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意知、若年寄就任前夜 大奥篇4

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 高岳たかおかたして寶蓮院ほうれんいんよりの書状しょじょう一読いちどくするなり、

たしかに面妖めんような…」

 まずはそう感想かんそうらした。

 高岳たかおかはその上で、「なれど…」とつづけた。
 
「何ゆえにおそおおくも上様うえさま山城やましろ殿どの若年寄わかどしよりへとすすませるのか、その事情じじょうらぬ番頭ばんがしら用人ようにん寶蓮院ほうれんいん様につかえし廣敷ひろしき用人ようにんかいしまして、寶蓮院ほうれんいん様に上様うえさま真意しんいを…、山城やましろ殿を若年寄わかどしよりへとすすませられるはまこと御三卿ごさんきょうつぶしの一環いっかんなのか、それをただしてくれますように、とでもげられましたからではござりますまいか?」

 たしかに高岳たかおかの言う通り、その書状しょじょうには田安たやす家老かろう戸川とがわ逵和みちともよりもたらされた情報じょうほうであるとして、意知おきとも若年寄わかどしよりへの内定ないていけんつづられており、

「これはもしや、おりからの幕府ばくふ財政難ざいせいなん改善かいぜんすべく、上様うえさま御三卿ごさんきょう整理せいりされたのではあるまいか、それもまずは当主とうしゅ不在ふざいあき屋形やかたである田安たやす家に照準しょうじゅんわされたのではあるまいか…」

 そのようにもつづられており、

たして上様うえさま真意しんい奈辺なへんにあるのか、それを種姫たねひめより、あるいは向坂さきさかより上様うえさまただしてもらいたい…」

 という内容ないよう書状しょじょうであった。

「さればここは上様うえさまりのままを…、寶蓮院ほうれんいん様が家中かちゅうよりげをけているらしいことをけられましては如何いかがでござりましょうや」

 高岳たかおかはそう提案ていあんした。確かにそれが先決せんけつであろう。

「さすれば上様うえさまもそれに対しまして何らかの打開だかいさくおもかれるやもれませぬゆえ…」

 上様うえさまなればきっと良い智慧ちえおもかばれるはずであろう…、高岳たかおかはそう示唆しさし、それに対して種姫たねひめ向坂さきさかもそのとおりだとうなずいたものである。

「さればもなく宵五つ(午後8時頃)なれば、よる総触そうぶれにて…」

 将軍は朝と夜の二回、大奥おおおくへとわたり、御台所みだいどころはじめ、奥女中おくじょちゅう挨拶あいさつける。

 将軍たる家治には御台所みだいどころはもうく、しかし、だからと言ってこの二回の「総触そうぶれ」を行わないわけにはゆかなかった。

 そしてこの朝と夜の二回にわた総触そうぶれだが、昼四つ(午前10時頃)に行われる朝の総触そうぶれのさいには将軍はかみしも二本にほんざしというスタイルにて、御小座敷おこざしきのまにて御台所みだいどころはじめ、奥女中おくじょちゅう挨拶あいさつける。

 一方いっぽう高岳たかおかくちにした、もなく行われる夜の総触そうぶれのさいには今度こんどは将軍は一転いってん着流きながしにて、それも御座之間ござのまにてやはり御台所みだいどころはじめ、奥女中おくじょちゅう挨拶あいさつける。

上様うえさま今後こんご対応たいおうさくでも相談そうだんもうげましょうぞ…、総触そうぶれをえたのちにでも…」

 高岳たかおかのその提案ていあん向坂さきさかうなずいた。

 たして宵五つ(午後8時頃)、着流きなが姿すがたの将軍・家治が御座之間ござのまのそれも上段じょうだん姿すがたを見せるや、下段げだんにてひかえる側室そくしつ千穂ちほ養女ようじょ種姫たねひめはじめ、奥女中おくじょちゅうが家治を出迎でむかえた。

 本来ほんらい、家治のとなりには御台所みだいどころすべきところ、しかし、家治は御台所みだいどころであった倫子ともこ先立さきだたれてからというもの、御台所みだいどころむかえてはおらず、それゆえ家治のとなり空席くうせきであった。

