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家基を殺した黒幕が一橋治済であると家治より聞かされた竹本九八郎はその点、治済に糺すも、治済は清水重好黒幕説を吹き込み切り抜ける。

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 翌日、治済はるさだ朝一番あさいちばん登城とじょうした。と言っても江戸城の諸門しょもんひらく、明六つ(午前6時頃)ではなく、それよりときった朝の五つ半(午前9時頃)であった。

 治済はるさだがこの時間帯じかんたいえらんだのはほかでもない、将軍は朝の五つ半(午前9時頃)になると大奥おおおく御仏間おぶつま安置あんちされている歴代れきだい将軍の位牌いはいおがむべく、かみしも二本差にほんざしという正装せいそうにて大奥おおおくへとわたる。それは今日のような月次つきなみ御礼おんれいといった式日しきじつにおいてもわるところがない。

 そうであるのでそのかんは将軍は中奥なかおくにはいないわけで、それゆえ将軍に近侍きんじする小姓こしょう小納戸こなんど自由じゆう時間じかん出来できるというわけだ。

 小姓こしょう竹本たけもと九八郎くはちろうに「弁明べんめい」するつもりの治済はるさだとしてはそれゆえにこの時間帯じかんたいえらんで登城とじょうしたのであった。

 たして竹本たけもと九八郎くはちろうすでに家治の真意しんいを…、昨晩さくばん、家治が大奥おおおくにてかたった、意知おきとも若年寄わかどしよりへとすすませるその真意しんいを、

把握はあくしているであろうか…」

 治済はるさだ不安ふあん焦燥しょうそうられながら中奥なかおくへとすすんだ。

 するとそんな治済はるさだ昨晩さくばんより宿直とのいつとめていた小姓こしょう小納戸こなんど好奇こうき視線しせん出迎でむかえたものだった。

 小姓こしょう小納戸こなんどらの好奇こうき視線しせん出迎でむかえられた治済はるさだはそれだけで、もう家治の真意しんい小姓こしょう小納戸こなんどらにもつたわったことをさとったものである。

 治済はるさだのそのインスピレイション裏付うらづけるかのように、竹本たけもと九八郎くはちろうほか小姓こしょう小納戸こなんどらとはちがって、まさに、

血相けっそうえて…」

 治済はるさだ近付ちかづいて来たものだから、治済はるさだ確信かくしんへとわった。

 一方いっぽう竹本たけもと九八郎くはちろうはそんな治済はるさだ心中しんちゅうなどよしもなく、治済はるさだまえまるなり、一応いちおう治済はるさだに対して叩頭こうとうしたうえで、

民部みんぶきょうさま、おはなしが…」

 九八郎くはちろうこえころして治済はるさだにそうげた。

 それに対して治済はるさだはと言うと、九八郎くはちろう態度たいどから最早もはや、家治の真意しんい把握はあくしているのは間違まちがいないなかろうと、そうとさっすると、みずからが先回さきまわりする格好かっこう九八郎くはちろう弁明べんめいしては、

「とんだ藪蛇やぶへび…」

 というもので、得策とくさくではなく、そこで治済はるさだはここはあえて素知そしらぬふうよそおい、

「何であろうか…、まぁ、ともかく控所ひかえじょにてこうぞ…」

 九八郎くはちろう御三卿ごさんきょう詰所つめしょである控所ひかえじょへと案内あんないした。

 控所ひかえじょにはさいわい、まだ重好しげよし姿すがたはなかった。いや、治済はるさだとしては重好しげよしがいても一向いっこうかまわなかった。それと言うのもこれから九八郎くはちろうにする弁明べんめい重好しげよしにもかせてやりたいものであったからだ。

 さて、控所ひかえじょにて治済はるさだかいった九八郎くはちろう早速さっそく、それも単刀直入たんとうちょくにゅうした。

「されば民部みんぶきょうさままことおそおおくも大納言だいなごん様をがいたてまつりましたので?」

 九八郎くはちろうからズバリそうわれた治済はるさだは、昨晩さくばん、家治が夜の総触そうぶれのおり大奥おおおくにて奥女中おくじょちゅうまえにしてかたったことが九八郎くはちろうみみにまでもうとどいたのかと、そうたずねたいのをグッとこらえつつ、大袈裟おおげさいてみせ、その上で、

