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田沼意次・意知父子と医師・池原良誠との絆 ~かつて肥後熊本藩の藩医として細川重賢に仕えていた池原良誠は蕁麻疹に罹患した意知を治癒した~

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 意次おきつぐ池原いけはら長仙院ちょうせんいん良誠よしのぶとのいはふるく、まだ池原いけはら長仙院ちょうせんいん良誠よしのぶ一介いっかい町医者まちいしゃ、いやただ町医者まちいしゃではなく、肥後ひご熊本くまもと藩の藩医はんいねたる町医者まちいしゃであったころよりのいであった。

 今からちょうど10年前の安永2(1773)年、まだ残暑ざんしょきびしい10月の上旬じょうじゅん、それも10日のことであったが、当時とうじ大和守やまとのかみ名乗なのり、雁之間がんのまづめめいぜられていた意知おきとも蕁麻疹じんましん発症はっしょうし、これを治療ちりょうしたのが池原いけはら良誠よしのぶであった。ちなみにその前日の9日は家斉いえなり御七夜おしちやであり、意次おきつぐがその祝儀しゅうぎのための使者ししゃとして一橋ひとつばしやかたへとつかわされ、意知おきとも発症はっしょうはその翌日よくじつであった。

 この時、意次おきつぐすでに今と同じく神田かんだばし御門ごもん内に上屋敷かみやしきかまえており、そこで意知おきとも起居ききょしていた。

 その意知おきとも蕁麻疹じんましん発症はっしょうし、それもかなりの重症じゅうしょうであった。

 意次おきつぐとしては意知おきともの父として、意知おきともには最高さいこう治療ちりょうけさせてやりたい、そう思った。

 そこで意次おきつぐ一瞬いっしゅんだが、

おく医師いしか、あるいは番医ばんい診立みたててもらおうかのう…」

 不遜ふそんにもそんなかんがえが脳裏のうりぎった。

 やはりこの時、意次おきつぐすでに今と同じく老中のしょくにあり、それも中奥なかおく兼帯けんたいめいぜられており、その意次おきつぐの力をもってすればそれもけっして不可能ふかのうなことではなかった。

 だが、本来ほんらい表向おもてむきにて病人びょうにん怪我けがにんが出た場合ばあいそなえてその治療ちりょうたるべき番医ばんい愚息ぐそく治療ちりょうたらせるなど公私こうし混同こんどうはなはだしく、不遜ふそんそしりはまぬがず、ましてや将軍の治療ちりょうたるべきおく医師いし愚息ぐそく治療ちりょうたらせるなど、

不遜ふそん極致きょくち…」

 というものであり、意次おきつぐぐにそこに気がつき、そこで意次おきつぐはそのような不遜ふそんなるかんがえをすと、当然とうぜんながらまち医者いしゃたよることにした。

 意次おきつぐ上屋敷かみやしきかまえる神田かんだは江戸城からちか一等地いっとうちということもあり、幕府につかえる医官いかん屋敷やしきならんでいた。

 たとえばその当時とうじ表番おもてばん医師いしであった山田やまだ立長りっちょう敬之たかゆき屋敷やしきがそうで、山田やまだ立長りっちょう敬之たかゆき神田かんだはしとははなさきにある新道しんどう三川みかわ丁四丁目に屋敷やしきかまえており、さらすこあしばしたさき小川おがわ丁にはおく医師いしでは当時とうじも今も法眼ほうげんとして将軍・家治に近侍きんじするたちばな隆庵りゅうあん元周もとちかが、番医ばんいではくなった久志本くしもと式部しきぶ常樹つねきや今は不時ふじようそなえるのみで平日へいじつ登城とじょうせぬ寄合よりあい医師いし大八木おおやぎ傳庵でんあん盛昭もりあきら、それに峯岸みねぎし春庵しゅんあん瑞興よしおきらが各々おのおの屋敷やしきかまえており、それゆえ意次おきつぐ意知おきとも治療ちりょうたらせる医師いしとしてさきおく医師いしあるいは表番おもてばん医師いしあたまおもかべたのも、

…」

 その点からでもあった。

 ともあれまち医者いしゃ意知おきとも治療ちりょうたらせることにした意次おきつぐであったが、しかし、はて如何いかなるまち医者いしゃが良いか、こればかりはさしもの意次おきつぐにも見当けんとうがつかず、そこで本来ほんらいならば下情かじょうつうじている意次おきつぐ相談そうだん相手あいてである平賀ひらが源内げんない医者いしゃ紹介しょうかいしてもらいたいところであったが、生憎あいにく源内げんないはこの頃、秋田あきた銅山どうざん開発かいはつ手伝てつだうべくへとおもむいており、江戸を留守るすにしていたので、これでは意次おきつぐとしても相談そうだんしようにも相談そうだんできなかった。

 一応いちおう田沼たぬま家も大名であるゆえに、江戸えどづめ藩医はんいがいるにはいたものの、しかし蕁麻疹じんましん治療ちりょうにはれていなかったのか、それとも最初さいしょからその能力のうりょくけていたのか、まさに、

さじげる…」

 その始末しまつであり、こうなっては意次おきつぐとしてもすべもなかった。

 だが意次おきつぐにはさらに、六代将軍・家宣いえのぶこと文昭院ぶんしょういん殿霊廟れいびょうまつられている三縁山さんえんざんへの豫参よさんという大事な仕事がひかえていた。

 すなわち、10月14日は六代将軍・家宣いえのぶ命日めいにちであり、それゆえ現将軍たる家治が直々じきじき三縁山さんえんざんへともうでるので、意次おきつぐも老中として、同じく老中のそれも首座しゅざである松平まつだいら右近将監うこんしょうげん武元たけちかやヒラの老中である板倉いたくら佐渡守さどのかみ勝清かつきよらとともに家治にしたがうことになっていたのだ。

 そうであればくらかおを見せるわけにもゆかず、意次おきつぐ普段ふだんどおりに振舞ふるまったものである。意知おきともはこの時、老中たる意次おきつぐ成人せいじん嫡子ちゃくしとして雁之間がんのまづめめいぜられていたので、その意知おきともやまいのために登城とじょうできぬことはその日のうちに江戸城内にわたったものの、意次おきつぐはあくまで風邪かぜとおし、その上で老中たるおのれまで意知おきとも風邪かぜうつされては大変と、態々わざわざ、その当時とうじ下屋敷しもやしきであった木挽町こびきちょうにある屋敷やしきへと「避難ひなん」するというパフォーマンスまでえんじてみせたものである。意知おきともやまいたいしたものではない、とのパフォーマンスであったが、もっともあながちパフォーマンスからだけでもなかった。それと言うのも蕁麻疹じんましん感染かんせんして職務しょくむつかえがあっては、

上様うえさまに対してもうわけたぬ…」

 というものであり、それどころか中奥なかおく兼帯けんたいをもめいぜられている、つまりは将軍・家治と日常にちじょうせっすることのおお意次おきつぐ意知おきともから蕁麻疹じんましんうつされ、それがまんいち、将軍・家治へとさらうつってはしまっては一大事いちだいじ、いや、かえしがつかないというものであろう。それゆえ意次おきつぐはそれをおそれて木挽町こびきちょうにある下屋敷しもやしきへと避難ひなんしたのであった。

 こうして意次おきつぐ普段ふだんどおりのつとめを続け、恒例こうれいとも言える15日の月次つきなみ御礼おんれいむかえたのであった。

 相変あいかわらず意知おきとも病態びょうたい好転こうてんせず、しかし意次おきつぐはそれを周囲しゅういにはさとられまいとして、やはり普段ふだんどおりに振舞ふるまったものの、それでも中にはかんの良い者もおり、肥後ひご熊本くまもと藩主はんしゅ細川ほそかわ越中守えっちゅうのかみ重賢しげかたがそうであった。

 細川ほそかわ重賢しげかた大廣間おおひろま殿中でんちゅうせきとしており、それゆえ平日へいじつ登城とじょうゆるされず、毎月まいつき15日の月次つきなみ御礼おんれいをはじめとする式日しきじつにのみ登城とじょうゆるされていた。

 安永2(1773)年は巳年みどしたり、肥後ひご熊本くまもと藩主はんしゅたる細川ほそかわ重賢しげかたにとっては参府さんぷ…、参勤さんきん交代こうたいにより江戸へと来る年に当たり、実際、この年の4月に江戸に来ては月次つきなみ御礼おんれいたる15日に将軍・家治に対して所謂いわゆる参観さんかん挨拶あいさつをしたものである。

 ともあれ細川ほそかわ重賢しげかた平日へいじつ登城とじょうゆるされてはいないために、平日へいじつ登城とじょうゆるされている溜之間たまりのまづめ雁之間がんのまづめあるいは菊之間きくのまづめ諸侯しょこうくらべて江戸城内での出来事できごとにはうとくなりがちであり、しかしそのわりに、平日へいじつ登城とじょうゆるされていない諸侯しょこうわってその陪臣ばいしんである江戸えど留守居るすい通称つうしょう御城使おしろづかい平日へいじつ、江戸城に登城とじょうしては情報じょうほう収集しゅうしゅうたり、それを上屋敷かみやしきにて主君しゅくんたる大名につたえる仕組しくみになっていたので、それゆえ細川ほそかわ重賢しげかた江戸えど留守居るすいより意知おきとも夏風邪なつかぜを引いたために出仕しゅっししていないことは承知しょうちしていた。

 その上、細川ほそかわ重賢しげかたにはもう一つのさしずめ、

情報じょうほう伝達でんたつルート」

 とでもぶべきものがあり、讃岐さぬき高松たかまつ藩主はんしゅ松平まつだいら讃岐守さぬきのかみ頼眞よりざねがそれであり、松平まつだいら頼眞よりざね溜之間たまりのまづめであり、それゆえ平日へいじつ登城とじょうゆるされているであったので、意知おきとものことはみずかることが出来でき立場たちばにおり、その松平まつだいら頼眞よりざねもまた安永2(1773)年の巳年みどしがちょうど参府さんぷ年であった。

