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家康はまだ利用価値があるみつおが死なないことを祈りつつ、倅(せがれ)の信康のことを思い出す。

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 みつおが「副指揮官」の長安(ちょうあん)共々(ともども)、諸大名を率(ひき)いて大坂(おおざか)へと出向いて間もなく、一週間が経とうとする7月7日の七夕(たなばた)、家康は溜息(ためいき)がつくことが多くなった。

「何を悩まれております?」

 たまたま傍(そば)でそれを耳にした正信(まさのぶ)が尋ねた。

「いや…、みつおには死んでもらいたくないと思うてな…」

 家康にしては珍しく…、本当に珍しくセンチメンタルなことを口にしたので、正信(まさのぶ)は心底から驚いた。

「これはこれは…、驚きましたな…」

 正信(まさのぶ)は驚きのあまり、思わず本音を口にした。

「みつおめに情でも移りましたかな?」

 正信(まさのぶ)は挑発気味に尋ねた。だが、それに乗せられる家康でもなく、微苦笑を浮かべつつ、

「そうやも知れぬな…」

 そう返してみせ、正信(まさのぶ)をして答えに窮(きゅう)させた。

「いや、冗談だ…、いや、冗談でもないが…、少しくはそれもあるだろうが…、それ以上に利用価値があるでな…」

「利用価値…、ああ、確かに…、みつおめは十万石程度の捨扶持(すてぶち)で満足するとの話でござりましたゆえ、されば他の諸大名についても…、秀頼(ひでより)が十万石程度の捨扶持(すてぶち)で満足、あるいは我慢しているのだから、お前たちはもっと所領を減らされても文句は言えまいと…、その利用価値でござりましたな?」

 正信(まさのぶ)は思い出したように尋ねた。

「それもあるが…、それ以上にあの進物(しんもつ)の山よ…」

 それはみつおが己の手元に、諸大名より届けられた進物(しんもつ)の山を指していた。みつおはその進物(しんもつ)の山のほぼ半分を家康の手元に流していた。

「まさかに…、進物(しんもつ)に目が眩(くら)んだわけではござりますまいな?」

「まさか…、いや、それも多少はあるであろうが…、それ以上にみつおめのその殊勝(しゅしょう)なる心がけよ…」

 みつおはさらに誰それの諸大名より届けられた進物(しんもつ)の半分ですと、ご丁寧にもそう付け加えることをも忘れなかった。家康はそんなみつおの殊勝(しゅしょう)で律儀(りちぎ)な態度に内心、感心させられたものである。

「みつおはこのわしに尾を振っておる…、されば無理に傷付ける必要もあるまいと、まぁ、そう思うてな…」

「みつおめにはそのような気はさらさらないやも知れませぬぞ?」

 正信(まさのぶ)は疑わしげに言った。実際、正信(まさのぶ)の方が正しく、みつおとしては別段、家康に尾を振っているつもりはさらさらなかった。みつおはただ、あくまで徳川政権下において居心地(いごこち)の良いポストを手に入れたい動機から諸大名よりの進物(しんもつ)の山の半分を流しているに過ぎず、そのことは冗談めかしてではあるものの、家康と正信(まさのぶ)に告げていた。

「いや、それとて尾を振っていることに相違はあるまいて…」

 確かにそう言える。

「それに何より…、この際、動機はどうでも良いのだ。問題は行動ぞ…」

「行動、でござりまするか?」

「左様…、みつおは恭(うやうや)しくこのわしに進物(しんもつ)を届けに来た…、諸大名よりみつおの元へ…、秀頼(ひでより)の元へと届けられた進物(しんもつ)のうち、半分ではあるものの、それでも届けに参った…、そのことは他の諸大名にも知られておる…」

 みつおがご丁寧にも誰それの大名より届けられたものですと、拙(つたな)い字ではあるものの、金額、あるいは品目と名前がしたためられた一覧表が添(そ)えられており、家康はその一覧表を頭に叩き込むと、例えば、ある諸大名と…、みつおに進物(しんもつ)を届けた諸大名とすれ違った際に、

「秀頼(ひでより)へとそなたが贈りし進物(しんもつ)のうち半分がわしのもとへと、秀頼(ひでより)が届けに参ったぞ…、いや、中々に結構なる品よのう…」

 そう告げてやるだけで、諸大名は目を丸くした。と同時に、秀頼(ひでより)はそこまで家康のことを恐れているのかと、そう思わせる効果も十二分にあり、いよいよもって徳川の威信(いしん)を高める効果まで見込めた。