「何ゆえに然様さようなことをもうすのだ…」

 治済はるさだ如何いかにも心外しんがいといった面持おももちでそうたずねてみせた。中々なかなか名演技めいえんぎと言えよう。

 するとそれに対して九八郎くはちろうは、

「さればおそおおくも上様うえさまが…、夜…、昨晩さくばんの夜の総触そうぶれをえられし上様うえさまじかに…、上様うえさまにおかせられましては、夜の総触そうぶれをえられここ中奥なかおくへとおもどりあそばされまするや、それがしら宿直とのい小姓こしょう小納戸こなんどらをまえにしてそのむね…、ぐる年にご薨去こうきょあそばされましたる大納言だいなごん様がじつたんなるご病死びょうしではのうて、だれぞのにかかったのではないかと、それも大納言だいなごん様にわりて次期じき将軍をねらいし御三卿ごさんきょう仕業しわざではないかと…、その上で、民部みんぶきょうさま仕業しわざではあるまいか、とも…」

 治済はるさだにそうけたものだから、治済はるさだ今度こんどこそ本当ほんとうおどろき、

上様うえさまよりじかに、とな?」

 治済はるさだおもわずそうかえしたほどであった。

御意ぎょい…、されば当主とうしゅがご不在ふざい明屋形あけやかたであらせられます田安たやすきょうさま…、ともうしますよりは田安たやす家は除外じょがいし、清水しみずきょう様か、あるいは一橋ひとつばしきょうさまがその下手人げしゅにん…、おそおおくも大納言だいなごん様をがいたてまつりし黒幕くろまくではないかと…」

次期じき将軍位をねろうて、か?」

御意ぎょい…、上様うえさま個人的こじんてきには民部みんぶきょうさま黒幕くろまくではないかとも、おぼしのご様子ようすにて…」

清水しみず宮内くないきょうではのうて、か?」

御意ぎょい…」

たしかに結果けっかかられば豊千代とよちよが、いや、家斉いえなり大納言だいなごん様にわって次期じき将軍位にきしものの、なれどそはあくまで結果けっかからの類推るいすいもうすものにて…」

 治済はるさだおこるではなしに、さとすようにそう言うと、九八郎くはちろう徐々じょじょきをもどしたらしく、

「されば民部みんぶきょうさま大納言だいなごん様をがいたてまつりし下手人げしゅにんなどではない、と?」

 治済はるさだにそうたしかめるようにたずねた。

 それに対して治済はるさだは、「無論むろんのこと…」とみずからは潔白けっぱくであることを「アピール」した上で、

「さればおそおおくも大納言だいなごん様がまこと上様うえさまがお見立みたどおり、たんなる病死びょうしなどではのうて、だれぞの手にかかりしものだとして、それも次期じき将軍位が動機どうきだとして、その場合ばあいには身共みどもよりも清水しみず宮内くないきょうの方がはるかに黒幕くろまく相応ふさわしいともうすものにて…、何しろ宮内くないきょうおそおおくも上様うえさまがご舎弟しゃてい殿どのにて、つまりは大納言だいなごん様が叔父おじにて…」

 家基いえもとごろしの動機どうき次期じき将軍位だとして、その場合には清水しみず宮内くないきょうこと重好しげよしの方がはるかにその黒幕くろまくである可能性かのうせいたかいと、治済はるさだ重好しげよしに「つみ」をせるような、いや、なすけるような発言はつげんをしてみせた。

 一方いっぽう九八郎くはちろう治済はるさだのその主張しゅちょうみみかたむけるうちに、

たしかにそうやもれぬ…」

 そうおもはじめ、段々だんだん治済はるさだ主張しゅちょうただしいようにおぼはじめたものである。

 たしかに治済はるさだ主張しゅちょうするとおり、将軍・家治とのつながりというてんでは、腹違はらちがいとは言え、異母いぼていたる重好しげよしの方が治済はるさだよりもはるかにちかく、その治済はるさださらである豊千代とよちよこと家斉いえなりよりも将軍・家治とのつながりがふかいのはもうすにおよばず、であった。

 そうであれば重好しげよしこそが家基いえもとわる次期じき将軍にえらばれていてもなん不思議ふしぎではない、どころかそれこそが血統けっとうなによりも重視じゅうしされるこの時代じだいにおける「すじ」というものであった。

「なれど実際じっさいには上様うえさまえらばれしは豊千代とよちよなるぞ…、いや、今は家斉いえなりこうか…」

 治済はるさだ次期じき将軍たる家斉いえなりげることで九八郎くはちろう平伏ひれふさせるや、

「さればそれこそが上様うえさまじつ大納言だいなごん様をがいたてまつりし黒幕くろまく清水しみず宮内くないきょうではないかと、おぼされしなによりのあかしではあるまいかの…、大納言だいなごんを…、にかけし清水しみず宮内くないきょう次期じき将軍位をわたしてなるものかと…」

