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柳澤吉保VS吉良義央
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それから吉保は老中に見送られながら、御老中部屋をあとにした。己の提案…、
「播州赤穂藩主の浅野内匠頭長矩に勅使饗応役を命じては…」
その提案が老中に受け入れられたことを将軍・綱吉に報告するためである。上様もきっと己の提案を受け入れてくれるに違いないと、吉保にはその自信があり、意気揚々、御休息之間の御下段へと足を運ぼうとした。今時分、将軍・綱吉は御休息之間の御下段で政務を執っている筈であったからだ。
そして吉保が御休息之間に通ずる萩之御廊下に差しかかったところで御側衆の一人、嶋田丹波守利由と出くわした。
利由は萩之御廊下の前で控えており、それはさしずめ、「通せんぼ」であり、事実、そうであった。
「丹波…、そこで何をしている?」
そこを退け…、吉保は己の前に控える、いや、遮る利由を見下ろしながらそう示唆した。
それに対して利由もそうと気付きながらも、しかし、退くことはなかった。
「畏れながら…、上様にあらせられましては御人払御用の最中にて…」
利由は叩頭しながら…、と言うよりは吉保の顔は見ないよう、その足下を見ながらそう答えた。
それに対して吉保は「なにっ!?」と声を上げるや、
「御人払御用なれば御座之間であろうが」
そう疑問を呈した。吉保の疑問は尤もであった。
御人払御用とは将軍が政治上や職務上のことなどで、諸役人から意見を求めるべく、余人を交えずにサシで面談することであり、その場合、吉保が口にした通り、御座之間にて行われるのが慣例であった。
それが御座之間よりも更に奥…、より将軍の私的な空間と言える奥の御休息之間にて御人払御用が行われているとは、吉保には信じ難かった。
いや、吉保にとってそれ以上に信じ難かったのは、いや、信じたくなかったのは己までもが入室を拒まれたことである。
「されば上様にあらせられましては、誰も近づけてはならぬとの思し召しにて…」
利由は実に申し訳なさそうにそう言った。つまりは吉保も御休息之間に立ち入ってはならぬということだ。
「一体…、上様は誰と…」
会っているのかと、吉保は呻くように示唆した。
「されば高家肝煎の吉良上野介様にて…」
やはり申し訳なさそうにして利由が口にしたその名に吉保は敏感に反応した。頬がひきつったのだ。
「なに、吉良だと?」
「御意…、されば私めが吉良様を…」
「御休息之間に案内致したと申すか?」
「左様で…」
「そは…、右京大夫より命じられてかっ」
吉保はそう怒鳴った。右京大夫とはもう一人の側用人である松平右京大夫輝貞のことである。
それに対して利由は、「左様で…」とやはり申し訳なさそうにそう繰り返した。
将軍は御休息之間にて政務を執るわけだが、勿論一人で政務を執るわけではない。今のように側用人が存在する場合には側用人がその補佐を為す。
そして今は、柳澤吉保と松平輝貞という二人の側用人がおり、吉保が老中との閣議に及んでいる最中は当然、もう一人の側用人である松平輝貞が将軍である綱吉の政務の補佐を為す。
その輝貞より高家肝煎の吉良上野介義央を御休息之間に連れて来るようにと、そう利由が命じられたということは即ち、将軍・綱吉の意向に他ならない。
将軍・綱吉が吉良義央をここ御休息之間に連れて来いと、輝貞に命じたことから、輝貞も更に御側衆の一人であるこの嶋田利由に対して吉良義央を御休息之間に連れて来いと命じたというわけだ。
「右京大夫めは一体、何をしておったのだっ」
吉保は口惜し気にそう言った。将軍を諫めるのも側用人の仕事である。そしてこの場合…、吉良義央を御人払御用として、こともあろうに慣例を破って御休息之間へと召し出そうとは、正に諫めるべき場面であった。
にもかかわらず、綱吉に唯々諾々と従った輝貞に対して吉保は苦々しいものを感じた。いや、そんな生易しいものではなく、殺意さえも覚えた程であった。
すると間もなくして萩之御廊下の後方、御休息之間の廊下である入側の方面より談笑が聞こえた。どうやら義央が綱吉との面談を終えて、輝貞と共に出て来たようだ。
吉保が思った通り、輝貞と義央が仲良く談笑しつつ、吉保の元へと近付いて来た。
