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柳澤吉保VS吉良義央 2

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「これはこれは、上野こうずけ殿ではござるまいか…」

 吉保よしやすも負けじとそう言い返し、義央よしなかのこめかみに青筋あおすじを浮き上がらせた。

 義央よしなかがこめかみに青筋あおすじを浮き上がらせた理由…、それは申すまでもなく、己より官位かんいの低い吉保よしやすから、

上野こうずけ

 呼ばわりされたからである。これが将軍・綱吉の御前ごぜんであるならばかまわない。いや、むしろそれが当然とさえ言えた。何しろ将軍の御前ごぜんにおいては御三家を除いては皆、呼び捨てが原則だからだ。

 例えば、若年寄わかどしよりでさえ、上役うわやくである老中を呼び捨てにしなければならないといった具合ぐあいにである。

 だが今は将軍・綱吉の御前ごぜんではない。そうであるならば、己よりも官位かんいの低い吉保よしやすはもっと己に対して敬意けいいをもって接するべしと、それが義央よしなかの意識であり、そのような義央よしなかにとっては、吉保よしやす

上野こうずけ

 などと己の官位かんいをそれも略称りゃくしょうで呼ぶなど言語道断ごんごどうだんというわけだ。

 上野介こうずけのすけ殿、あるいは吉良きら殿と呼ぶべきところだろうと、それこそが義央よしなかがこめかみに青筋あおすじを浮き上がらせた理由であった。

 もっとも、義央よしなかはそんな内心ないしんいきどおりを表に出すほどにはおろかではなかった。

 確かに義央よしなかはここ江戸城中においては吉保よしやすよりも…、さらに言うなら老中よりも格上かくうえであったが、しかし、同時に吉保よしやすは将軍・綱吉の寵愛ちょうあいを得ており、そのような吉保よしやすに対して正面しょうめんから衝突しょうとつしても決して得られるものは少ないであろう。

 いや、その将軍・綱吉の寵愛ちょうあいにしても、義央よしなかの見るところ、徐々じょじょにではあるが、しかし確実かくじつ吉保よしやすから己へと軸足じくあしが移りつつあるように感じられた。そしてそれは決して義央よしなか過信かしんではない。

 将軍・綱吉の生母せいぼ桂昌院けいしょういんのために…、桂昌院けいしょういん昇叙しょうじょ…、官位かんいの上昇のために京のみやこで実際に汗を流している義央よしなかを綱吉が頼みに思うのは至極しごく、当然の成り行きであろう。少なくともここ江戸城内にて綱吉におべんちゃらを口にする連中…、例えば、吉保よしやすよりも義央よしなかの方が頼り甲斐がいがあるというものである。

 そしてそんな義央よしなかでる気持ちが芽生めばえても不思議ではない、いや、それどころかやはりそれも当然の成り行きと言えよう。

 義央よしなかは将軍・綱吉とじかに接してそれがひしひしと感じられた。それゆえ、

吉保よしやすめの天下てんがもそう長くはあるまいて…」

 義央よしなかはそう思うことで己を納得させ、吉保よしやす無礼ぶれいを忘れることにした。

 一方、吉保よしやすはそんな義央よしなかの心の動きにまでは気付かずに、相変あいかわらず無礼ぶれいな態度で接した。そうしないことには気がおさまらないからだ。

上野こうずけ殿、たった今まで上様うえさまに何の用でござるかな?」

 吉保よしやす小馬鹿こばかにするような物言いでそうたずねた。

 するとその問いには輝貞てるさだが代わって答えた。

「さればおそれ多くも上様にあらせられましては、吉良きら殿にお礼をと…」

「お礼…」

 今度は吉保よしやすがこめかみに青筋あおすじを浮き上がらせる番であった。

 勿論もちろん吉保よしやすとて決してかんにぶい方ではない。いや、それどころか良い方であり、そうでなくば側用人そばようにんつとまるまい。

 そんな吉保よしやすであるので、己がつかえる将軍・綱吉が何ゆえに義央よしなかし出したのか…、それも御座之間ござのまではなく、御休息之間ごきゅうそくのまという容易よういには立ち入れぬ将軍のさしずめ、

「プライベートルーム」

 そこへわざわざ綱吉が義央よしなかまねいたことからも、綱吉が桂昌院けいしょういんのために何かと骨を折ってくれている義央よしなかに対して、

ねんごろな言葉をかけるためであろう…」

 そうと察していた吉保よしやすにしてみれば何ら驚く話ではないはずであったが、それでもいざ実際にこうして事実を前にすると、さしもの吉保よしやす冷静れいせいではいられなくなるというものであった。

