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重村の暴走 ~ライバル・島津重豪より先んじて家格の上昇を狙う伊達重村は意知に味方する~ 大奥の事情 4

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 かくして座敷ざしきろうへとぶちまれた兵部ひょうぶはそこでなかば、いや完全かんぜん強制的きょうせいてき離縁状さりじょうかされ、玉澤たまさわようやくに兵部ひょうぶわかれられたのであった。このかん二月ふたつき以上いじょうかかり、としは明和2(1765)年にあらたまっていた。

 そして明和2(1765)年の正月しょうがつ玉澤たまさわ駒井こまいいえた。愛息あいそく愚父ぐふ兵部ひょうぶとは正反対せいはんたい明朗めいろう快活かいかつ、そのうえはは玉澤たまさわに対してはじつ孝養こうようくすタイプであり、玉澤たまさわあんじて、これからも駒井こまいいえらすようにすすめたそうな。

 だが玉澤たまさわ愛息あいそく半蔵はんぞう心遣こころづかいには感謝かんしゃしつつも、しかしそれを謝絶しゃぜつした。

 玉澤たまさわ半蔵はんぞうのことはそれこそ、

れてもいたくない…」

 それほどいとおしかったが、しかしその反面はんめん駒井こまいいえ玉澤たまさわにとってはおぞましい存在そんざいほかならず、まるで悪魔あくまやかたのようであり、これ以上いじょう駒井こまいいえ空気くうきいたくなかったのだ。

 そこで玉澤たまさわ半蔵はんぞうあんじられつつ駒井こまいいえると、大奥おおおく採用さいようされるまでのあいだいもうとたよった。

 いや、本来ほんらいなれば実家じっかである本田ほんだ家にせるべきところであろう。

 だがこのとき…、明和2(1765)年の正月しょうがつには本田ほんだ家は玉澤たまさわ従弟いとこ頼母たのも正堯まさたかがその家督かとくいでおり、のみならず、祝言しゅうげんげたばかりであった。

 本田ほんだ頼母たのもは明和元(1764)年のくれ医師いし千賀せんが道隆どうりゅう久頼ひさふゆ三女さんじょめとったばかりであった。

 千賀せんが道隆どうりゅう医師いしとは言え、それこそ将軍の御側おそばちかくにつかえるおく医師いしなどではなく、一介いっかい市井しせい、つまりはまち医者いしゃぎなかった。

 いや、ただまち医者いしゃではなく、囚獄しゅうごくねていた。

 囚獄しゅうごくとは小傳馬町こでんまちょう牢屋敷ろうやしきにて収容しゅうようされている囚人しゅうじん診察しんさつする医師いしのことであり、所謂いわゆる

「ムショ

 というやつであった。

 その囚獄しゅうごく一応いちおう、その牢屋敷ろうやしき支配しはいする囚獄しゅうごく所謂いわゆる牢屋ろうや奉行ぶぎょう石出いしで帯刀たてわき支配下しはいかにあるものの、しかし囚獄しゅうごく微禄びろくであり、それだけではべてはゆけず、それゆえまち医者いしゃをもねているのが普通ふつうであり、千賀せんが道隆どうりゅうもその例外れいがいではなかった。

 ただまち医者いしゃならかく囚獄しゅうごくねているようなものむすめめとるなど、すくなくとも旗本はたもとにおいてはありないと断言だんげん出来できた。なにしろ囚獄しゅうごくには、

けがれ…」

 その要素ようそまとうからであり、それがあかし囚獄しゅうごく支配しはいする石出いしで帯刀たてわきれきとした幕臣ばくしんでありながら、囚獄しゅうごくというもっとけがれのある場所ばしょ支配しはいしているということもあり、おな幕臣ばくしんからは、

不浄ふじょう役人やくにん…」

 としてきらわれ、石出いしで帯刀たてわき当人とうにんもそのことをだれよりも自覚じかくしていたので、それゆえ御城えどじょうへの登城とじょう自主的じしゅてきひかえていた。

 無論むろん石出いしで家にむすめとつがせようとする旗本はたもと御家人ごけにんもおらず、それゆえ石出いしで家では代々だいだい養子ようしむかえてその命脈めいみゃくたもってきたのだ。

 にもかかわらず、その旗本はたもとである本田ほんだ頼母たのもはそのような石出いしで帯刀たてわき支配下しはいかにある囚獄しゅうごく千賀せんが道隆どうりゅう三女さんじょめとったのである。本来ほんらいならば正気しょうき沙汰さたとはおもわれない本田ほんだ頼母たのものその決断けつだんにも、しかしそれなりの理由わけがあったのだ。

 千賀せんが道隆みちたかじつは、

いまをときめく…」

 田沼たぬま意次おきつぐしたしく交際こうさいもしていたのだ。

 その当時とうじ…、明和めいわさらにそのまえ宝暦ほうれき時分じぶんには意次おきつぐは将軍・家治いえはるつかえる御側御用取次おそばごようとりつぎとして幕府ばくふ実力者じつりょくしゃとしてられていた。

 そのような意次おきつぐ囚獄しゅうごくである千賀せんが道隆どうりゅうしたしく交際こうさいしていることもまた、

正気しょうき沙汰さたとはおもわれない…」

 というものであろう。それも本田ほんだ頼母たのも千賀せんが道隆どうりゅうむすめめと以上いじょうであろう。

 にもかかわらず意次おきつぐ千賀せんが道隆どうりゅうしたしく交際こうさいしていたのはひとえに、道隆どうりゅう意次おきつぐおい田沼たぬま能登守のとのかみ意致おきむね麻疹はしか治癒ちゆしたことによる。
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