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細川家の藩医であった池原雲伯こと長仙院良誠が将軍・家治の奥医師になった経緯、そして深谷盛朝は遅効性の毒の可能性に気づく。

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 池原いけはら雲伯うんぱく良誠よしのぶは正徳4(1714)年に生まれた。良誠よしのぶの母、すなわち、雲積うんせき良善よしたる妻女さいじょ旗本はたもと大林おおばやし與兵衛よへえ親倫ちかともの娘である。

 大林おおばやし與兵衛よへえ親倫ちかとももと能役者のうやくしゃであり、それが元禄14(1701)年12月、時の将軍であった綱吉つなよし見出みいだされて廊下番ろうかばんてられたのであった。

 廊下番ろうかばんとは今はもうない御役目おやくめであるが、その当時とうじには存在そんざいしたわば、将軍しょうぐんかかえの能役者のうやくしゃであり、旗本はたもと身分みぶんであった。

 その廊下番ろうかばん支配しはいしていたのがやはり今はもう存在そんざいしない廊下ろうか番頭ばんがしらなるポストであり、定員は四人、そのうちの一人である杉原すぎはら播磨守はりまのかみ正勝まさかつ池原いけはら雲積うんせき良善よしたる患者かんじゃであったのだ。

 池原いけはら雲積うんせき良善よしたるのその名医めいいとしての評判ひょうばんきつけたのは何も肥後ひご熊本くまもと藩の細川ほそかわ家だけにかぎらない。

 安藝あき広島ひろしま松平まつだいらこと浅野あさの家にしてもそうであった。

 安藝あき広島ひろしま浅野あさの家は青山あおやま下屋敷しもやしきかまえており、そこではその当時とうじ…、池原いけはら雲積うんせき肥後ひご熊本くまもと家の藩医はんいとして召抱めしかかえられた宝永2(1705)年以前いぜんには当主とうしゅたる安藝守あきのかみ綱長つななが嫡男ちゃくなんであった備後守びんごのかみ吉長よしながとその内室ないしつであった節姫せつひめ夫妻ふさいと、それに吉長よしなが実弟じっていである萬吉まんきち長賢ながかたんでおり、そのうち長賢ながかた麻疹はしかかかったさい、これを治癒ちゆしたのが池原いけはら雲積うんせきであったのだ。

 やはりと言うべきか、浅野あさの家にも勿論もちろん藩医はんい存在そんざいしていたものの、しかし、長賢ながかた麻疹はしかに対して藩医はんいは、

すべもなく…」

 であり、そこで家臣かしん池原いけはら雲積うんせき招聘しょうへいした次第しだいであった。

 池原いけはら雲積うんせき名医めいいとしての評判ひょうばん青山あおやまにまでひびいており、そこで青山あおやま下屋敷しもやしきにてつとめる家臣かしん池原いけはら雲積うんせき招聘しょうへいした次第しだいであった。

池原いけはら雲積うんせきなればかならずや快癒かいゆへとみちびけるに相違そういあるまい…」

 家臣かしん池原いけはら雲積うんせきに対してそれを期待きたいしつつ、招聘しょうへいした次第しだいであり、それに対して池原いけはら雲積うんせきもその期待きたいこたえる格好かっこう見事みごと長賢ながかた全快ぜんかいへとみちびいたのであった。

 そしてこの時、池原いけはら雲積うんせき招聘しょうへいした家臣かしんというのが杉原すぎはら源太左衛門げんたざえもん正重まさしげであり、ほかならぬ杉原すぎはら正勝まさかつ実弟じっていである。

 杉原すぎはら源太左衛門げんたざえもん実兄あに杉原すぎはら正勝まさかつに対してこの時のことを打ち明け、そこで正勝まさかつも、

「それほど名医めいいなれば…」

 自分ももらおうということで、正勝まさかつは何と、みずか池原いけはら雲積うんせき診療所しんりょうじょへと足をはこんで、雲積うんせきからだもらうようになったのだ。池原いけはら雲積うんせき基本的きほんてきには往診おうしんをしない主義しゅぎであったからだ。

 その過程かてい池原いけはら雲積うんせきいま独身どくしんであると知った杉原すぎはら正勝まさかつ御節介おせっかいであることは承知しょうちの上で、雲積うんせきのためによめ世話せわをしてやることにしたのであった。

 それに対して池原いけはら雲積うんせきもちょうどそのころ

「そろそろ…」

 まわりの世話せわをしてくれるよめむかえたいと思っていたところであり、杉原すぎはら正勝まさかつもそうとるや、俄然がぜん御節介おせっかいむしうずき、そこで正勝まさかつ池原いけはら雲積うんせきよめとして見繕みつくろったのが正勝まさかつ配下はいかである廊下ろうかばん大林おおばやし與兵衛よへえむすめというわけであった。

 こうして池原いけはら雲積うんせき大林おおばやし與兵衛よへえむすめむすばれ、その間に出来たのが池原いけはら雲伯うんぱく良誠よしのぶその人であった。

 正徳4(1714)年に生まれた池原いけはら雲伯うんぱく良誠よしのぶもまた、父・雲積うんせき良善よしたる同様どうよう初姫はつひめ侍医じいつとめた。

 そして明和8(1771)年、初姫はつひめ身罷みまかると、時の肥後ひご熊本くまもと藩主はんしゅであった、今もそうだが、細川ほそかわ重賢しげかた侍医じいとなった。

 その池原いけはら雲伯うんぱく意知おきとも蕁麻疹じんましん見事みごと快癒かいゆへとみちびいたことが将軍・家治の耳にまでとどくや、家治は池原いけはら良誠よしのぶ召出めしだしたのであった。

 とは言え、池原いけはら雲伯うんぱく身分みぶんはその当時とうじはまだ、肥後ひご熊本くまもとはん細川ほそかわ家の藩医はんいであったので、その池原いけはら雲伯うんぱく召出めしだすには藩主はんしゅたる重賢しげかた諒解りょうかい必要ひつようであり、そこで池原いけはら雲伯うんぱく細川ほそかわ家の藩医はんいから幕府ばくふ医官いかんとして移籍いせきさせるに当たり、重賢しげかたとの折衝せっしょう役をつとめたのが意次おきつぐであった。

 つまりは池原いけはら雲伯うんぱく手放てばなすことにつき、重賢しげかた諒承りょうしょうることであり、それに対して重賢しげかたはこれを快諾かいだくしたものであった。

 こうして池原いけはら雲伯うんぱくは安永2(1773)年12月1日に将軍・家治にはじめて御目見得おめみえたすや、まずは御目見得おめみえ医師いしとして医師いしとしての実力じつりょく見極みきわめられたのち、それから2年後の安永4(1775)年11月には将軍・家治に近侍きんじする奥医おくいてられたのであった。

 池原いけはら雲伯うんぱく奥医おくいてられた背景はいけいについて、

意次おきつぐしたしいから…」

 そう邪推じゃすいする者もあった。たしかに池原いけはら雲伯うんぱく意次おきつぐとはしたしく、そう邪推じゃすいされるのもいたかたないのかもれなかったが、しかし、池原いけはら雲伯うんぱく奥医おくいてられたのはまったくもって本人ほんにん実力じつりょく賜物たまものであり、そこに意次おきつぐ介在かいざいしたことはなく、また、その余地よちすらなかったと言っても過言かごんではない。

 その池原いけはら雲伯うんぱく次期じき将軍であった家基いえもと最期さいご鷹狩たかがりに同行どうこうしたのであった。

「しかも家基いえもと放鷹ほうよう帰途きとりし品川しながわ東海寺とうかいじ肥後ひご熊本くまもと細川ほそかわ家の菩提寺ぼだいじなのだ…」

 家治はそうつぶやくと、「これをどう見る?」と意次おきつぐたずねた。

「やはり…、池原いけはら長仙院ちょうせんいんおそおおくも大納言だいなごん様をがいたてまつったと…、一服いっぷくったに相違そういないと、周囲しゅうい然様さようおもわますためではござりますまいか?かり大納言だいなごん様が御病死ごびょうし…、御病死ごびょうしではのうて、実は何者なにものかの手により一服いっぷくられたのではないかと、そう見破みやぶられた時にそなえて…、何しろ、肥後ひご熊本くまもと細川ほそかわ家ともうしますれば、池原いけはら雲伯うんぱくが父・雲積うんせき良善よしたる二代にだいわたつかえしいえにて、そのいえ…、細川ほそかわ家の菩提寺ぼだいじにておそおおくも大納言だいなごん様がにわかの御発病ごはつびょう…、と相成あいなりますれば、池原いけはら雲伯うんぱく介在かいざいうたがわれるものかと…」

 意次おきつぐがそうこたえると、家治もうなずいた。

おそおおくも大納言だいなごん様が最期さいご御放鷹ごほうよう…、その帰途きと品川しながわ東海寺とうかいじにおりあそばされましたのもやはり、小笠原おがさわら若狭わかさ佐野さの右兵衛うひょうえ両名りょうめい事前じぜんめましたることにて?」

 鷹狩たかがりの「コース」をめたのも御側衆おそばしゅう小笠原おがさわら信喜のぶよし佐野さの茂承もちつぐかと、意知おきともは家治にそうたずねた。

 それに対して家治はうなずくと、

盛朝もりとも調しらべによらばどうやらそうらしい…、いや、家基いえもと最期さいご鷹狩たかがりに供奉ぐぶせし目付めつけ新庄しんじょう與惣右衛門よそえもん小野おの次郎右衛門じろうえもん両名りょうめいより聴取ちょうしゅせし結果けっか判明はんめいしたことなのだが…」

 そう切り出し、すると家治より鷹狩たかがりの「メンバー表」を手渡てわたされていた意次おきつぐはその二人の名を見つけて、「たしかに…」と声を上げた。

「されば意知おきともぞんじておろうが、放鷹ほうよう具体的ぐたいてき段取だんどりは目付めつけがつけるのだが…」

 家治のつづきの言葉ことば意知おきともが引き取ってみせた。

「やはりともうしますべきか…、小笠原おがさわら若狭わかさ佐野さの右兵衛うひょうえくちしましたので?それもことに…、おそおおくも大納言だいなごん様が御放鷹ごほうよう帰途きとにおりあそばされしさきにつきまして…」

 意知おきともがそう引き取ってみせるや、家治はやはりうなずき、

「それも小笠原おがさわら若狭わかさめがことに、強く口出くちだいたしたそうな…、品川しながわ東海寺とうかいじるべし、とな…」

 そうくわえた。

「いかさま…、池原いけはら雲伯うんぱく…、いえ、長仙院ちょうせんいんおそおおくも大納言だいなごん様に一服いっぷくったのではないか…、然様さよう周囲しゅういおもわせまするに品川しながわ東海寺とうかいじまさ格好かっこう舞台ぶたいでござりまするからなぁ…」

 意知おきともはしみじみそう言い、「左様さよう…」と家治を首肯しゅこうさせ、その上で、

「ひいては、池原いけはら良誠よしのぶしたしきそなたら親子おやこにそのつみを…、家基いえもとがいせしそのつみかずけるやも知れぬと、左様さようおもうたのやも知れぬな、一橋ひとつばし民部みんぶめは…」

 家治はそうてた。

 成程なるほど治済はるさだとしては…、治済はるさだ家基いえもと殺しの首魁しゅかいだと仮定かていして、そうだとすれば治済はるさだとしてはそのつみかずける相手あいておおければおおほど都合つごうが良いというものである。

 まず、清水しみず重好しげよしにそのつみかずき、それが無理むりならば今度こんど意次おきつぐに…、あるいは意次おきつぐ意知おきとも父子ふしに、といった具合ぐあいにである。

「されば…、やはりそれな目付めつけの…、おそおおくも大納言だいなごん様が最期さいご御放鷹ごほうよう供奉ぐぶせし目付めつけ新庄しんじょう與惣右衛門よそえもん直内なおうち小野おの次郎右衛門じろうえもん忠喜ただよし両名りょうめいにつきましても清水しみず宮内くないきょう殿とえにしが?」

 意次おきつぐは「メンバー表」から顔を上げると家治にそうたずねた。二人とも、意次おきつぐとはえんがなく、そうだとすれば清水しみず重好しげよしとのえんしかかんがえられなかった。

左様さよう…、されば新庄しんじょう與惣右衛門よそえもん小野おの次郎右衛門じろうえもんともにその弟が近習きんじゅうばんとしてつかえておるわ…」

無論むろん、それもまた小笠原おがさわら若狭わかさ佐野さの右兵衛うひょうえ差配さはいによるものでござりまするな?」

 意知おきともは家治にたしかめるようにたずねた。

左様さよう…、いや、本来ほんらいなれば盛朝もりともとそれに松平まつだいら田宮たみや恒隆つねたか両名りょうめい供奉ぐぶするはずであったらしいのだが、それを小笠原おがさわら若狭わかさめが無理むりやりにえさせたらしい…」

「そは…、やはり清水しみず宮内くないきょう殿とのえにしからでござりまするか?弟が清水しみず宮内くないきょう殿につかえしその新庄しんじょう與惣右衛門よそえもん小野おの次郎右衛門じろうえもん両名りょうめいまでもおそおおくも大納言だいなごん様が最期さいご御放鷹ごほうよう供奉ぐぶせしことで、いよいよもって大納言だいなごん様をがいたてまつりし…、一服いっぷくりし下手人げしゅにん首魁しゅかいの一人として清水しみず宮内くないきょう殿をげさせるべく…」

 意知おきともが家治にいかけるや、家治はうなずいた。

「さはさりながら…、おそおおくも大納言だいなごん様が最期さいご御放鷹ごほうよう一橋ひとつばしきょう殿の縁者えんじゃ誰一人だれひとりとして供奉ぐぶしてはおりませぬのもまた、うごかしがた事実じじつにて…」

 そうである以上いじょう一橋ひとつばし治済はるさだ家基いえもとごろしの首魁しゅかいと見るには、すくなくとも品川しながわ東海寺とうかいじにて家基いえもと一服いっぷくらせた首魁しゅかいと見るには無理があるのではないか…、意次おきつぐはそう示唆しさした。

「確かに…、なれど遅効性ちこうせい毒物どくぶつなればどうだ?」

 家治は意次おきつぐとそれに意知おきともの二人を見比みくらべながらそういかけた。

「そは…、おそおおくも大納言だいなごん様がどくを口にされましたのが如何いかにも品川しながわ東海寺とうかいじ…、御放鷹ごほうよう帰途きと、おりあそばされし品川しながわ東海寺とうかいじであると…、そこで大納言だいなごん様がおがりになられし物の中に毒物どくぶつ混入こんにゅうされていたのではないかと、然様さように見せかけるべく?」

 意知おきともぐにそう反応はんのうしたので家治は満足気まんぞくげうなずいた。

「それで…、一橋ひとつばし殿はあえておのれえにしのありし者は大納言だいなごん様が最期さいご御放鷹ごほうよう供奉ぐぶさせなかったと?まんいち大納言だいなごん様がじつ御病死ごびょうしではのうて毒殺どくさつだと判明はんめいせし場合ばあいそなえて、己はその黒幕くろまくではありないと…」

 意次おきつぐけじとそうおうじたので、やはり家治を満足気まんぞくげうなずかせたものである。

「されば遅効性ちこうせいどくをもってして家基いえもといのちたれたのではあるまいかと、その可能性かのうせいに気づいたは盛朝もりともであったのだ…、つまりは犯行現場は品川しながわ東海寺とうかいじではないのではあるまいか、とな…」

 家治は思い出すようにそうげた。

「そは…、やはりおそおおくも大納言だいなごん様が最期さいご御放鷹ごほうよう一橋ひとつばしきょう殿と所縁ゆかりのありし者が誰一人だれひとりとして供奉ぐぶしてはおりませなんだことを不自然ふしぜんおもうて?」

 意知おきともはそうかんはたらかせた。

「そのとおりぞ。いや、これで一人でも良い、一橋ひとつばし所縁ゆかりのありし者が供奉ぐぶしておれば盛朝もりとももそれに気づかなかったやも知れぬが、なれど実際には一橋ひとつばし所縁ゆかりのあしり者が誰一人だれひとりとして、それも都合つごう良く家基いえもと最期さいご放鷹ほうよう供奉ぐぶしてはおらず、その放鷹ほうよう帰途きとりし品川しながわ東海寺とうかいじにて家基いえもとにわかに発病はつびょうした…、となれば周囲しゅういだれしも、品川しながわ東海寺とうかいじにて一服いっぷくられたのではあるまいかと思うにちがいなく、ひいてはその下手人げしゅにん家基いえもと最期さいごのその放鷹ほうよう供奉ぐぶせし者の中にいるのではあるまいかと、これまた左様さように思うにちがいなく…、そしてそれこそが一橋ひとつばし民部みんぶねらいではなかったのかと…」

「そしてそのねらいを可能かのうにせしが遅効性ちこうせい毒物どくぶつである、と…」

 意知おきともがそう引き取ってみせると、家治は「左様さよう」とおうじ、

「そこで盛朝もりとも石寺いしでら伊織いおりにもそのむねつたえ、そこで石寺いしでら伊織いおり高嶋たかしま朔庵さくあん吉田よしだ桃源院とうげんいん両名りょうめいに対して毒物どくぶつ鑑定かんていたのむに当たり、遅効性ちこうせい毒物どくぶつ発見はっけんつとめるよう、あわせてつたえていたのだが…」

 その過程かてい吉田よしだ桃源院とうげんいん善正よしまさそく元策げんさく善之よしゆきと共になぞげてしまった。
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