119 / 162
意知、若年寄就任前夜 大奥篇4
しおりを挟む
高岳は果たして寶蓮院よりの書状を一読するなり、
「確かに面妖な…」
まずはそう感想を漏らした。
高岳はその上で、「なれど…」と続けた。
「何ゆえに畏れ多くも上様が山城殿を若年寄へと進ませるのか、その事情を知らぬ番頭や用人が寶蓮院様に仕えし廣敷用人を介しまして、寶蓮院様に上様の真意を…、山城殿を若年寄へと進ませられるは真、御三卿潰しの一環なのか、それを糺してくれますように、とでも突き上げられましたからではござりますまいか?」
確かに高岳の言う通り、その書状には田安家老の戸川逵和より齎された情報であるとして、意知の若年寄への内定の件が綴られており、
「これはもしや、折からの幕府の財政難を改善すべく、上様は御三卿の整理に乗り出されたのではあるまいか、それもまずは当主不在の明屋形である田安家に照準を合わされたのではあるまいか…」
そのようにも綴られており、
「果たして上様の真意は奈辺にあるのか、それを種姫より、或いは向坂より上様に糺して貰いたい…」
という内容の書状であった。
「さればここは上様に有りの儘を…、寶蓮院様が家中より突き上げを受けているらしいことを打ち明けられましては如何でござりましょうや」
高岳はそう提案した。確かにそれが先決であろう。
「さすれば上様もそれに対しまして何らかの打開策を思い付かれるやも知れませぬゆえ…」
上様なればきっと良い智慧が思い浮かばれる筈であろう…、高岳はそう示唆し、それに対して種姫も向坂もその通りだと頷いたものである。
「されば間もなく宵五つ(午後8時頃)なれば、夜の総触れにて…」
将軍は朝と夜の二回、大奥へと渡り、御台所を始め、奥女中の挨拶を受ける。
将軍たる家治には御台所はもう亡く、しかし、だからと言ってこの二回の「総触れ」を行わないわけにはゆかなかった。
そしてこの朝と夜の二回に亘る総触れだが、昼四つ(午前10時頃)に行われる朝の総触れの際には将軍は裃に二本差というスタイルにて、御小座敷にて御台所を始め、奥女中の挨拶を受ける。
一方、高岳が口にした、間もなく行われる夜の総触れの際には今度は将軍は一転、着流しにて、それも御座之間にてやはり御台所を始め、奥女中の挨拶を受ける。
「上様に今後の対応策でも相談申し上げましょうぞ…、総触れを終えた後にでも…」
高岳のその提案に向坂は頷いた。
果たして宵五つ(午後8時頃)、着流し姿の将軍・家治が御座之間のそれも上段に姿を見せるや、下段にて控える側室の千穂と養女の種姫を始め、奥女中が家治を出迎えた。
本来、家治の隣には御台所が坐すべきところ、しかし、家治は御台所であった倫子に先立たれてからというもの、御台所を迎えてはおらず、それゆえ家治の隣は空席であった。
それなら側妾の千穂が座っても良さそうなものであったが、しかし、家治がそれを許さなかった。
さて、家治が千穂と種姫より挨拶を受け、続いて千穂と種姫の真後ろに控える年寄筆頭の高岳よりも挨拶を受けたところで、
「畏れながら…」
そう声が上がった。声の主は千穂附の年寄の玉澤であった。
千穂と種姫の真後ろには年寄筆頭の高岳とそれに上臈年寄である花園と飛鳥井の3人が控えており、玉澤は更にその3人の真後ろに控えていた。
一方、声をかけられた家治はと言うと、声の主が玉澤であったので、その内容…、玉澤の言わんとするところに察しがついたものの、それでも知らぬ風を装い、玉澤を促した。
「されば上様、偶さかには奥泊を…」
千穂を抱いてやって欲しいと、玉澤は家治に願った。千穂に仕える年寄としては至極尤もな願いではあったが、しかし、当の家治は元来、淡白なる性質であり、その上、愛妻の倫子に先立たれたことも相俟って、千穂を抱く気にはなれなかった。それは倫子に対する義理立てでもあり、家治が倫子が座っていた場所に千穂が坐すことを許さなかったのもまた、その義理立てからであった。
ともあれ家治はその気がないにもかかわらず、その場をやり過ごすために、「考えておこう…」と実に玉虫色の返答をよこしたのであった。
すると今度は高岳がすかさず、「畏れながら…」と声を上げたので、家治は救われた思いで、「許す」と促した。高岳ならば玉澤とは違い、千穂を抱いてくれとの陳情でないことは明らかであったからだ。