 それなら側妾そくしょう千穂ちほすわってもさそうなものであったが、しかし、家治がそれをゆるさなかった。

 さて、家治が千穂ちほ種姫たねひめより挨拶あいさつを受け、つづいて千穂ちほ種姫たねひめ真後まうしろにひかえる年寄としより筆頭ひっとう高岳たかおかよりも挨拶あいさつけたところで、

おそれながら…」

 そう声ががった。声のぬし千穂ちほづき年寄としより玉澤たまさわであった。

 千穂ちほ種姫たねひめ真後まうしろには年寄としより筆頭ひっとう高岳たかおかとそれに上臈じょうろう年寄どしよりである花園はなぞの飛鳥井あすかいの3人がひかえており、玉澤たまさわさらにその3人の真後まうしろにひかえていた。

 一方、声をかけられた家治はと言うと、声のぬし玉澤たまさわであったので、その内容ないよう…、玉澤たまさわの言わんとするところにさっしがついたものの、それでもらぬふうよそおい、玉澤たまさわうながした。

「されば上様うえさまたまさかにはおくどまりを…」

 千穂ちほいてやってしいと、玉澤たまさわは家治にねがった。千穂ちほつかえる年寄としよりとしては至極しごくもっともなねがいではあったが、しかし、とうの家治は元来がんらい淡白たんぱくなる性質たちであり、その上、愛妻あいさい倫子ともこ先立さきだたれたことも相俟あいまって、千穂ちほにはなれなかった。それは倫子ともこに対する義理ぎりてでもあり、家治が倫子ともこすわっていた場所ばしょ千穂ちほすことをゆるさなかったのもまた、その義理ぎりてからであった。

 ともあれ家治はその気がないにもかかわらず、その場をやりごすために、「考えておこう…」とじつ玉虫色たまむしいろ返答へんとうをよこしたのであった。

 すると今度こんど高岳たかおかがすかさず、「おそれながら…」と声を上げたので、家治はすくわれた思いで、「ゆるす」とうながした。高岳たかおかならば玉澤たまさわとはちがい、千穂ちほいてくれとの陳情ちんじょうでないことはあきらかであったからだ。

「さればご政事せいじきのことで少々しょうしょう…」

 女の分際ぶんざい政事せいじくちはさむなど、本来ほんらいなれば言語道断ごんごどうだんであったが、しかし、相手あいて年寄としより筆頭ひっとうたる高岳たかおかともなればはなしべつである。

然様さようか…、されば場所ばしょうつしたがかろう…」

 高岳たかおかくちぶりからそうとさっした家治は高岳たかおかにそう提案ていあんし、それに対して高岳たかおかまさしくうつすことをのぞんでいたので、「ははぁっ」と家治の配慮はいりょ感謝かんしゃ意味いみめて平伏へいふくした。

 それから家治は高岳たかおかとも蔦之間つたのまへとあしはこんだ。蔦之間つたのま中奥なかおく大奥おおおくとをむすかみ御鈴おすず廊下ろうかそばにあり、将軍が御台所みだいどころのみならず、側室そくしつとも歓談かんだんするであった。

 いや、これで蔦之間つたのまが将軍が御台所みだいどころとのみ歓談かんだんするであったならば、家治はやはり御台所みだいどころであった倫子ともこへの義理ぎりてから、蔦之間つたのまにて高岳たかおかと話をするつもりはなかったであろうが、しかし、蔦之間つたのまは将軍が御台所みだいどころとのみ歓談かんだんするではなく、側室そくしつとも歓談かんだんするであったので、家治としても千穂ちほに対しては義理ぎりてするつもりはなかったので、それゆえ何の気兼きがねもなく高岳たかおか蔦之間つたのまへとむかえることができた。

 こうして高岳たかおか蔦之間つたのまにて家治とかいうなり、これまでの経緯いきさつを家治にかたってかせた。そのかん、やはり防止ぼうし観点かんてんから、家治と高岳たかおかとの案内役あんないやくつとめた表使おもてづかい筆頭ひっとうにして御客おきゃく応答あしらいかく菊野きくの蔦之間つたのまひがし位置いちする入側いりがわにてひからせていた。

