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序章 殺意 ~山崎藩主・本多忠可は嫡子の身で二本道具が許されている意知に殺意を募らせる~
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己が耳にしたくない、思わず耳を塞ぎたくなる、正に耳障りな事柄に限って、耳に入ってくるものである。宍粟郡山崎藩一万石を領する本多肥後守忠可もその例に洩れず、であった。
「何と…、あの盗賊めが更なる加増とな…」
耳障りな事柄、もとい噂に接した忠可の第一声がそれであった。
忠可が口にした、と言うよりは悪罵した盗賊とは今を時めく老中の田沼主殿頭意次のことであった。
今年―、安永7(1778)年は戌年であり、宍粟郡山崎藩主の本多忠可にとっては参府年、参勤交代によりこの江戸に来る年に当たり、それも今月、6月が参府の月と定められていた。
それ故、忠可は今月の上旬に参府を果たし、この江戸は濱町にある山崎藩の上屋敷入りを果たし、それから一週間経た今日、6月11日に将軍家治に参府の挨拶をすべく御城に登城した次第であった。
そこで忠可は件の意次加増の噂に接したのであった。
意次は去年―、安永6(1777)年の4月に加増されたばかりであった。去年は酉年であり、それ故、忠可にとっては今年とは逆にその国許である山崎へと帰国する年に当たり、やはり6月がそうであった。
意次が加増されたのは忠可が国許へと帰国する2ヶ月ほど前のことであり、それから1年以上も経った今でも忠可も昨日のことの様に覚えていた。
安永6(1777)年4月の時点で意次は既に榛原郡相良藩三万石を領する大名、それも堂々たる城主大名であった。
それが7千石も加増されたために、意次は3万7千石も領することと相成った。
その上、近々、意次には上様よりの更なる御加増があるのではないかと、忠可はその様な耳障りなことこの上ない噂に接したのであった。
「おのれ…、意次め…」
忠可がここまで歯噛みするのには理由があった。それと言うのも忠可にとって意次は仇も同然であった。
忠可は今、濱町にある上屋敷にてさる大名、いや、正確には元・大名の本多長門守忠央とその嫡子である兵庫頭忠由の二人を預かっていた。
本多忠央はかつては大名、それも西之丸若年寄の重職にあり、
「ゆくゆくは本丸若年寄、その上、更に老中に…」
そう将来を嘱望されていた。
それが意次が事実上、主導した郡上一揆の再吟味―、再審により忠央は若年寄の職を奪われ、その挙句、改易の憂目を見たのであった。
いや、これだけならば忠可とて意次のことを仇とまでは思わなかったであろう。成程、忠央は忠可とは同族であり、忠央の境遇には大いに同情する。また、忠央をその様な境遇に零落とした意次に対しては大いに憤慨するのも吝かではない。
だが仇とまでは到底、思えなかったであろう。
にもかかわらず、その様な忠可が意次を仇と思うのはひとえに忠由の存在があったからだ。
実は忠由と忠可―、共に同じ名前の二人は叔父と甥の関係にあった。
忠由は越前坂井郡丸岡藩5万石を領する有馬家の先々代、日向守孝純の実弟であり、忠可はその孝純の次男であった。
忠由にしろ忠可にしろ、嫡子ではない為に元より御家を継げぬ身であり、それ故、忠由は本多忠央の養嗣子として迎えられ、忠可も同族の本多大和守忠堯の養嗣子として迎えられたのであった。
忠可は忠由とはその様な間柄故、意次を仇と思う様になったのだ。
「意次さえいなければ叔父上は今頃は老中の嫡子になられていたやも知れぬ…」
いや、それは分からないが、しかし、それでも確実に言えることが一つある。それは、
「相良藩を継げていただろうに…」
というものであった。
