拶あいさつをする必要ひつようからとく登城とじょうゆるされたにぎない。

 そして意知おきとも大名だいみょう嫡子ちゃくし所謂いわゆる、「部屋住へやずみ」のぎないものの、しかしここでもまた、老中ろうじゅう嫡子ちゃくしとしての立場たちばがものを言った。

 すなわち、老中ろうじゅうとそれに京都きょうと所司代しょしだい嫡子ちゃくしかぎり、雁間がんのまめることがゆるされるのだ。

 つまりは雁間がんのま殿中でんちゅうせきとし、平日へいじつ登城とじょうゆるされている雁間がんのまづめ大名だいみょう諸侯しょこうじって雁間がんのまめられると言うわけだ。

 それゆえ意知おきとももまた、ちち意次おきつぐとも平日へいじつ登城とじょうゆるされているであるわけだが、これもまた、忠可ただよしおおいに苛立いらだたせた、いや、意知おきともへの殺意さついこうじさせたものである。
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