 家康がそのことを正信(まさのぶ)に告げると、正信(まさのぶ)も合点(がてん)がいったらしく、「成程(なるほど)」と応じた。

「わしは利用価値がある者は殺さぬ主義でな…」

 裏を返せば利用価値がなくなれば殺すと言っているに等しかった。正信(まさのぶ)もそうと察して思わず、

「いかさま…、信康(のぶやす)様も…」

 思わずそう口走ってしまい、慌てて口を噤(つぐ)んだ。すると家康は、「良い」と答えた。

「わしも信康(のぶやす)がことを思い出していたのだ…、倅(せがれ)もわしに逆らわずば、命を落とすこともなかったに…」

 信康(のぶやす)は表向き、織田信長の命により家康が泣く泣く腹を切らせた…、というのが通説であるが、それは家康が世間に流布(るふ)させたものであり、事実は違う。信康(のぶやす)はあの時、父・家康に取って代わろうとしていた。もっと言えばクーデターを起こそうとしていた。家康にとって信康(のぶやす)は大事な倅(せがれ)であったが、しかし、己の足下(あしもと)を脅(おびや)かそうとしているとあらば話は別である。家康は容赦(ようしゃ)なく信康(のぶやす)を切り捨てることとし、そこで家康は信康(のぶやす)を殺すこととし、尚(なお)その際、信長に泥をかぶってもらうこととしたのであった。

 即(すなわ)ち、それこそが徳姫の父・信長へと送った12ヶ条の弾劾(だんがい)文である。徳姫とは信長を父に持つ信康(のぶやす)の嫁であり、家康は舅(しゅうと)に当たる。だが信康(のぶやす)と徳姫は仲が悪く、さらに姑、即(すなわ)ち、家康の正室の築山(つきやま)殿との仲も悪く、そしてそのことは家康も勿論、把握(はあく)しており、そこに目をつけた家康は徳姫に対して父・信長へ信康(のぶやす)に対する弾劾(だんがい)文を書くようすすめたのであった。いや、実際には強要したのであった。徳姫は最初こそ戸惑ったものの、しかし、姑の築山(つきやま)殿、さらに夫・信康(のぶやす)とも仲が悪い徳姫にとって家康は唯一の味方であり、その家康の頼みを無下(むげ)にすることはできず、やむなく弾劾(だんがい)文をしたためたのであった。

 だが、それでも信長はその弾劾(だんがい)文を受け取っても、信康(のぶやす)の切腹までは要求しなかった。いや、それ以前に首をかしげたものである。信長は婿(むこ)・信康の人間性は良く知っているつもりである。その信康(のぶやす)が母・築山(つきやま)殿と共に武田に内通しているなどと俄(にわ)かには信じ難(がた)かった。第一、仮にそれが事実だとしてもわざわざ己に処断を求めずとも徳川家で内々に処分すれば済む話である。実際、信長はその旨、家康に伝えたのであった。

 すると家康はこれ幸いとばかり信康(のぶやす)に腹を切らせたものだから、その上、築山(つきやま)殿まで殺したものだからびっくり仰天した。繰り返すが信長はそこまで要求していない。それどころか、

「処分については御随意(ごずいい)に…」

 そうとしか返書しなかった。ところが家康は信長よりの返書を受け取るなり信康と、さらに築山(つきやま)殿まで殺したのだから信長がびっくり仰天するのも無理はない。いや、その上、

「信長に強要されてやむなく、信康(のぶやす)と築山(つきやま)殿を殺した…」

 話がそうすり替えられて世間に流布(るふ)され始めたのだから信長は二度びっくり…、いや、びっくりどころか堪(たま)ったものではなかった。これを機に信長が家康を警戒したことは言うまでもない。尚(なお)、築山(つきやま)殿まで始末したのは築山(つきやま)殿もクーデター計画に一枚かんでいた節(ふし)がうかがえたからだ。それからもう一つ、関ヶ原で秀忠が遅参(ちさん)した折、信康(のぶやす)を思い出すような発言をしてみせたが、それも勿論、家康なりの一流のパフォーマンスに過ぎなかった。即(すなわ)ち、関ヶ原で秀忠を遅参させたのは家康がそう謀(はか)ったからでり、信康(のぶやす)とは違い、何事にも父・家康の言いつけを良く守る秀忠はこの時、大事な跡取り息子であり、その大事な跡取り息子を戦場で死なせるわけにはゆかないと、故意に信州上田に足止めさせておいたのだ。そしてそのことを悟(さと)られまいと、さらに信康(のぶやす)を殺したのは信長であると改めて側近に印象付けるべく、あえて信康(のぶやす)がいればと、思い出すような発言をしたまでであった。

 ともあれ、みつおは信康(のぶやす)とは違い、利用価値がある。そこで家康はみつを殺すのは勿論、傷付けることすら躊躇(ためら)われたのであった。

「天の川に願いを捧(ささ)げたいものよ…」

 家康はそう呟(つぶや)き、そこまでみつおのことを買っているのかと、正信(まさのぶ)をして改めて驚かせたものである。
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