「さればご政事向きのことで少々…」
女の分際で政事に口を挟むなど、本来なれば言語道断であったが、しかし、相手が年寄筆頭たる高岳ともなれば話は別である。
「然様か…、されば場所を移したが良かろう…」
高岳の口ぶりからそうと察した家治は高岳にそう提案し、それに対して高岳も正しく場を移すことを望んでいたので、「ははぁっ」と家治の配慮に感謝の意味も込めて平伏した。
それから家治は高岳と共に蔦之間へと足を運んだ。蔦之間は中奥と大奥とを結ぶ上御鈴廊下の直ぐ傍にあり、将軍が御台所のみならず、側室とも歓談する場であった。
いや、これで蔦之間が将軍が御台所とのみ歓談する場であったならば、家治はやはり御台所であった倫子への義理立てから、蔦之間にて高岳と話をするつもりはなかったであろうが、しかし、蔦之間は将軍が御台所とのみ歓談する場ではなく、側室とも歓談する場であったので、家治としても千穂に対しては義理立てするつもりはなかったので、それゆえ何の気兼ねもなく高岳を蔦之間へと迎えることができた。
こうして高岳は蔦之間にて家治と向かい合うなり、これまでの経緯を家治に語って聞かせた。その間、やはり立ち聞き防止の観点から、家治と高岳との案内役を勤めた表使筆頭にして御客応答格の菊野が蔦之間の東に位置する入側にて目を光らせていた。
さて、高岳は家治にこれまでの経緯を語り終えるや、
「されば如何、取計らいましょうや…」
寶蓮院に対してどのような返答をよこせば良いか、家治に尋ねた。
「田安家よりの遣…、栲子は今でも待っておるのだな?」
家治はまずは確かめるようにそう尋ね、それに対して高岳は「御意にござりまする…」と答えた上で、栲子が今でも宇治之間の御次にて待っていることを告げた。栲子はあくまで田安家に仕える身であり、そうであれば総触れに参加することは許されず、御次にで控えていたのだ。
「然様か…」
家治はそれから暫し、沈思黙考した後、高岳に対して再び、御座之間へ戻ることを告げた上で、総触れのメンバー、即ち、千穂と種姫を始め、年寄ら奥女中を御座之間へと集めるように命じた。
それに対して高岳は家治にその真意を糺すような真似はせず、菊野に家治よりの命をそのまま伝えて菊野に召集を命じるや、自らは家治を御座之間へと案内した。
こうして再び、家治が御座之間の上段に姿を見せると、菊野によって召集された、下段にて控える千穂や種姫らを前にして驚くべきことを打ち明けたのであった。
「されば突然だが、余は奏者番の…、と申すよりは意次が息と申したが通りが良いであろう…、意知を少老へと…、若年寄へと進ませようと思うておる…」
家治がそう告げると奥女中より驚きの声が上がった。何しろ意知はまだ部屋住の身、つまりは家督相続前にて、大名でさえないからだ。それが若年寄へと昇進させるとは、意知が如何に譜代大名にとっての出世の登竜門である奏者番を勤めていようとも、つまりは若年寄の有資格者とは言え、前代未聞の抜擢人事と言えた。
それと同時に、そのような人事情報を把握していた高岳に対して外の奥女中は嫉妬の視線を向けたものである。高岳は先程、「ご政事向きのことで少々…」と家治を誘ったのだ。そうであれば高岳は前もってその意知の若年寄への昇進人事を把握しており、そのことで家治と話し合うために家治を誘ったとしか考えられないからだ。
そんな中、家治は軽く咳払いして皆を鎮めさせ、視線を自らに集中させた。
「されば余が意知を若年寄へと進ませるは外でもない。家基が死の探索の指揮を執らせるためぞ…、余としては家基が命を奪いしは家基に代わって次期将軍位を狙う、それも三卿の何れかの仕業…、それも当主を抱えし一橋か、或いは清水の仕業と睨んでおるゆえに、意知にその探索の指揮を執らせるべく、意知を若年寄へと進ませるのだ」
家治は奥女中から意知の若年寄への昇進人事に異論を差し挟ませまいとして、一気にそう捲くし立てた。
一方、奥女中、それも事情を知らぬ奥女中は皆、驚愕したものである。いや、事情を知る高岳さえもまさか家治がそれを口にするとは完全に想定外であり、驚愕したものである。
「確かに面妖な…」
まずはそう感想を漏らした。