「それは…、桂昌院けいしょういん様のことで?」

 吉保よしやすは確かめるようにたずねた。確かめずにはいられなかったからだ。

 するとまたしても輝貞てるさだから、しかし、意外な返答がかえってきた。

「それもあり申すが、身共みどものことで…」

右京大夫うきょうだゆうがことだと?」

左様さよう…、されば一週間前の御臨駕ごりんがのことで…」

 一週間前の御臨駕ごりんが…、それは今からちょうど一週間前の11月2日に将軍・綱吉が側用人そばようにんであるこの松平まつだいら右京大夫うきょうだゆう輝貞てるさだ屋敷やしき御臨駕ごりんが…、不意ふいに訪れたことを指していた。

「そのことと、上野こうずけ殿が如何いかにかかわっておると申すのだ?」

 吉保よしやすは首をかしげた。何ゆえそこで義央よしなかの名前が出て来るのか、それが吉保よしやすにはいまひとつ分からなかったからだ。

「されば上様うえさまのおむかえの次第しだいなどにつきまして、吉良きら様より色々とご助言じょげんたまわりまして…、いえ、上様うえさまはそれがしめの饗応きょうおうに大変お喜びあそばされ…」

 それは吉保よしやす承知しょうちしていた。綱吉は不意ふい輝貞てるさだ屋敷やしきを訪れたのだが、その時の饗応きょうおう…、接待せったいに大いに満足した様子で、綱吉は礼として輝貞てるさだ当人に対しては干鯛ひだい一箱を、さら妻女さいじょ市子いちこにまで檜重一組をそれぞれおくった。

 干鯛ひだいにしろ、檜重にしろ決して高価な品というわけではないものの、大事なのは将軍・綱吉からおくられた…、下賜かしされたという事実そのものにあり、しかも妻女さいじょにまで下賜かしがあったという事実であった。

 つまり綱吉はそれだけ輝貞てるさだでているという何よりの「アナウンス」であり、同じ側用人そばようにんである吉保よしやすとしてはいやでも焦燥しょうそうられるというものである。

 しかもその背後には義央よしなかがいたとは…。

「さればそなた…、上野こうずけ殿の指南しなんを受けたと申すか?」

 吉保よしやすは怒りをこらえながら…、はらわたえくりかえらせつつそうたずねた。

 それに対して輝貞てるさだはと言うと、吉保よしやすの怒りになど気付かぬ様子で、「左様さようでござる」と無邪気むじゃきに答えたものだから、いよいよ吉保よしやすはらわたえくりかえらせたものである。

 将軍の不意ふいの訪問…、臨駕りんがとは言え、実際には一週間ほど前には訪問先の当人とうにんに対して…、この場合は輝貞てるさだに対して内意ないいが伝えられるものである。何しろ将軍の外出ともなれば、それ相応そうおうの警備体制をかなければならないからだ。

 無論むろん、正式な御成おなり…、訪問ではないので、それほど厳重げんじゅうな警備体制をくわけではないが、それでも最低限の警備体制はかなければならず、それゆえ一週間前にはそのむね…、臨駕りんが内意ないいが伝えられるのであった。

 その折、輝貞てるさだはどうやら義央よしなか指南しなんを…、如何いかにして将軍・綱吉を「おもてなし」すべきか、その指南しなんを受けたということらしい。

 いや、これまでにも輝貞てるさだは何度も将軍・綱吉の訪問…、臨駕りんがは元より、御成おなりを含めて、綱吉の訪問を受けてきたはずであり、そうであれば今さら、義央よしなか指南しなんなぞわざわざ受けるまでもなかろう。

 それでもあえて輝貞てるさだ義央よしなか指南しなんを受けたのは他でもない、輝貞てるさだもまた義央よしなかが将軍・綱吉の寵愛ちょうあいを受け始めていることに敏感びんかん看取かんしゅし、そこで一計いっけいを案じたのであろう。

 すなわち、それこそが義央よしなかより指南しなんを受けることであり、綱吉にしても輝貞てるさだより、本日の饗応きょうおう義央よしなかより指南しなんを受けたものであると打ち明けたに相違そういなく、それに対して綱吉も本日の輝貞てるさだ饗応きょうおうが己の母・桂昌院けいしょういんのために何かと骨を折ってくれている義央よしなか指南しなん賜物たまものだと知るや、大いに感じ入ると同時に、義央よしなかに目をつけた輝貞てるさだのその慧眼けいがんぶりにも感じ入ったものと思われる。

 それこそが輝貞てるさだ妻女さいじょにまで下賜かしがあり、のみならず、今、こうして義央よしなか御休息之間ごきゅうそくのまへとまねいたことへとつながったのであろう。それも吉保よしやすを差し置いて…、である。

 吉保よしやすはそれを思うといよいよもって、こめかみに青筋あおすじを浮き上がらせた。もう血管が破裂はれつしそうであった。
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