相良藩は今でこそ、意次が当主を務める田沼家が治めているが、その前は忠央が当主を務める、いや、務めていた本多家が治めていたのだ。
それが忠央が改易されるや、忠央を改易した張本人とも言うべき田沼意次が相良の地に入封、新たな藩主として意気揚々、乗り込んで来たのであった。
それもまた、意次への憎しみを増幅させた。
忠可にしてそうなのだから、忠央とその養嗣子の忠由にしてみれば意次はそれ以上であろう。事実、忠由は意次を討とうとした程であった。
ちょうど20年前の宝暦8(1758)年、改易された忠央は松平越後守長孝が治めていた美作西北條郡津山藩にて御預の身となり、一方、養嗣子の忠由は同じく津山藩の、しかし国許ではなく江戸は鍛冶橋御門内にある上屋敷に御預の身となった。
それから7年後―、今から13年前の明和2(1765)年4月に忠由が養父・忠央よりも一足先に赦免された。尤も、赦免されたと言えば聞こえは良いが、つまるところ御預先の津山藩上屋敷から、
「出て行け…」
それに外ならず、しかしすっかり零落した忠由には行く当てもなく、そこで手を差伸べたのが外ならぬ忠可であったのだ。
こうして忠由が甥・忠可の厚意により山崎藩上屋敷にて寓居する様になってから2年経った明和4(1767)年の7月のちょうど朔日、既に忠央に代わって新たな相良藩主となって久しい意次に対して、将軍・家治より築城が命じられたのであった。
いや、命じられたと言うのはあくまで建前であり、実際には家治が寵愛する意次に築城を許した、と言うのが正しい。
戦国乱世ならばいざ知らず、既に天下泰平の御代、武の象徴、それも最高の象徴とも言うべき城を築くことを許される大名などまずいない。
にもかかわらず、意次にはそれが許されたのだ。大名にとってはこの上ない譽であった。
だが相良の地を追出された格好の本多忠央・忠由養親子にしてみればたまったものではない。
殊に養父・忠央よりも真先に、意次に築城が、さしずめ相良城の築城が許された事実を知った忠由は意次を討とうとし、呉服橋御門内にある田沼家の上屋敷へ討入ろうとし、忠可の家臣に制止される一幕があったそうだ。
意次は今は神田橋御門内に上屋敷を構えているが、その当時―、明和4(1767)年7月の時点ではまだ、呉服橋御門内に上屋敷を構えており、遡れば、かの有名な吉良上野介も本所松坂町へと屋敷替になるまでは呉服橋に屋敷を構えており、それ故、これで忠由に、討入を許そうものなら仮名手本忠臣蔵の再来であったと、その翌年―、明和5(1768)年の6月に参府を果たした忠可に家臣がそう囁いたものである。
いや、本来ならば忠可自身が叔父・忠由の「討入」もとい蛮勇を止めるべきところであったが、生憎と明和4(1767)年は忠可にとっては帰国の年に当たる亥年であり、それも恒例通り6月の中旬には将軍・家治には帰国の挨拶を済ませて江戸を発ったので、意次が相良の地に築城を許され、且つその事で忠由が意次を討とうとした7月には既に忠可は国許である山崎であり、これでは忠由の蛮勇を止めようにも止められなかった。
これで仮に忠由の蛮勇、もとい「討入」を許そうものなら、忠由が罰せられるのは当然として、その忠由を上屋敷に寓居させていた忠可までが処罰されていたところであろう。
尤も仮に忠由が単身、その当時は呉服橋御門内にあった田沼家の上屋敷に討入ったところで、多勢に無勢、返討に遭うのが関の山であろうが、それでも忠可にまで累が及ぶのは避けられまい。
それ故、忠可は叔父・忠由の蛮勇を止めてくれた家臣に心底、感謝すると同時にホッとしたものである。下手をすれば、いや、確実に忠央の二の舞を演じさせられるところであったからだ。
だがそれでも更にその翌年の明和6(1769)年、やはり参勤交代により忠可が国許である山崎の土を既に踏んで久しい9月の朔日に今度は意次の嫡子である意知に持鎗二本が許されたことで、