いや、輝貞と義央にしてみれば吉保の元へと近付くという意識はなかったであろう。それゆえ、輝貞と義央が吉保の姿に…、御休息之間へと通ずる萩之御廊下に足を踏み入れることを御側衆の一人である嶋田利由によって阻まれている格好の吉保の姿を認めるや、慌てた様子であった。
「これはこれは柳澤様…」
輝貞は急ぎ、義央から離れて吉保の元へと小走りで近付くと、まずは吉保を「通せんぼ」していた利由を、「もう良い」と退がらせた後、吉保と向かい合い、そして深々と頭を下げた。
吉保と輝貞は同じ側用人同士だが、吉保の方が先輩であり、また官位についても吉保の官位が、
「従四位下・左近衛権少将」
であるのに対して、輝貞のそれは、
「従四位下・諸大夫」
所謂、四品であり、吉保より二階級も下であった。それゆえ、将軍・綱吉の御前を除いては輝貞は吉保のことを、最高敬称である「様」を付けて呼んでいた。
一方、それとは対照的なのが吉良義央である。義央は輝貞とは対照的にゆっくりと吉保に近付いたかと思うと、それでも相変わらず腰を折ったままの輝貞を尻目に、
「おお、これはこれは柳澤殿ではござるまいか…」
そうのたもうたものである。
老中さえも恐れ憚る天下の側用人の柳澤吉保に対して、将軍・綱吉の御前でないにもかかわらず、「様」ではなく「殿」付けで呼ぶとは、それも対等な口を利くとは、江戸城広と言えども、この吉良義央をおいて外にはいないであろう。態度もぞんざいであり、まるで目下に対するかのようであった。
尤もそれも無理からぬことと言えよう。それと言うのも、吉良義央の官位は柳澤吉保のそれよりもワンランク上の、
「従四位上・左近衛権少将」
それであり、ゆえにその義央からすれば吉保など対等どころか目下のような感覚ですらあった。何しろこの江戸城における序列は官位で決まるからだ。石高ではない。
ゆえに江戸城においては知行4200石と大名ではない、旗本に過ぎない吉良義央は大名である柳澤吉保よりも格上なのである。
斯かる事情から義央が内心では吉保を目下のように看做すのも至極当然と言えた。何しろ義央は、
「官位こそが命…」
そのような男だからだ。一方、吉保にしても義央のそのような胸のうち…、己を目下と見くびる義央のその胸のうちをひしひしと感じ、それまで輝貞に向けていた殺意を義央へと方向転換した。
「播州赤穂藩主の浅野内匠頭長矩に勅使饗応役を命じては…」
その提案が老中に受け入れられたことを将軍・綱吉に報告するためである。上様もきっと己の提案を受け入れてくれるに違いないと、吉保にはその自信があり、意気揚々、御休息之間の御下段へと足を運ぼうとした。今時分、将軍・綱吉は御休息之間の御下段で政務を執っている筈であったからだ。
そして吉保が御休息之間に通ずる萩之御廊下に差しかかったところで御側衆の一人、嶋田丹波守利由と出くわした。
利由は萩之御廊下の前で控えており、それはさしずめ、「通せんぼ」であり、事実、そうであった。
「丹波…、そこで何をしている?」
そこを退け…、吉保は己の前に控える、いや、遮る利由を見下ろしながらそう示唆した。
それに対して利由もそうと気付きながらも、しかし、退くことはなかった。
「畏れながら…、上様にあらせられましては御人払御用の最中にて…」
利由は叩頭しながら…、と言うよりは吉保の顔は見ないよう、その足下を見ながらそう答えた。
それに対して吉保は「なにっ!?」と声を上げるや、
「御人払御用なれば御座之間であろうが」
そう疑問を呈した。吉保の疑問は尤もであった。
御人払御用とは将軍が政治上や職務上のことなどで、諸役人から意見を求めるべく、余人を交えずにサシで面談することであり、その場合、吉保が口にした通り、御座之間にて行われるのが慣例であった。
それが御座之間よりも更に奥…、より将軍の私的な空間と言える奥の御休息之間にて御人払御用が行われているとは、吉保には信じ難かった。
いや、吉保にとってそれ以上に信じ難かったのは、いや、信じたくなかったのは己までもが入室を拒まれたことである。
「されば上様にあらせられましては、誰も近づけてはならぬとの思し召しにて…」
利由は実に申し訳なさそうにそう言った。つまりは吉保も御休息之間に立ち入ってはならぬということだ。
「一体…、上様は誰と…」
会っているのかと、吉保は呻くように示唆した。
「されば高家肝煎の吉良上野介様にて…」
やはり申し訳なさそうにして利由が口にしたその名に吉保は敏感に反応した。頬がひきつったのだ。
「なに、吉良だと?」
「御意…、されば私めが吉良様を…」
「御休息之間に案内致したと申すか?」
「左様で…」
「そは…、右京大夫より命じられてかっ」
吉保はそう怒鳴った。右京大夫とはもう一人の側用人である松平右京大夫輝貞のことである。
それに対して利由は、「左様で…」とやはり申し訳なさそうにそう繰り返した。
将軍は御休息之間にて政務を執るわけだが、勿論一人で政務を執るわけではない。今のように側用人が存在する場合には側用人がその補佐を為す。
そして今は、柳澤吉保と松平輝貞という二人の側用人がおり、吉保が老中との閣議に及んでいる最中は当然、もう一人の側用人である松平輝貞が将軍である綱吉の政務の補佐を為す。
その輝貞より高家肝煎の吉良上野介義央を御休息之間に連れて来るようにと、そう利由が命じられたということは即ち、将軍・綱吉の意向に他ならない。
将軍・綱吉が吉良義央をここ御休息之間に連れて来いと、輝貞に命じたことから、輝貞も更に御側衆の一人であるこの嶋田利由に対して吉良義央を御休息之間に連れて来いと命じたというわけだ。
「右京大夫めは一体、何をしておったのだっ」
吉保は口惜し気にそう言った。将軍を諫めるのも側用人の仕事である。そしてこの場合…、吉良義央を御人払御用として、こともあろうに慣例を破って御休息之間へと召し出そうとは、正に諫めるべき場面であった。
にもかかわらず、綱吉に唯々諾々と従った輝貞に対して吉保は苦々しいものを感じた。いや、そんな生易しいものではなく、殺意さえも覚えた程であった。
すると間もなくして萩之御廊下の後方、御休息之間の廊下である入側の方面より談笑が聞こえた。どうやら義央が綱吉との面談を終えて、輝貞と共に出て来たようだ。
吉保が思った通り、輝貞と義央が仲良く談笑しつつ、吉保の元へと近付いて来た。
いや、輝貞と義央にしてみれば吉保の元へと近付くという意識はなかったであろう。それゆえ、輝貞と義央が吉保の姿に…、御休息之間へと通ずる萩之御廊下に足を踏み入れることを御側衆の一人である嶋田利由によって阻まれている格好の吉保の姿を認めるや、慌てた様子であった。
「これはこれは柳澤様…」
輝貞は急ぎ、義央から離れて吉保の元へと小走りで近付くと、まずは吉保を「通せんぼ」していた利由を、「もう良い」と退がらせた後、吉保と向かい合い、そして深々と頭を下げた。
吉保と輝貞は同じ側用人同士だが、吉保の方が先輩であり、また官位についても吉保の官位が、
「従四位下・左近衛権少将」
であるのに対して、輝貞のそれは、
「従四位下・諸大夫」
所謂、四品であり、吉保より二階級も下であった。それゆえ、将軍・綱吉の御前を除いては輝貞は吉保のことを、最高敬称である「様」を付けて呼んでいた。
一方、それとは対照的なのが吉良義央である。義央は輝貞とは対照的にゆっくりと吉保に近付いたかと思うと、それでも相変わらず腰を折ったままの輝貞を尻目に、
「おお、これはこれは柳澤殿ではござるまいか…」
そうのたもうたものである。
老中さえも恐れ憚る天下の側用人の柳澤吉保に対して、将軍・綱吉の御前でないにもかかわらず、「様」ではなく「殿」付けで呼ぶとは、それも対等な口を利くとは、江戸城広と言えども、この吉良義央をおいて外にはいないであろう。態度もぞんざいであり、まるで目下に対するかのようであった。
尤もそれも無理からぬことと言えよう。それと言うのも、吉良義央の官位は柳澤吉保のそれよりもワンランク上の、
「従四位上・左近衛権少将」
それであり、ゆえにその義央からすれば吉保など対等どころか目下のような感覚ですらあった。何しろこの江戸城における序列は官位で決まるからだ。石高ではない。
ゆえに江戸城においては知行4200石と大名ではない、旗本に過ぎない吉良義央は大名である柳澤吉保よりも格上なのである。
斯かる事情から義央が内心では吉保を目下のように看做すのも至極当然と言えた。何しろ義央は、
「官位こそが命…」
そのような男だからだ。一方、吉保にしても義央のそのような胸のうち…、己を目下と見くびる義央のその胸のうちをひしひしと感じ、それまで輝貞に向けていた殺意を義央へと方向転換した。
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