高岳はその上で、「なれど…」と続けた。
「何ゆえに畏れ多くも上様が山城殿を若年寄へと進ませるのか、その事情を知らぬ番頭や用人が寶蓮院様に仕えし廣敷用人を介しまして、寶蓮院様に上様の真意を…、山城殿を若年寄へと進ませられるは真、御三卿潰しの一環なのか、それを糺してくれますように、とでも突き上げられましたからではござりますまいか?」
確かに高岳の言う通り、その書状には田安家老の戸川逵和より齎された情報であるとして、意知の若年寄への内定の件が綴られており、
「これはもしや、折からの幕府の財政難を改善すべく、上様は御三卿の整理に乗り出されたのではあるまいか、それもまずは当主不在の明屋形である田安家に照準を合わされたのではあるまいか…」
そのようにも綴られており、
「果たして上様の真意は奈辺にあるのか、それを種姫より、或いは向坂より上様に糺して貰いたい…」
という内容の書状であった。
「さればここは上様に有りの儘を…、寶蓮院様が家中より突き上げを受けているらしいことを打ち明けられましては如何でござりましょうや」
高岳はそう提案した。確かにそれが先決であろう。
「さすれば上様もそれに対しまして何らかの打開策を思い付かれるやも知れませぬゆえ…」
上様なればきっと良い智慧が思い浮かばれる筈であろう…、高岳はそう示唆し、それに対して種姫も向坂もその通りだと頷いたものである。
「されば間もなく宵五つ(午後8時頃)なれば、夜の総触れにて…」
将軍は朝と夜の二回、大奥へと渡り、御台所を始め、奥女中の挨拶を受ける。
将軍たる家治には御台所はもう亡く、しかし、だからと言ってこの二回の「総触れ」を行わないわけにはゆかなかった。
そしてこの朝と夜の二回に亘る総触れだが、昼四つ(午前10時頃)に行われる朝の総触れの際には将軍は裃に二本差というスタイルにて、御小座敷にて御台所を始め、奥女中の挨拶を受ける。
一方、高岳が口にした、間もなく行われる夜の総触れの際には今度は将軍は一転、着流しにて、それも御座之間にてやはり御台所を始め、奥女中の挨拶を受ける。
「上様に今後の対応策でも相談申し上げましょうぞ…、総触れを終えた後にでも…」
高岳のその提案に向坂は頷いた。
果たして宵五つ(午後8時頃)、着流し姿の将軍・家治が御座之間のそれも上段に姿を見せるや、下段にて控える側室の千穂と養女の種姫を始め、奥女中が家治を出迎えた。
本来、家治の隣には御台所が坐すべきところ、しかし、家治は御台所であった倫子に先立たれてからというもの、御台所を迎えてはおらず、それゆえ家治の隣は空席であった。
それなら側妾の千穂が座っても良さそうなものであったが、しかし、家治がそれを許さなかった。
さて、家治が千穂と種姫より挨拶を受け、続いて千穂と種姫の真後ろに控える年寄筆頭の高岳よりも挨拶を受けたところで、
「畏れながら…」
そう声が上がった。声の主は千穂附の年寄の玉澤であった。
千穂と種姫の真後ろには年寄筆頭の高岳とそれに上臈年寄である花園と飛鳥井の3人が控えており、玉澤は更にその3人の真後ろに控えていた。
一方、声をかけられた家治はと言うと、声の主が玉澤であったので、その内容…、玉澤の言わんとするところに察しがついたものの、それでも知らぬ風を装い、玉澤を促した。
「されば上様、偶さかには奥泊を…」
千穂を抱いてやって欲しいと、玉澤は家治に願った。千穂に仕える年寄としては至極尤もな願いではあったが、しかし、当の家治は元来、淡白なる性質であり、その上、愛妻の倫子に先立たれたことも相俟って、千穂を抱く気にはなれなかった。それは倫子に対する義理立てでもあり、家治が倫子が座っていた場所に千穂が坐すことを許さなかったのもまた、その義理立てからであった。
ともあれ家治はその気がないにもかかわらず、その場をやり過ごすために、「考えておこう…」と実に玉虫色の返答をよこしたのであった。
すると今度は高岳がすかさず、「畏れながら…」と声を上げたので、家治は救われた思いで、「許す」と促した。高岳ならば玉澤とは違い、千穂を抱いてくれとの陳情でないことは明らかであったからだ。
「さればご政事向きのことで少々…」
女の分際で政事に口を挟むなど、本来なれば言語道断であったが、しかし、相手が年寄筆頭たる高岳ともなれば話は別である。