「いっそのこと、叔父上にあの盗賊めを…、いや、それに小倅共々討たせてやれば良かった…」
忠可はその様な埒も無いことを思ったものである。
忠可は明和7(1770)年の6月に参府するなり、先年、意知に持鎗二本が許された事実に接してそう思ったのだ。
この時代、鎗もまた武士にとって、殊に大名にとっては武の象徴と言えた。
大名が千代田の御城に登城する際には壮麗な行列を仕立てて登城に及ぶ訳だが、わけても鎗が大事であった。要は、
「何本の鎗を立てられるか…」
それに尽きた。
大名が、それに旗本もそうだが、御城に登城する際には細々とした規則があり、鎗もその中に含まれていた。
例えば御城に登城する際、二本の鎗を立てられるのは3万石以上を領する大名か、10万石以上を領する大名の嫡子そして老中の嫡子に限られていた。
無論、原則があれば例外もあり、領する石高が3万石に満たない大名でも二本の鎗を立てることが、所謂、「二本道具」が許されている例もあればその逆に、領する石高が3万石を超える大名でも「一本道具」しか許されていない例もある。
ともあれ、その当時―、明和6(1769)年の8月に側用人であった意次は老中の格式を与えられると同時に、官位も従四位諸大夫、所謂「四品」から従四位下侍従へと昇叙を果たした。
厳密に言えば正式な老中ではないものの、それでも老中の格式を与えられたことに違いはなく、それを裏付ける様に、官位も老中のそれと同じ従四位下侍従が与えられたのであった。
そうであるならば、その意次の嫡子である意知に「二本道具」が許されるのも当然であり、そのことは忠可も頭では理解していた。
だが感情が|、それも負の感情が理性を覆った。つまりは意知に殺意を覚えたのであった。
忠可がここまで負の感情に囚われたのは外でもない、忠可は「一本道具」しか許されていないからだ。
忠可が当主を務める山崎藩本多家は所謂、
「古来御譜代の席…」
そう称される帝鑑間を殿中席としていた。殿中席とは将軍に拝謁するまでの間、待つ場所であり、要は待合所の様なものである。
ともあれ忠可は帝鑑間詰の大名としての自尊心があり、その自尊心が昂じて、
「二本道具、いや、それどころか三本道具さえも許されても良かろうに…」
不遜にもその様に思う節さえ窺われ、意次・意知父子が揃って「二本道具」が許される様になってからそれは酷くなった。
何にろ忠可は帝鑑間詰の大名ではあったが、領する石高は一万石と少禄、はっきり言ってしまえば大名の石高としては最低レベルであり、それ故、忠可には「一本道具」しか許されていなかったからだ。
にもかかわらず、
「盗賊めが…」
忠可がその様に悪罵、侮蔑を投付ける対象である意次とその嫡子の意知の二人に対して「二本道具」が許されたのだから、件の不遜なる思いが酷くなるのも当然と言えば当然ではあった。
尤も、忠可には「一本道具」の外にも、もう一つ、爪折立傘を立てることが許されていたので、忠可はそれで何とか、
「古来御譜代…」
己のその自尊心を保つことに努めた。いや、忠可とて馬鹿馬鹿しいとは分かっていたが、そう思わないことにはとても平静さを保てなかったからだ。
将軍家治への拝謁を済ませた忠可は下城すべく、大手御門外に出ると、供待が忠可の視界に飛込んできた。
旗本は元より、数多の大名は家門、所謂、親藩も含めて御城に登城する際、従者をここ大手御門外の下馬所にて待たせねばならず、彼等従者は青空の下にて主である大名の帰りを待たねばならなかった。
いや、今日の様な正しく晴天であればそれでも良いが、雨ともなると大変である。主君の駕籠が濡れぬよう、駕籠に大きな合羽を被せ、のみならず更にその上から従者が傘を差掛けねばならないからだ。
それ故、従者自身が傘を差すことなど許されず、ずぶ濡れで主の帰りを待たねばならなかった。無論、雨合羽を身につけることは許されているが、焼石に水に過ぎなかった。
だが親藩の中でも、「超・親藩」とも言うべき存在である御三家と、それに老中・若年寄の従者に限ってはこの供待なる長屋にて主君の帰りを待つことが許されていたのだ。
かつて西之丸の若年寄を務めていた本多忠央、忠可にとっては大事な叔父である忠由の養父に当たる忠央の従者もその供待にて主君・忠央の帰りを待受けていたわけだが、それが今は忠央に代わって、忠央を追落とした意次が老中として己の従者をこの供待にて待たせているのかと思うと、忠可は益益もって意次のことが憎く思えてならなかった。
さて、意次をはじめとする老中、及び若年寄の従者の中でも鎗持のみは供待の直ぐ外にて茣蓙を敷いて、その上に座りながら鎗を掲げていた。
鎗持も供待の中にて主君の帰りを待てば良さそうなものだが、しかしそうなると畢竟、鎗も供待の中で、それも寝かせてしまうことになると思われるであろう。だがそれは許されないことであった。何しろ鎗は武の象徴、所謂、シンボルマークであるからだ。
そこで従者の中でも鎗持だけは供待の中ではなく、その直ぐ外にて主君の帰りを待つ訳だ。
それなら老中らに仕える鎗持は外の数多の大名に仕える鎗持と同様、雨でも降ろうものなら、すぶ濡れになってしまうのではないかと思われるやも知れぬが、供待は長屋とは言え、その天井までの高さが一般の長屋のそれよりも高く、それも倍以上の高さを誇り、これは鎗の高さを考えて設定された高さであった。
即ち、外に向けては庇がついているので、老中らに仕える鎗持は外で鎗を掲げながら主君の帰りを待受けるとは言っても、庇の下にて待受けるので、雨に降られ様とも、ずぶ濡れになる心配はないと言う訳だ。
それなら供待の中でも鎗を立掛けられる訳で、鎗持も供待の中で主君の帰りを待たせても何ら差支えない様に思われるが、そうせぬのは鎗という武の象徴を、
「見せびらかしたい…」
その動機が多分に含まれていた。
ともあれその供待の直ぐ外の庇の下にては老中や若年寄に仕える鎗持が各々、鎗を掲げて主の帰りを待受けており、その中には意次に仕える二人の鎗持も勿論、含まれていた。
意次は相良藩3万7千石も領する大名であり、それ故、勿論、「二本道具」が許されていた。いや、これで仮令、領する石高が3万石に満たずとも、老中職にあれば当然、「二本道具」が許されていたに違いない。
その意次に許された「二本道具」だが、二本とも金物は赤銅造であり、太刀打は萌黄羅紗の装飾が施されており、意次の鎗持と思しき二人は正にその鎗を掲げていた。
忠可は思わず、彼等二人を凝視、いや、睨めつけたものである。
だがいつまでも睨めつける訳にもゆかず、己の帰りを待受ける従者の許へと戻るべく、視線を外すと、今度はやはり二本とも金物は赤銅造で、しかし太刀打は煤竹羅紗の鎗を掲げて主の帰りを待受ける二人の鎗持が忠可の視界に飛込んできたものだから、忠可は思わず舌打ちしたものである。それと言うのも、この二人の鎗持の主はと言うと、田沼意知その人だからだ。
今日、6月11日は平日であり、それ故、御城に登城が可能な大名と言えば、老中や若年寄、或いは奏者番やその筆頭である寺社奉行といった幕臣を除いては、幕府の政治顧問の格式を与えられている溜詰とそれに雁間詰や菊間詰の諸侯に限られており、忠可の様な帝鑑間詰の諸侯は元より、御三家さえも登城することは許されていなかったのだ。
ただ忠可の場合は参勤交代により参府したので、将軍家治にその挨拶をする必要から特に登城が許されたに過ぎない。
そして意知は大名の嫡子、所謂、「部屋住」の身に過ぎないものの、しかしここでもまた、老中の嫡子としての立場がものを言った。
即ち、老中とそれに京都所司代の嫡子に限り、雁間に詰めることが許されるのだ。
つまりは雁間を殿中席とし、平日登城が許されている雁間詰の大名諸侯に混じって雁間に詰められると言う訳だ。
それ故、意知もまた、父・意次と共に平日登城が許されている身である訳だが、これもまた、忠可を大いに苛立たせた、いや、意知への殺意を昂じさせたものである。
「何と…、あの盗賊めが更なる加増とな…」
耳障りな事柄、もとい噂に接した忠可の第一声がそれであった。
忠可が口にした、と言うよりは悪罵した盗賊とは今を時めく老中の田沼主殿頭意次のことであった。
今年―、安永7(1778)年は戌年であり、宍粟郡山崎藩主の本多忠可にとっては参府年、参勤交代によりこの江戸に来る年に当たり、それも今月、6月が参府の月と定められていた。
それ故、忠可は今月の上旬に参府を果たし、この江戸は濱町にある山崎藩の上屋敷入りを果たし、それから一週間経た今日、6月11日に将軍家治に参府の挨拶をすべく御城に登城した次第であった。
そこで忠可は件の意次加増の噂に接したのであった。
意次は去年―、安永6(1777)年の4月に加増されたばかりであった。去年は酉年であり、それ故、忠可にとっては今年とは逆にその国許である山崎へと帰国する年に当たり、やはり6月がそうであった。
意次が加増されたのは忠可が国許へと帰国する2ヶ月ほど前のことであり、それから1年以上も経った今でも忠可も昨日のことの様に覚えていた。
安永6(1777)年4月の時点で意次は既に榛原郡相良藩三万石を領する大名、それも堂々たる城主大名であった。
それが7千石も加増されたために、意次は3万7千石も領することと相成った。
その上、近々、意次には上様よりの更なる御加増があるのではないかと、忠可はその様な耳障りなことこの上ない噂に接したのであった。
「おのれ…、意次め…」
忠可がここまで歯噛みするのには理由があった。それと言うのも忠可にとって意次は仇も同然であった。
忠可は今、濱町にある上屋敷にてさる大名、いや、正確には元・大名の本多長門守忠央とその嫡子である兵庫頭忠由の二人を預かっていた。
本多忠央はかつては大名、それも西之丸若年寄の重職にあり、
「ゆくゆくは本丸若年寄、その上、更に老中に…」
そう将来を嘱望されていた。
それが意次が事実上、主導した郡上一揆の再吟味―、再審により忠央は若年寄の職を奪われ、その挙句、改易の憂目を見たのであった。
いや、これだけならば忠可とて意次のことを仇とまでは思わなかったであろう。成程、忠央は忠可とは同族であり、忠央の境遇には大いに同情する。また、忠央をその様な境遇に零落とした意次に対しては大いに憤慨するのも吝かではない。
だが仇とまでは到底、思えなかったであろう。
にもかかわらず、その様な忠可が意次を仇と思うのはひとえに忠由の存在があったからだ。
実は忠由と忠可―、共に同じ名前の二人は叔父と甥の関係にあった。
忠由は越前坂井郡丸岡藩5万石を領する有馬家の先々代、日向守孝純の実弟であり、忠可はその孝純の次男であった。
忠由にしろ忠可にしろ、嫡子ではない為に元より御家を継げぬ身であり、それ故、忠由は本多忠央の養嗣子として迎えられ、忠可も同族の本多大和守忠堯の養嗣子として迎えられたのであった。
忠可は忠由とはその様な間柄故、意次を仇と思う様になったのだ。
「意次さえいなければ叔父上は今頃は老中の嫡子になられていたやも知れぬ…」
いや、それは分からないが、しかし、それでも確実に言えることが一つある。それは、
「相良藩を継げていただろうに…」
というものであった。
相良藩は今でこそ、意次が当主を務める田沼家が治めているが、その前は忠央が当主を務める、いや、務めていた本多家が治めていたのだ。
それが忠央が改易されるや、忠央を改易した張本人とも言うべき田沼意次が相良の地に入封、新たな藩主として意気揚々、乗り込んで来たのであった。
それもまた、意次への憎しみを増幅させた。
忠可にしてそうなのだから、忠央とその養嗣子の忠由にしてみれば意次はそれ以上であろう。事実、忠由は意次を討とうとした程であった。
ちょうど20年前の宝暦8(1758)年、改易された忠央は松平越後守長孝が治めていた美作西北條郡津山藩にて御預の身となり、一方、養嗣子の忠由は同じく津山藩の、しかし国許ではなく江戸は鍛冶橋御門内にある上屋敷に御預の身となった。
それから7年後―、今から13年前の明和2(1765)年4月に忠由が養父・忠央よりも一足先に赦免された。尤も、赦免されたと言えば聞こえは良いが、つまるところ御預先の津山藩上屋敷から、
「出て行け…」
それに外ならず、しかしすっかり零落した忠由には行く当てもなく、そこで手を差伸べたのが外ならぬ忠可であったのだ。
こうして忠由が甥・忠可の厚意により山崎藩上屋敷にて寓居する様になってから2年経った明和4(1767)年の7月のちょうど朔日、既に忠央に代わって新たな相良藩主となって久しい意次に対して、将軍・家治より築城が命じられたのであった。
いや、命じられたと言うのはあくまで建前であり、実際には家治が寵愛する意次に築城を許した、と言うのが正しい。
戦国乱世ならばいざ知らず、既に天下泰平の御代、武の象徴、それも最高の象徴とも言うべき城を築くことを許される大名などまずいない。
にもかかわらず、意次にはそれが許されたのだ。大名にとってはこの上ない譽であった。
だが相良の地を追出された格好の本多忠央・忠由養親子にしてみればたまったものではない。
殊に養父・忠央よりも真先に、意次に築城が、さしずめ相良城の築城が許された事実を知った忠由は意次を討とうとし、呉服橋御門内にある田沼家の上屋敷へ討入ろうとし、忠可の家臣に制止される一幕があったそうだ。
意次は今は神田橋御門内に上屋敷を構えているが、その当時―、明和4(1767)年7月の時点ではまだ、呉服橋御門内に上屋敷を構えており、遡れば、かの有名な吉良上野介も本所松坂町へと屋敷替になるまでは呉服橋に屋敷を構えており、それ故、これで忠由に、討入を許そうものなら仮名手本忠臣蔵の再来であったと、その翌年―、明和5(1768)年の6月に参府を果たした忠可に家臣がそう囁いたものである。
いや、本来ならば忠可自身が叔父・忠由の「討入」もとい蛮勇を止めるべきところであったが、生憎と明和4(1767)年は忠可にとっては帰国の年に当たる亥年であり、それも恒例通り6月の中旬には将軍・家治には帰国の挨拶を済ませて江戸を発ったので、意次が相良の地に築城を許され、且つその事で忠由が意次を討とうとした7月には既に忠可は国許である山崎であり、これでは忠由の蛮勇を止めようにも止められなかった。
これで仮に忠由の蛮勇、もとい「討入」を許そうものなら、忠由が罰せられるのは当然として、その忠由を上屋敷に寓居させていた忠可までが処罰されていたところであろう。
尤も仮に忠由が単身、その当時は呉服橋御門内にあった田沼家の上屋敷に討入ったところで、多勢に無勢、返討に遭うのが関の山であろうが、それでも忠可にまで累が及ぶのは避けられまい。
それ故、忠可は叔父・忠由の蛮勇を止めてくれた家臣に心底、感謝すると同時にホッとしたものである。下手をすれば、いや、確実に忠央の二の舞を演じさせられるところであったからだ。
だがそれでも更にその翌年の明和6(1769)年、やはり参勤交代により忠可が国許である山崎の土を既に踏んで久しい9月の朔日に今度は意次の嫡子である意知に持鎗二本が許されたことで、
「いっそのこと、叔父上にあの盗賊めを…、いや、それに小倅共々討たせてやれば良かった…」
忠可はその様な埒も無いことを思ったものである。
忠可は明和7(1770)年の6月に参府するなり、先年、意知に持鎗二本が許された事実に接してそう思ったのだ。
この時代、鎗もまた武士にとって、殊に大名にとっては武の象徴と言えた。