 そして松平まつだいら頼眞よりざね意知おきとものことをるや、これを叔父おじたる細川ほそかわ重賢しげかたつたえたのであった。

 すなわち、細川ほそかわ重賢しげかたの姉である八代やよひめ高松たかまつ藩主はんしゅであった松平まつだいら讃岐守さぬきのかみ頼恭よりたかもとへとし、そのあいだ出来できた子こそ頼眞よりざねであり、それゆえその頼眞よりざねにとって実母じつぼ八代やよひめ実弟じっていたる細川ほそかわ重賢しげかたまさしく叔父おじ相当そうとうし、頼眞よりざねはこの叔父おじである重賢しげかた交流こうりゅうみつであり、文通ぶんつうにてのやり取りも度々たびたびであり、意知おきとも一件いっけんもそのなか重賢しげかたへとつたえられたものである。

 そして交流こうりゅうみつと言えば、意次おきつぐ重賢しげかたにしてもそうであった。

 重賢しげかた開明的かいめいてきな大名として知られ、それゆえおなじく開明的かいめいてきなる意次おきつぐとはとしちかいということも相俟あいまって何か馬が合った。

 その重賢しげかた開明的かいめいてきであるがゆえに「かんばたらき」も中々なかなかえており、15日の月次つきなみ御礼おんれいにおいて意次おきつぐじかせっした途端とたん、その様子ようすからそく意知おきとも病態びょうたい容易よういでないことをさっしたらしい。意次おきつぐとしては普段ふだんわらぬ様子ようすせ、周囲しゅういもそれにだまされていたものの、しかし細川ほそかわ重賢しげかたのその慧眼けいがんはどうやらだませなかったようである。

 重賢しげかたおりを見て意次おきつぐに対してじか意知おきとも病態びょうたいについて、それもただの風邪かぜなどではないのではあるまいかと、そうストレートにただしたのであった。

 それで意次おきつぐもつい、重賢しげかた意知おきとものことを、実はただの風邪かぜなどではなくおも蕁麻疹じんましん罹患りかんしたことをけたのであった。

 意次おきつぐとしても内心ないしんでは一向いっこうそく意知おきとも病態びょうたい好転こうてんしないことにまいっており、そこへ重賢しげかたそく意知おきとも気遣きづかうかのような声をかけてくれたので、意次おきつぐ重賢しげかたのその厚情こうじょうについほだされてしまい、意知おきとも病状びょうじょうけたのであった。

 すると重賢しげかたは、「それなれば…」とそうしたかと思うと、

当家とうけつかえし池原いけはら雲伯うんぱくなる医師いしがおりますれば、がましゅうはぞんずるが…」

 そう前置まえおきした上で、その池原いけはら雲伯うんぱく意知おきとも治療ちりょうたらせたいと、そう意次おきつぐもうたのであった。

 無論むろん重賢しげかたたんなる好意こういから意次おきつぐにそのような申出もうしでをしたわけではなく、

御手伝おてつだい普請ぶしんがこれでのがれられれば安い買い物…」

 そこにはそのような打算ださんふくまれており、一方いっぽう意次おきつぐにしても重賢しげかたのそのような打算ださんぐに気づいたものの、それでもその時の意次おきつぐにしてみれば重賢しげかたのその申出もうしでけっして誇張こちょうではなしに

なみだほどに…」

 有難ありがたかった。たとえその申出もうしでたるや、不純ふじゅんなる動機どうきからたものであったとしても、である。

 ともあれ意次おきつぐ重賢しげかたのその申出もうしで即座そくざびつき、池原いけはら雲伯うんぱくなる熊本くまもと藩の藩医はんい派遣はけんたのんだのであった。

 それに対して重賢しげかたもまた即座そくざうごき、はやくもその翌日よくじつの16日には薬箱くすりばこかかえた池原いけはら雲伯うんぱく神田かんだばし御門ごもんないにある意次おきつぐ屋敷やしきおとずれてはそこで病臥びょうがしている意知おきとも診察しんさつたると、適切てきせつなる診断しんだんくだすと同時どうじ処方箋しょほうせんを出したのであった。意知おきとも蕁麻疹じんましん発症はっしょうしてからちょうど一週間目に当たる日であった。

 するとまさ霊験れいけんあらたか、いや、薬効やっこうあらたかと言うべきであろう、意知おきとも池原いけはら雲伯うんぱく処方しょほうしてくれた薬のおかげでみるみる快復かいふくしたのであった。

 意次おきつぐ池原いけはら雲伯うんぱくおおいに感謝かんしゃしたことは言うまでもない。無論むろん当人とうにんとも言うべき意知おきとももそうであり、意次おきつぐ池原いけはら雲伯うんぱくに対して感謝かんしゃ気持きもちとして過分かぶん薬礼やくれい支払しはらった。
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