「然様か…、されば場所を移したが良かろう…」
高岳の口ぶりからそうと察した家治は高岳にそう提案し、それに対して高岳も正しく場を移すことを望んでいたので、「ははぁっ」と家治の配慮に感謝の意味も込めて平伏した。
それから家治は高岳と共に蔦之間へと足を運んだ。蔦之間は中奥と大奥とを結ぶ上御鈴廊下の直ぐ傍にあり、将軍が御台所のみならず、側室とも歓談する場であった。
いや、これで蔦之間が将軍が御台所とのみ歓談する場であったならば、家治はやはり御台所であった倫子への義理立てから、蔦之間にて高岳と話をするつもりはなかったであろうが、しかし、蔦之間は将軍が御台所とのみ歓談する場ではなく、側室とも歓談する場であったので、家治としても千穂に対しては義理立てするつもりはなかったので、それゆえ何の気兼ねもなく高岳を蔦之間へと迎えることができた。
こうして高岳は蔦之間にて家治と向かい合うなり、これまでの経緯を家治に語って聞かせた。その間、やはり立ち聞き防止の観点から、家治と高岳との案内役を勤めた表使筆頭にして御客応答格の菊野が蔦之間の東に位置する入側にて目を光らせていた。
さて、高岳は家治にこれまでの経緯を語り終えるや、
「されば如何、取計らいましょうや…」
寶蓮院に対してどのような返答をよこせば良いか、家治に尋ねた。
「田安家よりの遣…、栲子は今でも待っておるのだな?」
家治はまずは確かめるようにそう尋ね、それに対して高岳は「御意にござりまする…」と答えた上で、栲子が今でも宇治之間の御次にて待っていることを告げた。栲子はあくまで田安家に仕える身であり、そうであれば総触れに参加することは許されず、御次にで控えていたのだ。
「然様か…」
家治はそれから暫し、沈思黙考した後、高岳に対して再び、御座之間へ戻ることを告げた上で、総触れのメンバー、即ち、千穂と種姫を始め、年寄ら奥女中を御座之間へと集めるように命じた。
それに対して高岳は家治にその真意を糺すような真似はせず、菊野に家治よりの命をそのまま伝えて菊野に召集を命じるや、自らは家治を御座之間へと案内した。
こうして再び、家治が御座之間の上段に姿を見せると、菊野によって召集された、下段にて控える千穂や種姫らを前にして驚くべきことを打ち明けたのであった。
「されば突然だが、余は奏者番の…、と申すよりは意次が息と申したが通りが良いであろう…、意知を少老へと…、若年寄へと進ませようと思うておる…」
家治がそう告げると奥女中より驚きの声が上がった。何しろ意知はまだ部屋住の身、つまりは家督相続前にて、大名でさえないからだ。それが若年寄へと昇進させるとは、意知が如何に譜代大名にとっての出世の登竜門である奏者番を勤めていようとも、つまりは若年寄の有資格者とは言え、前代未聞の抜擢人事と言えた。
それと同時に、そのような人事情報を把握していた高岳に対して外の奥女中は嫉妬の視線を向けたものである。高岳は先程、「ご政事向きのことで少々…」と家治を誘ったのだ。そうであれば高岳は前もってその意知の若年寄への昇進人事を把握しており、そのことで家治と話し合うために家治を誘ったとしか考えられないからだ。
そんな中、家治は軽く咳払いして皆を鎮めさせ、視線を自らに集中させた。
「されば余が意知を若年寄へと進ませるは外でもない。家基が死の探索の指揮を執らせるためぞ…、余としては家基が命を奪いしは家基に代わって次期将軍位を狙う、それも三卿の何れかの仕業…、それも当主を抱えし一橋か、或いは清水の仕業と睨んでおるゆえに、意知にその探索の指揮を執らせるべく、意知を若年寄へと進ませるのだ」
家治は奥女中から意知の若年寄への昇進人事に異論を差し挟ませまいとして、一気にそう捲くし立てた。
一方、奥女中、それも事情を知らぬ奥女中は皆、驚愕したものである。いや、事情を知る高岳さえもまさか家治がそれを口にするとは完全に想定外であり、驚愕したものである。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
7
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる