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寶蓮院より遅効性の毒物の発見を命じられていた高嶋朔庵は同じく遅効性の毒物の発見に努めていた吉田桃源院と元策の死に際会し、発見を諦める。

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吉田よしだ桃源院とうげんいんとそのそく元策げんさく遅効性ちこうせい毒物どくぶつ発見はっけんいたりましたのでござりましょうや…、毒物どくぶつ鑑定かんてい資料しりょう何者なにものかに…、おそらくは一橋ひとつばしきょう殿の手の者によってられたとのことでござりまするが…」

 意知おきともは気になっていたことを家治にたずねた。

おそらくはの…」

 家治は忸怩じくじたる様子ようすでそうこたえた。

「されば田安たやすきょう殿のやかたつかえし医師いし高嶋たかしま朔庵さくあんに対しましても、寶蓮院ほうれんいん殿をつうじてやはり毒物どくぶつ鑑定かんていめいじられていたとのことでござりまするが…」

 今度こんど意次おきつぐたしかめるようにそう切り出した。

 高嶋たかしま朔庵さくあんに対しても、吉田よしだ桃源院とうげんいんに対してとおなじく、遅効性ちこうせい毒物どくぶつ発見はっけんつとめるよう、寶蓮院ほうれんいんよりめいじられていたのか…、それが意次おきつぐいの趣旨しゅしであり、一方いっぽうわれた家治も意次おきつぐのそのいの趣旨しゅし素早すばやさっするや、「左様さよう」とおうじて、

「されば石寺いしでら伊織いおりより寶蓮院ほうれんいん殿に対して、高嶋たかしま朔庵さくあんに対して、毒物どくぶつを、それも遅効性ちこうせい毒物どくぶつ発見はっけんつとめるようめいじてしいとたのんだそうな…、深谷ふかや盛朝もりともよりけられし一橋ひとつばし民部みんぶめの姦計かんけい…、清水しみず重好しげよしを、あるいはそなたら…、意次おきつぐ意知おきとも親子、さらには田安たやす家基いえもと毒殺どくさつつみかずくべく、そのために遅効性ちこうせいどくもちいたうたがいがあることをくわえての…」

 家治はそう補足ほそくした。

「されば…、高嶋たかしま朔庵さくあんもまた遅効性ちこうせい毒物どくぶつ発見はっけんいたりましたのでは?あるいは吉田よしだ桃源院とうげんいん連絡つなぎっておりますれば…」

 意次おきつぐ期待きたいめてそうたずねた。かりにそれらが期待きたいできれば、高嶋たかしま朔庵さくあんより遅効性ちこうせい毒物どくぶつ正体しょうたいおしえてもらえるかも知れぬ…、それが期待きたい出来できるからだ。

 だが家治はそんな意次おきつぐ期待きたい裏切うらぎるかのように、眉根まゆねせつつかぶりった。

 たして家治は、「それが無理むりなのだ…」と意次おきつぐ予期よきしたとおりのこたえをかえした。

「何ゆえでござりまするか?」

 意次おきつぐ即座そくざにそう反応はんのうした。

端的たんてきもうさば、おそれをなしたのだ…」

吉田よしだ桃源院とうげんいんとそのそく元策げんさく不審ふしんげましたことに…、いえ、一橋ひとつばしきょう殿の手にかかりましたことに?」

 意次おきつぐがそうたずねると家治はうなずいた。

「されば…、おそれをなしましたる高嶋たかしま朔庵さくあん毒物どくぶつ発見はっけんしましたので?」

 今度こんど意知おきとも憤慨ふんがいした様子ようすかくそうともせずたずねた。

左様さよう…、いや、高嶋たかしま朔庵さくあんめるはこくもうすものにて…、人間にんげんだれしもいのちしい。いや、これで高嶋たかしま朔庵さくあん番士ばんしであらばいのちしむことはあるいはゆるされぬやもれぬが、なれど高嶋たかしま朔庵さくあんはそのはあくまで医師いしなればそのいのちしむのもむをまいて…」

 家治は高嶋たかしま朔庵さくあんかばってみせた。

「なれど高嶋たかしま朔庵さくあん自身じしん仮令たとえ遅効性ちこうせい毒物どくぶつ発見はっけんあきらめましたるところで、一橋ひとつばしきょう殿といたしましてはそれでまくらたかくしてはねむれぬのではござりますまいか?高嶋たかしま朔庵さくあんめもまた、吉田よしだ桃源院とうげんいん同様どうよう遅効性ちこうせい毒物どくぶつ…、おのれおそおおくも大納言だいなごん様のおいのち頂戴ちょうだいせしさいもちいし遅効性ちこうせい毒物どくぶつ発見はっけんいたったやもれぬ…、あるいは吉田よしだ桃源院とうげんいんより何か聞いているやもれぬと、一橋ひとつばしきょう殿はそうおもうに相違そういなく…」