大名が千代田の御城に登城する際には壮麗な行列を仕立てて登城に及ぶ訳だが、わけても鎗が大事であった。要は、
「何本の鎗を立てられるか…」
それに尽きた。
大名が、それに旗本もそうだが、御城に登城する際には細々とした規則があり、鎗もその中に含まれていた。
例えば御城に登城する際、二本の鎗を立てられるのは3万石以上を領する大名か、10万石以上を領する大名の嫡子そして老中の嫡子に限られていた。
無論、原則があれば例外もあり、領する石高が3万石に満たない大名でも二本の鎗を立てることが、所謂、「二本道具」が許されている例もあればその逆に、領する石高が3万石を超える大名でも「一本道具」しか許されていない例もある。
ともあれ、その当時―、明和6(1769)年の8月に側用人であった意次は老中の格式を与えられると同時に、官位も従四位諸大夫、所謂「四品」から従四位下侍従へと昇叙を果たした。
厳密に言えば正式な老中ではないものの、それでも老中の格式を与えられたことに違いはなく、それを裏付ける様に、官位も老中のそれと同じ従四位下侍従が与えられたのであった。
そうであるならば、その意次の嫡子である意知に「二本道具」が許されるのも当然であり、そのことは忠可も頭では理解していた。
だが感情が|、それも負の感情が理性を覆った。つまりは意知に殺意を覚えたのであった。
忠可がここまで負の感情に囚われたのは外でもない、忠可は「一本道具」しか許されていないからだ。
忠可が当主を務める山崎藩本多家は所謂、
「古来御譜代の席…」
そう称される帝鑑間を殿中席としていた。殿中席とは将軍に拝謁するまでの間、待つ場所であり、要は待合所の様なものである。
ともあれ忠可は帝鑑間詰の大名としての自尊心があり、その自尊心が昂じて、
「二本道具、いや、それどころか三本道具さえも許されても良かろうに…」
不遜にもその様に思う節さえ窺われ、意次・意知父子が揃って「二本道具」が許される様になってからそれは酷くなった。
何にろ忠可は帝鑑間詰の大名ではあったが、領する石高は一万石と少禄、はっきり言ってしまえば大名の石高としては最低レベルであり、それ故、忠可には「一本道具」しか許されていなかったからだ。
にもかかわらず、
「盗賊めが…」
忠可がその様に悪罵、侮蔑を投付ける対象である意次とその嫡子の意知の二人に対して「二本道具」が許されたのだから、件の不遜なる思いが酷くなるのも当然と言えば当然ではあった。
尤も、忠可には「一本道具」の外にも、もう一つ、爪折立傘を立てることが許されていたので、忠可はそれで何とか、
「古来御譜代…」
己のその自尊心を保つことに努めた。いや、忠可とて馬鹿馬鹿しいとは分かっていたが、そう思わないことにはとても平静さを保てなかったからだ。
将軍家治への拝謁を済ませた忠可は下城すべく、大手御門外に出ると、供待が忠可の視界に飛込んできた。
旗本は元より、数多の大名は家門、所謂、親藩も含めて御城に登城する際、従者をここ大手御門外の下馬所にて待たせねばならず、彼等従者は青空の下にて主である大名の帰りを待たねばならなかった。
いや、今日の様な正しく晴天であればそれでも良いが、雨ともなると大変である。主君の駕籠が濡れぬよう、駕籠に大きな合羽を被せ、のみならず更にその上から従者が傘を差掛けねばならないからだ。
それ故、従者自身が傘を差すことなど許されず、ずぶ濡れで主の帰りを待たねばならなかった。無論、雨合羽を身につけることは許されているが、焼石に水に過ぎなかった。
だが親藩の中でも、「超・親藩」とも言うべき存在である御三家と、それに老中・若年寄の従者に限ってはこの供待なる長屋にて主君の帰りを待つことが許されていたのだ。
かつて西之丸の若年寄を務めていた本多忠央、忠可にとっては大事な叔父である忠由の養父に当たる忠央の従者もその供待にて主君・忠央の帰りを待受けていたわけだが、それが今は忠央に代わって、忠央を追落とした意次が老中として己の従者をこの供待にて待たせているのかと思うと、忠可は益益もって意次のことが憎く思えてならなかった。
さて、意次をはじめとする老中、及び若年寄の従者の中でも鎗持のみは供待の直ぐ外にて茣蓙を敷いて、その上に座りながら鎗を掲げていた。
鎗持も供待の中にて主君の帰りを待てば良さそうなものだが、しかしそうなると畢竟、鎗も供待の中で、それも寝かせてしまうことになると思われるであろう。だがそれは許されないことであった。何しろ鎗は武の象徴、所謂、シンボルマークであるからだ。
そこで従者の中でも鎗持だけは供待の中ではなく、その直ぐ外にて主君の帰りを待つ訳だ。
それなら老中らに仕える鎗持は外の数多の大名に仕える鎗持と同様、雨でも降ろうものなら、すぶ濡れになってしまうのではないかと思われるやも知れぬが、供待は長屋とは言え、その天井までの高さが一般の長屋のそれよりも高く、それも倍以上の高さを誇り、これは鎗の高さを考えて設定された高さであった。
即ち、外に向けては庇がついているので、老中らに仕える鎗持は外で鎗を掲げながら主君の帰りを待受けるとは言っても、庇の下にて待受けるので、雨に降られ様とも、ずぶ濡れになる心配はないと言う訳だ。
それなら供待の中でも鎗を立掛けられる訳で、鎗持も供待の中で主君の帰りを待たせても何ら差支えない様に思われるが、そうせぬのは鎗という武の象徴を、
「見せびらかしたい…」
その動機が多分に含まれていた。
ともあれその供待の直ぐ外の庇の下にては老中や若年寄に仕える鎗持が各々、鎗を掲げて主の帰りを待受けており、その中には意次に仕える二人の鎗持も勿論、含まれていた。
意次は相良藩3万7千石も領する大名であり、それ故、勿論、「二本道具」が許されていた。いや、これで仮令、領する石高が3万石に満たずとも、老中職にあれば当然、「二本道具」が許されていたに違いない。
その意次に許された「二本道具」だが、二本とも金物は赤銅造であり、太刀打は萌黄羅紗の装飾が施されており、意次の鎗持と思しき二人は正にその鎗を掲げていた。
忠可は思わず、彼等二人を凝視、いや、睨めつけたものである。
だがいつまでも睨めつける訳にもゆかず、己の帰りを待受ける従者の許へと戻るべく、視線を外すと、今度はやはり二本とも金物は赤銅造で、しかし太刀打は煤竹羅紗の鎗を掲げて主の帰りを待受ける二人の鎗持が忠可の視界に飛込んできたものだから、忠可は思わず舌打ちしたものである。それと言うのも、この二人の鎗持の主はと言うと、田沼意知その人だからだ。
今日、6月11日は平日であり、それ故、御城に登城が可能な大名と言えば、老中や若年寄、或いは奏者番やその筆頭である寺社奉行といった幕臣を除いては、幕府の政治顧問の格式を与えられている溜詰とそれに雁間詰や菊間詰の諸侯に限られており、忠可の様な帝鑑間詰の諸侯は元より、御三家さえも登城することは許されていなかったのだ。
ただ忠可の場合は参勤交代により参府したので、将軍家治にその挨拶をする必要から特に登城が許されたに過ぎない。
そして意知は大名の嫡子、所謂、「部屋住」の身に過ぎないものの、しかしここでもまた、老中の嫡子としての立場がものを言った。
即ち、老中とそれに京都所司代の嫡子に限り、雁間に詰めることが許されるのだ。
つまりは雁間を殿中席とし、平日登城が許されている雁間詰の大名諸侯に混じって雁間に詰められると言う訳だ。
それ故、意知もまた、父・意次と共に平日登城が許されている身である訳だが、これもまた、忠可を大いに苛立たせた、いや、意知への殺意を昂じさせたものである。
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