 九八郎くはちろうさらに「清水しみず重好しげよし黒幕くろまく説」をんだ。

 だが九八郎くはちろう流石さすが疑問ぎもんに思うところがあった。

「さればおそおおくも上様うえさまにおかせられましては、何ゆえにそれがしら宿直とのい小姓こしょう小納戸こなんどらをまえにして、一橋ひとつばし民部みんぶきょうさまこそが黒幕くろまくと…、大納言だいなごん様をがいたてまつりし黒幕くろまくと、民部みんぶきょうさまをお名指なざしあそばされましたのでござりましょうや…」

 そのてん九八郎くはちろうには疑問ぎもんであった。かり治済はるさだが言うとおり、家治が愛息あいそくであった家基いえもところした下手人げしゅにん清水しみず重好しげよしであろうと、そう思っていたからこそ、次期じき将軍位に重好しげよしではなく一橋ひとつばし治済はるさだ一子いっしである豊千代とよちよ指名しめいしたのだとしたら、家治が九八郎くはちろう宿直とのい小姓こしょう小納戸こなんどらをまえにして家基いえもとごろしの黒幕くろまくとして名指なざしすべきは治済はるさだではなく重好しげよしはずだからだ。

 九八郎くはちろうのその疑問ぎもんもっともであり、それに対して治済はるさだはと言うと、おのれ自身じしんあきれるほど弁明べんめい展開てんかいしてみせた。

「さればそはひとえ清水しみず宮内くないきょう油断ゆだんさせるためではあるまいかの…」

 治済はるさだはそうおもわせぶりにし、「油断ゆだん?」と九八郎くはちろうかえさせた。

然様さよう…、さればまこと上様うえさま大納言だいなごん様をがいたてまつりし下手人げしゅにんがこの一橋ひとつばし治済はるさだだとおぼされているとして…、それゆえに田沼たぬま山城やましろめを若年寄わかどしよりへとすすませて、山城やましろ身共みどもが…、この治済はるさだつみかしてくれようと、左様さようおぼされているのなら、そのような時にわざわざこの治済はるさだが名を…、治済はるさだこそが大納言だいなごん様をがいたてまつりし黒幕くろまく相違そういないなどと、この治済はるさだをそれもそなたら宿直とのい小姓こしょう小納戸こなんどらをまえにしてげるであろうか…、かりに、かりにだがまこと大納言だいなごんさまがいたてまつりし下手人げしゅにんがこの治済はるさだだとして、上様うえさまがそなたら宿直とのい小姓こしょう小納戸こなんどらをまえにして治済はるさだこそが大納言だいなごんさまがいたてまつりし黒幕くろまくなどと、わざわざお名指なざしあそばされれば、そのことがこの治済はるさだみみとどくは必定ひつじょう…、それも時間じかん問題もんだいもうすものにて…、実際じっさい、今、身共みどもはそなたよりそのことをかされたのだからの…、されば大納言だいなごんさまがいたてまつりし身共みどもがその、おのれつみあかし隠滅いんめつはしるもまた必定ひつじょうもうすものにて…」

 治済はるさだがそこまで弁明べんめいもとい、でまかせを開陳かいちんするや、しかし、九八郎くはちろうはそうとも気づかずに治済はるさだがその弁明べんめい、もとい、でまかせをしんじた様子ようすであった。

 九八郎くはちろうは、「成程なるほど」とひざったかとおもうと、

「さればおそおおくも上様うえさまにおかせられましては、まこと清水しみず宮内くないきょうさまこそが大納言だいなごんさまがいたてまつりし黒幕くろまくちがいないと、左様さようおぼされており、なれどそれをおおせあそばされましては、清水しみず宮内くないきょうさま罪証ざいしょう隠滅いんめつはしらせてしまうおそれがあり、そこで上様うえさまはあえてそれがしら小姓こしょう小納戸こなんどらをまえにして、そのご心中しんちゅうとは裏腹うらはらに、一橋ひとつばし民部みんぶきょうさま御名おなをおげになられましてのでござりまするな…、されば清水しみず宮内くないきょうさまをご油断ゆだんさせるためとはこのことでござりまするな?」

 治済はるさだにそうたしかめるようにたずねた。

 それは九八郎くはちろう治済はるさだの「弁明べんめい」を妄信もうしんしている何よりのあかしであり、これにはさしもの治済はるさだ罪悪感ざいあくかんとらわれたほどであったが、しかしそれもつかぎず、治済はるさだ満足気まんぞくげうなずいたものである。
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