 さて、高岳たかおかは家治にこれまでの経緯いきさつかたえるや、

「されば如何いかが取計とりはからいましょうや…」

 寶蓮院ほうれんいんに対してどのような返答へんとうをよこせば良いか、家治にたずねた。

田安たやす家よりのつかい…、栲子たえこは今でも待っておるのだな?」

 家治はまずはたしかめるようにそうたずね、それに対して高岳たかおかは「御意ぎょいにござりまする…」と答えた上で、栲子たえこが今でも宇治之間うじのま御次おつぎにてっていることをげた。栲子たえこはあくまで田安たやす家につかえるであり、そうであれば総触そうぶれに参加さんかすることはゆるされず、御次おつぎにでひかえていたのだ。

然様さようか…」

 家治はそれからしばし、沈思ちんし黙考もっこうしたのち高岳たかおかに対してふたたび、御座之間ござのまもどることをげた上で、総触そうぶれのメンバー、すなわち、千穂ちほ種姫たねひめはじめ、年寄としより奥女中おくじょちゅう御座之間ござのまへとあつめるようにめいじた。

 それに対して高岳たかおかは家治にその真意しんいただすような真似まねはせず、菊野きくのに家治よりのめいをそのままつたえて菊野きくの召集しょうしゅうめいじるや、みずからは家治を御座之間ござのまへと案内あんないした。

 こうしてふたたび、家治が御座之間ござのま上段じょうだん姿すがたを見せると、菊野きくのによって召集しょうしゅうされた、下段げだんにてひかえる千穂ちほ種姫たねひめらをまえにしておどろくべきことをけたのであった。

「されば突然とつぜんだが、奏者番そうじゃばんの…、ともうすよりは意次おきつぐそくもうしたがとおりがいであろう…、意知おきとも少老しょうろうへと…、若年寄わかどしよりへとすすませようと思うておる…」

 家治がそうげると奥女中おくじょちゅうよりおどろきの声が上がった。何しろ意知おきともはまだ部屋住へやずみ、つまりは家督かとく相続そうぞく前にて、大名でさえないからだ。それが若年寄わかどしよりへと昇進しょうしんさせるとは、意知おきとも如何いか譜代ふだい大名にとっての出世しゅっせ登竜門とうりゅうもんである奏者番そうじゃばんつとめていようとも、つまりは若年寄わかどしより有資格者ゆうしかくしゃとは言え、前代未聞ぜんだいみもん抜擢ばってき人事じんじと言えた。

 それと同時どうじに、そのような人事じんじ情報じょうほう把握はあくしていた高岳たかおかに対してほか奥女中おくじょちゅう嫉妬しっと視線しせんけたものである。高岳たかおか先程さきほど、「ご政事せいじきのことで少々しょうしょう…」と家治をさそったのだ。そうであれば高岳たかおかまえもってその意知おきとも若年寄わかどしよりへの昇進しょうしん人事じんじ把握はあくしており、そのことで家治と話し合うために家治をさそったとしかかんがえられないからだ。

 そんななか、家治はかる咳払せきばらいしてみなしずめさせ、視線をみずからに集中しゅうちゅうさせた。

「されば意知おきとも若年寄わかどしよりへとすすませるはほかでもない。家基いえもと探索たんさく指揮しきらせるためぞ…、としては家基いえもといのちうばいしは家基いえもとわって次期じき将軍位をねらう、それも三卿さんきょういずれかの仕業しわざ…、それも当主とうしゅかかえし一橋ひとつばしか、あるいは清水しみず仕業しわざにらんでおるゆえに、意知おきともにその探索たんさく指揮しきらせるべく、意知おきとも若年寄わかどしよりへとすすませるのだ」

 家治は奥女中おくじょちゅうから意知おきとも若年寄わかどしよりへの昇進しょうしん人事じんじ異論いろんはさませまいとして、一気いっきにそうくしてた。

 一方、奥女中おくじょちゅう、それも事情じじょうらぬ奥女中おくじょちゅうみな驚愕きょうがくしたものである。いや、事情じじょう高岳たかおかさえもまさか家治がそれを口にするとは完全かんぜん想定外そうていがいであり、驚愕きょうがくしたものである。
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