 意知おきともがそうすや、

一橋ひとつばし民部みんぶめは高嶋たかしま朔庵さくあんくちをもふうずるはず…、左様さようもうしたいのであろう?」

 家治はそう先回さきまわりしてみせ、意知おきともに「御意ぎょい…」と答えさせた。

 それから意知おきともぐに、「いえ…」とおうじたかと思うと、

「それ以前いぜん一橋ひとつばしきょう殿は、いえ、この場合ばあい高嶋たかしま朔庵さくあんはともうすべきところでござりましょうや…、高嶋たかしま朔庵さくあんおのれまでいのちを…、一橋ひとつばしきょう殿のものねらわれるとおもうたのでござりましょうや…、吉田よしだ桃源院とうげんいんの場合、その嫡子ちゃくしでありましたる元長げんちょう…、その当時とうじ桃庵とうあん妻女さいじょ一橋ひとつばしきょう殿にこおり奉行ぶぎょうとしてつかえし稲守いなもり三左衛門さんざえもんむすめにて、そこから一橋ひとつばしきょう殿へと、吉田よしだ桃源院とうげんいん石寺いしでら伊織いおりより遅効性ちこうせい毒物どくぶつ発見はっけん、その依頼いらいれましたのでござりましょうが、なれど、高嶋たかしま朔庵さくあん場合ばあい吉田よしだ桃源院とうげんいんのような一橋ひとつばしきょう殿との所縁ゆかりとく見受みうけられず、されば吉田よしだ桃源院とうげんいんがそのそく元策げんさくとも不審ふしんを…、一橋ひとつばしきょう殿のにかかりしところで、おのれにまでは…、一橋ひとつばしきょう殿とはとく所縁ゆかりのなきおのれにまでは一橋ひとつばしきょう殿のとどくことは…、兇刃きょうじんけられることはあるまいと、つづき、遅効性ちこうせい毒物どくぶつ発見はっけんつとめようとするのではござりますまいか?何しろ、朔庵さくあんつかえし田安たやすやかたあるじであります寶蓮院ほうれんいん殿よりの直々じきじきめいなれば、如何いか朔庵さくあん番士ばんしではのうて医師いしぎぬとはもうせ…」

 意知おきともはその疑問ぎもんおもいたった。

 それに対して家治は、「それがあるのだ…」と沈痛ちんつうなる面持おももちでこたえた。

一橋ひとつばしきょう殿との所縁ゆかりが?高嶋たかしま朔庵さくあんにまで…」

 意知おきともたしかめるようにそうたずねると絶句ぜっくした。

左様さよう…、されば高嶋たかしま朔庵さくあんには祐庵ゆうあん久長ひさながなる嫡子ちゃくしがいるのだが、この祐庵ゆうあん妻女さいじょ…、朔庵さくあんよめ実父じっぷ小姓こしょうぐみ番士ばんしとしてつかえし松平まつだいら三郎左衛門さぶろうざえもん康淳やすあつなのだが、この松平まつだいら三郎左衛門さぶろうざえもんには佐左衛門さざえもん康誠やすなりなる実弟じっていがおってのう…、この実弟じってい一橋ひとつばし民部みんぶめにつかえておるのだ。小姓こしょうとしての…」

「されば…、それな、ゆうあん、なる妻女さいじょにとりましては叔父おじたりまする?」

 意知おきともたしかめるようにたずねると、家治は「左様さよう」とこたえたうえで、

「しかも、松平まつだいら佐左衛門さざえもん嫡子ちゃくし源左衛門げんざえもん康備やすなり小十人こじゅうにんがしらとしてつかえておる…」

 家治はそう補足ほそくした。

「それで…、高嶋たかしま朔庵さくあんめは吉田よしだ桃源院とうげんいんとそのそく元策げんさく際会さいかいして、おのれまでいのちねらわれるやもれぬと、然様さようおもうたわけでござりまするか?」

 意知おきともつづけざま、そうたずねた。

おそらくはの…、いや、高嶋たかしま朔庵さくあん吉田よしだ桃源院とうげんいん元策げんさくしらせにまいった石寺いしでら伊織いおり面前めんぜんにて、それも妻女さいじょまでびつけて、それまでの鑑定かんてい資料しりょうしてみせたのだ…」

 家治からそうかされた意知おきとも高嶋たかしま朔庵さくあんのその自己じこ保身ほしんぶりに心底しんそこあきれる思いであった。

「そのさい高嶋たかしま朔庵さくあんは、遅効性ちこうせい毒物どくぶつ発見はっけんなど不可能ふかのう、また、吉田よしだ桃源院とうげんいんよりも何もいてはおらぬと、態々わざわざ、そうせんしたそうな…」

 家治も内心ないしんでは意知おきともおなじく、高嶋たかしま朔庵さくあんのその自己じこ保身ほしんぶりにあきれていたらしく、やれやれといった様子ようすでそうげた。

「さればそれは…、妻女さいじょつうじて一橋ひとつばしきょう殿へとつたえてもらうためでござりまするな?おのれ最早もはや遅効性ちこうせい毒物どくぶつ発見はっけんなどあきらめましたるゆえ…、つまりは一橋ひとつばしきょう殿のつみあばくつもりは毛頭もうとうござりませぬゆえ、何卒なにとぞ吉田よしだ桃源院とうげんいん元策げんさくまいだけは御容赦ごようしゃほどを、と…、然様さようつたえてもらうためでござりまするな?いえ、懇願こんがんもうしますべきか…」

 遅効性ちこうせい毒物どくぶつ発見はっけんしん依頼人いらいにんとも言うべき石寺いしでら伊織いおりまえにて鑑定かんてい資料しりょうすにたって態々わざわざ妻女さいじょびつけたのもそのためかと、意知おきともは思った。

おそらくはの…、いや、その甲斐かいあってか、高嶋たかしま朔庵さくあんは今でもピンピンしておるわ…」

 家治の口調くちょうはどこか皮肉ひにくびていた。

 ともあれ、吉田よしだ桃源院とうげんいんとそのそく元策げんさく一橋ひとつばし治済はるさだ期待きたいした、

警告けいこく…」

 その効果こうか充分じゅうぶん発揮はっきしたようである。
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